2016年10月31日月曜日

病理の話(13) 病気あれこれのそもそも

病気、とはそもそも、何なのか。

①できものができる
②流れが悪くなる
③何かが減る
④敵と戦って戦争になる

看護学校で講義するとき、病気はおおきくわけてこの4つなんだよ、と教える。




できものができる、というのは、体の中に本来あってはいけないカタマリができたり、本来いるべきではない細胞が暮らしていたりする状態を指す。一番大切なのは「腫瘍」、それも悪性腫瘍……つまりがんだ。

大腸にできものができて、大腸の壁にしみこんで、いずれ全身に転移をするのが大腸がん。

乳腺にできものができて、乳房の中にしみこんで、いずれ全身に転移をするのが乳がん。

血液の中でだけ「本来いてはいけない細胞」が増えてしまう状態が白血病。

いずれも、「できもの」ができることが、病気の本態である。できもの自体は目で見えることも見えないこともあるが、顕微鏡まで使うと、ほぼ間違いなく、見ることができる。




流れが悪くなる、というのは、なんだか東洋医学とか漢方をほうふつとさせる言い方だなあと思う。ただ、流れが悪くなることで起こる病気は、別に東洋医学の専売特許というわけではない。

たとえば、脳の血管が詰まって、本来流れるべき血液が先に流れなくなれば、それは脳梗塞(のうこうそく)。心臓の表面を走っている血管が詰まって、心臓に栄養がいきわたらなくなれば、それは心筋梗塞(しんきんこうそく)。どちらも人間をごく短時間で死に至らしめることがある。

これだけじゃない。胆嚢や胆管に石が詰まって、胆汁がうまく排出できなくなれば胆石症。尿管に石が詰まって、尿が膀胱までうまく運べなくなれば尿管結石である。いずれも、痛みを伴うし、放っておくといろいろと面倒なことが起こる。

万物は流転するというが、人体もまた常に流れ続けている。この流れを止めてしまうと、人間の活動はあっという間に継続困難となる。




何かが減る、というのは、ホルモンだとか、肺胞の数とか、赤血球とか、本来、体の中にこれだけなければいけない、というものが足りない状態をさす。更年期障害もそうだ。貧血もそうだ。甲状腺機能低下症、骨粗鬆症……。「耐糖能が減る」という言い方で、血糖が増えている状態(糖尿病)を含めてもいいと思う。





敵と戦って戦争になる、というのは主に感染症、あるいはそれと戦う免疫のことだ。体の中に、外界のチンピラ(細菌とかウイルス)がやってくると、体内の警察官(免疫担当細胞)がこいつらを追い出そうとする。問題は、この警察官が、非常に激しく武装しており、ナパーム弾のような強烈な攻撃をチンピラもろとも住宅街にぶち当ててしまうことがある、ということだ。感染症そのものよりも、感染症をなんとか倒そうとする体内の活動のほうが、かえって人間の命を危険にさらしているということは多い。





このように病気を分類したうえで、だ。

「病(やまい)の理(ことわり)を知る医者」と書く「病理医」は、あるいは病理診断は、どこまで病気に迫ることができるのか。

実は、おおむね、①しか相手にしない。





②の「流れ」というのは、顕微鏡でみる必要はない。というか、プレパラートを作った時点で検体の時間を止めてしまう病理診断にとって、「流れ」を見るというのは最も苦手なことなのだ。

すなわち、「循環器」「救急」の領域については、病理医はほぼ無力だということになる。


③の「何かが減る(あるいは増える)」についても、同様である。増えた、減った、は血液検査が得意とする領域であるし、体の一部分をピックアップする病理診断にとって、「定量的評価」もまた苦手分野である。

つまり、「代謝」「内分泌」「一般内科」、あるいは筋骨格・神経・脳の摩耗をも扱うならば「神経内科」「整形外科」なども、病理医が役に立ちづらい分野であるといえる。


④は「感染症」そして「免疫」。これらも詳細は省くがやはり病理医が必ずしも得意な分野とは言えないため、「呼吸器内科の一部」「肝臓内科の一部」、あるいはそのまま「感染症内科」なども、病理医の介入が少ない分野である。



「病(やまい)の理(ことわり)」と名乗りながら、ずいぶんと多くの病を無視している分野。それが病理である。

「顕微鏡を使ったところで、直接みることなどできないよ。流れとか分量とか、あるいは免疫のフクザツなシステムに思いを馳せないと、病気のことなんてわからない」というほうが、多い。

「見れば当たる」病気の方が、圧倒的に少ないのである。



病理はすごいよ、病理医はおもしろいよ、と書いた本、語った人が、ぼくの周りにも、あなたの周りにも、今までどれだけあっただろう、いただろう。

病理学は、確立した学問だ。

病理診断には、確固とした魅力がある、

それでも、今まで、ほとんど語る人などいなかったではないか。

結局、病理を選ぶ人など、ほとんどいなかったではないか。

不自然だと思わないか。

なぜ、それほどすごい仕事が、今までマイナーなままでいられたのだ。



ちゃんと理由があるのだ。

病理医がみている「病」は、人体がやられうる病気の、ほんの一部でしかない。

あらゆる医師が、病気のごく一部しか診療できないように。

ぼくらもまた、病気のごく一部しか診断できない。



ほかの科の医師は、「診療」をする。

病理医は、「診断」しかしない。「療」をしない。治療をしないのだ。

その分、マイナーであることの、言い訳が利かなくなる。

マイナーであることを誇り、あるいは納得して、自分にできることを探す、あるいは、これが好きなのはぼくがぼくだからだ、と、自分を見る。

このことに気づけている人を、世界は、オタクと呼ぶことがある。

ぼくらはオタクなのだと思う。それ以上でも以下でもある、オタクなのだと思っている。