2016年10月5日水曜日

さてと、そして、これはトマト

人が何かをしゃべっているとき、すばやく全体像を把握しよう。「要はこういうことなんだな」。そして、解決策を誰よりも先に提示しよう。「つまりこうすればいいんだよね」。

こういうことができる人が、頭がいい人だから。がんばって、頭のいい人になろう。

言葉にするとあきらかに下世話だけど、なんだか、そう信じていた時期がある。それも、とても長い間。


***


ぼくは大人になったらしい。たまに、宴席で偉い人がえんえんとご高説を開陳している場面だとか、タクシー車内で後輩同士が青春トークで盛り上がっている場面だとかを経験するようになった。出しゃばりすぎないように、じっと黙って居酒屋のフラワーロックになる。呼吸するドライブレコーダーになる。そんなシーンが、少しだけ増えた。

こういうとき、会話に入っていかなくていいぼくは、ゆっくりと全体像を俯瞰するけれど、しなくてもいい。解決策をつい考えてしまうけど、提示する必要はない。


あのときも同じで、ぼくは居酒屋の灰皿みたいな存在だった。目の前で、若者なりの怠惰さとベテラン故の厳粛さがぶつかりあい、激しい口論が展開されていた。

突然、「ぼくが沢木耕太郎だったら」という思考実験がはじまった。直前まで「テロルの決算」(だったと思う)を読んでいたぼくは、
「沢木耕太郎だったら、この喧嘩をどのように書くだろう」
と、考え始めたのである。

口角の泡を書くだろうか。乾いていくサラダを書くだろうか。いや、そこまで細かく静物写生はしない人だ。若者の心にちらちら見える刃物を書くだろうか。ベテランが出し惜しみしている過去に触れるだろうか。ありそうだ。そして、

彼はおそらく、この喧嘩を「把握する」だろうけど、「解決策は出さない」だろうな……。

「彼がこうしたのは、こうしなかったのは、なぜだろう。こんなことがあり、こんな人がいる。彼は彼をこう理解した。あれはこれと、こうつながった。ここにはこんな、ミスマッチがあった。ぼくは、こう思った。それにしても、彼がこうしたのは、こうしなかったのは、なぜだろう……。」


***


バスが止まり、地面に降りると、一面の荒野だった。目の前には、棒と紐だけで簡単に囲われた、やけに下草が伸び放題の、荒れ果てた畑のようなものがあった。

雑草よりも背が低いトマトの木が、だらしなく頭を垂れている。数個、トマトがなっていた。トマトの横には、すっかりしなびたナス、からからに乾いた枝豆、オブジェのようにでかくなりすぎたズッキーニなどが無造作に植えられていた。

バスガイドさんが、バスの中からぼくを見ていた。ドアを閉めていいのかと、たずねるような顔をした。

ここは畑でいいんですよね。彼女はうなずく。ずいぶんひどい畑ですね。彼女は少しうなずく。ほっぽらかしだ、誰かが途中まで面倒みてたのかな。答えはない。これ、どうするんですか。答えはない。トマト、1個食べてみていいですか。彼女はおそらくうなずいた。トマト、食べない方がいいですかね。彼女は少し笑っていた。

バスのドアが閉まり、バスは行ってしまった。

トマトに近寄って、1個もぎとる。少し熟れすぎているように思うが、ここにはカラスも虫もいないのか、ついばまれた後も小穴もなかった。食べようか、どうしようか。

それより、この畑だ。いったいなぜ、誰がどうしてこんなところに畑を作ったのか。どうしてトマトを植えようと思ったのか。途中で放り出してしまったワケは。このトマトはこのまま放っておいたら腐って落ちるだけなのだろうか。それとも、忘れた頃に畑の主が戻ってきて、大きすぎるズッキーニ、ひからびた枝豆、しなびたナス、そしてトマトの収穫をするのだろうか。

ぼくは、トマトを手に持ちながら、畑をぐるぐると歩き回った。周りはなにもない荒野である。この後、どこに歩いて行こう。トマトは食べないで持っておくべきだろうか。バスの轍はもう消えてしまっていた。


***


物事には真実があり、問題には解決策がある。原則には例外があり、例外はたいてい少数である。

そして、ぼくは最近、「解決策を誰よりも先に提示する人」が「頭のいい人」かどうか、わからなくなってきている。

俯瞰したり、ズームアップしたり、観察をして、分析をするのは、楽しくて不安だ。楽しいときにも、不安なときにも、脳はめいっぱい動いている。働いている。そのダイナミズムを、「解決策」ひとつで止めてしまうことが、どうにももったいなく思えてきてしまった。

ぼくは、頭のいい人よりも、頭をきちんと動かす人のほうがかっこいいのではないか、と思っているふしがあるようだ。