2016年10月7日金曜日

不念願・造影居着く

「フィネガンズ・ウェイク」という大著を翻訳したことで知られる柳瀬尚紀氏は、1982年ころに「英語遊び」なる本を書いている。「英語遊び」が文庫本になったのは単行本に遅れること16年後の、1998年。現在、あたりまえのように絶版である。じわじわ売れて、すでに売れ終わった本ということになる。

飛行機の中で「本の雑誌」という書評雑誌を読んでいたら、「英語遊び」なる極めて凡庸な書名を目にした。しかし、紹介している記事を読んでいるうちに、欲しくて欲しくてたまらなくなり、うおっ買うぞっとなり、着陸後に直ちにスマホでAmazonを探り、かなり割高の古本を注文した。絶版なんだから古本で買うしかない。各方面に詫びる。よく考えれば図書館で探してもよかった。はなから選択肢になかった。


かつて、不可能と言われていた「フィネガンズ・ウェイク」の邦訳を一人で成し遂げた人がいる、という話は知っていた。文学方面の教養なんぞないぼくが、「フィネガンズ・ウェイク」を知っているのはなぜか。ぼくに限らず、おそらく、世の中の多くの「理科っ子」「物理っ子」たちは、かなりの高確率で、「ユリシーズ」は知らなくても「フィネガンズ・ウェイク」のことを知っている。

これには理由がある。

素粒子物理学という世界に搭乗する「クォーク」という言葉の由来が、「フィネガンズ・ウェイク」だからだ。素粒子学を多少なりとも習うと、すぐにクォークにたどり着く。そこにたまたま興味を持ち、クォークに関するアンチョコ本を読むと、高確率で「フィネガンズ・ウェイクに出てくるカモメのような鳥の鳴き声がクォークなのです」といううんちくにぶち当たる。

理科が好きな子供たちは、昆虫好きが昆虫の住む木や草に興味をもつように、仮面ライダー好きが他の特撮映画に興味をもつように、理科そのものだけではなく、理科を作り上げた科学者たちや、理科が内包する叙情的エピソードにも、ちらりと興味をもつ。だから、クォークを学ぶ過程で、フィネガンズ・ウェイクのことも覚えてしまう。

「原子はそれ以上小さくできない単位だ、とされていたけど、実際には原子をさらに割ることができる。原子は最小単位ではなく、クォークというものからできている。クォークとは、もともと、フィネガンズ・ウェイクという本に出てくるカモメの鳴き声である。クォーク理論の提唱者は文学にも造詣が深く……」

突拍子もない文章に出会った理科少年の心には、不思議な声で鳴くカモメの姿がちらりと焼き付くことになる。


ちらりの記憶が、20年以上経って、ぼくのところに「英語遊び」という本を運んできた。


「英語遊び」はとてもよい本だった。いかにも解釈の難しい英語がちらちら出てきて大変なのだが、翻訳者・柳瀬尚紀氏は英語以上に日本語に堪能であり、さまざまな「日本語の言葉遊び」や「オヤジギャグ的思考」を使いこなす方で、「極めて高度にくだらない知的作業」を読者に強いる。とてもエキサイティングで、楽しい読書だ。

さすが、「フィネガンズ・ウェイク」を翻訳した人である。恐ろしいほどに思索の荒野が広い。フィネガンズ・ウェイクは実に難解な書らしく、同じ音に違う意味をもたせていたり、違う言葉を同じイニシャルで揃えて共通の意味をもたせたり、新しい言葉を生み出していたり、作品の最後が尻切れで終わっているように見えるが実は冒頭の文章とつながっていて、作品全体が循環した世界を構築していたり……。フィネガンズ・ウェイクの何重にも張り巡らされたモチーフを鋭く理解し、日本語流のウィットを込めつつも、世界観を壊さないような絶妙な言葉選び、英語遊び。うーむ……元本もすごいし、柳瀬尚紀氏もすごすぎる。

仮に、ぼくがこの本を「理科少年」だった頃に読んでいても、理科に対する興味が全く満たされない上に、英語が難しくてついていけず、ウィットにも気づけず、なんだか不完全燃焼で終わってしまったのではないか。「理科中年」になった今なら、読めた。いいタイミングで出会えたもんだなあ、と、僥倖に感謝する。


しかし、本の雑誌は、なぜまたこのタイミングで柳瀬尚紀氏の絶版本を紹介してくれたのか。あっ、と思い立ち、検索をかけた。

2016年の7月に柳瀬尚紀氏はお亡くなりになっていた。同時代の人であったにも関わらず、興味をもったときにはすでに亡くなっているということがたまにある。いつもなぜかよくわからない悲しさで満ちる。別に、同時代に生きているならいつか会えるだろうとか話を聞けるだろうとか、死んでしまったらもう会えないから悲しいとか、そういうことではないんだけれど……。

柳瀬尚紀氏が亡くなったからこそ、書評にとりあげられる機会があり、ぼくのような「非文学中年」の目に留まり、読むことができた。

理科が好きだったからこそ、理科の文脈でいつまでも覚えていたエピソードがあり、その弱い記憶をきちんとたどる機会に出会えて、結果的におもしろい文学に出会うことができた。

ま、いろいろとポジティブな解釈はできるけれど。

「このダジャレおじさんが生きているうちに、リアルタイムで新しいエッセイを読めたらよかったのになあ」
という、見てもいなかった夢、もはや叶わないことが確定した夢に、今更とりつかれてしまっている。

念願なんぞしていなかったけど、くっきりと浮き上がってしまった夢が、ぼくの心に。つまりは、