2016年11月30日水曜日

病理の話(23)

内視鏡というツールがある。すごいものだ。たかだか数十年の歴史しかない、鼻から入るほど細っこくてひょろながいチューブのくせに、胃や大腸、気管支、胆管などの中身を克明にぼくらの眼前に示してくれる。

内視鏡はすごい。マジックハンドのようなマニピュレータや放水装置などを搭載している。ちょっとしたキズを縛ったり、胃や大腸の中から小指の爪の先くらいの検体を採ってきたり、水をまいて視界を良好にしたり、特殊な色素を噴出して病変に色を付けたりすることができる。

最初、カメラで胃を覗き始めた人々の興奮は、いかばかりだったか。

手術で採って、切り開かないとおがめなかった病変を、生きた人間の腹の中にあるうちに、直接観察できる。たまんなかったろうな。

まあ患者も最初の頃は苦しくてたまんなかったろうけど。


***


内科、外科、ということばがあるが、これらは考え方によっては「逆転している言葉」である。

内科は、体の外にしか触れないではないか。外科は、腹を切って、体の内部を触るではないか。内科が外から、外科が内からアプローチしてるじゃないか。逆だよなあ、ということである。

これは、単なる言葉のマジックで、よく考えると「内科は体の内から(薬などを用いて)治す、外科は体の外から(手をつっこんで)治す」のだから、何も間違ってはいないのだが……。

近年の消化器内科などというのは、実際、内視鏡を使って「外科的手技」をばんばんやってしまう。中から薬で、とか、外からメスで、などという分け方は、最初それしかできなかった時代に名付けられたものだ。人は、ツールを手にするごとに、名前を軽々と飛び越えて職務を果たそうとする。


さて、では、病理医はどう変わったか。


個人的に、病理医がいちばん変わったのは、「病の理(ことわり)に詳しいだけの人ではなくなった」ということかな、と思う。

病の理、すなわち病態生理に通じ、解剖学や細胞生物学を駆使して疾患を解き明かそうとした病理医の仕事は、どんどん細分化していった。

基礎研究方面では、

「○○という遺伝子変異を有する□□病で高発現している異常タンパクと結合したり離れたりしている可能性がある△△というタンパクをコードしている遺伝子をノックダウンした結果発現が向上したタンパクのメチル化について」

みたいな、もはや元はなんだったのか、そもそも患者と何の関係があるのかわからないような研究テーマを扱うこともある(まあめちゃくちゃ楽しいですけどね)。

臨床病理診断学の方面でも、

「食道胃接合部に胃酸逆流が生じることによって形成されるバレット粘膜のうちショート・セグメントのものに発生するがんのリスクと関連するかもしれない腸上皮化生の頻度と分布」

のような、すでに病からだいぶ離れた分野を丹念に読み解くことがひとつの価値だったりする(もちろん相当熱いんですけどね)。



ぼくは、自分のオタク性というかやっかいな部分を認識しているつもりだ。

臨床医に対するインフォームド・コンセント(臨床医に病理のことを納得し理解してもらうこと)が大事だと言い、臨床画像・病理対比などという仕事をして「コミュニケーションをとる病理医」の仮面を被ってはいるが、実際、「結局そこまで掘り進んだらもう何の役に立つんだか皆目わかんねぇよ」みたいな、純粋に細胞だけを追いかけていくような仕事にとてつもない魅力を感じるし、ノーベル賞受賞者に「何の役に立つんですか」とたずねた記者の尻の穴からホルマリンを注入してやりたい衝動に駆られる。

病理医の仕事もまた、内科医や外科医と同じように、多面的であり、複雑化している。

内科が外から、外科が内からの診療を行う時代だ。

病理医は、「病(やまい)の理(ことわり)」を修める医師であると同時に、「理(り)に病む」オタク学者であってもよいのではないか。

そんなことを考える日もある。

2016年11月29日火曜日

きっちょ(きっと)カラスが鳴いたからだよ

雪が降るとすごく静かになる。

おそらく、ぼくらの耳には、普段は気にも留めない「ベースレベルでの雑音」みたいなものが、絶えず飛び込んできているのだろう。かつて、タモリは「静かな部屋に入るとシーンという音が鳴っているように感じる」とかなんとか言っていた。

雪は、「シーン」すら吸収してしまうように思う。原稿仕事が続いていた。両耳にイヤホンをして、すごく古い洋楽を聴きながら、延々と「である」「なのである」「であるのだ」の入れ替え作業などをしていた。曲が終わり、さて次はどのアルバムにするかと、iTunesをいったん止めて伸びをして、イヤホンを耳から外したとき、シーンという音がしなかった。ああ、雪だろうなと思った。外は暗く、実際に雪が降っているかどうかはわからなかった。夜通し、時たまシーンという音が聞こえたり聞こえなかったりするように思えた。朝になっても無音は続いていた。いよいよ朦朧としてきた午前4時半ころ、カア、カアという鳴き声が聞こえ、窓の外をみたら、雪が止んでカラスが鳴いていた。シーンより先にカラスが、雪が止んだことを教えてくれていた。

カラスの鳴き声に何かを感じそうになるも、まあ、そういうものではないわな、と考え直したのは誰だったか。

「銀座のカラス」を書いた椎名誠の、カラスはあくまで比喩だったように記憶しているが、夜通し原稿用紙やらパソコンやらに向かい合う人間だったら、同様の経験は一度ならずともあるだろう。

カラスは、天気が小康状態に入ったことを教えてくれる。朝方のカラスの鳴き声は吉兆である。

ぼくは勝手にそう決めている。

2016年11月28日月曜日

病理の話(22)

「病理医は患者をもたないから、夕方5時で仕事が終わるんだろ、楽だよな」……と、面と向かって言われたことは、ない。

しかし、ネットというのはおもしろいもので、面と向かっていないからだろうか、リプライならもらうことがある。「5時には帰れる仕事のくせに偉そうに」。まったくこの通りに言われたことがある。

へえ、こうやって言う人って、ほんとにいたんだ、都市伝説ではなかったのか。とても驚いた。

まあ、勤務時間について「いや待て、ほんとはもっと忙しいんだぞ」と反論するのも子供っぽいし、「そうだよ、それがなにか」と開き直るのも大人のやることではない。だから、今日は、「時間」ではなく「時刻」の話をしてみようと思う。



病理医は、プレパラートを見るとき、

「朝の方が良く見えて、夜の方が悪く見える」

という。

細胞が良く見えるというのは、視界が良好であるとか、隅々まで見渡せるという意味ではない。「良性よりに見えてしまう」ということ。

逆に、悪く見えるというのは、細胞の良悪を判定するときに、「悪い方」、すなわちがんに見えてしまう、ということ。

大変なことだ。

病理医が細胞の良し悪しを決めるのは、仕事の中でも一番大切な、一番ぶれてはいけないことのはずだ。

体の中から採ってきた細胞が、良性なのか、悪性なのかによって、患者さんの人生も、周りの医療者がこれからやることも、まるで違う。そこを白黒はっきりさせるのが病理医の大事な仕事のはずではないか。

それが、「朝と夜とで、見え方が違う」とは、どういうことなのだ。



ちなみに、ぼくだけがこう思っているのではない。複数の病理医が、全く同じことを言う。北海道から沖縄まで、日本人であればだいたい同じことを言う。さらにはアメリカ、香港など様々な国の病理医にも聞いてみたが、やはり結果は同じだった。

……すみません、香港の人には聞きましたがアメリカの人には聞いてませんでした。盛りました。けどまあ、言うだろう。




光学顕微鏡というのは、機械の下の方に光源があり、プレパラートを下から照らして観察する仕組みになっている。子供の雑誌の付録についてくるような安価な顕微鏡だと、太陽光を反射させる鏡がついていて、反射光でプレパラートを見ることもあるが、プロが使う顕微鏡には太陽光なんぞ必要ない。外界が明るかろうが暗かろうが、検体の見栄えにはあまり影響しない。

……と、思われがちなのだが……。実際には、部屋が明るいか暗いかで、如実に見え方が変わる。

なんなんだろうねあれは。錯覚なのかな。それとも、実際に光量が微妙に違うせいなのかな。あるいは、朝は元気で、夜は疲れている、すなわち眼精疲労のせいで見え方が変わるのかもしれない。けど、やっぱり、部屋の明るさが一番効いている気がする。詳しい理由は、きっと「仕事場の明るさと目に与える影響」みたいなのを研究している人に聞いてみればわかるんじゃないかなあと思う。

原因はともかくとして、全く同じプレパラートを見ても、周囲がより暗い夜の方が、検体の色が濃く、細胞核が少しだけダークに感じられる。

微妙な違いだ。しかし、病理医にとっては、そこそこ大きな違いなのだ。



こんな、病理医の主観で診断をころころ変えられたのでは、患者も臨床医もたまったものではない。

だから、(以前にも書いたけど、)病理医は自分の診断をとことん文章化し、理論的に説明できるようにする。なんとなく悪そうに見えた、なんとなく核が濃く見えた、のような、「なんとなく」を診断のヒントとして採用しないようにする。多少核が濃く見えようが、周囲にある正常細胞と丁寧に比較をしたり、色合い以外の情報をきちんと総合することで、結局は精度の高い診断を成し遂げる。

けど、まあ、精度の高い診断をすると言っても、人間だ。なるべく間違いの芽は摘み取っておきたい。

だから。どうしても白黒をきっちりつけなければいけない診断をする場合には、時刻にも気を遣う。

たとえば、診断をしたのが深夜だったら、必ず「翌朝にもう一度見直す」ようにする。「一人時間差」と呼んでいる(ぼくだけです)。こうすると、前の晩にはあんなに悪そうに見えたけど、朝になって冷静に見てみたら、もう少し臨床医と相談したほうがいいな……などと、時刻の違いによる誤診を防ぐことができる。

ほかの人、特に初期研修医や臨床医のような、病理を勉強し始めて間もない人がプレパラートを見て書いた診断を「チェック」するときも、その人が朝診断したものか、夜診断したものかをいちおう確認しておく。

夜診断したものの方が、より、「悪性より」に診断されていることが多い。そのことをこちらとしても把握しておく。

診断がどうしてもぶれてしまうと悩んでいる病理初学者に、「朝から晩まで診断してると、日内でも診断がぶれるんだよ」という話を教えるだけで、何か腑に落ちるのだろうか、診断制度がぐっと上がるということも経験した。

まったく人間の目、さらには脳というのは不思議だなあと思う。



さて、冒頭で、「病理医は9時5時で仕事が終わるからいいよな」の話をした。

ぼくは、実は、病院でプレパラートを見る時間は「昼3時まで」に限定している。夕方以降にはなるべく顕微鏡診断をしない。

夕方以降は、カンファレンスが多い。会議もある。研究会も夕方以降だ。それに、カンファレンスの資料を作ったり、画像・病理対比のプレゼンを作ったり、論文や原稿を書いたりといった、プレパラートを見ない仕事だってある。そういう仕事をなるべく夕方に回して、顕微鏡を見るのは極力「早朝から午前中」に集中させる。

どうしてもプレパラートを見なければいけないときも、良悪の判断が迫られる「生検」はできるだけ朝に回す。仮に、生検を夕方に見た場合には、前述したように、朝方、もう一度見直すようにしている。

周りが暗いときに顕微鏡を見ると悪く見えるとわかっているなら、明るいときにだけ診断をすればいい。

こうして、ぼくの出勤は基本的に「朝方」に変わった。病理医のワークスタイルはフレックスだ。自分の都合で、診断する時刻をいじることができる。


今後、「9時5時かよ! いいなお前の仕事、楽で!」と言われたら、「いや、3時には終わるわ。」と答えてやりたい。早くそういうリプライが来ないかなあと、楽しみに待っている。

2016年11月25日金曜日

惹句・レモン

東京に出張するときは、羽田空港第2ビル・京急線改札前にあるプロントで昼飯を食うことが多い。たいてい、カルボナーラにグレープフルーツジュースを注文する。かれこれ10年にわたって、ずっとこの組み合わせである。ほかのパスタは食べないし、ほかのドリンクも飲まない。

競技場に入るときには左足から入るとか、大事な試合の朝にはカレーを食うとか、スポーツマン風のこだわりなら、ま、かっこよかったかもしれないが、ぼくの場合はどちらかというと、こだわっているというよりも、平時より余計に精神力を消費する出張のときには余計なことに頭を使いたくない、ある程度の結果がわかっているものにさっと全身を預けて楽になってしまいたい、という、韜晦、堕落に過ぎない気がする。


あるとき、いつものようにカルボナーラを頼んだら、パスタの上にレモンが乗っていた。

ぼくはもうそれだけで、腰が抜けるほど驚いてしまった。

あ、あの、タマゴが執拗に絡みついた、さらにその上に嫌がらせのように温泉卵まで乗っかった、コレステロールまみれのカルボナーラは!どうしたんだ!

皿1個にいくつタマゴ使ってるんだよ、という、プロントのアホっぽいカルボナーラが、好きだったのに。

……レモン乗せやがった。タマゴ減らして、レモン乗せやがった。

北海道大学のそばにあったラーメン屋がつぶれる半年前に突然レモンラーメンを提供し始めた時の、疲れ切ったおじさんの顔を思い出した。

からあげにレモンかけていいですか、と言いながらザンギにレモンをかけようとした後輩を「からあげとザンギが一緒だと思ってるのか?」と問い詰めた先輩のことを思い出した。

ギャンブラー哲也で「唐辛子をつまみに酒を飲めば、胃が荒れて腹がふくれたような気分になるから、金がかからず飲めるんだ」と書いていたのを読んでしばらくのちに、「そうだ、レモンをかじりながらビールを飲んだらうまいだろうか」と、レモンスライスを用意してビールを飲み始めて2秒で飽きてしまい途方にくれた大学時代を思い出した。

レモンに金属板を2枚刺して電球に灯りをともした小学校時代を思い出した。



レモン乗せやがった。プロントめ。レモン乗せやがった。



ぼくはもうプロントでカルボナーラは食わないのだと思う。

ぼくは、これからも、いろいろなお店で飲食をしてみたいし、自分でも様々に料理を作ってみたいし、あらゆる酒の飲み方をしたい。しかし、東京についた日に、それからの半日をどう過ごすか、脳をどうやって使おうかと沈思しながら胃に入れる、別にうまくもなければすごくもない、ただタマゴだけが妙に多い、あのカルボナーラが好きだったのに。

2016年11月24日木曜日

病理の話(21)

色の話をしよう。

臓器は、いろんな色をしている。病理医は、 臓器や病変の色を見て、さまざまな推測を行う。

推測の答えは、顕微鏡を見ることで解決されることが多い。つまりは、臓器の色合いを見ても見なくても、結局は顕微鏡標本を作って細胞を見てしまえばいいわけで、実は色にこだわる必要は、 そこまでない……?

それに、臓器の色、特に病変そのものの色調を実際に目にするのは、ごく限られたシチュエーションを除けば病理医だけである。つまり、臓器が何色をしているから異常だと騒いだところで、その情報が 臨床の医療者達に活かされる機会は、少ない……?

いや、色は、熱い。色こそは色々与えてくれる。

まず、病理医というのは、なんでもかんでも顕微鏡で見なければ仕事にならないわけではないのだ。というか、実のところ、病理医の診断は、

「臓器や病変を目で見たときに9割完了している」

ことが望ましい。

 たとえ話をする。手術で採ってきた胃の中に、 3センチ大の病変がひとつ、そして、5ミリ大の病変がひとつ、あったとしよう。

 胃をすべてプレパラートで見ようと思うと、実はプレパラートが150~200枚必要となる。プレパラート1枚ではそんなに多くの範囲を観察できないからだ。

ここで、我々は「切り出し」という作業を行い、 顕微鏡で見る価値のある場所だけを切り出してきて、プレパラートにする。診断に必要十分な部分をうまく探し出せば、200枚ものプレパラートと格闘する必要はない。

このとき。病理医が、3センチ大の病変を見逃すことはないだろうが、5ミリ大の病変を見逃したとしたらどうなるだろうか?

 「病気があることに、永久に気づけないまま、検索が終わる」

ことになる。だってプレパラートになってないから。顕微鏡で、見ようがないから。

だから、目で見て探ることは、とても大切だ。同時に、目で見た像からいかに顕微鏡像を予測するかも、プレパラートをどれくらい作るか、どのように切り出すかを考える上で、重要になる。

じゃあ、どうやって見る? 病変を病変だと認識する?

周りと比べて、あっ、ここはおかしいぞ、と気づくのは、色だ。色。

加えて、高低差、模様の違い、なめらかさやゴツゴツ感、そういった表面性状によって見極める。

だったら、正常の組織はどういう色をしているのか、異常があるとどういう色に変わるのかを、知っていなければならない。

前項で説明した「写真」も駆使して、肉眼像から得られる情報をきちんと抽出する。



組織が、どういう色になるかを決める因子というのがある。

専門的だが、少し書いておく。

まずは血流だ。血の巡りがよければ、それだけ赤みが増す。

炎症があれば血の巡りはよい。 打ち身が赤く腫れ上がるでしょう。あれと一緒。

腫瘍も血流がおかしくなる。正常ならざる、おかしな増殖をする細胞の周りでは、 栄養補給のスタイルもまたおかしくなる。

そして、脂肪だ。脂肪は黄ばむ。黄色い。生体内で黄色いものはいくつかあるが、その多くは脂肪に関係がある。

そもそも、あらゆる細胞は「細胞膜」を持っているのだが、 細胞膜とはリン脂質二重膜といって、脂肪を含んでいる。細胞が盛大にぶち壊れると、細胞膜がカケラとなって降り積もる 、すなわち、脂肪成分が降り積もる。

必然、「壊死(えし)」とか、「膿瘍(のうよう。うみのこと)」は、黄ばむ。


まあ、こんなことをつらつらと覚えておく。そして、たまに切り出しを目にする臨床医や研修医の前で披露し、情報を共有する。

たいていは、一緒に考えてくれる。


***


かなり専門的だが、ある腫瘍の話をしよう。あまり具体的には書かない。

ある腫瘍は、細胞密度が高く、壊死や線維化が少ないという特徴を持つ。まあ細かいことはいいのだが、こういう腫瘍は、

「色調が、ホタテの身」

に似ている。色調だけじゃなくて、硬さ・弾力性なども似ている。形は似ていないけど。

イメージしやすかろう、と思って、研修医に、「○○は色や硬さがホタテなんだよ」
と教えた。すると彼はどん引きなのである。

「ワッー! やっぱ病理医って臓器を食べ物みたいに見てるんスねェー!」

色を失うとはこのことだ。

2016年11月22日火曜日

中年の定義

たとえば「私立探偵濱マイク」を見て、映画館の屋上に住んでみたいと思ったり、「紅の豚」を見て、アドリア海の孤島に暮らしたいと思ったりした場合に、これを人に言うと、あー、中学生みたい、だとか、男のコだよねえ、とか、いろいろと解釈をされて、そういう解釈をぶつけてくる人はたいてい女性だったので、やっぱ女のコだなあ、だとか、いちいち論評家気取りかよ、などと言い返すなどし、互いに奥襟を奪い合うようなことも、あった。

それがぼくの若さだということには気づいていなかった。

若いということは、分析力が甘く、発言が軽く、決断が早く、見通しが甘いことだ、と、レッテルを貼っていたから、若いということが、「人を評価したがり、自分の評価に噛みつくこと」だなどとは、思ってもいなかった。

若さとは、必要以上に分析し、用もないのに重いことを言い、決断のタイミングが自分の都合であり、見通しが狭いことなのであって、決して若者の分析は甘くないし(ただし偏っている)、若者の言うことが軽いわけでもないし(ただし重すぎるきらいがある)、若者の決断は早くも遅くもあるし(ただしひどく身勝手だ)、若者の見通しは時に深い(ただし偏っている)。

たとえば、「大人はみんなわかっていない」という言葉は、「わかっていても言わない、わかっていてもあきらめるということを選択する人がいるのだ」、ということを、わかっていない人だけが発することができる。

そして、若者はみんなわかっていないからこそ、知らないからこそ、何かを切り開き……


と、必要以上に分析し、用もないのに重い話をはじめた、ぼくはおそらくまだ若い方に入るのだろうし、気持ちだけは若いのよね、と、分析されれば、もちろん、カチンと来て、なんだこのと言い返したりもするし、大人が、中年が、こんなに若いままで勤まるものだとは、正直、知らなかったなあと思うし、やはり中年を定義するには、白髪か下っ腹か息切れかオヤジギャグの切れ味をもってするしかないのではないかと思う。

2016年11月21日月曜日

病理の話(20)

病理医が、医療者に、「病理診断の根拠」を述べる場合、文章だけでは難解で伝わりにくい。

だから、適切な写真を撮る。マクロ、ミクロと、撮る。この話、病理の話(19)の続きである。



さて、病理の写真は構図が命……というか、「何を主人公にするのか」「何を脇役として写し込むか」がとても大切だ、という話をしてきた。きっちりと構図を考えて撮られた写真には、文章で何行書いても伝わらないほどの意味が内包される。

ただし。

実際に写した写真を、無言で医療者にわたして、
「さあ、いい構図で撮っておきましたから! じっくりと味わって、ぼくが言いたいことを感じ取ってください!」
と、芸術さながらに丸投げすることには、何の意味もない。

ここはアートの出番じゃないのだ。受け手の感性によって、受け手の得られる情報やリアクションが、変わってしまっては困るのだ。

だから、我々は、写真にキャプションをつける。

ここは病変の境界部ですよ、と、写真の上に、色を変えたペンで線を引く。

「ここには、壊死があります」「こちらは炎症が強いです」「ここからは少し、癌の雰囲気が変わっており、より悪いヤツに変貌しています」「周りには、こんな別病変があります」などと、写真に直接、書き込んでやる。

「マッピング」と呼ばれたりする作業である。

マッピングという言葉は、正確には、マクロ写真(臓器を直接写真に撮ったもの)に対して使われる病理用語だ。ミクロ写真(顕微鏡写真)に注釈を書き込む作業もあるのだが、こちらには名前が付いていない。ま、どちらも、「写真にキャプション(注釈・解説)を入れる作業」である。言葉はどうだっていい。

たとえば、医者が患者さんに説明するとき、丁寧に絵や図を書きながら話す場合がある。これと同じように、病理医も、医療者に説明するときには、マッピングなどの細かい手間をかけたほうが、よりわかりやすいし、医療者も納得してくれやすい。

「医療者に対するインフォームド・コンセント(説明して納得してもらうこと)」を行うのが病理医だ。説明は、必要十分な内容を、わかりやすく迅速に、論理立てて行う必要がある。写真をただ見せて、あとは読んで考えなさい、では、だめだ。医療者は納得してくれない。

写真に説明書きを付け加えることを想定して、写真の構図を決める、ということもやる。

多少、ターゲットが小さめに写っていても、解像度がしっかり担保されていればOK。周りに空いた隙間に、説明を書くと、まるで教科書のような(マッピング付き)写真ができあがる。

解説をつけることまで含めての、「病理写真」なのだ。


さて、ほんとうに難解な症例になると、ぼくは、写真のほかに、「シェーマ」と呼ばれる模式図を書く。

シェーマは、スケッチに似て非なるものだ。模式的に書くものであるから、必ずしも正確である必要はないのだが、強調すべきところを強調し、省略するところがあってもいい。大切なのは、受け手が欲しがるであろう情報、受け手に与えたい情報をきちんと盛り込むということだ。意味のある取捨選択をした絵でなければいけない。

決して、「精密模写」ではない。

シェーマを書くには、病理に対する知識が必要となる。知識がなく、精巧な静物写生をすることには、意味がない。


***


昔から、医学部の病理学や組織学の講義では、「顕微鏡のスケッチ」という課題が与えられることがある。今でも多くの大学で導入されたままであると聞く。

ぼくは、あれが、あまりよくないやり方だなあ、と思っている。

病理学の知識もなしに、スケッチをさせるから、医学生の約1/3は、色鉛筆を駆使して見えたものをただきれいに書こうとするし、1/3は顕微鏡を見ながら絵を描く慣れない作業に飽きて、ひたすら病理が嫌いになる。残りの1/3くらいは、最初から「シェーマとして描く」ことをなんとなく理解しているので、大事なところはどこだろうと教科書を見ながら考えたりもする。

1/3にきちんと勉強をさせるために、1/3には勘違いをさせ、1/3は脱落させてしまう、というのは、効率としてあまりよろしくない。

だったら、組織スケッチの時間は、「講師がスケッチをし、それを鑑賞してもらう」時間としたほうがよいのではないか。

プロジェクタで、学生に知っておいてもらいたい腎臓糸球体だとか、サイトメガロウイルスに感染した血管内皮とかの写真を映し出す。肝細胞癌の断面図や、非浸潤性乳管癌のマッピング図でもいいだろう。

これらを、リアルタイムで、教員がスケッチすればいいのだ。それを、学生は「鑑賞する」。

自分が見ている写真を、ただ写実的にうつしとるのではなく、意味を与え、知恵を付与して、「臨床医でもわかるようなシェーマ」にする過程を見れば、医学生も何かを感じる頻度が多くなるのではないか、と思う。

なんでもかんでも自分で手を動かせ、体を動かせという、体育会系の理屈から、一番遠いところにいるはずの医学部教育で、いまだに「知識が不十分なままにシェーマを書かせる」などという非効率的な学習方法を選んでいるのは、ぼくは、無駄が多いように思う。

周りにいる医者はほぼ間違いなく、
「学部時代のスケッチ、何の役に立ったんだろうなあ」
と言う。病理医の人気を下げ、知名度を低くし続けてきた歴史の一端は、「組織スケッチ」によって形成されたのではないかと、ぼくは割と真剣に勘ぐっている。

2016年11月18日金曜日

神田 富士そば 月見 340円

ぼくは、とりたててそばの味にうるさい人間ではない。

温かく、なんらかの出汁を感じれば、それはうまいものだと感じる。

中年になってからは、一味を振るようになった。そばなら一味、牛丼には七見、 塩ラーメンには胡椒。備え付けの香辛料に手が伸びるようになるのがおじさんの証だ、と胸を張っている。



先日、出張から帰ってくる日、早朝に入った、神田駅前の富士そば。

ただそばを食った、ま、うまかった、それだけの店、と思った。

ツイートをした。ごちそうさまです、と書いた。

すると、断続的に二通のリプライが届いた。異口同音に、こう書かれていた。

「まだ早朝オープンの喫茶店がない頃からそこにあった富士そば。早朝に温かいものを食わせてくれた富士そば。いいお店でしょう」

そうだな。

その通りだ。

食い物を評価するのは、「食事のために食事をする人」ばかりではない。

忙しい生活の隙間にはめ込むように、密度から逃げ出すように、「何かを食いに入る」。そんな時間が、生活を潤すと同時に、「味」にも意味を与える場合がある。



そういえば、小さい頃、雪の日に空き地に作ったかまくらは、0.5 畳のワンルームで、ガスも水道もなく、トイレもなく、しかし、ただひたすらに暖かかった。いくつものワンルームに暮らしたけれど、あれがぼくにとっての富士そばだったのかもしれないなあと、そんなことを思う。

退店時のあいさつとしては「ごっそさーん」が似合う気がした。

2016年11月17日木曜日

病理の話(19)

複数回にわたり、「病理の話」の中で、「写真はだいじなのだ」ということを書いた。

いよいよ、今日から、写真の話をする。病理と写真の関わりについて、書こうと思う。



病理医が撮る写真には、大きくわけて2種類ある。肉眼写真と、組織写真だ。

肉眼写真というのは、体の中からとってきた臓器や病変を、そのまま、あるいは包丁で切って割面を出すなどして、デジタルカメラで撮った写真。

これに対し、組織写真というのは、プレパラートを顕微鏡で拡大したものを特殊なカメラで撮影した「ミクロの世界の写真」である。

組織写真をミクロ写真とも言う。これに対し、肉眼写真のことはマクロ写真と呼んだりする。



「病理医ヤンデル」というツイッターアカウントを作る前に、どんなアカウント名にしようかと考えていた際、「病理少女 まくろ☆ミクロ」という候補があった。

ま、それくらい、マクロとミクロは大事なのだということなのだが、今あらためて、病理少女にしなくてよかったなあ、と、安堵する次第である。


(※「次第である」は深爪さんのパクリですが、深爪さんほど切れ味あるブログが書けたらどれだけいいだろうか、と、あこがれています。)


***


マクロ、ミクロ、いずれも非常に大切だ。

「病理の話(18)」でも書いたが、
「病理医が顕微鏡でみて思ったことを、すべてコトバだけで説明すると、病理医以外の人がパンクしてしまう」
という事情がある。やはり、形態診断学(カタチを見て診断する学問)は、写真を活用して説明するのがダントツにいい。

説明に便利であるという理由。これはとても大きい。

加えて、ほかにも、病理医が写真を大切にすべき理由がある。写真が趣味の人であれば、わかりやすいかもしれない。

ぼくたちは、写真を撮ろうとするとき、それも、よりよい写真を撮ろうとするとき、対象を「よく見よう」とする。

写真を撮る前の段階で、ファインダーを覗きながら、「この光景を、誰かに、いかにうまく伝えようか」、あるいは、「将来自分で見直したときに、この感動を思い出せるように」などと、考えながらシャッターを切る。

これが、対象を、より深く、真剣にみることにつながる。

目の前に広がっているものをただ漫然と眺めるのではなく、意味を探しながら見る。写真1枚の中に、いかに多くの情報をぶち込むか、あるいは逆に、いかに重要な情報だけを選んで他をそぎ落とすかを、考えた上で、見る。

写真を大事にする病理医は、診断に切れ味がある。教科書や論文を読んでいても、わかる。適切な写真を選ぶ人が書いた論説は、鋭く、わかりやすいものだ。


***


少し専門的な話をする。病理医が撮影する写真でいちばん大事なのは何か?

ぼくは、構図だと思っている。

写真を趣味にする人は、写真の軸(傾き)や、アップ・ロングの使い分け、ぼかし方、露出、色温度などさまざまなファクターを複合的に調節しているようだが、こと、病理診断を説明する上で必要なのは、構図である。

写真のフレームを3×3で9分割し、分割した線や交点の上に着目したいものを配置するという「3分割法」というのが写真の世界には存在するという。よい構図で写真を撮りたいなと思ってググるとすぐ出てくる。

しかし、ぼくがここで強調したい構図は、おしゃれな画角を選べということではないので、3分割法よりも、もっと単純だ。

ただひたすら、
「見たいものをど真ん中にドーンと置いてくれい! それも、見やすいサイズに、適切に拡大して、置いてくれい!」
これだけ。

これこそ、適切な病理写真を撮る上で、いちばん大切なポイントだと思っている。

なんだあ、簡単だ……?

実はこれが、そう簡単でもない。

臓器の中には、顕微鏡像の中には、アイドルやモデルはいないからだ。風光明媚な大草原もないし、美しい西日の沈む水平線もないし、卒業式に弾む学生達も、いないからだ。

写真の中で、全力で強調し、推すべき対象を、自分で考えなければいけない。構図にはめるべき「主役」を考えるところからスタートしなければいけないからだ。

だれを主役にするのか? ぼくらはまず、そこから考えなければいけない。主役を探し出して、構図にあてはめることが、病理写真を撮影する作業の9割を占める、と言っても過言ではない。

誰を主役にして、最高の構図で写真を撮るか。

なんなら、「主演女優」だけではなく、「助演男優」、「いぶし銀の脇役」などもフレームインさせよう。こうなってくると、さらに難しい。病理という劇場、臨床医療者という観客のことをわかっていないといけない。

たとえば、胃の病気を写真に撮るなら、病変部だけをぐぐっと拡大するのがいいこともあるが、同時に、病変の周りの「背景胃粘膜」をきちんとフレーム内におさめたほうがいいことの方が、ずっと多い。「胃に、なぜその病気が出たのか、原因までも推測できるような写真」を撮ると、臨床の医療者たちは、「おっ、わかってるなあ……」と思ってくれる。病理レポートに、ぐっと説得力が出る。


ああ、構図だけしか話してないのに、こんなに長くなってしまった、困ったな。えーと、続きます。

2016年11月16日水曜日

藤岡先生と、その弟子のこと

すこし前の話になる。

ある高名な病理医が亡くなった。

北海道大学医学部を首席で卒業、病理学の路に進み(今、path of pathologyだなあと思った)、ありとあらゆる人体学に精通し、ちょっと常人では理解しがたいほどの記憶力と、ただひたすらに洗練された言葉使い、おどろくほどおだやかな人柄で、誰にも好かれ、また畏怖されていた。

これらはみな、弔文にありがちな文句であるが、これ以外に書き用がない。

ぼくは彼に直接教えを請うたことはないのだが、ぼくの師匠の多くが、彼に教わっている。



エピソードとして有名……というか、これはもう都市伝説ではないか、と思われる類いのものが、いくつもある。その中でも最も「ああ、彼っぽい」と思ったのは、以下のような話だ。

あるとき、大学院生が、彼にこう尋ねた。

「藤岡先生、5,6年前なんですけども……□□病の解剖、ありましたよねえ……? 探しててなかなか見つからないんですが、あれ、どこの病院でしたかねえ」

すると、彼は、こう答えたのだという。

「ああ、19○○年△月に、○○病院で、私とあなたで入った解剖ですね。あのときのおばあちゃんは確か□□病で、○さん(技師さん)にあれとあれの写真をお願いしましたので、たぶん○さんに聞けばわかりますよ。」

大学院生は腰を抜かすほど驚いたという。

はじめてこのエピソードを聞いたとき、ぼくは、「うそくせぇ」とも、「うおっ、リアルでノイマンみたいな人がいるのか」とも思わず、ただ、「あー、藤岡先生なら、ありそうだな」と思った。

ある重篤な患者さんの解剖を行った際、体の外に一滴も血をこぼさずに解剖を終えたこともあったという。これがどれだけすごいか、解剖をやったことがない人にはまず伝わらないだろうが、一言、神業、というほかない。

彼が某大学の教授になることが決まり、それまでいた講座を去ったとき、「ああ、藤岡先生がいなくなるのなら、パソコンがもっといっぱいないとだめだ」となって、病理情報を取りまとめる専用のPCとデータベースが配備された、という、ウソみたいな本当の話もある。



ぼくは、二度ほど、彼に会った。同席した機会はもう少し多いが、まともに話をできたのは2回だけだ。

一度は講習会だった。見事な解剖技術を、淡々と、優しい言葉で、恐ろしく美しい写真を出しながら、語られていた。

一度は、ぼくの通っていた大学院の講座で会った。すこし前に聞いた講習会の内容がすごかった、ということを伝えながら、標本を1件見てもらった。「フラジャイル」に出てくる一柳教授にも少し似た、細身でやや小柄だが凛としたたたずまいの先生であった。

小声でしゃべっているのに、聞き取りづらいということがない。手足はおろか、声の先にまで気配りが行き届いているような人だった。ぼくは、彼の脳は、山のようだなと思った。それも、「モネラ族にとっての山」である。宇宙そのものではないか、と思った。




彼が亡くなったあと、ぼくの師匠の一人(現在は某大学の教授)が、ご遺族や関係者にあてた手紙を書いた。その中には、このように書かれていた。手紙が今手元にないので、うろ覚えだが、まあ、こんな感じだ。

「藤岡先生は、ありとあらゆる病理学の達人でありましたが、とくに解剖を大切にしておられました。特に、患者さんには最大限の敬意を払うべしと諭され、解剖の際に患者さんの皮膚にちょっとでも血液がついたらすぐ洗い流しなさい、と言われ、解剖が終わったあとには、患者さんに自らサラシや靴下を巻いて、どうもありがとう、勉強させて頂きました、と、お礼を述べられるのでした」



追悼文を見たぼくは、胸が締め付けられるような思いを一人で抱えきれなくなり、職場のボスに声をかけた。

ボスは、くだんの天才と、一緒に働いていた時期がある。

「ずいぶん叱られたよ」

へえ……。すこし、意外だ。おだやかそうに見えたけどな。

「しっかりした人でね」

「学問に対して、とても厳格だった」

「ぼくは、怒られてばかりだったなあ」

だんだん、ニュアンスが伝わってくる。

ボスは椅子に座って前を向いたまま、そっとひざを掴んでいた。

「総胆管は、そうかんたんには見つからないんだよ、って、ダジャレをよく言ったんだ。フフフッ」

ああ、そのダジャレは、さっきの教授も、追悼文に、書いていたなあ。




元・北海道大学助教授、元・杏林大学教授、藤岡保範先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

我々、北大第2病理の出身者は、みな、あなたの残された手技を元に、今でも切り出しを行い、解剖をし、病理医をやっております。切り出しのまな板は、ぶっちがいに立てかけておくんでしたよね。

2016年11月15日火曜日

病理の話(18)

病理診断は、主観的な作業であると言われる。

「腫瘍細胞の、核が、とても悪そうに見えるので、がんです!」

ぶっちゃけ、これがまかりとおる世界なのだ。

知らない人にとってみれば、まさにブラックボックスである。入口から検体を入れると、出口から「がん」とか「がんじゃない」と書かれた手紙が一通サラッと落ちてくる。中で何が起こっているのか、覗き込んでみると、気むずかしそうな200歳くらいのじいさんたちが揃いも揃って「クロマチンが多いのじゃ」「核縁が不整なのじゃ」「ゴルジ野が不明瞭なのじゃ」「すなわち、がんじゃの」「フォホホ」と円卓会議をやっている。

こんな、言ったモノ勝ちの病理診断なんぞに、「医療・診断の要点」をまかせて、よいのだろうか?


***


以下の「クイズ」をご覧頂きたい。

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これを見て、四角い文字だなと思った人はまばたきを。

ごつごつしている文字だなと思った人は手拍子を。

右側が刺さりそうだなと思った人はスキップをしましょう。

さあ、正解はどれ?

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ーーいやいや。こんなの、見ようによっても人それぞれだし、設問次第でどうにでも見えるでしょ。

でも、病理診断って、そういうことだ。

「見ようによってはね、核はでかいよね」

これくらいで、「がんである。」と診断される。

ブラックボックスの中身なんて、覗かない方が幸せなのかもしれない……。




以上は、ぼくが大学院生のときに、そのまま思っていたことだ。

今になって、当時のぼくに、教えてあげたいことがある。

「ブラックボックスは、開けて良い。

そして、箱の中にいる病理医は、内側から、みずから、ブラックボックスを開けてあげたほうがいい場面がある。

思考過程や、判断した根拠を、筋道立てて述べ、臨床家にとって病理をブラックボックスに感じさせなくする、努力。

我々は、そういう努力を、訓練をしてもよいのではないか。」




Q. 細胞の核がでかい、という判断根拠は何か?

A. 横に、リンパ球(がんとは関係ない細胞)がある。このリンパ球の核と比べてみてください。ほら、この細胞の核は、リンパ球よりも、直径にして、2倍くらい大きいですよね。直径が2倍ということは、面積は4倍です。体積は8倍だ。つまり、単純に考えて、リンパ球よりも8倍も「遺伝子の器」が多きいってことですよ。これは、明らかに異常です。「増殖異常」が生じていると考えて、よい。


  いつ、臨床医に尋ねられても答えられるように。

  自分の判断の根拠を、「武装」しておく。


Q. 核異型がある。その根拠は?

A. 核のサイズに大小不同がある。直径にして、最大で3倍ほどの不同性がある。体積にして27倍もの差があるわけで、増殖の異常が見てとれる。さらに、核の形が不整だ。普通の核は、球形をしている。ところが、この細胞の核は、これも、あれも、それぞれ異なる形をしている。こんぺいとうのような形。ホームベースのような形。角張っているというのは、おかしい。安定していれば、球状になるはずだ。つまり、安定性がない。これも増殖の異常を示す所見となる。核のフチにも着目しよう。核膜と呼ばれる構造が、厚かったり、薄かったりする。核を覆っている膜は本来薄さが変わるわけはないのだが、核にはしばしば「クロマチン」、すなわち染色体が付着する。この付着にムラがあると、核膜の厚さにもムラが生じてしまう。これも、細胞増殖のペースが速く、異常であることを示す。そもそも、この核と、あの核では、色合いが違う。濃さが異なっている。一つの視野を、おおざっぱに十字に切って、右上・右下・左上・左下と、4分轄してみるとわかりやすい。どの領域同士を比べても、中にある細胞の色が、ひとつとして同じ色に留まっていない。とても多彩である。加えて、核内に、核小体と呼ばれる構造物がちらちら見える。結構な頻度で見える。正常の細胞ではこんなに見えてこない。細胞分裂に関与する核小体が、これだけの割合ではっきり見えてくるということは、すなわち、細胞分裂の頻度が普通よりもかなり多いことを示す。

以上より、核異型があると考える。

Q. もうヤメテーーーーーーーーーー

A. やめない。次は極性と軸性、細胞質の所見、さらには細胞が作る構造の異常について語る。さらに分化の異常があるということ、浸潤所見を順番に説明し、……



 ……世界中の、どこであっても、誰が聞いても、どんなタイミングで何度聞き直しても、ああ、確かにこの細胞はがんなのだなあと、納得してもらえるように、コトバで描写をする。

実は、病理診断というのは、うまくハマっている分野では非常に「診断者間の、診断誤差」が少ないと言われる。こんなに主観的な診断なのに。

その理由のひとつは、診断者が「どこの病理医にみせても、納得してもらえるレポートを書くために、主観を主観で終わらせないように、論理を使っている」からだ。



***



さてと、ここまで読んでいただくのは大変だったろう。ぶっちゃけ、読み飛ばした人もたくさんいるだろうと思う。

主観的な病理診断を、「客観的に」するためには、論理がいる。しかし、その論理は難解だ。

だったら、論理を、わかりやすく伝える作業をしなければいけない。

それは読む人、聞く人をおいてきぼりにするような、受け手の気持ちを考えずにひたすらまくしたてるような、「しゃべる方のコミュ障」であってはいけないのではないか、と思う。

この場合、文章でつらつらと述べるよりも、もう少しだけ伝わりやすい方法がある。

それが、「プレパラートの写真を撮る」ということ……「組織写真」である。


病理医が自分の診断根拠を、きちんと、筋道立てて説明できることはとても大切だ。しかし、専門的な、難しい話を、「ほら!わかれよ!ほら!」と臨床医に突き立てることは、「コミュニケーション」ではない。

 「いつでも説明できる、論理は完璧だ。
  そして、そのことを、わかりやすく、絵などを用いて、説明する。」

病理医は、写真を撮る。それも、2種類。「肉眼写真」と、「組織写真」。これらを、そろそろ、説明しなければいけないね。

2016年11月14日月曜日

パブロ に やられた !

いきいきと学ぶ初期研修医を見ていると、医学部生なんて勉強ばっかりしてるからつまんないんでしょ、とか、医者はユーモアを介さない人種だ、とか、そういう類いの風評って誰がどこから流してるんだろう、と不思議な気分になる。

つまんなくてユーモアを介さない人種なんてそこらじゅうにいっぱいいるのにな。


***


ともあれ。ぼくが大学生だったころ、医学部6年間のうち、さいしょの1年半は「教養」と言って、医学部の専門講義とはほとんど関係がない授業を受けて、単位をとった。必修科目の中には、英語、選択第二外国語(ドイツ語とか中国語とか)、数学(特に統計学)、化学などが含まれていた。自由選択科目として、これはもう、ほんとうに雑多な講義があり、シラバスと呼ばれるお食事メニューを元に、単位が取りやすそうなものや、実際に聴いておもしろそうなものを選んでいった。

「湿原の科学」とか、「古典に親しむ」みたいなのを受けた記憶がある。内容はほとんど覚えていない。ラムサール条約、だけ覚えている。

「教養」の時期に、実際に大学生として、あるいは社会人になるための教養を身につけた人はどれだけいただろうか。

単位をかきあつめ、レポートをごしごし書きながら、それでも腐るほど余る時間を、バイトや運動、サークル活動にあけくれる毎日、という人の方が、ちょっとだけ多いのではなかったか。

それはそれで、社会に出るために、なんとなく身につけておいた方がいい、宙ぶらりんの関係性や、空気を読む読まない的な調整力や、他人と自分の境界線をどこに引くかの眼力や、自分が確かに大学生であり、人生の最中であるという錯視にも似たアイデンティティの構築であったりしたはずで、

たしかに、「教養の時期」ではあったのだろうな、と思う。


***


くだんの研修医に、「俺のときよりも医学部の勉強、多くて大変だろう」という話をしていたら、「今はうちの大学、教養が半年しかないんですよ」と言われた。

そうか、教養が半年しかないのか。かわいそうだな。今は、医師免許をとるためには、6年のうち5年半を、医学部生でいなきゃいけないんだなあ。大学生でいられる時間は、半年だけなんだなあ。

それにしちゃ、こいつは、音楽もやるし、運動もやるし、頭もいいし、気立てもよくて、まわりの女子研修医に対する人当たりも気持ち悪くないし、教養だってきちんと兼ね備えているし、ま、けっきょく、大学時代のあの1年半で、ぼくに身についた教養なんて、たかがしれてたってことなんだなあ。


そんなことを考え、ふと、あのころの1年半に、自分にどんなイベントがあったろうかと思い出して見たけど、ゲルニカみたいに絡み合う思い出たちがすでに原型を整えていなくて、精神もまたキュビズムとなった。

2016年11月11日金曜日

病理の話(17)

むかし、生命は、1個の細胞だった。

1個の細胞(単細胞)は、「自分が自分であろうとした」。

周りと自分とは違う。オレはオレである。

そういうために必要なのは、彼我の境界……。

周りと自分とを隔てる、しきりが必要だった。

だから、自分を、膜で覆った。

中と外とをわけたのである。


中と外とが分かれると、困ることがある。

中で自立するためには、外から栄養を取り込んで、中からウンコを出さなきゃいけないのだ。

外……外界には、敵もいれば味方もいる。ばい菌とか毒みたいな悪い奴らを締めだそう。栄養とか水分、酸素だけを取り込もう。

膜の部分に、空港のゲートみたいなものを用意して。

敵は締め出し、味方だけを通そうぜ!


ところがそんなことは無理だった。いや、ま、あくまで単純な、ひどくざっくりとしたやりとりはできるんだけど、精度が悪すぎた。空港のゲートのレベルでは制御ができないのだ。人間が武器を隠し持っていないかをチェックするだけであれだけでかい機械が必要なのに、水分に付着した毒物をチェックしつつ、栄養だけを奪いつつ、ばい菌とかウイルスみたいな敵をうまくはじきかえすなんて、もう、しっちゃかめっちゃかである。


だから、生命はどうしたか。


役割を分けることにした。自分の最外層にある膜の、ここには「出国専用ゲート」、こちらには「入国専用ゲート」を分けて用意して、それ以外の部分には「敵も味方も通さない、強固なカベ」を作ることにした。

でも、生命が進化して、高度な構造をもち、自然と必要とするエネルギーが多くなると、ゲートだけで振り分けるスタイルも、だんだんしんどくなってくる。

イメージしていただきたい。東京ドームのような、ドーム状の細胞を思い浮かべよう。へりのあちこちに、出入り口のゲートがいっぱいついている。この、入口専用ゲートと出口専用ゲートの配置が、めちゃくちゃ、ランダムだとしたらどうなるだろう? 客は不便だし、周りは大渋滞。いつまでたっても試合は始まらないのである。

そこで。

いつしか多細胞化していた生命は、自分の構造を複雑にすることができたので、一計を案じた。

敵を跳ね返し、栄養を取り込むために、ゲートを用意するだけではなく、自らを変形させることにしたのである。

どうやったか?

へこませたのである。からだを。

□ → 凹

へこんだ部分を、出入国担当にするのだ。へこみの部分でだけ、「外界とのやりとり」を行う。栄養を取り込んだり、水分を取り込んだり、酸素を取り込んだりする。

へこんでいない部分はぜんぶ、カベ。水も漏らさない、敵も入れない。

この形が、実は、相当便利だった。

ただし、酸素のような気体はともかくとして、ねっとりした栄養(脂肪など)は、入口と出口がいっしょだと、渋滞を起こして、詰まってしまうことがある。

だから、いっそ、へこみじゃなくて、トンネル状にしようと思った。流れを、基本一方通行にしよう。

□ → 凹 → 

(なんかいい漢字がないかな……)

□ → 凹 → 呂

(……90度横にむいちゃったな……)

□ → 凹 → 明

(……なんかいらん横棒とか入ったな……)

□ → 凹 → 0 0

(まあこれでいいや!中にパイプが貫通したかんじ!わかるだろ)


ここまで一生懸命に何を語ってきたと思う?

そう、人体の中を貫通する、「消化管」の話をしているのである。

口から肛門までつながる、パイプ。人間はもちろん、魚類にも両生類にもあるし、アリにもカブトムシにもアニサキスみたいな虫にもある。

人間は、手で触るだけでは、栄養の摂取ができない(人造人間19号は、そういえば、完全なロボットだったな)。

体の表面はすべて、重層扁平上皮粘膜(じゅうそうへんぺいじょうひねんまく)という、ガード専門のカベによって覆われているからだ。へこみ……というか、パイプの内面にしか、ゲートを用意しないことにした。

カベ、すなわち「重層扁平上皮」である。

口の中も、まだ重層扁平上皮粘膜だ。食道の中も。このあたりは、まだ、食べ物が「硬い」。異物といっしょだ。ゴロゴロ硬いモノが、血管の中にでも詰まったら、死んじゃう。だから、胃酸でトロットロにぶちこわすまでの間は、扁平上皮(へんぺいじょうひ)でがちっとガード。ゲートの出番は、まだ早い。

胃にたどり着いた。胃の表面は、「腺上皮粘膜(せんじょうひねんまく)」で覆われる。ここでは胃酸が「出る」。胃の細胞内から、胃酸という分泌物が「出国」する。ゲートが必要である。

ゲート、すなわち、「腺上皮」である。

小腸に至ると、腺上皮粘膜の形状が変わり、絨毛と呼ばれる形になる。ここには入国ゲートがいっぱいあって、栄養をばんばん吸収しはじめる。

大腸に至ると、入国するものは水くらいになる。栄養はもうすっからかんだ。むしろ、カスが増えてくる。小腸絨毛より、ちょっとだけ防御力を高くし、水だけ通せばいい構造に変わる。入国ゲートの種類を変える。

そして肛門。ここではもう吸収は必要ない。硬くなった便で粘膜がちぎれないように、「皮膚の硬さを取り戻す」。つまり、ゲートをなくして、またカベに戻す。すなわち、重層扁平上皮粘膜で覆われる。



栄養と水分を摂取し、敵(ばい菌、ウイルス、毒……)をはじきかえすために、生命は、穴を開けた。ねっとりして渋滞を起こしそうなものに対しては、消化管という名のパイプを用意した。酸素の取り入れと二酸化炭素の排出については、パイプまでは必要ない。空気はさらさらだから、流れだけを起こしてやれば(横隔膜や胸の筋肉を使えば)、袋状であっても十分に換気ができる。

ほかに出入りが必要なもの……精子。それまでは体外に大量に卵子をばらまき、精子をぶっかけていたけど、複雑な遺伝子をようやく伝えた子供(タマゴ)が一瞬で他のおサカナに食われるのが腹立たしいから、消化管・肺とは別に、もうひとつの「袋」を作った。これが子宮である。



敵をはじき返すカベ。栄養や酸素などの吸収に携わる、出入国ゲート。

これらは、もともと、体の外側にあるはずだった。分業して、部署をわけて、専用の小部屋にしたり、一方通行のレーンにすることで、体の中側に落ちくぼんでいるけれど。

すべて、外側≒上にへばりついていたものなのだ。

だから、そこにある細胞を、みな、「上皮」と呼ぶ。



この説明はかなり長い。めんどくさいから、普段、看護学校で説明するときには「触手で触れるところが上皮だよ。」と教える。

この教え方の評判はよく、ぼく個人の評判は下がるので、すこし書き方を変えてみた。長いけど、ま、今度講義でもしゃべってみようと思う。

2016年11月10日木曜日

病は毛から

鼻の中で鼻毛が一本、変な方向に生えていた。

それでくしゃみがいっぱい出た。

くしゃみは鼻水を呼ぶ。気道のもっとも端にある鼻の穴から、異物を取り除こうとする反射は、くしゃみを起こし、同時に鼻水の分泌を増やす。

鼻水が出ると、一分は喉の奥に落ちる。すると、咳が出る。後鼻漏(こうびろう)と呼ばれる現象である。

くしゃみを連発し、咳も出ることになる。

くしゃみは、意外と体力を使う。気道の異物を吹き飛ばすために、横隔膜や腹筋などが急激に収縮するからだ。

何回もくしゃみをすると、だんだん、体が火照ってくる。

熱・くしゃみ・鼻水・咳が揃うことになる。

これは、一般に、風邪と呼ばれるものに似ている。

原因は、ウイルスではなく、鼻毛なのであるが。ただ一本、変な方向にたまたま曲がった、鼻毛のせいなのであるが。

外から見ると、風邪となかなか区別がつかないし、本人も、風邪をひいたときのように、つらいのだが、原因は、ウイルスではないし、本当は、風邪ではないのだが、本人は、風邪のようにつらいし、風邪かどうかは、ぶっちゃけ、くしゃみをしている最中は、どうでもよくなってしまうのだが。

 なお、これを「風邪」と診断したならば、ヤブイシャ、である。それが医者というものだ。


  ***


たまたま医療っぽい話をしたけれど、実際。ときおり、こんな「鼻毛」みたいなことが、人生のあちこちに、転がっているなあ……と、思うことがある。

おだいじにどうぞ。

2016年11月9日水曜日

病理の話(16)

今の病院にはじめてやってきた、10年ほど前。「迅速組織診」という仕事を担当するにあたり、ぼくが心に決めていたのはひとつ。

「とにかく大きい声を出そう。はっきりとしゃべろう」

だけであった。

当院での迅速組織診は、複数のベテラン病理医が、診断に携わる。だったら、やってきたばかりの、若輩者であるぼくができることと言ったら、インターフェースとしてきちんと情報を伝えることくらいしか、なかった。



***


迅速組織診とはどういう仕事か。手術の最中、患者さんのおなかがまだパッカリ開いているままの状態で、採れたての臓器に対してある程度の病理診断を下す、という業である。

・胃を切除した直後に、胃の切れ端の部分に「がんが及んでいないか」を確認

・手術の前に「がんか、がんじゃないか」決められなかった肺のカタマリを、直接胸を開けてほじくりかえし、その場で病理診断をキメて、がんだとわかったら即座に周りの肺をきちんと切除する、がんではないとわかったらそれで胸を締めて手術終了(余計な手術を回避できる)

などといった使われ方をする。

医者が採ってきた臓器の一部が、手術室から直接病理に持ってこられる。

まだ温かい。

これをすかさず写真撮影し、一部を切り取り、「コンパウンド」などと呼ばれる特殊な……寒天……にぶちこみ、直ちに有機溶媒などを使って強力に冷却する。カチカチになった検体を、その場で技師さんが薄く切り、すぐに染色して、プレパラートを作る。

普通、プレパラート1枚を作るのには、なんだかんだで半日くらいかけるのだが、迅速組織診においては「患者さんがおなかを開けて待っている」のであり、一刻の猶予もない。特殊な手法を用いて、10分ちょっとでプレパラートを作ってしまう。急いで作る分、クオリティは少しだけ低いのだが、そんなことは言っていられない。

即座に診断をする。急いで診断をする。だから、「迅速組織診」という。

よく、「病理医が病院に必要な理由」の筆頭として挙げられる。




ただ、ま、ごく限定的な場面でしか用いられない技術だ、これは。

うちは年間1000件くらいの外科手術+それよりちょっと少ないくらいの婦人科・泌尿器科・耳鼻科ほかの手術があるが、迅速組織診が行われるのは年間で150~200回くらいである。手術の真っ最中に、どうしても病理で決めなきゃいけないことなんて、そう多くはない。

多くないけど、そのかわり、「まだ患者さんがおなかをパッカリ開けている最中、まだ胸をガバッと開いてる最中に、ある程度の時間をロスして、病理診断をしなければいけないケース」というのは、つまり、相当に重要だと言い換えることもできる。

病理医の一言が直接、医者の次の一手、そして患者の生き死にを左右することになる。

だから、実は、「迅速組織診」という名前はついているけれど、プレパラートを作るのが早いだけであって、病理医が診断する速度はむしろ、「普通の組織診より、遅い」。

おなじプレパラートを何度も見る。何人もが同時に見る。手厚く、慎重に見る。

ひとこと、医者に、「断端陰性です!」とか、「腺癌です!」と伝えたら、もう後戻りはできない。10分後に、「あっ……あそこ……まずいんじゃないか……?」と気づいても、もう遅い。じっくり、ゆっくり、しかし急いで見るのだ。





「迅速組織診」は、「病理医が病院に常駐していないとだめだ!」とする理論の根幹をなしている。病理が外注だと、迅速組織診はかなり難しい。

逆に言うと、これだけ限定的でマニアックな仕事状況をクローズアップしないと、「病理医は病院に必要だ論」を保てない、ということでもある。

迅速組織診は、普通の病理診断と比べて「ポジか、ネガか」の二択で答えることが多いので、AI(人工知能)診断向きであり、遺伝子診断向きでもある。将来的にはなくなるかもしれない。

ただ、今のところは、迅速組織診は、外科医から見ても、看護師とかほかの医療者から見ても、「病理医が役に立ってるなあ……」とわかりやすい診断である。病理医が直接感謝される仕事でも、ある。


***


今の病院にはじめてやってきた、10年ほど前。「迅速組織診」という仕事を担当するにあたり、ぼくが心に決めていたのはひとつ。

「とにかく大きい声を出そう。はっきりとしゃべろう」

だけであった。

迅速組織診では、病理の部屋から直接、手術室に電話を掛ける。インターフォンのおばけみたいな機械の受話器をとり、術場(じゅつば)を呼び出す。

ピンポーン。ピンポーン。

「病理です!」

\はーい!(外科医たちの声)/

「○○さんのお部屋でよろしいですか!」

\はーい!(外科医たちの声)/

「胃切除・口側断端です!腫瘍の進展を認めません!ネガティブです!」

\ありがとうございましたー(外科医たちの声)/

「よろしくおねがいしまぁーす!!!」

\!?/


あっ、と思った。最後の「よろしくおねがいします」はちょっと意味がわからないぞ、というか、うん、まあ、悪くはないけど、必要はなかったぞ……。

病理医が外科医や麻酔科医、術場看護師、あるいは患者に「何をお願いするのか」はわからないし、上から目線で患者を頼むと言いたいわけでもないし、なんか、勢いである。

でもまあ、リズムとして、ありだろう。その後も、迅速組織診の最後には、必ず「よろしくお願いします」を言うことにした。



案の定というか、年末の忘年会で、ぼくは初めて会う術場の看護師さんや麻酔科医たちに囲まれ、

「あのwwww迅速のwwwwww報告wwwwwwwwwwwwせんせいでしょwwwwww元気よくてwwwwwwwwwwwいいねwwwwwwwwwwwww」

と、さんざんにいじられ倒すことになる。

2016年11月8日火曜日

あおぞら・輪廻ハイライト

おしゃれな靴が欲しいなあと思う。

人が履いている靴を見て、「おっ、かっこいい!」と思う。ある程度、好きな靴の、傾向も決まっている。つまり、靴の「好み」がある。

ところが、いざ買い物に出かけて、見つけて、かっこいいと思って買った靴が、数ヶ月後もしないうちに、

「なんか微妙だな……悪くはないけど……今着てる服と、別に合ってない気がするし……」

となることがある。


自分自身を見て「かっこいい」とか「ださい」と思う感覚の精度があまり高くないのだろう。他人を見て「かっこいい」とか「ださい」と思う感覚の方が、容赦ないし、一貫しているし、鋭敏である。


他人の描くイラストを見て、なんか目のバランスが変だなあ、と思ったり、逆に訳知り顔で「手塚治虫の絵はほんと、色気のある線だなあ」と言ってみたりすることもある。

シーズンでずっと4番を打っていた打者が、短期的に調子を崩したときに、体の軸が前につっこんでるんだよ、とか、悪い時はスイングがアッパー気味になる、などと、スルドク解説することができる。

人気のアイドルが歌う歌を聴いて、平板でおもしろみのない声だと言ってみたり、前頭洞に声が響いてないからボイトレの成果がいまいちなんだなと思ってみたりすることも、できる。

もちろん、自分で絵は描けないし、ホームランは打てないし、歌唱力もないのに、だ。


「そういうもんだよ」と片付けるのは簡単なのだけれど、ときおり、こう思うことがある。

「自分の持つ能力を越えている相手であっても、”評価”だけはすることができる、っていうのは、もしかすると、本能なのかな?」

草食動物は、肉食動物に、闘争力で勝つことはできない。しかし、相手の能力を見極めて「戦闘を避ける」ことで、生存の確率を上げることができる、とか。

インプットされた情報を脳内で様々に選別し、知恵としてストックしておけば十分で、社会性を武器として生存してきた人類においては、全てを自分が成し遂げる必要はなく、場合に応じて能力のある人間が対処すればいいのだ、とか。

なんか、そういう、「生存戦略上、知ったかぶりは重要だったんですよ。」みたいなこと、ないだろうか。


***


ところで、「○○なんてのは、人間の本能だから」という論が、基本的に嫌いである。

なんでも本能ひとつで片付けるなよ、電車の痴漢を「本能」で片付けるのかよ、と、思ったりもする。

本能を理性と知性で抑え込んで、はじめて、人間だろう。

……だからこそ、自分の行動のうち、どこまでが「本能のなせるわざ」なのかを、知っておきたいなあという、気持ちがある。嫌いだと言っておきながら、しかし、気になっている。

まあ、知っておいたところで、それを活用できるかどうかは、また別なのだけれど。

2016年11月7日月曜日

病理の話(15)

顕微鏡で細胞をみる仕事には、実は二種類ある。

「組織診」と、「細胞診」だ。

両者は細かく異なる。


組織診(そしきしん)は、
「検体をパラフィンの中に埋め込んで、薄く4マイクロメートルに切って、染めて、顕微鏡でみる」
ものだ。

以前にも書いたたとえ話だが、検体をブドウやサクランボなどのくだものに、パラフィンを寒天にたとえて、「涼やかな真夏の創作和菓子」のような、フルーツの寒天詰めを想像していただくとよい。組織診標本を見るというのは、寒天にナイフを入れて、フルーツの断面を見る作業である。

一方、細胞診(さいぼうしん)は、ガラスに直接細胞を乗せて、そのまま観察する手法である。検体にナイフを入れない。フルーツをそのまま外から見ることになる。なお、極小の細胞はほとんど半透明なので、外から見ても、内部まで見通すことができる。

「断面を見る」のと「外から見る」のでは、見え方が異なる。この違いは、病理に携わっていないと、まず学ぶことがない。ほとんどの医療者は知らない。

もう少し、詳しく説明しよう。

組織診では、寒天(パラフィン)の中に、生体内から採ってきた組織をそのままぶちこむ。手術で切ってきた大きな臓器であれば、「切り出し」という作業をして、病変部などから3×2cm大のカタマリを選別したあと、まるごと寒天の中に入れて、そのまま薄切(4マイクロメートルに切る)。

すると、細胞が、「生体内に存在していたときと同じ配置で」顕微鏡観察できる。これは、大きな強みだ。フルーツボックスの中にブドウ、リンゴ、みかん、ナシ、スイカがそれぞれ複数詰められているものを、まるごと「斬鉄剣」でバッサリ。断面に出てくるのは、ブドウやリンゴの断面であり、これらの配列まで観察することができる。すなわち、細胞そのものだけではなく、細胞たちが作る「高次構造」をも観察することができる。

ブドウがリンゴたちの間にどれくらい分け入っているかを見る。これが、「浸潤をみる」ということだ。

これに対し、細胞診は……。

フルーツボックスに並んでいるフルーツの、表面をなでて、そこにある細胞をピックアップする。採れてくるフルーツもあれば、落ちてしまうフルーツもある。採れてくるのはリンゴ1個、ナシ1個、あるいは、ブドウ「一房」である。フルーツの種類によって、1個ずつしか採れてこないものもあれば、ブドウのように小さなカタマリで採れてくるものもある。

これをそのまま見るのが細胞診だ。必然的に、元々ブドウがリンゴの横にあったのか、ナシの横にあったのかは、見ることができない。

「組織診よりも情報が少ない」と思われる、ゆえんである。

しかし。テクニカルだが、細胞診は、「ブドウ一房」をそのまま観察することができる。ブドウもリンゴも斬鉄剣で切ってしまった組織診と異なり、細胞診だと、ブドウ一房に連綿とぶらさがったブドウのカタマリを、そのまま観察することができる。

細胞が、小さい範囲で、どのように積み上がっているのかを見るには、細胞診の方が見やすいこともある、ということだ。

「腺癌」と呼ばれる病気は、ブドウの房のように、もりもりと積み重なるという特徴があるが、組織診ではこの「もりもり感」があまり見えてこない。細胞診だとよく見える。

組織診のほうが細胞診よりも優れているとは、必ずしも言い切れない。

細胞診にも弱点はある。基本的に、特殊染色・免疫染色と呼ばれる作業は不向きである(できなくはない)。

これらはあくまで、使い分けなのだ。


ぼくらは「細胞をみる仕事」と自称する。臨床医が患者さんをみる際に、血液検査、画像検査、問診、診察などを駆使するのと同じように、病理医が細胞をみる際にも、様々なツールを用いて総合的な診断を下す。

ここに飛び込んでくるのが、「フルーツを食っちまって、味で判断しようぜ。」という、遺伝子検査、染色体検査などの手法なのだが……これはまた、別の記事に譲る。

2016年11月4日金曜日

諸葛亮いわく、ほかにすることはないのですか

ツイッターにて相互フォロー関係にある「ぷしこま先生」という方は、ときおり、手帳のようなものに、自分の負の感情を書き連ねているという。「ゲスノート」という名前だそうだ。

人の名前を書くと暗黒面に堕ちそうな名前だ。

負の感情とひとくちに言ってもさまざま、誰を罵倒するかもさまざまだろう。自分自身に向けた罵詈雑言なのか、近しい他者への苦言なのか、遠い他人への怨念なのか、それはわからない。

負の感情を世間に「公開」するやり方が、一般に広く普及している状態で(それこそツイッタランドである)、あえて「公開しない、日記」という形をとるというのは、古典的なようで、今もずっと新しいのではないか、と思う。


***


感情に飲み込まれる、という言葉がある。

この場合、感情に飲み込まれる主体とは、何か。

感情、とは別に、個人、のようなものがあって、それが飲み込まれるのだろうか。

本体とか、本質とか、そういったものが、感情という外敵のような存在に洗い流されて、もともとあるべきだった姿を失ってしまう、といったイメージを呼び起こすフレーズだ。

果たして、そういうものなんだろうか。

自分の本質というのは、感情から見た場合に、どこに存在するのか。感情の外にあるのか。隣にあるのか。あるいは、中にあったり、そのものであったりも、するのか。

鏡を見ながら右の頬を触ろうとするとき、鏡に吸い込まれたような気分になって、うっかり左頬を触って、あれ、鏡の中だと右頬だなあ、とか、細かく誤読をしてしまうことも、あるだろうか。

「感情を記載する」という俯瞰視を行うことで、高みから自分をのぞきこむことで、かこさとしが言った「宇宙では、高いと遠いが同じ概念になってしまうんですよ」みたいに、高かったつもりが遠ざかってしまうことも、あるのだろうか。


***


そんなことをずっと考えていて、うん、そうだな、「ゲスノート」こそは非公開であるべきだ、さすがぷしこま先生だなあ、と思っていたら、先日彼は、このような短いツイートをなさっていた。

「ときおり、ゲスノートと、ツイッターが、”裏返る” ことがある」

非公開という場で感情を記載する作業を、彼はときおり、あるいは無意識に? 狙って、部分的に「公開」することで、かえって「非公開の場」の効果を高めていらっしゃるのかも、しれない。

うーむ。

自己顕示欲がどうとか、承認欲求がどうとか、そういう言葉だけだと取りこぼしてしまう、自分と感情との、戦いのようなものがある。

この戦いは、外交のようにも、内政のようにも、見える。

2016年11月2日水曜日

病理の話(14)

臨床医がぼくのデスクに来る理由は、いくつかある。


ふだんの診療における、病理に対するちょっとした疑問とか、出たばかりの病理報告書に疑問があるとき。直接、詳しい説明が聞きたいとき。

ぼくは札幌厚生病院という市中病院で、札幌厚生病院の臨床医を相手に仕事をしている常勤医である。普段から、どの臨床医がどういうやり方で診療をしているか、どういう心情をもって働いているか、何に興味があるか、どれくらい病理を信用しているか、というのを、まあ、だいたいはわかっている。これは、同じところにずっと勤めている強みだ。どの臨床医がどういう疑問をもっているか、だいたいは知っているし、逆に臨床医の側も、ぼくがどういうレポートを書く病理医か、よく知っている。

というわけで、たいていの疑問は、電話一本で解決してしまう。

「先生、こないだの○○だけど、やっぱりアレなの?」

「そう、下の方に書いときましたけど、アレですね」

「そうかアレかー。いやー久々に見たなーと思って。わかった、ありがとう」

実際に、こういう電話をすることもある。お互い、報告書を挟んで、ほとんど疑義はない状態だ。珍しい、という感覚を共有したり、ぼくがどれくらいのテンションでこれを診断したのかを探るために、一本の電話の手間を惜しまない臨床医。なかなかかっこいいシーンだなあと思う(伝わらないでしょうけど)。

ときには、より深く、本質的な議論が必要な場合もあるが、いろいろな科で毎週「キャンサーボード」(cancer board, 直訳すると、がん会議)というのが開かれており、症例について臨床医と病理医、放射線科医が揃ってディスカッションをし、定期的にコミュニケーションを取っているので、たいていはキャンサーボードで疑問を共有できてしまう。わざわざそれ以外の時間にデスクまでお越し頂く機会は、昔より減っている。

もっとも、病理の部屋はわりとアクセスがよいところにあるので、臨床医の中には、「たいした用がなくても」病理にふらっとやってきて、世間話ついでに最近の症例について会話をしたいタイプ、というのもいる。こういうのは、正直、ありがたい。病理の部屋に、リアルな臨床の空気を取り入れてくれるからだ。

まれに、超難解症例で、どうしても直接話がしたい、と言われることもある。そういうときにはわりとガチで「鳥肌が立つ」。



さて、ここまではいずれも、臨床医が「日常診療に関係した話」をしに病理に来るケースであった。しかし、実際のところ、ぼくのデスクに臨床医が来るパターンとして一番多いのは、

「学会・研究会の手伝いを頼みに来るケース」

である。

医療者はよく、学会報告をする。論文を書く人もいる。論文といってもいろいろな種類があるのだが、その中に、「病理の写真を使いたい、病理の解説を入れたい」場合がある。

診断が難しかった症例を学会報告する場合。「答え」としての病理診断を明記する必要があるし、できればプレパラートにある「細胞像」を写真にとって、論文に添付したい。説得力が段違いなのだ。

特殊な治療を学会報告する場合。治療の対象となった疾患を提示する際にも、「病理診断」があると、報告が引き締まる。

レアなケース、何十万人に1人しかかからないような稀な病気を学会報告する場合には、病理診断の記載はほぼ必須である。ぼく自身は、病理診断が常に確定診断だとは思っていないが、世の中でまだほとんど診断されたことがないような疾患をきちんと定義するには、病理診断がしっかり責任を負わないとダメだろうとも思っている。

このようなとき、臓器の肉眼写真を解析し、プレパラートの顕微鏡写真を撮影して、パワーポイントファイルにしたり、論文に添付したりするのには、ちょっとしたコツと、「プレパラート写真撮影用の機械」が必要となる。

だから、臨床医は、病理医のところに、「ちょっと写真撮ってくれませんか」と、お願いに来る。病理と写真との関わりは深く、この話は、また日を改めてじっくりと書きたい。



さて、ほかにも、臨床医がやってくる理由はある。

「教科書を借りたい」

なんてのもある。病理には教科書がいっぱいある。WHO分類、AFIPアトラスといった世界のスタンダードとなるべき本をはじめ、病理、解剖関係の本は図書館よりも多い。

なお、病理ではなくあえてぼくのデスクを指定してやってくる臨床医、あるいは研修医の中には、ぼくが集めている「臨床診断学の本」や「内視鏡診断学の本」、「痛みの考え方の本」、「医療統計・疫学の本」、さらにはアフタヌーンやジャンプの最新号、フラジャイル全巻などを求めてやってくる人もいる。

さすがにぼくがここで働くモチベーションの全てであるとは言わないけれど、「本を探すために、病理に来ました」と言われるのは、うーん、もしかすると、一番うれしい、かもしれない。フラジャイルくらい買えとも思うが。

2016年11月1日火曜日

脳だけが旅をする

そういえば、書道とかピアノとか、数独とかムシキングとか、カスピ海ヨーグルトとか珊瑚礁でのシュノーケリングとか、テイルズオブのシリーズとか信長の野望とか、合コンとかTOEICとか、私立高校とかヨーロッパ旅行とか、経験していないものが山ほどあるのに、

「自分はある程度普通の感覚を身につけた、一般的な人類である」

と誇れるのはなぜなんだろうな、と考えることがある。

世の中には、

「ぼくは人とは違う、特別な人間だ!」

と主張したくて仕方ない人もいるだろうけれど(それもいっぱいいるだろうけど)、ぼくはどちらかというと、できるだけ、一般的で、ごく普通の、感覚を持っていたいと思うし、ごく普通の感覚を持った上で、何かを得意でいられることのほうが、かっこいいと思っている。


***


美容室に行って髪を切る。床屋でなくて美容室にするのは、以前になじみの床屋に「ゆるふわパーマ」をかけてもらおうと思ったらアイパーみたいなのをかけられて以来、床屋がトラウマになったからだ。まあそんなことは今となってはどうでもいい。もう38歳だし、なんならアイパーでもいいんじゃないかとは思うけど。

髪を切ってもらいながら、雑誌を読む。

さまざまな書籍を電子版に切り替えてきたぼくだけど、媒体としてスマホしか使っておらず、iPadのようなタブレットを使っていないからか、雑誌の類いは電子版だと読みづらい。紙の方がラクだ。

ぼくの顔や年齢から推測するのか、美容室の若いお兄さんは、勝手にいくつかの雑誌をセレクトする。北海道の観光・飲食を紹介する雑誌「HO」が2冊、あと、なぜかはわかんないけどぼくが手に取ったことのないファッション雑誌をたいてい1冊。ファッション雑誌までたどり着くことは、まずない。これでも読んで、もう少しおしゃれにしたほうがいいですよ、という暗黙のアドバイスなのかもしれないけど、残念ながら作戦に乗ったことがない。

「HO」。行ったことのない土地の、そば屋とか、地方食材をふんだんに使ったレストランとか、名物おかみの居酒屋、博物館の体験記などを、次々読んでいく。髪を切るお兄さんに向かって、ときおり、いいですねえ、行きたいなあ、など、言う。しかしまあもちろんのこと、ほとんどの店に行くことはない。脳だけが旅をする。

さて、「普通」は、どうなんだろうな、と考える。

飲食の雑誌、ファッションの雑誌、カルチャーの雑誌……。今の「普通」の人々は、どれくらいの頻度で読むんだろう。

音楽、メディア、マンガ、あるいは文学、さらにはマイナーな趣味系の雑誌まで、よくもまあ毎週これだけの雑誌が出るものだなと、本屋に行くたびに思っていたけれど、今の「普通」の人々は、どれくらいこれらに金をかけて、読んでいるのだろう。

近い将来、美容室とか、歯医者の待合とか、そういう場所でしか雑誌は読まれなくなったりしないのかな。もう、そうなっていたりしないかな。

ぼくは「普通」になりたくて雑誌を読んでいるんだろうか。「普通とちょっと違う、おトク」が欲しくて雑誌を読んでいるんだろうか。

そういうことを考える。

お兄さんに尋ねられる。

「最近忙しいんですか」

「いやあ、いっしょですね」

「そうですか。どこか飲みに行ったりしてますか」

「うーん、あんまり行けてないですね 行きたいんですけどね」

「そうですか。ぼくこないだあそこ行きましたよ、○○」

「お、それ、こないだ雑誌で見ましたよ。何の雑誌だったかな」(もちろん、ここ、美容室で、彼、お兄さんに出してもらった雑誌で読んでいるのである。)

「そうですか。ぼくも雑誌で読んだのかな、それで、行ってみようかと思ったんですよね」

「やっぱ読むと行きたくなりますよねー」

「そうですか。そうですねー」

「ぼくは行きたがるばっかりで、行かないんですけどねー」

「そうですか? そうですかー」


彼はぼくに出す雑誌をたまに自分でも読むのだろう。そして、ぼくと同じ記事を読み、ぼくと違って、体ごと旅に出た。

友だちが増えたような、友だちが去っていったような、気持ちになる。


たぶん、だけど、この記事を読んでいる人には、脳だけが旅をする人のほうが、ちょっとだけ多いような気がしている。しかし、それが「普通」なのかどうかは、わからない。