2016年12月30日金曜日

耳かきをするとブログができる

耳かきを突っ込んでいたら脇腹のあたりがくすぐったくなる場所があり、ああ、これがツボなのだなあと感心した。ツボ、すなわち経穴は、WHOもその存在を認めている、などとものの本にはあるが、WHOが認めていたらなんなのだという気がしないでもない。

東洋医学は経験により裏打ちされており、メカニズムはほとんどわかっていなかったわけだが、直近の20年、漢方とかツボとかの理論を西洋医学と照らし合わせる試みが進んでいる。一方で、西洋医学が常にメカニズムを大切にしてきたと言い切るのは簡単だが、大切にしているからといってわかっているとは言いがたい。たとえば麻酔薬がなぜ効くのかは未だにきちんと解明されていないというし、西洋医学とはサイエンス、東洋医学とは経験知だと切って捨てるのも間違っている。洋の東西を問わず、なぜテレビが映るのか知らないままにテレビを見ているかんじで、なぜ人体がこうであるのかわからないままに人体をいじっている。そういうところでぼくたちは暮らしている。

ツボを突くだけで血圧が落ち着いたり胃腸がおだやかになったりするのは、中枢に向かう刺激が途中で交錯して近傍にある神経をうまいこと刺激するからだよ、とか、東洋医学の陰陽はすなわち交感神経と副交感神経のバランスに相当するんだよ、とか、自分の理解できない世界の言葉を自分がよく慣れた言葉に言い換えることで安心するというのは、人間がよくやる手法である。人の言葉が相手に届くかどうかは、相手の心の中にそもそもその言葉が「眠っていて」、それをピンポイントで揺り動かして覚醒させるかどうかにかかっている、相手の心に全くない言葉を投げかけてもそもそも受容できない、と言った人もいる。ぼくらはたいてい、大人になる途中で自分の使える言語をいくつか設定しており、これはそう簡単には入れ替わらない。他言語とのコミュニケーションをはかるために必要なのは一にも二にも翻訳作業だ。東洋医学を西洋医学に翻訳するのも、ぼくらがあくまで西洋医学の人間であるからに他ならない。

こういうことを書くとき、医学のことを書き始めたはずなのに、まるで夫婦関係のことを書いているようだなあとか、上司と部下のディスコミュニケーションについて語っているみたいだとか、教育現場における問題を揶揄しているのではないかとか、自分の好きな分野にも似たような関係が眠っているよと手をあげる人々の姿が見える。メカニズムと経験知の話は幾重にも積み重なった多重レイヤー構造、ないしは入れ子構造となっていて、ひとつの話題を皮切りに各人が自分の興味ある分野で似たような考察をする。ぼくは、同じカタチをした迷路に違う色のインクを流し込んでいるような、ある一つのプログラムを用意して初期値だけを入れ替えて結果を眺めているような、筋道は一緒なんだけど背景とか前提とか初期値を変えるだけの会話、というものを想像している。

ぼくの根幹となっている迷路、あるいは回路というのは何なんだろう、と探りを入れる。

なんとなくだけど、「複雑系」と、「今あるものは適者生存の結果」という2つの理論が、ぼくの全ての思考の背後にあるような気がする。

栄養剤ひとつで体がよくなるわけないじゃん、人体は複雑系であり巨大な緩衝系なんだから、と人を諭そうとしつつ、でもこの人は40年間、外界から刺激を受け続けた結果いまこうしているわけで、もはやぼくの言葉ひとつでどうこうなるわけがないんだよな、だって人の意識だって複雑系だもん、みたいに、自分の殻にこもる。

ぼくが作り上げた心の殻もまた、38年の生存の結果作り上げられた産物で、こうなるしかなかったし、こうなってよかったんだろうな、と落ち着いたりする。

耳かき一つでこういうめんどくさい話題を広げてくるタイプというのがどうにも苦手だ、そう、面と向かって言われたこともある。しかし、このブログに関して言えば、こういう話題をなんとか自分に取り込んで、自分の心の中にある迷路と比べて、違う色のインクでも流して見ようかな、と、思ってくれる人を読者対象として想定している。「大切にしているからと言ってわかっているとは言いがたい」、「ものごとを俯瞰して見られるのはせいぜい自分の過去までで、自分の現在を俯瞰しているとうそぶく人はほら吹きだ」、「言葉は何かをゼロから産み出すものではなく、すでに胎動していた何かをさらに激しく動かして、殻を内側から破らせる手伝いをする程度のものだ」、「何かを信奉している人をまるで宗教みたいだねと罵る人は、何かを信奉している人を全部宗教に例える教の信者である」、こういう言葉を見た時に、「ああ、まあ、自分ならこう言うだろうね、でもまあわかるよ」くらいのリアクションをしたがる人たちが、ぼくのブログを覗きに来てくれるのかもなあと思っている。

2016年12月29日木曜日

病理の話(33) / がんの話(5)

異常増殖+不死化+異常分化+浸潤。

さいしょの2つで再現なく増えて、3つ目でチンピラ感を出し、4つ目で正常組織のスキマに入り込んだり、破壊したりしてしまうのが、がんである。

ここまでの「がんの話」、4回で、がんの性質四天王とでも呼ぶべきこれらの解説は終わった。

しかし、現実にがん診療をすると、ほかにも知っておくべきがんの特徴というものがある。


***


がんは、英語で cancer 。キャンサー。古い言葉で、カニという意味がある。ギリシャ・ローマの時代からあった言葉らしい。なぜそれがわかるかというと、十二星座のかに座が「CANCER」という表記だからだ。今、聖闘士星矢のコアなファンはうなずいていることだろう。星座を見ていたころから、人はカニのことをキャンサーと呼んでいた。

そして、そのころ、がんにはキャンサーという名前が与えられた。なぜ、当時の人は、がんをカニに見立てたのだろう。

それにはおそらく、2つの理由がある。

1つは、がんが「浸潤する」ということ。がんが、正常組織のスキマに入り込むように、激しく足を伸ばす様子が、カニの足のように見えたのではないか。

そしてもう1つは、がんが「硬い」ということだ。手術のなかった時代であっても、一部のがんは、体表から触れることができた。乳がんなどがいい例だ。ギリシャ・ローマの時代には平均寿命は今より短かったろうが、発症年齢の比較的早い乳がんであれば、当時もある程度の患者はいたに違いない。

一部の乳がんは、硬い。

そして、浸潤して、足を伸ばす。

昔の人は、「硬くて足を伸ばす魔物……カニの魔物が、ちぶさにとりついた」と考えたのかもしれない。



最近の研究では、
「がん細胞は、浸潤する先々で、自分の周りに『足場』を作り上げて、自分がぬくぬくと生きていける環境を作る」
ということがわかってきた。この「足場」というのは、好き勝手に増えて浸潤していくがん細胞に栄養を与える、アジトのような存在であるらしい。足場は線維によってできており、この線維が硬さの原因となる。

がん細胞によっては、足場とかアジトみたいなものをあまり必要としない場合もあるため、がんが全て硬いわけではない(こういう例外は、何にでもある)。

しかし、
「がんが、ある程度硬くなるものだ、周囲に線維を伴うものだ」
という認識が進んだことで、近年の画像診断学は長足の進歩を遂げた。がん細胞だけではなく、がん細胞の作り上げる「足場」を見つけることで、がんをも見つけてしまおうという試みが、CT, MRI, 内視鏡, 超音波などの画像診断においては、今まさに主流となっているのである。

(※以上のことは、放射線科医・病理医であればまず納得して頂けるのだが、医学生、さらには一部の医療者でさえ、知らない場合がある。がんの病理は、まとめて勉強する機会が思いのほか少ない)


がんとは。

異常増殖+不死化+異常分化+浸潤。そして、基本的に、線維性間質の誘導をする。

ここまでで、外堀も内堀も埋め立てた。次回はいよいよ、がんの「本丸」をあばくことになる。

続きます。

2016年12月28日水曜日

ひさ子です(笑)

あれは15年くらい前の話だ。

インターネットが大衆の眼前に降りてきたころだ。

mixiは、まだ招待制だったろうか。

エキサイトなんちゃらとか、なんとかビーチとか、出会い目的のおっさんがうようよしているような交流サイトの全盛期だったと記憶している。

ぼくもまた、「出会い系じゃないよ、交流が目的だよ」みたいな、きれいごとが書かれているサイトに登録していた。日記を書いて、コメントのやりとりがちらほら。現代のSNSには及ぶべくもないスローなやりとり。どこか泥臭く、そしてまだネットに夢を見ていた人たちがいた。

一人の女性と知り合った。その女性と仲良くなったきっかけは、ナンバーガールというバンドであった。自己紹介欄に「邦楽ロックが好きだ」と書いていたら、ナンバーガールは聴きますか、と問いかけられた、そんなきっかけだったと思う。

ぼくは、ナンバーガールというバンドを好きになったばかりだった。……思い出した、あれはやっぱり15年前だ。

知人のロック好きに教えてもらって、一発でハマったのはいいが、一度もライブに行ったことはなく、CDやスペースシャワーTVの映像特集、横流しで手に入れたライブ音源のコピーなどを数枚持っている程度だった。

ネットでコメントをくれた女の子は、「ナンバーガールが好きな人をようやく見つけた」と、はしゃいでいた。


今なら考えられない。ツイッターで「ナンバガ」とひと言ツイートすれば20ふぁぼはつくだろう。

でも、当時は、マイナージャンルの趣味嗜好を摺り合わせるには、おそろしくスレの動かないスローモーな交流サイトなどに書き込んで、粘り強く待つしかなかった。だから、生粋のナンバガ好きであったあの子も、ぼくを見つけてあんなに喜んだのだろう。

ぼくが、解散直前にようやくナンバガを知ったばかりの、「にわか」であるとも知らずに。



ネットで出会った女の子と、はじめてお酒を飲みに行った。こういうとき、やってくるのはマレーバクとかアフリカツメガエルみたいなタイプと相場が決まっているが、思いのほか可愛らしい女性がやってきた。

ナンバーガールのギター、「田渕ひさ子」にひっかけて、自分のことをこう名乗った。

「はじめまして。ひさ子です(笑)」

ぼくは、彼女のことが好きになるかもしれないなあと思った。



でも、話は単純だった。好きになるまでの悠長で怠惰なむずがゆい時間など、そこにあるわけもなかった。

家で音源だけを聴いて、ナンバガが好きだと言っていたぼくと、札幌に住みながら各地のライブに精力的に参加し、ライブ会場でしか手に入らない音源も多数持っていたひさ子(仮名)とでは、ナンバーガールに対する「深度」が違いすぎた。会ってすぐにわかった。

話が続かず、飲み会は1軒目で解散となった。ひさ子(仮名)は、約束していたライブ限定CDを焼いたやつをぼくにくれた。

翌日、ネット上であいさつを交わしたけれど、ぼくはそれ以降、サイト自体を開かなくなってしまった。




「にわか」が、練度の高い人間の中に入っていって、同じテンションで楽しむなんて、できるわけがない。今ならそう言える。38歳のぼくなら、それくらいすぐにわかる。

それもわからない程度の、23歳のぼくは、当時、研究者を目指したり、剣道をしたり、バイトをしたり、とにかく、何もかもをわかってやろうといきまいて、様々に走り回っていた。

にわかに燃え上がる気持ちのまま、カーテンを閉め切った体育館の中に土足で踏み込んで、転がっているボールをバスケのゴールに入れるような、ステージに乗ってひたいに手をかざすような、そういうやり方で、冷笑を浴びながら、自分が本当に好きになりそうなものを、ああでもない、こうでもないと、探し回っていた。



ツイッターで新しい本を見つけて読んだり、新しいバンドを教えてもらって聴いたりするたびに、「にわかの自分」を眺めるもう一人の自分の声がする。

好きならそれでいいんじゃない。

あるいはひさ子(仮名)の受け売りだったかもしれない、声が響く。

2016年12月27日火曜日

病理の話(32) / がんの話(4)

「3.がんは、しみ込んで破壊する。」の話。

ここまでに語ってきた、「増殖異常」+「不死化」+「分化異常」という3本の矢が揃うと、それは腫瘍 tumor と呼ばれる。

あるいは新生物 neoplasm という呼び名もある。

どこか、ヱヴァンゲリヲンっぽさがある。あってはならぬものだし、あるに決まっているものでもある。



「腫瘍」というと、酷く毒々しい印象があるが、腫瘍にも2種類ある。

良性腫瘍と、悪性腫瘍だ。

良いか悪いかという冠が付く。



良いか悪いかは何をもって決まるかというと、単純だ。放置しておくと基本死ぬのが、悪いということである。

悪性腫瘍=がんは、放置しておくと、基本、死ぬ。

良性腫瘍は、放置しておいても、生き死ににはあまり関与しない。

これが定義なのである。



良性腫瘍の代表は、子宮筋腫である。子宮筋腫は、中年女性の3人に1人、いや、2人に1人が持っているくらいありふれた腫瘍だ。放っておいても、筋腫によって人が死ぬことは、ほぼない。

ただし、症状が出る場合があるので、死なないから放っておいていいというわけではない。症状に応じて治療してもよい。

「良い腫瘍」というのは、必ずしも放っておいてよい腫瘍というわけではない。



逆に、「悪い腫瘍」は、放っておけばいずれ人を殺す。ただ、人が殺されるまでのスピードには差がある。

たとえばとあるがんが、「発見されてから100年後に死にます」というタイプだとする。

これはまあ、放っておいてもよいだろう。病気を治療する必要性は、病気だけを見ていては決められない。その患者さんごとの事情とか背景を斟酌する必要がある。


ま、そういう「治療の必要性」についての話は今回の主目的ではない。いずれ語ることもあるだろう。


***


さて。

腫瘍には良悪があるというのはわかった。

では、その良悪を決定づける、腫瘍細胞の性質の差とは何か。

それは、とても単純で、「しみ込んでいくかどうか」にある。

専門用語で、浸潤(しんじゅん)という。


体の中でいかに細胞が異常に増えようと(異常増殖)、いかにプログラム死から逃れていようと(不死化)、いかにきちんと働かなかろうと(異常分化)、しみ込む力がないならば、そのカタマリは

「まわりを押しながら、ごめんなさいごめんなさいと一カ所で広がっていくだけ」

なのである。

満員電車の中で一人のおじさんがとつぜんふくれていくところを想像するといい。

えらい迷惑だけれども。ただふくれていくだけならば。

駅員さんとか鉄道警察が、そのふくれていった風船ヤロウを、どこかに連れて行ってしまえば、車内には平和が戻る。

これが、良性腫瘍の姿である。その場でふくらんでいくだけで、周りにしみ込んで壊すということがない。だから、手術すると、基本は「スポンッ」と採れてくる。後には何も残らない。

後には何も残らないということは、再発の可能性がほぼないということにもつながる。「採り切れてしまう」からだ。



一方、悪性腫瘍……すなわち、「がん」は、周りにしみ込む。スキマを縫って、破壊する。刺さり込む。

こいつが非常にやっかいなのである。

満員電車の中で、「寄生獣」に出てくるようなバケモノが、手足をギャーンギャーンと伸ばして、周りの人の体を刺したり、電車のカベや床に爪を立てる。駅員さんや鉄道警察がヤツを排除しようとすると、周囲の善良な人々をも一緒に車外に出さなければいけない。なんなら、電車ごと破壊しないといけなくなるだろう。

倒さなければ被害が広がる。倒しても被害は広がる。



だんだんと、がんの全貌が見えてくる。

「増殖異常」+「不死化」+「分化異常」+「浸潤」。

四天王が揃った。


続きます。次回、いよいよ、「カニの話」となります。

2016年12月26日月曜日

北から目線アドバンスト

雪かきにはコツがある。

一度にいっぱいやろうとしないことと、腕でなんとかしようとしないこと、ふわふわの雪を固めて足場にした方がいい場所を最初に見極めておくこと、などだ。




北の人が、問われてもいないのに、雪かきのコツをあちこちに書くのはなぜか。

雪かきほど、甲斐のない仕事もないからだ。ここの雪をそこに運ぶだけのことに、ものすごい労力を割いて、やらなきゃ生活できないし、やっても誰もほめてくれない。なんとかラクをできないかと考えるんだけど、ガソリン製の雪かき機は高いしすぐ壊れるし、夏の間置き場所に困るし、燃費はかかるし、融雪槽だって近所の子供が落ちたらいやだなと思うし、ロードヒーティングこそ金がかかってしょうがないし、だいたいああいいうのは「今日は降らないだろう」と電源を落としているときに限って豪雪になる。結局、ぶつくさ言いながらも自分の体でなんとかするしかない。何がママさんダンプだ。手も足も顔も霜焼けになる。コシとか肩とかすぐ傷めてしまう。おまけに、雪かきは、たいしてカロリーを消費しないように思う。別に医学的根拠はないが、もう、そう信じている。雪かきで痩せた人なんて聞いたことがない。ただ疲れるだけで皮下脂肪は減らない、そんな「無駄な運動」がこの世の中に存在するなんて! 汗をかくほど暑くなるけど、ビールがうまくなるわけでもない。思い出した、市町村などが委託受注している除雪のタイミングも腹が立つ。いや、大変なのはわかる、全住民の希望に添えるわけなんてない、ほんと除雪業者がいなかったらと思うとぞっとする、いつも本当にありがとうございます、けど、ま、来て欲しいときに限って除雪は入らず、道は狭いし軽自動車はスタックしまくるし、来たら来たで圧雪アイスバーンが牙を剥くし、道の両脇には人力ではどかせないような強烈に硬い雪山ができあがったりする。極めつけは、「春になったら雪は解けてしまう」ということだ! 信じられない。最初から雨で降れ! 


以上を。

全員だ。全・雪害地域民が、思っている。何も得るものが無い。ただ疲れていくだけだ。

雪かきにはカタルシスがない。

せめて。せめてコツくらいは。ドヤらせてくれい。ついでに肩もんでくれい。




「雪かきにはコツがある。

一度にいっぱいやろうとしないことと、腕でなんとかしようとしないこと、ふわふわの雪を固めて足場にした方がいい場所を最初に見極めておくこと、などだ」

こういう文章をみたときには、全身全霊でほめちぎってくれないと困る。

いいね! だって15万くらいついていいと思う。

毛ガニくらい送られてきていいはずだ。

毎週抽選でハワイ旅行と金銀パールが当たってもおかしくない。

なのに、なんだこの! なんなんだこの!




冬ははじまったばかりです。

2016年12月22日木曜日

病理の話(31) / がんの話(3)

「2.がんは、できそこないだ。」の話。

例えば「胃がん」は、胃の細胞にちょっとだけ似ている。「肺がん」は、肺の細胞にちょっとだけ似ている。これを、「形態学的に、正常細胞を模倣している」と言う。

ただし、似ているだけで、実際の役には立たない。胃がん細胞は胃酸を産み出してはくれないし、肺がん細胞は酸素を血管内に受け渡してはくれないのだ。本来持つべき機能を消失しているのである。

体中に散らばっている細胞は、胃であれば胃の役割を、肺であれば肺の役割を果たすべく、手分けしている。持ち場にきちんと分かれて、職種に応じて、見事なまでに形を変えるのだ。

細胞が、果たすべき機能に応じた形をとることを、持ち場に分かれて変化する、という意味で、「分化する」という。

がんは、正しく分化ができていない。「分化異常」を持っている。

前回、増殖異常と、不死化のことを書いた。今回の分化異常で、役者がかなり揃ってきた。

増殖異常+分化異常+不死化で、ほぼ「腫瘍細胞」をあらわしたことになる。



では、「分化異常」があると、なぜ困るのか。がん細胞は、分化異常によって、どんな悪さをもたらすのか。これを語る上で、たとえ話をしようと思う。正確性をやや欠くが、イメージしやすい方を選ぶ。



分化異常があるとは、そこにいる細胞が本来の機能を来さないということだ。これを、チンピラに例える(まただ)。

八百屋さんで働く人。魚屋さんで働く人。道を整備する人。駅で働く人。それぞれの場所に、それぞれの「制服」を来た人々が収まって、きちんと働いている平和な町中に、ごくつぶしが現れる。

このごくつぶしは、その名の通り、穀を潰す。栄養ばかり奪っていくのだ。万引きはするし、店内のコンセントで勝手にスマホを充電するし、優先席のおばあさんを蹴飛ばして自分が座る。そして、何より、働かない。

本来、がんばって仕事をしなければいけない人々に迷惑をかける。町に流通する食べ物や電気は、町の善良な人々が暮らしていくには十分な量だったが、鼻つまみ者がかたっぱしからさらっていっては困る。町が弱る。がんばって流通を活性化させようにも、このチンピラはろくに働かないから、活気はどんどん落ちていく。


ここで、警察に登場してもらおう。体内における警察とは、「免疫」である。悪者がいたら倒す、それくらいのことは、この町にだってできるのだ。

警察の仕事は忙しい。この町には、時折、悪者がやってくる。「細菌」や「ウイルス」と呼ばれるモンスターが有名だ。ゴジラみたいにでかいのもいれば、ゾンビみたいにサイズは人と変わらないけど見るからに凶悪なやつもいる。「明らかに人じゃない」ので、警察も拳銃をガンガンぶっ放す。

一方、「がん細胞」だって悪い奴らだ。徒党を組んで、そのうち町を滅ぼしてしまう。チンピラだって侮れない。いずれはやくざになり、マフィアに育っていく。さあ、警察の出番である。ところが……。

「がん細胞」は、モンスターではない。人の形をしている。善良な市民と対して変わらない見た目をしている。実は裏でひどいことをやっているのだが、町を歩いているときには何食わぬ顔をしている。目も2個あるし鼻もついているし、服だって来てるし靴も履いている。

そう、「善良な市民を模倣している」のである。

だから、警察が、見逃してしまうことがある。すると、のさばる。徒党を組んで破壊行為を始めるころには警察も気づくのだが、今さら抑えきれない。

リーゼントに特攻服の「わかりやすいチンピラ」の場合は、警察もある程度見つけ出して応戦できるのだが(逆に言うと、わかりやすいチンピラのくせに生き残るやつは、腕っぷしが強く、警察にも負けないタイプだ)、おしゃれスーツのさわやか青年みたいな顔をしたサイコパスもいて、こういうのはしばしば警察の目をすり抜ける。


感染症とがんは、人間の永久の敵であると言われる。我々にとって、次々と現れるウルトラ怪獣(感染症)はもちろん脅威であるが、「人の敵は人」というのも、また事実なのだ。

続きます。

2016年12月21日水曜日

妄想派は舞台ではなく役者をいじる

医療現場で研修医などに「先生、逃げ恥みました?」などと尋ねられると、妙に気恥ずかしい。

仕事場で、なごむ話すんのかよ、しちゃうのかよと、半ば気色ばむ。

そして、それの何が悪いのか、と、脳内の穏健派が肩をそっとおさえる。

すると、たとえ自分同士だからってそうやってすぐ体に触んなよ、距離感考えろよ、と、脳内の繊細派がきつい目でにらむ。

直ちに、そうやって何でもかんでも杓子定規に自分のATフィールドを守ることばかり前面に押し出してたら柔軟な情報交流なんかできたもんじゃねぇんだよ、と、脳内の調整役がたしなめる。

そこで、理屈じゃなくて感情でいやだって言ってる人を理詰めで責めるのはかえって反発を招くんだよ、と、脳内の元いじめられっこが目を伏せる。

なぜか、あの女性研修医は日に日にメイクがうまくなってるんだけどきっと彼氏できたんだろうね、と、脳内の軽薄キャラが関係ない話でうまく話題がそれないかと気をもんでいる。

すかさず、そうやって仕事相手が女性だとなった途端にメイクがどうとか彼氏がどうとか考えちゃうの完全にセクハラ思考なんだけどお前落ちるところまで落ちたよな、と、脳内のポリコレ推進部隊が槍で攻めてくる。

横から、外部に発信するセクハラは容認されないが内心思った感じたまで支配することなんて絶対にできないしするべきではないしそれは人間の感情に対する越権行為とも言える愚行だと、脳内の哲学半可通が真っ向勝負を挑む。

かたすみで、いちいち言葉尻とらえて問題だ問題じゃないとせせこましく言葉狩りする人間って知性がないんだよな、と、脳内の悟り世代がため息をつく。

それを、いつもまとめきれないのはこちらの不手際でして誠に恐縮です、と、脳内の座長がまとめにかかる。



「おっ、うまいこと、『恐縮です』で終わらせたね、逃げ恥につながったからこれでブログに書けるよ」と言う声がする。軽薄キャラの声であり、穏健派がお前なかなかやるじゃないかという顔をしている。元いじめられっ子は穏健派に対してなぜか冷たい目線を向けるが、下を向いて黙る。

2016年12月20日火曜日

病理の話(30) / がんの話(2)

「1.がんは、増える。」の話。



そもそも、たった1個の受精卵から、倍々ゲームで増えた細胞は、そのまま倍々で増え続けたら、単なる「カタマリ」になるはずだ。

でも、人間は、フロストギズモみたいなカタマリではない。手足があり、指があり、指の股がある。眼窩はくぼんで、そこにぴったりはまる眼球がある。激しい凹凸が、すごく細かく調節されている、ということだ。

すごいよね、目なんて、たぶん直径があと2mmも大きければ、眼窩の中でパンパンになっちゃって、うまく回れないだろう。日本の職人もびっくりのミリオーダー。


以上の構造の複雑さ・精密さは、細胞の増え方が、何かによって細かくコントロールされているということを意味する。

ここは増えて良い、ここは増えてはだめだと、シグナルが入るのだ。

たとえば、子供が大人になる成長の過程で、ある場所では細胞がすごく増えるし、ある場所では細胞があまり増えない。骨のはじっこには骨端線というのがある。あそこを中心にして、ぐんぐんと増える。だから、骨端線のある場所、すなわち骨の両端だけが、激しく伸びる。太さのほうは、新陳代謝とともに、じわじわ増していくにすぎない。

増殖スピードが、コントロールされている。

たとえば、皮膚。人間の体の中でもっとも薄いのはまぶたの皮膚だと言われている。「面の皮の厚いやつ」であっても、まぶたは薄い。一方、足の裏の皮はとても厚い。大人のかかとだと、小型の画鋲を刺しても血が出ないこともあるかもしれない(けど痛いから試さない)。

これ、うっかり、逆になったらどうなるだろう。足の裏の皮がまぶたみたいにペラッペラになり、まぶたがゴツンと厚くなる。

大変だ。歩く度に足の皮が破れるだろうし、まばたきの度に目に圧力がかかってしょうがないだろう。

これは、増殖スピードというよりも、新陳代謝のタイミングで調節されている。皮膚の細胞が下の方からせり上がってくる際、どれほど上に積もってから剥がれ落ちるかが、部位によって異なるわけだ。

メイクのCMなどで「お肌の角質」というだろう。あの、角質層が、いつどれほど剥がれ落ちるかをコントロールすることで、皮膚は厚さを保つ。


人体にある全ての細胞は、増殖と死が半ば「プログラム」されている。

そして、この「プログラム」が乱れると、「腫瘍」となる。乱れとはすなわち、

 ・異常なスピードでの増殖

と、

 ・不死化

である。


異常増殖が起こると、その場所での細胞数が異常に多くなる。従って、カタマリを作る原因となる。

ただ、細胞死がきちんとプログラムされていれば、ある程度のカタマリを作ろうとも、結局剥がれて落ちていくので、さほど問題にはならないのだ。過形成と呼ばれる状態では、細胞死プログラムはきちんとワークしている。

すなわち、腫瘍化する最大のポイントとは、「不死化」にある。細胞が死ななくなることは、かなり問題なのである。増えた細胞がいつまでもそこにあり続ける。カタマリを作るスピードが増してしまう。本来、そこにあるべきではない量の細胞が、満ちる。いろいろと不都合が出る。体内の免疫警察も出動することになる・・・・・・。



異常増殖と細胞の不死化。これが、腫瘍への大切なステップであるが、これだけでは「がん」を語ったことにはならない。

続きます。

2016年12月19日月曜日

ブログを喫茶店で更新するのは素人

半可通はウイスキーをストレートで飲みたがる、みたいな話がある。

本当のスコッチスノッブは、「トゥワイスアップ」と言って、ウイスキーと等量の水を加える(氷は加えない)ことで香りを引き立たせて飲むのだ、とかいう話を読んだことがある。

やってみたけど薄かった。



芋焼酎をロックで飲むな、もったいない、という意見に対して、蔵元が「うちの焼酎は牛乳で割るとおいしいよ」と言った、みたいな、創作実話っぽいツイートもみた。

やってみたけどこれでいいのかと不安になった。



中途半端な知識で一流を気取る背伸び紳士をバカにする気風、みたいなのがある。ぼくも、たまにやっている。シンの一流を目指せ。シンの紳士を目指せ。




先日、帯広で講演をした日、昼飯を食っても、駅から会場に向かうにはまだ1時間ほど早かった。手ごろな喫茶店に入ってコーヒーを飲むことにした。コーヒーには、陶器の小さなカップに入ったミルクが添えられていた。

そういえば、もう20年来、ぼくは「コーヒーはブラック以外認めない党」の党員だったな、と、ふと気になった。

ミルクを入れてみた。スプーンで混ぜてみた。

「にがり」みたいな味が、少し増した気がした。

ああ、ふつうにブラックで飲めばよかった。




スマホの電子書籍で「木曜日のフルット」を読んでいたら、ネコのフルットがカラスのマリアにバカにされていた。

「ひとの意見にコロコロ
左右されないで
自分の価値観持ちなさい
よ」

ぼくはわりとガチでシューンとなったのだ。

2016年12月16日金曜日

病理の話(29) / がんの話(1)

病理診断の主戦場は、がん。がんの診断である。だから、病理の話をしようとか、病理診断医のことを書こうとか、病理診断科で何が起こっているかを語ろうと思ったら、自然と、がんの話をすることになる。

今日から、「病理の話」では、しばらく、がんの話を続けることにする。十重二十重に、話す。



長くなるかもしれないから細切れにして書く。




「がん」は、なぜ、人の興味をひくのか。それは、人が死ぬからだと思う。

「がん」は、なぜ人を殺すのか。これに答えられる人は、実は少ない。医療者であってもまともに説明しようとすると骨が折れる。

テレビはなぜ映るのかわからないままでも楽しめる、というのと似ているかもしれない。

がんがなぜ人を殺すのかわからないままでも、怖い。


1.がんは、増える。

がんは、増える。元々そこにあるべきではない細胞が増えれば、それだけ栄養が必要となる。おまけに、がん細胞は、普通の細胞に比べて、燃費が悪い。めちゃくちゃに栄養を奪う。

だから、がんが増えていくと、人はやせ細る。「悪液質(カヘキシー)」と呼ばれる、独特の痩せ方をして、消耗して、死んでいく。

がんは、増えることで、人を殺す。


2.がんは、できそこないだ。

がんは、できそこないだ。例えば「胃がん」は、胃の細胞にちょっとだけ似ている。「肺がん」は、肺の細胞にちょっとだけ似ている。似ているけれど、役立たずだ。胃がんは胃酸をほどよく産み出してはくれないし、肺がんは酸素をほどよく血管内に受け渡してはくれない。

その場で正しく働いている、胃や肺の細胞と、似てはいるけれど、うまく働かない。そんな細胞が増えても、役には立たない。

がんは、何の役にも立たない穀潰であり、増えることで、人を殺す。


3.がんは、しみ込んで破壊する。

がんは、しみ込んで破壊する。がん細胞は、最初に出現した場所で増え続けるだけではなく、周りの正常の構造をどんどん壊したり、あるいはスキマにしみ込んでいく。肝臓にできれば、肝臓の中にあるパイプのような構造をつぶしてしまうし、膵臓にできれば、膵臓自体をぶちこわしてしまう。すると、肝臓や膵臓の機能が落ちる。

がんは、何の役にも立たない穀潰しであり、正常に働いている臓器を壊してしまうこともあり、増えることで、人を殺す。

4.がんは、がちがちに硬くなる。

がんは、がちがちに硬くなる。がんごとに「個人差」はあるのだが、がんは増えたりしみ込んだりする過程で、「がん細胞自身が安心して暮らすための足場」を作る。これが硬い。

大腸にがんができると、大腸のカベにカタマリができるが、これが硬い。硬くて、ごつごつしていて、ひきつれる。硬いカタマリができて引きつれると、大腸の穴がふさがってしまう。大腸がまともに食べ物を通せなくなる。

がんは、何の役にも立たない穀潰しであり、正常に働いている臓器を壊したり、ごつごつガチガチひきつれてぐしゃぐしゃにしながら、増えることで、人を殺す。

5.がんは、転移する。

がんは、転移する。一つの場所でだけ増えているわけではない。さまざまな手段で全身のいろいろな場所に移り住んで子孫を増やす。

これにより、「役立たずが増えるスピード」が何倍にもなるし、「しみ込んで破壊する場所」も「がちがち硬くなる場所」も何倍にもなる。今まで書いてきた、1から4までが、数十倍とか数百倍に増幅される。

そして、治療も難しくなる。至る所で同時に蜂起したテロリストを、限られた人数しかいない警察が鎮圧できるだろうか。

がんは、何の役にも立たない穀潰しであり、正常に働いている臓器を壊し、ごつごつ、ガチガチ、ひきつれなどを作りながら、全身の至るところで増えることで、人を殺す。




むかついてくるだろう。がんは、敵だ。

敵を知り、己を知るために、がんの話をはじめる。戦う・戦わないは、知ってから決めればよいことだ。

2016年12月15日木曜日

GIRA GIRA HIKARU

世代ごと、人ごとに、自分の何かを彩ってきた音楽というのがあるだろうな、とは思う。

何か、アタマがごしゃごしゃとなっていた時期に聞いていた音楽は、記憶に残る。
とてもいい思い出や、いやな思い出といっしょに、ある曲が忘れられなくなる。
記憶と歌詞がセットになっている。
リズムで風景が呼び起こされる。

音楽と記憶がリンクしている、っていうとかっこいいけど、いじわるに言うならば、曲が鳴ると黒歴史! 黒歴史! と吠え出す、パブロフの犬、みたいなものだ。


話は変わる。

かれこれもう15年くらい、ぼくと同姓同名の人間がブログをやっている。すごいポエムを載せている。研究会などで出会ったあまり面識のない人に、

「先生すごいよね、ツイッターのほかに、ブログもやってて」

とか言われることがある。前はブログはやってなかったので、「人違いです」と言えたのだが、今はこのブログをやっているので、ややこしくなった。念のため、尋ねる。

「それはあれですか? 脳がトラベルほうですか?」

たいてい、こうだ。

「いや、なんか死がどうとか書いてるほう。」

それはぼくではない方の市原君です。お間違えのないように。

正直、迷惑であった。ポエムを書いてないのに、ポエマーだと思われるのはつらいな……。



でも、まあ、最近思うことがある。人間、誰しも、自分ポエムを詠むよなあ、ということ。人は誰もが、音楽がからむと、すぐポエむ。

(ポエ-む:【動詞】詩を読んでドヤる。例「あいつまたーーってやがる」)

私ポエマーじゃないよとか、俺そんな痛い人間じゃねぇよとか、そういう「アンチポエム型」の人間に限って、べろべろに酔っ払った深夜2時過ぎにテレビから聞こえてくる昔のランキングに、「おわー懐かし!」みたいに大声で反応して、涙目になっていたりする。

そりゃ、ある種の、ポエムじゃねぇか。

言語を使わないでポエマーやってるだけじゃねぇか。

音楽が記憶を呼び覚ます、みたいな奴だろ? ポエムじゃん! 自分、ポエマーじゃん!

ずるいよなーと思う。ポエムのこと、バカにしといてさ。音楽がかかったら、感傷的になってさ、歌詞とか口ずさんでんじゃん。歌詞って詩じゃん。

ぼく「……果てしない闇の向こうに?」

元バスケ部の営業「ウォーウォー手を伸ばそう!」

ぼく「……どぶねずみみたいに?」

コテハン歴22年コアゲーマー「美しくなりたい!」

ぼく「……走る走る?」

ナンパの達人スタイリスト「俺たち!」

ぼく「ポエマーじゃねぇか」

3人「いいえちがいます。」



築地の国立がんセンターで、病理医になるための任意研修をしていたころ、毎日がぎちぎちに充実していて、ありがたいやら、つらいやら、もうズタボロだったときに、ある曲を聴いていた。

「モータウン」という曲で、ナンバーガールというバンドの曲である。ぼくは、この曲がかかると、つい、普段はバカにしている「ポエマー」になってしまう。せっかくなので、皆さんにも、「モータウン」の歌詞をご紹介しようかなあと思う。JASRACに怒られない程度に。



















※「モータウン」はインストゥルメンタルです。

2016年12月14日水曜日

病理の話(28)

一般に、「雑用」と呼ばれる仕事をしている時間、さまざまなことを考えている。

「雑用」だから、あまりアタマを使っていないのだろうな。余計なこと、つまらないこと、やりかけていたこと、ずっと考えていることなどが、ふわふわと浮かんでは消えていく。

あまりにぼーっといろんなことを考えていると、雑用とはいえミスの元になるわけで、集中力の足りない自分はいつも、ヒヤリハットに気を付けようと背筋を正すんだけど、それはそれとして、この「雑用時の雑思念」が、長い目でみるとぼくの仕事生活を支えているようにも思う。


先日診断したあの胃生検でみつけた、ちょっと珍しいあの所見、最初気づかなかったけど、そろそろ教科書を読み直して「目合わせ」をしないとな……距離の中にある鼓動って歌詞がツイッターで評判いいと思ったらドラマでもテロップ出してやがった、やっぱりスタッフもネットをちゃんと見てるんだ……4か月後の出張は関西だけど早めに飛行機をとらなきゃいけないから、早割が発売になる日にちゃんと予約できるように、机の横にふせんを置かなきゃ……一昨年の標本交見会で講演してた東京のあの先生の資料に、こないだの腎臓の病変について書いてあったんじゃなかったっけ……こないだ思い付いた、アルミ缶の上にあるミカンみたいなギャグ、なんだっけな……先日コンサルトされた症例、そういえば数年前に新潟でみた症例と似てるかもしれない、これが終わったら検索してみよう……レジナビの相談だけじゃなくて、来年の院内勉強会に予算を出してもらう交渉をするんだった忘れてた、総務課に行かないと……。


***


病理医が、顕微鏡に特化した部門だと思っている人は多く存在するようだ。

「病理医の仕事って、一日中顕微鏡を覗いてなきゃいけないんですよね、大変じゃないですか?」

こう聞かれたら、ぼくは、こう答える。

病理医にとっての顕微鏡は、野球選手にとってのバットです。

攻撃時、出番が回ってきたら、極限まで集中して、投手の投げ込む球筋を読む、あるいは読まずとも勘で反応する、バットを振る。振らないと何も始まらないし、絶対に勝てません。

ところで、野球のおもしろいところは、攻撃と防御が交互にくるところです。バットを握らない時間というのがかなりある。守備ってのは、相手あっての行動ですし、自分が次にどう動けばいいかは予測しきれない。しかし、立派にゲームを引き締めようと思ったら、広い視野と運動量、とっさの判断の良さ、あるいは連係プレー、そして地肩の強さや脚の早さも駆使して守り切らないといけません。

病理医にとっての顕微鏡は、野球選手にとってのバットです。がっちり集中しなければいけない。没入する必要がある。だから、顕微鏡を覗いている病理医を知らない人がみると、なんというか、鬼気迫ったような感じに思えるそうです。

でも、病理医は、バットを握っていない時間も結構あるんです。様々なオーダーに対応し、様々な機器を駆使して、戦略を張り巡らせながら、いろんなポジションを守る時間がある。

論文を読んだり教科書を読んだりして自分の実力を付ける。問い合わせに答えたり、画像と病理の関係を繋げたり、病院間の連絡調整の懸け橋になったり、あるいは基礎と臨床の懸け橋になったりもする。

「守備」を、「雑用」だと言ってしまうと、途端に野球は、楽しくなくなるでしょう?

病理も、顕微鏡だけの世界だと思っていると、たぶんつまんないと……思うんですよ……思い出した、「イヨカン、いい予感」だ……ブログ書こう……。

2016年12月13日火曜日

ヤマムラをなぐらせろ

「スーパーマリオメーカー 3DS」というソフトを買った。あのマリオが飛んだり跳ねたりする「コース」を、自分で作ることができる。

WiiU版のやつをちょっとだけ見たことがあったんだけど、なかなか自分ちでテレビに向かってゲームする時間をとることはないな、と思い、結局は買わずに終わっていた。でも、3DS版なら気軽にできるかなと思った。

これが、当たりだった。まだはじめたばかりだけど、おもしろい。

マリオのコースなんて、素人が作ったって、奇をてらってスターがいっぱいあるだけの面とか、ファイアバーが多すぎて神タイミングじゃないと通り抜けられない面とか、なんかすごい飛び回ってるうちにへんなところに隠し扉がある面とか、その程度の発想力しかわかないだろうし、自分でうまく作れるわけがないと思っていたけど。

チュートリアルがあるのだ。むかつくハト(見ればわかります)が、なんかうまいこといろいろ教えてくれる。

この、チュートリアルが、長いけれど、とてもいい。

マリオの面を作って自分で遊ぶだけのゲームだと思ってはいたけれど、ハトのヤロウはしきりに、

「自分の作った面を見た人が、おもしろい、遊びたいと思ってくれるようなコースを作ろう。説明しないとわからないような自己満足なコースではだめです」

「ギミックは多ければいいというものではない。敵と障害物はただいっぱい置けばいいわけではない。バランスを考えよう。相性がある」

みたいなことをいうのだ。企画とか営業の達人みたいな空気をかもしている。ハトのくせに。

いちいち適切で、ぼくはコースを作るよりまず先に、このチュートリアルにはまってしまった。



はるか昔の「マリオペイント」を知ってる人は、そこかしこに潜むマリオペイントらしさに気づいてクスッとするだろう。

うまくマリオの面が作れると、たぶん人に見せたりやらせたりする楽しみも出てくるだろう。

バージョンが更新されると、ネットに自作の面を載せたり、逆にネットからおもしろそうな面をダウンロードすることもできるという。

ま、これらの「マリオメーカーのおもしろさ」については、ぶっちゃけ、買わなくてもわかっては、いた。



しかし、ぼくはチュートリアルにおもしろさを見つけたのだ。任天堂が今まで出してきた、あのマリオもこのマリオも、ぜんぶ、「ユーザーがどうやって楽しむかな、どこで苦しんで、どこで快感をおぼえるかな」というのを研究して、計算して、作ったり消したりを繰り返した末に生まれてきた、(当たり前だけど)作り手がいる、作品だったわけだ。でも、作り手のことにまで思いを馳せるような想像力は、あのころマリオばかりやっていたぼくには、なかった。「なんかすごい会社がなんかおもしろいものを作ったからやるぞ」というだけだった。

子供の頃もそうだが、なんなら、中年になった今も、「マリオは任天堂の傑作」とは知っていたけれど、「こっちの遊ぶ顔を想像しながら、いろいろと作戦を練ってコースを作り上げた達人がいたのだ」ということ、作り手の顔を想像することまでは、至っていなかったのだと思う。

けれど、マリオメーカーでチュートリアルを始めたら、そういった想像がいっきに大脳に流れ込んできた。ぼくは、マリオメーカーのチュートリアルの中に、30年もの間マリオの面を作り続けてきた人たちからの「こっちこいよ」という笑顔を感じてしまい、それはなんというか、大人になったぼくが、子供のときの恩を返すだけじゃなくて、まだ子供でいていいし、大人として遊ぶこともできるんだよ、と言われたようで、とてもうれしいのだった。


ミニファミコンはちょっとおいといて3DSばかりやっています。

2016年12月12日月曜日

病理の話(27)

病院内にも、会議が多い。会議の中には、収支、会計、営業報告のような一般企業にありそうなものもあるが、一般に「カンファレンス」と呼ばれる、医療現場独特のものもある。

カンファレンスがなくとも、医療は回るけれど、カンファレンスがあったほうが、医療はよりよく回る……と思う。

しかし、まあ、カンファレンスだって、広義の会議である。くそくだらない会議を嘆くサラリーマンがいるのと同様に、つまらないカンファレンスを嫌う医療者だっている。



カンファレンスとは何をする場なのかというと、科とか職種ごとのコミュニケーションをとる場だ。いまどきの医療は、一人の裁量でどうにかできるレベルを超えている。特に、がん診療はとてつもない量の人間を巻き込む。キャンサー(癌の)ボード(会議)という、がん専門のカンファレンスが定期的に開催されている病院も多い。


胃癌を内視鏡で発見したのが消化器内科、それを手術で切るのは消化器外科、と言うように、医療というのはけっこうな確率で「科をまたぐ」。内科と外科のドクターの間で、意思の疎通がとれていないといけない。内科が手術に必要な検査を済ませているか? 外科医が知りたい情報はすでに検索されているか? これから追加しなければいけない検査はあるか?

手術お願いしますよ、はいはいわかりました、と、「廊下での立ち話」で済ませていた時代もあるとは伝え聞く。けれど、現代医学では、口先でちょろっと伝達する程度で、手術のような高度な生体侵襲作業に突入できるわけがない。

内科の発見した癌というのはどれくらい悪い癌なのか? どれくらい進行していると「読んで」いるのか? リンパ節転移の可能性は、どれくらいありえるだろうか?

内科と外科だけではない。麻酔科とも相談が必要だ。どのように麻酔をかけるべきか? 患者さんに麻酔のリスクがあるかどうか? 循環器内科に心臓のことを確認しておかなければいけない。不整脈などの病気はないか? 血液をさらさらにする薬を飲んでいるけれど、手術で切った時に血が止まりづらくなることはないか? ほかにも持病があるならば、それぞれの科のドクターと連絡調整を行わないといけない。

時に、放射線科も参戦する。放射線科医の「読み」では、癌はどれくらい広がっていると考えられるのか? 内科の医師は、それをどう考えているのか? 外科医はどの範囲を切除すれば癌を採り切れると考えているのか? その範囲を切った後、どういう副作用が想定されるのか?


そこに入っていく、病理医がいる。

ここまで、いかにもかっこよさそうな展開で書こうと思っていたのだが、今日はここから先、けっこう、残念な話になっていく。

このブログでは、何度も偉そうに書いてきたけれど、病理診断報告書は、臨床医がきちんと読み解けるように書くのが基本なのである。だから、報告書さえあれば、診断を書いた病理医本人がカンファレンスに出席せずとも、要点は伝わっているのだ。

それでもあえて病理医がカンファレンスに顔を出すことに、どれだけメリットがあるのだろう。

あえて、あえて、書くけれど、中途半端な知識で「俺は臨床にも詳しいんだぜ」と半可通を気取る病理医がカンファレンスに出ると、現場のドクター達は困惑し、失笑するものなのである。

「いや、勉強したとか、昔やっていたとか、俺は診断はプロだからとか、その程度の自負でね、最新の診療に口出しをされましてもですね。テンションが違うというか、レベル的にもやもやすると言うか……。ご自身のお仕事さえしっかりしていただければいいんで、あまり横から出てこないで下さいよ」

こういう声も、実際に聞く。創作実話ではなく、本当に聞こえてくるから悲しいものだ。知人医師に聞くとこんなことを言った。

「病理医でへたに臨床かじってる人? うーん、ドラクエでさ、僧侶がさ、いちおう、敵を殴るじゃん。戦士ほどじゃないけど。で、たまにそれで、メタルスライムとか倒すじゃん。ああいう感じ。俺、物理もいけるよ、みたいな。なんかそういうイメージ」

決していいイメージではない。


もちろん、上記のイメージというのは、病理に限った話ではない。カンファレンスが頻繁になった現代医療において、科のカベを越えて「相手の専門領域に口を出す場面」というのが増えてきたからこそ顕在化してきた、「軋轢のかたち」なのだ。カンファレンスで、各科の意見をぶつけ合うといえば聞こえはいいが、実際にやっているのが

「俺の方が専門のてめぇよりも読めてるから。わかってるから」

みたいな、自己顕示のぶつけ合いであっては、誰のためにカンファレンスをやっているのか、わかったものではない。



ぼくはどちらかというと、悲観的な人間である。自分がでしゃばるのはたぶん好きだ。しかし、少しのタイムラグの後に、「余計なことをしてしまったのではないか」「相手は苦笑していたのではないか」ということを気にする。ぼくがカンファレンスに出てやってきたことは、

「自分、めっちゃ臨床のこと、勉強してるでしょう? 病 理 医 な の に ! 」

という、反骨精神だったり、歪んだ承認欲求だったりはしなかったろうか。そういうことを考えてしまう。



たぶん、ぼくは若さを失ったのだ。きれいに中年に突入しているから、こういうことが気になるようになった。それは年齢とか経験年数というものとは少し違う、精神的な摩耗によるものなのかもしれない。

「カンファレンスのお荷物とか目の上のたんこぶではなく、実際に病理医がカンファレンスにいて、周りがみんな助かると感じ、患者のためにもなるような、病理医の出方、あり方、仕事の仕方とは何だろうか」

これを、ずっと考えている。次回、書けたらよいなあと思うのだが、次回までにまとまらないかもしれない。


このブログ、ある程度計算して、最初からこれとこれとこれを書こうと決めて始めたのだが、30話くらいにこれを書こうと思っていた話題が、「病理医がカンファレンスで役に立つとはどういうことか」であり、正直、うまく書けるかどうか、まだわからないでいる。

「フラジャイル」で言えば、「岸先生のやり方」も、「高柴先生のやり方」も、一つの回答なのだと思うが、さて、ぼくが自分のコトバでここに書くとしたら、自分が普段やっていることをどのように記載できるのだろうか。


続きます。たぶん。

2016年12月9日金曜日

タモリ倶楽部読書特集回のゲストにあこがれた男

仕事が忙しい時ほど、わりと本も読んでいる。理由はたぶん、「移動時間が長くなるから」だろう。

出張が続くと、機上の人でいる時間が増える。札幌からの空路移動はどこも1時間以上かかるから、1時間は読んでいられる本を探しておく。

1時間ちょっとで読み終わる、あるいは1時間で閉じてまた数日後に開いても違和感なく読み進められる本であればベターである。


だからだろうか、一時期、「長編」から少し遠ざかり、ブログを本にまとめたような書籍をよく読んだ。ツイッタランドの中にはバケモノがいっぱいいるから、「よく読んだ」なんて書いてしまうと怒られるんだけど、札幌市中央区北3条東8丁目5番地周辺に住んでいる人の中ではおそらく一番読んでいるはずだ(これでも怒られるかも)。

で、ま、記憶に残った本は、数冊くらいかな。あとはほとんど読み捨てだった。それでもいい。そういう時間つぶしを求めているのだから。




みんな、「自分の一生を動かしてくれるような、新しい人生に突入するかのような体験」を語りたがっている。

ぼくだって、語りたい。

「この世界の片隅に」は絶対に見た方がいいらしいから、いずれ絶対見ようと思う。

「私は咳をこう診てきた」を読んだのはぼくにとってとてもいいことだった。

「ニーア・レプリカント」の記憶は一生消えないだろうなあ。


でも、最近のぼくは、自分がどういう人間かというのをとことん突き詰めて考えたところ、ある暫定的な結論を得ている。

瞬間的に通り過ぎてしまう文芸を積み重ねたところに、ぼくが立っている、ということ。

ぼくは、「何か偉大な一つのものに変えられて今こうしている」のではなく、「もう思い出せないほど無数の出来事と、無数の作品によって、細かく少しずつ脳にパンチをくらって、酔いながら今こうしている」のではないか、ということ。



どっぷりと濃厚な体験というものを、できればいいなと、いつかしたいなと、そういうことを言いながら、事実、いろいろなところでぼくは、そういう話をしてきたのだけれど、結局何年経ってもこの先、ぼくを作っていくのは「結果的に覚えていられない、短文の数々」なのではないかと、少し悲しい思いで、しかし確信に近い光景の中に、立っている。

2016年12月8日木曜日

病理の話(26)

細胞、器官、臓器などが「あるカタチ」をしていることには、おそらく意味がある。

適者生存の論理というやつだ。長い長い生命の歴史の中で、一番いいカタチをしていたものが、結果的に今こうして残っている、と考える。

耳のカタチがなにやら複雑な形状なのも、鼻の穴が左右に分かれているのも、おそらくは、確率的に生き延びる率が高かったカタチだからだ。そう考える。

で、まあ、臓器とか指とか目とか、そういう大きなものだけじゃなくて、ミクロの世界にも、歴史によって選択されたカタチというのが存在する。

たとえば、胃粘膜は、場所によって微妙にカタチが異なるのだが、すごーくざっくりと説明すると、胃の出口側(十二指腸に近い方)では、粘膜はアコーディオンのような形状を示す。ただし、目に見えるアコーディオンではない。顕微鏡で見て初めてわかるくらいの、ミクロ・アコーディオン・ギザギザ。

これに対し、十二指腸に近い部分以外の、大部分の胃粘膜は、もっとつやつやとしていて、アコーディオン・ギザギザではない。

胃って、中に食べ物を一定期間閉じ込めておかなきゃいけない臓器なのだ。胃酸で食べ物をぶちこわすには、ある程度の時間が必要だからね。

その間、食べ物に対して胃酸や粘液をべっしゃべしゃぶっかけ続けるのが、胃の大事な役割である。

そして、破壊が終わると、食べ物をまとめて「十二指腸の方に送り出す」必要がある。

この、送り出すという動作のときには、粘膜がすごく伸び縮みする。だから、十二指腸に近い部分においては、粘膜がアコーディオンのようにギザギザになるんだ。


はじめてこの話を聞いたとき、うおっなるほど、すげぇ、となった。でも、この話を教えてくれたのは、病理医ではなくて、内視鏡医だったのだ。

内視鏡医、すなわち、胃カメラをやる消化器内科のお医者さんである。別に、顕微鏡を使いこなすわけではないし、病理組織像にすごく詳しいわけでもない。

けど、彼は、胃の診断が好きで好きで、「どうしてこうなっているんだろう」というのを毎日考えていて、ありとあらゆるアプローチで胃の正体を解き明かしたくて、とうとう、「胃・幽門部(十二指腸に近い部分)の粘膜がなぜギザギザうねっているのか」を考え出してしまった。


形態学というのは、病理医の専売特許ではない。「なぜだろう、どうしてこういうカタチをしているんだろう」と疑問に思うことは、顕微鏡ハカセだけの特権ではないのだ。


***


来年の病理学会のワークショップのテーマに、「内視鏡所見との対比から考える消化管病理診断」というのがある。このワークショップを取り仕切るのが、上で触れた「アコーディオン・ギザギザの理由を推測した先生」である。彼とはときどき一緒に仕事をするのだが、病理医と内視鏡医、それぞれが違う視点で一つの臓器、一つの病気に迫っていくと、常に新たな発見があるなあと、いつもワクワクさせてくれる、そんな人である。

2016年12月7日水曜日

観察医

「病理」「病理医」でツイート検索、というのを続けている。もう5年になる。毎日という程ではないが、数日に1度はチェックするようにしている。

そこで、わかったこと。

ドラマ「フラジャイル」が放送されてから、病理や病理医について語る人の数が、如実に増えた。

「推しキャラを病理医にした二次創作モノを嬉々として語る女性」。

何を書いているのかさっぱりわからない人もいるだろうが、いい。こんな日がくるとは思わなかった。

「病理医」が、まるで外科医や物理学者のように、観念的な、ある種のイメージを伴う、必ずしも現実とは一致しないかもしれないが、しかしアヤシイ魅力を持つコトバとなって、人口に膾炙していく様子を、ぼくはこの5年間、観察し続けてきたのである。

ときに、医学生なのだろう、こんなツイートわ見る日もある。

「病理実習めんどくせ、絶対病理医にはならね」

はじめてこのツイートを見たときのぼくの感想はこうだ。

「び、病理医が、選択肢に登場してる! 忘れ去られてないんだ!」



ぼくは、自分の家族や友人に、自分の職業を説明するのがとても楽になった。

長瀬くんのやつだよ。

これでいい。リアクションはこうだ。

「似ても似つかねえwww」

このやりとりができること、なんて幸せなんだろう。

2016年12月6日火曜日

病理の話(25)

「病理診断報告書の書き方」について、ぼくのやり方を述べる。特に、「診断がやや難しかった時」の書き方を記す。

まず。

臨床医が一番最初に目にする一行目に、結論を書く。

「本病変は、○○癌です。○○に転移があります。やや特殊な組織像であり診断に難渋する部分がありましたが、後述する根拠によって○○癌と診断します。」

次に、二行目から、いわゆる規約事項と呼ばれる、臓器毎に決まった「書かなくてはならない、書くことが推奨される事項」を箇条書きにする。

「以下に規約事項を記載します。
・サイズ
・形状
・WHO、UICC、日本の取扱い規約などが定める分類方法など
・病変が採り切れているかどうか
・ステージング、と呼ばれる総合評価」

そして、規約事項の箇条書きの「あとに」、詳細な組織解説文を書く。

「本病変の詳細な病理像です。肉眼的に……。組織学的に……。典型と異なり……。免疫組織化学染色による検討では……。従って、○○、□□を根拠とし、△△を参考所見と捉え、前述の如く診断しました。」



とにかく結論が知りたい人は、一行目を読んで満足する。

とにかく規約事項(おきまりの分類・記載項目)が知りたければ、二行目から十二行目くらいまでを読んで満足する。

ほんとうに病理にまで興味があれば、あるいは、この病気がまれだとか特殊であるという理由を知りたければ、最後まで読み、満足する。



以上の、どの段階で満足するかは、レポートを読む人の職種やポリシーによって様々である。だから、段階的に書く。いつでも同じ場所(理想的には、同じレイアウト)に、だいたい同じ「レベル」の内容を書くようにする。

なお、「病理医だけが知っていればいい、専門的でマニアックな知識」についても、最後の方になるべく記載するようにする。ぼくらが思う以上に、最近の臨床家たちは、病理のやり方を知ろうとしている。ブラックボックスを開けようとしている。だから、病理医の方で勝手に「知らなくていいよ」と判断しないことも大切だと思う。

なお、病理のマニアックな知識をきちんと書いておくと、数年経ってからふと思い出して、「あのマニアックな所見、意味があるな、よし、調べよう」となったときにも、検索システムで容易に探し出すことができる。

専門的でわかる人にしかわからないことを書くと、

「規約事項は、規約の改訂により古くなる。しかし、病理医のマニアックな目線がもたらしたオタクな所見は、何十年経っても形態学的に同じ意味を持ち続ける」




***


今回の記事も、下に進むに従って「病理医として実際に働いた人しかわからない内容」が書かれている。

こういう記事を「読みづらい」と考える人も、確かにいるようなので、まだまだ研鑽が必要だなあとは思うが、今のところ、ぼくはこの「グラデーション・メソッド」で診断書を書くようにしている。

2016年12月5日月曜日

二刀流のゆくえ

学生時代から、自分は図抜けて頭がいいと思っていたし、頭脳を最大限に活用できる場で全力で燃えさかってやろうと、全方位に向けて、ビームのようなものを激しく打っていた。

ぼくは、「患者を救いたいから医者になろう」と思った記憶はない。このことについては、何度も何度も考えて、自分の心づもりを確認してきたから、たぶん本当のことだ。

大学に入る前、入った後、大学院に進んでからも、それから病理医になってからも、ずっと記憶を更新してきたけれど、およそ1度も「患者を救う」ということがモチベーションの主軸であったことはない。

無論、モチベーションの「補佐」をしていた、とは思う。いくらなんでも自分が、「患者を救う」という美しすぎる言葉に、何も感じなかったとは思えない。

でも、あくまで、補佐だ。自分のやることが結果的に患者や多くの人間の役に立つならば、それはそれでけっこうなことですね、存分に使ってください、ただしぼくは自分と科学のために自分の脳を使いますから。患者のためではないです。科学のためです。

その程度だったと思う。




そしてぼくは、研究者になろうと思った。学生時代に試験勉強をしたり、USMLE(米国医師国家試験)の勉強をしたり、有志でケーススタディの勉強会をやったり、英語の教科書の抄読会をやったりしながら、もちろん他の医学部生と同じように、剣道をやったり、バイトをしたり、まあほとんどの学生達が大変だ大変だと愚痴をこぼしながらも一通り学生なりの青春を謳歌していくのと同じように、「マルチタスク」という名の……実際には単なる「焦点のボケた」生活を送りながら、研究者こそが自分の生きる道なのだと、酩酊していた。

もし、真剣に自分の頭脳を使って仕事をしようと考えていたならば、もっとほかにやりかたはあったかもしれない。

いろんなタスクに浮気をするのではなく、ストイックに学問を磨いた方がよかったのかもしれない。

そもそも、そんな頭脳は持っていなかったかもしれない。

ぼくはずっと、そんな、心の声に耳をふさいでいた。ぼくはいろいろなタスクの中に埋没することで、心の間歇泉からときどき吹き出してくる、

「お前は、本当に、世の中に数人しかいないレベルの天才なのか? お前はそんなに、八方美人に、いろんな方に目を向けていていいのか? お前は、そこまで、すごいやつなのか?」

という、か細い泣き声のような自問に対して、

「いいんだ、いろいろやっているからすごいんだ、ぼくはすごいんだ」

と、大声でかき消すようなことをしていた。


研究者を目指すべく大学院に入ったぼくは、そこで、薄々感づいていた自分の限界と、毎日向き合うことになった。


研究という名の実験助手をし、頭脳労働という名の論文抄読をこなしながら、ルーチンとして降りかかってくる「病理診断というバイト」だけは、しかし、ま、向こうに患者がいるのだから、と、真摯に向き合うような顔をしつつ、実際には、「病理診断はあくまでバイト。研究こそが自分の活躍できる場所」と、お経のように何度も、何度も、何度でも唱えながら、来る日も来る日も、病理診断と実験の二足のわらじを「マルチタスクだから」と称して、相変わらずのピンぼけた生活の中で、そう、うすうすはわかっていた。


ぼくはそこまで優秀ではない、ということ。



26歳のある日、ぼくはニューヨークでメシを食っていた。向かいには、研究で留学を決め、数日後からニューヨークの研究所で働き始める予定の、元同僚である女性が座っていた。市原君はこれからどうするの、と問われて、ぼくは確かに、こう答えた。

「研究と病理診断の、二刀流でしばらくは行ってみたいと思うんですよ」

これは、ぼくなりの敗北宣言でもあり、敗北を認めない逃げの台詞でもあった。

ぼくは、この頃、自分の研究能力の限界を悟っていた。どうがんばっても、自分は天才ではなかった。何よりも、基礎研究の世界に真摯に打ち込み続けるだけの、精神的な集中力が絶望的に足りなかった。ぼくは、マルチタスクだと自分を甘やかしながら、ただ圧倒的に何かに対して没頭する力が、欠如していたのだ。

けれど、「二刀流ならば。それは、すごいことだ。得がたいことだ」と、自分の敗北を認めず、価値観をずらすことで、自尊心を保とうとしていたのではないかと思う。

向かいの女性は、すかさずぼくを袈裟斬りにした。

「二刀流なんて、ね。投げても打っても一流の選手なんて、世の中にはいないの。どちらかにしたほうがいいと思う」



***



北海道日本ハムファイターズには大谷翔平という天才がいる。まだ22歳の若者を見て、ぼくは心底恐れ入ってしまった。未だだれも成し遂げたことのない、二刀流がここにいるのだ。

そして、彼の姿を報道で見る度に、しょっちゅう、思うことがある。

ニューヨークにいたあの12年前、もし大谷翔平が二刀流で活躍していたら、ぼくは自分の研究者人生をあきらめられたのだろうか。

マディソン・スクエア・ガーデン近くのパブであの日……今まさにイバラの(しかし、色とりどりのイバラの)留学人生をはじめようとする女性研究者を前に、ぼくは、ただ日本に帰って実験の手伝いをするだけのぼくは、透明度の高すぎるスカスカの言葉で必死に自分をとり繕って、彼女の確固たる実績とウソのない気づかいを前にして、それまで築き上げてきた脆弱な心の骨組みを全て脱灰され、がらんどうになった。

ぼくは、研究者にはなれないんだなと、確信した、あの日。

もし、大谷翔平が、今のように、二刀流で活躍していたら、ぼくは必ず彼女に言ったことだろう、「病理の世界でぼくは大谷翔平を目指そうと思うんですよ」。

そこには中身も計算も何もない。ただ、自分のマルチタスク人生を肯定できる格好のサンプルを見つけて、鼻っ柱が折れるまでの時間を先延ばしにするだけの、青春の終わりを先に延ばすような、むなしい抵抗になったことだろう。

それでもぼくは、思う。

もっと抵抗していたら、今、ぼくはどこにいて、どんなPCの前に座って、何を書く人間になっていたのだろう。



日本に帰ってきてからのぼくは、「病理医なら楽勝なはずだ、医師ならできるはずだ」という無知が生んだゆがんだプライドの数々を、優しい先達によってひとつひとつ、虫を潰すように粉微塵にされていった。それは、研究者人生をあきらめた日以上に、残酷で、おだやかな光に満ちあふれた日々だった。

仕事、家庭、人格もまた崩れていき、ぼくは、じっくりと再構築を続けていった。「マルチタスク脳」を、どう使えば、人と交じって働くことができるのだろうかと。ぼくは誰のために、何のために、自分をどこに置いておけばいいのだろうかと。




今ここにこうして、顔を真っ赤にしながら、全てを思い出しているぼくは、不器用だけれど前よりは少しだけ堅実に、誠実になったであろう、ぼくである。

あの日、大谷翔平がいなかったから、敗北と向き合わざるを得なかった、ぼくである。

仕事中に、ブログを更新することすらできる、マルチタスクな、ぼくである。

二つ名モンスター狩猟クエスト

研究会の懇親会で、斜め向かいに座っていた先輩医師に、
「せんせい、ブログもやってんのお!?」
と驚かれた。

「それは、検索すればすぐ出てくるの?」
と聞かれ、いえ、ツイッターにまずはお越し頂き……と返事しようとしたら、向かいに座っていた女性医師が、

「ヤンデルで検索すりゃ出ますよ。」

と吐き捨てた。ちょっと笑ってしまった。

「市原」として参加している研究会で唐突にヤンデルって呼ばれることに、いまだに慣れないことが、少しおもしろかった。


そういえば、先日東京で参加した感染症の勉強会や、札幌でぼくらが開催した感染症の勉強会は、どちらも「病理医ヤンデル」として企画・参加したので、会場でしきりに「ヤンデル」と呼ばれたのだが、いちいち横を通る店員さんの顔が気になってしまったし、少し耳たぶの下の方が赤くなった。


昔から、「ネットで使うハンドルネームは、リアルで呼ばれても大丈夫なように、あまりはっちゃけすぎないようにする」と決めていた。けど、ハンドルネームをリアルで呼ばれる機会自体がほぼ無かった。油断していたのだろうな。病理の病をとって「ヤンデル」にしよう、と考えた時は、リアルで名乗る日が来るとは正直思わなかった。気づいたら公衆の面前でヤンデルだ。もう、しょうがない。


ときおり、ぼくはネットで、検索避けなのだろう、「某病理医」とか「某ヤ」などと記載され悪口を書かれている。さすがにいちいち検索してチェックすることはしないが、探しに行かなくてもたまに飛び込んでくるので、そっとミュートしてそっと忘れるんだけど、この間は、「某病人」と書かれていた。検索避けもここに極まれり。


おかげさまで元気です。

2016年12月2日金曜日

病理の話(24)

病理医は、訴訟に備えて保険に入る。病理専門医として診断業務に携わっている場合、最高1億円の保障を有する保険に、ほぼ必ず入る。人によっては複数の保険に入っている。

今日はいきなり金の話だ。

夢も希望もなくて誠に申し訳ない。



なお、実際に病理医が訴えられて、億単位の賠償金を請求されたケースというのは、ぼくはまだ知らない。ぼくの知人にはいない。いたら大変なことだけど。

「……いやいや、医者なんて、どの科にいてもたいてい訴訟の対象になるでしょう。あの医療ミスとかあの医療事故だってさ、病院が訴えられてたじゃないの。いくら病理のブログだからって、病理医だけ特別扱いしなくていいんじゃないの?」

と、違和感を覚える人もいるかもしれない。

けれど、あえて「病理医が抱える、訴訟のリスク」を強調するのには、わけがある。



病理医の仕事は、ほぼすべて、公的文書として残る。「病理診断書」「病理組織報告書」などと呼ばれる「レポート」こそが、病理医が仕事をした証だ。

我々は患者さんと直接話をしない。その代わりと言ってはなんだが、臨床医をはじめとする多くの医療者と会話をし、コミュニケーションをとる。ディスカッションを行い、情報をすり合わせた末に、一つの診断を書いて、臨床医に託す。

患者さんに届くのは、この、診断書の「文面」だけだ。

医療者と話し合ったニュアンス、ひそかに懸念していた可能性、自信の深さなどは、患者さんには伝わらない。



たとえば、救急現場で一刻一秒を争うときに、医療者が瞬間的にとまどい、処置が2秒遅れたとする。その2秒が、結果的に、患者さんの命を奪うことが、あるだろうか。

あるかないかと言えば、おそらく、「わからない」と思う。

その2秒が、真に患者さんの命に肉薄するものだったかどうかなんて、誰にも評価できない。だいいち、高度な専門技術を要する局面を「適切だった、適切ではなかった」と評価するなんて、素人には絶対に無理だし、なんなら、医療者でも難しい。

すなわち、医療系の訴訟というのは、基本的に、もめる。

けれど、病理診断をめぐる訴訟というのは、比較的もめにくい。文書で「癌です。」と書いていたものが実は「癌じゃなかった。」となれば、誰もが「ああ、間違いだな」とわかるからだ。

病理医がとまどい、逡巡した瞬間があったとしても。病理報告書に書いておかなければ。「迷いました」と書かなければ。そのゆらめきは、患者さんには伝わらない。



病理医は常に「10割」を出さなければいけない、ということだ。実際には、診断が難しい症例など腐るほどあるし、3割、4割に悩んで、6割くらいの診断しか出せない、出したくないことだってある。

しかし、患者さんに届くのはいつだってレポート1枚だ。



この、レポートをめぐる「考え方」というのは、病理医によって少しずつ異なる。

大別すると、「断定的な、簡潔な書き方を好む病理医」と、「様々な可能性に言及する、あいまいな書き方を好む病理医」に分かれる。

レポートの書き方については、ぼく自身にもあるポリシーがある。自分が抱える訴訟のリスクが頭にちらつく一方、結局、誰のためのレポートであるかを考えた結果、ぼくはこのように書こう、と、今のところ決めているやり方がある。

長くなるので、次回に続こう。

2016年12月1日木曜日

禁 禁 禁止 モンスト禁止

ニンテンドークラシックミニを、買いませんでした。

めっちゃ買おうかと思ったんだけど、すげぇ迷って、まあいらないかなーとも思ったし、結局、買いませんでしたけど。うーん。

入ってるソフト30本のうち、24本はやったことある。15本くらいは、めちゃくちゃいっぱいやった。6本はやったことない。

でもまあどれもよく遊んだよなあ。懐かしいなあ。うーん、買えばよかったかなあ。でもどうせ家でテレビに向かってゲームする時間なんてないよなあ。




「○○しない」という選択肢に対して、後悔している。以上の行動は、いわゆる自己啓発本と呼ばれるたぐいの指南書では、御法度とされることが多い。

「やらないで後悔するくらいなら、やって後悔しろ!」

たいていはそうやって、諭される。

この定型文を、いつも疑問に思う。

「……そうかねえ。やって後悔するくらいなら、やらないで後悔していたほうが、ましじゃないのかねえ。精神のぐじぐじにさえ耐えれば、時間も金も、なにも失わないんだから、やらないで後悔した方が、どちらかっていうと、お得なんじゃないのかねえ。

ぼくが何かをやらないことで困るのは、むしろ、世の中のほうじゃあないのかねえ。お金が回らないとかさ。人が動かないとかさ。

別に、いいじゃん、しないという選択肢。」




ぼくはそういう人間で、できれば、「やらないでぐっと我慢する自分」の方が、なんというか、思慮深くて、用心深くて、趣深くて味わい深いだろうと思っている。

日ごろ、検査室とか研修医室とか友人間とかツイッタランドなど、ありとあらゆる場所で、

「とりあえず新しいものとかさ、市原がやるからさ、俺ら、待ってようぜ」

と、バカにされている。

いつも、浅慮、短慮、軽薄な鉄砲玉であり毒見係であるぼくは、自分のなりたい「やらなくてぐじぐじ後悔するタイプの人間」になれず、「やって後悔する役目」についてしまっている。



ニンテンドークラシックミニを注文しました。