2017年1月20日金曜日

拝啓、緊張様

「緊張」によって、自分はいったい何を手に入れたことがあり、何を失ったことがあるのだろう、と考えている。

人生を決めるような試験があり、とても大きなスポーツの試合があり、自分に多くの責任がのしかかる仕事があった。すべての機会にこまめに緊張してきた。

すべての失敗が準備の不足やシミュレーションの甘さ、さらには自分の実力の低さに基づくものだったろうか。

ぼくは、そうだったのだと思う。試され、勝負の世界に翻弄され、重責に押しつぶされたのは、すべて自分に何かが足りなかったからだ。それは運だったかもしれない、努力だったかもしれない、到達点に届かなかったからかもしれない、とにかく、何か届かなかったのだ。

そして、これらのすべての場面で、等しく緊張してきたから、ぼくは失敗の原因を、緊張にあると考えてきた。

緊張は、いつも失敗のそばにあった。そして、成功のそばにも潜んでいた。



緊張しているかしていないかは、結果と相関していなかった。だって、同じくらい緊張していても、試験に合格した時も、だめだったときもあったじゃないか。のどが震え、指先が冷たくなったあとで、栄光も挫折も訪れた。

それに気づいたのは、たぶん、30歳になる前くらいだったと思う。



ああ、緊張してるとかしてないとかって、関係ないんだな。



気づいてから、ぼくは、自分の緊張をほぐすことに労力を使うのをやめた。



「緊張さん」は大変だ。失敗の原因を押し付けられる。あまねく世界で、本来の実力を発揮できなかったのは緊張のせいだとか、一流のプロ選手はメンタルが強いとか、精神状態をコントロールできる人間が勝つとか、そういう話題が無数にはびこっていて、いつも最後の最後で、本人の失敗の責任を一手に引き受けて、石を投げられている。

ああ、緊張さん、ぼくはあんたにずいぶんと失礼なことを言ってきた。今さら謝っても遅いかもしれないけど……。これからは、その一番いい席で、ぼくのことをずっと見守っていてくれたら、それでいいよ。

それまで、にこりともしないが、さりとて怒ることもしなかった緊張さんは、この日を境に、姿を見せなくなった。

どこかに去ってしまった。

代わりに、今、ぼくの心の中には、緊張ちゃんが住んでいる。お茶目な顔をして笑っている。ときおり、逃げ口上くんや、言い訳さん、なぐさめ女将、忘却マスターたちと、お茶を飲んだり将棋を打ったりしている。

ぼくは、講演や学会発表、カンファレンスなどのときに、緊張ちゃんに見守ってもらうようになった。緊張ちゃんは、何も知らない顔で、ただ笑っているので、ぼくはもう、何も彼女のせいにできないでいる。



ほんとうは、緊張さんにも、見ていてほしかった。ぼくの今の姿を見てもらいたかったけれど、緊張さんは、若い子のことが好きらしく、ぼくのところにはもう戻ってこないのだと思う。

よろしく伝えておいてほしい。