2017年2月8日水曜日

病理の話(46)

何度か書いたことのあるエピソードではあるが……。


ぼくがまだ、病理医になるなんて思いも寄らなかった頃の話をする。


当時、医学部6年間のうち、最初の1年半くらいは、「教養講義」というのがあった。これはつまり、「他学部の学生と何も変わらない期間」である。医学のことはほとんど学ばない。統計学とか化学とか、文学とか、語学とか、北大さながらの「低温科学研究所のはなし」とか、「釧路湿原の科学」であるとか、そういう雑多な講義を楽しく受けていた。

こういうのを受けていると、大学生だなあという実感はわくが、一方で、「はやく医学の勉強をさせてくれい。ついでに肩揉んでくれい((c)ライス)」という気分になる。

2年生の中頃から、満を持してはじまった医学講義。しかしその大半は、生化学や生理学といった「超基礎」であった。まだまだ医者としてのなんたるかにはたどり着かない。それ以前の基礎知識が山ほど必要だったのだ。がくぜんとする。ただ、解剖学などの「人体に触れる講義」もはじまったので、気合いは入った。

そして1年ほど経つと、いよいよ「ベッドサイド」が遠くに見えてくる。でもまだだ。やらなければいけない勉強がある。

それが、「病理学」であり、「薬理学」であり、「細菌学」であり、「腫瘍学」であった。



もうそろそろ医者にさせてくれよ! という我々の前に立ちふさがる、基礎と臨床の端境のような存在。それこそが、生まれて初めて「病理学」というものに触れたときの、我々が感じる印象だったのだ。



今でも覚えている。



病理学は「I」と「II」があった。それぞれ、病理学第一講座と、病理学第二講座の教授が、初回の講義を担当する。「I」の教授は、マウスを使った疾病研究の話を1時間半やった。難しすぎてよくわからなかったが、これこそが患者の治療につながる医学なのだと、背筋を伸ばし、ストレートネックを倒して、がんばって勉強したものだ。

そして、とうとう、「II」の講義がはじまった。

いや、はじまらなかった。

開始5分、10分、教授がやってこない。どうも何か仕事があるらしい。開始20分経って講師がこない場合は休講になるというルールがあった気がする。30分ほど経った時点で、学生のほとんどは食堂や図書館などに消えていき、教室には特にやることを考えていなかった12,3名程度が残っていた。

ぼくもそこにいた。

開始35分。教授がやってきた。

「いやーすみません。遅れちゃった。」

「ではちょっとだけ講義をしましょう。人はだいぶいないけど、まあいいよ、来週からはぼくじゃない講師がまじめにやります。」

学生達は呆然とした。やってくるのは遅いのに、展開が速かった。

彼は、大教室の黒板の右端のあたりに、小さめに「炎症」と書いた。

「今日は、炎症の四徴についてお話しします。」

続けざまに、「発赤」「腫脹」「疼痛」「発熱」と書いた。

「これが、炎症の四徴と言われています。覚えておきましょう。では、講義は終わります。」

英国紳士のようなおしゃれなスーツ、長身、おだやかで優秀そうな50代後半の教授は、さっそうと去っていった。



数ヶ月後、ぼくは彼の主宰する早朝の抄読会(英語の教科書を読む会)に出はじめた。

ちょうど半年経った頃、医学部3年生の終わりに、ぼくは「基礎配属」で、病理学第二講座を選び、二週間ほど解剖の見学や、研究の見学などをさせてもらった。

4年生のはじめに、彼に、「ぼくは病理学第二講座に入局します」と伝えることになる。



「今まで聞いた講義の中でもっとも印象に残っている講義」をした教授の下に入るのは、当然だと思ったのだ。


彼は、わずか4分感の講義で、ぼくの心に不可逆な炎症を起こしてしまったようだった。