2017年2月20日月曜日

病理の話(50)

病理診断は、比較的フレックスな仕事だ。患者さんと直接会話するわけではない。みるのは、プレパラートだ。つまりは、患者さんが病院に来ているタイミングに仕事をする必要がない。

正直なことを言えば、1日のうちいつ仕事をしてもいい。

とは言っても、病理医は多くの医療者と会話をしながら仕事をするので、あまり他のスタッフと異なる時間に出勤するのはよろしくない。自然と、日中をメインとして働くことにはなる。

けれど、ときに、夜になっても朝になっても、診断が決まらないことがある。

診断が、難しいときだ。



自分の診断に自信が持てない。そもそも、診断がわからない。

いつまでも教科書とにらめっこして考えているわけにはいかない。

患者さんにだって都合がある。生活がある。プレパラートには外来の時間制限はないけれど、病気は待ってくれるとは限らない。ちんたら1か月も2か月も診断に手間取っていたら、その間に病気は進行してしまうかもしれない。

待たされる患者さんはさぞかし不安だろう。

医療者だって困る。次の診療のステップに移れない。予定が立てられない。



そういうとき、病理医は、「相談」をする。同じ病理医に。マンガ「フラジャイル」にも出てくるので、知っている人は知っているだろう。



ぼくもまた、診断の相談をする。たいていはうちのボスと相談する。ボスは頼りになる。

「頼りになるボスがいる施設に就職したこと」は、ぼくの大ファインプレーだ。思い切りほめられていい。

ほかにも、肺や悪性リンパ腫で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、軟部腫瘍で難しいなあと思ったときにはあの大学へ、電話をかけ、プレパラートを持って、聞きに行くことがある。

「コンサルテーション」という。

コンサルテーションは、人に診断を決めてもらうためのもの、ではない。あくまで参考意見を聞くために行うものだ。診断の責任はいつだって、「主治医」である自分にある。偉い人に話を聞いて、自分の頭がすっきりしたり、いい勉強になったなあ良かったなあと感動するなりしたあと、必ず「自分で」責任もって診断を出す。

自分がほんとうに優秀な病理医になれば、コンサルテーションは必要なくなるだろうか? コンサルトが必要になるのは、自分が未熟だからなのだろうか?

そういうわけでもなさそうだ。

これだけ医療が細分化すると、自分ひとりで全ての領域を完全に把握するというのは困難である。

診断に必要な試薬などが自分の病院だけでは揃えられないこともある。

だから、日本病理学会では、公式に「コンサルテーションシステム」を作っている。病理学会にメールをしてお金をふりこむと、その臓器、病気に詳しい「コンサルタント」を全国から探し出して、紹介してくれる。

そんなこともやっている。



さて。

ぼくは「コンサルテーションをうける」方に回ることもある。ぼくは消化管病理が少し得意なので、胃や大腸などの病気について相談をもちかけられることがあるのだ。日本病理学会のコンサルテーションシステムにコンサルタントとして登録されているわけではない(そこまで偉くない)から、仲の良い病理医の方々などに、ちらっとたずねられ、ちょっと見てみてよ、くらいのノリだ。

コンサルテーションにくる症例というのはたいてい難しい。だから、とても困る。他の人が見て難しいものを、自分が簡単に見てわかるということが、どれだけあるだろうか、と思う。

必死でコンサルトを受け続けていると、世の中の病理医が、どんな診断に困っているのか、何が難しいと思っているのかが、少しわかってくるような気がする。

彼らの感じた難しさは、ぼくも常日頃から感じていることである。だから、お返事に、このように書くことが多い。


「標本、拝見致しました。先生のおっしゃるように、診断の難しい病変です。私は○○と△△という根拠をもって□□という診断に一票を投じますが、根拠、結論とも、先生のお考えとほとんど一緒です。大変貴重な症例を拝見させていただき誠にありがとうございました。」

実際に、下線を引いたりもする。


あんまり、相談者の役に立っていない気はする。どちらかというと、こんな難しい症例を検討させていただくという貴重な機会をくれてありがとう、と、頭を下げることが多い。

「低姿勢すぎるコンサルタント」として笑われたことがあった。

「~~すぎる」のくくりの中では、ずいぶんとまあ残念なあだ名だなあ、と思う。