2017年2月15日水曜日

最終回じゃないぞよ

そろそろパソコンなんてのは、CPUも不揮発性メモリもぜんぶサーバー側においといてもらえばいいんじゃねえの、と思う。ぼくらが個別に持っていなければならないのは、心情的に手元においておきたいデータを入れるハードディスクと、モニタ・インターフェース。あとはもうぜんぶネット上でやっちゃえばいいんじゃねえの。

パソコンが新しくなるたびに買い換えないと最新のソフトがうまく動かせない、とか、iTunesの通算285回目のアップデート、とか、こんなこといつまで続けなければならんのかと思うわけである。とっくに開発されてるんだろうけど。買ったらあとはもう何もしなくても常に最新、というシステム、理論的には可能でしょう? ネット速度の問題とかあるんだろうけど、仮想化とか並列処理がめきめき進化してるんだし、いずれなんとかなるんでしょう?

……そこまで技術革新したら、パソコンの売上げが落ちちゃうか。企業も生きていけないかな。

いやあ、そうでもないよね。定額制か何か導入すればいいわけでしょう。要は、「購入」とか「所持」とか「アップデート」みたいな概念ごと、この先変えていけばいいんだ。変わらなければいけないんだろうな。



変な話だけど、「籍を入れないけど家族です」なんてのも、立派に人間の新しい生き方ってことになるのかもしれんけど、なんだか似たようなことをコンピュータ業界も進めている気が、するんだよ。



で、


医療はどうなのってのを考えて、考えて、次の病理学会でもそういう話を担当することになりそうなので、「病理の話」じゃない回の記事(つまり今日のこれ)にも、こういうことを書いてしまっている。


ああ、ぼくは、自分をマルチタスク型の人間だとばかり思っていたけど、高速並列処理の多層化ニューラルネットワーク内蔵(三食充電式)とかうそぶいていたけど、あたまの中が、ひとつのことでいっぱいになっているじゃないか。


どうした、大脳。


その「ひとつ」とはおそらく、そう遠くない未来にぼくらが遺跡になったとき、廃墟を訪れる人々からどうやって尊敬を集めたり金をとったりすればいいのか、どうやったらぼくらの「博物館」は存続していけるか、ということである。

単に病理に限った話でもないもので、どうしても、考えてしまうのである。




次回の更新、「病理の話」はまだ49回目なのですが、ブログの通算ですと第100話となります。ちぇー、病理の話も50回目だったらちょっとかっこよかったのに……。