2017年3月16日木曜日

病理の話(59) 真実とは異なるアイデンティティ

病気の診断をする仕事では、「真実」がどこかにあると考えがちである。

いや、まあ、真実はいつだってどこかにはあるのだろう。ただ、診断というのは、「真実を求める仕事」とはイコールではない。

診断というのは、主に2つの理由で行われる。

・今後どうなるかを予測するため
・治療するため

極論すると、科学者ではなく医者が患者をみる場合に、

・今後どうなるかだいたいわかる
・治療の選択肢はすでに決まっている

のならば、診断名を正しく決める必要はないのだ。



たとえば、鼻水がとまらず病院に行ったときに、

「○○ウイルス感染による△かぜで、□□という薬で治すことができます」

まで診断する必要は、ほとんどない。

「なんらかのウイルスによるかぜ」

であるとわかれば、それで様子見が正解だからだ。そもそも、ウイルス性のかぜに対する特効薬は(今のところ)ない。

症状を抑えるための薬なら投与することもできるが、

「すでに鼻水が出ている患者に、鼻水をとめる薬を出す」

のは、診断を決めなくても、やろうと思えばできることなのである。



肝腎なのは、この鼻水が「ほんとうにかぜなのか? あるいは、アレルギーとか、別の病気ではないのか?」ということに気を配ることだ。その意味で、まったく診断をしなくていい場面というのは、おそらく病院には存在しない。

けれど、「かぜ」だけを決めてしまえば、「何ウイルスによるものか」までは決めなくてよい。



将来、かぜのウイルスごとに違う特効薬が開発されたら?

そのときは、あるいは、かぜは今よりもっと詳しく診断されるかもしれないが……。

だまっていても3日もたてば治ってしまう「かぜ」に、そこまで研究費が投入され、それほど高精度な薬を開発する未来が、この先、くるかどうかはわからない(くるかもしれませんけどね)。



医師というのは、このあたりのバランスを知らず知らずに身に着ける。

診断をどこまで進めるべきなのか、診断がある程度(あいまいでも)決まった段階で、できる治療に移るのか。

これをきちんとやっていく医者こそは、患者にも、社会にも、大きく貢献する。



で、病理医の話をすると、ぼくらも、「どこまで診断を詳しくするべきか」というのを、日ごろある程度考えている。

けれど、「これは良性」「これは悪性」のようなざっくりした診断で終わることは、基本的に許されない。

ぼくらは、臨床医よりももうちょっと、診断を詳しく出すよう求められる立場だ。

・患者さんが今後どうなるかを予測するために
・治療の選択肢を決めるために

という2つの意義に加えて、もうひとつの意義がかなり大きくのしかかる。

それは、こうだ。


・結局、何なのか知りたい。



それを知ったからって患者さんに何か影響あるのかよ。治療に差が出るのかよ。こんな疑問が日々聞こえてきて、それでも、ぼくらはもうちょっとだけ先を見る。



病(やまい)の理(ことわり)をみる医者、という名前がよくないのだと思う。

こんな名前をつけるから、ぼくらもその気になってしまうのだ。



「今のところ、ここまで詳しく分類したからといって、あまり喜ぶ人はいないんですけどね、もしかしたら、将来この差が、治療につながるかもしれないんで……」

てへへって感じで頭を書きながら、とても細かい話を診断書のすみっこに、申し訳なさそうに書いておく。



そこにアイデンティティがある気もする。