2017年4月28日金曜日

病理の話(74) 医学生が考えておくとよいキャリアパスの話

研修医や医学生に、将来病理医になりたいのだが、どういうところで初期研修をすればよいだろうか、と尋ねられることは多い。

もっと言えば、病理医に限らず、将来「○○科」に進みたい、どこで初期研修をすればよいか、と尋ねられることの方が圧倒的に多い。まあそれはそうだ。病理医なんてのは医者の0.6%くらいしかいないそうだから。

さらに言うと、「将来何科に進みたいかはちっともわからないが、どこで初期研修をすればよいだろう」と尋ねられることが一番多い。

夢なんてこんなもんだ。自分で自分の夢を決定づけてしまうことに臆病な……というか、よくわからない人というのが一番多いのである。



さて、そういうときに、なんと答えるか。カウンセラーでもなければ研修教育を統括する厚生労働省の人間でもないぼくが、自信をもってお答えできることがどれだけあるか。

正直、そんなにないので、最近はこのように答えている。



(1)将来、明確に進みたい科がある場合には(例えばそれをA科とします)、あなたはおそらく、A科にいい思い出があるか、A科が具体的にイメージできているのではないかと思います。では、A科で有名な医者や、A科でこの人の元で働きたいと思えるボス、A科の後期研修で有名な病院がありますか?

もし、10年後の将来がなんとなく見えているなら、10年後にここで働きたいという場所の候補がいくつかあるならば、そこから逆算をしてください。

10年後にいたい病院を調べて、その病院にいるスタッフが、どこで後期研修をしたのかを探ります。次に、そこの後期研修医がどこで初期研修をしたのかを探ります。

目標から遡るわけです。そうすれば、自然と初期研修先が見えてくる。



(2)将来、まだどこに行きたいかわからない場合、なんとなくの方向性は見え始めている、あるいは方向性すら見えていないという場合には、なるべく多くの医者がいて、なるべく多くのコネが作れそうな、比較的大きめの病院で初期研修をするのがいいです。

あなたは、今までの自分の経験で将来を決められていない。ならば、そこに経験を上乗せするしかないのですが、選択肢が見えていない状態では、できるだけ多くの選択肢を見る、あるいは見たつもりになったほうが、後悔しないでしょう。

ベッド数と医者の数、専門医の数などを参考にしつつ、できれば、そこで初期研修した人達が、将来どこに進んだか、まできちんと調べる。初期研修を終わった人達の選んだ進路の、バリエーションが多ければ多いほど、あなたの将来選ぶ選択肢が増えると思って頂きたい。



(3)でも、大きい病院ならいいってもんじゃない、肝心なのは自分が生涯尊敬できるボスと出会えるかどうかだ、だから小さい病院もみておいた方がいいんじゃないか……それもまた一面の真実なのですが、ぶっちゃけ、小さい病院で研修をして大きくなれるのは、「小さい病院を積極的に選ぶだけの見通しが現段階で立っている人」がメインです。「大きい病院と小さい病院、どちらがいいかわからない」くらいの人は、選択肢を残したがるタイプなのですから、最初から大きい病院に行った方がいろいろ安全です。

私のこの言葉で、「大きい病院は何か違うな」と明確にひっかかりを持った人だけが、小さい病院を選んでも後悔しないのだと思いますよ。




病理の話とはちょっと違うけど、自分が選んだ道に責任を持って欲しい、誇りを持って欲しいと思いながら「病理医のキャリアパス」の話をしつづけていると、自然と話は、「病理以外」に向いていく。

そして、「病理以外」を選んだ人とばかり、一緒に働き続けていくのが、この仕事なのである。

2017年4月27日木曜日

腰がかっくん

腰や首に爆弾を抱えるようになって5年が経過した。

デスクワークの宿命、というよりも、これはストレートネックの宿命というやつで、同じようにデスクワークに励んでいる諸氏がみな体幹部の痛みに苦しんでいるわけではないし、ま、「姿勢の問題」というやつなのだろうが、最近は職場で姿勢の問題だなどと口にしようものならパワハラの疑いをかけられてしまうので、骨が弱いんすよーとか適当な言葉でお茶を濁すことになる。

骨というか筋肉だけど……。

以前に書いたことがあるかもしれないが、かつて、午後になると腰痛がひどくて、しびれまで感じるようになり、これはもうぜったいあれだ、ヘルニアとかそういうやつだ、と思って、困り果てて知人の神経内科医に相談してみたことがある。

寝るときの姿勢などを丹念に教えてもらい、多少の緩和は得られたものの、腰回りがガチガチなままだったので、整体をやってるお店に行ってみた。

すると、彼はぼくの腰よりも太ももをマッサージしながら、こういうのだ。

「太ももの裏ががっちがちなんですよ。長い時間座ってらっしゃるのと、運動が足りないのと、原因はその辺なんでしょうけど。

太ももの筋肉ってのは、付け根が腰にあるんですよね。

で、太ももの筋肉が硬くなるということは、腰を下側にひっぱる力が強くなる、というか……

ゴムが硬くなれば、ゴムがゆわえつけてあるところをひっぱっちゃうんです。想像できますよね。

ですから、あなたの場合、腰痛を治そうと思えば、腰を揉むんじゃなくて、太ももの裏をケアするといいんです。

痛いところに原因があるわけじゃないんですよ」

そしてストレッチを教えてくれた。単なる前屈である。こんなの中学校でやったわ。ほんとか? ほんとにこれで治るのか?

治ったのである。度肝を抜かれた。



筋肉とか骨とか、整体的なもの。それまでぶっちゃけ、なめていた。奥が深い。



なにより、「痛みが出た場所だけをケアするのではなく、原因に遡る」という説明が、ぼくの気質にぴったりフィットであった。家訓にしてもいいくらいだと思ったのだ。

2017年4月26日水曜日

病理の話(73) こまったちゃん依頼

かつては、「腹立たしい依頼書」というのを、目にすることもあった。

今のように、ひとつの病院に勤め続けていると、臨床医と病理医双方が、お互いの顔を思い浮かべるようになるので、まあ、めったなことでは相手を怒らせるような言動は取らなくなる。

「病理組織診依頼書」にも、あまり失礼なこととか、突飛なことなどは書かれない。



ただ、お互いの腹の底が見えるためか、ちょっと間の抜けたことを書いてくるドクターはいる。

「○○病を疑う病変を、とつぜん見つけました。びっくりしました。御高診お願いします」

……その感想、いるか?

「○○を考えます。本人は最初いやがっていましたが、必死の説得の末に、生検採取」

……その経過、いるか?

「○○病の臨床診断。見た目は(ある野菜・伏す)。」

……その描写、いるか?



とても好意的に解釈すれば、すべて、病理診断の役に立つ文章ではある。1つ目の「びっくりしました」は、いつもと違うシチュエーション、いつもと違うボリューム感、いつもと違う患者背景などがあるのだろうなと、病理医に注意喚起をする役目を果たすだろうし、2つ目の「本人はいやがっていましたが」は、この検体ひとつでどうしても診断を決めないと、おそらく再度の検査は不可能なんだろうな、という危機感を示唆してくれるし、3つ目の「病気を食べ物などの形状に例える」は、イラストを描かずとも病理医に臨床像をあざやかに想像させるコミュニケーション手段である、などと、説明することができる。


……にしたってもうちょっとやりかたあるだろォ。




そういえば、ふと思い出した。かつて、信じられないほど汚い字で、とにかく依頼書に殴り書きで、読めない依頼を書いてくる某科の医師がいた。あまりに汚くてまったく読めないので、申し訳ないがきつめに注意した。

その後、電子カルテ化に伴って、依頼書をいちいち手書きしなくてもよいシステムが導入された(なお手書きでイラストなどを付けることもできる)とき、ぼくは、

「ああ、これであのクソ医師も、少しはわかりやすい依頼書を出してくれるだろう」

と、内心ほっとした。

後日、その医師からある依頼書が届き、ぼくはひっくり返ってしまった。

漢字変換がめちゃくちゃだったのだ。というか、ひらがなばかりである。

「他人が読むという前提で書くべき依頼書を、乱暴な字で書き殴るタイプの人が、電脳化くらいで自分のやりかたを変えるわけがない」

ということに、ぼくも気づくべきだった。

「○○びょううたがう。せいけん。おねがいしま」

せめて最後まで入力しろバカ野郎!





だんだん、こういう「失礼なやつら」の割合は減っているように思うが、その理由のひとつは、おそらくぼくにある。

ぼくが、病院の中で、言ってみれば「異分子」である間は、臨床医の方も、胸襟を開いてくれない。病院という世界、病理学会という世界、医療という世界で、ちょっとだけキャリアが増えてきたから、その分、周りの医師たちも、ぼくを人間として扱ってくれるようになったのだろう。


こっちもあんまり変なこと、言わないようにしないとなあ。医局で、先生のツイッターおもしろくないですね、とか話し掛けるのは、とりあえず、やめようかと思い始めた。

2017年4月25日火曜日

将来何になりたいですか、という問いをあまり投げかけられなかった子供時代だったかもしれない。

あるいは、そのような問いを聞き流す子供だったのかもしれないが。

いずれにしても、ぼくは、小さい頃に大人に向かって「○○になりたい」と言った記憶があまりない。覚えていない。



父母に尋ねてみたところ、幼稚園の時に、「地元のA高校に行きたい」と言ってたよ、という情報を得た。これは、ぼくも覚えている。A高校は進学校だが、ぼくがA高校に行きたかった理由は、ぼくが生まれたころにはすでに亡くなっていた曾祖父が、A高校で働いていたからだ。ひいおじいちゃんの高校に行きたいな、というそういうモチベーションだったはずだ。

思えばぼくは、将来どうしたいの、という問いと、まともに向き合わないまま成人した。

中学校のときは、よい高校に行こうと思っていた。

高校のときには、よい大学に行こうと思っていた。

大人になってから何になりたいかはよくわからないけれど、とりあえず目の前にはクリアする目標があるんだ。

ラスボスを知らないまま、目の前の敵を狩り続けるようなイメージだった。

そういえばドラクエIIも、ハーゴンまでたどりつけないまま、あきらめてしまったっけ。



ほんとうか? ほんとうに、なりたいものがなかったのだろうか?



今この文章を書きながら、ひとつ思い出したことがある。そうだ、ぼくは、スペースシャトルのパイロットになりたかった時期があった。

テレビ放送で生中継された、チャレンジャー号の打ち上げを見るその瞬間まで、ぼくは宇宙飛行士になりたかったと公言していたはずだ。

チャレンジャー号が目の前で爆発して、乗組員も全員死亡するという痛ましい事故のあと、ぼくは自然と、宇宙飛行士になりたいと言うのをやめてしまったのではなかったか。

そうだ、そうだった。

その後、何人かの大人との会話や、学校などで、将来何になりたいか、というのを書いたり話したりする機会があったけれど。

ぼくは、宇宙飛行士という夢がちりぢりになってしまったのがほんとうに悲しくて、また次になりたいものを思い浮かべるのがとても面倒になってしまったのだ。



小学校の文集にある、「将来なりたいもの」の欄には、不謹慎この上ないのだが、「天皇の親方」と書いた。いちおう言い訳をするならば、ぼくは、「天皇陛下にものを教えられるくらいの人になりたい」という意味で書いたのだ。しかし残念なのは国語力のほうで、数年たって文集を見返したぼくは、自らの絶望的なフレーズセンスに脱力した。

天皇の親方って……宮内を徒弟制度に作り替えるつもりかよ。

でも、わかってほしい。ぼくはもう、小学校卒業時には、自分のなりたいもの、将来像を、具体的に思い浮かべるのがイヤになってしまっていた。人に説明するのがおっくうだったのだ。




高校2年生のとき、父親に進路相談をした。東京大学に行って、宇宙物理学の研究をしたいのだと。

父親は、言った。

「科学と医学はおなじくらい広いんだから、医学でもいいんじゃないの。北大医学部が、偏差値的には東大理Iとおなじくらいでしょ」

納得した。なるほど。

実際には、うちの経済事情で、子供を東京に送り込むだけの財力がないからなんとか地元の大学に入って欲しいという親心もあったのだろうが、ぼくはこの、よくわからない理屈で医学部を目指すことになる。

そこに、医者になりたいとか、医学を研究して人を救いたいという精神はなかった。



今でも、公衆の面前で、「人を救うために」と発言するとき、ぼくはとても慎重である。夢とか理想の話にならないように。現実をきちんと伴わせられるように。

「ぼくは、あまり遠い将来のことを真剣に考えられるタイプではないのだ」という、自己分析がある。

目の前のイベントを乗り越え続ければ、いずれラスボスにたどり着くだろう、くらいの気分でいる。

夢を語ることが、難しく、恥ずかしく、また口にしてしまった以上はがんばらないと行けないし、潰えたときにとてもつらいのだと、そういう感覚が、心のどこかに残っている。




そして。




若い、とても若い、息子と同じくらいの年の人たちが、将来あれになりたい、これになりたいと夢を語るとき、ぼくはその夢を邪魔しないように、できればその夢が叶うまで、夢が夢として君臨し続けられるように、あるいは夢を語る人を邪魔する人が現れないようにと、だまって静かに、祈りながら見守っていきたいなあと、そう思っている。

2017年4月24日月曜日

病理の話(72) 病理医になるにはどこで勉強すべきでしょうかね

前回、「がん以外の病気」でぼくはどんなものを診断しているかなあと少し考えて、いろいろリストアップしては見たのだが、少し時間を置いて見返してみると、あの病気もあるし、あの病気も書いてないと、ずいぶんと書き漏らしに気づいた。普段あまり意識していないあの病気もまれには目にするよなあとか、いつあの病気に出会っても大丈夫なようにまた勉強しておかないとなあとか、思い直したりした。


病理医は、勤めている病院や検査センターの「スタイル」によって、まるで違う病気をみることになる。ぼくも自然と、今勤めている病院や、出張で目にする検体に「頭がかたよってしまっている」。だから、ささっとブログを書こうとすると、どうしても内容に偏りが出てくる。


そんなの、どの医者でも一緒だよ、たとえばひとくちに整形外科と言っても、あの病院はひざの靱帯ばかり診ているし、あちらの病院は腫瘍ばかり診ているじゃないか。


……まあそうなんだけど、病理医の場合は、相手にする科すらバラバラだからなあ。


婦人科をぜんぜん相手にしない病理医もいるし、血液内科とご無沙汰だという病理医だっている。


あらゆる病気をみる仕事とは言うけれど、結局、自分の勤めている場所にいる「臨床医」のスタイルによって、みる病気が変わってくる、というわけである。




で、若い病理医は、考えるわけである。

将来、自分がどこでどのように勤務するかまだよく見えない時期に、いったいどこで研修をすれば、将来困らないような修練が積めるだろうか。

あの病院に行くと、軟部腫瘍は多いけど、肝臓は少ない。

あちらの病院は、胃腸がとても多くて、乳腺はあまりみないらしい。

研修期間が終わった後に、一人前となって勤めた病院で、はじめてある臓器に触れるなんてのは、怖すぎる。

それ以前に、病理専門医試験にはすべての臓器から問題が出されるのだ。オールマイティーに勉強しておかないと、受からない……。



ということでぼくは普段、「病理医を目指すなら、とにかく病理医の頭数が多いところで研修しなさいよ」と言う。

国立がん研究センターとか。埼玉国際医療センターとか。神戸大学病院とか。病理医が10人以上いるところ。各病理医ごとに専門性があって、いろんな臓器が集まってくるところ……。



……さて、この発想は、大筋では間違っていないと思うのだが、全国を丹念に見渡すと、「大学と市中病院とで緩く連携して、お互いの弱いところを補い合っている地域」というのもあるようだし、非常に教育力の高い指導医が2人ほどいて、検体数以上に勉強になる施設というのもあちこちに転がっているようだ。

ほんとうは、そういう、「病理の研修を積むならここだ!」みたいな施設を、全国見て回って、ブログとかに書けたらいいだろうなあとか、昔、考えたこともあった。

定年後の楽しみにとっておきます。

2017年4月21日金曜日

四次元ポッケ

エアポケットというのは具体的にどういうものを指すのか実はよくわかっていないのだが、エアポケットに落ちるとか、エアポケットに陥るみたいな表現を使うので、まあたぶん、飛行機が飛んでいるときに気流の関係でがくんとおっこちるあれをイメージしていれば間違いがないのだろう。

今日はメンタルがそういう感じの日で、なんだかがっつりと疲れてしまうできごとが多かった。仕事を複数抱えていたのだが、ひとつひとつの仕事をやっているときはいいとしても、次の仕事に移るまでの「思考の移動時間」でかなりロスをした。ふわふわと落ち着かない気分だった。

タイムラインを眺めていると、「今日は気圧が低いから、つらい気分になる人も多いだろう」というツイートが流れていて、なるほど、そういうのもあるのか、と少し納得して、なんだかちょっとだけ楽になった気がした。

そこでもう少し、自分を楽にする方法がないだろうか、と考えて、「エアポケット」を「エアポッケ」と言い換えてみたり、「気流の関係でがくんと落っこちる」を「わがまま気流でおてんばな動き」と言い換えてみたりしているうちに、夕方となり、安定を迎えた。



「人生低空飛行」みたいな書き初めをするのもいいかもしれない。書き初めというのは年の初めにやるものだと思っている人も多いかもしれないが、そもそも1年の間でいちども書道をしない人間であれば、何かを書いた日がそのまま書き初めになるのだ。そういえばぼくは子供の頃、パーマンセットを身につけて空を飛ぼうとするんだけど、どうしても体が50センチ以上浮かない、という残念な夢をよく見ていた。ドラえもんにそういうネタがあったのだと記憶している。

2017年4月20日木曜日

病理の話(71) がんを見るかがん以外を見るか

病理医をやっていると、普段仕事で扱う対象は「腫瘍」が多い。

腫瘍。できもの。体の中に本来存在しない、勝手に大きくなるカタマリ的な病気である。放置すると将来命に関わるものを、「悪性腫瘍」と呼んで特に重要視する。悪性腫瘍とはつまり、「がん」のことだ。放置しても命には直接関わらないカタマリのことは「良性腫瘍」と呼ぶ。子宮筋腫などが有名である。

で、まあ、病理で調べるものというとこの腫瘍がかなりの割合を占めるのだが、腫瘍以外の病気もそこそこ目にする。

するんだけど……これが……一般には、なじみのない病気ばかりなのである。



医療者以外の方々が思い浮かべる「腫瘍以外の病気」というと、なんだろう。

……かぜ。食あたり。心筋梗塞。肺炎。ケガ。腰痛。肉離れ。めまい。脳梗塞。胃潰瘍。乱視。虫歯……。

千差万別。そりゃそうだ、がん以外にも病気はいっぱいあるからね。

これらの中で病理診断が役に立つものは、ごく限られている。というか、今あげた中には、病理診断が必要なものはほぼ、ない。

かぜ、食あたり、肺炎、虫歯については、感染症というくくりに入る。感染症は、かかった部位と、かかった病原体の種類、そして体がそれにどのように反応しているのかというのが、治療をする上で重要なのだが、これらを見極めるために「病理医がプレパラートをみる」ことは、ほぼない。

顕微鏡自体は使う。グラム染色という方法を使って、菌を直接みる場合がある。ただ、病理診断とはちょっと異なり、細菌検査の手法のひとつである。

心筋梗塞とか脳梗塞のような、血管が詰まる系統の病気では、血管の詰まった場所を見極めて、血管を再開通させるとか、あるいは血管が詰まったことによる症状を抑えることが目的となる。この場合も、病理診断は特に必要とされない。

ケガ、腰痛、肉離れ。病理は用いない。

めまいとか乱視にも病理の出番はない。虫歯は……虫歯だけなら……まあ、病理は必要ない。



では、ぼくは普段、「腫瘍以外の病気」としてどんなものを目にしているだろうか。

・炎症性腸疾患。潰瘍性大腸炎とかクローン病といった、厚生省が難病認定しているやや珍しい病気。

・肝炎。ウイルス性のものが有名だが、近年はNASHと呼ばれる、脂肪肝に関係のある病気をみることが多くなった。

・虫垂炎(いわゆる、もうちょう)とか、胆石胆嚢炎など、腫瘍ではないけど、手術でとるやつ。

・子宮内膜症という病気。

・月経不順の方の、子宮内膜。

・好酸球性副鼻腔炎うたがいの、鼻粘膜。

・皮膚の病気。

・動脈硬化に対する手術で採ってきた血管。

頻度が高いところでは、こんなところだろうか。

当院には脳外科がないので、今の職場に勤めてからは脳神経系の病気はほとんど見ていないし、整形外科領域の検体も比較的少ない。泌尿器科が腎炎を扱っていないので、腎生検は長いこと目にしていない。一方、IBDセンターという炎症性腸疾患を専門に見る部門があるので、多くの病理医よりも炎症性腸疾患はよく見ているし、肝臓や胆膵領域も頻度が高い。

まあ、そういう「勤め先ごとの違い」はあるにしても、だ。



さっきの「かぜ、食あたり、心筋梗塞」などと比べると、病理医が目にする病気というのは全体的に聞き慣れない。これを読んでいる人の中には、「私はそれ知ってるよ」という方も多いだろうが、その知っている病気、自分の家族や友人に説明して、「知ってる知ってる」と言われそうですか?


ここからは、ちょっとうがった言い方なので、ブログゆえの軽口なんだなあと思って聞き流していただいてもよいのだが。


「病理診断をしなくても診療方針が決まる病気」というのは、「細胞まで見に行かなくても征服できる病気」と言うことができる。細胞一つ一つの細かな挙動よりも、もっと大きなダイナミズムが問題を起こしている病気である。病気の貴賤がどうこうではなくて、性質の違いだ。

かぜ、食あたり、心筋梗塞と聞けば、(学術的にどうかは置いといて)ほとんどの人は「ああ、なんとなくああいう病気だよね」と想像がつくのである。それは、病気の引き起こす現象が「マクロ」だからだ、と言うことができる。

これに対して、「病理診断をしないと診療方針が決まらない病気」は、「ミクロ」なのである。体の中に何が起こっているか、ぱっと見ではわかりづらく、じっくり血液検査をしたり医師が問診や診察をしたりしても、本質がなかなか見えてこない。だから、顕微鏡で細胞をみる「病理診断」が大きな意味を持つ。



で、何がいいたいかというと、病理診断を必要とする病気、必要としない病気、世の中にはいろいろあるんだけど、こと病理の話をしようとすると、どうしてもこの「ミクロな変化に意味がある病気」の話をせざるを得なくて、これが、なんというか、

「世間一般が認知しているイメージがあんまりない病気ばっかり」

なのである。説明しづらいのだ。



自然と、腫瘍、がんの話をすることになる。

実際に病理医をやってると、必ずしも腫瘍のことばかり考えているわけではないんですよ、とかなんとか、言いたい日があったのだ。いつかというと、今日である。

2017年4月19日水曜日

中年ファイト

ブログの記事はだいたい15~20分くらいで書くようにしていて、一気に最後まで書き上げた記事を読み返し、「まとまりがある程度あるな」と思ったらひとまずは「採用」とする。

書いた日から1週間後に自動公開するのだが、この1週間のうちに気が向いたタイミングで少しずつ読み直し、細かい手直しなどをする。

これはぼくの性格というよりも弱点を考慮したやり方で、自分の作る「初稿」には、「自分の頭の中にだけは浮かんでいるんだけど、うまく文章にできていないところ」がとても多い。だから、とにかく一気に全体像をまず作ってしまい、できあがったものをロングで眺めたり俯瞰で見返したりして、伝わりにくい部分を少しずつ削る。

粘土細工を思い浮かべている。

全部消すことが2回に1回くらいある。だから、「初稿」にあまり時間をかけてしまうともったいない。15分くらいでざっと書ける内容を、とにかく選ぶ。

この「ざっと書ける内容からスタートしている」というのが、たぶんぼくが持っている発信力の限界そのものなのだなあと日頃思っている。

ざっと書ける内容はざっと読める。しかし、ぼくらが現代のSNSでいちばん読みたいのは、たいてい、

「めちゃくちゃじっくり考えた内容を、すごい筆力でざっと読めるように書いたもの」

なのだよな。





ぼくはときどき、SNSでみんなが喜んでくれるようなものを書こうと思って、昔から考えていたこと、めちゃくちゃ考えまくってきた内容を、ざっとブログに書くのだが。

たいてい、そういう記事は公開前に消してしまう。これが2回に1回ということだ。

なぜ、昔から考えていたことに限って、ブログにするとしっくりこなくて、消してしまうのか。

自分の中に作り上げた風景が複雑になりすぎて、写生する力が追いつかないのかもしれない。

有名な「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」と、毎日戦っている気がする。

2017年4月18日火曜日

病理の話(70) 暗黒大陸小腸のふしぎ

人間の消化管の中で、もっともがんが発生しやすいのは、大腸である。続いて食道もしくは胃。十二指腸にあるファーター乳頭と呼ばれる領域がこれに続く。もっとも腫瘍発生が少ないのは、小腸。

日本人を含めた一部の東アジア人の場合は、ここに(東アジア型)ピロリ菌感染という刺激が加わるため、胃癌の頻度がぐっと増える。

欧米人など、肥満者の割合が高く、腹圧が高く、胃酸が食道に逆流しがちな人々は、食道のがんが増える。

大腸がんも、実は肉食との関係が深いと言われているため、人種間で発生の頻度に差がある。

おなじ人間同士であっても、遺伝子のタイプとか、食べているもの、ピロリ菌などの環境因子などによって、病気にかかるリスクが異なってくる。



それにしても不思議なのは小腸である。



消化管の中で最も長いのが小腸なのだから、そこにある細胞の数だって小腸が一番多い。細胞の数が多いということは、すなわち、ターンオーバーする細胞の数も多いということで、新陳代謝で細胞が入れ替わる頻度が高ければ、それだけエラーをもった細胞が出てくる頻度も高くなりそうなものなのに。がんがもっと、いっぱい発生してもおかしくないのに。

小腸がんというのはかなりまれだ。なぜだろう?



人間の体の中では、実は、「体外に近い部分ほどがんが出やすい」という原則がある。これは、単純に距離が近いというだけの話ではない。たとえば胃カメラのように、体外から突っ込んでいくものを想像してもらおう。胃カメラを想像できない奇特な人は触手でも想像したらいい。

触手は最初は、皮膚を外側からつんつんしている。

口の中に入って、食道の粘膜をつんつん。

胃まで進めて、胃粘膜をつんつん。

外側からやってきた触手が触れる部分は、「体外から接することができる」、すなわち、体外と体内との境界部分ということになる。これらは、触手に限らず、食べ物とか、酸とか、菌のような、体外からの刺激を受ける場所である。

自然と、エラーを起こしやすくなるというわけだ。



食道は、食べ物が物理的に激突する臓器であり、あるいは温度によっても、刺激を受ける。胃酸の逆流によっても刺激が加わる。

胃は、胃酸をばんばん出す臓器だし、ピロリ菌の関与とか、胆汁の逆流など、ほかにもいろいろと刺激が加わりうる。

大腸は、さまざまな常在菌がうようよ住んでいる。また、胃でいったんやわらかくされた食べ物が水分を失ってだんだん硬くなり、物理的な刺激をもたらすようにもなる。そもそも、体が不要と判断したゴミが通過する臓器である。刺激も多かろう。



小腸だって、細い専用のカメラを使えば(あるいは細い触手でもよいが)、体外から触ることはもちろん可能だ。ただ、単純に距離が遠すぎるのであろう。

ほかの臓器に比べると、刺激が少ないのかもしれない。



以上は単なる推測であって、証明されたものではないのだけれど……。

がんの話をするときに、「複数のリスク」を想定して、「なにがこの病気を引き起こすきっかけとなったのだろう」と考えていくと、物理刺激とかケミカルな刺激、菌のような微生物によるものなど、ほんとうに多くの因子が絡んできて、もはやわけがわからなくなってくる。そんなとき、「まあ、触手が一番届かなさそうだもんね」という言葉でざっと説明しておくと、なんとなく「腑に落ちる」ので、ぼくはたまーにこういう説明を使うようにしている。



ほんとはもっと奥が深いんだろうなあ。そう思ってくれる一部の人が、まれに病理学講座の門をたたいたりする。

2017年4月17日月曜日

ビクトル・ユーゴー 略して

風がものすごく強いんだけどこの「ビュゴォー」という音はなぜ鳴っているのだろうかと考える。

たぶん、建物のすきまとか、木々とか、そういったものに空気があたって音が鳴ってるんだろうな。

じゃあ空気がそういうのに当たるとなんで音が鳴るんだろう。

大きい壁にただ当たるだけでは音は鳴らないで、細いものとか細かいものに当たるとヒュオッって鳴るのはなぜだろう。

口笛のときに口をすぼめると音がなるけど、口を開けると同じ風量でも音が鳴らないのはなぜだろう。

うまく吹けないときと、きちんと音が鳴ったときの「中間」がないように感じるのはなぜだろう。

外の風の音を聞きながら、ひとつひとつ、自分の物理学の知識で回答を与えていく。

音は空気の振動だから……。共振が……。狭いところだと……。

途中までは回答できるが、最後の、「なぜ細いところを通る必要があるのか」については、高校までの物理の知識がうろ覚えになりつつある今は、即答できなかった。

たぶん、ググれば、どこかに書いてある。




ふと。

「風の音」すら記述できないんだな、ぼくの常識は……。

そういう気分になった。




難しいことは知らないままでも、人生は楽しくやっていける。

ほんとうだろうか?

学校の勉強よりも大切なことが世の中にはいっぱいある。

ほんとうだろうか?

学校の勉強くらい綿密に学び続けてよいのなら、ぼくはあるいは「学び続ける人生」を選んだかもしれない。




何かを知らないまま笑い続けることができない人もいるのだ、ということを、小声でささやいておく。風の音に吹き消される。

2017年4月14日金曜日

病理の話(69) 顕微鏡という宗教体験とか

細胞をみればその病気がわかる、というのはある意味信仰に近い。

正しく言うならば、「細胞を見れば、その病気がどんな細胞からできているかわかる」だ。なんだか循環論法みたいだ。

どんな細胞からできているかを知ることが、患者さんのためになるだろうか?

なる、とも言えるし、ならない、とも言える。「可能性と限界」と意訳できる。



病気がどんな細胞からできているかわかることによるメリットは、たとえば「がん」の診療で顕著である。現代の医学は、「がん」というひと言だけでは治療が決められないほど進化して多彩になった。

細胞がどんな種類か(腺上皮と呼ばれるタイプ? 扁平上皮と呼ばれるタイプ?)、細胞がどんなタンパク質を持っているか(HER2は? SSTR2は?)、細胞の遺伝子にどんな変化が起こっているか(KRASの変異は? EGFRの変異は?)によって、抗がん剤の種類、手術の方式などを細かく変えることができる。オーダーメード治療と呼ばれるやつだ。

CTやMRI、エコーに内視鏡などがどんどん進化しているため、実は細胞をとらなくても、細胞の種類をある程度見極めることはできる。しかし、オーダーメードというのは、「かゆいところに手が届く」ことが必要なのだ。なんとなくざっくり分類するのではなくて、細胞までしっかり見てビシッと分類することこそが求められる。

こういうとき、「病気がどんな細胞からできているかを知れば、患者さんのためになる」と言える。


一方で。


肝細胞癌という病気がある。この病気は、肝臓にできるがんの中でもっとも多いものだが、たとえば2cmくらいのサイズで見つかり、病変のかたちがきれいな球形をしている場合には、

「細胞を採取せずに、ラジオ波で熱を加えて焼いてしまう」

という治療をする。

この場合は、病理診断が入るスキマがない。画像で見てがんだと判定して、焼いてしまうから、生きている細胞を採りに行くタイミングがないからだ。

さらに、統計学的な検証によって、「病理診断をしてもしなくても、患者さんのその後の経過にかわりがない」ことがほぼ示されてしまった。細胞を見ても見なくても治療方針が変わらない。だったら、細胞なんて見なくてよい。

小さくおとなしめの肝細胞癌においては、「病気がどんな細胞からできているかを知っても、患者さんのためにならない」ということがありうる。



医学が科学の中で少々特殊なのは、「真実を明らかにすること」よりも、「患者さんが苦痛から少しでも遠ざけられること」の方が大正義である、という点である。このことを踏まえると、

「あれをやればもっとよくわかるのに」

という検査に医療保険が下りなかったり、

「これを研究すればもっとよくわかるのに」

という研究室に予算が下りなかったりする理由も、少しは理解できる(共感はしないかもしれないが……)。





ところで、「知りたいということ」が「患者さんのために」を下回る場合、「知らなくてもよいだろう」と片付けてしまってよいものなのか?

うーん、ここは難しいんだけど……。

病理医が第一に大切にするべきは「患者さん」なのだが、直接のお付き合いがあり顧客でもある「医療者」も大切にしないといけない。

「患者さんのために」 ≧ 「医療者のために」

くらいの気分でいる。

医療者ってけっこう知りたがりなんだよなあ……。だったら……。

ま、患者さんに迷惑がかからず、社会にも負担を増やさない程度に、丹念に、だけども、知ろうとすることに答えていくのも、立派な業務なのではないか、と思ったりするのである。

2017年4月13日木曜日

ネッイームゥ

漫画家さんの「ネーム」をみる機会があったのだけど、あれはすごいものだね。

ほんとうにおどろいちゃった。鳥肌が立つ、っていうけどそんな生やさしいものじゃない。皮膚の、表皮と真皮の間が裂けるんじゃないかと思った。全身の薄皮が剥がれて脱皮してしまいそうだった。

構図がすごい。文章だったら何十行もかけて説明しなきゃいけない内容を1コマの中にスッと入れている。語りかけてくるような説得力。

セリフがないのにキャラクタがしゃべっているように見えた。表情一つ、顔の向き一つでここまで表現できるものなのか。

なにより、ぼくが本気で書いたイラストよりも漫画家さんがネームに書いたラフイラストの方が圧倒的に美しいのである。



「そりゃそうだろう」と思われるかもしれないが……。



ぼくはたぶん、絵のどこがどうすごいとかを分析することはできるし、上手な絵とヘタな絵の違いを文章にすることもできるんだけど、文章にできるからといって自分が上手に絵を描けるわけではない。それはもう、居酒屋でくだを巻いている野球好きのおじさんは日頃から推しチームの4番打者に向けて怒声をあびせているけれどバッティングセンターでは100キロのボールにかすりもしないのと一緒だし、三代目JSBのライブを無理矢理みせられた彼氏が「岩ちゃんって実は一番ダンスが下手だよね」と言ってみたいけれど自分は学生時代に流行ったムーンウォークで挫折しているのと一緒だし、カヨコ・アン・パタースンの英語をバカにする人の9割9分がたとえ日本語であっても銀幕に立つことなどないのと一緒である。

解説はできるが実践できないものばかりだ、世の中というのは。

いや、正確には「解説はできるが実践できないものばかりだ」なんて先刻承知であった。でも、あらためて実際に経験すると、びっくりしてしまった。

見事な入れ子構造である。



誰もが自分の得意なものを持っているかというと、世の中はそうそう優しくはできていない。

ぼくを含めた大多数の持たざるものたちが、今日もプロの仕事を当たり前のように消費しているんだけど、たとえば冒頭の「ネーム」のように、「仕事のすごさをいやでも体感させられるような体験」があると、なんだか脱皮した皮がさらに土下座をするのではないかという、圧倒的な何かを覚えて気が遠くなってしまう。

でもまあ、こういうときにぼくができる「最低限のこと」は何かなあって考えると、「すごかったよ……まねできねぇよ」と言い続けることなのだろうなあ、とか、その程度であろうなあ、とか。

2017年4月12日水曜日

病理の話(68) がんを胸先三寸で診断するということの真意

ある細胞が「がん」なのか「がんではない」のかを決めるにはどうしたらいいのか。

病理医が見て決める、というのはまあ、そうなんだけど、じゃあ病理医は何を基準に細胞を判定しているのか。

ベテランの医師に尋ねると、例えばこういう答えが返ってくる。

「あれでしょ、核異型(かくいけい)とか、構造異型(こうぞういけい)とか、つまり、細胞のカタチ見て判断してるんでしょ。悪そうだとか、良さそうだとか」

まあほぼ合ってる。

でも、「ほぼ」だ。

この「ほぼ」はけっこう誤解を招く原因となる。

「カタチみてがんかそうじゃないか決めると言っても、たとえば、『まんまる』と『楕円』の境界をどこでひくかとか、『ごつごつ』と『つるつる』の境界をどこでひくかとかさ、あいまいじゃん、ファジーじゃん。そんなの主観じゃん。がんの診断って怖いよなー」




ぼくらは、より正確には、

「過去に多くの人が亡くなる原因となった病気に見られた細胞と似ているかどうか」

を判断している。

「亡くなった」という結果からさかのぼって、

「亡くなる前にはこういう細胞が見られることが多い」

「こういう細胞が出現しているといずれ亡くなる」

が延々と検討されてきたのだ。それが医学だ。

「この病気を放っておくと死んでしまう」

「放っておくと死ぬ病気にみられる細胞はこういうカタチをしている」

というのが、じっくり積み上げられてきたのだ。

積み上げてきた結果として、細胞の中でも核を見るとかなり精度の高い予測ができるということが明らかになった。

細胞のカタチだけではなく、細胞同士が徒党を組んで作り上げる構造も観察するとよい、とわかった。

わかった結果が、教科書に書かれ、受け継がれるごとに多くの人々の目に触れ、

「ここにはこうやって書いてあるけど、実際には違う場合もあるぞ」

みたいな厳しいご意見をどんどん集めて、教科書が少しずつ精度よく変化してきて、そして、今に至る。

現在の病理学の教科書には、積み上げられた結果の表層部分が主に書いてある。

積み上げてきた検討内容の、底の部分まで掘り下げて検討するのは、なかなか骨が折れるが、できなくはない。





「がんか、がんじゃないかなんて、病理医がその場の胸先三寸で決めてるんでしょう?」



ええ、そうですね、人類の歴史、医学の積み上げを学んで、多くの教科書や先輩達が伝えてきた内容を現代に合わせてアップデートし続けた、最新の医学を学んだ専門家の胸先三寸で決めているんですよぉ。

細胞の核が腫大しているかどうか、すなわち核内の遺伝情報が急激に増殖しようとしているかどうか。核分裂が頻繁に起こる細胞かどうか、すなわち核縁にひっついているヘテロクロマチンの分布が不均一になるかどうか、つまりは核膜の厚さが不均衡かどうか。核の形状がいびつかどうか。クロマチンの濃さはどうか、分布パターンはどうか。核小体が明瞭化しているか。非腫瘍細胞では見られないサイズの核小体が出ていないか……。

核だけではなく、細胞質、細胞の接着性、隣り合う細胞同士の不同性あるいは均一性、作り上げる構造が正常をどれだけ模しているか、周囲の構造を破壊していないか、脈管侵襲像はないか、神経周囲に沿うような進展はないか……。

いやあー、ほんとにいろいろ見所がありましてぇ、いろいろ教科書に見方があって、どの所見が強い力を持つかもきちんと書いてあってですね、これらをぉ、最終的にはぁ、「主観!」でぇ、見ていくんですよぉ。

歴史を学んだ人間の胸先三寸で、決めてるんですよぉ。

2017年4月11日火曜日

あとドラゴンボールとナンバーガールに例えることも多い

病理の話が少しずつ難解になっているようにも思うが、ぼくの中ではこのブログは、誰にもわかる話と、ぼくらしかわからない話、両方を書こうという気持ちでそもそもはじめているのだ。

だから、病理の話と、なんでもない話を、交互に書いている。

今日は難しかった? マニアックだった? ごめんなさい、明日もマニアックだけど、でももう少しわかりやすい話を書くね。でも、明後日はまたわかんない話にしようかと思ってる……。しあさってはわかりやすいように気を付ける。



「読者設定をして何かを書く」という作業に慣れすぎることに対する、抵抗感がある。

目的と手段、ということを考えた時に、目的が「より多くの人に病理を知ってもらいたい」であれば、対象となる読者をきちんと想定して、病理に興味を持つ人が一人でも増えるように手段を選べばいいのだが、どうもこのブログの目的はそことはちょっとずれていて、「自分が病理に対してどれだけ書けることがあるのかを知りたい」というところにある。

そして、もうひとつ、「自分とちょっと似た人に届く文章って何だろうな、それを知りたい」というのもある。



ちょっと前の話なのだが……。

興味のわいた映画があり、おっ、見てみようかなと思いかけていたところで、猛烈な勢いでその映画をプッシュする人の文章を読んだ(ちなみに書き手は、おそらく皆さんが知らない人です。なぜかというと、書き手はぼくの同級生であり、文章が公開されていたのは非公開のFacebookですから)。

とてもいい文章で、まだ見てもいない映画に対し、ぼくはおよその世界観とか見所を、ネタバレしない程度に味わうことができたのだが、全ての文章を読み終わったときに、

「うーん、彼以上にこの映画を楽しく見る自信がなくなっちゃったなあ」

と思って、映画を見に行くのをやめてしまった。



これは極端な例なのだけれども、ある世界に飛び込んでおいでよと説明してくれる人が、あまりに親切で初心者向けだと、その世界で何か尖ったことをしたり、何かを成し遂げたいと思っている人は、ちょっと興ざめしてしまう、なんてこともあるのではないか?

いやいや、そんなあまのじゃくばかりじゃないよ。

初心者向けの文章でまずはその世界に興味を持ってもらうことこそが、間口を広げて、ひいては世界人口を増やす一番の近道じゃないの……。

自分の中でずっと議論が続いていたのだが、先日、ある仮説にたどり着いてしまった。

病理医なんて基本的にあまのじゃくが指向する分野なんだから、本当に病理の世界に興味を持ってもらいたいのなら、あまり素直な文章ばかりじゃなくて、多少あまのじゃくな視点で好き勝手に書くくらいでも、ちょうどいいんじゃないのかな……。




まあ言い訳はともかくとして、「両輪で書く」というイメージがぼくの中にある。両輪というのはぼくの中にある人生のキーワードの一つだ。

キーワードとしてはほかに、「この世はすべて複雑系」とか、「共感しなくとも理解はできる」とか、「名言の多くは物事を動かさずにナワバリ線を引き直すだけ」とか、「演繹・帰納・アブダクション」などがあるが、この話はたぶんここでするのは2度目で、3度目に書くときにまた少し詳しく触れてみようかと思っている。

2017年4月10日月曜日

病理の話(67) 発生学迷宮ばなし

臓器がどのように発生したのかを考えるのはとてもおもしろい。

そもそも、タマゴ1個が分裂を繰り返して、こんな精巧な体を作り上げるというのが不思議でしょうがない。ブルゾンちえみによれば体の中には細胞が60兆個くらいあるという話だ。

細胞分裂の過程をどんどん追っていくと、どこかの段階で、単純に倍々ゲームだった細胞が、役割分担をすることになる。

君はここで何かを作りなさい。君はここで何かを支えなさい。君はここで道路になりなさい。君はあそこで柱になりなさい。君は体外に分泌するものを作ろう。君は血管の中に分泌するものを作ろう。君たちは集まってネットワークを作ろう。

君たちのグループはこの場所にないと、次の部署への受け渡しがうまくいかないから。

君たちが作る分泌液は、この臓器の中に放出するので、このあたりにいると近くて便利だから。

細胞は、ただ分裂するだけではなくて、居場所を定められる。

膵臓という臓器があるが、これは実に複雑な発生をしている。具体的には、腹側膵という部分と背側膵という部分が、発生の過程でドッキングしてできる。ガンダムが上半身と下半身に分かれていて、コアファイターを中心に引かれあって合体するようなイメージだ。

しかしこの合体にしても、単に腹側にある膵臓と背中側にある膵臓がくっつくだけではない。腹側膵はもともと、十二指腸に向かって左側に存在するのだが、

「十二指腸の周りをポールダンスするように、後ろにぐるりと回り込んで、背側膵と合体する」

のである。もう、わけがわからない。腹側に発生したから腹側膵という名前がついているのに、十二指腸の後ろを回り込んでドッキングするため、結果的には「背側膵に後ろから近づいてドッキング」してしまうため……

「大人の膵臓においては、腹側膵は背側膵の”背中側”にある」

という、もう書いていてわけがわからない状態が達成される。


これらには全て意味がある。腹側膵がわざわざ十二指腸の周りをポールダンスするのは、腹側膵が発生の段階で胆嚢や胆管を引きつれて十二指腸の後ろに回り込むためであり、胆管と膵管が正しくドッキングするためにはこうするしかなかった、という解釈だ。

まあ意味と言っても人間が後付けしただけなんだけど……。



なんでこんな、文章で書いてもわけがわからなくなる不思議な立体構造を解説したかというと。人体の中にある病気の一部は、「発生の段階でちょっと失敗しちゃった」というのが原因となって発生しているからだ。

病理学を学ぶためには解剖学もそうだが、発生学も知っておいた方が都合が良い。

例えば腹側膵と背側膵の癒合不全はdivism(ディビズム)という異常につながるのだが、このdivismが存在する人においては、胆管と膵管の合流異常もまた観察される場合が多いし、膵胆管合流異常がある人には(炎症などが起こりやすいためか)膵臓癌が発生しやすいという傾向がある。

このあたりは、発生学を理解していると、わりとわかりやすい。

(参考リンク: http://mymed.jp/di/tyc.html このサイト、信用して良いのかどうか微妙ですが、少なくともこのページの図についてはある程度妥当ではないかと考えています)


刑事物のドラマのラストシーンで、犯人が言い訳たっぷりに自分の不幸な生い立ちを語り始めると、ぼくみたいなゆがんだ視聴者は「そういうのいいから……」と冷めてしまうのだが、しかし、病気の原因を探ろうとするとその生い立ちに遡るというのは、確かに一定の効果がある。

なんでお前、こんなことになっちゃったんだよ、というのを解釈する作業は、病気の「動機」を探る作業に似ているのではないか。

2017年4月7日金曜日

札幌市にはUFO高校というのがあるのだとずっと思っていた

デスクの前の壁に、カレンダーを3セット貼っている。うち、2つは「1か月分のカレンダー」で、1つは「2か月分のカレンダー」である。

今が4月なら、カレンダーはそれぞれ、「4月」、「5月」、「6月と7月」のようにめくっておく。だいたい4か月先までの予定を書き込めるようにする。

正直な話、以前は、自分の予定をデスク前面にバァーンと表示することで、忙しさをアピールする目的があった。

病理医はすぐ9時5時でラクそうだとか言われるので頭に来たのだ。

用意するカレンダーも、「2か月分のカレンダーを3セット」として、半年分書き込んだ真っ黒なカレンダーで壁面を彩り、たずねてくる医療者達に圧力をかけていた。

ちょっと精神が幼かったのだと思う。

今の時代、Googleあたりのアプリを使って管理する人の方が多く、アナログなカレンダー管理自体にあまり優位性がないというのもあるが、ぼくはもうそういう忙しいアピールはやめることにした。通り過ぎたことに後悔はないが、もう戻りたいとも思わない。高校生活と似ている。



昔から、カレンダーにはたいてい美しい写真がついている。今貼ってあるのは野鳥の写真と、野草の写真だ。なぜ野山しばりなのかは偶然なのでよくわからない。

カレンダーに使ってもらえる写真なんて、一流だよなあ。いいなあ、こんな写真が撮れる人は。

野鳥の方は、「ヤマガラとシジュウカラのバトル」だそうだ。撮影地は札幌、とある。どうも素人の投稿写真らしい。

野草のほうは、エゾコザクラ。撮影地は富良野。なんだよ、これも北海道の写真かよ。



ぼくは被写体ばかりの土地で暮らしているのに、自分が検査室の備品からパクってきたカレンダーの写真にも気づかず、ただ予定を書き込んでやってくる人にドヤ顔で提示するだけで毎日を暮らしていたのかと思うとがっくりする。



どうせドヤ顔を晒すなら、こんどは自分で写真を撮って、カレンダーの代わりにデスクに飾って……。



卒業できていない。高校やり直しである。今度は定時制かもしれない。

2017年4月6日木曜日

病理の話(66) 歴史が今に残した病気という概念

少しマニアックな話をする。

現在、この世の中で観察されうる病気は、「激烈すぎないもの」が大半だ、という話だ。

たとえば、一瞬で空気感染して全ての人を瞬間的に死に至らしめるウイルスというのが存在したら、とっくに人類はほろんでいただろう。

……あるいは、歴史の中で、「ある生物種を全滅させたウイルス」というのもあったのかもしれないが、宿主(感染する相手)を瞬間的に滅ぼしてしまうウイルスなんてものは、「宿る先を失ってしまう」ので、そもそも現代まで生き残れない。

今に残るウイルスは、「人間をある程度生かしておく」という性質を持っている。

致死率の高いウイルスというのもいっぱいあるじゃないか、と反論されるかもしれないが、致死率が100%に近かろうが、決して100%ではないし、「感染、すぐ、即死」というウイルスもない。

宿主が即死したら、次の宿主に移る前に、ウイルスも逃げられなくなってしまうからだ。必ず潜伏期間があり、「人が無症状のままウイルスが増えている時間」というのがある。

ウイルス感染症に限らない。

今この世の中にある病気には、「潜伏期間」があり、「死までの猶予」がある。

逆に言えば、死までの猶予がない病気は、次世代や周囲に伝播しない。



死までの猶予は何によってもたらされるか。

病気が体内で育つ時間。

病気を体内の何かが攻撃して、戦うことで、その広がりを遅くする場合。

発症に年齢が関与する場合。若いときはかかりにくく、年を取ってからかかるような病気であれば、患者さんには次世代を残すだけの時間が与えられている。



「がん」が現代まで残っているというのは、これらの全てを満たす疾患だからだ。

がんを未だに撲滅できない、という言い方は正確ではない。

がんは、人間に「次世代を作るゆとり」を与える(高齢者がかかりやすい)疾患である。

人間同士の間で「かんたんには移らない」(原因となるウイルスがあるにしても、即座にはうつらない)疾患である。

かかってもすぐには命に関わらず、最終的に死に至るまでの時間が比較的長い疾患である。

もちろん、最後にはたいてい、人の命を奪う疾患。けれど、それまでに、猶予がある。

「この世に残るべくして残った、脅威」という考え方ができる。



多少、「擁護」するような言い方になってしまったが、憎むべき敵には違いない。がんを撲滅せずしてなんの医療者かと思う。だからこそ、真剣に、冷静に考えたい。ぼくらががん撲滅を考えるとき、このがんの性質に着目する。

体内にゆっくり蓄積していくリスクがあって発症する、原因から結果までが長い疾患。であれば、リスクの総和をどのように減らしたらいいだろうか? 加齢というリスクはもはやいじりようがない。リスクゼロというのは神話に過ぎない。累積するリスクに応じた早期発見方法を開発するのがよいのではないか?

少なくとも感染がきっかけとなり発症するタイプのがんについては、感染症対策をすることで罹患数を減らすことができるのではないか?

がんが体の中にできてからゆっくり発育する時期があるのなら、その「ゆっくり時期」を延長するような治療をすれば、がん自体を完全に直さずともよいのではないか? 具体的には、あと10年で死ぬがんを、あと200年で死ぬがんに改良するような治療ができれば、がんで死ぬ心配は減るのではないか?

がんが体の中で大きくなるのをふせぐ生体側の複雑な因子をうまく調節できないか? 複雑過ぎる人体を食品ひとつとか健康法ひとつでどうこうできるわけもないけれど、がんを生体が攻撃しやすくなるような環境を作る治療というのは考えられないか?



この世はすべて複雑系である。シンプルな解法というのが存在したら、とっくにその問題は解決している。人類を即死させるウイルスがあったら人類はとっくに滅亡していただろう。その逆もまた真なのだ。時間の経過と共に「現代に残った病気」が、そうカンタンに解決できるわけはない。

だから、こちらも、複雑に取り組まざるを得ない。

2017年4月5日水曜日

えー札幌の3月29日ってこんなに熱いもんなんでしょうかねぇ

このブログはだいたい公開の1週間くらい前に書き上げている。この記事を書いているのは3月29日(水)の朝である。ツイッターを休止した。30日(木)のお昼には復活する。

理由は、29日の朝方にテレビ東京系列で放送された「けものフレンズ」の最終回が、札幌ではリアルタイム地上波で視聴できず、30日(木)のお昼にならないとネット配信されないからだ。

ツイッターをやっていると、ネット配信を見る前に、実況勢によりだいたいのあらすじがわかってしまう。ずっと見てきたアニメの最終回くらい、ネタバレをされずに見たい。

さて、どうしようかと考えた。ツイッターを続ける限り、ネタバレは避けられない。ミュート機能を使ったところで、絵で回ってくるネタバレは避けられない。トレンドに「かばんちゃん」という言葉が並んだだけで泣いてしまうかもしれない。

だったらツイッターやめよう。ひどく簡単な発想である。

リプライの通知は元々切ってあるから、リプライが来ていても気づかない。

DMの通知は(相互フォローの人に限り)付けてあるのだが、まさかDMでネタバレしてくる奇特な人もそうはいないだろう。

木曜日の昼まで、一度もツイッターの画面を開かない。これで解決だ。




この6年間でおそらく初めて、目覚めてから出勤し働いている最中に、いちどもツイッターにアクセスしていないという日を過ごしている。

なんて快適なんだろう。

この楽しさを誰かに伝えたい。

気がついたら瞬間的にブラウザが立ち上がり「Twitter」と「Hootsuite」を立ち上げている自分の手を見て呆然とした。一連の動作が、脊髄前根より末梢くらいの部分だけで完結しており、脳を介していない。体が完全に最適化されている。あわてて脳から指令を送り、Chromeの×ボタンをクリックして画面を消した。

ここまで体と一体化しているとは思わなかった。

よくある「ラスボスがヒロインを吸収してしまう最終決戦」で、「もうわたしはラスボスと一体化してしまったの 体を引きはがせば死んでしまうわ わたしごと倒して!」みたいな展開を想像する。

ツイッターを引きはがすとぼくは死んでしまうのではないか?

勇者はツイッターごとぼくを斬るべきなのではないか?

勇者じゃなくてゴブリンくらいでも斬れるかもしれないけど。

うまくこのネタを展開させれば50RTくらい行くかも知れない。気づいたらChromeが開いていた。あわてて消す。



ゴブリンで思い出したけれど、初代ゼルダの伝説の解説を書いていたファミマガ(ファミリーコンピュータマガジン)の記事に、

「森に住むゴブリンだからモリブリンである」

という説明があって、なるほどなーと思った小学校時代の記憶がとつぜん蘇った。

ゼルダ最新作にもモリブリン出てくる! 俺おぼえていた! わーい!

……次の瞬間にはChromeが立ち上がっていてぼくはあわててブラウザを閉じる。



札幌の3月29日、ぼくは朝から汗をかいている。どうしてこうなってしまったのか。ちなみに本記事のタイトルは、ナンバーガールの解散ライブのMCをパクったものである。Bloodthirsty butchers, the Eastern Youth, Foul, the Blue Harb, Cowpers, まだ半分くらいしか聴いてないなあ。いつの間にかツイッターの画面が

2017年4月4日火曜日

病理の話(65) 血の通った病理学なんていう幻想

「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、つい使ってしまう。

本で読んで覚えるだけではなく、現場で使えるようになってはじめて一人前だというニュアンス。しばしば、座学ばかりして実践をおろそかにする人間、あるいは座学すらしていない人間をたしなめる意味で用いる。

「使ってしまう」と書いたのは、この言葉、ちょっと卑怯だよな、と自戒しているからだ。



たとえば今日の研修医カンファでは、

「ぼくは病棟を持ってないからさあ、抗生剤の使い方とかはひたすら本で読むだけなんだよ。でも、長い既往をもつ患者さんがたまたま別の病気にかかったときに、どの抗生剤を選ぶか、みたいなのって、やっぱり本を読んだだけではわかりにくいんだよな。研修医のみなさんがぼくに教えてくれると助かるなあ、ぼくは病理医だからさ、わかるように教えてよ」

と、煽りまくって初期研修医達を苦しめた。もちろん勉強しておかなければいけないことなので、いちおう指導医をしているぼくがこのように言う資格はあるのだろうが、しかし、意地の悪い問いかけだ。

胆管炎の既往がある人に肺炎があるときにどの抗生剤を使うか、腎盂腎炎の治療をしている人に蜂窩織炎が出たらどの抗生剤を使うか、ステロイド服用によって感染リスクがどれだけ上がっているか、腎機能の悪化によって使えなくなる抗生剤はどれか……。

本を読みこめば書いてあるのだが、「読めば書いてあるだろう! 勉強不足だ!」となじってよいほど簡単な質問ではない。感染症専門医は「それを知っていないと医者ではない」くらいの勢いで解説をしてくれるだろう。けれど、覚えなければいけないことは他にもいろいろある。



「血の通った知識」を身につけるためには、知識をつなぐパイプどうしがねじれていてはだめだ。細くても、先が詰まっていてもだめだ。パイプの走行ができるだけ単純になるように、径が太くなるように、知識をうまくつなげる作業をして、はじめてそこに少しどろりとした血液が流れるようになる。

いつも高圧で血液をぐんぐん押し流している人はいいのだ。使用頻度が高いからと、ばんばん頻繁に血液を流している人は、自然と知識同士をつなぐパイプも太くなる。

しかし、そう簡単に「血は通わない」。現場では稀だが重要な症例なんてのはいくらでもある。稀な症例を目にする機会が多い専門医とは違い、研修医はきわめてよくある症例から順番に経験しなければいけないのだ。



救急車がいっぱいくる病院の研修医が言った、「2年間研修してまともに救急対応もできないなんて、どれだけしょぼい初期研修したんですか」と。

よかったね、自分の中に、血が通った分野がひとつできたんだね。

でも君と違う回路に血を流すためにがんばった人もいるんだよな。



「血の通った知識を身につけなさい」という言葉は卑怯である。血液量が少ない時期には、そもそも血を通わせることが難しいからだ。



ところで、「病理学の知識」に血を通わせたがる医者は比較的少ない。付け焼き刃の知識だけで臨床をわたっていくことも可能である。

さて、じゃあ、ぼくがよく言う、「血の通った知識を身につけなさい」は、病理学に対してもあてはめてよいのだろうか。

ほとんどの医者は、病理回路に回す血流なんて、そんなに多くないはずなのだ。

だったら、現場を知れ、血を通わせろというよりも、いつ血液が流れ出してもいいように、パイプを太くし、つながりをシンプルにし、袋小路をなくする作業に努めておいたほうが、よいのではないかなあ。



以上のような理由で、最近は、「血の通った知識を身につけなさい」という言葉を、こと病理学をめぐる場においては、なるべく使わないようにしようかなあ、とも思うのである。つい言っちゃうけど……。

2017年4月3日月曜日

クラスチェンジできないのは勇者だからです

先日少し運動をしたら、足が筋肉痛になったのはまあいいとして、驚いたことに腰まで筋肉痛になってしまった。なんてこった。日本語に、「足腰」というひとからげのフレーズがある意味がようやく分かった気がする。別に腰の曲げ伸ばしを激しくしたり、重い物を持ち上げたわけではないのに、走り回っただけで腰痛が来るなんて……。

先日のドックの結果で拡張期血圧がちょっと高めに出たというのもじわじわとぼくを責め立てる。

気持ちばかりが若い人間にはなるまい、と思っていたが、自分の体の衰弱加減に精神が追いついていないのだから、相対的に気持ちだけが若い状態だ。

これはまずい、精神を倍速で老成させないと、肉体と精神の不一致が早晩生じてくるだろう。

そこでまずは読書として、封印していた山田風太郎に手を出そうと思う。これはずいぶん昔に勧められていたのだが、時代物はまあ、もう少し自分のメンタルが落ち着いてから読んだほうが楽しいんじゃないかな、なんて躊躇して、それっきり読んでいないのだ。

あとで聞くところによれば、山田風太郎の忍者ものはむしろ若いときに読むべきではないかと言われたりもしたが、そこらへんの齟齬はよくあることだ。

あと、宮部みゆきも一通り読んでいるくせに時代物についてはなぜか少し遠く離れたところで見守る感じでいる。これもよくない。

精神を正しく逐年させるために読む本として、「時代物」しか考え付かない時点でだいぶ発想がアレなのだが、ほかにも考え付いたものがあるぞ。それは神社仏閣めぐりだ。

そういえば、大学院のころ、先輩が神社仏閣めぐりは楽しそうだと言って、その後実際によく行っていたらしい。彼はいまのぼくより若かったぞ、しまった、神社仏閣をめぐるのはよいが、足腰が弱っていると十分に歩き回れないではないか。

結局、精神を程良く老いさせようとするには、若い頃から「老いを蓄積」していかないといけないのだ。

若い頃に若いことばかりやっていてはだめだったのだ。誰に何を言われようとも、自分が出会ったものをもっとだいじにすべきだったし「これは後回し」とかやっていてはいけなかったのだ。

もう手遅れですね、という言葉がリフレインする。とりあえずはジョギングからはじめようと思う。ウォーキングでもいいかもしれない。少しじじくさいかもしれないが、良きじじいになるためには今から修練を積んでおかなければ、いざというときにはじじいになるために必要なスキルポイントが足りていない可能性だってあるのだ。