2017年5月25日木曜日

病理の話(82) 定義も立場で変わってしまう

欧米人、特に米国の医師と、胃や大腸、食道などの消化管の病気について話すとき、日本人が気にかけていることがある。

「アメリカのドクターだ。こんにちは。うーん、きっとこの人も、『日本人は、がんという言葉を過剰に使いすぎている』と思っているんだろうな……」

まるで呪文のように唱えて、「考え方」を向こうに適応させようと努力する。

「まだ人を死に至らしめるまでに5年も10年もかかるような、粘膜の中にとどまっている腫瘍を、『がん』と名付けるのは日本人だけだ。欧米では、こういう病変のことを、がんではなく、異形成(ディスプラジア dysplasia)と呼ぶ。もし国際学会で、安易に『粘膜内がん』なんて言葉を使うと、狭い日本でしか通用しない言葉を使う鎖国地域の人みたいに思われてバカにされる。いやだなあ、気をつけよう」

日本人は国際学会で、とてもナイーブである。うちはうち、よそはよそ、そうはいきませんのよ。




ただ、しっかりと話を聞いてみると、当の欧米人は、「ディスプラジア dysplasiaはがんじゃない」とは言うのだが、「ディスプラジアはがんと違うから、対処しなくてよい」とまでは言っていない。

「ディスプラジアは将来がんになる病変なのだから、場合によってはきちんと対処することで、将来のがんを防止することができる」と言っている。

日本人は臆病で、欧米人はバッサリ、というイメージがあるのだが、実際、欧米人もそこらへんはきちんと思考を尽くしているし、有名な教科書にも、よく読むと書いてある。




医療のゴールをどこに設定するか、という問題をきちんと考えなければいけない。

「欧米人ががんじゃないという病変を、日本人はがんと呼んで大騒ぎする」という言葉は、医療のゴールを「定義」とか「名づけ」に置いた場合の考え方である。

問題は、そこじゃないように思う。



・学者とか医者がこだわることばとか定義うんぬんじゃなくて、将来患者がどうなるのか、それを少しでもよい方向にもっていくためには何が必要なのかこそを、見極めるべきだ

・がんなのか、がんじゃないのか、という言葉の問題で思考停止してしまってはいけない

・ただ、人間は情緒の生き物であるから、自分が将来どうなるかに加えて、自分が今どのような状態にあるのかをきちんと名付けてほしいという欲求だって、しっかりある

・さらに人間は社会の生き物だ。ひとたびがんと名前のついた病気をもつ人は、社会によって保障されなければいけない。だから、「名づけ」を無視はできない

・おまけに人間は科学の生き物だ。遺伝子とか統計などの多角的な情報に基づいて、がんとそれ以外がどう違うのかをきちんと決めていくことには学術的な意味もある

・「がんじゃないから安心だ」というのは呪いのような言葉だ。「がんじゃないのに治療するのは過剰だ」が真実かどうかも、ケースバイケースで考えてみないといけない

・欧米人は言うほどバッサリものごとを切っているわけではなく、きちんとあいまいな部分を思考に組み込んだうえで、「そんなことはぼくだって考えたよ。けど、どちらかに決めないといけないならこっちだ!」という発信姿勢がはっきりしている

・ぼくらの考え方にもいいところがある。彼らの考え方にも興味深さがひそんでいる。欧米人もまた対話を望んでいる。ぼくらはそのやり方を理解したうえで、共感するしないに関わらず、立場を打ち出して議論をしていくしかない






「そんな簡単なものじゃないんだよ」という言葉がきらいである。

ものごとを単純化した先で、ぼくらの情緒が動くことはしょっちゅうあるからだ。

けれど、

「誰かが簡単に批判したり、臆病になったり、後ろめたい思いをしたり、怒り出したりする部分を、もう少し丁寧に掘ってみると、いろいろ見えてくる」

ということは、あるのだと思う。




今回の話はカギカッコが多すぎてごめんなさいね。