2017年5月31日水曜日

病理の話(84) 赤いルージュのハイライトされたモノクロ写真的な病理診断

病理では細胞の形を診断したり、細胞が作りなす構築を読み取ったりして、その病気がどういうものであるかを診断する。

細胞ひとつひとつを人間に例えるならば、「細胞核を見る」とは「その人の顔や髪型を見る」ようなかんじだ。

髪の毛がすごいリーゼントだとか、金髪坊主でそり込みが入ってるとか、なんかよくわからないものがいっぱいぶら下がっているとき、たいていそいつの素行もよろしくない。核異型を読むとはそういうイメージだ。

そして、人間ひとりを見るのではなく、似たようなヤカラが徒党を組んでどのような悪さをしているのか(細胞がどのような構築を作っているのか)を見るのも大切である。周囲の窓を割ってるとか、いてはいけないところにいるとか。構造異型とか浸潤の有無を読むとはそういうイメージだ。



さて、このような「かたち」を読むやりかたとは別に、免疫染色という手法も用いられる。これは、病理医が用いる追加検査として、もっとも有名な手法である。

細胞が持っているAとかBというタンパクだけを、茶色とか赤に染める。

イキった芸術カメラマンが大好きな撮影方法に、「ルージュの赤だけすごく目立つ、ほかはモノクロの写真」というのがあるでしょう。あのイメージに近い。

「くちびるだけ光らせる」と、「女性であることがはっきりイメージできる」みたいなかんじである。

このとき、リップの部分だけを光らせるために用いる抗体を、「anti-くちびる抗体」などと呼ぶ。アンチとかアンタイと発音する。「α-くちびる抗体」とも書く。



さて。リップを塗っていたら必ず女性だろうか?

つまり、調子こいたモノトーンかっこつけ写真で、くちびるが鮮やかに赤くハイライトされていたら、それは必ず女性だろうか?

ぼくはそうとは限らないと思う。男性かもしれない。



タンパク1個をハイライトするというのはつまりそういうことだ。ナイフを持っていればチンピラですか? いや、それは、コンビニで、フルフェイスヘルメットをかぶって、ふところに、ナイフを隠し持っているというならかなりの確率で不審者だろうけれども、バーミヤンの厨房で、シェフ帽をかぶって、右手にナイフ、左手にパイナップルを持っていたらそれはかなりの確率でコックさんではないか。



免疫染色(本当は免疫組織化学というんだけどここはどうでもいいので割愛)の難しいところは、これである。

光った、光らない、という二者択一でものごとを見たくなるんだけど、実際には、「周りがどういう状況であるか」をきちんと判断してからじゃないと、あるいは判断してからでも、スッと診断を決められるわけではない。

専門的に言うと、「検査前確率をきちんと設定して、その免疫染色の尤度比がどれくらいであるかを考えて、検査後確率を慎重に想定しないと、病理診断はできない」となる。



この世の中にあるほとんどのものは、単一のパラメータで判断することはできない。

「結局、自分が好きかきらいか、だよね。」みたいなまとめで終わるブログがいまいち心に入ってこないのも、同様の懸念がどこかに浮かんでしまうからではないか、と思っている。

2017年5月30日火曜日

かんなんなんじをたまにす をスッと変換できるのはドラえもん読者

感染性腸炎になり、一番ひどかった日はさすがに仕事を早退してしまった。

次の日は出勤した。ただ、周りが気にするだろうなあと思った。そりゃそうだ、感染だったら家に引っ込んでてくれないと困る。うつされたらたまったもんじゃないし。

ということで、翌日のぼくは、マスクと手袋で一日過ごした。なるべく人と接触せず、もとからデスクは部屋の一番奥にあるから、必要のない会話もしないようにして。

キータッチが狂う。

手袋というのは思った以上に動きを変えてしまうのだなあ。外科医は偉いなあ。

「限局性」と入力したつもりが、「げんkちょくせい」になっていた。

あーあー、と思ったところで、ま、試しに変換してみようかなと思って、スペースキーを押す。

すると、「げんkちょくせい」と入力していたものが、きちんと「限局性」と表示されるではないか。

おおーATOKすごいな。そんな誤入力の訂正までしてくれるのか……。



Googleは、検索語句を入力ミスしても、本人がたどり着きたかった結果を表示できるようなアルゴリズムを使っているという。いわゆる「もしかして」というやつだ。

うん、人間のミスを、コンピュータがミスにしなくしてくれる時代なんだなあ。

ぼくはとても感心したのである。



ためしに一つ、誤入力をしてみよう。

「名探偵こんな」と入力して検索してみた。

出てきたのは、


・名探偵コンナン
・名探偵こんなんでました
・名探偵こんなんおかしいやろ

などの、ネタ化された、コナンくんであった。



そこはスッとコナンくんだけ出してくれてよかったんだけどな。

ネタまで察するのは人間にまかしといてくれていいんじゃないかな。

2017年5月29日月曜日

病理の話(83) がんを味見できるかどうか

生検(せいけん)という検査手法は、そこに何が起こっているのかを知るためにとても便利使いされている。

一番有名なのは、「そこにがんがあるか、ないか」を調べる目的での生検だ。ただ、必ずしも対象ががんとは限らない。

たとえば皮膚炎とか、胃炎などの、「炎症」と呼ばれる病気を調べるときにも、生検が用いられることは多い。

レゴブロックについてくる人形の「手」の部分みたいな、マジックハンドの先っぽをすごく小さくしたやつで、粘膜をプチっとつまんでとってくる。

あるいは、ごく小さな、中空の針を刺して、組織をちょっとだけとってくる。

「ちょっとだけ」というのがポイントだ。



ときおり、学生講義などで、このような話をする。

「仮に、まったく患者のことを考えないでよいと言われたら、一番確実な検査とは、患者の全身を切り刻んですべて調べることです」

……死んじゃうよね。だめだね。そんなことをしたらだめ。だから、こう続ける。

「でも、そういうわけには行きませんね。理想の検査とはすべてを見ることですが、次善の理想というのがあります。それは、一部分を見ることで、全体が予測できるような検査です」

生検はちょっとしかつままない。この「ちょっと」というのがとても大切なのだ。小さければ小さいほど、採取したときの痛みも少ないし、血もあまり出ないし、患者の精神的負担も少ない。


たとえば、肝生検という検査法がある。肝臓に針を刺して、肝炎や肝硬変といった病気がどれくらい進んでいるのかを調べたり、肝臓の中にあるできものの性質を調べたりする。

この肝生検で採られてくる検体の量というのは、実に、肝臓全体の「60000分の1」にすぎない。

たった60000分の1を見るだけで、肝臓の何がわかるというのか?



有名なツイートに、

「選挙の時の出口調査は、お味噌汁の味見をするのといっしょ。味見をするのにお味噌汁を全部飲んだら意味無い。一部飲むだけで味はだいたいわかるよね」

というのがある。ぼくは、検査というのも、これと似たところがあるなあと、いつも考えている。

ただ、ここで大事なのは……。



お味噌汁はきちんとかき混ぜれば、だいたいどこを味見しても同じ成分が含まれている。

しかし、人体とか組織というものは、こちらが勝手に「かき混ぜる」わけにはいかない、ということ。

つまり、「採る場所もきちんと吟味しなければいけない」のだ。これが生検の難しさである。



「がんがありますか?」と書かれた病理の依頼書を見て、プレパラートを見て、がんが含まれていなかったとする。そのとき、病理医であるぼくが、報告書に書くべき内容は……。

1.がんはありません

2.代わりに、○○が採られています

3.この○○が、がんのように見えたのかも知れません

あるいは、

1.がんはありません

2.代わりに採られているのは□□です

3.この□□が、がんのように見えるとは思えませんが、病変の場所がうまく採れていないかも知れませんよ

このように書く。



所詮は一部分しか検討できない生検。しかし、それでも、患者の一部をむしってきたことに変わりはない。がんを狙って採取した標本にがんが無かったとしたら、「がんはないです。おしまい」で終わるのではなく、「なぜそこにがんが採られていないのか」までを解説したいなあと思う。

「全体のごく一部しか見ていないからです」

「採取部位がわずかにずれているのではないでしょうか」

「がんに見間違える可能性がある、別の病気が採られていますよ」



ここまで診断してなんぼだろう、と思うのだ。

2017年5月26日金曜日

かたよりも普通にこしまわりが好き

たとえば、こういうぼくという人間に話しかけてくる人は、多くが「ぼくに話しかけるのが苦にならない人」である。「ぼくに話しかけるのが嫌で嫌でしょうがない人」は、そもそも話しかけてこない。

なんらかの理由でぼくとの会話をこばむ人……それはぼくの年齢や性別によるものかもしれないし、何かからにじみでる信条をおもんぱかられているのかもしれないし、あるいは職業とか人種とか、単に見た目によるものかもしれないが、そういうものをはなから受け入れられない人は、「平和な文脈」でぼくと会話をすることがない。

だから、ぼくが「他人との会話」で得る経験には、さいしょからカタヨリがある。




学生や研修医の教育をしている人にありがちな言動として、「最近の学生は~」論が挙げられる。「近頃の若い人間と話をしていると、~~なところがだめだ」と言うエースやベテランを、目にすることが多い。

こういう、若い人にダメ出しをしたがるタイプの指導者に、わざわざ会話を「してあげる」若者、という時点で、かなり偏っているのではないか、と思う。

「教育の現場で、指導相手を分析してこきおろすのがクセになっている人」なんて、ぼくだったら、頼まれても会話はしたくない。必要に迫られて話すことがあるとしても、要件だけやりとりして、さっさとその場から離れたいと思う。

若者を批判する指導者が、「若者との会話」で得る経験なんて、偏っているだろうなあ、と考えている。




ぼくは日ごろ、そういう「若者を指導しててこんないやな目にあったよ」という指導者たちの話を、しょっちゅう聞く。

ぼくがそういう人たちと「会話をしやすいタイプの人間」なのかもしれない。

ほんとうは、世の中には、もっと「若者を大切に育てていくタイプの指導者」も、いっぱいいるのかもしれないが、ぼくが会話する相手はたいてい、「若者をダメだダメだと否定していくタイプの指導者」なのだ。

そうか、うーん、偏っているんだろうなあと、結論が見えてくる。

2017年5月25日木曜日

病理の話(82) 定義も立場で変わってしまう

欧米人、特に米国の医師と、胃や大腸、食道などの消化管の病気について話すとき、日本人が気にかけていることがある。

「アメリカのドクターだ。こんにちは。うーん、きっとこの人も、『日本人は、がんという言葉を過剰に使いすぎている』と思っているんだろうな……」

まるで呪文のように唱えて、「考え方」を向こうに適応させようと努力する。

「まだ人を死に至らしめるまでに5年も10年もかかるような、粘膜の中にとどまっている腫瘍を、『がん』と名付けるのは日本人だけだ。欧米では、こういう病変のことを、がんではなく、異形成(ディスプラジア dysplasia)と呼ぶ。もし国際学会で、安易に『粘膜内がん』なんて言葉を使うと、狭い日本でしか通用しない言葉を使う鎖国地域の人みたいに思われてバカにされる。いやだなあ、気をつけよう」

日本人は国際学会で、とてもナイーブである。うちはうち、よそはよそ、そうはいきませんのよ。




ただ、しっかりと話を聞いてみると、当の欧米人は、「ディスプラジア dysplasiaはがんじゃない」とは言うのだが、「ディスプラジアはがんと違うから、対処しなくてよい」とまでは言っていない。

「ディスプラジアは将来がんになる病変なのだから、場合によってはきちんと対処することで、将来のがんを防止することができる」と言っている。

日本人は臆病で、欧米人はバッサリ、というイメージがあるのだが、実際、欧米人もそこらへんはきちんと思考を尽くしているし、有名な教科書にも、よく読むと書いてある。




医療のゴールをどこに設定するか、という問題をきちんと考えなければいけない。

「欧米人ががんじゃないという病変を、日本人はがんと呼んで大騒ぎする」という言葉は、医療のゴールを「定義」とか「名づけ」に置いた場合の考え方である。

問題は、そこじゃないように思う。



・学者とか医者がこだわることばとか定義うんぬんじゃなくて、将来患者がどうなるのか、それを少しでもよい方向にもっていくためには何が必要なのかこそを、見極めるべきだ

・がんなのか、がんじゃないのか、という言葉の問題で思考停止してしまってはいけない

・ただ、人間は情緒の生き物であるから、自分が将来どうなるかに加えて、自分が今どのような状態にあるのかをきちんと名付けてほしいという欲求だって、しっかりある

・さらに人間は社会の生き物だ。ひとたびがんと名前のついた病気をもつ人は、社会によって保障されなければいけない。だから、「名づけ」を無視はできない

・おまけに人間は科学の生き物だ。遺伝子とか統計などの多角的な情報に基づいて、がんとそれ以外がどう違うのかをきちんと決めていくことには学術的な意味もある

・「がんじゃないから安心だ」というのは呪いのような言葉だ。「がんじゃないのに治療するのは過剰だ」が真実かどうかも、ケースバイケースで考えてみないといけない

・欧米人は言うほどバッサリものごとを切っているわけではなく、きちんとあいまいな部分を思考に組み込んだうえで、「そんなことはぼくだって考えたよ。けど、どちらかに決めないといけないならこっちだ!」という発信姿勢がはっきりしている

・ぼくらの考え方にもいいところがある。彼らの考え方にも興味深さがひそんでいる。欧米人もまた対話を望んでいる。ぼくらはそのやり方を理解したうえで、共感するしないに関わらず、立場を打ち出して議論をしていくしかない






「そんな簡単なものじゃないんだよ」という言葉がきらいである。

ものごとを単純化した先で、ぼくらの情緒が動くことはしょっちゅうあるからだ。

けれど、

「誰かが簡単に批判したり、臆病になったり、後ろめたい思いをしたり、怒り出したりする部分を、もう少し丁寧に掘ってみると、いろいろ見えてくる」

ということは、あるのだと思う。




今回の話はカギカッコが多すぎてごめんなさいね。

2017年5月24日水曜日

アップデートが終わんないところだったよ、あっぷでーなぁ

Windows updateを眺めているのだが、かなり時間がかかっていて、もののブログなどを調べてみたところ、アップデート時にはパソコンの中をチェックする作業が入っているようで、パソコン全体を確認してからインストールがはじまるために時間がかかるのだ、などということが書いてあった。本当なのかどうかは知らない。

しかし、アップデートのたびに自分をチェックするなんて、人間にはとうていできないワザである。

新しいニュース、新しい人間関係、新しいルール、新しい方針が目の前に降ってくる度に、自分の信条、過去あったこと、気質などをいちいちチェックしてから適応しようとする人が、どれだけいるというのか?

そう考えるとWindows updateというのは誠実だなあ、と、すっかり止まってしまった更新画面を眺めながら、思った。



知識のアップデートというのは大変だ。

あるときに自分が見つけた知識が、その後うそだった……うそまではいかないけど、大げさだった、そこまででもなかった、なんてこと、しょっちゅうだ。

ただ勉強するだけではなくて、自分が常識と思っていることが妥当なのかを検証しなければいけない。

けれど、ぼくらは、しばしば、知識のアップデートにおける「検証」をないがしろにして、ただひたすら情報を読みあさっていくことまでで満足してしまうことがある。



20年ほど前、アメリカでは「高タンパク質、メガビタミン、スカベンジャー物質の接種。以上が健康にいい」という説が流行ったそうだ。ぼくは、高校の時に、このフレーズを友人から聞いた。剣道部だったぼくは、筋トレの効率をあげるためにこれらを取り入れられないかと考えてみたのだが、高タンパク質はともかく、メガビタはデカビタCを飲むことでしか達成できなかったし、スカベンジャーに至っては何をとればいいのかわからなかった。

高タンパク質は、現在流行している「糖質制限」とも似た概念だったのかもしれない。メガビタミン(サプリでビタミンをとりまくる)は廃れてしまった。スカベンジャーってのはそもそもなんだったんだ? 今でもわからない。

でも、最初にこれを聞いた高校生のぼくは、「アメリカほど訴訟にうるさい国で流行ってるからには、きっと根拠があるんだろうな」くらいにしか感じていなかった。



今ならわかる。本当に体にいいこと、本当に社会にとっていいことが、「高校の友人から聞こえてくるお得情報」のレベルでしかぼくにやってこないなんてこと、あり得ないのだ。

本当にいいことなら、社会がもっとワッショイワッショイ推進して、公的機関もがっちり金をかけて回収しに回る。

「おばあちゃんの知恵袋」が役に立つのは、おばあちゃんの知恵が家庭で達成される「小さな幸せ」に照準をあわせているからだ。社会の健康状態みたいな大きな標的を、「ここだけの話」が撃ち抜く道理はないのだった。



こういう事例を、自分でも経験し、他人からも聴くに及び、「検証なき知識のアップデートは、害悪に近い」という立ち位置が、ぼくの中で明らかになっていく。

けど、ま、高タンパク質・メガビタ・スカベンジャーと聞いて信じてしまったぼくも、ただちに実行にはうつせなかったわけで、中途半端にアップデートした知識であっても、大ケガまでたどりつくことは少ないんだろう。

……だから、大ケガするまでは、気づかないんだろうなあ。

すっかりフリーズしてしまったパソコンを見てそんなことを考え、お手洗いに行って戻ってきたら、なぜかあれだけ進捗していなかったはずのWindows updateが全て終わっていた。

お前、ほんとうに、適切にアップデートされたんだろうな……?

2017年5月23日火曜日

病理の話(81) 天気予報的な診断学との付き合い方

統計というのはとても面倒で、しかも、「なんだ統計って、人間をものみたいに仕分けしやがって、もっとひとりひとりの顔を見て語れ!」とか怒られてしまうことすらあるので、おそらく大半の人にとって、なんだかあまり通り過ぎたくない、できれば関わらずにいたい、表札の下に猛犬注意と書かれた家の前の小路のようなものである。

……ブログの更新画面というのはいいなあ。

今のをWordで書いていたら、「助詞の連続」とか言って怒られてたろう。



統計というのは誰のためにやるものなのか?

えいやっと方針を決める医者のため。医者から聞いた方針を患者が納得するため。

一例を出そう。

胃に8ミリ大のポリープができた人。胃カメラでこれをプチッと採ってきた。てっきり「過形成性ポリープ」と呼ばれる命に関わらない病気かと思っていたら、「がん」だったという。

がん! びっくりするのである。

しかし、がんならみな命に関わるというわけではないんですよ、と言われる。

このがんは、胃粘膜の中に留まっていますから……。


「留まっているとは、なんですか?」



患者は尋ねる。医者は説明をする。

「がんというのは、しみこむ性質があります。しみこんで、転移をする。全身に広がってしまうと、一部分を採ってもすぐ再発をしてしまうので、手術ではなく抗がん剤などを使って、全身一気に治療をしてしまわないといけなくなります」

患者はおびえる。しかし、話には続きがある。

「でもこのがんは、粘膜内に留まっていますからね。まず、転移の心配はないわけです」

……まず、というところが気にかかる。

「正確には、粘膜内にとどまっているがんであっても、1%未満の確率で、リンパ節に転移します」

でた、確率。

「でも、1%未満ですから、このまま、様子をみましょう」

患者は釈然としないのだ。

1%未満であっても、確率が「ゼロではない」。

だったら、100人とか1000人が同じ病気であれば、その中のだれかは「がんが転移する」ということではないか。

いろいろ調べてみると、「リンパ節転移の確率があるならば、手術で胃を採ることも必要だ」と書いてある。

あわてて主治医に尋ねてみた。

「1%未満とおっしゃいましたけど、転移の確率がわずかでもあるならば、念のために胃をとってしまったほうが、安全なのではないですか?」

主治医は答える。

「でもねえ……胃をとる手術って、すごく安全ですけど、手術関連の合併症が出る確率だって、ゼロではないんですよ」

ああ……また、ゼロではない、だ。

「ごくわずかな確率でリンパ節転移をしているかもしれない症例で、ごくわずかではあるけれど死んでしまうかもしれない手術をする。これは、メリットとデメリットをてんびんにかけるような話ですから。あなたがぼくの家族なら、手術はおすすめしませんね。手術というのは、0.0何%程度とはいえ、副作用がある手技です。そういうのは、転移の確率が5%とか10%とか有り得る人にこそやるべきだ。転移する確率があなたよりはるかに高いときに考えるのがスジです」


確率、確率、確率……。

確率はいいよ。「わたし」はどうなんだ。「わたしの場合」はどうなるんだ……。






こういう感想が出ること自体、無理はない。

世の中には「絶対当たる予測」というものは存在しない。すべては確率によって定義される。あるのは結果だけ、いつも結果を完全に予測し得ることはない。

有名なフレーズがひとつある。

「世界に、絶対、と言い切れることがひとつだけある。それは、

  『世の中に絶対というのは絶対無い』

 ということだ。」

なんて。

でもそこでぶちあたるのは「確率」である。

確率はグラデーションだ。シロかクロかではない。グレーな部分を考えるためのものだ。

天気予報に、明日は絶対晴れると言って欲しい。

降水確率0%だ、と言っていた。やったあ!

でも明日になってみたら、雨が降った。なんだよ、天気予報はずれたじゃん!

……これは、天気予報の「当たる確率」が100%じゃないから、起こったことである。

予報するのが天気でなくてもいっしょだ。100%当たる予報というのはない。



「がんです」と病理診断を書くとき、「ぼくのこの診断がはずれる確率はどれだけあるだろう」と考える。その確率に応じて、書き方を変える。

「ほぼ間違いなくがんですが、臨床画像が非典型的な場合には一度ご連絡ください」

「がんの可能性が高いですが、臨床的にがんではない可能性があるならば再検討が必要です」

「がんか、良性腫瘍か、五分五分です。再度検査をして、もう一度病理診断をさせてください」



ぼくらが「絶対だ」と言えることが一つだけある。それは、「わからないことをこねくり回しても、わかるようにはならない」ということ。

わからないならば、そのわからない理由をきちんと述べる。

どうしたらわかるようになるのかを、臨床医に投げ返す。そして、投げ返した球と同じスピードで、あるいは投げ返した球を追い越すくらいのスピードで、臨床医に電話する。

「わかんないんですよ。だから、こうしましょう」

進言して、一緒に悩んで、先に進む。



その先にいる患者が今日も困っている。「確率って言われたって……」

たぶん、この病理レポートを見たら、患者は悩んで苦しむだろうなあ。

その想像、臨床医と同じくらい、病理医だって、持っていてしかるべきなのである。

2017年5月22日月曜日

さあて先週のサザエさんは

モンゴルに行く前に、モンゴルから帰ってきた翌日のブログを書いている。もともと1週間分の記事ストックをしているので平常運転である。

「何を見て何を感じて帰ってきているのか、この頃のぼくは」と書いておけば、自分なりの感慨にひたることができるだろうな。



それはそれとして自分の記憶の使えなさには辟易する。かつて、美しい風景だとか、おいしい食事だとか、いろいろ見てきたこともあったはずなのに、歴代のすばらしい記憶とやらを思い出そうとしても、脳内の風景にいまいちピントが合わない。

あそこに行ったときのあの風景はどうだったろうかと写真を引っ張りだそうにも、スマホの遙か昔のバックアップデータを探り当てるのがまず一苦労だ。みつけた風景写真には、人が写っていないせいか、どうも感情移入できない。自分が映り込んでいない風景写真というのは、時間をおいて見てみると、単に構図がちょっとへたくそな素人の写真でしかなく、そこにあったはずの色素、臭い、音といったメタデータがすべて消えてしまっている。

まいったな。

自撮りしとけばよかったのか。



自撮りした写真というのは多くないが、学会などでえらい先生方と一緒に撮っていただいた写真というのがあるはずだ、と思って、学会写真フォルダを開いてみた。

えらい先生方の名前をもはや覚えていない。ぼくはいつも似たスーツ、似たネクタイでそこに写っている。似たポーズでこっちを見て、似た笑顔である。

まいったな。

自撮りであってもだめか。




香川のうどんを食いまくって楽しかった日の記憶、思い出すのは「あれから何度も、香川のうどんはおいしいよと人に言って回ったなあ」という記憶ばかりだ。後日談で当日の思い出が塗り替えられてしまっている。




エントロピー(乱雑さ、片付かなさ)の局所的減少こそが生命の本質であるはずなのに。

ぼくの記憶はふつうに時間通りのエントロピー上昇を来してしまっているのだった。




先日、実家にて昔の写真をみた。ぼくによく似た父親と、ぼく、そして弟が写った写真を見つけた。この写真の記憶自体がない。はじめて見る写真のようだ。

そこに写った小学生時代のぼくは、父親と同じポーズで、両方のポケットに手を入れて、こちらを見て笑っていた。

今とは少し違う笑顔をしていた。

おそらくは、写真を撮った母親を見て、笑顔になったのだろうと、わかる写真だった。




ぼくは今、写真に写り込んでも写り込まなくても、笑顔を向ける相手が自分なのだな、だから毎回、似たような顔しかできないで、特別な記憶として残すこともできないでいる。

さてモンゴルではどのような笑顔を撮ったのか、明後日のぼくは。

それを見返して、何か違うものを見ることができたのか、来週のぼくは。

2017年5月19日金曜日

病理の話(80) もっと電話してね

ぼくら、「お気軽にご連絡ください」という立場である。レポートによく書く。わかんないことがあったらどんどん連絡してね!

……でも、臨床の医療者は、決して気軽には病理に連絡できないようだ。

というか、ぼくらは互いに、「科をまたいだ連絡」に対して、とても抵抗がある。

自分と違うタイムスケジュールで働いている専門家の時間を、電話やメールで削ってしまうことに対して、かなり躊躇してしまう。相手がどれだけいいよいいよと言ってくれても、である。

だって仲良くなればなるほど、相手の忙しさ、大変さが見えてくるし、余計な仕事増やしたくない(たとえそれが患者さんのためだったとしても、本来相手の仕事ではないものを相談するというのは、こと同僚にとっては「余計」なのではないか、と、邪推してしまうのが人の常である)。

「気軽に連絡をとりあえる」という関係は、なかなか達成できない。



臨床科同士の横の連携が密になっていると、診断の精度は上がるだろうなという予感がある。しかし、その予感と同じくらい、「ま、結局最終的に診断を下すのは自分だから……」と、連携をめんどくさがる感覚も、ある。

とりあえずガイドラインに表記されている事項を遵守していれば、細かいクリニカル・クエスチョン(臨床現場で医療者がもつ細かい疑問)をすべて解決しなくても、医療は回っていくし……。



あるいは、病理の勉強をしている臨床医などは、自分でもある程度「病理学的な事項」について判断ができるようになっているので、かえって「まあこの細かい疑問は病理医に聞くまでもないか」と自己解決してしまって、病理との連携をめったに取らなくなる……なんてケースもある。



とかく医療者は、とくに医師は、「自分ですべて解決できる」ということに、武勇伝的な何かを感じがちだ。

一方では、「お互い忙しいんだから、細かい疑問くらいなら自分で解決できるようにならんとな」という心遣いから出た行動であったりする。責める筋合いのものでもない。

けどぼくは、医療者のそういう「まあ相手も忙しいだろうし、聞きに行くまでもないか」は、さまざまな機会逸失につながる、「悪行」であると考えている。

善意から出た行動であっても、悪い何かをひっぱってくる可能性があるのなら、それは悪習としてきちんと是正していった方がいいと考えている。



細かいクリニカル・クエスチョンを、病理をはじめとする他科と連携せずに解決すると、いつしか病理医は「臨床で細かい検討が行われていること」に気づかなくなる。

医療は日進月歩なのに、いつまでも過去に必要とされたデータだけを出し続けるマシーンとなって、いつのまにか臨床の中で取り残されてしまう。

「こんな細かいことを病理にたずねるの、悪いかなあ」ではない。

「こういう細かいことがあると、病理をライブ・アップデートしてやろう」くらいの気持ちでいていただかないと、ぼくらはついていけなくなるのだ。

逆に、ぼくらが臨床に新たな気づきを与える情報を、別ルート(たとえば病理学会など)から持っているかもしれない。臨床のアップデートを病理から発信する機会は結構多いのだ。



お互いのために、連携は絶対必要なのである。



さて、お互いに連携を取る方がよいと言いながら、心理的障壁によって電話するのを躊躇する臨床の医療者たちを、どのようにアクティベートしていくか。

正解はないのだが、ぼく自身は、いくつか「こうしたらよいのではないか」という武器を実装している。



まず、病院の集まりに参加する。それは会議でもカンファレンスでもキャンサーボードでも飲み会でもなんでもいい。顔を見てもらう。血の通った人間がおたくの病理を担当しているんですよと、ちゃんと周知する。

次に、病理レポートを書いているときに、ちょっとでも何か臨床情報にひっかかることがあったら、ばんばん電話する。相手の時間を奪うことになる。迷惑かもしれない。だから、外来の担当時間などを逐一チェックし、各科の処置(手術など)のスケジュールをチェックして、「少なくとも今は大丈夫だろう」という時間に電話をかける。

病理レポートにも血の繋がった文章を書く。データベースを作りたいであろう臨床医が邪魔にならない程度に、「付記」欄を設けるようにして、その付記に「疑問なら答えるから連絡してこい」という雰囲気をばりばりにおわせる。

問い合わせがあったら秒で答える。とにかく自分の仕事を後回しにしてでも(どうせフレックスだ)、臨床からかかってきた電話にはその場で全て対応する。

プレゼン作成の依頼があったらなるべく詳細に解説を作る。パワーポイントのコメント欄に、時間がなくても読める、しかし必要条件をちょっとだけ越えるくらいの細かい説明を添えておく。




コミュニケーション重視の病理を心がける。それが、「次善の策」であろうと考えている。




……次善の策、と書いた。これらはすべて姑息的手段である。

本当は、いちばんいいのは、「あいつに聞けばものすごくいろいろ解決する」という実績をきちんと積み上げることである。

知人に、普段むだぐちをほとんど叩かない、病理検査室の奥に籠もって丹念な仕事を紡ぐ、ほとんど影のような存在の、それでいて病院内外から圧倒的な信頼感を得ている、しょっちゅう問い合わせの電話がかかってくるタイプの病理医がいる。

誰が呼んだか、彼のあだ名は「ジーニアス」。撮る写真が美しい。なんでも知っている。参考文献がスッと出てくる。

ああいう病理医を知ってしまうと、コミュニケーションのためにFacebookにいいねを付けまくるぼくなんぞ、合戦前にさんざんしゃべってフラグを立てたあげくに関羽に一合で斬られる魏のモブ武将みたいなもんだよなあと、自戒してしまうのだ。

2017年5月18日木曜日

モンゴルさん

この原稿は、ぼくがモンゴルにいる間にアップされる予定です。ツイッターで告知できないかもしれません。わざわざ読みに来てくださった方、いつもありがとうございます。




今回のぼくのモンゴル出張、目的は、ANBIG workshop ( http://www.anbig.org/ ) に出席することである。

Asian Novel Bio-Imaging and Intervention group, 略してANBIG。Iが2回あるけど、1回しか読んでいない。こういう、無茶な略称を付けた研究会には、たいてい「その略称でなければいけなかった理由」がある。

きっと、Asian NBI groupと読んでもらうためだろうなあ。

「NBI」とは、オリンパスという企業が作った胃カメラ・大腸カメラの技術の名前(narrow band imaging)に等しい。つまりはCMをかねているのだろう。

オリンパスだけではなく、複数の企業が協賛して、このぜいたくな研究会を支えている。





ANBIG workshopの正体は、エキスパート内視鏡医(胃カメラや大腸カメラの達人たち)が、アジア各国で技術を伝えて回る会だ。

過去にベトナム、香港、ミャンマー、インド、タイ、オーストラリア、台湾、中国、シンガポール、サウジアラビア、韓国、スリランカ、マレーシア、インドネシアで複数回開催されている。うーん、すごい数。

これだけの国で、しかもそれぞれ複数回開催されているとなると、さぞかし歴史ある研究会なのだろう、と思ってさかのぼってみて、驚いた。

中国で開催された第1回は2013年12月のこと。たかだか3年半しか経っていないのに、これだけの国に行ったというのだろうか?

過去の記録をふりかえってみた( http://www.anbig.org/activities/ )。なんと、「毎月」開催しているのである。

毎月、国際研究会を、各国で開催するだけのお金……?

いくら多数の企業が協賛していると言っても、なかなか運営できる回数ではない。




ANBIGでは、毎回、「先生役」にあたる医師が、2名ほど現地に乗り込んで、内視鏡を用いた最新の技術を、その国のエース達に「伝授」する。

呼ばれる「先生役」の多くは日本の内視鏡医だ。病理医のぼくですら聞いたことのあるような有名な名前が、ずらりと並ぶ。




これだけの国に、これだけの頻度で、毎回日本から、国際線に乗っけて偉い人を運ぶだけの「ニーズ」と「商売のタネ」が、この世界に存在する、ということ。

ちょっと、気が遠くなる。




胃カメラ、大腸カメラがターゲットとするのは、食道がん、胃がん、大腸がん。内視鏡医たちは、これらのがんをカメラで見て「診断」し、さらに、その場でカメラから特殊な電気メスのようなデバイスを出して「治療」をする。

胃カメラや大腸カメラですべてのがんを治療できるわけではない。進行したがんは、カメラの先から出る小さなデバイスだけでは治療がしきれないので、外科手術を行ったり、放射線治療や抗がん剤を使うなどして治療を行う。

ただ、「ある程度小さいがんであれば」、手術をしなくても、放射線や抗がん剤を使わなくても、カメラだけで治療できてしまうことがある。

これは本当にすごいことだ。

お腹を切り開かなくても、抗がん剤の副作用に耐えなくても、がんを根治させることができる、そんな素晴らしいことはない。限られたケースでしか適用できないにしても、だ。

だから、世界各地の「胃腸のお医者さん」は、最新の内視鏡治療がやりたくてしょうがない。




すごいお金が動いて、アジアのあちこちで研究会が開催されるのも、納得なのである。




そんなところになぜぼくが呼ばれていくのか……。

実はまだ、このブログを書いている時点では、モンゴルにたどりついてもいないし、講演も終わっていないので、ぼく自身、答えを持っていないのだが、ある理由を推測している。



理由。

胃カメラや大腸カメラを「極めよう」と思ったら、病理の知識について勉強したくなるのは当たり前と言える。

研究会が成熟し、モンゴルでも通算3回目の開催となったANBIG。「そろそろ病理医を呼びたいな」となったこと自体は、まったく不思議ではない。

内視鏡の進歩はすさまじく、それこそ前述のNBI(オリンパス)やFICE(富士フィルム)などの光学強調技術、さらには超拡大内視鏡(エンドサイトスコピー)と呼ばれる技術によって、消化器診療は今や、

「カメラを見るだけで、病気を形作る細胞の姿まである程度わかってしまう」

時代に突入した。

病気を切り出してきて、顕微鏡で覗かなくても、胃カメラや大腸カメラの画像を細かく解析すれば、病理診断に匹敵する確定診断ができるかもしれない。

「病理診断に匹敵する」ために必要なのは、「病理診断に精通する」ことだ。

実際、日本では、多くの内視鏡系の学会・研究会があるが、その多くで病理医が参画している。

だから、ANBIGでも、このたびはじめて、病理医を呼ぶことになったのであろう。



……なぜぼくなのだ?

それは、ぼくが、「ほどよいザコ」だからではないか。



海外の研究会に、病理で有名な教授なんて読んで講演を頼んだら、交通費・宿泊費に加えてさらに、「講演料」を払わなければいけない。

その点ぼくなら、偉くないから、交通・宿泊以外のお金を払わなくていい(実際、講演料は出ません)。

多少強行日程であっても、体調を崩しても、日本の病理学が揺らぐわけでもないし。

なにより、「病理の会」じゃなくて、「内視鏡医の会」なんだから、多少経験が少ない病理医でも、なんとかなるんじゃねぇの?




……みたいな理由を考えないと、なぜぼくが呼ばれたのか、どうもよくわからんのである。謙遜とかではない、ふつうにびびって、モンゴルでスマホやPCを充電するための変換プラグを用意したり、モンゴル語の勉強をして現地の人に嫌われないようにしたり、予防接種の準備をしたり、パスポートの写真がしょぼかったことを根に持ったり、仁川国際空港での乗り継ぎの仕方をブログで勉強したりしているのだが、そのあいまにぶつぶつと、不安だ、なんでぼくなんだ、ちゃんとやれるんだろうか、MIATモンゴル航空のeチケットにリザーブナンバーが書いてないのはなぜなんだ、とつぶやき続けているのである。

そんなぼくは、飛行機の乗り継ぎに成功している場合は、いま、ウランバートルのホテルでそろそろ目が覚めるはずなのです。Wi-Fiはほんとうにつながっているのだろうか。

2017年5月17日水曜日

病理の話(79) 症例報告の話

ぼくら医療者が、何か珍しい病気に遭遇したとき。

あるいは、病名自体はあふれているのだが、珍しい展開(いつもと違う経過、いつもと違う見た目)をとる病気と出会ったとき。

医療者は、「症例報告」というものを行う。

学会で、みんなの前で発表するとか、論文にして雑誌に投稿し、雑誌の査読者(さどくしゃ)にチェックを受けて掲載してもらうとか、やり方はさまざまだ。形式はともかく、珍しいことにであったら報告する、というのは、医療者にとって半ば「義務」である。


珍しい病気の診療においては、「診断がしづらい」とか、「思ったように治療が進まない」とか、「ひとあじ違った手技が求められる」など、さまざまな困難を伴う。

その困難さを乗り越えたあと、ああ、珍しかったなあ、で終わらせてしまってはいけない。

自分が感じた珍しさ、特殊性などを、同業者や後の人々に伝えて、残してあげなければいけない。

そうしないと、世界のどこかで「同じように」まれな病気に出会った人が、自分と同じ悩みを繰り返さなければいけなくなる。




……ということで症例報告は、昔も今も市中病院の研究活動としてはとてもメジャーである。さてここからが病理の話なのだが、病理医をやっていると、

・他科のドクターが、珍しい症例に出会った際に、病理の部分を担当するようにお願いされる

ことが比較的多い。

珍しい経過をたどったがんの「顕微鏡写真」を撮って欲しいと言われたり、珍しい形をしていた病気の肉眼写真から顕微鏡写真までをパワーポイントにわかりやすくまとめて欲しいと言われたりする。

ぼくは、臨床の医療者から「写真を撮って欲しい」と言われた症例をざっくりとエクセルにまとめているのだが、今日このブログを書いている段階で、通し番号が

(198)

となっていた。

今の病院に勤めて約10年になる。年間20件くらい、臨床家の症例報告や、ケースシリーズの作成などに付き合っている、ということだ。

この、「他科のドクター、あるいは技師さんのために写真を撮る」ことが、苦になってしょうがない、という病理医もいる。

まあわかる。自分の本来の仕事ではない、という意味だろう。

症例報告をするから手伝えと言われて病理医が手伝っても、実際に病理医自体の名前が報告に残ることは2割にみたない。気の利いた医療者だと病理医の名前も報告に入れてくれるのだが、学会や雑誌の規定で、(主治医ではなく、臨床の学会に入っていない)病理医の名前を載せられないケースも多いのである。

けれど、ぼくはこの「他人の仕事をこっそり手伝う」のがそんなに嫌いではない。症例報告の病理を解説してくれと言われ、パワーポイントに解説を組み上げて渡すのが、むしろ好きなのである。

なにせ、症例解説を頼まれる症例というのは、臨床の医療者達が「症例報告したい」と思うくらい、珍しいものばかりなのだから。

稀少なケースをじっくり勉強するのにもってこいだし、どこに困難が潜んでいたのかと考えて、また次回このような症例がきたらもっと華麗に診断を決めようとモチベーションも上がる。



今まで、「病理医は縁の下の力持ちである」みたいな説明を、ぼくは嫌ってきた。患者さんに会わないからとか、最前線にいないからというのを「縁の下」と表現されるのがイヤで、

「宇宙戦艦ヤマトの艦長の席にいる」

とか、

「軍師として高台から戦況を見つめて指示を与えている」

などと吹聴してきた。



ただ、「医療者の学会発表の手伝い」をしているときのぼくはまさに「縁の下の小仕事」をしているつもりでやっていて、うーん、あれだな、ぼく、縁の下も別に嫌いではないんだなあと、思ったりするのである。

2017年5月16日火曜日

芳一的思考

日中、歯を食いしばってしまう悪いクセができた。ぼくは元々、ハナクソをほじるとかびんぼうゆすりをするとか頭をぽりぽりかくなど、あまりお行儀がよいとは言えない行動を無意識にとってしまうタイプの人間である。

ハナクソをほじるとかびんぼうゆすりをするというのは、「人目に付く」。だから、自分でも意識して控えようという気持ちになるのだが、アゴに力が入るくらいだと周りの目にはつかない。まあいいかと思って放置していたら、治療後の歯の根が少しきしむようになってしまった。

食いしばりすぎである。

プロ野球選手の中には、スイングの際に歯を食いしばるあまり、奥歯がすべて欠けてしまう人もいると聞く。噛む力はとても強いのだ。ばかにはできない。

「かさぶたをはがして遊ぶ」とか、「爪の横にできたささくれをむいて遊ぶ」とか、「ヒゲをつまんで抜く」などは、いずれも「ライトな自傷行為」と言い換えることができる。とるにたらない刺激を与えて瞬間的な快感を得る行動。

これらが、社会の文脈で「はしたない」「お行儀が悪い」と注意して頂ける世に生きていることは、ぼくにとって好都合である。無意識で自分をむしる行動は、はしたない以前にあまり体によいものではなかろう。そこまでひどく悪いわけでもないが。

ということで、どうしたらこの「食いしばり」をやめることができるだろうかと、考えている。

食いしばりをやめよう、と考えていると、アゴが気になってしかたがない。あーもう。




意識すると、忘れられなくなるという現象は、脳の必要悪なんだろう。

集中が必要な人に、「舌ってどこに置いてあるんだったっけ?」と問いかけるいやがらせをしたことがある人もいるだろう。一度意識してしまうと、なかなかスッと忘れることができなくなる。

これはたぶん、「脳が、情報に重み付けをする」という機能の副産物だ。

すべての情報を等価に記憶していたのでは、何かが起こる度に記憶の引き出しを端っこから順番に開けていかなければいけなくなる。だから、「ひとたび意識したならば、その記憶は取り出しやすいところに一時ストックする」機能があるのではないかと推察する。

このことを逆手にとって、仕事をしているとき、ストレスがかかっているときに、歯を食いしばるのではなく、何かほかの行動を無意識下に選択できるよう、脳の引き出しの整理をすれば、食いしばりというクセは奥深くにしまわれて、再び出てこなくなるのではないか。

たとえばペンを回すとか……。

腹筋に力を入れるというのもいいかもしれない。6パックになるかもしれない。

ふくらはぎを動かしてエコノミークラス症候群の予防をするというのはどうだ。




結果、現在、髪の毛、鼻の穴、耳の中、アゴ、指先、腹筋、背筋、ふくらはぎ、足の裏などが気になったまま仕事をするという地獄のような毎日を送っています。

2017年5月15日月曜日

病理の話(78) データベース化の恩恵と落とし穴

78回目となるがそろそろ自分が前にどこに何を書いたのか思い出せなくなっており、前にも書いたかもしれないことをうっかりまた書いてしまうかもしれないのでご容赦いただきたい。


つまり何が言いたいのかというと、文章というものは、書いただけでは「自分がかつて何を書き残したか」を覚えられないのである。よっぽど頭のいい人なら別なのかもしれないが、頭がよくないと使えないシステムというのは困る。

何の話かというとこれは「病理レポートの検索」の話である。



病理診断は、結果がすべて文章化されている。精度の高い、確定診断に近い情報を、「レポート」に記載している。

多くの臨床医療者や研究者は、病理のレポートを「検索」し、自分の施設にどのような症例が過去に存在したのか、その症例ではどのような疾患名が適用されたのか、いかなる進行度、いかなるステージ、いかなる組織像であったのかを、過去に遡って検討するのだ。

あらゆる病理診断科は、「データベース」として活用されなければならない。だから、ぼくらは、「あとで検索されるかもしれない」という予測のもとに病理診断レポートを書く必要がある。



「毎回違う表現」で書いて喜ばれるのは、文学に限った話である。

科学は、「毎回同じ表現」で記載すべきだ。

「腺癌」と「adenocarcinoma」は同じ意味の言葉なのだが、ある日は気分で「腺癌」と書き、またある日は気分で「adenocarcinoma」と書く、なんてことをしてしまったら、腺癌の症例を検索するときには2つの語句で「or検索」をかけなければいけない。

Carcinoid tumorと書くか、カルチノイド腫瘍と書くか、neuroendocrine tumor (NET)と書くか。

印環細胞癌と書くか、signet-ring cell carcinomaと書くか、sigと略称で書くか。

こういうのはきちんと統一しておかないと、後で検索するときに痛い目に遭う。



見やすいレポートを書くために、「行替え」を使ったとする。このとき「長くなった英文をハイフンでつないで2行に連続させる」なんてことをしてはいけない。

合胞体栄養細胞(syncytiotrophoblast)が長い言葉で、行の最後にかかってしまったからと、「syncytio-trophoblast」とわけて改行させてしまったら、もう検索では見つからなくなってしまう。



見やすいレポートを書くために、「インデント」で行の頭を揃えてやったとする。以下はその例である。

  表皮の肥厚によって構成された外向性の隆起性病変です。組織学的
  に、類基底型の細胞が増殖する病変で、基底部には色素沈着を伴い
  ます。病変内部にはpseudohorn cystの形成がみられます。脂漏性
  角化症と診断いたします。

たとえばこれ、丁寧に改行して、行の頭を2字だけ下げて揃えてあるんだけど、この処理をしてしまうと、「脂漏性角化症」という言葉では検索でhitしなくなる。「脂漏性角化症」が二つのことばにちぎれてしまっているからだ。おわかりだろうか。



病理のレポートは、まず第一に医療者に伝わりやすいように、意識して書く。見やすく、読みやすくすることはとても重要だ。

しかし同時に、

「後世の医療者や病理医、さらには数年後の自分が、検索でふたたびこの症例に戻ってこられるように」

という側面をも見据えて文章を作るべきである。

稀な症例、教訓となる症例を、ただ通り過ぎるだけではだめだ。

いつでも自分の経験した症例、さらには他の病理医が経験した症例に舞い戻って、患者さんとの「一期一会」を無駄にしないように、努めていかなければいけない。

そのためには、PC検索という文明の利器を最大限に活用できるよう、文章作成の際にもきちんと決まり事を作っておくことが大切なのである。




以上のことをじっくりと考えていると、最終的に、

「病理レポートの重要な項目はすべて英語で書くべきだ」

という結論に至る。英単語は、日本語よりも、改行などに伴う禁則処理がきちんとなされている(単語の途中で改行はされない)上に、表記ブレが少ないからだ。

日本語だと漢字やひらがなのバリエーション(頚部と頸部、鼠蹊部と鼠径部、びらんと糜爛)が含まれる怖さもある。英語で気を付けなければいけないのは、略称くらいか。

一方で、

「日本人が書き、日本人が読むためのレポートを全て英語で書くのはどうなんだ」

という、至極ごもっともなクレームにも対応する必要がある。結局、ぼくは、

「後に検索の対象になるかもしれない重要な疾患名や所見の名前などは、英語と日本語両方で表記する」

というやり方をとっている。

「腫瘍細胞は篩状構造 cribriform patternを形成し」

とか、

「大細胞神経内分泌癌 large cell neuroendocrine carcinoma」

とか。



記載と表現について、科学や医学には古くから伝わるルールがある。病理医は、まずこの「古典的な病理学の記載方法」というのをきちんと学ばなければならない。

そこに加えて、技術の進歩(PC検索とか、データベースの構築とか)を意識し、後の時代に生きる人間ほど「昔をいっぺんに検索できる方法はないかな」と考え続けなければいけない。

さらには、病気の概念自体が時代と共に移り変わっていくことも忘れてはならない。

10年後、20年後に、今この名前で診断している病気が違う名前に変わっている、なんてこともあるのだ。

これらを踏まえて考え続けている人間が、各病院に1人いるかいないかで、その病院から出てくるデータの信ぴょう性というのもまた少しずつ変わっていくのではないか、そんなことを考えている。



たった今、「信ぴょう性」と「信憑性」の表記ブレが気になったところである。

2017年5月12日金曜日

利口なやりかた

時代とともに価値観が移り変わるのではなく、価値観が移り変わるから時代という定義が行われるのだと思うのだが、この話をしたところで誰も幸せにはならないし、利口な人間はそういうの全部わかっていると思うので、おしまいとします。

なにはともあれカメラを買った。日常の風景がすべて「写真におさまりそうか」という観点で見えてくるので、迷惑なことである。この感覚を飼いならすと、女子高生になれるかもしれないという、淡い期待もある。インスタグラムの何がおもしろいのか、人に自分の撮った写真を見せてどうなるのか、という質問自体が成り立たないし、世間がファインダー越しに見えるのではなくインスタグラム越しに見えているのだし、載せないという価値観はないし、撮らないという時代感もない。

で、ま、撮らないでいる。自分が撮った写真は、世界を矮小に切り取っているようにしか思えない。代わりに、人が撮った写真にいちいち感動できるようになった。こんなのウツシエじゃん、としか思っていなかった自分が、新たな時代に突入した、「世界を切り取れる人と切り取れない人がいて、切り取れる人はすばらしい」。

そういえば自分の見たものしか信じないというタイプの人もいるけれど、君の目なんてのは世界を眼球の形に切り取ったにすぎないのに、真実がどうのとしゃらくさいよな、なんて思うようにもなった。



Nikon D5500はとてもいいカメラで、大変たのしいのですが、ぼくはやはり今度GRIIも買おうと思います。だいいちRICOHもなんかあぶねぇって言うし、今買っとかないと後悔するからな。

2017年5月11日木曜日

病理の話(77) パイプの成り立ちを考える

細かすぎて伝わらない話よりは、おおざっぱであっても日常にリンクする話の方がいいのだろうなあ、と思うのだが、そういう「人に伝え、興味をもっていただく話」ばかりしていると、マニアックなおもしろさというのは失われてしまう。病理学ってのはたぶん、そのマニアックなところにこそ、「働き続ける甲斐」が転がっている。神は細部に宿るとか偉そうに言う人がいるのだけれど(たいていは芸術とかそっち方面の人だ)、細部に宿るのはどちらかというとオタクだ。まあ、オタクはよく「神」という言葉を使うのでたいして違いはないのである。つまりは今日はなんの話をするかというと、マニアックな、細部の話をする。


細胞がならんで何らかの形を作る、ということ。よく考えるととても異常なことである。

自然界で、なにかが並んで「偶然かたちを作る」というのは、心霊写真、UFO、宇宙人といった文脈でしか起こりえない。ふつう、自然に存在するものというのはすべて、アットランダムな配列にばらけてしまうものだ。

ところが、人の体の中では、細胞と細胞が手を取り合って、意味のある形を成す。

人体の中で一番多くつくられる形は、「パイプ」である。「通路」でもいい。生命はとにかく物流なのだ。栄養を行き渡らせる。酸素を分配する。そのために必要なのは、

・道路
・トラック
・物資そのもの

である。血管、リンパ管といった細かい生活道路、さらには胃とか大腸とか、おっぱいの乳管だって、唾液が出る導管だって、あれもこれもパイプばかりなのだ。

この「パイプ」を作るためには、細胞がきちんと手を取り合って「輪」を作らないといけない。

輪を作るのに必要なのは、なにか?



□ ←細胞だとします。



□□□□


□□□

↑これ、まだ途中ですけど、続けていけば、パイプ(輪切り)になりそうね?




□□□□□
□   □
□   □
□□□□□

↑こうなればいいよね? では、この形をつくるのに「失敗する」ことがあるとしたら、どういう感じだろうか。



□□□□□
□ □ □
□ □ □
□□□□□

↑ざっくりいうとこういうことなのだ。余計な仕切りができてしまった。これではパイプとしては不適切である。パイプの中身(穴)のサイズが、狙い通りの大きさになっていない。

パイプの成功パターンと失敗パターンでは、細胞の配列に、はっきりとした「違い」がある。それはなんだろうか?

成功パターンにおける細胞の配列は、以下の2種類しかない。

□□


□□□

これに対して、失敗パターンにおける細胞の配列には、もう1種類ある。

□□□
 □

これだ。

細胞の気持ちになって考えよう。主人公を黒く染める。

■□


□■□

成功パターンの2種類では、黒い細胞が「両手」を使って、両脇にいる細胞と手をつないでいる。連結している細胞が、左右の1個ずつだ。

これに対し、失敗パターンだと?

□■□
 □

黒い細胞は、3個の細胞と連結している。



「細胞の気持ちになって考える」と。

両脇2個の細胞と手をつないでいてくれれば、自然と「輪」はできるのだ。

しかし、余計な気を起こして、3本目の手を出してしまうやつが現れると、「輪」という構造はうまく作れなくなってしまう。



人体の中で、細胞が並んで何かの構造を作るときは、今説明した「2次元」ではなく、「3次元」でものごとが運ぶ。だから、もっともっと複雑な解析が必要になるのだけれど、構造を解析するというのは結局こういうことだ。

細胞にはある程度の「制限」がかかっている。つなぐ手がおおければいいというものではない、手は2本でいいといったら2本でいい。そこに新たな3本目の手が現れてくるときは、なんらかの「限定的な機能追加」があるか、あるいは単純に「空気の読めないおかしいやつ」だということだ。

空気の読めないおかしいやつとはつまり、「がん」だったりする。



病理学用語で、「cribriform pattern」というのがある。日本語に訳すると、「ふるい状」となる。ふるいとは米とか麦とか豆とかをより分ける、穴のいっぱいあいたアレだ。

□□□□□
□ □ □
□□□□□□□
□ □ □ □
□□□□□□□

これがcribriform patternである。ひとつの輪郭の中に、穴がいっぱいあいている。
おとなしくパイプの形に並んでいればよいものを、余計な手を何本も出してしまうがん細胞のせいで、穴があきまくってしまった状態である。


細胞をみると、病気がわかるというのは、こういう「解釈」を積み重ねた結果だったりするのだ。

2017年5月10日水曜日

うさどさんさ

水曜どうでしょうというテレビ番組があって、DVDなどが今でも出続けているのだが、そのディレクター陣が書いた「どうでしょう本」というのがかつて2冊だけ発売された。

まあ大した本ではないのだが今まで読んだ本の中で一番おもしろかった本のひとつだ。

大したことはないのだが創刊号で「うどん」の話を特集していたのだ。

大した内容ではないのだがそのうどんの話がとても好きだったので、ぼくは、本を読んだあとに、香川県に行って実際にディレクター陣が行ったうどん屋というのを全部回ってみたのだ。

2泊3日で14軒回ったのだが、当時はぜんぶ食べられた。香川のうどんは一杯ごとの量が少なめで(多くもできるけど)、1日5食くらいは余裕で行けるのだ。

山越、池上のような超有名店からスタートし、がもう、たむら、日の出製麺は午前中しかやってないから行けない、なかむらは系列店がいっぱい、香の香は釜揚げ、山田家は定食、おか泉はてんぷら、A店の弟子がB店でそっちのほうがはやってる、C店はセルフだけどD店よりむしろ手がかかってる……。

香川県にはその後何度もプライベートで訪れた。毎回、1泊しかしない。一度に約7軒で食べる。食べても食べても飽きない。ぼくは、基本的に、遊び目的では「一つの場所に複数回訪れることがない」のだが、香川だけは別である。通算で訪れたうどん屋、50軒までは数えたのだがもうよくわからなくなってしまった。ブログにでもまとめておけばよかったと少し後悔しているのだ。



さて自慢話はいくらでもできるのだが、自慢というより人体の神秘みたいな話をする。

毎回、うどん旅行をするたび、朝から夕方までがっちりうどんを食いまくって、いざ晩飯になると、「脳が炭水化物をうけつけなくなる」。米を注文する気にならない。ラーメンとかそばとかパスタとか全く頼めない。「骨付き鶏」だけ食べて寝てしまう。いつも、我ながらほんとうに不思議である。

「空腹にはなっているのに、脳が炭水化物をうけつけない状態」

人に説明しづらいのだが、口の中に、「もうごはん系はいらんわ」という味が「デフォルトで広がっている」みたいな感じになっているので、晩飯では炭水化物がとれなくなってしまう。

人体というのは「昼間にうどんを食いすぎたからそのへんにしておけ」というのを、きちんと調整しているのだなあ、と、毎度毎度、ほれぼれする。




ただしビールだけは飲めるので、ああ、飲酒というのはやはり、人を太らせるなあと納得したりもするのだ。

2017年5月9日火曜日

病理の話(76) トロントロンビンビン

病理学会に来ている。

人体には「何かをするための、あるひとつのルート」というのはどうも存在しないようだ。

ぼくらはつい、

「ヤマトのお兄さんは、荷物を運ぶために生きている」

とか、

「ローソンのお姉さんは、パンやコーヒーを売るために生きている」

という見方を、体の中に適用してしまう。


でも、ヤマトのお兄さんが動くとき、そこには「配送トラック」があって、配送トラックにはガソリンを入れる場所が必要で、あるいは、ヤマトのお兄さんがいっぱい動くならばそのとき佐川やゆうパックのおっさんたちもまた仕事が増えたりして、ときには、ヤマトのトラックがここを通るときに後ろをついていけばマンションのドアを開けるお姉さんがいるだろう、みたいな、下種なストーカーが潜んでいたり、そのストーカーに気を配る警察がいたり、とにかく、

「何かひとつが動いたときの影響は、一本道ではない、あっちもこっちも、様々に連動して動く」

というのが、体の中の大原則なんだと思うのだ。



HGFとかHGFAとかHAIとかそのへんを35年にわたって調べ続けた宮崎大学の先生の宿題報告を聞いていた時、HGFがトロンビンによっても刺激されるという話を聞いて、

「そうか、組織傷害が起こるとき、そこには欠損とか出血とかが生じているだろうから、トロンビンもまた役割をもつわけだけど、トロンビンは単に凝固系に関与するだけじゃなくて、HGF系の組織再生にもついでに関与してるのかもしれないなあ……」

なんていうことを、つらつらと考えていたのだ。



難しくて、半分くらい夢の中だったから、トロンビンを2倍にして遊んだりしていたんだけど……。

2017年5月8日月曜日

クリスマスに さげたら さげすます

フォロワーさんがポスターつくってくれたので貼っておきます。



すごいねこれ、どこからぼくの写真みつけたんだろうね、まあ自分でいつかネットに出したやつなんだけど。ポスター作って下さった方どうもありがとうございます。


ということで、今度、北海道大学の大学祭にあわせて開催される「医学展」というイベントで講演をする。一般向けの講演。医療者以外に講演したことないから緊張するな、って思ったけど、よくかんがえたらツイッターもツイキャスも別に医療者向けじゃなかったし、まあいいかってなってる。

講演っていうと、作家とか、ノーベル賞の人とか、どこぞの病院の院長とか、そういうのが定番だなって思ってたけど、最近はユーチューバ―とかネット金融業のひととかも講演してるし、うん、もはや「うさんくさい」というのとセットになっているのだと思う。そこにこの「ツイッターでおなじみ」というかんばんをひっさげて乗り込むわけだ。



うさんくささ、というのをもっとも上手に笑いに変えているのは大阪のひとたちだ。逆に言うと、大阪以外の土地では、うさんくさいという形容詞は決して褒め言葉とセットにはならない。ならなかった。当然だ。ただこの当然の価値観が近年少しずつひっくり返ってきているようにも思う。

ひっくり返したのは、ツイッターなのだと思う。SNS、特にツイッターについてはぼくは話したいことがいっぱいあるんだけれど、最近いちばん強調したいなあと思っている点は、

「うさんくささをもったまま愛される人」



「しっかりしているとアピールしているのにさげすまれる人」

とが、共存している場所、だというところである。



ぼくはしっかりものなので、講演がんばってきます。

2017年5月2日火曜日

病理の話(75) エントロピーと細胞膜からみる生命の定義について

生命は、周りの環境(非生物)と比べると、そこだけ持っているエネルギーが高い。

「持っているエネルギー」なんて言うとなんかスピリチュアルなイメージが湧いてしまうが、そういう意味ではなくて、単純に、物理的・化学的なエネルギーを抱え込まないと、生命としての活動はできない。



ごましお。

ごましおをイメージする。

「世界」はごましおだ。ゴマと、塩が、複雑に入り交じっている。一度混じってしまうと、もう両者を完全に仕分けることはできない(膨大な時間と手間がかかる)。

一方、世界に対しての「生命」というのは、ゴマや塩のどちらか一方、あるいは砂糖とか小麦粉みたいな何かが、「周りに比べて濃度が高い」状態でいる。

「世界」には、米粒もコーヒーの豆もハナクソも混じっているのだが、「生命」の部分にはそういうものがほとんど含まれていなかったりして、「周りに比べてなにかの濃度が低い」状態でもある。

「世界」のほうが雑多に混じっていて、「生命」は物品の濃度にかたよりがあるということだ。


物品の濃度を偏らせるには、エネルギーがいる。

何かを取り入れ続け、何かを排除し続けないと、濃度の偏りは維持できない。



砂漠にごま塩をばらまく。最初は、「あっ、ここにごま塩をこぼしたぞ」とわかるが、ものの数日、あるいは数時間で、ごま塩はほかの砂とまじって、もはやごま塩なのかどうかわからなくなってしまう。

ごま塩がごま塩のまま存在するには、そこに「なんらかのエネルギーを使い続ける」ことが必要なのだ。拾って集めて、砂を捨てる。



「なんらかのエネルギーを使い続けることによって、特定のものだけを集めて、いらないものは排除するというシステム」

これは、生命の定義の一つであると言える。



エントロピーとかそういう話は有名なので、何をいまさら、と思われるかもしれないのだが、この話は「細胞膜」とか「核膜」などを理解する上でも役に立つ。

膜、すなわち境界面が存在しないと、生命としての「濃度の偏り」を維持し続けることは困難となる。



濃度の偏りを維持するのは、バイトのA君の勤勉さとか、事務のBさんの時間外労働などではなく、膜に存在するなんらかのタンパクであるとか、膜自体のもつ力(浸透圧とか浸透膜という言葉を勉強するのはこれを理解するためでもある)である。



そんなこんなで、ぼくらが細胞を観察するときには、しばしば、細胞膜や核膜のような「膜」にとても注意を払うことになる。「膜」を「腹」と書き間違うのは医学部3年生くらいまでの「あるある」なのだが、さすがに今は書き間違えることは減った。

だってパソコンで打っちゃうからね……。

2017年5月1日月曜日

グールグール

デジタルの時計には水晶は入っているのかな。いなそうだけど。もともと、時間は水晶か何かの振動で正確に計っているんじゃなかったかな。

いったい、「正しい時間」というものを、どのようにプログラムして出力しているんだろう。

1秒という長さをどのように計測しているのだろうか。調べればすぐわかりそうなものだが、今知識のない状態で考えてみても、いまいちよくわからない。

昔と比べて、CPUの計算速度は信じられないくらい早くなっているのに、1秒のカウント方法を変えないままでいられるというのは、どういうことだ。



電波時計だから。どこかに正確な時間があるから。PCはそれをダウンロードしてきてるだけだから。

だったら、その「どこかにある正確な時間」というのはどうやって刻んでいるんだろう。



こういう話は、たとえば、遠く離れた異星人とたまたま交信できたと仮定して、右とか左といった方向の概念をどういう言葉で説明したらいいだろうか、みたいなSF的小話でもよくみられる。

「なんちゃら原子がスピンする方向は宇宙で共通だから、それを元にしてしゃべればいいんだよ」

地球人って普段、右とか左を人に説明するときに、そんな知識を引っ張り出さないと説明できないんだったっけ?



国語辞典を編纂している人なんかはこういう問いと毎日戦っているんだろうな。

外国の言葉とはじめて触れあった人は、いったいどうやって言葉を交わしたんだろう。

石を指さして「いし」「ストーン」「なるほど」みたいな説明を見たことがある。これを繰り返せば、言葉を学ぶことができます。

ほんとかよ。

それでどうやって「幼少期のトラウマ」とかを説明するんだ?



ぼくらは、イメージを共有していない同士で、何かを伝え合うという作業について、きちんと言語化できていないもので、何か脳の方があとはよろしくやってくださっているという状況に甘えて、なあなあでコミュニケーションを取っている。それで事足りる。

だから、ときどき、思うのだ。

秒の定義って、さいしょ、どうしたんだ。

今、どうしてるんだ。

ググればわかると人は言う。最初にグーグルができたとき、ググったらどれくらいのことがわかったんだろうな。