2017年5月26日金曜日

かたよりも普通にこしまわりが好き

たとえば、こういうぼくという人間に話しかけてくる人は、多くが「ぼくに話しかけるのが苦にならない人」である。「ぼくに話しかけるのが嫌で嫌でしょうがない人」は、そもそも話しかけてこない。

なんらかの理由でぼくとの会話をこばむ人……それはぼくの年齢や性別によるものかもしれないし、何かからにじみでる信条をおもんぱかられているのかもしれないし、あるいは職業とか人種とか、単に見た目によるものかもしれないが、そういうものをはなから受け入れられない人は、「平和な文脈」でぼくと会話をすることがない。

だから、ぼくが「他人との会話」で得る経験には、さいしょからカタヨリがある。




学生や研修医の教育をしている人にありがちな言動として、「最近の学生は~」論が挙げられる。「近頃の若い人間と話をしていると、~~なところがだめだ」と言うエースやベテランを、目にすることが多い。

こういう、若い人にダメ出しをしたがるタイプの指導者に、わざわざ会話を「してあげる」若者、という時点で、かなり偏っているのではないか、と思う。

「教育の現場で、指導相手を分析してこきおろすのがクセになっている人」なんて、ぼくだったら、頼まれても会話はしたくない。必要に迫られて話すことがあるとしても、要件だけやりとりして、さっさとその場から離れたいと思う。

若者を批判する指導者が、「若者との会話」で得る経験なんて、偏っているだろうなあ、と考えている。




ぼくは日ごろ、そういう「若者を指導しててこんないやな目にあったよ」という指導者たちの話を、しょっちゅう聞く。

ぼくがそういう人たちと「会話をしやすいタイプの人間」なのかもしれない。

ほんとうは、世の中には、もっと「若者を大切に育てていくタイプの指導者」も、いっぱいいるのかもしれないが、ぼくが会話する相手はたいてい、「若者をダメだダメだと否定していくタイプの指導者」なのだ。

そうか、うーん、偏っているんだろうなあと、結論が見えてくる。