2017年7月4日火曜日

病理の話(96)

マンガ「フラジャイル」の根底を貫くテーマというのがいくつかあるように思うのだが、その一つは、

「嘘」

だと思う。

たとえば病理医のタマゴであり本編の狂言回しであり主演女優でもある宮崎先生という人は、「自分の中にいろいろ満ちてしまった」という表現を用いながら、患者との対話の中で自分がついてきた嘘について思いを巡らせる。

宮崎と岸との師弟関係の中に、「だからその紙(病理診断報告書)には嘘を書くなよ」という意味のセリフが出てくる。

最新エピソードでも、患者に対する「嘘」というのは果たして誰のためなのか、というテーマがにじむ。



必ず良くなるからがんばって、というセリフは、いつ、どこで、だれが、なんのために、どのようにして用いるのか。

生命、疾病を考えたとき、「必ず」が通用するのはふたつあり、「いつか必ず人は死ぬ」ということと、「生きている毎秒が人生である」ということ。

前者は絶対的な「必ず」で、後者は散文的な「必ず」である。

今を元気に、明るく生きるためについた「嘘」が、のちに人を苦しめることはある。

必ず治ると言われたのに結局治らなかった人というのは、かつて話した「必ず治るよ」という言葉を、嘘として思い返すだろうか。

では、たとえば、進行したがんの患者が周囲に「必ず治るよ」と言われて、「そうか、そうだよな、必ず治るよ」と信じて毎日を楽しく暮らして、ある夜、寝ている間にふと死んでしまったら、本人は幸せだろうか。

周りはその嘘を振り返ってどう感じるだろうか。

それ以前に、がんが必ず治ると信じたまま、「うまく死ねた」人というのは、世の中にどれだけいるのだろうか。

実際に、がんが治った人は、かつて周りがついた「必ず治るという嘘」を、どう振り返るのだろうか。




「嘘」の反対は「真実」ではなく、「不定」である。

未来のことは誰にもわからない、というのは、真実ではなく、道理である。

嘘をつかないということはしばしば、「それは誰にもわからない」と言い続けることにつながる。



嘘をつかずに生きていく上で一番効果があるのは、統計を知ることだ。確率で計ることだ。可能性までで思考を停止することだ。

だから、しばしば、嘘をつかずにいようとする医療者は、確率の話をする。



残念ながら、ぼくらは道理では幸せになれず、真実と信じることで幸せになっている気がする。




その紙に嘘を書いてはならぬと言われたとき、どれだけの医療者が「真実」をもって語ることができるだろう。

ぼくの知る限り、真実を追究する残酷な人間というのは、たいてい、病理にいて、道理をわきまえた上で残酷な科学を語り、嘘を許容せずに日々を送る。

そんな人間が医療業界にあふれていたら、いろいろと、まずいのだと思う。

ぼくは最近、病理医なんてのは少なくてよいのではないか、と思い始めている。

嘘と道理の狭間でゆらゆら動く患者と医療者は、そのままゆらゆらしていたほうが、やじろべえとして針の上で立っていやすい。

時に優しい嘘を撃ち抜く役目を担う人は、稀少でよい、日陰でよい、ただしどこかにいなければいけない。





かつて草水敏という人は、「ぼくの考える主人公とはダークヒーローでなければいけない。話すことすべてが正しい必要はない。むしろ読者は主人公を見て怒りに震えたり、大きな違和感を覚えたり、悩んだりしてもらいたい」という意味のことを言っていた。

岸京一郎は最低の病理医なので、彼を見ることでぼくは病理医としてどう歩いて行こうかという話を、何時間も、何日も、何年も考え続けることができる。

ぼくは「彼」のやり方をなぞっている。「彼」がどの彼なのかは、可能性の話に留めておこうかと思う。