2017年8月31日木曜日

病理の話(116)

「防御力を完璧にしておきたい場所」というのが、人体の中にはいくつかある。

まず、皮膚。何を差し置いても皮膚。外的な攻撃をいちばん受けやすい場所だ。

皮膚は「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」という強靱な細胞で覆われている。扁平上皮は、ジグソーパズルのようにすきま無く張り巡らされており、しかもジグソーパズルの溝の部分には「タイトジャンクション(がっちり結合)」と呼ばれる接着剤のような機構があり、文字通り水も通さない。

この強力な扁平上皮については、ぼくは「触手が届くところは扁平上皮である」という謎理論を導入するなどして、このブログで何度か書いてきた(触手、すなわち外的刺激が少しがんばって届きそうなところは、皮膚と同じような細胞によってガードされている、という話)。

口の中は、皮膚と似た扁平上皮。まるで見た目が違うように思うが、くちびるだって、扁平上皮で覆われている。なんと、その先の食道も、ずっと扁平上皮だ。胃に届いてはじめて、扁平上皮は姿を消す。

耳の中も。鼻の中も。

膣の中も扁平上皮で覆われている。愛撫で細菌が体内に侵入しては困るだろう。

これらはすべて、外的刺激を跳ね返すために、扁平上皮で覆われている……。




ただ、実は、人体というのはさらに細かい調節を行っている。

それはどこかというと、「尿道」なのである。

尿道や膀胱は、言ってみれば「触手が届く臓器」である。だから本来、扁平上皮で覆われていなければ、外的刺激を跳ね返すことができないはずだ。

しかし、尿道と膀胱(ぼうこう)には扁平上皮はみられない。かわりに、「尿路上皮」と呼ばれる独自の機構を用意している。

なぜ?

人体のあちこちで、「外部刺激が加わりそうなところ」をやたらめったら扁平上皮で覆ってきたくせに。

なぜ尿道とか膀胱だけは、扁平上皮を使わないのか……?



答え。

膀胱は、尿をためてがまんする臓器だから、がんがんに伸び縮みしないといけないのだが……。

扁平上皮は、尿をためるために伸縮する袋(膀胱)をつくるには、「硬すぎる」のだ。伸び縮みしづらい。

皮膚をひっぱってみよう。ほっぺたでもいい、腕でもいい。

多少は伸びる。けれど、膀胱はこの程度の伸縮では困るのである。膀胱が皮膚程度の伸縮しかしなければ、ぼくらはもっと簡単に失禁してしまうだろう。

だから、「扁平上皮にはかなわないけど、扁平上皮に準じるくらいのタイトさを持っていて、かつ、横方向に伸び縮みする細胞」というのを、人体はわざわざ膀胱のために用意したのである。

これにより、扁平上皮よりちょっとだけ防御力が弱くなる。さあ、人体に何か悪影響があったろうか……?

実は、思ったより、なかったのである。理由は、尿だ。

尿は一方通行なのだ。腎臓から、尿管、膀胱と進んで、尿道を通って外に出される。この流れは常に一方向であるため、体外から細菌などが膀胱に入るには、「流れを逆流しなければいけない」。これがけっこうな手間だったのである。

そのため、扁平上皮ほどの防御力がなくとも、尿路上皮程度の防御力さえあれば、外的刺激からの防御は十分事足りたのだ。

膀胱のために用意した尿路上皮は、隣近所である尿管や尿道、腎盂にも張り巡らされている。すなわち、尿が接するところはすべて尿路上皮ということにしてしまった。

これで、基本的に、問題ないのである。人体というのは実によくできている……。




ただし。尿路上皮はやはり、扁平上皮と比べると、少し弱い。

そのため、尿の逆流が起こりやすい状態(尿道が短い女性とか、前立腺肥大によって尿が出づらくなった男性とか)や、全身状態が悪く、免疫が低下している状態では、外界からの刺激を跳ね返しきれなくなることもある。

これが、膀胱炎や尿道炎、腎盂腎炎である。




人体というのはとてもよくできている。だからこそ、複雑な機能を満たすためにさまざまに「分化(ぶんか)」した細胞の、弱みみたいなものを、病気というのはしつこく突いてくる。

逆に言えば、「ある年齢、ある性別、ある状態」である人がどのようなウィークポイントを持っているかをきちんと把握して、「城のここが弱いから、攻めてこられるとしたらここだろう」と予測できる医療者は、診断のスピードがとても速いのである。

2017年8月30日水曜日

札幌市中央区南5条西20丁目

難しい本をゆっくりと読んでいる。

この本の筆者はとても優しい。

「今の文章は、『あの本』が頭に入っているとスッとわかるように書いているんだよぉ」

そうか、そうなんだ! じゃあ「あの本」を読んでからにしようかな!

……とまでは、なかなか、ならない。ぼくは怠惰である。ひとつの本を読むために、前提となる知識を別の本から輸入してこなければいけないとき、申し訳ねぇ、申し訳ねぇと手刀を切りながら、スッとわかるはずのところをズッと読んでいる。



そういえば、符丁、という言葉もあるな。歌舞伎が怖くて見に行けない。宝塚も怖い。劇団四季でぎりぎりだ。関ジャニ∞は無理かもしれない。常連としての知識がないと楽しめない文化がとても怖い。怖いけど、楽しそうだ。

辛いけど、うまそうだ、のカレーの理論と似ている気がする。香辛料を減らしたカレーは甘くておいしい。そして、いつも思う、「いつかは本場の辛いカレーを食べてみたいなあ」。



ぼくはなんだかブログにときどきカレーのことを書いているんだけれど。

そこまでカレーに興味はないんだけれど。




札幌に、「ミルチ」というカレー屋があって、実家からは少し距離があったけれど、生活圏内だったのでときどき食べに行っていた。ここのカレーはうまい。ナンカレーをはじめて食べたのもここだ。

ナンカレーをはじめて食べるときですら、ぼくは激しいハードルを感じていた。もっと言えば、ぼくは若い頃、「店で飯を食べる」こと自体に臆していた。

ミルチに初めて行った日は忘れもしない20代のいつだったか(忘れとるやないか)、おっかなびっくり薄暗い店内に入り、フロアに庭石みたいに点在するテーブルのひとつに付いて、おばちゃんがメニューを取りに来るのを待った。

おばちゃんは言った、「いらっしゃいませ」

ぼくは答えた、「ど、どれがおすすめですか」

おばちゃんは目を少し開いてこう言った、

「上から順番でいいと思う(笑)」




ぼくはこの、「常連でない人間をうまく救うセリフ」に、人生の中で何度か救われている。




ツイッターをはじめとするSNSには符丁が多い。

SNS素人なのでよくわかりませんが、という言い訳からはじまるリプライをいただくこともある。

SNSは歌舞伎座みたいなもので、ある程度知ってからじゃないと楽しめない側面がある。

でも、ブログは、ミルチであったらよいなあと、ぼくは忘れもしない昨年の秋の確か9月か10月ころに、思ったのだった。忘れとるやないか。

2017年8月29日火曜日

病理の話(115)

「なぜ診断するのか」を考えないと、医療はいろいろわからなくなってしまう。



「診断? それはともかく治療してくれよ。治さなければ病院の意味がないだろう」

この考え方は極めて妥当である。患者が医療に求めているのはひたすら治療だ。ぼくら医療者だって、いざ自分が病院にかかることになれば、心の底から「早く治してくれぃ」という気分になる。

それが「普通」である。

ただし、医療の「普通」は、社会の文脈と共に少しずつ移り変わっている。

それに気づかないままではいられない。



かつて、ひとつの病気はそのまま、死への切符であった。

足にケガをすれば、歩けなくなり、正常の暮らしが遅れなくなり、ケガをした部位に細菌がつき、全身に回ってそのまま命を奪われた。

胃にできものができれば、それはそのまま大きく広がり、ご飯が食べられなくなり、栄養が奪われ、衰弱して死に至った。

関節リウマチは人の生活を著しく不便にした。ひとたびリウマチだと診断されれば、その中年はもはや老年と同じような生活をしているかのような気になり、自らの人生を悟った。

しかし、抗菌薬によって感染症が制御されはじめ、外科手術によって腫瘍の根治という概念が生まれ、さまざまな内服薬によって内科的疾患が「命までは奪われない」状態へと封じ込められるようになると、病気の概念もまた少しずつ変化してゆく。




かつて、ピンピンコロリという言葉があった。

ピンピンコロリはひとつの理想である。死ぬ直前まで病魔を意識せずに人生を謳歌し、あるとき心臓や脳の血管が詰まって本人も気づかぬうちにコロリと亡くなってしまう、江戸っ子でいうところの「粋」な人生……。じわじわ死ぬような病気はいやだ、死ぬならひと思いにやってくれ。

今でもこの死に方を望む人は多い。苦痛を伴った死を回避するための方策がほとんどなかった昔は、もっと多かった。けれど、現代医療では、人生のゆるやかな着地をある程度準備することが可能である。苦痛を軽減させながら、軟着陸するように「死を準備する暮らし」。

コロリと死んでは困るんだよな、と思う人だっている。




一病息災、という言葉もある。人間、ひとつ病気にかかると、病気をなんとかしようと病院にかかるが、その結果、他の病気に対する監視の目が強くなる。ぐうぜん他の病気を発見して、治療できてしまうこともある。

あるひとつの病気を持つことで、健康への意識が目覚め、医療の関与も頻繁になるために、かえって長生きできることもある、という、ライフハック。それが、「一病息災」である。





病気という言葉は、もともと、生死を予測するだけの言葉だった。死ぬか、生きるか。

しかし、今は違う。ある病気Aが、進行度B%であるという「現状」次第で、その後の人生があまりにも多彩に展開しうる。

もはや病気とは「終わり」を意味する言葉ではない。「今」を表す言葉だ。

死神というよりは背後霊。さらには、(一病息災のように)守護霊のような存在ですらありうる。



治療ができれば生? 治療ができなければ死?

たとえ病気を持ったままでも、病気とともに100年生きることができるならば、その病気は「治ってなくてもかまわない」。

生と死の中間に病気という状態があると考えることもできる。

「病気という状態は生を否定しない」。




そうなると医療のあり方も変わるのである。

キュア(病を完全に治癒させること)だけが目標ではない。

キュアと共に、ケア(病をもったまま、よく生かすこと)が、現代医療の根なのである。




「診断ばかりして、病気を治せない医者に、価値があるの?」という人々に、ぼくは沈黙する。

「病気の治らない人生に価値があるの?」という問いと同じ根を持つこの質問を、真っ向から否定できるほど、ぼくは子供ではない。その気持ちは、極めて妥当だからだ。

ただ、心の奥底で、静かにつぶやく。

「診断とは、死を推測するだけのものではなく、生の有り様を識ることなんだ。生を識ろうとすることに、価値がないわけがない……」。





今あなたがどういう状態にあるか。診断。

今のあなたをどう生かすか。ケア(維持)。

願わくば、悩みのタネよ、消えてなくなれ、なくなったらいいな。キュア(治療)。

誰もがキュアを望む。けれど、これからは、キュアと一緒にケアを考える時代だ。そして。

生か死かの二択ではない。

「どのような生か」を見極める、「診断」の価値を知ってほしい。




病理診断医は100%を診断にささげる職業である。だから、診断に価値があると唱えることは、ある意味手前味噌かもしれない。

それでも。

多くの人々にとっての医療が、いろいろわからなくならないように。

キュアとケアを見据えて、「なぜ診断するのか?」を考え続けることは、やはりぼくらの仕事だよなあ、と思うのだ。

2017年8月28日月曜日

グラとハム

カメラを買ったまま何も撮らずにいる時間は幸せである。

ああ、次、あそこに行くとき、カメラを持って行こう。そう心に抱いて過ごすことができる至福の時である。

これはなんというか、「将来を見て、うれしくなる」という感情だと思う。

反対に、来月頭には試験があるなあ、とか、来週はプレゼンを2回しないと、みたいに、将来を見てつらくなることも、ある。

これらの相反する気持ちは、もしかすると、「同じ脳の回路」に、「違う液体」を流し込んだだけの、表裏一体とも言える感情なのではないかな、と考えている。


同じ回路に違う液体を流すという表現は、さまざまに応用することができる。同じ方程式に違う数値を代入する、でもいい。ぼくはそういう、「なんらかの変換を行うシステム」というのに若干興奮するあぶない性質を持っている。

たぶん、「ブラックボックスの中を開いてみたいという欲求」よりも、「ブラックボックスの中を見ずに、何をぶちこんだら何になって出てくるのだろうという好奇心」のほうが、ちょっとだけ強い。そういう性格を持っている。

きれいな絵がくるくると移り変わる、万華鏡のようなものをずっと眺めていたい。自分がそのとき単純に、おっすごいなあ、何かが起こったなあ、思いも寄らないことになったなあ、きれいだなあ、とはしゃいでいられたら最高だ。


ただ、結局のところ、ブラックボックスフェチはそのまま、ブラックボックスを開けたり、あるいは作ったりする世界に、片足をとられる。中には興味はない、と言っておきながら、結局ふたを開けてしまう。もう引き返せない。

どんな法則を作ったら、どんな突拍子もないデータが出てくるのか。とても気になる。

どんな法則にのっとって、世の中が動いているのか。開けてみたくてしょうがない。

どんな法則を用意したら、自分の入れたモノから自分のほしいモノを取り出すことができるのか。考えるだけでわくわくする。



小林銅蟲「寿司 虚空編」を読みながら、そんなことを思っていた。

ぼくの回路にはもう病理学を流し込んでしまったから、数学を流したときのおもしろさはたぶん来世にならないとわからない。あるいは回路自体が全く異なるようにも思う。

それでも、読んで雰囲気を感じることができるなんて、ことばというのはほんとうに罪作りだと思う。ぼくは自分の回路と液体が世界に唯一の、最高のとりあわせであると、誰かにだまし続けていてほしかった。いいなあ、そっち、楽しそうで、うらやましい。

2017年8月25日金曜日

病理の話(114)

臨床医がやってきて、「研究会」の相談をした。


研究会というのは独特の文化である。


たとえば胃カメラ、たとえば腹部CT、たとえば超音波といった、「画像で臓器のなんたるかを見てやろうという検査」があるとする。画像にはさまざまに、病気の姿が映し出される。

ただし、その姿というのは、究極的にはかならず「影絵」である。そのもの本質までは絶対にみることができない。

医療というのはなんでもそうだ。心臓に詳しい医者が、心臓の病気を治すとき、心臓を取り出していじって治すことはできないだろう。「取り出して」しまってはいけないのだ。そこにあるがまま、胸の筋肉や脂肪や骨という障壁を乗り越えて、外から中を想像して、おもんぱかって、薬なりなんなりを投与して、治す。

医療とは基本的に安楽椅子探偵なのである。現場までは赴かない……というか、赴けない。あくまで遠隔地にいて、そのものがどうであるかを推理し、直接手を触れることなく、対策を施す。

「えっ、胃カメラだったら病気を直接見てるんじゃないの?」

「皮膚の病気なら直接見られるじゃん」

これもまた、一面の真実ではあるが、正しくはない。胃カメラで見えるのは、病気の表面だけだ。皮膚の病気だって、外から見た模様の違いしか、直接見ることはできない。

「中でどうなっているか」はわからないのだ。




だから、医療者というのは、常に不安である。

見てきたかのように診断したけれど、ほんとに合ってたんだろうな……?




これをなんとかしようというのが、いわゆる「画像系の研究会」である。

胃カメラ、腹部CT、超音波……。実際に患者さんに当ててみて、得られた画像を、主治医だけでなく、多くの医療者が眺めて、それぞれに意見を言う。ここにはこれが映っている、ここは見逃してはいけない変化ではないか、これはちょっと珍しい画像だなあ。

ここに、病理医も参加する。




病理は、病院の中で唯一、「実際に採ってきた臓器を見られるところまでとことん見尽くす」部門である。胃の病気だろうが肝臓の病気だろうが乳腺の病気だろうが皮膚の病気だろうが、手術で採ってきたからには、あるいは一部をつまんできただけであっても、表面、割面、内部性状、細胞のなんたるかまでとことん見てしまう。

つまりは画像で予測したものの「答え」的なものを提示できる、唯一の部門であるということだ。だから、たいてい研究会には「答え合わせの役割」として呼ばれることになる。

ただし……。




ピアノの音が聞こえてくる。ああこれはドとソの和音だなあとわかった人がいたとする。ドとソであると言い当てるだけではなく、実際に奏者がどの鍵盤を叩いているかを予測することができる。

画像から病気の正体を予測するというのは、これだ。

影絵を見て元の絵を当てる、みたいな単純な作業では、必ずしもない。

ドとソは、右手で同時に弾かれているかもしれないし、もしかしたらボールペンで押されているかもしれない、足の指で弾いているかもしれない、これらは音を聞いただけではなかなかわからない(わかる人もいるかもしれないが)。

病理というのは、この、「ああ、足で弾いているなあ」というのをずばり言い当てることができるのだが、往々にして、

「足で弾いてますねえ、まあ、どの鍵盤を押しているかはわかんなかったんですけど」

なんて回答を出すことがある。

臨床医は、ドとソという音を聴いており、病理医は、足で鍵盤を叩く姿を見ている。

……これらは、噛み合っているようで、噛み合っていない。

どちらがほんとうに、患者さんにとって大事な情報であるのかは、ケースバイケースである。「ドとソである」方が重要なケースが多いが、「足で弾いている」方が重要なケースだってあるのだ。




病理医が研究会に出る時、そこに求められているのは、「答え合わせをする」という役割では、ない。

ひとつのものを、下から見るか、横から見るか、それによって何か深みが表れないだろうか、という試みに参加するということである。

ぼくらは一つの打ち上げ花火を、瞬間の楽しみで終わらせてはいけない。

どこまでも見て、話していく。花火の残響がすっかり消え去って、煙もかききえてしまった後も、花火の写真を見ながら、あれはこういう花火だったんだなあ、と、どこまでもどこまでも研究していくのである。

2017年8月24日木曜日

Vガンダムのヒロインが定規をもちました

経口補水液「OS-1」の側面表示を見てみると、

「医師から脱水状態時の食事療法として指示された場合に限りお飲みください。医師、薬剤師、看護師、管理栄養士の指導に従ってお飲みください」

とある。ぼくは医師だけど、「指示されてない」から飲めない(ということになる)。あるいは、鏡に向かって、自分で自分に「飲め!」と指示していいものなのだろうか。

二日酔いの日にコンビニで買って普通に飲んでしまった。飲んだあとに側面表示に気づいて、あっやべっとなった。

杓子定規に、そういうことである。





昔、アゴにできた小さな粉瘤(ふんりゅう)を、うちの病院の皮膚科にかかって採ってもらったことがある。局所麻酔で10分くらいで採ってくれた。

粉瘤とは「できもの」であるが、厳密には腫瘍(しゅよう)ではない。詳しくは説明しない。まあ採ってしまえば安心、というか、ぼくの場合は、見た目的に困っていたのが気にならなくなる、くらいのものであった。

病院で体から採ってきたモノは、ほぼ例外なく、病理検査室に運ばれて、病理医が診断することになる。

ぼくは自分の体から採ってきた粉瘤を、自分で処理し、自分で顕微鏡で見た。

……ただ、ここで気づいた。たしか、医者というのは、自分で自分の診断をしてはいけないのではなかったか?



たとえばぼくが呼吸器内科医だったとして、自分にぜんそくやアレルギーの薬を処方することはできない。そんなことをしたら、ほしい薬をいくらでも手に入れられてしまうから、と言われている(たぶんほかにも理由はある)。胃薬とか頭痛薬のようなものも、自分で気軽に手に入れることはできない。睡眠薬もだ。

それは厳密なルールである。

ただ、病理医はどうなのだろう。病理診断はどうなのか。

病理診断とは立派に保険診療に組み込まれたシステムであるから、やっぱり自分の病気を自分で診断するのはまずいのかもしれない。

ほんとうは法律とかをちゃんと読むと書いてあるのかもしれない。けれどいろいろめんどうになって、ボスに診断しなおしてもらうことにした。

杓子定規に、そういうことを気にした。





「荒野の赤信号で止まるか」みたいな例え話をよく聞く。ぼくは荒野の赤信号を見たら止まるだろうか。

たぶん、電線がどこから引かれているのかが気になって、もう信号どころではなくなって、いつのまにか青信号になっているだろうな。

ルールを守ったときに出るアドレナリン、みたいなのがあるのかもしれないなあ、と思う。

「ルールに縛られたくない」みたいなことを言うやつはコドモだ。

ぼくはオトナだから、縛られても気持ちいい瞬間を探すのである。ちょっとニュアンスが変わった気がするが。

2017年8月23日水曜日

病理の話(113)

「病理医は客商売である」と感じる瞬間がけっこうある。



大学院を出て、今の病院に勤めてから、すなわち現場のいち病理医として働き始めてからは、その思いが非常に強くなった。

学生時代や大学院時代までは、病理診断とは「脳だけで働く仕事」であり、手技も処置もしないで、ひたすら顕微鏡と語り合う、沈黙のタスクだと思っていたが、実際には

・クライアントがいて
・何かを要求され
・プレゼンをして
・納得してもらう

という仕事であった。

クライアントとは医療者である。要求とは「この人の病気を詳しく知りたい」ということ。プレゼンとは病理診断報告書やカンファレンスでの説明である。




多くの医療者は病理医に言う、「患者を相手にしない仕事だから~」「患者を相手にしない仕事はいいよな~」「患者を相手にしない仕事でモチベーション保てるの~」……。

ぼくらは、患者と全く相対しないが、医療者を相手に仕事をしているのだ。心配には及ばない。





ただ、病理医の中にも、違う考えの人はいる。

「顕微鏡だけ見ていれば仕事ができる」と考えている病理医も実際にいる。

そういう病理医が勤める病院では、かなりの高確率で、

 ・臨床医が病理医に興味がない

 ・病理医も臨床医に興味がない

という、ウィンウィン? の関係が成り立っている。

それでも医療は回る。それでも患者は治る。

だから、ぼくは一概に、「人とのコミュニケーションを放棄した病理医は悪である」とは思っていない。




毎日おいしいものを食べなくても生きていける。

しょっちゅう楽しいテレビを見なくても暮らしていける。

どこかに旅行に行かなくても人生は続く。

病理医がコミュニケーションしなくても臨床は回る。





ぼくは、「患者とのコミュニケーションに自信がない人」に、病理医になってはどうかと勧めることがある。その人と話す。患者と話すのは辛いか、苦しいか、自分に合わないか、いろいろと聞いてみる。

最後に、「でもまあ、今こうして、ぼくと話す分にはそこまで苦しそうじゃないよね、あなたは」と問いかけてみる。

「まあ、患者でなければ、はい、それなりには。」

「だったら、あなたは医療者と会話する道を選べばいいように思う」





患者とのコミュニケーションと、医療者とのコミュニケーションでは、使うスキルが微妙に異なる。得意、不得意のありようも少し違う。

医療者とのコミュニケーションが辛い、というタイプの医者もいる。

ただし、ぼくは思う、顕微鏡をみて組織像とコミュニケーションすることができる人間であれば、きっと医療者とのコミュニケーションだって、たどたどしくも続けることはできるだろう、と。

上手じゃなくてもいいので、会話をしてほしい。

たまにでいいので、医療者と会話をしてほしい。





病理医は客商売である。ただしその客は身内である。比較的、寛容な身内である。

そういう世界があることを知っておいてほしい。医学部にいる、1%くらいいる、君のような人、早朝にツイッターのリンクからブログを見に来るような人に。患者じゃなくていい、医療者を相手に話せばいい、なんなら細胞や分子と語り合うのでもかまわない。

コミュニケーションは社会がいうほど一様なスキルではないということを、少なくともぼくは知っている。

他人の定義した「コミュニケーション」がへたであっても一向に構わない。

もっと広義のコミュニケーションを試してみてはどうか。

病理検査室ではそれができる。

2017年8月22日火曜日

夏を終わらせるなんて簡単だ ぼくはもう何度も終わりを見てきた

夏が終わってしまった。札幌の夏は例年以上に短かったように思う。もともとぼくが小さい頃は、お盆が終わるとスッと寒くなるのが一般的だったと記憶しているが、ここ数年、札幌でも残暑が感じられていたので、油断していた。まだ夏はあるだろうと信じていた。

夏が終わってしまった。

そういえば今年は、7月の頭くらいがとても暑かった。35度近くあった。本州のどこよりも暑い日もあった。春の終わりは暑かったのに、いざ夏になってみたら、短かったなあ。




……という書き方も、へんだな、なんかおかしいなあ、と思い始めたのが今である。




もしぼくが、カレンダーのない世界に暮らしていたら、今年の夏はちょうどよい期間続いていたのではないだろうか。

「札幌の7月上旬は、まだ夏ではない」という固定観念のせいで、せっかくの夏日を夏っぽく過ごせなかった。

「札幌のお盆ころに寒くなったら、もう暑い日はそうそう戻ってこない」という固定観念のせいで、お盆が終わったら自動的に夏も終わった気分になってしまった。




カレンダーのない世界だったらな。

今が何月なのかよくわからない。何月、という概念もない。曜日もないだろう。誕生日もわからなくなる。

何日か働いて、疲れたら休むことにする……でもいいけれど、それだと自分の休むタイミングがばらばらで、客に迷惑をかけるから、いちおう定期的に休むようにはしたい。

カレンダーはなくとも、7日おきくらいのリズムであれば、まあ忘れずにはいられるだろう。

季節についてはすごくあいまいになるに違いない。

思えば最近は半袖だとちょっと寒いなあ、と感じたら、その日をなんとなく秋と呼ぶことにする。

秋だと思っていたけれど今日は妙に暑くてジャケットを着ていられない、と感じたら、その日だけは夏の再来と認定しよう。

それが何月であっても、である。

ぼくは、ちかごろ、ほとんど盲信していたのだ、カレンダーを。

「8月なんだから夏だよな」

「12月と言ったら冬だよ」

「今日はたいへん暖かく、7月下旬なみの気温になるでしょう」みたいな天気予報のおねえさんのセリフ。これでもう、聞かなくて済む。

季節はその日、感じたままを言う事にしよう。

今日は夏だなあ。

昨日は冬だったね。




誕生日が覚えていられなくなるのは少し悲しいかも知れない。亡くなった祖母のように、「わたしの生まれた日はだいたい雪がつもりはじめる日でねえ」などと、生まれた日と季節を感じさせる出来事とが重なっている人であれば、自分の生まれた季節をなんとなく感じることができるだろう。

ぼくの誕生日には、そういう、季節の変わり目的な何かはないと思うから、たぶん、自分が生まれた日がいつ頃なのか、だんだんわからなくなってゆくだろうな。

何か、誕生日のころに咲く花でも勉強しておこうか。

桜が咲いた日に生まれた人のことが少しうらやましくなってくる。

桜が散る日であってもいっこうにかまわない。





日本は四季がはっきりした国だから美しい、というのは、ちょっと微妙だなあと思う。

秋になればテレビのアナウンサーが「今日は夏のような暑さでした」と言う日が必ずあるし、春になっても気象予報士が「今日は冬に逆戻りです」と言っていたりする。

四季ははっきりしてないのだ。はっきりしているのは、カレンダーのほうだ。

日本はカレンダーがはっきりしている国だから美しいのです、なら、まだわかる気がする。

そうだ、ぼくは、しっかりかっきり決まっているものの中でぬくぬく過ごすのが、美しいと思っていたふしがある。





今日感じる限りでは、夏は終わってしまったように思う。

けれどまだ暑くなるかもしれない。夏はいつでも戻ってくる。

2017年8月21日月曜日

病理の話(112)

レゴブロックが無数にあったら、人間の形をきちんと再現できるだろうか。それはもちろん、できるだろう。

実際、レゴのお祭り(?)みたいなのに行くと、恐竜とか自動車とかエッフェル塔みたいなものを、レゴでうまいこと作り上げている。お城なんかも見る。あれはすごいよね。

ところで、外面の輪郭だけではなく、内臓まで作れるだろうか。

細かく、細かく、細胞の配列まで。

レゴブロックが無数にあれば、あと、広い広い作業スペースと、根性があれば。きっとできるだろう。

だから、今から、爆裂に広い体育館と、無数のレゴブロックと、自由に動かせるクレーンリフト(作業用)、すごく性能のいい接着剤、その他、ありとあらゆるインフラを各自の脳内で準備してもらいたい。

準備はよろしいか。




作業を始める前に。やたらめったら端から順番に臓器やら血管やら心臓やらを作る前に。

どのような形が「頻繁に登場するか」ということを考えておくと、レゴブロックを準備するときに、ラクで良い。

レゴの達人は、あらかじめ、パーツをきちんと小分けする。色とか形とか機能ごとにまとめて、工具箱のようなものにしまっておく。

その方が効率もよいし、必要な形をスバヤクつくることができる。

だから、我々も、「人体を作る上で、何度も使いそうなパーツ」をきちんとより分けておこう。




人体の中で、もっとも重要、かつ、しょっちゅう登場する構造というのは……

・パイプ

だ。

血管はパイプである。リンパ管というのもある。食道もパイプだ。尿道だってパイプだ(カットという言葉もあるだろう)。胃もふくらんだパイプ。乳管だって、尿管だって、胆管だって、精管だって、その名の通り管である。

パイプばかりなのだ。人体は。

それと、もうひとつ大切なのが、

・プレゼントボックス

である。中から水とか粘液とかが出てくる。

臓器というのは、たいてい、これらの組み合わせで作られている。

本物の人体には、ほかに、筋肉とか脂肪、そして神経があるんだけれど、レゴのように「動かさず、飾って楽しむもの」なら、神経を電線のように張り巡らせるのはパスしてよい。脳のあるべき場所にはパソコンでも叩き込んでおこう(ニューラルネットワークとはシャレが効いている)。筋肉や脂肪もハリボテでよかろう。



プレゼントボックスにはふたがついている。ふたが空く場所は基本的に1箇所だ。横とか下は空かない。

プレゼントボックスを横にならべて連結させる。そうすると、まとまった量の水とか粘液とかが出せる、「噴出口」ができる。

噴出させっぱなしでは、そこが噴水みたいになって終わりだ。だから、出てきた液体をパイプに集めて流す。目的の場所へと流す。

肝臓にあるプレゼントボックスは肝細胞という。パイプは胆管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(胆汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま十二指腸という大きなパイプに接続される。

乳腺にあるプレゼントボックスは乳腺腺房(せんぼう)細胞という。パイプは乳管だ。プレゼントボックスから出てきた液体(乳汁)を、パイプに流し、パイプはそのまま乳頭に開口する。

腎臓では少々複雑なことが起きている。パイプとしてまず血管がある。血管は細かく枝分かれしながら腎臓に入り込み、パイプに空いた細かい穴がボックスと接している。ボックスの中に、血液の中に入った不純物、いらないゴミが置いていかれる。プレゼントボックスというよりはダストボックスである。ダストボックスは、もう1種類のパイプ、すなわち尿細管(にょうさいかん)と呼ばれる管とも接続していて、こちらの管にはゴミをプレゼントする。尿細管は集合管に流れ込み、集合管は腎盂に流れ込み、腎盂は尿管に流れ込み、尿管が膀胱に接続し、膀胱が尿道にくっついて、最後は液体(尿)が体外に排出される。



人体ってのはつまるところ全部これなのだ。

やりとり、流れ、運搬。

つまるところ、なんて書いたが、「詰まって」しまっては大変なのである。

心筋梗塞: 心臓のパイプ(冠動脈)が詰まる病気

脳梗塞: 脳のパイプ(動脈)が詰まる病気

尿管結石: 尿を通すパイプ(尿管)が石で詰まる病気

胆嚢結石(たんせき): 胆汁を溜めるパイプ(というか袋)(胆嚢)が石で詰まる病気

これらは全て痛みを伴うし、ときには命にかかわる。



人体、特に内臓を作るときには、パイプとプレゼントボックスをうまく組み合わせることが肝要である。というか、それ以外あまり考えなくていい。

2つ並んだプレゼントボックスの、ふたとふたがくっついていたら開けられないだろう。

だからプレゼントボックスを並べるときには、ふたはみんな同じ側に揃えておこう。

パイプを試験管の形(盲端)にして、はしっこのあたりにプレゼントボックスのふたをいっせいに開口させたら、試験管は噴出口になるだろう。

パイプの角度をあまり頻繁にいじってしまうと、ねばねば粘液を運ぶときに詰まってしまうから、自然界の川のように自然な鋭角で流れ込むようにしよう。

プレゼントボックスを直接太いパイプに開口させると、太いパイプからの逆流でボックスが壊れてしまうから、なるべくパイプを枝葉のように分岐させて、プレゼントボックスは枝の一番先のあたりに開口させよう。

……レゴか、マイクラか、という感じで、このように、パイプとボックスの配置を考えて考えて、考えまくる。




考えた先が、人体なのだと、思っていただいて結構である。

だから解剖学とか組織学を勉強すると、あまりにうまくできた人体の仕組みにほれぼれすることになる。このレゴ作った奴すげぇなあー。

2017年8月18日金曜日

脳だけの旅をする

先日、どこかのブログで、「見る専クラスタ」という言葉をみた。若い学生の大半は、SNSのアカウントを持ってはいるが1か月に1回も更新せず、ただひたすらにタイムラインを眺めたり検索をしたりして、いいねも押さずに情報を集めたり笑ったりしているのだ、という話。

これは、とてもよくわかる。

釧路の看護学校で教えていると、学生達はみなツイッターアカウントを持っているが、そもそもツイート数ゼロという人間がかなり多い。一般に公開するツイートはゼロ、友人にあてたリプライだけが数万、というやつらもいる。それならLINEでいいじゃん、というと、LINEと違ってリアタイで返事するプレッシャーが少ないし、芸能情報検索するのに一日何度か見に来るからそれで十分、という返事が来た。これぞデジタルネイティブだ。





インタラクティブということばは時代遅れなのかもしれない。

もらったら返す、という関係は、たまにでいい。

一時期、テレビが「dボタン」などを使って双方向放送にこだわりはじめた時期があった。でも、結局、ちょろいアンケートとか子供が退屈しないためのミニゲーム的な役割しか果たせていない(しかもあのゲームはたいてい退屈だ)。

ぼくらはそこまで、四六時中ずっと双方向でありたいと願っているわけではないのだと思う。




だまって脳の中で旅をする時間が必要なのだ。何も言わず、問わず、責めず。入力と出力は、場所、時間ともに、一致していなくていい。




自分がつくりあげた想像のお城にもぐりこんで、広間で誰かと踊ったり、かかっている絵を見たり、テラスから風景を眺めたりしている間は、

・大声でひとの悪口を言う
・ネットで他人の醜聞を検索する
・だれかのアラ探しをする
・徒党を組む

などの行動はいっさいできなくなる。素晴らしいと思う。どこかの戦場に魔法をかけて、全員がけものフレンズの二次創作に没頭したら戦争は終わるだろう(別の意味ではじまるかもしれないが)。妄想にふけるという行動は、世界にとって「鎮静をかける」ようなはたらきをしているのかもしれない。ジョンレノンとオノヨーコは「ぼくらべたべた愛し合っている間は戦争しなくていいんだよ」みたいなメッセージを発していたけれど、パートナーがなければ戦争が避けられないなんてのはそれこそ筋が悪い。脳を愛すればそれで十分ではないか?



……そういえばよく考えたらイマジンという曲があったな。歴史というものはうまくできている。

2017年8月17日木曜日

病理の話(111)

病理医とはどういう仕事ですかと聞かれた時、一番インパクトがあって説明も簡単なのが「顕微鏡をみる仕事です」である。

顕微鏡をみる仕事は、えーとなんというか、固定観念的な映像が存在すると思う。

よくあるだろう、

”白衣を着て顕微鏡を覗き込むポニーテールの女性を横からアップで抜くカメラワーク”。



でも、ま、よく考えると、白衣の役割というのは、
・服に汚染がつかないように着る
・患者に医療者であると伝えるために着る
などである。そもそも、顕微鏡をみるときに白衣を着ている必要はあまりないのだ。

特に病理なら、顕微鏡をみる上で白衣を着ている必要は、ほとんどない。


万が一、顕微鏡でみる「試料」、あるいは「検体」が、なんらかの感染症を引き起こす可能性があるならば、我々はきちんとマスクをして、ゴーグルもつけて、白衣だけではなくディスポーザブル・ガウン(使い捨てのカッパみたいなやつ)を着て、手袋もして臨むべきだ。

けど、病理でみるプレパラートというのは、ホルマリンという強烈な変性効果をもつ液体で処理されているし、スライドガラスとカバーガラスで試料を挟んでいるし、9割9分のケースでは感染の危険はなく、素手で扱ってなんの問題もない。

白衣はいらんのだ。そもそも。


だから我々はいろいろなかっこうで仕事をしている。

白衣を着ている人もいる。ただそれは、通常の医療者とは異なる理由で着ている。



「医療者である」とわかりやすい見た目でいたい、とか。

白衣を着ると医療をやってる感が出て気持ちがひきしまる、とか。

顕微鏡はともかく、臓器切り出しのときには白衣を着てないと汚れが気になるから、とか。

ほかの医療スタッフがみんな着ているから、とか。



ぼくが1日の中で白衣を着るのは、ボスと二人で食堂に行って昼飯を食うときだ。

ふつう、食堂には「白衣を着てくるな」と言われる。それはそうだ。食べ物を扱う場所に、臨床の汚染を持ち込んでいいわけがない。

けれどぼくらは逆である。

「食事のときしか白衣を着ていない」のだから。

行ってみればぼくにとっての白衣は「スタイ(よだれかけ)」である。

ナポリタンはよく跳ねるんでちゅよ。




仕事場での衣類というのは実用目的もそうだが、仕事相手になめられないためとか、一人前の人間として見てもらうためとか、信用してもらうために必要だと思う。

ぼくは就職したころ29歳だった。病理医としてもそうだが、そもそも医者としても若すぎて、みんなまともにぼくの話を聞いてくれないだろうと思った。ほかに代わりのいる医者ならゆっくりと研鑽を重ねることだけ考えていればいい年齢だった。でも、29歳だろうが5年目だろうが、カンファレンスはあるし、病理の話は聞いてもらわないといけない。ぼくらが成長するためには、臨床医がぼくらをまともに見てくれることが絶対必要なのだ。画像を勉強しようと思ったら臨床検査技師や放射線技師に声をかけてもらわないと話にならない。ぼくは見た目をどうしたらいいかと考えた。ケーシー(白い上下)やスクラブ(コードブルーでみんなが着てるやつ)だと、いかにも研修医然としていてかんろくがない。だからぼくは毎日スーツで出勤して、ノーネクタイでジャケットを脱いで、カンファレンスルームの一番前でぐいぐい画像を読めばみんなのインパクトに残るだろう、そう思って、背伸びをしながら毎日スーツを着ていた。

そういうことを思い出しながら、テレビやYouTubeの映像で、病理医が白衣を着て顕微鏡をのぞいているシーンを見ている。



わかるわかる、だれかに訴えかけるならまずは服からだよな、と思いながら、やさしく眺めている。ポニテにするのはAVのアレと同じ効果を狙っているんだよな、とか、口に出さずに眺めている。

2017年8月16日水曜日

昼ご飯がライスバーガーだった場合はどうする

「おめでとうございます」とキータッチするつもりが、右手のポジションが少し内側にずれていたらしく、「おめで」が「いねで」と入力されていた。

稲で、すなわち、米のことを考えようと思った。




「朝ご飯、ごはんにする? パンにする?」

よく考えたら不思議な言葉である。ごはんが二度きみのドアをノックしている。

「朝ご飯、お米にする? パンにする?」

ならわかる。けれど、「朝ご飯はごはんにするかな」なんて、よく考えたら、馬から落ちて頭痛が痛いような言い回しなんだけど、自然に使ってしまっている。

「ごはんが ごはんが すすむくん」をパンにつけて食が進んだという例はあるのだろうか。

「ごはんですよ」をラーメンに乗せるのは……アリだろうが……まあ最初に考える事とは思えない。




「ごはん」ということばが「米のめし」というニュアンスを包含しているのは日本語だけなのだろうか?

日本人がみな米を食うようになったのは最近だと思うのだが、それまでは「ごはん」という言葉は存在したのか?

「御飯」すなわち「ありがてぇめし」だから、最初から米のめしのことを指していたのかもしれないな。

それがいつしか、「朝ご飯」「昼ご飯」「晩ご飯」などと、食事そのもののことを指すようにシフトして。

「今日の朝ごはんはパンです」みたいなファンキーな言い回しが生まれてきたのかもな。

「今日のご飯はナンカレーよ。」のひとことに含まれた複雑な歴史と矛盾を思うと、腹が減ってくる。




そういえばぼくは、食事のことを扱うコラムとかブログ記事の中に「腹が減ってくる」というフレーズをみると、あまりの陳腐さにブラウザを閉じてしまうタイプの人間だったのだが、実際、ご飯のことを考えていると、腹は減るものだなあと思うし、今までブラウザを閉じてしまった人々の記事には悪いことをしたなあと思う。

2017年8月15日火曜日

病理の話(110)

人間の体の中にはときおり、そんなもん出すなよ、という劇薬が作り出されている。

例として、胃液とか膵液とか胆汁など。

胃液には「胃酸」が含まれているけどこれはつまり塩酸なのである。理科の実験で使うやつ。それもけっこう濃いのだ。

そんなものを体内で作り出してたらえらいことになるだろう。内部からとけてラスボスみたいに消えてしまっては困る。

では、塩酸まで使って何をするかというと、これがなかなか有効で、食べ物を粉々にするはたらき、プラス口から入ってきた病原菌などをぶち殺すはたらき、その両方があると言われている。



しかし、塩酸を常にぽちゃぽちゃ持ってる胃というのは、いったいどうなっておるのか。消化管(胃腸の管)の中でもかなり特殊であることは間違いない。

口から肛門まで、消化管というのは繋がっているわけで。

胃に分泌された塩酸が、食道の方に戻っていったら、食道の壁がヤケてしまう。

小腸の方に降りていったら、やっぱり十二指腸がヤケてしまう。

これでは困る。では、どうやって塩酸を胃に留まらせようか?



胃の入り口には、噴門(ふんもん)と呼ばれる関所がある。

胃の出口には、幽門(ゆうもん)と呼ばれる関所がある。

この二つの関所が、胃の中にものを留める役割をする。具体的には、筋肉の力をつかってギュッと出入り口を絞る。

そうすれば胃の中身はもれない。

食べた後、多少運動しても、食べ物を吐かなくて済むのは、噴門のおかげだ。

食べものが、胃にある程度の時間とどまって、十分に塩酸で破壊されるのは、幽門のおかげだ。



それでも、これらの関所はずっと閉じっぱなしではない。いつかは必ず食べ物が通過する。

そしたら、食べ物といっしょに塩酸も出入りしてしまうだろう。これに、どう対処するか?



胃の入り口と出口にはそれぞれ「非常に小さいスプリンクラー」があって、塩酸を中和する粘液が分泌されているのである。入口のほうには「噴門腺」、出口のほうには「幽門腺」。

特に、出口側(十二指腸の方向)は、毎日必ず食べ物といっしょに塩酸も通過することになるので、幽門腺のほうが噴門腺よりもはるかに多く配置されている(噴門腺は痕跡程度しかないこともある)。

しかも、スプリンクラーは胃だけではなく、十二指腸にも配置されている。幽門腺とかたちはそっくりなのだが、名前だけが「Brunner腺(ブルンナー腺)」と変わる。



すごいきちんとした調節があるのだ。そうまでしても、塩酸を使うメリットがあったんだろうな。



さて。入口と出口に、塩酸を中和するスプリンクラーをそれぞれ発生させる機構は、なかなか複雑であるが、DNAによるプログラムはこのへんをうまく解決している。




こんな話を聞いたことがあるだろうか?

「沖縄に長く暮らす人々と、北海道の先住民族であるアイヌ民族は、顔付きが似ている」……。

もともと、日本列島に住んでいたひとたちは、いわゆる沖縄顔とかアイヌ顔だったのだが、そこにユーラシア大陸からいわゆる「大陸顔」の人々が移り住んできて、日本を中央から占拠し、元いた人々を北と南においやった。

だから、沖縄とアイヌ、とても離れているけれど、どこか顔立ちが似ているのだ……。



実は胃の入り口と出口にある「噴門腺」と「幽門腺」も、よく似ている。というか顕微鏡でみると区別がつかない。

つまり、発生の過程では、噴門腺とか幽門腺は最初「近くにいた」のだろう。ところがそこに、大陸顔ならぬ「塩酸部隊」がやってきて、二者を引き離しながら胃を作る。

そうすれば、入口と出口に同じ機能をもつ細胞が分布していることの説明がつく……。



このへんは「発生学」とリンクする。胃の発生は実際に上記の過程をたどっている。


細胞を観察して、「機能」と「類似点」に着目すると、生命が発生した期限まで想定することができる……できたらいいな……まちょっとは想像しておけ、というお話。

2017年8月14日月曜日

検査ホニャララの話

一度書いたことがあるかもしれない話なんですけど、とても大事で、かつ医療者がコレをわかっていないとマジで詰むので、あらためて書きます。




「99%の確率で、ある病気【ホニャララ病】を正しく診断できる検査キット」を用意します。

99%の確率で正しく診断できるんですから。

「100人患者がいたら、99人は正しく診断できて、1人だけまちがう」

となります。かなり高確率に見えます。

ただ、この話は、母数を100のまますすめてはいけません。

検査キットというのは、100人だけのために使うツールではないからです。

10万人、100万人を相手にするツールです。国民の多く、必要とする人みんなに使って欲しい。

すると、どうなるでしょうか。




ある病気【ホニャララ病】。10万人集めてきたら、だいたい100人がかかっていることが、すでにわかっています(毎年、全国の病院で、診断して治療している患者の数をきちんと集計すれば、だいたいこれくらいというのはわかります)。

・100000人集めると

・99900人が健康 + 100人が【ホニャララ病】

です。有病率が10万人あたり100人、と呼んだりしますが、ことばはまあどうでもいいです。




さて、さっきのキットを使いましょう。「99%の確率で、【ホニャララ病】であるか否かがわかる」。

10万人のうち、
 1.99900人の病気のない人にキットを使う:
   (1) 99900の99%=98901人が、【ホニャララ病】ではないことを証明される
   (2) 99900の1%=999人は、病気がないのに「ホニャララ病だ!」と診断されてしまう(1%の誤診)

 2.100人の病気の人にキットを使う:
   (1) 100の99%=99人は、【ホニャララ病】だ! と診断成功
   (2) 100の1%=1人だけだが、ホニャララ病を見逃されてしまう(1%の誤診)

こうなります。


で、ここからがキモなのですが。

結局、10万人のうち、キットを使って「ホニャララ病だ」と診断された人って、何人いましたっけ?

1.の(2):999人
2.の(1):99人
以上が、キットによって「ホニャララ病だ」と診断されたの総数なんです。あわせて、1098名。

でもよく考えてくださいね。

このうち、最初の999人って、「誤診」でしたよね。



きつねにつままれたような気分になるんですけれども……。

キットが「陽性だ!」と言った1098名のうち、誤診で陽性となっている人が999人もいるんですよ。なんと91%です。

「99%正確な検査です」とうたっているキットを使って、陽性と出たら、その結果の91%が「誤診」なんですよ。



えーー。



これは、検査する人の数が多くなればなるほど、あらゆる検査にまとわりついてくる問題です。

そもそも有病率が低い(10万人集めてきてもあまり病気の人がいない)病気では、検査キットのわずかな誤差であっても、大量の偽陽性者(キットは病気だって言うんだけどほんとは病気じゃない人)を拾ってしまうのです。




こんなことでは、どんな検査試薬も、なんなら画像検査も、病理検査だって、信用できなくなってしまいます。

「99%正確な検査」が信用できないなら、この世に信頼できる検査などはありません。

では、どうすればよいか?



答えは、「10万人に検査キットを使うのではなく、10万人の中からあらかじめ、その病気になっている可能性が高い人だけを別の方法で絞り込む」です。

「10万人に100人しかいない【ホニャララ病】」というのを、きちんと調べていくと、もっと詳しく絞り込むことができます。

たとえば……【ホニャララ病」というのが、男性の方が圧倒的にかかりやすいとすれば。

10万人の男女を調べるよりも、5万人の男性を調べた方が効率的ですし(早くも半分になりました)。

60代以上の男性がかかりやすいとか、ある血液データが高いとかかりやすい、などがわかれば、次々と母集団(元は10万人)を絞り込んでいくことができます。

そして、最終的に、


「絞りに絞った200名! この200名のうち、50名はホニャララ病である!」

というあたりまで絞ることができれば、先ほどのキットはとても役に立ちます。



200のうち、
 1.150人の病気のない人にキットを使う:
   (1) 150の99%=148.5人が、【ホニャララ病】ではないことを証明される
   (2) 150の1%=1.5人は、病気がないのに「ホニャララ病だ!」と診断されてしまう(1%の誤診)

 2.50人の病気の人にキットを使う:
   (1) 50の99%=49.5人は、【ホニャララ病】だ! と診断成功
   (2) 50の1%=0.5人だけだが、ホニャララ病を見逃されてしまう(1%の誤診)

これだと、ホニャララ病と診断された人の総数は「1.5+49.5=51名」。

うち、1.5人(というのもへんですが)は、残念ながら誤診です。しかし、49.5名は、正しく診断できている。

ある検査キットで「陽性」と言ったときの信頼度がまるっきり変わってしまっています。極めて高精度で「陽性という結果」を信頼できるようになっている。




数字のマジックみたいですけど、覚えて置いたらいいことは1つです。

「検査する前に、そもそも、どれくらいその病気である確率が高いのかを、きちんと調べて絞り込んでおかないと、どんな検査も信用できなくなってしまう」




前も書いたよね? たぶん……。

2017年8月10日木曜日

病理の話(109)

「生命はタダのタンパク質のかたまり」

なのだが、

「タダのタンパク質のかたまりでいれば『安定』しているにもかかわらず、なぜわざわざ『相互作用して局所のエントロピーを減少させる時限的な存在』となり、そんな偏った状態を『継代』してまでエネルギーの高い状態での安定をもくろむのか、なぜそんな現象が自然に起こり得るのか」

を考えるのがおもしろい。


「実際にはタンパク質のかたまりではなくて、脂質も関与してるし、ペプチドと糖鎖が混在している場合もあるし、電解質の移動も生命そのものだし、だいたい水分だってすごく多いし、生命に含まれてるタンパク質の総量(質量比)は体重の2割を超えてこないからタンパク質のかたまりと言うのはかなり語弊がある」

みたいなことを考えるのもおもしろい。



「生命の中にあるすべての要素を床にならべてかたまりにしても生命にはならないわけで、これらがいかに配置して、いかに相互に連絡をとりあって、どのように新陳代謝をして、どうやって集団でひとつの機能をなしているのか」

なんてことを考え始めると夜が終わる。




そうかい? まあそうかもしれないね。
くらいの感想を持ってくれた人は、全員、生命科学研究のことをおもしろいと言ってくれるはずである。

は? 何言ってるかわからん。
くらいの感想の人も、まあ、生命科学研究だったら興味をもってくれるかもしれないけれど。





生命科学研究にはいろいろな種類があって、それはたとえば、

1.カレー粉の中にふくまれているクミンという香辛料はいったい何からできていて何の味を作っているのだろう、というように、構成している物質ひとつに着目するもの

2.カレー粉はクミンとコリアンダーと唐辛子と……と配合されているがこれらの配合を変えると味はどうなるだろう、というように、構成している物質の比やかけあわせに着目するもの

3.カレー粉を使わずにカレーの味を出すには

4.カレールーにライスやナン以外に何をマッチさせるとうまいか

5.カレーに合う飲み物は

6.カレーを食べた後のにおいを消す方法

7.カレー屋として食っていくためにはいくらで仕入れていくらで売るのがよいか、もうけを出しつつカレーをうまくするのにぴったり合う食材とは

8.スープカレーはカレーなのか

9.カレーの味を研究する人むけにルーに差し込むと辛さを客観的に判定してくれる機械を作る

10.ハヤシライスとカレーの違い

11.カレーを長期保存していつでもカレーが食えるようにするシステムづくり

12.悪くなった食材をカレーにアレンジすることで再び食えるようにできるか

13.

14.

とまあ、同じカレー研究と言ってもいっぱいあって、じゃなかった、あくまでカレーは例えだったはずなんだけれど気合いが入ってしまった、ひとくちに生命科学研究と言っても千差万別なのである。カレーひとくち。




「病理」というのは「病の理」と書くので、これはつまり、カレーについて考える学問を「カレー理学」と書くようなもので、ほんらい、カレー理学と言っても多種多様であるのとおなじく、病理学もまた多種多様である。

つまり病理学をひとくち……ひとことで説明するのは大変難しいのだが、「カレーはうまいから好きだよ」みたいなとっかかりがあると、いろいろあるのはともかくとして、病理もおもしろいんだなあと思っていただけるかもしれず、そしたらどこかの誰かが病理学の一分野で大活躍してくれるかもしれないのである。




そういえば今思い出したが、順天堂大学の病理の教授はカレーが好きすぎてDr. Curryというあだ名で世界的に有名であり、出張のたびにカレーを食うし自宅でカレーを作って学生に食わせたり客に食わせたりしている。消化管病理学の世界では非常に有名であるが、カレーの世界でも有名であるそうで、天は二物を与えたなあと思う。

2017年8月9日水曜日

暗い蟻だけが人じゃない

誰のためのサービスなんだよ、みたいなことを考えていると、たとえばTwitterで「いいね!がタイムラインに流れてしまう仕様は誰のためか」ということに思いが及ぶ。

誰かが「いいね!」と思った、取っておこうと思った、大事に思った、少なくとも相手に悪意はないことを伝えようと思った、みたいな感情の流れを、狭いクラスタ内でやりとりするのに、Twitterは便利だけれど、当のTwitter社からすれば、「人々の興味をストーミングして、そこに商売がうまれてくれないと困る」のである。

だれかがいいねと思ったものが高速でシェアされる場所、だからこそ、広告が付いて、ようやくTwitter社が喜ぶのだ。

つまり、「いいね!がタイムラインに流れるのは、Twitter社のためになる」のである。ユーザーにとってはさほど役に立たない。

もっとも、ユーザーにとっては、Twitter社がなんらかの形で利益を得て、ずっと続いてくれないと、このだらしなくも居心地がよい場所そのものが失われてしまうわけで、遠回しにはTwitter社の利益はユーザーの利益に結びつく。




病院の受付がオープンするのは朝7時半からです。それより前にいらっしゃった方は待合でおまちください。このように言うと、「おまえら早く来てるんならさっさと受付を開始してくれよ」と怒る人というのが必ずいる。

「患者が来ているから、受付を早く開ける」なんてのは、患者のためにはなるだろうけれど、病院職員のためにならない。そりゃあ具合悪くて病院に来ている人だ、多少フレキシブルに対応したいと思うのはやまやまだが、サービスを提供する側がつらみを飲み込んで、疲弊して働き続けていればいつか必ずサービスそのものが破綻し、結果的に多くの患者を困らせることになる……。

だから、普通に歩いて病院に来ている人が「早く受付を開けろよ、サービス悪いなあ」と怒っても、すみません、こちらもこれで回さないと大変なんですよ、と言う(あるいは言わずに謝る)しかない。




ぼくはTwitter社がいいね!をTLに流すのと、病院職員が決まった時間に出勤して決まった時間に帰るのは、似たニュアンスだなあと思うのだ。

別にそれ、クライアントのためではなくてぼくらのためだけど、なんか、許して欲しいんだよなあ、ってかんじ。




さあてぼくは最近、どんな不満を「サービス側」に持ったかな。

コンビニに気に入ったおにぎりがなかったとか。

ガソリンスタンドが早朝に空いてなくて困ったとか。

自動車保険料が値上げされてて悲しかったとか……。



プンプンするのも手だけれど、少しだけ考えを深くしてみるのもありかなあと思うのである。

2017年8月8日火曜日

病理の話(108)

尊敬する病理医が何人もいるのだが、みんな爆裂に「話すのがうまい」。因果が逆かもしれない。話すのがうまいから、尊敬しているのかもしれない。

ぼくが考える、「話すのがうまい病理医」にはある共通点がある。それは、彼らの脳内に、「ぼくがいる」ということだ。





「先生、この消化管生検、難しくて難しくてもうぜんぜんわからないんですが……」

「ちょっと見ていい?」

「もちろんです、お願いします」

「……これはね、難しいやつ。フフ、でもわかっちゃった。偉い?」

「……偉いです……」

「おしえてほしい?」

「教えて欲しいです」

「じゃあね、結論を先に言おう。○○病」

「ぎえっ、○○病!? そんなこと考えもしませんでした……」

「では次に進もう。なぜぼくが○○病って気づいたか、なぜ君は現段階でこの病気に気づけないのか、そのあたりを探ってみよう。ちょっと時間かかるけど今でいい?」

「お願いします」



これを、病理医になりはじめたころ、最初期に、ある人にやられた。

ものすごい衝撃だった。

自分がわかっていることを教えてくれるだけじゃない。

わからないでいるぼくの脳を読んで、

「これをわかりたいと思うんだったら、お互いの脳や目が見ているものの違いを比べてみよう」

というセリフ。

しびれあがった。




病理診断は、主観の学問であるとされる。核が大きいとかクロマチンが濃いとか、そんな、人によっていくらでもズレが出てきそうな基準で病気を分類している。病理医の胸先三寸で、がんかそうでないかが決まる、なんて揶揄されることもある。

風評被害が出るのも、無理はない。

形態診断学は、確かに、客観性を担保するのが難しい。レギュラー(整っている)をどれだけ外れたらイレギュラー(乱れている、不整である)とするか、という基準を設定するのはとても難しいからだ。

まして、その基準を言葉で説明するとなると、これはもう、極めて困難である。

極めて困難だけど、やらなければいけない。

ぼくらは、説明した相手に、「主観で決めてんじゃねぇよ」と言われないように、さまざまに客観性を確保する。

サイズはきちんとμmの単位で計ろう、とか。

特殊染色で細胞をより差異がみやすいようにハイライトしよう、とか。

そういう細かい努力をする。



診断を聞かせる相手に、「てめぇの主観じゃねぇか」と言われたくない。

だったら、どうしたらいいか?

「てめぇだけじゃなく、ぼくも理解できるなあ」と、思ってもらえればいい。

相手の主観を自分の主観と同調させる。

複数の人がみな、思い思いの主観でとらえた映像が「共通」しているならば、それはすでに客観なのである。

そんなこと、可能なのだろうか?




話じょうずな病理医というのは、それができる。

話のうまい病理医に、ぼくが質問をすると、彼らの頭の中には、「ぼくの主観」がきちんとインプットされる。

ぼくが現状どこにひっかかっているか。ぼくがこれから説明を受けたときに、どこに疑問を持ちそうか。どの順番で説明すれば、ぼくが「わかる!」と言うか。

そういうのがきちんとある。



尊敬する病理医と話すとき、彼らの脳内にはいつしか「ぼくがいる」。

だからこそ、彼らのしゃべっていることは、ぼくにとって、極めてわかりやすい。正直、かなわんなあと思う。



「先生はこの免疫染色の所見を参考に、こう考えているみたいだけど、私の意見は違う。……この免疫染色は、固定条件などに、あてにならないときがある。盲信できない。ホルマリン固定液の種類、検体が手術場で常温にどれだけ置かれていたか、そういった、病理医の手元に来るまでの処置の差が、診断を難しくしている可能性がある」

ぼく「そんなこと、考えもしませんでした……」

「もちろん、私が見ても、このプレパラートの診断は極めて難しい。しかし、私はこのプレパラートの奇妙さに気づけた。それは、私が君と比べて、プレパラートになる前の段階にトラブルが多いということを、経験的によく知っているからだ。わかるかな」

ぼく「なるほど、ぼくにはそこが足りないのか……」




今まで何遍、「なるほど」と言ったろう。

2017年8月7日月曜日

与謝蕪村って音だけ聞くと外人

時間という概念がよくわからない。

Aという事象とBという事象の「間隔」を量るために、水晶の振動をもとにしてなんらかの基準というか、目盛りを用意するというのは、わかる。時間という言葉に「間」が入っているのは、わかる。

ところが、「時が流れる」と言い出すと、ぼくにはもう、よくわからなくなる。

流れるとか言うと、まるで上流をたどれるかのようではないか。

過去が存在するような気になるではないか。

未来が存在するような気がするではないか。

けれどそんなものはない、と言うのを、なぜ未だに科学的に証明できないのかが、不思議である。

不満ではない、不思議だ。



おおまじめに「過去がある」とか「未来がある」と言う説が未だにある(だからタイムマシンがどうとか言う)のが、なぜ物理学的に許容されているのか、物理学とかの根本をよく知らないぼくは、いまいち理解できていない。

あるわけねぇじゃねぇかと思う。思うんだけど、うまく説明できない。



これは、「信仰」だろうか?

科学ではなく、感覚で、「過去とか未来という概念はともかく、実際に事象としては存在しない」と思ってしまうのは、根拠がないけど信じている、というやつだから、信仰と呼ぶべきなのだろうか?



毎日、医療と医学のことを考えていて、科学とか、心情とか、そういったことを少しずつ切り分けるように注意して、それぞれを尊重できるように、と考えてことばを選んでいくのだけれど。

いつのまにか、「科学とかよくわかんないけど心情的にその医療は許せん」みたいなことを言う人々の、気持ちがわからなくなってくる。

いいから科学を信じてくれよ、と言いたくてしょうがなくなる。



ぼくは、過去とか未来とか宇宙とか次元みたいな話の、ほんとうに深いところを、勉強しないまま一生を終える予定となっている。それでよいと思っている。誰かはもっと深いところで会話をしている。ぼくはそういう難しいことを知らないまま、感情と信仰だけで時間や世界を計っている。

それで事足りてしまっているからだ。

そして、医学や医療に対して、感情と信仰だけでよしと思っている人たちの気持ちに、寄り添えるだろうかと、ちょっと不遜なことを考えている。

2017年8月4日金曜日

病理の話(107)

顕微鏡をみるとき、教科書を見て細胞像だけを覚えても、「意味」がわからないと、微妙な(しかし重要な)違いに気づくことができない。



たとえば、肝炎を顕微鏡で診断しようと思ったら、肝臓の正常の機能や構造、肝炎がなぜ起こるのか、それによってどういう変化が起こるのかまでを勉強してからでないと、ただ顕微鏡を見ても、何も見えてこない。



肝臓は非常にたくさんの機能を果たす臓器だが、主に

・腸管で吸収した栄養を、使える形に加工して貯蔵する(倉庫)
・全身で使うタンパク質の一部を作る(工場と流通)
・胆汁というサラサラ液を作って胆管を通して十二指腸に流し込む(産地直送)

などの役割がある。

一次産業も二次産業も、なんなら六次産業くらいまで担当する、ひとつの街のような臓器だ。

ここで重要なのは、「工場」があることと、流通のための血管や胆管といった「道路」があること。

これらが整然と揃っていれば、人体にとってとても役立つ。

逆に、工場が破壊されているか、道路が破壊されているか、それらの両方が破壊されているかすると、人体には悪影響が出る。

どのような悪影響が出るだろうか?

工場が壊れていれば、工場(あるいは倉庫)の中にあった製品が、血中に漏れ出てしまう。

これを血液検査でみるのが、よく人間ドックなどで聞く「肝機能検査」である。

道路が破壊されていると、工場から出荷した商品が「渋滞」を引き起こし、あふれた道で事故が起こるなどして、今度は出荷した製品が、血中に漏れ出てしまう。

これもまた、「肝機能検査」でみることができる。

おもしろいのは、倉庫の中にある商品と、すでに出荷してトラックに載っている商品、あるいは倉庫に入る前の(加工前の)素材、これらがすべて血液検査では違うデータとして現れてくるということである。

だから、肝臓の専門医は、血液データを何種類も見比べて、


「うーん、今回の患者さんは、まだ加工する前のオサカナが血中にいっぱい漏れちゃってるなあ。ということは、倉庫に入る前の段階で何か不都合が起こっているんだなあ」

とか、

「今日の患者さんは、とりあえず加工して倉庫に貯蔵しているサカナ加工素材が血中にいっぱい漏れてるなあ、工場そのものが破壊されているのかなあ」

とか、

「今度の患者さんは、きちんとパッケージしてラベルを貼った、出荷済みのオサカナ製品が漏れまくってるなあ、たぶん道路、輸送段階で破壊されているなあ」

というのを見極める。



それぞれ治療が少しずつ違う。工場を直すには工場用の薬を使わなければ。



さて、以上のことをわからないで肝臓をプレパラートで見ても、

「なんかリンパ球が出てて正常の構造が破壊されているなあ」

くらいしかわからない。

しかし、肝臓内科の知識をある程度勉強してから見ると、



「うーむ今回の肝生検では、炎症が肝細胞(工場)よりも胆管(道路)周囲に強いなあ。肝細胞も破壊されているけれど、どちらかというと胆管に近い部分の肝細胞ばかりがダメージを受けていて、胆管から離れたところの肝細胞には変化が少ないなあ」

ということが、見えてくる。



こういう視点は、臨床医が迷っているときには極めて有効だ。

工場が壊れているようにも思う……道路が壊れている気もする……どっちがメインなんだろう? 血液データだけだといまいち判別が付かないなあ。

そんなときに、肝臓の組織を針の先で少しいただいてきて、顕微鏡を見る。

すると、「ああ、臨床医が迷うのもわかるなあ、肝細胞も胆管も少しずつ破壊されているけれど、その度合いが強くない。けれど、顕微鏡で見て、強いて言うならば、今回のダメージは胆管がメインだな。だから、胆管に障害を起こすような病気を考えた方がいいんじゃないかなあ」

とコメントすることができる。



「なぜそうなるのか」「どうしてそう見えるのか」を勉強しないで顕微鏡を見るというのは、子供が望遠鏡を見てなんかお月様きれいだねえと言っているのと一緒だ。

それ自体にも輝きはある、楽しさもある。

けれど、「なぜ」を知ってから見た方が、ずっと深くおもしろいものが見えてくる。




……患者さんが辛い思いをしている結果、出てきたプレパラートを、「おもしろい」と言いながら見るというのは、ちょっとまずいよなあ……、という懸念はずっとあるのだが、すみません、正直、おもしろいと感じてしまうことはあります。申し訳ございません。真剣にやります。

2017年8月3日木曜日

となりのトートロ

替え歌をツイートしたら「それ、嘉門達夫さんのネタにありますよ」と言われてフラッシュバックが生じたのだが、こんな妙ちきりんな流れで気軽にフラッシュバックするなんて、脳というのはちょいちょい無駄なことしてるなあ、と思う。

なんでこんなこと考えてしまうんだろう、みたいな、思考の負のサイクル。

どうしてこんなこと思い付いたんだろう、みたいな、意外すぎる連想。

これらは、一見ムダに思えてしまうのだが、進化の過程……適者生存の過程で、実装していた方がちょっとだけ生存に有利だったから、今こうして機能(?)として残っているんだろうなあ、とか、そういうことをよく考える。



ただ、人間の体に今ある機能とか構造の、すべてが「今必要だから残っている」とは限らない。

尾てい骨とか。男性の乳首とか。これらは、今必要なものというよりは、「痕跡」である。

尾てい骨なんて今ほとんど役に立っていない。体のバランスを保っているわけでもないし。造血機能にとりたてて優れているわけでもないし。

(最新の研究で尾てい骨は実は機能があると示された、みたいなことが有り得るから医学は難しいのだけれど)

男性の乳首だって、人間の体が元来「女性」として作られていて、男性ホルモンによって男性型に改変されるときに痕跡として残っただけであるから、やっぱり役に立っていない。

(男性にも愛撫の気分を味わってもらうという機能があるぞと酒の席で声高に詰め寄られたことがあり、怖かった)



今世の中にあるものがすべて役に立っているというのはある種の幻想かもしれない。

一見ムダに見えるものも、多様性の確保という意味合いで、そこにあるべくしてあるマイノリティなのだと考えるのも、ちょっとご都合主義なのかもしれない。

そうだ、幻想とかご都合主義みたいな観念って、humanだけにあるものなのだろうか?

ご都合主義なネコとか、幻想にはまるイヌというのも、いそうだけれど、どうなのだろうか?

ヒトがときおり「それはちょっと都合良すぎる考え方じゃないの?」っていう思考に落ち込んでしまうのも、適者生存の果てに残った大切な意味を持っていたりしたら、どうか?



という、「ご都合主義があるのは意味があるというご都合主義」のトートロジーに遊ぶ。これもまたおそらくは進化の末に人間の脳に残された「遊び」なのではないかと考えている。

2017年8月2日水曜日

病理の話(106)

病理診断は顕微鏡によってなされるというのが一般的な(?)理解であるが、実際には、臓器を肉眼で見た段階、あるいは臓器を見る以前に各種の検査データをはじめとする臨床情報を見た段階で、9割5分まで確定できる。

顕微鏡を見るころには診断はほとんど終わっている、ということだ。

もっと言うと、世の中の病気のほとんどは、顕微鏡で細胞を見る「必要」がない。だから、病理医がいない病院であっても、診断と治療は行われているのである。



たとえば胃癌。顕微鏡で癌細胞がどのような種類のものであるか、癌細胞が胃の壁にどれほど深く食い込んでいるか、癌細胞が胃の中でどれだけ広がっているか。

これらは、事前の胃カメラやCTなどでほとんど診断が可能である。

この、「ほとんど」というのがくせ者だ。



おみくじをひく。

箱の中には、大吉が100本、中吉と小吉がそれぞれ2本ずつ、凶が1本入っている。

これは、「ほとんど大吉」という状態だ。

臨床診断の「ほとんど」というのはそういうことだ。

エビデンス・ベースト・メディスン(EBM)というのも、つまりはこの、「おみくじの本数・内訳をきちんとわかってから診断と治療をしよう」ということである。

医療というのは、ほぼ勝つことがわかっているおみくじをいかにうまく引くか。

大吉が少なそうならば、中吉や小吉を引ける確率はどれくらいであるか。

いかに凶を引かないか。

凶を引いたとして、そのときにどう対処をするか。

これらを考えていく作業である。



顕微鏡を見なくても、大吉の本数はもうわかっている。これが臨床医学。

では顕微鏡とは何を見るのか?



箱の中で手が掴んだくじを、箱から取り出す前に、覗き込むこと。






という文字を直接読むこと。確率を超えて事実の元に診療をしようとすること。

箱から実際に取り出したくじが、汚れて、かすれて、うまく読めないときに、その文字をきちんと読むということ。

「なんとなく大吉って読めるなあ」を、「確実に大吉だ」と読み切るということ。




病理診断のレポートに、「可能性」という言葉が書いているとき、臨床医はとてもいやがる。

「おい、なんで実際にくじを掴んで見ているはずの人間が、可能性なんて言葉を使うんだよ。事実を言えよ、そのための病理診断だろう」

まあそうなのだ。そこが期待されているわけだから。

でもねえ、くじというのはねえ、往々にして、





って書いてたり、




って書いてたりするものなのよ。そこに出てきて、「この士と口とは合わせて吉にして読みます」とか、「この太いという字にまぎれている点は偶然まぎれこんだものです」とか、言わなきゃいけないってところに、病理診断の奥深さと人間らしさが潜んでいるのである。

2017年8月1日火曜日

ちなみにボーカル

「ボーカル以外のメンバーが総入れ替えとなっているバンド」というのがたまにある。たとえばSuiseiNoboAz(スイセイノボアズ)というのがそうだ。

声から想像するボーカルの顔と、実際にみたボーカルの顔がだいぶ違うのがおもしろい。

いくつか出ているアルバムを全て聞き比べると、バンドメンバーが替わったとたんに音がまるで変わってしまっている。これほど明らかに変わるのは珍しい。

ボーカルの色合いすら変わって聞こえる。ただ、まあ、いつの時代のも好きなのでよく聞く。



SuiseiNoboAzのアルバム1枚目をプロデュースしたのが向井秀徳なので、しばしばZAZEN BOYSと比べられる。似ているようでまるで違うバンドであり、かつ、どこかわずかに共通する部分がある。

SuiseiNoboAzは「バビロン」というフレーズをアルバム1枚につき1つ程度使っている。向井秀徳が「冷凍都市」という言葉をしばしば使うのと似ているといえば似ている。

変拍子、ザ・ブルーハーブに少し似たラップ。テレキャスとストラト。

最初とメンバーが変わってしまっていること。それでも続いているということ。



ぼくはbloodthirsty butchersのように、オリジナルメンバーが揃わなくなった瞬間に音楽活動を終えたバンドを大変尊敬しているが、ボーカリストだけが残り、形をしたたかに変えながらそれでも音楽を続けているバンドにも、また違った種類のリスペクトを覚える。

自分ではまったく音楽をやらないのだけれど、もしぼくがバンドを組んでいたとしたら、果たして、オリジナルメンバーにとことんこだわったであろうか、自分がフロントマンであればメンバーが変わってもやっていけると信じることはできたであろうか、そもそもボーカルを選ぶだろうか、みたいなことを、ときどき考える。まあ、ぼくみたいな人間は、仮に人生のどこかで平行世界に突入して、今とはまったく違うパラレルワールドの人生を送っていたとしても、おそらくバンドを組むことはなかったであろうけれど、




……思い出した、ぼく21歳のときにバンド組んだんだった。そうだそうだ、最近すっかり忘れていた、完全に他人事だった、なんだ、なぜ忘れていたのだろう、と驚いたけれど、この話はまたいずれとする。書かないかもしれない。