2017年8月28日月曜日

グラとハム

カメラを買ったまま何も撮らずにいる時間は幸せである。

ああ、次、あそこに行くとき、カメラを持って行こう。そう心に抱いて過ごすことができる至福の時である。

これはなんというか、「将来を見て、うれしくなる」という感情だと思う。

反対に、来月頭には試験があるなあ、とか、来週はプレゼンを2回しないと、みたいに、将来を見てつらくなることも、ある。

これらの相反する気持ちは、もしかすると、「同じ脳の回路」に、「違う液体」を流し込んだだけの、表裏一体とも言える感情なのではないかな、と考えている。


同じ回路に違う液体を流すという表現は、さまざまに応用することができる。同じ方程式に違う数値を代入する、でもいい。ぼくはそういう、「なんらかの変換を行うシステム」というのに若干興奮するあぶない性質を持っている。

たぶん、「ブラックボックスの中を開いてみたいという欲求」よりも、「ブラックボックスの中を見ずに、何をぶちこんだら何になって出てくるのだろうという好奇心」のほうが、ちょっとだけ強い。そういう性格を持っている。

きれいな絵がくるくると移り変わる、万華鏡のようなものをずっと眺めていたい。自分がそのとき単純に、おっすごいなあ、何かが起こったなあ、思いも寄らないことになったなあ、きれいだなあ、とはしゃいでいられたら最高だ。


ただ、結局のところ、ブラックボックスフェチはそのまま、ブラックボックスを開けたり、あるいは作ったりする世界に、片足をとられる。中には興味はない、と言っておきながら、結局ふたを開けてしまう。もう引き返せない。

どんな法則を作ったら、どんな突拍子もないデータが出てくるのか。とても気になる。

どんな法則にのっとって、世の中が動いているのか。開けてみたくてしょうがない。

どんな法則を用意したら、自分の入れたモノから自分のほしいモノを取り出すことができるのか。考えるだけでわくわくする。



小林銅蟲「寿司 虚空編」を読みながら、そんなことを思っていた。

ぼくの回路にはもう病理学を流し込んでしまったから、数学を流したときのおもしろさはたぶん来世にならないとわからない。あるいは回路自体が全く異なるようにも思う。

それでも、読んで雰囲気を感じることができるなんて、ことばというのはほんとうに罪作りだと思う。ぼくは自分の回路と液体が世界に唯一の、最高のとりあわせであると、誰かにだまし続けていてほしかった。いいなあ、そっち、楽しそうで、うらやましい。