2017年9月29日金曜日

病理の話(126) 受験数学的な病理診断について

受験のことを思い出していた。

かつて、「図形問題」というのがあった。円とか平行四辺形とか三角形などに、自分で「補助線」を引いて、角度を求めたり長さを求めたりするやつ。中学校くらいでよくやったんじゃなかったっけ。

あれ、何が難しいかって、

「問題集で1つの問題を解いたからと言って、すぐに他の問題が解けるようにはならない」

ということだ。



入試に備えて、過去問を勉強する。過去問は「もう二度と出ない問題」だ。だって、一度出てるんだから。

けれど、「似た問題が出る」と言われて、そうか、じゃあ過去問でもやっとくかな、となる。

これが役に立つか、立たないか、という話。



計算問題なら、数字だけ違ってもやり方は基本的に同じだ。

けれど、図形はそうはいかない。

「同じ図形に同じ補助線」ということはなかなかない。

ぼくは図形の問題が苦手だった。

参考書や問題集を読むうちに、図形も補助線もぜんぶ違うけれど、なんだかパターンというか、根底に流れる考え方みたいなものはある程度共通するのだなあ、ということを少しずつ学んでいく。

そうやってようやく、受験の当日に初めて見る図形に対応できるようになる。

「ああ、この問題自体は見たことがないけれど、なんというか、昔解いたことがある問題にちょっとだけ似ているところはあるなあ、それが何かはわからないんだけれど……」




経験と直感で問題を解くということ。

あるいは、複数の問題から抽出された理論を理解して問題にあたるということ。

当時やっていた、受験テクニックとは、どっちだったろうな。





病理診断も、こういう側面がある。

まったく同じ患者、というのは絶対に現れない。だから、世の中には、まったく同じ病気というのも存在しない。すべてが一期一会である。

けれど、無数の病気の中には、

「この病気であれば、この部分に関してはこういう見え方をする」

という共通点がある。

病理医は、「初めて出会う細胞」を、知識や経験を基に「おそらくアレと似ている」と分類していく。

そうすると、「解ける」。





病理医の仕事は、なんだか受験数学に似ている、という話である。

そして、さらに書き加えておかないといけない。





病理医の仕事の根幹は、受験問題を解くところまででは終わらない。

受験問題を実際に解きながら、そのメカニズムを解明し、臨床医をはじめとする多くの医療人が見ても解けるように、「参考書や問題集として仕立て上げる」こと。




臨床医が細胞を採ってきて、病理でAという病気だと解答を与えられておしまい、ではなく。

臨床医や、あるいは若い病理医が、

「ああ、こないだこれに似た病気があったけれど、あのときは病理でAと診断されたっけ。ということは、今回もまたAと診断されるかな? 少し似ていて、少し違う。Aじゃないかもしれない。今度は病理はなんて言うかな。Aかな、あとはBもありえるなあ」

というように、解答だけではなく問題そのものにも興味を持ってもらえること。




人気の予備校講師がテレビに出る。多くの日本人であれば義務教育のどこかで学んだはずのことを、誰よりもわかりやすく解説して、知識を知恵に変えてくれる。それを見た人達は、ただ単に問題から解答を導き出す「いわゆる受験勉強」よりも、もっと実践的な学問に、あるいは逆に、もっと根源的な学問に、それぞれ興味を持つようになる。

病理医がやる仕事も、こうであればよいなあと思う。

2017年9月28日木曜日

そうすればあなたの完全勝利

バンドミュージックは多様すぎる。出不精なぼくはタワレコで試聴を繰り返すことなどしていない。ライブハウスの開演直後から5時間くらいはりついて聴いたことのないバンドの曲を知ることもしない。初老のマスターが黙ってたばこをふかしている飲み屋でスペースシャワーTVを延々と見ることもない。ただ毎日をばくぜんと送っている。音楽に対して足を運んでいない。20年前に中年だったら、きっと、とっくにバンドミュージックを追いかけることはできなくなっていただろう。

セイタカアワダチソウの生い茂る草原にぽつりぽつりと野球ボールが落ちている。そのどれかを欲しくてしょうがない。きっと手にすればうれしくてしょうがない。けれどぼくは草原を歩かない。だから、もう新しいボールは手に入らない。

バンドミュージックを好きになるというのはそういうことだった。

けれど今は、インターネットがありツイッターがある。

今日ぼくは中年でいて、職場と自宅と出張先の三角貿易しかしていないけれど、それでも新しいバンドを知り、新しい曲を聴くことができる。




「本来であれば出会うきっかけがなかったもの」。

「人の意見」とか「小さな事件」とかもそうだろう。余計なもの、自分を傷つけるもの、悲しい気分にさせるものもいっぱい入ってくる。

黙って座っているだけで自分に都合のよい情報だけが勝手に飛び込んでくるような都合の良いシステムではない。

喧噪に飲み込まれてしまわないように、ある程度、能動的に選択する必要はある。自分の必要なものだけを取り込むシステム。

今のところ、「音楽」とか「本」などにおいて、ぼくはうまいことやれているように思う。





窓口を広くするだけでは、ホメオスタシス(恒常性、いきものが新陳代謝しながらも同じ状態であり続けること)は保てない。敵も味方も入りほうだい、では困る。

むしろ、窓は閉じる。壁をきちんと用意する。その上で、「能動輸送するためのチャネル」をきちんと置いて、自らに害を為すものをはじきかえし、有用なものだけを取り込む。レセプターが反応する「よいもの」に対してだけ、窓口を解放する……。

まったくもって、「細胞」と一緒であるな。





そういえば。

生命の新陳代謝システムは極めて優秀であるけれども、これがうまくワークするためにはある条件を満たさなければいけない。

ある条件とは、細胞外に

「選べるほどたくさんのマテリアルが、そこそこ高速でびゅんびゅん動き回っていること」

である。

細胞が必要とする栄養が「やってきたら、取り込む」というシステムは、「やってこなかったら、餓死」してしまう。

例えば、空気の中には酸素や二酸化炭素が含まれているが、これらはすごい勢いでびゅんびゅん動き回って、あっという間に混ざり合う。拡散能が高い。

もし、酸素とか二酸化炭素が、もっと足が遅くて、なかなか混じり合わなかったとしたら、ぼくらは部屋の一箇所でじっとして息をしているうちにだんだん苦しくなってきたはずなのだ。

自分の周りにある酸素を呼吸によってぐんぐん消費しても、すぐに外から酸素がじゃんじゃか飛んできて混じり合うからこそ、ぼくらは一箇所に留まって眠りながら呼吸することができる。




窓口を開放せず、自分で良いモノと悪いモノを見極めて、良いモノだけを取り入れようとするとき。

窓の外では、喧噪がなければならない。情報が高速でびゅんびゅん動き回っていなければいけない。撹拌されていないといけない。

「自分の目を信じて、いいものだけを選んでやっていく」というのは簡単だ。けれど、周りに雑多かつ高速の物流がなければ、それは緩慢な断食になってしまう。




インターネットでありツイッターのいいところはまさにこの「喧噪」なのだろうな、と思う。




「背高草のざわざわっと、それ以外聞こえない静かな夏の風景。」

「でも俺 この喧噪に飲み込まれてしまう。」

2017年9月27日水曜日

病理の話(125) 仮説形成法はホームズスタイル

プレパラートの中では時間が止まっている。

「今」を固定している。

だから、

「がんはどこから現れて、どうやって大きくなってきたんだろう」

を考えるとき、すなわち

「時間経過とかダイナミズム」

を考えるときには、とても工夫しないといけない。




がんの科学は、対象とする細胞がとても小さいということ、それが人体の中という簡単にはもぐりこめないところで起こっていること、さらには病巣が大きくなるまでに10年以上の時間がかかることなど、複数の理由により、直接観察して解明することが難しい。

そんな中でも、がん細胞を様子を直接見ることができるプレパラート、あるいは病理学というのは、がんの科学にとってはかなり真実に近いことは間違いない。

けれど、あくまで止め絵であるからこそ、時間経過やダイナミズムについては簡単には観察できないわけである。



世にいるあまたの研究者の誰ひとりとして、人間の生体内でがん細胞が発生する瞬間や、がん細胞がメリメリと増えてまわりにしみ込んでいくところをリアルタイムに観察した人はいない。

培養皿の上で、環境を整えて、がん細胞を培養して、タイムラプス顕微鏡で観察した人ならいるけれど。

培養細胞の挙動が、生体内の動きと全く一緒であるという保証はない。むしろ違っているだろうと言われている。

ヤクザをひとりとっ捕まえてきて、研究所の中に作った箱庭に話して、「さあ今から普段通りに振る舞え」と言われても、ヤクザだって困るだろう。

それと一緒だ。




がんの科学は、究極のところ、直接見て考えることが難しい。

つまりは、「想定」と「類推」の上に成り立たせるしかない。今見えているものからストーリーを思い描くだけの想像力、そのストーリーが現実に起こっていることと矛盾しないのだという観察力、それぞれが必要なのである。




細胞を観察して思い描くストーリーが「ほんとうのこと」であると証明するためには、コツがいる。

そのコツは、たとえば、「写真一枚を見て、そのとき何が起こっていたかを想像する」作業と似ている。

豪華客船タイタニック号の写真を見て、側面に火災の痕があったことに気づいて、「実はタイタニック号は出港直前より貯蔵していた石炭が発熱していて、使える石炭の量がきわめて少なくなっていたために、巡航を急いで、結果的に氷山に激突してしまった」なんて、見てきたかのような仮説がテレビに出ていた。

ほんとかなあ。

けれど、この「ほんとかなあ」を、顕微鏡を見て病気を診断する病理医も、ときどきやっている。





胃がんのプレパラートを丁寧に観察する。がんがない人の胃と見比べる。そうして、ひとつの法則に気づく。

「あっ、胃がんがあるときは、高確率で腸上皮化生(ちょうじょうひかせい)が周りに見られるなあ」。

何十例も、何百例も見ているうちに、確信に変わる。

「胃がんと腸上皮化生は、高確率で合併しているぞ」

そこから、類推する。

「まず、正常の胃粘膜が腸上皮化生に変わり、腸上皮化生ががんになるに違いない!」



これは結構長い間信じられていた仮説である。今でも信じている消化器医師は多いだろう。

けれど、間違いだろうと言われている。




腸上皮化生を痴漢に例える。

がんを強盗犯人に例える。

治安の悪い土地があると、痴漢がそこかしこに出現する。

そして、強盗犯もあらわれる。

このとき、「痴漢が強盗犯になった」と考えるべきか?

普通はそう考えない。

「治安が悪いという共通の理由があって、痴漢も、強盗犯もあらわれた」。

この方が自然である。




胃がんも一緒だ。胃に悪さをする何か共通の背景があって、そこに腸上皮化生が出現し、ときおりがんも発生する。

別に、腸上皮化生が直接胃がんに変化したわけではない。

このことを、専門用語で、

「腸上皮化生は傍がん病変 paraneoplastic lesionであり、前がん病変 preneoplastic lesionではない」

という。

パラ(一緒に出現する)ではあるが、プレ(前触れ、元となるもの)ではない。




しかし、腸上皮化生が前がん病変であるという誤解はずっとあった(繰り返すが、今でもある)。

なにせ、顕微鏡で時間を止めて観察すると、腸上皮化生とがんが一緒にある確率が高いから。

すぐに飛び付きたくなる仮説であることは間違いない。

けれど、腸上皮化生とがんの分布をより細かく観察したり、遺伝子の変化などを丁寧に調べていくと、だんだんこの仮説が「ちょっと現実に合わない」ことに気づいてくる。

仮説はいつでも仮説だ。真実そのものではない。

常に仮説は更新し続けないといけない。それが「がんの科学」である。

直接見られないからこそ、仮説で戦う。仮説で戦うからには、常に仮説を新しいモノへとマイナーチェンジし続けていく。

人間、結局、アップデート方式に落ち着いていくものなのだ。

スマホにしろ。アプリにしろ。ゲームにしろ。

最初に買えばそれでOK、ずっと長く使えます、という時代ではない。

最初に採用した仮説を、使い続けながら、より人々になじむようにアップデートしていく。

それこそが「がんの科学」なのである。




最初に立てた仮説だって、決してとっぴな発想ではない。

真実とはちょっと違う。そんなことは織り込み済みである。でも、ある程度は妥当なのだ。

だったら、その妥当な部分をうまく見抜いて、診断や治療に活かせばよい。

そうやって、医療は人々を救ってきた。

完璧でない仮説であっても、妥当な部分をきちんと用いて医療をやれば、診療は可能であり、患者の役に立つ。

そして、今の仮説で満足してしまってはだめだ。

観察をくり返し、知性をふりかけ続けると、少しずつ、仮説がより確からしいものに変化していく。

10年前の医療よりも今の医療はたいてい真実に近い。




顕微鏡を見る診断は、時間経過やダイナミズムに弱い。

それを補うために、統計学とか、遺伝子解析とか、様々な手法を用いて、少しでもよい仮説を構築しようと、「その瞬間で最高の仮説」を探す。

病理医がこの仮説形成を繰り返すことで、時間を止めて観察していたに過ぎなかった病理学に、ダイナミズムが生まれる。

仮説が時間経過とともによいものに変わっていくのである。

すなわち、病理学は、時間経過やダイナミズムに弱いというよりも、時間経過やダイナミズムに自ら取り込まれていくべき学問なのだ。

ストーリーテリングができる病理医はよい病理医。

仮説をうまく説明でき、かつ、今ある仮説を常に疑い続ける病理医はよい病理医。




やっぱりちょっとホームズ感があるな。

数回前のブログではワトソン感があると言ったけれど……。

2017年9月26日火曜日

ちんこの話ばかりする人

腰が痛くなってはじめて、「背中にクッションを入れるありがたみ」がわかったよ。

こんなところに縦にモノを噛ませてどれだけ役に立つんだよ、とぶっちゃけ思っていた。

けれど、背中の湾曲部にモノを置くことで、姿勢が自然と矯正されて、腰回りの筋肉に対する負担(これは主に、自分の体重を支えるときの負担だと思う)がぐっと軽くなる。

普段、気づかずに腰にダメージが蓄積していた状況に、クッションひとつで気づくことができて、クッションだけでそれを回避することができるんだ。



ああ、そうかそうか、ありがてぇもんだなあ、みんながやってる意味がわかったわかった。



インスタグラムをやっていないのだが、あれ、何がおもしろいの? そう言おうとして、ぐっと押し黙った。

きっとインスタだって、やるきっかけを得た人、何が気づきがあった人にとっては、生活の「姿勢」をほどよく保ってくれるような何かがあるんだ。

それは腰痛になる前のぼくが気づかなかったクッションかもしれない。

かけうどんに一味を入れたらうまくなるなんて、考えもしていなかった。

グレーのシャツにグレーのカーディガンを合わせても、バッグで色を与えればおかしくないんだよ、と教えてもらった。

わさびが食べられるようになったら寿司が何倍もうまくなった。




「なんでそれをやっているのか意味不明」

「何がおもしろいのかわからない」

みたいなことを言うときは、きっと、そのものがどのように役立つのか、どのあたりがおもしろいのかという路線で考えても、わからない。

脳を使うとき、「なぜだろうのメソッド」だけでは、うまくわからないことがある。

そういうときには、遠回りなようでも、「なぜだろう」を考える前に、「どういう人達がそれを喜んでいるのだろう」と考えた方が、結局は答えに近くなるのではなかろうか。




ツイートでにゃーんと鳴き、AAのうさぎをふぁぼる人。

何がおもしろいのか。何の役に立つのか。

ではなく。

「どういう人が、それをやっているのか」

を観察しよう。




たいがい、おっさんだった。なるほどな。と思う。いい勉強をしている。

2017年9月25日月曜日

病理の話(124) ワトソンであった理由

長いメールが届いていた。ある内視鏡医が記したものである。

まるで古典文学を読んでいるかのような気持ちにさせるそのメールには、現在、自分が「病理の手法」を用いて、ある疾病の発生メカニズムを明らかにしようとしているのだ、ということが書かれていた。

「だから君にも手伝って欲しい」

ではない。

「こんなことをやっているんだ。どうかな、おもしろいよな。どう思う? いや、感想だけ聞かせてくれればいい」

そんなニュアンスである。





「病理の手法」





ある疾病を、臨床医はさまざまな手段で見る。

「臨床の手法」を使って見る。

画像検査だったり、血液検査だったり、患者の訴えだったり、統計学だったり、さまざまな手法によって、この疾病はどんな形をしているのだろうか、と探る。

たとえばそれが、「縦に引き延ばしたホームベース」のような形に見えるとする(あくまで例えである)。


/\
| |
| |
| |
――


こんなかんじ。

でも、この5角形のうち、先の尖った部分が重要なのか、側面の柱の部分が大切なのか、底辺の部分が意味を持っているのか、臨床の手法だけではわからない。

彼らは、だから、顕微鏡を用いたり、免疫組織化学という手法を用いたり、遺伝子解析を用いたりして、「病理の手法」で疾病をさらに探ってみたい、という考えに至る。



そしたら、この疾病はこのように見えたのだという。



……まるで違う形だ。そこで臨床医はピンと来る。

「ああ、これは、おそらく本当はエンピツの形をしているのだ」




エンピツを上から見れば丸くなる。

横から見れば先ほどの5角形になるだろう。

見る手法、すなわち見る角度が異なれば、見えてくる図形がまるで変わってしまうことはある。



そこで臨床医はぼくにメールをしてきたのだ。

「エンピツだと思うんだよ。よさそうだよな。あってるよなこれ」

ぼくは納得をする。病理医でなくても病理の手法は用いることができる。彼のやっていることはぼくから見ても極めて妥当だ。

先生、すごいですね。

彼は鼻高々となり、さらに謙虚さを増して学問に没頭していく。





……こんなことがよくある。ぼくは時折、何も自分で解析していない分野において、単に「聞き役」にさせられることがある。

ホームズにとってワトソンは必要ないと思うのだが。

ホームズたちは、ワトソンに話し掛けることで、自分の頭を整理しているのだろう。




なお、ぼくはメールに、このように返した。

「先生すごいですね、病理医だけでは絶対に見えてこない視点です。

なお、○だけじゃなくて、□のこともあるんですよ」




臨床医はピンとくるのだろう。「あっ、四角いエンピツってあるよな!」と。

彼の筆箱が途端に多彩になり、彼は驚喜して、そうだ、ロケットエンピツやシャープペンシルなんてものもあったなあ、と思いを様々に巡らせていく。




自分を名探偵になぞらえるのは楽しい。

ただ、ワトソンの何気なく発したひと言、それは必ずしも論理的である必要はないが、何かの世界でずっとやってきた経験が導く不思議な直感であればよく、その「名状しがたい直感」が、探偵に新たな視点を与えることがある。

病理医はときにワトソンであってもよい。




そういえばIBMが診断用に提供しているAIの名前はなんと言ったかな、と、ぼくが思ったのは、この記事を書く「前ではない」。

途中なのだ。

そういえば、と思った。単なる偶然である。

けれど、単なる偶然じゃないのだろうな、と、半ば確信している。

2017年9月22日金曜日

受信者でいればいいだけの話

書いたことがある話題を、延々と書いていた。

たった今消した。




「病理の話」には、そういう「二度目の記事」がいくつかある。でも、ま、病理の話ならば、同じ内容を何度か書いても許されるんじゃないかな、と思う。なにせ世の中には病理の話が少なすぎる。多少しつこいくらいでもいいんじゃないかな。いちおう切り口は変えておくからさ。

けれど、病理の話の合間にこうして「箸休め」として書いている記事の方は、別である。「病理の話じゃないほう」で、自分が前に触れた話題をもう一度とりあげるのは、とても恥ずかしい。

まず、同じ話題を二度語ってしまうというのは、ぼくの場合、基本的に「無意識」である。

よっぽどこれが言いたかったんだね、前にも言ってたもんね、なんて指摘されて、はじめて気がつく。ああ、やっちゃった。

「うちのおじいちゃん、酔ったら同じ話を何度もするのよ」みたいなやつじゃん。

「課長が新人に必ずする訓話があってよォー」みたいなやつじゃん。

恥ずかしい……。




この不幸な事故を減らすためにはどうしたらいいだろう。




ここはひとつ、「このブログでは、○回目には必ず□の話をします」と宣言してしまう、というのはどうだ。

ぼくがつい何度かしゃべってしまいがちな話題はいっそシリーズ化してみる、というアイディアだ。

……。

同じ話題を同じ展開で同じオチまで持って行く快感におぼれ、しかも前に一度披露していることを忘れてブログに平気で複数回同じ話題を書いてしまう人間が、「○回目」の数字が増えるたびにちょっとずつオチをずらしておもしろいことを言う、なんて芸当ができるわけがない。

破綻が目に見えている、やめる。




「してやったり系のネタ」を言おうとする欲を捨てよう。

「うまいこと言う人」になりたがる欲を捨てよう。

狙い球を絞るのではなく来た球を打つようにする。

先の先ではなく後の先を取るようにする。

これならどうだろう。

……。

実際、「関西方面のお笑い」にうるさい人は、これを徹底している。

ネタは毎回違うが構造が毎回同じ、という関西のギャグ的な空気はそうやってできている。

破綻はしないだろう。安心感はある。

けれど、道民は関西人には決してなれないのだ。

なれないんやで。ごめんがな。




一度言ったことを忘れない人間でいたいけれど、もう、なんだか、無理な気がする。

毎回おもしろい話をネタ被りなく披露できるおもしろおじさんでいたいけれど、狙う時期を逃したし、方向性も間違っている。

そうか、そうなんだ。

きっと、ネタ被りをおそれ、自分から出てくる話題の少なさにおびえ、おもろないんやでんがなとか言われるのがつらいから、「芸能とか社会情勢の短報に飛び付いてリアクションすること」が発信の主軸になってくるんだ。

ああ、自分から何かを発信するって、難しいんだなあ……。





ちなみに人がなぜ芸能とか社会について反応したがるのかについては、以前にもこのブログで書いたことがあったはずです。

2017年9月21日木曜日

病理の話(123) 大河ドラマのあとは歴史本が売れる

ありとあらゆる医者は、タテマエ上、学生時代にほぼ全ての臨床科のことを「習っている」。

これは、義務教育の際にすべての小中学生が、日本の歴史について「習っている」というのと同じ構造だ。

習っている。

それだけである。




医学生は卒業後、まず第一に、手先を動かす訓練をする。

現場でここぞというときに、体が硬直しないように。

電子カルテの書き方。入院患者に対する基本的な対処法。外来での事務処理。

急変した患者の対応。救急外来での最適化された行動順序。

医師に求められている数々の手技。挿管、血液ガス採取、大血管へのカテーテル挿入。

「脳よりも先に体が動いてくれないと話にならないよ」という、現場からの期待が大変はげしい。

脳は置き去りにしてでも、身につけなければいけない。



脳に待っていてもらっている2年間で、「日本史」のことは、ほとんどすべて忘れていく。

どれだけしっかり勉強していても、ほとんどすべて忘れる。

ただし、「ほとんどすべて」だ。すべてではない。

自分が将来にわたって使い続ける知識については忘れない。



研修医は、自分が日本史の中で、「どの時代」を勉強したいかを見据えている。

 縄文時代の第一人者になるか。

 室町時代なら誰にも負けない人になるか。

 江戸時代の中期を学ぶか、末期を学ぶか、あるいは江戸時代成立前後を学ぶか。

 日清戦争のなりたち。

 田中角栄のやったこと。

これらは同じ日本史と言ってもまるで違うだろう。

田中角栄の業績に詳しいからと言って縄文土器を見極められるわけがない。

たとえば消化器内科と整形外科というのは、それくらい違う。




小中学生のころ習った「日本の歴史」だと、みんな、どこを一番覚えているだろう?

最初の方で学んだ、「前方後円墳」とか、「聖徳太子」とか、あのへんか。

多くのマンガやドラマで描かれている、「戦国時代」とか「織田・豊臣・徳川」とか、そのへんか。

ザビエルを思い浮かべる人もいるだろう。

平安京だけは忘れない人もいるに違いない。



循環器内科とか救急というのは、ザビエルとか平安京みたいなものだ。

昔習ったなあ、というのを強烈に覚えている科。

頭に残っている科。

「ぼくは日本史に詳しいよ」と人に言って回るときに、説明のしやすい科。




じゃあ病理は?

うーん、そうだな。少なくとも、特定の時代とか、特定の人物ではない。

「日本の文化史」とか。

「日本の外交史」とか。

何かひとつの視点で、すべての歴史を俯瞰しているようなイメージ。

「どこかの時代」を学ぶのではなく、すべての時代について、ある決まった視点でまとめ直すような感じ……。






医学生がときどきツイートしているのをみる。

「病理の試験めちゃくちゃきつい、将来病理医にだけはぜったいなんねー」

「顕微鏡実習マジで意味無い、病理は進路としては消えたな」

これは、学校で日本の歴史を学んだ小学生が、

「年号覚えられない、社会はきらい」

「歴史資料館の見学行ったけどちっともおもしろくない、歴史はつまらない」

と言っているのに似ているなあと思う。




そりゃあつまらんだろう。

病理が「そういうもの」だと思っている間は、つまらんだろうな。



昔、社会に苦労した子供達の中には、たまに、大人になって、もはや社会の勉強なんてしなくてもいいんだよというポジションについてから、ある日、大河ドラマみたいなちょっとしたきっかけで、

「あっ、今なら勉強できるかも、今なら社会がおもしろいかも」

という気になる人がいる。




病理というのはそういうアレだと思うんですよ。大河ドラマが好きなら病理が嫌いなわけないんだ。

2017年9月20日水曜日

カツセマサヒコを倒す

しゃべくり007を見ていた。

最近のイケメンや美女は、バラエティに出ると、

「実はこんな変なところが!」

とか

「意外とオタク!」

とか

「こう見えて爽やかではない!」

みたいにいじられている。

いじられて、イケメン本人も嬉しそうに笑っている。




たしかに。

かっこいいとか足が長いとか顔が小さいなんてことを前面にプッシュされても、ぼくはすぐに嫉妬してしまうから。

こんな完璧超人にも実はこんな弱点が、というところを笑えるスタンスでいじってくれた方が楽しく見られる。

世間的にも伸びるしバズる。



いじりと自虐を、いじめと他虐にならない程度にまぶした番組じゃないと、ぼくはチャンネルを変えてしまうだろう。



実際、いいものをいいと言い続けるだけで人の耳目を集めることは、極めて難しいと思う。

いいものをいいと言い続け、歩き回って人々の肩を叩き、誰かの横でうまそうにメシを食って幸福なため息をつき、よさみよさみ尊い尊いと念仏のように唱え。

それ「だけ」で、ものの良さを伝えて幸せを広めていける人。

いるにはいる。

なんと力強くやさしいことか。

……ぼくらみんなに、できるものだろうか?




いいものをいいと言い続けるだけのことを続けている人からは、なんというか、NHKのにおいがする。

すこし野暮ったいというか。

下品なことは言わないし。

大音量のCMもかからないけれど。

大声で笑うこともない。

スーツで、七三で、笑わない。



……はあ、参ったな。

ぼくは、「いいものをいいと言い続けている、シンプルな、優しい人」にすら、レッテルを貼ってしまっているようだ。





NHKに巨乳のスポーツキャスターが出たと言ってタイムラインが盛り上がっていた。

テレビ東京がニュース速報を出したと言ってタイムラインが怯えていた。




「いいものをいいと言い続けるだけ、それがシンプルでかっこいい」と思い込んでいたはずのぼくの脳にも、いくつかの付箋が貼られており、いくつかのしおりが挟まっていて、偏光フィルターとブルーライト軽減グラスがかかっている。





とりあえず無印良品を着こなすイケメンライターだけは滅ぼそうと心に決めているぼくの、目に、脳に、こびりついてしまったレッテル。


とりあえずカツセマサヒコだけは殴るけれど、その後のことはもう少し、考えていきたいと思っている。

2017年9月19日火曜日

病理の話(122) 生命のプログラム

人体を守る仕組みのひとつに、

「リンパ球がばいきんを攻撃する」

というシステムがある。

言葉で書くと簡単だ。

たとえ話をするならば、リンパ球は警察官で、ばいきんは犯罪者である。



けれど、リンパ球には「脳がない」。

細胞1個だ。脳も手足もない。単なる「まるいつぶ」である。

そんなつぶが、どうやって犯罪者を認識して、どうやって倒すというのか?

そもそも、まるいつぶにそんな警察官みたいな役割が果たし得るのか?



もともと受精卵という1個の細胞が、分裂を繰り返して、何兆という細胞にばけて、今のぼくらの体ができている。

その一部を、わざわざ「まるいつぶにして」、「警察官の役割を担わせて」、「犯罪者の顔を見分ける能力をあたえて」、「犯罪者を逮捕したり、直接罰したりする能力を与える」。

こんな複雑な命令、いったいどうやって与えているのだろう。



人体の細胞がどのように働くかを、適材適所、適切なタイミングで命令しているのは、ざっくりと言うならば、

「DNA」

によって記載されたプログラムであるという。

気が遠くなる。

いったいどれだけ精巧なプログラムを書いたら、こんな複雑な仕事ができるのだろう?




……と、このような記事を書いて、ブログにアップしているぼくは、ふと気づく。

このブログ作成ページだって、プログラムで書かれているわけだよね。




コンピュータプログラムはご存知の通り2進法だ。

0(電気を通さない)と1(電気を通す)の2通りを組み合わせて、無数の言葉を生み出す。

0と1だけで、日本語を自由に表示させたり、行を変えたり、ブログのデザインを決めたり、リンクを飛ばしたり、なんでもやってしまう。

さて、プログラマーは、実際に「0と1」を使ってプログラムを書いているのだろうかというと、確か、そうじゃなかったはずだ。

ぼくはあまり詳しくないけれど。

「言語」を使っているんじゃなかったか。

0と1だけでプログラムを記載するわけじゃなくて、もう少しだけ人が使いやすい言葉に置き直して、プログラムを書いているんじゃなかったかな。

C言語がどうとか、ジャバがどうとか、あったよ、確か。




では、人間の体をコードするプログラムはどうやって書かれているか。

4進法で書かれているのだ。

A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)。

0と1の2進法よりも、組み合わせが多い分、複雑なプログラムが書ける。

けれど、このATGCだけを使ってすべてのプログラムが書かれているわけではない。

プログラマーが、キーボードで010010110111010と入力してプログラムを書いたりしないように。

「生命をプログラムしたプログラマー」も、ATGCだけでプログラムを書くのはやばいと思ったのだろう。

ATGCを3つずつ組み合わせ、「言語」を用意した。

「AGC」のセットを、「セリン」という物質に対応させる。
「GAA」のセットを、「グルタミン酸」という物質に対応させる。

ATGCの4進法でそのままプログラムを書くのではなくて、ATGCから3つずつの組み合わせをつくり、これらを20種類の「アミノ酸」という物質に対応させた。



いきなり4種類の文字だけですべてを書こうとするのではなく、4種類の文字の「組み合わせ」(コドン)を言語として設定。

コドンAGCがプログラムに出てきたら、それはつまり「セリンという部品をここにおいてくれ」というサイン。

コドンGAAがプログラムに書かれていたら、「今度はグルタミン酸をここにおいてくれ」というサイン。

つまり、AGCGAA と書かれていたならば、セリンとグルタミン酸を隣同士においてくっつければいい。




4進法のプログラムを3文字ずつ読みながら、20種類のアミノ酸を次々と並べていく。

アミノ酸がつながっていく。

つながってできたものを、「タンパク質」と呼ぶ。聞いたことがあるだろう。タンパク質。



細胞というのは結局のところ、すべてこの「アミノ酸を連ねてできたタンパク質」によって作られていると考えてよい。

アミノ酸は20種類のレゴブロック。

20種類あれば、たいていの形をつくることができるだろう。レゴで作った建物とか乗り物がタンパク質に相当する。





この仕組みを細かく研究した人が、ある日、思った。「生命すげぇな、4進法でなんでもやっちゃってるよ」。

そして、こんなことを考えた。

「パソコン上の仮想空間に、4進法で記載される『単純な法則』を用意する。1秒あたりに1回、その『法則』が作用して、『ある図形』の形が変わるようにプログラムする。パソコン上で何十億年という時間を再現したら、その図形は”生きつづける”だろうか?」

生きつづける、というのはたとえ話だ。

「ごはんをたべて、周りに影響をあたえながら、ときに敵と戦い、繁殖をして、個体が死んでも種族としては生き続ける」。

コンピュータ上の図形を、あたかもそのように「みなす」。

コンピュータ上で放っておいてもうにょうにょ動き続け、形を変え続け、存在しつづけるかどうか。ほんとの生命ではない。遊びみたいなものだ。

「ライフゲーム」と呼ばれる。




DNAが4進法なのだから。

ゲームとはいえ、「4進法」はライフを生み出す可能性がある。

コンピュータ上で膨大な時間を再現すれば、単純な「ライフ的なもの」は作れるのではないか?




このライフゲームはあまりうまくいかなかった。

4進法だけだと、何度仮想空間を設定し直しても、途中で生命としての「複雑さ」が現れてこず、バリエーションに限界が生じて、結果、不測の事態に対応できずに、「ほろびて」しまう。

足りなかったので、ためしに5進法にしてみた。

文字を増やせばバリエーションが多くなるだろう、という発想。しかし、今度は、「複雑すぎて」、図形が途中でうまく変化しなくなってしまった。



机上の空論とは便利なことばである。

本来、「○進法」という概念には、小数点はそぐわない。

0と1での2進法というのはわかる。ATGCの4進法というのはわかる。

けれど、「4.2進法」と言われたって、想像がつかないだろう。

けれど、このライフゲームにはまっていた学者は、思った。

「4進法だと複雑さがたりない。5進法だとカオスに陥ってしまう。だったら、4.2進法くらいがちょうどいいんだけどなあ……。」

4.2文字で記載するというのは意味がわからないのだが、ためしに、やってみた。




すると、うまくいってしまった。図形はいつまでも、うにゃうにょと変化し続けて、それはまるで新種のアメーバかなにかを見ているかのようだった。

「え……? どういうこと……?」




生命の複雑さを記載するには、どうも、単なる4進法では複雑さが足りないらしい。

人間って、ATGCの4進法でプログラムされているはずなんだけどなあ……あっ!




学者は思いついた。

DNAはATGCの4文字だけど。

RNAになると、AUGCの4文字にかわるんだよな。確か。

T(チミン)が、なぜかU(ウラシル)と対応するんだ。

これ、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれない。



それに、DNAにはほかに「修飾」とよばれるシステムもある。

メチル化とか、アセチル化とか。文字にかざりが付くのだ。

これも、文字を「ちょっとだけ増やしている」のかもしれないな。




生命って、4進法じゃなくて「4.○進法」くらいなのかもしれない……。




(一部ぼくが適当にいじっているのでフィクション化してますが、そのような仮説が提唱されたことは実際にあるそうです。)

2017年9月15日金曜日

プロ野球選手がゲルマニウムのネックレスをする理由がわからない

ファッチューチョン、だったっけ。

あってた。佛跳牆。

バイブル・めしにしましょう(小林銅蟲)の3巻に乗っていた。

いわく、「山海の珍味を壺にぶちこみ、壺ごと蒸し煮する高級中華料理です。主な特徴として、値段に天井がない」。

乾物をはじめとする中華の食材をこれでもかこれでもかと大量にまぜこんで、力で蒸し煮にしたスープ。




「個々の食材の特徴は失われて巨大なうまみの塊が流れ込んでくる」

「味の余韻がめっちゃ長い」

「色々な生命の意識が入ってくる」

のだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何が元になっているのかわからない、味の塊。





昔、化学で習った。「緩衝液」という言葉を。

緩衝液というのは、多少の酸や多少のアルカリをぶちこんでも、pH(ペーハー)がほとんど変わらない液をいう。

酸を入れてもばんばん中和されてしまい、あまり酸性に傾かない。

アルカリを入れてもじゃんじゃか中和されてしまい、そんなに塩基性に傾かない。

そういう液体があるのだという。



人間の体ってこうだよなあ、と思った。

もはや何を入れてもそうかんたんにはぶれない、不屈の緩衝液。



生命というのは、無数の足を持つやじろべえである。

あまりに多くの要素でなりたっているために、一部の足を重くしても、一部の足をとっぱらっても、もはやバランスがあまり変わらない。

そんなやじろべえでいることに、メリットがある。

今日はごはんばかりを食べ、明日はバナナばかりを食べ、明後日はビールばかりを飲んだとしても、1週間程度ではさほど体調が悪化しない、ということ。これは、生存していく上ではとてつもなく大きなメリットなのである。

ある日は果実を手に入れた。

ある日はマンモスの肉を狩れた。

ある日は水しか飲めなかった。

それでも人は生きる必要があった。

それでも人間は「そのまま生き続けて」いなければいけなかった。

いつ、何が手に入るかわからないからこそ、生命はファッチューチョンでなければいけなかった。生命は緩衝液であることを選んだ。生命は無数の足を持つやじろべえになった。




「このドリンク一個でとても健康になれる」なんてことはあり得ない。

「このストレッチひとつで人生が変わる」なんてこともない。



すべてはバランスであり、るつぼであり、個々人がより分けて摂取したり排除したりして動かせるほど安直なシステムではない。






……ところで。

西洋医学というのはおそろしい。

この薬1個で、病気が治る、というのをやっているのだから。

無数の足を持つやじろべえがどちらかに傾いたとき、それを何かひとつのおもりで直そうとしても、普通は直るものではない。

でも、西洋医学は、それを直してしまう。

まるで奇跡ではないか?



西洋医学を奇跡にしないために、人は、統計をとる。

必死で臨床試験をやる。

万が一! たったひとつの物質が、人間のバランスをもとに戻してくれるかもしれない!

そういうアイディアをぶつけて、ぶつけまくって、生き残った「奇跡の一錠」だけが、西洋医学には採用されているのだ。




奇跡を確認し終わった結果が今の医療だと思えばいい。

ぼくらはいつも、奇跡に囲まれて生きている。

慎んで、学んで、ラッキーに感謝する。

そして、奇跡をオカルトにしないでくれた、統計学にもそっと手を合わせる。

2017年9月14日木曜日

病理の話(121) なぜ手術をしどうして病理診断をするのかって話

手術で臓器をとってくる「理由」を考える。

たとえば、「がんだから」手術をします、という理由がある。これをもう少し深く掘り下げる。

「ある種のがんが、ある程度周囲に潜り込んだりしみ込んだりしているとき、手術をすることで患者にメリットがある。だから手術をする」

なるほど、ではそのメリットとは?



1.長く生きられる。

2.痛み、苦しみが減る。


だいたいこのどっちかである。




病理診断でがん細胞を見ているとき、あるいはがんに限らず、手術で採ってきた臓器をみるとき、

「この手術をすることによって、患者にはどういうメリットがあったのかなあ」

ということを考える。

実は、そんなに患者のことを考えなくても、病理診断することはできるんだけれど。

細胞ががんであるかどうかを判断するだけのことに、患者の顔を思い浮かべる必要はない。細胞のことをきちんと勉強しておけば、用は足りる。

それでも、ぼくらは、診断とは直接関係しない、「患者にとってのメリット」を思い浮かべながら診断をする。




――患者はこの手術によってどれくらい長生きできるんだろう、患者は医者とどのような相談をしてこの手術に臨んだんだろう、手術で失った部分があるならば、それだけデメリットもあるはずなのに、それでもなお手術を選ぶだけのメリットがあったということだ、そのメリットというのはいかばかりだろうか。

――手術をしなければどれだけの痛みがあったのだろう、どれほど苦しんでいたのだろう。この手術によって病巣がとりのぞかれ、その結果患者は苦しみから解放されたのだろう、さて、どれほど苦しみが減っただろうか。

細胞とは関係ないだろうけど、考える。



──医療統計の論文を読む。ある病気に対し、ある手術をすると、どれくらいの確率で患者がどれほどよくなるか。逐一論文になっている。ガイドラインと呼ばれる指針にまとめられている。数々の教科書に書いてある。それをきちんと読む。

細胞とは関係なくても、読む。



──臨床医が何を考えているのかを知ろう。書を捨てずに、医局に出よう。主治医には意図があり、こうなれ、と思った願いがある。患者に直接会わないぼくたちも、臨床医をはじめとする医療者であればいくらでも会うことができる。

細胞とは関係あるわけないけど、聞く。



その上で。

とうに患者から切り離されてしまったプレパラートの中に、患者の苦しみを見定めるヒントを探す。

顕微鏡で臓器をみるときに、がん細胞や病巣そのもの以外にも、あらゆる細胞を見る。

たとえば神経。たとえば手術のきれっぱし部分。たとえば病変とは関係ない部分の粘膜。たとえば筋肉、たとえば臓器の大きさ、血管の増え具合……。

これらがどのように変化しているかを探り、患者にはこんな苦しみが出ていただろうなと想像する。

細胞と関係ないことを聞いて、読んで、考えているからこそ、細胞をそれ以上に、診る。





「患者のことを想像しながら診断する」こと。実際、病理医にとって必要なスキル、とまては言えない。

だって、患者がどのように苦しんでいたとしても、もう手術は終わっているのだから。症状はすでに取り去られているのだから。顕微鏡をしっかり見ることが求められているのだから。

けれども。

「そこ」を想像せずに、がん「だけ」を見て仕事を終えてしまっては、いけないのだと思う。

単に理想論とか美談として語りたいのではない。




臨床医がやってくる。すでに診断を終えた患者の病理報告書を手にして。



「先生今ちょっといい?」

──いいですよ。

「これ、診断には何の文句もないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」

──どうぞどうぞ。

「この人、ふつうだったら背中が痛くなるはずの病気なんだよね。けど、今回は腹側が痛くなってた。関連痛ってことでいいのかもしれないけど、なんかちょっと解せなかったんだよな。もしかして病気の範囲が、腹側に及んでたのかな」

──なるほど、おまちください。ちょっとプレパラート出しましょう。一緒に見ましょう。

「ありがとう」

──ここですね、病気が神経にそって、前方に「這って」います。レポートにも書いてある神経周囲浸潤というやつですが、今回のは「ちょっと特殊な這い方」をしています。画像には映らなかったかもしれません、這っている細胞の量は決して多くないですから。けれど、這った先でだいぶ周囲に障害を与えていますね。ここは映っていたかもしれませんよ。

「ん? あっ、これか……ちょっと離れたところのこれ。これも病気の範囲なのか。そうか、だから前方に痛みが出るのか」

──病理診断上、この方が将来どうなるかを予測する上ではどうでもいい所見なんですけど、手術前の痛みを解釈することができる所見でしたね。

「そうかそうか、ありがとう」

──いえ、ぼくもこれからこういう像が出ていたらきちんとレポートに書き加えます。勉強になります。





……これは「理想」ではなく、「現実」にすべき診療のスタイルではないかと思う。誰のための診断、誰のための治療、そういったことを考えれば、ぼくらが細胞を見る「だけ」でいてよいのかどうか、答えは出るはずだ。

2017年9月13日水曜日

ツイッタラーズハイ

今これだけ努力すれば、いつかきっと楽ができるからな、と言われてがんばって、無事望んだポジションにつくことができた人間が、今度はそのポジションを守るために、昔よりも多くの努力をしている。

そんなシーンを目にする。

「将来、努力をすることが苦にならないように、昔から努力しておいたんだ」

そんな文脈すら、ある。




まあ確かにそういうやり方ってあるよな。




毎日ランニングするなんてかったるくてしょうがないけれど、何とかかんとか理由をつけて走る習慣を付けると、いずれ走ることが楽しくてしょうがなくなり、走ることが一日のリズムを産み、走らないとなんだか不安になったり、走れば走るほど充実したりするやつ。

ランナーズ・ハイみたいな状態になってしまえば、人間は幸せ回路をオンにすることができてしまう。



もっとも、自分の幸せ回路が、はたしてランナーであればオンになるのかどうかは、試してみないとわからない。

走るのがいいのか、泳ぐのがいいのか、本を読むのがいいのか、勉強するのがいいのか、キャバクラに通って金をぶん投げるのがよいのか、働くのがいいのか。

どうも人によって違うようだ。





毎日ツイートをしている。これはもう苦痛としての側面が確実にある。皇居の周りをランニングして疲れがたまるのと一緒である。勉強して目や腰がつらくなるのと一緒である。なぜそんなに苦労してまで毎日続けてるの? と言われた時に、まあ確かに疲れるんだけどさ、と答えるのはもはやランナーの言い訳と一緒だと考えている。

ツイートをしていない時間に、ツイートについて考えているとき、ああ、ぼくもまた、安直に幸せ回路をオンにする仕組みにのっかってしまっているんだなあ、人類だなあ、とあきらめてしまうのだ。

2017年9月12日火曜日

病理の話(120) 病理医ヤンデルと教科書のおすすめ

よい教科書というのが世の中にはいっぱいある。

ああ、この一行目は、読んだあなたにお得情報を一つももたらしていないな。

なぜなら、自明だからだ。そりゃそうだろうと言われてしまうだろう。知ってるよ、と。

けれど、あえて強調しておきたい、「よい教科書はある」。

医療現場で働いているとそれを忘れてしまうから。




「学術論文を読んで最新の知識をきちんと集めなければだめだ! 論文は批判的に読め! 書いている内容を盲信するのではなく、どれだけ信頼できる情報なのかを吟味しながら読むのだ! 薬をひとつ使うにしても、手術をひとつ行うにしても、すべては論文からはじまる!」

「座学だけでもだめだ、手先から知恵を吸収するのだ! 実践こそは最高の教師である、頭でっかちになるな、手技を身につけろ、現場の感覚を研ぎ澄ませ、クリニカル・パール(臨床現場で役立つ豆知識)を探して回れ、ピットフォール(落とし穴)に気を付けるのだ!」

たいていの医療者は、なんとなくこういうかんじで、医療をやっている。やることがいっぱいある。実に忙しい。

ぼくらはもう、学生ではない。

机上の空論では困る。

実践的にレベルアップしていかないといけない。

いろいろな理由で、学生時代にあれだけ使っていた「教科書」を読まなくなる。

代わりに論文を読む。あるいは読まないで実践に飛び込む。




「論文」と教科書はどう違うか?

原則的に、論文1本に対しては、テーマが1つ設定されている(あくまで原則)。

論文ではたとえば、「ピロリ菌は胃がんの原因となるだろうか」みたいな検討を行う。

「塩分を多くとると胃がんになりやすいか」なんてのもある。

「ある薬Aは胃がんによく効くか」。

「胃がんにおける遺伝子の変化を調べた」。

書き方はいろいろだ。統計学的な処理のレベルもさまざまである。解析方法はMethod(メソッド)と言うが、メソッドも多種多様。患者をいっぱい集めてきて調べた、という論文もあれば、あるタンパク質や遺伝子に着目してラボで実験をした結果、という論文もある。

基本的に、「何かひとつ」が書かれている。


これに対し、教科書というのはどのように書かれているか。

まず、教科書の著者というのは、「すでに偉い」。論文などをいっぱい書いて、業界で偉くなった人が書いたり編集をしたりする。

多くの論文をチェックする目を持った著者が、「もっとも信頼できる」と思った論文を集めて、その内容をストーリーとして紡ぐ。

この「ストーリーとして紡ぐ」に、教科書としての良さがある。

たとえば、ある教科書には、「胃がんの原因には食事とピロリ菌と加齢とその他もろもろがあるのだ」と書かれている。

この一行を書くために、平均して20本くらいの論文が「参照」されている。

いずれも厳選された20本だ。世界各国で読まれ、検証されたものを用いる。論文は出版されたあとに、世界中で批判的に読まれる。「ほんとかよ」「うそじゃねぇだろうな」「おおげさなのでは」「まぎらわしくはないか」。

そういうフィルターを通過した、本当に役に立つ論文が、偉い人によって選ばれる。そして、紡がれる。



論文は確かに最新の知識である。しかしその知識は、のちに世界から非難されるかもしれない。どれだけ信頼してよいかもわからない。

最新がよいとは限らないのだ。

それよりも、多くの論文が時間とともに吟味された時点で、

「今、世界中の論文を読んでみたらさ、この領域についてはこういうことでいいみたいだよ」

とまとめた本を読んだほうが、役に立つ場面がある。

それが、医療界における「教科書」である。



お察しの通り。教科書というのは、編者や著者の能力によって、良くも悪くもなる。

どの論文を選んだか。どこを使える情報として抽出したか。レアではあるけれど教科書に載せてもらえると助かる情報。典型的なのでさまざまなイラストと共に説明して欲しい内容。

同じ分野を扱っていても、教科書が違うと、まるで理解のスピードが変わる。




……以上の話を医学生、さらには研修医にすると、

「でも教科書読み比べるヒマなんてないっすよ」

「そもそもそんなに教科書読める時間がないです」

「ていうか教科書高くて買えないです」

という答えが返ってくる。必ず返ってくる。

ぼくは幸いというか不幸にもというか、患者を相手にしない(検体を相手にする)仕事をしており、つまりは医療者を相手にする仕事をしている。クライアントは臨床医であり、医学生は言ってみれば取引先の新入社員にあたる。

だからサービスをするのだ。

自分で教科書を買って読み比べる。そして一番よかったやつをおすすめする。

金? たいへんだよ、そりゃもうすごいかかる。けどいいんだ。そこに金をかける人間がいないと、教科書を読む流れは広がらないから。



病理医ヤンデルと教科書のおすすめ: https://togetter.com/li/956911



今回の記事、「病理の話じゃないじゃん」と思った?

病理というのは「病の理」と書く。つまりは理を追求する仕事だ。これはつまり学問ということだ。

病理医ってのは、医療現場の学問を統括する立場でいたらいいんじゃないかな、と思う。これは完全に個人の意見であり、病理医みながそう考えているわけではないけれど、ぼくはもう信じている。病理医が勉強して、病理医が中心になって医療現場に学問を広めるくらいでちょうどいいんだ、忙しい医療現場で座学のプロをやるというのはそういうことだろう、と思っている。

2017年9月11日月曜日

このブログのプロフィール写真がまさにそのホテルで撮ってみたやつですね

「周りの目」って大事だな。

「○○歳にもなって、■■してないなんて、恥ずかしい」

とか、

「そろそろ△△ができないと周りに迷惑かける」

とか。

さまざまな行動が、「周りからどう見られているか」でドライブされる。



足の速い動物が、速く走って獲物を捕らえないと生きていけないように。

社会性で生きる人間は、周りの目に一喜一憂しないと生きていけないのかもしれない。




釧路出張の夜、ホテルの部屋で、ローソンのパスタを食いながらビールを飲んでいた。デスクの横の壁には大きな鏡があって、飯を食っている自分の顔が映っている。すこし前傾姿勢の首。ストレートネックって、他人から、こうやって見えるのかあ。胸張って歩かないと貫禄的に厳しいなあ、飯食う時もあんまり前傾姿勢になるのやめとこ、小物っぽく見えちゃう……。

そこまで瞬間的に考えてから、ゆっくりと思った。

ホテルの部屋でひとりで飯食うときに、小物っぽく見えたから、どうだっていうのよ。




そういう、「だからどうだっていうのよ」みたいな話、いっぱいある。

歯を磨いているときに口元から歯磨き粉が垂れたらはずかしいと思ってふき取る。誰も見てねぇよ。

部屋着がよれよれになってきたので少しおしゃれなやつに買いなおす。誰も見てねぇよ。

誰も見ていないパンツにまでこだわることこそ、男のたしなみ? 知らねぇよ。自意識過剰かよ。




……って、思ってた世界に、SNSがいいねをつけてくる。

2017年9月8日金曜日

病理の話(119) とても役に立つ線維

人間の体の中にはさまざまなおトク物質がある。

多くの医療者が存在を知ってはいるものの、そのはたらきを正確に理解できていないものは、「線維」(せんい)だろうと思う。

今日は線維の話をする。



洋服の繊維、とは漢字が異なることに気を付けてほしい。体内で増えるセンイは「線維」と書く。なぜ漢字を書き分けているのか、理由は戦前の病理学もしくは組織学に端を発しているのではないかと推察するが、詳しくは知らない。

なお、「野菜をとると繊維がとれるからいいんだよぉ」の場合は、「繊維」でよい。元から体外にあったものについては繊維と書けばよい。ややこしい。



線維はどこではたらいているか?

一番身近なのは、ケガをしたとき、そのケガを「穴埋め」する線維である。

腕をどこかにぶつけて血が出たとしよう。

その部分、血が出ているからあんまり凝視したくはないのだが、実は、組織の欠損がある。欠けてしまっているわけだ。

欠けていると、まず第一に、防御力が下がる。ばい菌がはいってしまっては困るだろう。

次に、バランスが崩れる。周りの細胞が苦労して築き上げた構築がグラグラになってしまうのもまずい。

ということで、穴埋めをする。

一番かんたんな穴埋めは、みなさんご存じの「かさぶた」だ。

かさぶたは、血液の中を流れている血小板などによって、すみやかに形成される。仮のふたである。

自分ではがせるほど、もろい。

この仮のふたでひとまず穴をふさいでおいて……次に、人体は何をするか。

「線維」を作り出して、土のうで堤防をうめるように、空いたスペースを埋めていくのである。

このとき、線維はさまざまなはたらきをする。



まず、土のうとしての「強さ」がある。

そして、多少周りが動いたり歪んだりしてもびくともしない、「柔軟さ」がある。

さらに(ここからを知らない人が多いのだが)、この線維は、周りにある血管を自分の中に引き込んで、多くの栄養や酸素などを集める「人集め力」を持っている。これから時間をかけて修復していく必要がある場所の血流を豊富にすることは、災害現場に人を派遣するのと同じような意味をもつ。

また(これも知らない人が多いのだが)、線維はまわりの組織をぐっと引き寄せる「収縮力」を持っている。ヤクザの顔にある傷跡はひきつれているだろう。あの「ひきつれ」は線維によってもたらされる。なぜひきつるのか? それは、組織の欠損(穴)を埋めるために便利だからだ。ただふたをするよりも、傷口をぐっとひきつけて、穴を小さくしてしまったほうが、ふたがしやすいだろう。

最後に、組織の修復に成功した場合、線維は「吸収され、なくなってしまう」という性質をもつ。建築現場の足場は、工事が終わるととりはずされるだろう。あれに似ている。



このように、非常時に大変役に立つ「線維」であるが、ふだんは体の中にはあまりたいした量は存在していない。それはそうだ、工事の足場が常に街の中にあふれていては、ジャマでしょうがないだろう。

しかし、いざ! ケガをすれば、すかさず「線維芽細胞」と呼ばれる、文字通りセンイの芽となる細胞が集まって来て、そこに線維を作る。

この線維芽細胞を集める「号令システム」がまたとてもおもしろいのだが、長くなるので今日はやめておく。




おまけだが、線維の性質として「穴を埋める」と共に、栄養を集める「人集め力」があるのは非常に重要である。ここでうまく人が集まらない場合、ケガがいつまでも治らない。

また、このような便利な線維を、がん細胞もまた密かに「使えるやつ……」と狙っており、がんが増えるときには特殊な
「号令システム」により線維化を引き起こす。がんが「硬くなる」、「栄養を奪う」、「ひきつれる」のは、主にこの「本当は集まるタイミングじゃなかったのに集まってしまった線維」による。



人体の中にある仕組みというのは大変巧妙であるため、それをすり抜けたり、悪用したりする病気というのはもはや、インテリ詐欺師のようなたたずまいを見せる。線維ひとつとってもこれである。



おまけですが、これらの「線維」は、いわゆる食物センイ(漢字で繊維と書く方)とは全く関係がないです。これ書いておかないと、ケガをしたときにゴボウとかモヤシ食いまくるみたいな謎治療が提唱されかねないからな……。

2017年9月7日木曜日

びょうりいのりょうりび

買ってきたカルボナーラのレトルト、量が少なくてがっかりした。レンジでチンするためのプラスチック容器(タジン鍋型)にルーを入れてみたら、おい、こんなものかよ、となった。ゆであがったパスタに対して明らかに足りない。

冷蔵庫に牛乳とスライスチーズがある。それしかない。タマゴさえない。

ほかほかのパスタとチンする前のルーをほっぽらかしにして、近所のスーパーに走って、ハーフのベーコン(減塩)だけ買ってダッシュで帰宅し、てきとうに切ってルーに入れた。

ついでにスライスチーズを1枚、手でちぎって、これもルーにいれた。

最後にルーに、牛乳を1ドボ(単位。音が一瞬ドボって鳴る程度)入れて、まとめてチン。

かさまししたルー。

パスタにかけて食う。

ベーコンの塩味とチーズのコクが牛乳によってさらっさらに薄められて、パンチ力のダウンしたちょっと健康そうなカルボナーラを普通に食して、あとはビールでよくわからなくすることで無事一日を終えた。




こういうときだ。

こういうとき、ああ、自分が「計算尽くの料理」をできたらなあ、と、ほんとうに切なくいたましく思う。




世においては、尊敬する料理人として、「冷蔵庫の中身を見てすかさず何かを作れる人」というのがよく挙げられる。

ぼくは、そこまでじゃなくていい。

だって基本はレトルトでいいんだ。

ただ、とにかく、つい買ってしまう各種のレトルト……カレーとかパスタ、麻婆豆腐……に、「何か言いようのない不安」を覚えたある晩夏の夜、冷蔵庫で出番もないまま死んでいこうとしていた残りものと、ダッシュで4分くらいで買い足せる下ごしらえも何もいらない切れっ端みたいな食材を使って、レトルトがちょっと豪華になって少し笑顔になる、ついでに洗い物は増えない、みたいな料理が、あとちょっとだけ上手にできたら、ぼくは本当に幸せを手にしたと言えるのではないかと思うのである。

ああ、あのカルボナーラが、もう一声! うまくできていたらなあ……。



雑にうまそうなめしを作るひとたち、ぼくはあなたになりたかった。

「料理医」と聞き違えられたとき、「料理もしますけど病理医です。」と答えられる、そんな人生がよかった。

2017年9月6日水曜日

病理の話(118) お時間をいただかなければいけないわけがあるんです

主治医が、あなたの体の中から細胞を採ってきた。それは胃カメラでつまんだ胃粘膜のカケラ(小指の爪の先よりもっと小さい)でもいいし、胆石で手術した胆嚢(たんのう)そのものでもいい。針で刺した肝臓の一部でもいい。なんでもいい。

主治医はあなたに「この細胞は病理で調べてもらいます」と告げる。

あなたは、どれくらいで結果が出るのですか、と聞く。

たいてい、「1週間から2週間くらいですね」という答えがくる。場合によっては1か月待ってくれと言われることもある。

この、数週間という時間は、あなたにとって、針のむしろの上の数週間である。

あるいは、まな板の上の数週間と言ってもいい。

「なぜそんなに時間がかかるのだろう……。まあ、これで病気を決めようというのだから、仕方がないかなあ」

あきらめ半分、緊張した日々を過ごすことになる。




なぜこんなに時間がかかるのか。




まず、体の中から採ってきた細胞は、そのままにしておくと、「くさる」、あるいは「とける」。

細胞というのは基本的に体の中にいるからこそ生きられる。栄養。酸素。温度。湿度。すべて、体の中が最適だからだ。もっとも心地よいゆりかごを離れると、細胞はとたんにやる気をなくす。

釣った魚をそのまま放っておいたらだんだん鮮度が落ちていくのと、理屈としてはあまり変わらない。

刻一刻と状態が悪くなる細胞の時間をすかさず止めてやらないと、その細胞がどういうものかを観察することはできない。

せっかく苦労して採ってきた細胞である。できれば、ただ瞬間的に見ておしまい、ではなく、末永く有効活用してほしいと思うのが、患者の、あるいは医療者の、共通の願いであろう。

だから、まず、「細胞の時間を止めるための処理」をする。ホルマリン固定という。

これに地味に1日かかる。その日のうちに細胞の観察に入ることは極めてまれなのだ。



1日後、その細胞を観察するための「標本づくり」がはじまる。

小指の爪の先くらいであれば、全体をいっぺんに観察することもできる。

しかし、採ってきたものが「肝臓の1/3」だったり、「胃の全部」だったりすると、これらをぜんぶ顕微鏡でみるのは大変だ。

だから、どこをプレパラートにして、どこを重要視して、どこを見れば病気の本質に迫れるかをきちんと考えて処理しなければいけない。

「どこをプレパラートにして顕微鏡で観察するか」を確認する作業日が必要となる。



そうそう、言い忘れたが、細胞をホルマリンに浸して「時間を止める」とき、採ってきた臓器が大きいと……具体的には、1 cmより分厚いとき、ホルマリンが組織すべてにしみわたるには、1日では足りない。

1日でできあがる漬物を「一夜漬け」と呼ぶが、何日も漬けておかないと味が染みない漬物もあるだろう。それと一緒だ。

2日、3日とホルマリンに漬けておかなければいけない場合もある。ここでまた時間がかかる。




さて、どこをプレパラートにするか決めた時点で、今度は病理検査室にいる専門の技師さんが、プレパラート作成作業に入る。ここにまた時間がかかる。なにせ、病院の中では「病理部門の臨床検査技師」にしかできない特殊技能だ。宮大工並みに繊細な、熟練のわざが必要となる。

まずホルマリンに漬かった組織を、顕微鏡で見られるようにするために、別の溶媒に浸しなおす。

ホルマリンというのは強力な液体すぎて、そのままではうまく細胞を染め上げることができない。そう、細胞というのは、うまいこと染めないと、ただ顕微鏡でのぞいてもうまく見えないのだ。

パラフィン、有機溶媒、さまざまなものに次から次へと浸して、時間を止めた細胞を観察できる状態にもっていく。

なんとこれにも1日かかる。

さあ、ようやく組織の「見られる準備が整った」。

ここでさらに、「実際に見るための作業」を行う。具体的には、組織を、4 μmという、向こうがみえるほどの薄さに仕立て上げる。

大根の中にダイヤモンドを埋めて外から見ることができるか?

できない。

大根がジャマだからだ。

だから、大根を切って、ダイヤモンドが見られる場所にたどりつかないといけない。

さらに、大根とダイヤモンドであれば、太陽の光で十分観察することができるだろうが。

実際にはホコリより小さい細胞の配列を観察しなければいけないので。

ただ光をあててもうまく見えない。

だから、「透過光」を用いる。細胞の下から光をあてて、上から覗き込む。これが通常われわれが使っている光学顕微鏡である。

細胞の下から光をあてて、上から覗くためには、組織の厚さがそうとう薄くないといけない。ペラッペラにしなければいけない。そうしないと、光が透過しない。

ステンドグラスとかセル画を見るイメージなのだ。

細胞って英語でCell(セル)だからな。セル画。フフッ。今おもいついた。



巨大なカンナのようなマシンを手動で動かして、組織のうわっつらを薄く切る。「薄切」(はくせつ)と呼ぶ。

ペラッペラにした標本を、複数の染色液に漬けて、染め上げる。

この染色作業に半日かける。

ようやく、「セル画」ができる。



病理医の元にセル画……プレパラートが届くのは、最短で、標本採取の1日後。ここまでをじっくり読んだ方は、あれ、もう少しかかるんじゃなかったっけ? と疑問に思うかも知れないが、小指の爪の先より小さな検体を処理するときには、ここまで「1日」と書いてきた行程を、「3時間」とか「2時間」に短縮しているので、ほんとうに一番はやくて翌日にはプレパラートが完成する。

けれど、この「1日」は、患者さんに「ぜったい1日でできますから!」と約束できるほど確実ではない。

どうしたって予備日を設定しなければいけない。なにせ繊細な作業だからだ。

ということで、「平均2日」くらいでかんべんしてもらうことになる。

大きな手術だと、作業量が何倍にもなるし、ホルマリンほかの浸透スピードにも時間がかかるので、「そもそもプレパラートができるまで1週間かかってしまう」ことはしょっちゅうだ。



1日~1週間かけてできあがったプレパラートを、病理医が診る。その場で診断ができればいいのだが。

プレパラートは一日何百枚もあがる。

たどりつくまでにも時間がかかる。

そして、1枚のプレパラートを見て、「あっ、これは難しい」となったときには、さらにプレパラートを作り直し、「違う染色」を施して、違うやり方で細胞を観察することがある。

これにまた数日を要する。

さらに、病理医が、「これは顕微鏡だけで診断するのが本当に難しい」と思った場合、主治医に問い合わせながら、臨床画像(CTとか胃カメラなど)の確認を行ったり、検査データとの照合を行ったりもする。




けっきょくのところ。

病理診断は、患者さんの体の中から細胞を採った「翌日」に完成することもあるが、小さな検体であっても診断が難しければ1週間以上を要することもあるし、大きめの手術検体の場合は最短で1週間前後、最長では3週間くらいを要する。




……そういう細かいところはいいから、「がんなの? がんじゃないの? そこだけ教えてよ!」

患者の気分としてはこうだろう。主治医だってそういう気持ちでいる。

けれど……「がんか、がんじゃないか」なんて人生の一大事、ちょっと慎重に決めたくなるときだって、ある。



病理診断がすごいスピードで出る場合、病理医の腕がよいということか?

そうだ、とも言える。違う、とも言える。

腕がよければよいほど、「細胞が垣間見せる、こまかい違和感」に気づくから、診断に時間がかかったりする。

病理医の腕が普通であっても、技師さんや、臨床医がとても優秀だと、そもそも標本作製までの手間を早めることができたり、あるいはセル画以前の情報でかなり診断を絞り込んでいたりするので、診断が早くなる。

細胞をあまりてきとうに扱ってしまうと、たとえば将来、遺伝子治療に入ろうと思った際に、採取して保存してある細胞の状態が悪すぎて、追加の検査ができない、となる場合もある。これでは本末転倒だ。

一度採ってきた細胞は、何度でも何度でも、患者さんの状態や、そのときの医学の発展度合いに応じて、くり返し利用できることが望ましい。

細胞をとってくるにしたって、痛みを伴うこともある。苦痛に感じる患者もいる。

だったら、きちんと、保存させてほしい。きれいな標本を作っておきたい。




すみません、いつも、お時間をいただいております。

2017年9月5日火曜日

ししとうも焼く

ホルモンやナンコツばかり食っていた。

ヘルシーだとかブームだとか言う単語を、頭のまわりにまるでグラディウスのオプションのように連れ回しながら。

「一周回ってさあ、ゴリゴリのカルビよりも、ホルモンの方がうまいと思うんだよな」

とも言った記憶がある。牛タンとか薄いしすぐ焦げるじゃん、も言った。

ホルモンやナンコツだけで5,6年ほど過ごしているかもしれない(焼き肉屋の中での暮らしに限る)。



なぜ自分がこの数年、判で押したようにホルモンやナンコツばかり食べてきたのか、今となってはよくわからない。こだわってきた、とすら言える。

「こだわり」というのはなんだか「意地を張っている状態」と似ているなあ、と思う。

いや、まあ、意地を張っているからよくない、と言いたいわけではない。ぼくらは日頃、意地を張るという言葉を、「意地を張るのはよせよ」みたいに、「よせよ」とセットで扱いがちだけれども。

意地を張ってこだわって、その結果、楽しそうだ、という人もけっこういるように思う。

張れる意地なら張ってみるのも手だ。

しかし……。人生の重大な決断というならばともかく、「ホルモンやナンコツを食べる自分にこだわる」というのはなんだか、小物感がすごい。

そこまでこだわるほどのものか? ホルモンとかナンコツは。





思い出せないのだ。

かつて、「よぉし、ぼくはこれから、ホルモンやナンコツを食っていこう」と選択した日があったのか。

選択のきっかけとなった「出来事」があったのか。

ぼくに何か「強い意志」みたいなものがはたらいたのか……?

そんな、「ホルモン記念日」は、存在しなかったと思う。

「よぉしナンコツを食べよう、これからのぼくは。」と脳内団結式をやった覚えもない。

様々な流れがあったのだ。ただ、それだけだ。

社会でホルモンがブームだったかもしれない。たまたま好きな女性がホルモンを好きだった日があったのかもしれない。入った店がホルモン専門店だったのかもしれない。あるいは、「意志」というには弱すぎる程度の「意識」が、「今日は塩ホルモンみたいな変化球がうまそうだ」と、偶然何連続かでぼくの脳に響いていたのかもしれない……。

いろんなものがちょっとずつ積み重なった結果、選択らしい選択をした覚えもないけれど、今のぼくがこのように構成されている。

自分の意志で選んだ、とか、なんらかのポリシーに基づいて作り上げた、とかではなく、ただ単純に、「今のぼくが在る」「だけ」。



ぼくらはすぐに過去を振り返って、「選択肢」について議論をするけれど。

そんなものはなかった。

選択肢があって、自分の意志で選んで、その結果が今だよ、みたいな話、あちこちで本当にしょっちゅう耳にするけれど。

ぼくは、「選択らしい選択をしないままなんとなく成り立った自分」に、毎日動揺している。むしろ選択した覚えのない自分の姿にこそ、今とても興味があるのだ。







先日、久々にカルビを食った。なんだこのうまい食い物は。おどろいた。寿司よりうめぇじゃねぇか。ロースも食った。おお、「肉ってうまいんだな」。これがあるからホルモンとかナンコツがメニューの下のほうに押しやられるんだな。牛タンを食った。おい参ったなたまらんぞ。

脂っこい肉をがんがん食った。

翌日を待たず、その日のうちに、胃もたれしたけれど。

このことをきっかけに、ホルモンやナンコツしばりを緩めて、カルビや牛タンを食うように、シフトバーをチェンジすることになるだろうか?

いや、ならないだろうな。

ホルモンもナンコツも、こだわりとかじゃない。「癖」になってしまっている。

だからこれからもホルモンとかナンコツを食うんだけれど、そんなぼくを見て、誰かが、

「あいつこないだ無理してカルビ食って胃もたれしたんだわ、だからああやってまたホルモン食べることにしたんだな」

と、ありもしないぼくの「選択」について語ることが、あるのかもしれない。




そういえば別れた妻はサガリが好きだった。サガリは肉っぽいけど脂身が少ないからうまいよ、と言っていた。一緒に焼肉を食うときにはサガリをよく注文していたように思う。

そうかそうか、そういうきっかけ「も」あったかもしれないなあ、くらいの思考で、ぼくはまたおそらくホルモンを焼くことになる。

2017年9月4日月曜日

病理の話(117) レンズを変えるように染色を変える

風景や人物の写真を、わざとモノクロで撮ったりセピアにしたりすると、ぐっと立ち上がってくる叙情のようなものがあるだろう。

人間は、ものを見るときに、ものの形……というか輪郭だけを見ているわけではない。

色調とか、色の差のようなものにすごく解釈をゆだねている。

それがわかるのは、プレパラートを「異なる染色法」で染めたときだ。




通常、プレパラートは、HE染色(ヘマトキシリン・エオジン染色)という方法で染める。

ちょっとネットから拾ってこよう。高知の病理センターのJPEG画像を勝手にお借りする。



左がHE染色。何が染まっているかというとこれは胃粘膜なのだが、まあ今回そういう解説はやめておく。

右側には、「EVG染色(エラスティカ・ワン・ギーソン染色)」が掲載されている。

ふたつを見比べると、「輪郭がおなじ」ことがわかるだろう。「全く同じ場所」を、2つの染色方法で染め分けて比べているのである。

まるで見え方が違うことはおわかりかと思う。ただ、実際、輪郭は同じだ。細胞や臓器の形をみるだけなら、どちらで染めても良さそうなものである。

この染め分けは、どうして行うのか?




臓器を顕微鏡で観察するとき、プレパラートを作るわけだが、このプレパラートには、障子紙よりもはるかに薄い「4μm」の厚さの試料が乗っている。

薄切(はくせつ)と言って、臓器をカンナのおばけみたいなやつでペラッペラに薄く切る。4μmというと髪の毛よりも薄い。ペラペラに切った試料は、向こう側が透けて見えるほど薄い。そして、基本的に「透明」である。

指のささくれとか唇の薄皮だって、うすーく剥くと向こうが透けて見えるだろう。それと一緒だ。

このままでは、細胞の輪郭など絶対に見えないから、染色をする。特に、細胞の核と細胞質という構造物はきちんと見極めたい。

この、細胞の核とか細胞質を見極めるという作業、あるいは臓器の全体をきちんと観察する作業に最も向いているのが、HE染色であると言われている。

ぶっちゃけて言えば、「コントラストがはっきりしていて、見やすい」。




左のHE染色と、右のEVG染色を見比べると、画面の上半分……胃の粘膜(ねんまく)と呼ばれる部分の見え方がだいぶ異なることに気づく。左は、グラデーションがきれいである。粘膜と一口に言っても、いろいろな細胞の種類があるのだなあ、ということが、このHE染色を見るだけで一目瞭然だ。

これに対し、右のEVG染色では、粘膜の部分はなんだかセピアで、どこに何があるのか一見してわかりにくい。



だから病理医は、ほぼ100%のプレパラートを、最初、HE染色で見るのである。これが万能なのだ。HE染色だけで、8割以上の診断を付けることができる。

ただ。

染色を変えることで、HE染色よりも見やすくなる構造物というのもあるのだ。

もう一度、さっきの図を見てみよう。


図の真ん中あたりに、クリームパンのように波打った横長のリングがある。

これは、血管である。

HE染色だと、ピンクのべたっとした壁として認識できる。

一方、みぎがわのEVG染色だと、なんだか黒っぽいふちどりが見える。このふちどり(というか、血管の梁(はり)のようなもの)は、HE染色ではよく見えない。

実はEVG染色は、血管を見やすくする目的で使用される染色である(ほかにもオタクな使用法がいっぱいあるのだが)。

別にHE染色でも血管はよく見えているじゃないか、と思われるかもしれない。ただ、ちょっと考えてみて欲しい。左側の画像の中で、「ピンク」に染まるものは血管以外にもいっぱいある。

たとえば筋肉。たとえば線維化。たとえば硝子化。HE染色でピンクに染まるものというのはほんとうにたくさんあるのだ。実際、HE染色の画像のベースはピンク(あちこちにピンクがある)というのはおわかりだろう。



図の下側で、帯状のピンク色として染まっているのは、筋肉(平滑筋)である。この中に血管が埋まっていたとしたら、HE染色でぱっと気づくことができるだろうか?

EVG染色なら気づけるのである。なぜならば、HE染色では見えない、黒緑色のふちどり(弾性線維)が見えるからだ。




おもしろいことに、いったんEVG染色で血管を確認したあと、HE染色をよーく見直すと、輪郭のこまかな違いなどで、HE染色でも血管(あるいは弾性線維)を見極めることができるようになる。人間の目、あるいは脳に、「ここを見たら良いよ」という気づきを与えると、見て理解できる範囲がぐっと広がるのだ。

HE染色の画像にフォトショップなどで処理を加えたら、EVG染色のような効果が得られるだろうかと、いろいろいじってみたこともあったが……。今のところ、個人の趣味レベルではEVG染色を超えることはできないでいる。



EVG, Azan, Gitter, PAS, DFS, Grocott...

HE染色以外の染色(特殊染色)はたくさんある。

さらに、これに、免疫組織化学(いわゆる免疫染色)という手法も追加することができる。




カメラマンが、露出をいじったり、補正をかけたりしながら、かつ実物を超えた加工にならない程度に、被写体をうまく浮かび上がらせるように。

病理では特殊染色によって、「被写体」がきちんと浮き上がってくるような試みがなされているのである。




なお、これらの染色は、「臨床検査技師」の手によって行われる。昔の病理医は染色も自分でしたというけれど、今のぼくにはこれらの染色をきちんと仕上げる技術がない。うちの技師さんたちは優秀で、プレパラートは極めて美しい。いつもお世話になっております。

2017年9月1日金曜日

100%

デスクの上や標本棚の一角に、旅先で買った根付のようなおみやげや、ガシャで取ったミニフィギュアのようなものを置いている。まあ、それはいい。好きでやっているからだ。

ただ、埃がすごい。困っている。

定期的に、ひとつひとつどかしながら頻繁に掃除すれば、いつまでもきれいなデスクであり続けるのだろうが。

そこまで努力しなければいけない、ということを、小品を買い集めていた段階で、思い付かなかった。

おかげで今は、デスクの上や標本棚の一角が、小物まみれだし、埃まみれである。




思えばぼくは、よかれと思って置いてみたインテリアがゴミにまみれてなんだか汚くなってしまいそのうち捨てる、ということをずっと繰り返している。

大学3年生のとき、大学のそばに、はじめて部屋を借りた。はじめてのひとり暮らしである(といっても週末は同じ札幌にある実家に帰っていたのだが)。自分の城だ、コーディネートをしたくてしょうがない。

ムダにものを買ったなあ、と思い出す。

なんかサボテンとか。あと……なんだっけ……そう、パキラ!

パキラという名前の観葉植物を買った。デスクに乗る程度の小さいやつ。ハンズでよく売っていたやつだ。

ほかにも、アメリカの車についているナンバープレートみたいなやつとか、ちょっと気の利いたマグカップとか。4プラの上、狸小路の隅などの雑貨屋を巡って、買い集めた。

あれぜーんぶ埃まみれになって、部屋が汚くなっただけだったなあ。




「部屋を上手に飾る人」を見ていると感心する。ぼくにはそういう才能と、努力する気がない。

自分のデスクを見返してみる。作業スペースはきちんと整頓してあるが、それは「仕事で使う部分」だからだ。「遊びの部分」で、自分をきっちりとコーディネートするのがへたくそだ。

服のセンスがないのもいっしょなのかもなあ。スーツとかばんは選べるが、私服が選べない……。






先日、実家に帰ったら、断捨離の真っ最中だった。本棚をひとつ潰して古い本を捨てたり、カーペットとかソファを入れ替えたり、物置のものをまるごと整理したりしていた。

ぼくが暮らしていた部屋も、こぎれいにまとまっていたのだが、そこに、あまり見た記憶のない、ぼくのふとももくらいまである観葉植物が置いてあった。きちんと手入れされている。ちょっとエキゾチックな感じだけれど、緑が部屋にあるのはよいことだ。

なにげなく、土に刺さっている札を読むと、

「パキラ」

と書かれていた。

母に尋ねる。「これ真くんが大学のときに買って、その後引っ越ししたときにいらないからってうちにくれたやつでしょう(笑)。そのまま育ててたら、こんなにおっきくなったわ」

お前、あのときの、卓上パキラかよ。

「インテリアとか観葉植物をきちんと管理できる血、ぼくにも半分流れているはずなんだけどねえ」と答えながら、なんだか可笑しくて、笑ってしまった。