2017年9月5日火曜日

ししとうも焼く

ホルモンやナンコツばかり食っていた。

ヘルシーだとかブームだとか言う単語を、頭のまわりにまるでグラディウスのオプションのように連れ回しながら。

「一周回ってさあ、ゴリゴリのカルビよりも、ホルモンの方がうまいと思うんだよな」

とも言った記憶がある。牛タンとか薄いしすぐ焦げるじゃん、も言った。

ホルモンやナンコツだけで5,6年ほど過ごしているかもしれない(焼き肉屋の中での暮らしに限る)。



なぜ自分がこの数年、判で押したようにホルモンやナンコツばかり食べてきたのか、今となってはよくわからない。こだわってきた、とすら言える。

「こだわり」というのはなんだか「意地を張っている状態」と似ているなあ、と思う。

いや、まあ、意地を張っているからよくない、と言いたいわけではない。ぼくらは日頃、意地を張るという言葉を、「意地を張るのはよせよ」みたいに、「よせよ」とセットで扱いがちだけれども。

意地を張ってこだわって、その結果、楽しそうだ、という人もけっこういるように思う。

張れる意地なら張ってみるのも手だ。

しかし……。人生の重大な決断というならばともかく、「ホルモンやナンコツを食べる自分にこだわる」というのはなんだか、小物感がすごい。

そこまでこだわるほどのものか? ホルモンとかナンコツは。





思い出せないのだ。

かつて、「よぉし、ぼくはこれから、ホルモンやナンコツを食っていこう」と選択した日があったのか。

選択のきっかけとなった「出来事」があったのか。

ぼくに何か「強い意志」みたいなものがはたらいたのか……?

そんな、「ホルモン記念日」は、存在しなかったと思う。

「よぉしナンコツを食べよう、これからのぼくは。」と脳内団結式をやった覚えもない。

様々な流れがあったのだ。ただ、それだけだ。

社会でホルモンがブームだったかもしれない。たまたま好きな女性がホルモンを好きだった日があったのかもしれない。入った店がホルモン専門店だったのかもしれない。あるいは、「意志」というには弱すぎる程度の「意識」が、「今日は塩ホルモンみたいな変化球がうまそうだ」と、偶然何連続かでぼくの脳に響いていたのかもしれない……。

いろんなものがちょっとずつ積み重なった結果、選択らしい選択をした覚えもないけれど、今のぼくがこのように構成されている。

自分の意志で選んだ、とか、なんらかのポリシーに基づいて作り上げた、とかではなく、ただ単純に、「今のぼくが在る」「だけ」。



ぼくらはすぐに過去を振り返って、「選択肢」について議論をするけれど。

そんなものはなかった。

選択肢があって、自分の意志で選んで、その結果が今だよ、みたいな話、あちこちで本当にしょっちゅう耳にするけれど。

ぼくは、「選択らしい選択をしないままなんとなく成り立った自分」に、毎日動揺している。むしろ選択した覚えのない自分の姿にこそ、今とても興味があるのだ。







先日、久々にカルビを食った。なんだこのうまい食い物は。おどろいた。寿司よりうめぇじゃねぇか。ロースも食った。おお、「肉ってうまいんだな」。これがあるからホルモンとかナンコツがメニューの下のほうに押しやられるんだな。牛タンを食った。おい参ったなたまらんぞ。

脂っこい肉をがんがん食った。

翌日を待たず、その日のうちに、胃もたれしたけれど。

このことをきっかけに、ホルモンやナンコツしばりを緩めて、カルビや牛タンを食うように、シフトバーをチェンジすることになるだろうか?

いや、ならないだろうな。

ホルモンもナンコツも、こだわりとかじゃない。「癖」になってしまっている。

だからこれからもホルモンとかナンコツを食うんだけれど、そんなぼくを見て、誰かが、

「あいつこないだ無理してカルビ食って胃もたれしたんだわ、だからああやってまたホルモン食べることにしたんだな」

と、ありもしないぼくの「選択」について語ることが、あるのかもしれない。




そういえば別れた妻はサガリが好きだった。サガリは肉っぽいけど脂身が少ないからうまいよ、と言っていた。一緒に焼肉を食うときにはサガリをよく注文していたように思う。

そうかそうか、そういうきっかけ「も」あったかもしれないなあ、くらいの思考で、ぼくはまたおそらくホルモンを焼くことになる。