2017年10月16日月曜日

病理の話(131) カメラマンも舞台演出家も背景を気にするものだと思う

手術で採ってきた臓器を目でみて、病気(たとえばがん)のあるところを切り、切り口の写真をとる。

病気はどのようなカタチをしているか。

色調をみることで、血液が多く流れ込んでいたかどうか(燃費がわるいヤツかどうか)、硬く瘢痕のようになっていないかどうかがわかる。CTやMRIの画像を頭に思い浮かべる。

輪郭をみることで、この病気が周りにしみ込んでいるか、それとも周りを押し広げているかがわかる。がんであれば周りをぶちこわしながらしみ込んでいくだろう。顕微鏡を見なくても、けっこうわかるものなのだ。

病気の切り口を、ナイフの背の部分で少しなでてやる。

ナイフの背に、黄色くぼそぼそとした、しめった耳垢のようなカスが付着するとき、そこには「もろくてぼろぼろとした組織」があることがわかる。こういうのは「壊死(えし)」である。

壊死というのは細胞が死んだ部分だ。

がんは、自分があまりに急激に増えて大きくなるものだから、うっかり周りから栄養をとるスピードが追いつかないことがある。だから、病気のへりの部分ではすごく元気にまわりにしみ込むけれど、病気のど真ん中では「餓死」してしまっている場合がある。そういう壊死成分がどれくらい含まれているか、切り口を見て、ナイフの背でなでることで、ある程度わかる。

十分に観察を終え……。

顕微鏡標本を作る場所を決める。すべてをプレパラートにしていたらきりがない。診断に必要な部分をじっくり見極めて。


そして、病気を顕微鏡でさぐりにいく……。




トゥルルルル。

(ガチャ)「はい病理市原です」

「あっ、先生おつかれさまです。今いいですか?」

「はいどうぞ」

「ID言いますね。○○○○○○……」

「○○○○○○……XX XXさん。はい、この方ぼくが診断しましたねえ」

「ええ、その方です。病気の診断たいへんよくわかりました。どうもありがとうございます。それでですね、実はちょっと追加で、『背景』について検索していただきたいんですが……」





背景。

たとえば胃。たとえば肝臓。これらは、がんをはじめとする病気が出る際に、「がんではない部分」にも変化がある。

周りの、がんではない胃粘膜や肝細胞にも、なにがしかの異常が起こっていることがある。

あたかも、「らんぼうな校風の高校を中退して、不良になった」みたいに。

がんをとりまく「環境」を観察することで、がんが出てきた「原因」のようなものが見えてくることがある。

だから、医療者はときどき、「背景」を気にする。



この背景の評価が実に難しいのだ……。



「がん」というのは、医療者にとって、無意識のうちに「本気で取り組まねば」と気を引き締めるものである。

がん以外の病気をなめているというわけではないのだが。病気に貴賤はないのだけれど。

やはり、臓器に「がん」があるとき、医療者はそこにぐっと着目してしまう。

なんとか見定めよう、やっつけてやろうと、やっきになる。必死になる。

無意識のうちに、「背景」の観察はおざなりになる。



だから、「意識して」、背景を観察しないといけない。がんじゃないからどうでもいいや、ではなく、「がんに関係のある情報が少しでも得られないだろうか!」と、かなり気を強くもちながら、入念な観察をしなければいけない。





……なんだか当たり前のことを言っているように聞こえるだろう。

ぼくだって当たり前だと思っている。

けれど。

こないだ、ある病気の「背景」について、ある発見をした人がいた。

その発見を人づてに聞いて、ぼくは「うわああああ」と思ってしまった。

この病気、とてもよく知っている。何度も診断している。なんなら、ほかの病理医よりも、ぼくは少し詳しいかも知れない(専門のひとつとしている領域である)。

けれど、こんな「背景」、考えてもみなかった。

がんとは離れた部分に、こんな変化が出ているなんて。




盲点、とか、落とし穴、という言葉がよぎる。

人間は無意識のうちに、見たいところを選別し、見づらい領域を作ってしまっているのかもしれない。

意識して、穴をふさごうとしないと。

声出し確認をするように、細かい観察をこころがけないと。



病気とその背景を解析するという作業は前に進んでいかないのだ。ああぁー。自分で気づきたかったなあ。これ……。