2017年10月18日水曜日

病理の話(132)

現代の診断学は2種類にわかれる。

「1.その場で決めなければいけない診断」と、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」だ。




「1.その場で決めなければいけない診断」は、まちがうと、いけないことがおこる。

具体的にどういけないことがおこるかというと、ざっくり言えば、脳に酸素や栄養が行かなくなって、患者の人生が終わる。

脳梗塞とか心筋梗塞とか肺塞栓とか、銃創とか、たいてい、これだ。

心臓が動かなくなるから死ぬ、肺で酸素をとれなくなって死ぬというのは結局のところ、脳に血液が行かなくなることが一番まずいのであって、極端な話、死にかけている人全員に瞬間的に人工心肺を接続する技術があれば、大部分の救急患者はしばらくの間生きることができる。

※中には敗血症のように、全身に菌が蔓延して、サイトカインの嵐が体中を吹き荒れるタイプのやばいやつもあるので、まあ、全部が全部「脳を生かせばOK」というわけではないんだけれど。




では、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めたほうがいい診断」

とは、何か。

せき(咳)が代表である。

せきに苦しんで病院に来た患者は、たとえば喘息かもしれないし、気管支炎かもしれないし、心不全かもしれないし、逆流性食道炎かもしれない。

これを100%の確率で確定診断するというのは、実はかなり難しい。

詳細な問診(医療面接)と、ある種の検査で、あるひとつの疾患の「可能性」を100%に近づけようとするのだが、ものごとにはいろいろと例外みたいなものがあって、ま、100%の診断が出せることはほとんどない。

名医であればあるほど、決まらない。逆説的だけれど。名医とは小さな可能性も見逃さない医者だから、低確率であっても有り得る病気というのをスパスパ思い付くわけで、いつも100%の診断を出すなんて怖いことはしない。

診断が100%になるまで動き出さないわけではなく、70%くらいの確率でこれだろう、と思った時点で、アクションを起こす。

「これはぜんそくだとしたらこの薬が効くだろうし、ぜんそくじゃないとしてもこの薬を出して悪いことはあまりないな」

のように判断し、ぜんそくの薬を出す。

患者は薬を飲んだり吸ったりする。

医者は、ここで、「様子をみる」。1週間とか、2週間とかだ。

もし薬が効けば、そして、医師と患者の双方が納得すれば、診断は「ぜんそくで確定」となる。

もし薬が効かなければ、「ぜんそくの薬が効かなかった」という新たな情報を加えることで、「では少しまれな感染症か? たとえば心臓の病気? あるいは食道に胃酸が戻ってくる病気か?」と、各々の診断の選択肢が少しずつ入れ替わっていく。




「1.その場で決めなければいけない診断」をしている人の方が偉いとか、すごいとか、そういうことを言いたいわけではない。

「1.その場で決めなければいけない診断」というのは誤診率も高い。そりゃそうだ。様子を見ているうちに死んでしまうからだ。生命維持に努めつつ、診断が決まらず、結局死んでしまうというのは救急の現場では毎日のように起こっている。これは医療者が無能だというよりも、現代医療の限界なのである(もちろん多くの医療者たちがこの限界を伸ばそうと日々がんばっているけれど)。



一方、「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断」は、患者と良好な関係を気づいていないと正しい診断にたどり着けない難しさがある。

「効くか効かないかわからないけれど、とりあえずこの薬を試してみましょう」

と言われて、不安に思わない患者はいない。ベイズ推計によってなされる臨床診断学の要諦を、患者にもよくわかってもらえるだけの「会話能力」が必要なのだ。




で、病理診断はどっちにあたるかというと、これはおそらく、

「2.その場で決まるわけがないが、いつか決めなければいけない診断を、今日決めて欲しいと言われて、ばしっと決める役割」

なのである。




勘のいい方はおわかりかと思うが、この仕事、1と2の双方の専門家に、よく怒られる。

1の方には、「いいよなー病理は、死ぬか生きるかの世界じゃないんだもん」とあざけられ。

2の方には、「病理にまで出すんだから、ビシッと決めてくれよ、細胞まで見てるんだからさ、わかるだろ」とたかをくくられる。

フフ、わかるわかる。まあまかせておきたまえ。1でも2でもない診断というのを見せてあげますよ。