2017年10月20日金曜日

病理の話(133) 割り箸が入っていた袋の話

その内視鏡医は感染力が強かった。

いつも周りにいる人をある種の熱病にかけた。

探究、議論、前提をひっくり返し、常識を疑わせ、思索のもたらす報酬回路を起動させた。

「そんな些細な違いが何になるの?」という疑問の先に、新たな世界が次々と広がっていった。上質な手品を見ているような気になった。



研究会が終わって、懇親会が開かれる場合がある。

まあみんな忙しいのだ。いつもいつも、勉強した後にそのまま飲み会になるわけではない。医療者の中には、学術研究はそっちのけで終わった後の懇親会の場所選びに奔走するタイプのお調子者もいるが、何事かを成し遂げつつある人間は基本的に宴会には興味がない。しかし、彼は偉すぎた。札幌に招聘して研究会でコメントをしてもらうとき、必ず豪華な接待が供された。今の時代、研究会後の飲み会を製薬会社が手配することはない。そんなコンプライアンス違反に積極的に企業が手を染める時代はとうの昔に過ぎ去った。札幌在住の内視鏡医たちが、精一杯の矜持を発揮して、新鮮でうまい魚介を出す店を選び取り、彼を主賓に据えた。ぼくはその末席にいた。参加費はひとり1万円ということだった。高さに見合っただけの料理と酒が出る、と言われた。

ぼくはいつしか、かの内視鏡医の前に座っていた。

彼は手にした酒を次々と飲み干しながらも、切れ長の目をますます鋭く光らせて、先ほどの研究会で深めきれなかった「病理の話」を続けていた。



「先生さあ、ぼくはこないだ思ったんだけどね、あの腫瘍の真下に広がる風景ってのは、あれ、誰も、どの教科書にもまだ書いていない現象なんじゃないだろうかとね、思うんですよ」

ぼくは彼の熱意に浮かされていた。

「それでね」

彼は箸袋を手にした。箸袋の、のりで接着されている部分を丁寧にはぎとり、細長い紙を一枚作り出す。スーツの内ポケットから、製薬会社のそれではない、少しふるびたボールペンを取り出して、そこに何事か書いていく。

それは胃粘膜の構造であった。

彼は酔うと、自分が内視鏡で日々みている光景を、病理のプレパラートを思い浮かべながら、手元に即席のスケッチをこしらえつつ、ぼくに病理の論戦を挑んでくるのだった。




宴会は続く。掘りごたつのテーブル席を1つ隣に移動すれば、そこには、見知ったドクターたちが知らない医療スタッフの話やゴルフの話、料理の話、酒の話、家庭の話などで歓談する花園がある。

ぼくは箸袋の地獄にお供していた。





なんて実践的な病理学を語る人なのだろう。





「や、先生それでね、このね、ここの腺管についてなんだけど、どうもぼくはもう少し免疫染色を足す価値があるんじゃないかと思ってるんですよ。実際、どう思う?」

ぼくは答える。

「先生、それはとても斬新です」

自分が翻訳された海外文学のような語り口になっている。

「そうかい、先生に斬新だって言ってもらえると、ぼくはうれしいなあ! ぼくはね、常々、病理で見ているものも真実、内視鏡で見ているものも真実、だとしたら真実を2つの角度から見ているわけでね、そこにはきっと、何か三次元視したら見えてくる『ほんとうの、真実』があるんじゃないかと思っているんだよ!」

ぼくは翻訳された海外文学の世界に出てくるような、神の啓示を受けた人間のような過ごし方をする。





この論文はぼくが1から10まで考えたものである。

症例はぼくのものではない。いろいろな研究会でお会いした内視鏡医たちが持ち寄った症例であった。

いろいろな内視鏡医のおかげで、ひとつの仕事が結実しようとしている。ぼくは満足だった。けれど、三次元的に満足するためには、もう一翻、「役」が必要だと感じた。

考えた末に、彼にメールを出した。

ぼくが書いた論文の共著者になってもらえないだろうか、という要件だ。

「一度も直接師事したことはないけれど、いつも師匠だと思ってきた内視鏡医」に、論文に参加してもらいたいと思った。

ぼくのアイディアはすべて、彼の箸袋から生まれたものだったからだ。






彼はこともなげに答えた。

「ああーぼくなんて何もしてないんだけどなあ、うれしいですね、ありがとうございます」





ぼくは、ありがとうございます、という日本語が、こんなに迫力があるということを、今この瞬間まで知らないでいたのか、と思った。