2017年10月24日火曜日

病理の話(134) 病理解剖の先にある会話

おおかたの予想と異なる経過をたどった患者。

きわめて診断が難しかった病気。

効くはずの薬が効かなかった腫瘍……。

その結果、医療者にとっても患者の家族にとっても、解せない死というのが、ときにある。



全力を尽くした医療者が、亡くなった患者に対してもまだ尽くせる「全力」がある。

それを病理解剖と呼ぶ。




病気の全体像を取り出すことで、なにがどのように「いつもと違ったのか」を細かく検索。

画像ではとらえきれなかった小さな変化。

新しい疾患概念。

病理解剖とは元来、「病理学の礎」であった。




現代。

画像診断や、臨床医学は、とても進歩した。今や、患者の死に臨み、医療者が「解せない」ケースは昔よりもはるかに少ない。

そのため、病理解剖の数は減っている。

そんな現代においても、なお医療者が「わからない」と感じるケースというのは、すなわち、「超難解症例」であることが多い。

だからこそ、病理解剖の結果も複雑となる。



病理医が精魂込めてレポートを書く……。

その難解なレポートだけで、「全力」と呼べるだろうか?



最後の最後に、患者の死に対して医療者が行えることは、病理解剖の先にある。

CPC。Clinico-Pathological Conference; 臨床病理検討会、という。

患者を担当した主治医。患者に関わったことのある他科の医師。放射線科、循環器科、外科、リハビリ科、腫瘍内科、緩和ケア科。あるいは医師以外の医療者……看護師、放射線技師、臨床検査技師、理学療法士。

そして、患者を直接担当してはいないが、CPCを通じて学問を修めようとする者。研修医、指導医……。

これらが一同に介する。

主治医がプレゼンテーションを行う。患者の経歴を。病院に来たきっかけ。原病における問題点。何がいつもと違ったのか。

これを受けて、病理医がプレゼンテーションを行う。双方が発表を終えたあと、ディスカッションがスタートする。




「先生ね、これ、すごく珍しい病態だと思うんですよ。少なくともぼくは、30年この世界にいて、こんな病気をはじめてみた。ね、これ、珍しいですよね」

「ええ。確かにレアケースです。ただし、私はこれと類似の症例を、今までに3回経験しています。その全てで患者は亡くなりましたが、うち1例において、亡くなる前に診断がつき、治療方針を少し変更することができました」

「えっ、先生、ぼくより若いのに、これもう4回目ってこと? なんで? 病理だから?」

「そうですね。病理だからです。コンサルテーションで関わった症例、前の施設にいたときに検査センターを通じて出会った症例、大学経由で相談をうけた症例」

「それは病理だからでしょ? 普通に臨床やってたらこんな疾患、一生に一度お目にかかるかかからないかだよね」

「そうですね。ですから先生、これは症例報告すべきだと思います」

「そうか……英語? 英語で出せそう?」

「十分な珍しさです。過去に経験した症例の主治医に問い合わせて、ケースレポートではなくケースシリーズのかたちで報告するのもいいかもしれません」

「よし、じゃあ、研修医ひとり先生のところに行かせるから、指導してやって」

「わかりました。では先生、さっきのプレゼンの、臨床情報の部分はぼくにください」

「OK、そうか……今回は死ぬ前にはわからなかったなあ」

「それなんですが。生前に出して頂いていた例の検査のうち、こちらについては陽性尤度比は高いのですが、陰性尤度比があまり高くないんですよ。今回、陰性でしたが」

「だからって、こんなめずらしい病気のことまで毎回あたまにひっかけて診療できるかなあ……」



「ちょっといいですか?」

「はい(放射線科の)先生どうぞ」

「これ、もしかしたら、画像の典型所見がこっちに出てるのかもしれません。生前は気づきませんでしたが……」

「ほんとうですか?」

「ええ、さっきの解剖での臓器写真を見ると、こっちにも病変が及んでるんですよね? これ、気づきにくいですけど……ふりかえってみれば、ここに、造影効果の異なる領域があります」

「おお……うわぁ、これはわかんないなあ……」

「ええ、まったく情報がないと難しいですね。けれど、検査前確率がもう少し高ければ、そのことが放射線科の読影医に伝わっていれば、あるいはこの所見は拾えるかもしれません」

「これ、論文化のときに、ちょっと検討してみましょう。他の例でもみられたかどうか」




「あの、ちょっといいですか」

「はい、(看護師の)○○さん、どうぞ」

「この方、いつもと違う痛み方をしていたんですが、それについては何かわかりますでしょうか」

「なるほど、病理の写真は出していたんですが、説明が足りませんでした。すみません。この方の病気は、このように、いつもよりも広く、この形式で進展をしているんです。先ほど、放射線科の読影でこちらにも影があるかもしれない、と読まれていましたね」

「これで、痛みの説明がつきますか?」

「つくと思います。ただ、このことは今回の1例だけではちょっと言い切るのは難しいですね」

「それについては私から」

「はい、(麻酔科の)○○先生」

「ペインコントロール目的でこのような例をコンサルトされたことがあります。ここまで進行してしまうと局所の制御も難しいのですが、たとえば……」





ここまで「盛り上がる」CPCというのは、そうめったにはない。

CPCに出席したことがある人であれば、一部の医者だけが盛り上がり、研修医を含めた多くの医者達が「はやく終わらないかなあ」とあくびをしている、みたいな経験もあるのではないかと思う。



ただ、「ハマれば」すごい。

ハマらせることができるのは、CPCの病理を担当する病理医……。

さらには、症例に対する「くやしさ」を各層としない主治医。自分がもう少し、何かできたのではないかと思い悩む主治医がからむCPCは、必ずハマる。

そして、ここが大事なのだが。

周りにいる、医者に限らない、医療者たちが、CPCに対して貪欲に「何かを得よう」としていると、そのCPCは異様に盛り上がる。




ぼくは今、複数の病院の、さまざまな形式のCPCに出ている。

病院や主治医によって、CPCのスタイルはさまざまだ。

会話がほとんど交わされないカンファレンスであっても、プレゼンが丁寧に作り込まれていると、あたかもひとつの「講演」を聴いているような気になり、ふるえるほど感動することもある。

逆に、院長以下、ほとんどすべてのスタッフたちが怒号を飛び交わせる、おっそろしいカンファレンスもある。





「ハマった」CPCを経験したことがある研修医は、病理医にそうそう悪い感情を抱かない。

今、病理医のことがあまり好きじゃない臨床医がいる場合、その人はたいてい、「つまらないCPC」を乗り越えなければいけなかった、悲しい過去をもっている。