2017年10月23日月曜日

だいたい短編4本くらい書きあがってます

ノーベル賞受賞を記念して、Eテレで再放送をやっていたのだという。親父が録画した番組をみせてもらった。カズオ・イシグロの白熱文学教室。たいへんおもしろかった。

アイディアが浮かんでから、それをどの舞台装置に放り込むか、を考えるのにとても時間をかけるのだという。

小説のよいところは、舞台を自由に変えることができること。

日本を舞台に書いた小説は、欧米においては「それは日本でのできごと、日本人だからこそ考える心のうごきなんだろう?」と受け止められたのだという。

しかし、日本を舞台にして書いたテーマを、舞台をイギリスに変え、登場人物を執事に変えて、「日の名残り」として世に出したら、彼の代表作と呼ばれるほど世に広まったのだ、という。

あるテーマを描くときに、舞台を自由に設定できるのが小説のすばらしいところであり、だからこそ、書くテーマが決まってからも、舞台を設定するのに長い時間をかける。




この話はぼくをめちゃくちゃ感心させたし、あまりに深く腑に落ちた。




「医療ミステリ」というジャンルがある。

医療ミステリは、たいていの場合、「単純に舞台が医療現場だというだけ」のミステリだ。

作者が医療の現場に何かテーマを見出して、そこを掘り下げよう、何か感じたことを綴ろうと思って書かれた医療ミステリなど、数えるほどもない。

医療の現場でなければ成り立たないトリック、というのはある。

しかし、医療の現場でなければ成り立たないストーリーと呼べるまで練り込まれた医療ミステリには、ほとんどお目にかかったことがない。

たとえば、人気のアニメに必ず「水着回」と「浴衣回」と「ヒロインの妹回」が設定されているかのように。

ミステリを書いているうちに、「今度は医療を舞台にしよう」「今度は電車と時刻表を舞台にしよう」みたいに、場面だけを変えて、結局おなじミステリを書いてしまう人、というのがいる。

ぼくは、そういうのが苦手だった。なぜ苦手なんだろうと思っていた。



カズオ・イシグロの顔としゃべりくちを見ている間に、すっかり、わかってしまった。

自分がなぜ、「場面だけを医療現場に設定したものがたり」があまり好きになれないのか、を。




もしもぼくが、舞台を医療現場に設定した小説を書けと言われたら。

それは、「医療現場を舞台にしなければいけない」ものなのだろうか。

小手先の技術と、むりやりひねりだしたテーマを、オファーにあわせて単に医療現場にあてはめただけのものに、なりはしないだろうか。




ぼくは父親がうまそうなコーヒーを注いでくれる横で、ずっと黙りこくってしまっていたのだ。