2017年12月11日月曜日

へこむしてますか

「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」が庵野秀明監督でアニメ化しねぇかなあと思ってるうちに師走が来た。師走だけが特に忙しい印象はない。むしろ、年末年始をひかえて、各臨床科が少しずつ年末モードに入っていくため、12月の後半は組織診の仕事が少し少なくなる。家に帰る時間も少し早くなる。読む本が少し増える。正月、それは読書天国、今年も読みたい本がある。年末年始には仕事をせずに本を読む。ありがたいことである。

カズオ・イシグロを読みたいな。ああいうのは喧噪の日常にはとても読む気がしないから。

ケン・リュウの長編とかもほんとは読みたいけど今回はパスかなあ。

今年もいくつか本を読んだ、特にぼくは何冊かの本に心を折られたのが印象的だった。どういう生き方してきたらこんなすごい本が書けるんだろう、そういう漠然とした敗北感みたいな感情を心地よくツマミにして文章に酔った一年だった。

こういうことを書くと、「上を見てもきりがありません、あなたは好きなものを書けばいいのです」みたいな見当外れのなぐさめをぶつけてくる人間がいるのだが、何もわかっちゃいないなあと思う。

ぼくが本当に書きたかった情動を、ぼくより優れた筆致で、ぼくが思いもつかない技法で書き記されたら、ぼくのオリジナルの情動なんてあっという間に吹き飛んで、整地されて、置き換えられてしまうのだ。

心の中だけは誰にもいじられない、なんてのは大嘘だ。心の中の名状しがたいなにものかを、誰か他人が文章という暴力で形にしてしまったら、ぼくはもう、その情動を他人の言葉でしか言い表せなくなってしまうのだから。




白状するとぼくは1月末を締め切りとして医療系のSFの執筆をしていたのだ。

本作は6編の短編を元に書き上げる長編で、まず6編の短編を書いておいて、それをメタに配置した世界で主人公がある悩みと向き合って最終的に筆を折るまでの……

いや、主人公は実はまだ決めかねていた。

作家そのものを主人公にするかどうかはわからなかった。作家の一番近くでその仕事を練り上げようともくろむ編集者を主人公にした小説を書くかもしれないな、と思っていたのだ。

短編を2本、3本と書き、4本目がほぼ書き終わったところで、ぼくの手帳はアイディアで真っ黒になった。書きたいフレーズはある、書きたいストーリーもある、しかし、書きたい感情がいまいちつかめないでいた。

そんな折に読んだのが「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」であった。ぼくはもうこれで完全に折られてしまったのだ。

ぼくの書きたかった感情がそこにはぼくの考えもつかなかった言葉で書き記されていたからだ。

ぼくはこの心の動きをこれとは違う形で書くことは永久にできない、それは優劣とかジャンルとかそういった言葉のモンダイではなくて、もっと根源的な、

「もう、読めばいい本がほかにあるのに、なぜぼくがあえて同じ所を書かなきゃいけないんだよ」

みたいな気持ちになってしまったのだった。




ぼくは某氏の編集者に「すみません、もう書けません」とメールを打った。送信するときにちらっと編集者のメールアドレスが目に入った。おたくの出版社からはこういう内容の本は山ほど出ているじゃないですか。ALSOKでも識別できない程度の小声でぼくはひとりごとを言っていたのだと思う、なぜならそのとき、ぼくの乾いた唇は振動かなにかで避けて、ワイシャツの胸元に点状の血液が、目をこらさなければいけないレベルでわずかに降りそそいでいたからだ。