2017年3月31日金曜日

病理の話(64)

何回説明されても、実際に自分で手を動かしたり考え続けたりしていないとなかなか身につかないもの、というのがある。

それはたとえば、ぼくにとっては、「血液ガス検査」である。田中竜馬先生の本を買って勉強して、そのときはわかった気になるんだけど、現場で運用しているわけではないぼくは、しばらく時間が経つと知識が穴だらけになってしまう。(でも、現場にいるひとにはすっげえいい本ですよ!おすすめ!)

市中感染と院内感染、それぞれの感染臓器の違いとか、起因菌の違い、抗生剤の使い方などもそうだ。きっちり知っておいたほうがいいに決まってる。でも、実際に患者さんを診ているわけではないぼくは、こういうのをすぐ忘れてしまう。

ひるがえって、病理の知識。これは、おそらく多くの医療者にとって、

「勉強しようと思えば勉強できるし、覚えることもできるのだけれど、日々プレパラートをみていない限りは、忘れてしまうもの」

なのだろうな。先ほど、ふと気がついた。



手が技術を覚える、というときがある。くり返しくり返し、動作を反復することで、最初はじっくりと考えないと動かせなかった手が、次第に無意識に動くようになっていく、というあれだ。

脳は、同じ動作を反復すると、おそらくなのだが、その動作に使ったニューロン・シナプス同士がうまいこと関連づけられて、セットですばやく動くようになる。

最初は、部屋のあちこちにあるクローゼットをひとつひとつ開けて、必要な工具箱を取り出し、異なる中身を順番に取り出して日曜大工をやっていたのだが、動作を繰り返すたびに、必要な道具をまとめてしまえるようになってくる、みたいな感じだ。

習うより慣れろ。

これと同じ事は、手とか足だけではなく、脳そのものを使うときにも起こっている。

だから、日々なにかに従事し続けている人の方が、知識が身になっている。知恵になっていると言ってもいい。



病理診断報告書に、ときおり、「結果」だけではなく、「説明」を添えるようにする。説明をだらだら書いても臨床医は読んでくれないよ、といろいろな人に言われたが、ボスはときおり、手短ながらも「なぜそう考えたか」という説明を書き足している。ぼくも、それを真似している。

10年、同じような所見を書いている病気もある。もうそろそろ臨床医も見飽きたんじゃないかと思っていたが、こないだ、件の臨床医と話をしていたら、こう言った。

「先生がときどき書いてくれるあの所見、こないだ講習会で見たんですけど、ぼく、あれ、なんかわかりましたよ。わからないままに読んではいたんですけど、わかるようになってました(笑)」



「納得してもらえるような説明」をするには、表現方法をブラッシュアップするとか、テイクホームメッセージを絞るとか、絵やシェーマ(模式図)を用いるとか、いろいろなやり方があるわけだが……。

何より、「反復する」という作業も大事なのかもしれないなあと思う。だから、今日も、所見の最後のところに、ちょっとだけ説明書きを添えるようにする。

2017年3月30日木曜日

宣伝ですwwwwwwwわかるかwwwwwwwフフッwwwwwwwww

昔から沢木耕太郎が好きだった。

須賀敦子のエッセイというのは、ぼくがツイッタランドで教えてもらった中ではもっとも大切なものだ。

ぱっと思いついた二人はいずれも随筆を書くが、彼らの文章を読んでいると、優れた日記は私小説と区別がつかないのだなとか、自分を語ることが世界を語ることになりうる人がいるのだなとか、ただひたすらにあこがれる。

旅路の末に、

「たどり着くべくして……ではなく、たどり着いてしまった場所で、なにごとかを思案した人」

というのに、深く惹かれている。

おだやかで激しい文章である。




ぼくの人生は十人並みに波乱万丈だ。

誰もが経験しうる、そして、誰もがさいころを1000回振れば6の1000乗の答えがあるように、誰ともぴったりとは一致しない、ありふれた独自の人生を歩んでいる。

たとえば沢木耕太郎の目がぼくについていたら、ぼくの人生は彼の筆によって、さびしくも芳醇に描かれただろうか。

須賀敦子の耳がぼくについていたら、ぼくの人生は彼女の筆によって、はかなくも陶然と描かれただろうか。

ぼくのあこがれはいつでも敗北感とやるせなさから生まれている。



彼らの紡ぎだす言葉をひとつひとつ辞書で引いたところで、出てくる結果には目新しいものはない。

使う50音はぼくと違わない。使う漢字はほとんど常用漢字だ。

それでも出てくるハーモニーにぼくは厳しい嫉妬を覚える。

ありふれた独自の人生を、ありふれていても誰もが心のどこかに閉まっている、経験したことのない思い出の箱に共鳴させるような書き方。

そんなことができたら、どんなにいいだろうかと、



「いい」と思って完成してしまっていない彼らだからこそ、随筆を書き続けたのかもしれないけれど。




ぼくがあこがれて、たどり着けないだろうとあきらめてしまっている人々は、おそらく、自らの完成形みたいなものに、たどり着いたとは思っていないだろう。

常に口渇に苦しんでいたようにも見える。

それが彼我を分ける差なのだとしたら、ぼくは、自分の人生を振り返って本をまとめて喜んでいる場合ではないのだ。

そう思いながら、来年の春に出す予定の、自分の本の最終章を書くことにする。

白紙がちっとも埋まらない。

2017年3月29日水曜日

病理の話(63)

ボスと一緒に顕微鏡を見ていて、たまーに、こういう会話になることがある。



「この胃の腫瘍、腺腫(良性)だと思う? 癌(悪性)だと思う?」

「うーん……ぼくはこれだと癌だと思いたいんですけど……」

「だよねえ……でも、どうしようね……」

「微妙なところですよね……」



えっ、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。

がんか、がんじゃないかを、そんな「気分」で決めてしまうなんて。

「微妙」だなんて。

だって、大違いでしょう。がんか、がんじゃないかによって。

死ぬか生きるかってことでしょう?

医療保険だって、「がん」とついたら、お金が下りることがあるわけで。



でも、実際には、病理診断にはこういう、「良悪の決定すら微妙」な瞬間がある。あるんですよ、実際に。



かの有名な「がんと戦うな理論」の人も、ここをつっこんでいたように思う。

がん診療なんて、病理医の胸先三寸で決まる、微妙な診断によって成り立っているものじゃないか、と。

がんと診断されるものの中には、「がんもどき」なる、実際には生き死にに関わらない病気もまぎれているのだと……。




この話を、ここで終えてしまっては、誤解ばかり招くだろう。だから、続きを書く。

なんでもそうだが、フクザツな事実の、途中までを切り取って人々に伝えると、実際のニュアンスが大きく異なってくることになる。



くだんのボスとの会話は、このように続く。



「結局さあ、この手の腫瘍は、良性か悪性かわからない、というくくりに落とし込んでおけばいいわけだよねえ」

「そうですね。この人のこの病気に関して言えば、直ちに命に関わることはない。内視鏡でこの部分だけをくりぬいてしまえば完治するし、あと三か月後にもう一度様子を見てもいい」

「このまま20年放置とかされては困るし、将来的には本物のがんに育つものかもしれないから、完全に放置されても困るけどね」

「良性と悪性の中間くらいの臨床対応をしてもらえればいいってことです」

「つまりは、癌かどうか微妙で、難しい、と、そのままきちんと書いた方がいいんだろうなあ。市原君ちょっと文章作ってみてよ」

「わかりました。ぼく自身は癌に見えるけれど、病理医によっては良性ととる場合もある、微妙な病変である。いずれにしても対応は一緒で、3か月後にもう一度観察する、もしくは粘膜切除によりここだけ切り取ることを勧める……患者の体力や背景粘膜の状態などを勘案して、ご検討ください、こんな感じですかね」

「そうだね」




結局、「がん」という言葉の言霊が強すぎるのだ。

人間は、「がん」と名付けられた病気に対して、おどろき、おびえ、思考停止してしまう。それは、無理のないことである。

しかし、中には、「がんだけどしばらく様子を見られる病気」もあるし、「がんだし、あっという間に悪くなる」ものも含まれている。

この世にあるあらゆるものは、多かれ少なかれ、程度の差がある。



そのあたりを、デジタルよろしく、0か1かの区別できっちりわけようとすると、いろいろ無理が出る。病理診断というのは、そのあたりのアナログな感覚に対しても、できれば、毎回丁寧に対処していきたいものなのだ。



世の中にある「がん診療」……手術とか、抗がん剤とか、放射線治療とか、そういったものは基本的に、「確実に命に関わるがん」に対して行われる。

これらの治療は、「がんか良性か微妙な病気」については、そもそも行わないことも多い。行わなくても命に別条がないことがわかっているからだ(ケースバイケースですよ)。



あのね。

「がんもどき」みたいな病気があること。

がん診療を担う人々は、先刻承知なのですよ。




「こりゃほっといたらまずいだろ」という「がん」を、「まだ放っておいても大丈夫だな」という「がん」と区別するくらいのことは、精一杯させてもらっている。

アナログな診療の先に、強い治療をするかしないかという「決断」をきちんと出していくことこそが、がん診療なんですよ。




ということで病理診断も結構アナログであっていい、と、ぼくは思っているんですけれども、こんな裏話をお話すると、不安になる人たちもいるんだろうなあ。

さらにおまけの話をするならば、AIにはアナログさはないから、繊細ながん診療は人でなければできない、という結論もまた、間違いだと思う。AIをアナログにするアート、みたいなものも、理論上は十分にありえるのだ。

あいまいとかフレキシブルとかの先にある診療を語るのは、本当に疲れるし、今後はそういう「紋切り型の思考」を、いかに解きほぐしていくかを考え、伝えていかなければいけないのだと思う。

2017年3月28日火曜日

病理の鉄人という名前のポスターを作ったことがある病理学講座は手を挙げなさい

それにしてもレトルト食品とか冷凍食品の進化と言ったらすごくて、カレーにしてもパスタの具にしてもそうだが、あんかけチャーハンとか、コロッケとか、グラタンみたいなのもあるし、ハヤシライスとビーフストロガノフとハッシュドビーフの違いが事細かに表現されているといううわさもある(出所はぼく)。

そして、レトルトとか冷凍食品と、手で作った食品の違いと言ったら、名だたる一流料理人であっても、

「親が子どもにかける愛情は必ず伝わるものです」

とか、

「配偶者のために作った料理は食べている時間だけではなく作っている時間も宝物なのです」

みたいにしか表現できなかったりする。


ぼく自身は、ほんとうは、一人で具材をああでもないこうでもないと調理して楽しむ、「めしにしましょう」の世界であるとか、フォロワーの中にもいる料理の得意なクラスタとかを心底尊敬しているし、いつか自分の興味と実力が料理に向かう日が来たら……というか、もうちょっと中年がこじれたタイミングで必ず料理をしようと考えてはいるのだが、いまのところ、

「料理をする時間があったら病理をする」

という感じになってしまっているので、結局、レトルトとか冷凍食品は本当にありがたくて、しょっちゅう使っている。



でも、なんだろうな、最近はもう少し適当になってきて、ドレッシングとか柚子胡椒とか、素材にちょろっとかけたら味が付くよ、みたいな調味料を2つほど常備して、交互に野菜にかけたりするタイプの料理でもういいんじゃないかとか、そっちの方にステージが移ってきており、そうするとこれはずぼらの極み飯みたいなことになるんだけれども、なんだかレトルトをただ温めたときよりもちょっとだけロハスなスローライフっぽさが醸し出されてきたりする。

そういうところどうなんだろうと思う。



「活力鍋」のおまけについてきた小さな一人用のフライパンがあって、これはとにかく何を炒めてもすぐ焦げ付くくらい熱伝導がいいんだけど、これにうっすらとお水を張って、ちぎったブロッコリーとかざくざく切ったかぼちゃみたいなのを1品目だけ乗せて、ふたをしめて軽くあぶって、ブロッコリーの色がよくなるくらいのタイミングで火を止めておしまい、マヨネーズを軽くつけるか塩を振って食べる。

これはおふくろに教えてもらった「もっともずぼらな調理法」なのだが、夜中にブロッコリーだけ蒸し焼きにして塩で食いながらビールを飲んでいる自分は、ヘルシーなのか不健康なのかまったくわからないけれども、うーん、なんだか一番自分に合っているような気がしないでもない。



「料理の四面体」という本を読みながら飲むビールも、これまたうまいのでぜひ試していただきたいと思う。

2017年3月27日月曜日

病理の話(62)

病理では顕微鏡でプレパラートを見て診断するのだが、このプレパラート標本の作り方にも何種類かある。

「薄切」といって、検体を4μmという向こうがみえる薄さに切る特殊なワザ(技師さんが得意)がある。

カツオブシを削るやつと同じ原理、といったら分かるだろうか。

カツオブシを削るときには、カツオブシを「刃の上を通るように」すべらせて、薄く削るのだが、病理の薄切の場合は逆である。

検体を特殊な装置において、その上を「刃が滑る」。

で、この「薄切」により、検体はペラッペラになり、ほぼ透明になる。そこにヘマトキシリン・エオジン染色などの染色法を加えることで、細胞の「断面」が見えるようになる。

これが「組織診」。


なぜこんな面倒なことをするかというと、ミクロの世界というのはとにかく光量が足りないのだ。

同じ光の量で照らされた物体を見る時も、拡大をしていくと、単位面積あたりの明るさがばんばん暗くなっていく。顕微鏡というのは、たとえば接眼レンズ10倍×対物レンズ60倍の世界だから、600倍にものを拡大すると、それだけ光量がなくなってしまうので、

「自然光のもとにおいて、レンズで拡大」とやっても、まず、見ることができない。

だから、検体をぺらっぺらにしておいて、下から強力な光源でばちっと照らし、「検体を透過した光」を観察する。これだと、よく見える。

ま、そういうわけで、検体を光が通り抜けるくらい薄くすることが必要なのである。



一方。

たとえば子宮頚部の細胞診検査とか、肺や膵臓のブラシ細胞診検査と呼ばれるものは、ブラシの上に細胞を1個、もしくは少量ずつくっつけて採取してくる手法だ。

細胞1個の厚さというのは大して厚くない。小さいものだと5μmくらい。大きくてもまあ、普通は10とか20μmくらいだ。

検体内から採ってきた肝臓とか胆嚢とか、胃からつまんできた小指の爪の切りカスくらいの、センチとかミリ単位の検体であれば、先ほどの「薄切」で削り節みたいにしないと、光を透過させることはできないが。

細胞がごく少数ずつ、ばらけて採れてくるタイプの検査だと、そのままプレパラートに載せても、透過光で見ることができる。

「細胞診」は、この、「細胞をそのまま載っけた検査」のことを言う。

「組織診」は、削り節のほうである。



それがどうした。いっしょじゃねぇか、と言われてしまう。けど、けっこう違う。

組織診(削り節)は、断面だ。細胞の輪切りをみる。

これに対して、細胞診は、細胞の厚さがそのままプレパラート上に表現される。削り節ではなくて、ええと……盛り土……? は、まずいか……。

ごくわずかな違いではあるが……この、「細胞の高さ」を用いて、診断することができる、細胞診(盛り土)は、ときに、組織診(削り節)よりも、細胞そのものの性状を判断しやすいことがある。



もうひとつ。



細胞診を見るのは、技師さんの方が、たいてい得意なのだ。なぜ? と言われると説明がめんどくさいのだが、普段、盛り土の方は技師さんがいっぱい見ている。削り節の方は病理医が主に見る。

森井は岸よりも、盛り土をいっぱい見ているということである。森井土。なんでもないです。


2017年3月24日金曜日

今やっているのが10倍界王拳なんじゃ

「このメイクをすると、小顔に見えるんで、今すごく流行ってるんですよ~!」

という特集を見たあとに、件のメイクをしている人に出会うと、そうか、顔を小さく見せたいのか……と察してしまう。

「このパンツ、くるぶしが見えるくらいの長さではくと、足が長く見えるんですよ~!」

というCMを見たあとに、くるぶしパンツをはいている人に出会うと、なるほど、足を長く見せたいんだな……と勘ぐってしまう。


「○○を改善できるんですよ~!」系の商品やCMを使っている人は、多かれ少なかれ、世間から「○○が気になってしかたない人なんだな」と思われる。覚悟しておかなければならない。

ぼくは、常々、恐そうに見えるから伊達メガネをかけたり、ザコっぽく見えるからスーツで出勤したりしている。だから、そのへんの「コンプレックスが産み出す、購買力」がとてもよくわかる。

Nintendo Switchを買ったんです、やる時間がないけどつい買ってしまいました! みたいなツイートをしたときも、内心、おそらくはコンプレックスが購買につながったんだ、と思った。

この場合のコンプレックスとは、

 ・病理医ってひまそう
 ・なんか遊び方がへたそう
 ・人生をたのしんでなさそう

と周りに思われているのではないかということである。

だから、

 ・ひまじゃないよ
 ・けど遊ぶよ
 ・たのしいんでるよ

を全部盛り込んだ結果、よくわからない購入報告につながったのではなかろうか。



人間が自分を語る言葉は、多かれ少なかれコンプレックスによって突き動かされているのではないか、という仮説。

これは、おそらく、ぼくがコンプレックスによって行動することがあまりに多いために、ぼくだけだと恥ずかしいので、広く一般論にしてしまえばぼくが一人にならなくてさみしくないだろう、という、「木を隠すなら森、気を隠すなら界王拳理論」の末に導き出されたものではないかと推測できるのだ。

2017年3月23日木曜日

病理の話(61)

病理医の主戦場というと、やはり「がん診療」である。

では、がん診療においてぼくらがやっていることは何か。

患者さんから採ってきた細胞が、「がんか、がんでないか」を判断するという、イエスかノーかの二択に挑むこと。

たしかにこれがいちばんわかりやすい。

だから、医療者の多くは、たとえばフラジャイルを見た人から「病理医って何なの、知ってる?」と聞かれた時に、

「あー、病院の奥の方で、これはがんだとか、これはがんじゃないとか、そういうのを決めてくれる人たち。」

などと答えているようだ。



ただ実際には、ぼくらはもう少し、細胞を細かく見ている。

「がんか、がんじゃないか」に加えて、いろいろな評価をする。

その評価は臓器ごと、がんごとにあまりに多彩なので、各種の学会から、「がん取扱い規約」などという指針が示されている。

規約に従って、がんを事細かに評価していく。

たとえば、大腸がんなら、こうだ。


・占拠部位(がんがある場所)
・肉眼型(がんが作る、カタマリのかたち)
・大きさ
・断端(手術をしたときに、がんが、採り切れているかどうか)
・深達度(がんがどれだけ深く臓器にしみ込んでいるか)
・リンパ節転移の数
・遠隔転移の数(大腸以外の臓器にどれだけ転移しているか)
・組織型(がんの中でも、何がんに当たるか。細胞レベルでのがんのかたち)
・間質量(がんの周りにどれくらい線維が増えているか)
・浸潤増殖様式(がんがどれくらいばらけてしみ込んでいるか)
・脈管侵襲(血管やリンパ管の中にがん細胞が入り込んでいるかどうか)
・簇出(がんがカタマリからちぎれるような挙動を示しているかどうか)
・神経侵襲(神経の周りにがん細胞が這っていっているかどうか)
・ステージ(がんの総合的な進行度)
・遺残の有無(体の中にがんが残っているかいないか)


これらが、特に手術の後に出される病理報告書には、細かく記載される……。




さて、今の箇条書きを、丁寧に読み込んだ方というのは、どれくらいいらっしゃるだろう。

多くの方は、読み飛ばしたのではないか。

読み飛ばさずにしっかり読んでくださった方も、これによって頭の中に、何か具体的ながんのイメージというものを思い起こすことができただろうか。

ぼくは、この箇条書きをみるだけで、がんを思い浮かべるのは、相当難しいだろうなあと思っている。



実際、臨床医にとっては、これらの項目をすべて埋めてさえくれれば、病理の仕事としては十分なのである。箇条書きの結果をコンピュータに読み込ませて、今後、この患者さんの病気がどうなるだろうかとシミュレーションを考えたり、治療方針を決定したりすることができる。

ただ、実は、臨床医であっても、これらの箇条書きを眺めただけでは

「実際に、がんがどういう感じで広がっていたのか、体の中で何を起こしていたのか」

は想像がつかない。

この箇条書きは、統計を取ったり、ベッドサイドで治療方針を決めるために最適化された「記号」なのである。実体を記号に置き換えて記載した以上、逆に、記号を元の姿に戻すこともできそうなものだが、高度に効率化された病理診断の記号は、元のイメージがつかみにくいものになってしまっている。

いや、ま、慣れていればできるんだけれども。

よっぽど病理に興味がある臨床医でなければ、これらの箇条書きだけをみて、実際のがんの姿を想像することなんでできないのだ。



実はここに、「病理医が人でなければならない意味」が隠されているのではないか、と最近考えている。

具体的には、「記号で事実を処理したときに、ぼくらの心の中に生じる、なんだか煙に巻かれたような感覚」が、患者さん、さらには医療者にとって、無視できない程度のストレスになるのではないかなあ、それはきちんと説明していかないといけないんじゃないかなあ、ということなのだが……。


続きはまたいずれ。最近書いていることは、どれもこれも、ひとつのテーマに向かっています。おわかりかもしれませんけど。

2017年3月22日水曜日

しゅっちょうにしょっちゅう行くからな

ひさびさに、学会や研究会ではない出張の予定が入っている(この記事を書いているのは3月14日、出張があるのは3月18,19日ですので、記事が公開されるころには終わっているはずです)。

研修医の勧誘イベントに病院から派遣される、という仕事。日曜日の朝から夕方まで、東京ビッグサイトで研修医相手に病院の説明などをする。

たいせつなお仕事ではあるんだけど、自分で何かプレゼンを作って持って行くわけではないし、どちらかというと「そこにいることが大切」なお仕事なので、まあ、気楽である。

19日土曜日には、ちょっとした飲み会の予約を入れた。1年くらい前から飲もう飲もうと誘われていた案件であり、東京出張のたびに、すみません今回も仕事です、すみません今日は日帰りなのですと、お断りし続けてきたのだが、今回晴れて、ご一緒できるはこびとなった。

楽しみにしている。

集まる人々はみんな職業が違うのだが、ぼくを含めてある程度共通点があって、その共通点により昔からお互いをマークしていた。そんな関係である。


なーんてことを、知人に話していたら、

「まあそういう飲み会の話はどうでもいいんですけど、要は、仕事じゃない日に移動して、のんびり寝て、日曜日には仕事っぽくない仕事をして帰ってくるってことですよね。

そしたら、行きの新千歳空港でビール飲めますね。いいなあ」

と言われた。

く、空港で、ビール!!!!

考えもしなかった!!!!!!

そもそもぼくは空港まで車で行くことが多いので、帰りはもちろん飲めないのだけれど、行きも、到着後すぐ仕事のことが多かったので、ビールを飲むなんてもってのほかだった。

おおお……そ、そんな幸せが……ありえるのか……。



と、この先も、3月18日土曜日に飲むであろうビールに対する期待内容をえんえんと書いていこうと思ったのだが、ぼくの性格を考えると、結局空港ではビールなんて飲まず、ちょっと本でも読み機内では居眠りをし、東京ではそそくさと飲み会の30分前に会場周辺に到着して、「必要以上に早く着いた人」っぽくみられないように周囲の喫茶店などを眺めたり道ばたで電話をするふりなどしたり、つつましやかに目立たないようにいつもと違うことはしないように極めて保守的にやっていくんだろうなあ、と、ほとんど確信に近い予想が思い浮かんでしまったので、この話はここでおしまいとするが、それにしても、出張の行きの飛行機でビール飲んだらいいんじゃないですか、と提案してくれる人というのは、いったい普段どういう出張をしているのだろうかと、そちらが心配になって仕方がないし、行きの飛行機に乗る前に一度ビールなんて飲んでしまおうものなら次から毎回飲みたくならないだろうか、とか、そういえば行きの飛行機に乗る前に「この世界の片隅に」を見てあれはとてもいい映画だったっけなあと思い出したりしているのであった。

2017年3月21日火曜日

病理の話(60)

学術には、数学も物理学も生命科学も社会学も歴史学も含まれ、みんなそれぞれの持ち場でそれぞれに真実を探しているわけでああ、人間があちこちでそういう探究をしているのは、とてもいいことだなあ、すてきだなあ、我ときどき思う、ゆえに我あり、となる。

学術あるいは科学といったものには、さまざまなやり口、というか方法論があって、それは発見するものごと、解明するなにものかの性質にも関わっている。ヴァレリーってすげぇクソリプ使いじゃん。

たとえば、天王星の外に海王星が存在することは、当初、惑星の動きから「予測」され、極めて高い精度で場所を絞り込み、そこを「観察」したことで「実証」された。これは、「今まさにそこにあるはずのものを見つけた成果」である。

一方、ニュートンがリンゴが落ちるのを見ながら「予測」したものは、実は法則というか、目に見えない引力という概念であって、これは観察によって裏付けを得ることはできるのだが、しかし、誰も引力そのものを目にできるわけではない。引力子みたいなものを「観察」して「実証」したわけではないのだ。この場合、「目には見えない概念を考えて、その概念によってすべてが説明できることを示した成果」ということになる。

海王星の証明と、万有引力の証明は、どちらも証明という言い方をするけれど、どちらも科学の成果ではあるけれど、人々に「あっ本当だ」と納得してもらうためのやり方がまるで違うのだ。

かつて、日本には、神武天皇が存在したという。これはもう、目でみるという海王星のやり方では、確かめようがないのである。タイムマシンがない限り、直接見に行くことができないからだ。しかし、神武天皇について触れられた複数の書物から、「まあたぶん存在しただろう、そりゃ間違いないよね」と、傍証の積み重ねによって説明されている。万有引力のような「法則」とはまた違った、直接目には見えないものの証明である。ナポレオンはいただろう。大正天皇は間違いなくいた。……間違いなく? ほんとうに? 今を生きるぼくらが全員、今から2日ほど前に、記憶と存在をすべて同時に植え付けられたアンドロイドだったとしたら、「大正天皇がいた」という記録ごと作り上げられた存在だったとしたら? いろんな仮説を無理やり考えることはできるんだけど、無数の仮説にはそれぞれ「ほんとっぽさ」のレベルがあり、なんだか、ぼくらが2日前に作り出されたなんて、可能性としては極めて低いんじゃないかなあって思う。だから、やっぱり、大正天皇はいたんじゃないかな。鯛しょってたことはないと思うけど。

じゃ、医学は? 医学を科学として考えた場合、それはいったいどういう類のものなのだろうか。

ステロイドホルモンのように、発見され、機能が解明された「物質」がある。

膵液はたんぱく質を分解する。見ることができる。

遺伝子変異が蓄積すると、がんになる。……これは本当?

たぶん、最初は、「がんを調べてみたら、遺伝子変異がいっぱいあった」。これは観察できたこと。では、その逆は正しいのだろうか。遺伝子変異がいっぱいあると、がんになるの?

結果から原因を推測。その原因は、本当に、原因だろうか?

どうやったら証明できるだろう。時間をさかのぼるようなことはできない。今そこにあるがんの、時計を巻き戻して、遺伝子変異ができる瞬間までさかのぼれる? それががん化に大切だったと証明するにはどうしたらいい?

実験で、細胞に、遺伝子変異を「人為的に導入」して、その結果細胞が「がん化」することを観察した。わぁい、これはどうやら本当らしいぞ?

そう?

たまたまその細胞だけががんになったんだとしたら?

遺伝子変異を起こすために用いた薬剤が、遺伝子変異とは別に、細胞がん化の原因になっていたとしたら?

仮説を立てる。その仮説が、どういう結果をもたらすだろうと考える。証明するために実例を集める。なるべくたくさん集める。統計をとる……。

実際に目で見えるものを見つけたり、目では見えない理論を考えたり。

病理医の仕事を考えよう。

内視鏡を見て、病理診断が「推測」された状態で、病理組織像という「事象」を見て、ああ、病理がこうだから内視鏡がこうなったんだ、と、演繹的に内視鏡像が導かれることを確認、ある疾病を結論として導き、その疾病を「前提」として演繹して、過去の「統計」の結果をもとに帰納的に蓋然性が高いと考えられた予後といういまだ目に見えない未来を「推定」し、それに合わせて妥当性のもっとも高い治療を考察・実施。その繰り返しの中で生じた「ずれ」を「観察」して、なぜこの齟齬が生じたのかと「仮説」を作り、新たな仮説に基づいて演繹的に今の事象が「説明」しうるかどうかを考えて、仮説の妥当性を評価するための「実験」や「統計学的検討」を探る。数々の文献から導かれる、まだ人がたどり着いていない演繹的結論をシステマティックレビュー。レアケースによる反証例はないか? 新たな仮説の形成。演繹。帰納的拡張。仮説形成的拡張。演繹。

病理医の、形態を見るという視点がもたらす、総説(過去の文献を統括して当然の結論を探る作業)は、演繹的な科学だね。ぼく、去年、一本だけ書いたよ。

症例を見て考えて診断を出すと、それを前提として臨床医が治療方針を決めるの、演繹的な医療実践だな。毎日やってるよ。

ときおり現れる珍しい症例、不思議な現象に気づくこと。なぜだろうと考えること。仮説形成(アブダクション)的科学なんだな。大好き。

その仮説を実証するために、症例報告を作ったり、ケースシリーズという複数症例のまとめを作ったりするの、帰納的科学だね。研究会! 学会!

帰納法だけではいつ反証例が現れるかわからない。統計学だ。統計解析をしよう。そうすれば、仮説から演繹した結果が妥当かどうかを帰納的に解釈できるね……もっと統計の論文書かなきゃな。



医学もまた、科学として、複数のフクザツな「証明方法」を要求している。ポパーさん、爆発してそうですね。ベーコンさん、油は味わいだよね。



医学が普通の科学と比べて、あえて違うところがあると言ったら、それは何?


それは、医学はできれば、人の病気を治すためであってほしいと願う人が、少なからず……というか、いっぱい……存在する、ということ。

病気はなぜ病気なんだろう。そう思い悩む、哲学的な思考を助けるのも、医学であるということ。

病気や病院をめぐり、説明をしてもらったり、納得をしたりするためにも、医学が必要になるのだ、ということ。



演繹、帰納、アブダクション……。そして、説明のための、対話、ことば。



パースさんのおかげで、考えて考えて、顔面のパースくるっちゃうよ。ちょっとデカくなっちゃルト。

2017年3月17日金曜日

ニュースが静かに伸びてるよ ニュー スッ

油断していると負を集めに行ってしまう。

だいたい、新聞を隅から隅へと読むというのは不健全だと思う。政治にも経済にも社会にもスポーツにもひとしく興味を持ち、同じように関与しながら生きているわけがないじゃないか。いやそういう人もいるのかもしれないが、ぼくは違う。要は、読んでいる部分の半分くらいは、岡目八目で面白半分に首を突っ込んでいるだけだ。

面白半分ならまだいい。

見て、考えて、不快になり、怒りを爆発させるような情報を、わざわざ拾いに行ってしまうときがある。

どうなのか、と思う。

つい、社会面を見てひさんな事件のその後を追ってしまったり、政治面をみて世論ならぬ社論に腹を立てたり、しなくてもいいことをする。

ツイッターで少しでも暗いニュースや人への罵倒をつぶやいている人を見かけたら、即刻でミュートすればいいかなとも思ったけど、気がついたらどのツイートをミュートするか悩みつつ、今日もどれかをミュートしなきゃという義務感にかられて、ミュートするツイートを探して回ったりしている。



負が流れてきたときに、何も感じず、何も反応せずにいるにはどうしたらいいのか。

負と無は響きが似ている。無として扱えばよいのか。

こう考えたらよいのか、こういうとらえ方をすればよいのか、なるほどなるほど。

では、次に負が流れてきたら、やってみよう。さあ、負はいつ流れてくるかな。負はまだかな。



また、くり返しだ。きりがないのである。



だからしきりにだじゃれを考える。脳が止まっている時にはすかさず下ネタだじゃれ親父ギャグの類いで、脳に張り巡らされたパイプの中にとにかく循環液を流し込んでしまう。余計な思考が紛れ込まないように。思い悩まないために。



いかに悩まないかが大切で、悩まずに生きるのは難しく、できれば悩まないための道を見つけ出そうと、毎日悩んでしまうのがいやだから、悩むことなくスキマをだじゃれで埋める。



そういう暮らしの先に出てきた仕事の結晶が、ときおり、中年のだじゃれの感性を帯びている時があり、あっ、混線しちゃったなと思う一方、もし紛れ込んでいたのがだじゃれではなく、陰惨なニュースや頭にくる論戦のたぐいだったら、ぼくはきっとこの仕事、めちゃくちゃにいやになったんだろうなあと、胸をなで下ろしたりする。

2017年3月16日木曜日

病理の話(59)

病気の診断をする仕事では、「真実」がどこかにあると考えがちである。

いや、まあ、真実はいつだってどこかにはあるのだろう。ただ、診断というのは、「真実を求める仕事」とはイコールではない。

診断というのは、主に2つの理由で行われる。

・今後どうなるかを予測するため
・治療するため

極論すると、科学者ではなく医者が患者をみる場合に、

・今後どうなるかだいたいわかる
・治療の選択肢はすでに決まっている

のならば、診断名を正しく決める必要はないのだ。



たとえば、鼻水がとまらず病院に行ったときに、

「○○ウイルス感染による△かぜで、□□という薬で治すことができます」

まで診断する必要は、ほとんどない。

「なんらかのウイルスによるかぜ」

であるとわかれば、それで様子見が正解だからだ。そもそも、ウイルス性のかぜに対する特効薬は(今のところ)ない。

症状を抑えるための薬なら投与することもできるが、

「すでに鼻水が出ている患者に、鼻水をとめる薬を出す」

のは、診断を決めなくても、やろうと思えばできることなのである。



肝腎なのは、この鼻水が「ほんとうにかぜなのか? あるいは、アレルギーとか、別の病気ではないのか?」ということに気を配ることだ。その意味で、まったく診断をしなくていい場面というのは、おそらく病院には存在しない。

けれど、「かぜ」だけを決めてしまえば、「何ウイルスによるものか」までは決めなくてよい。



将来、かぜのウイルスごとに違う特効薬が開発されたら?

そのときは、あるいは、かぜは今よりもっと詳しく診断されるかもしれないが……。

だまっていても3日もたてば治ってしまう「かぜ」に、そこまで研究費が投入され、それほど高精度な薬を開発する未来が、この先、くるかどうかはわからない(くるかもしれませんけどね)。



医師というのは、このあたりのバランスを知らず知らずに身に着ける。

診断をどこまで進めるべきなのか、診断がある程度(あいまいでも)決まった段階で、できる治療に移るのか。

これをきちんとやっていく医者こそは、患者にも、社会にも、大きく貢献する。



で、病理医の話をすると、ぼくらも、「どこまで診断を詳しくするべきか」というのを、日ごろある程度考えている。

けれど、「これは良性」「これは悪性」のようなざっくりした診断で終わることは、基本的に許されない。

ぼくらは、臨床医よりももうちょっと、診断を詳しく出すよう求められる立場だ。

・患者さんが今後どうなるかを予測するために
・治療の選択肢を決めるために

という2つの意義に加えて、もうひとつの意義がかなり大きくのしかかる。

それは、こうだ。


・結局、何なのか知りたい。



それを知ったからって患者さんに何か影響あるのかよ。治療に差が出るのかよ。こんな疑問が日々聞こえてきて、それでも、ぼくらはもうちょっとだけ先を見る。



病(やまい)の理(ことわり)をみる医者、という名前がよくないのだと思う。

こんな名前をつけるから、ぼくらもその気になってしまうのだ。



「今のところ、ここまで詳しく分類したからといって、あまり喜ぶ人はいないんですけどね、もしかしたら、将来この差が、治療につながるかもしれないんで……」

てへへって感じで頭を書きながら、とても細かい話を診断書のすみっこに、申し訳なさそうに書いておく。



そこにアイデンティティがある気もする。

2017年3月15日水曜日

靴だけが旅をする

そういえば最近、靴を買いたい。



靴が買いたくなると、街に出て、行き交う人々の足元ばかり見る。

自分と背格好の似た男性を目で追い、上から下までのコーディネートをチェックしたうえで、靴がそれに似合ってるか、似合っていないのかを考える。

ファッション雑誌を買って考えるのもいいのかもしれないけど、38歳のおじさんが参考にするべきファッション雑誌というのは、最近はどれもこれも、「年甲斐もなくナンパしたがるおじさん向け」のテイストをスパイスに利かせている気がして、どうも、しっくりこない。

街で楽しそうに歩き回っている人たちを探して、その人が良かれと思って身に着けているファッションを見て考えた方が、なんぼか気が楽なのである(たぶん一部が北海道弁ですが解説は省略します)。




講演を頼まれて出張するたびに、現地でいちばんスーツが似合っていた人のファッションを覚えて帰ろうと思う。

たいてい、ぼくより背が高く、ぼくより顔が小さくて、シュッとしてシャッとしているから、結局参考にはならないんだけど、それでも、スーツを着た偉い人の中には、ときおり、背は大して高くないけれど、すげぇおしゃれだな、かっこいいな、という人もいる。

スーツもワイシャツも、とても高そうだ。靴だって見たことのない形をしていてすごい光っている。持ってるカバンも、さりげないけど、実にいい。

この人、別に、この一着だけが勝負服ってわけじゃないだろうな。何着も持っていて、今日たまたまこれを着ているだけで、それがこんなにかっこいいってことなんだろうな。

ぼくが今、こんなスーツを買っても、今もってるスーツとの落差がありすぎて、これ着てるときだけ妙に浮き上がって見えちゃうんだろうな。

ああ……めんどくさいな……靴だけでも覚えて帰ろ……。




芸能人を見ているとき、靴に目が行く。

テレビではなかなか靴までは映らないけれど。

髪型やトップスばかりが映るんだけど。

この髪型は、この人だから似あうんだよな。

このトップスを1枚買ったとしても、今あるパンツとうまく合わないだろうな。

何着も持ってる人が着まわすからこうやってなじむんだよな。

ああ、結局、スッと買える可能性があるのは、靴くらいだなあ。




そういえば最近、靴を買いたい。こう、書き出してはみたけれど。

よく考えると、ぼくはもう20年くらい、靴ばかり買いたい。

靴以外は、いらない。

2017年3月14日火曜日

病理の話(58)

ぼくは、日ごろ、

「自分の人生を堅実に歩みながら、周囲への気配り心配りを忘れず、周りの人を動かしながら、コツコツとした積み重ね、あるいは一瞬のひらめきと切れ味などで、スタイリッシュに大きな仕事を成し遂げた人」

のことをいちばん尊敬している。

そういう人の仕事を、とても評価している。




ところが、世にある「すごい仕事」というのは、必ずしもこんな「人にやさしい仕事」ばかりではない。

極めてブラックな労働環境の末に、信じられないクオリティの仕事が出来上がってくる場合もある。

ぼくは、そんな、「人の執念でしか成し得なかった仕事」のことを、実は、必ずしも評価していない。

だって、誰かがすごい努力をした結果、成し得た仕事ってのは、誰かが何かを犠牲にしないとできあがらなかったものだろう?

そのとき、誰が何を犠牲にしたか、ということに思いが及ぶと、どうにもやるせない気持ちになってしまう。

ぼくが今まで積み上げてきた仕事なんてのは、そんなものばかりだ。

徹夜を繰り返したあげくに作ったシェーマ(模式図)。

健康を害しながら書き上げた論文。

ぼくは、自分の人生と健康を切り崩さなければ自分の仕事ができなかったということを、けっこう、恥ずかしく思っている。





執念の医者というのを何人か知っている。

内視鏡の診断を極めようとするあまり、自分の胃に○○○○○(市販品だが厳に秘す)を薄めて巻いて観察した医者がいた。

毎日夕方の5時に職場を出て子供を迎えに行き、子供とともに9時に寝て、夜中の2時ころに目を覚まし、そこから朝7時までの5時間で論文を書く、というルーチンを組み上げた医者もいた。

彼ら・彼女らは、楽しそうに笑う。

自分のやりたいことができている、と、実にうれしそうに言う。

ぼくは、「その人がすごいからできる仕事」なんて、けっきょくその人一代で潰えてしまうじゃないか、後輩がまねできないほどの努力と犠牲を払って仕事を積み上げるのなんて、業界にとってはそれほどうれしいことじゃないんじゃないか、と思っているけれど、執念の医者たちの楽しそうな顔と、達成してきた業績の数々を見ていると、黙り込んでしまう。





病理医という仕事は9時5時でいける。ワークライフバランスが良好である。子育てをしながら、自分のやりたいことをしながら働ける仕事。

この切り口で、病理医という仕事を世に問うた結果が、今だ。

あらゆる医師の中で、一番、人数が少ない科のひとつとなっている。

ぼくは、それがなんだかとてもいやで、

「この仕事は、どこまでも打ち込める。いつまでも働いていられるんだぞ。」

と唱えながら、自分の人生と健康を犠牲にして、どこまでもどこまでも働こうとした時期があった。

忙しく楽しそうな臨床医に向かって、「俺だって」と、我を張りたかった。





ぼくは、そろそろ、5時に帰る生活を目指そうと思う。

その上で、誰もが納得するくらいの仕事を積み上げていきたいと思う。

そう、自分に言い聞かせている。

何度も何度も、脳内で繰り返し、唱えている。

「いっぱい働けばいいってもんじゃないんだ。何かを犠牲にして働くのは美徳じゃないんだ。」

しつこいくらいに唱えて、うるさいくらいに心に刻んで、それでいて、今、まだ、ときおり、徹夜を誇る臨床医たちの姿を見て、ああ、ちょっと、うらやましいかもな、と思うことも、ある。

2017年3月13日月曜日

息子がかつて雪だるま壊そうと歌ったときぼくは元ネタを知らず笑ってあげられなかった

なにか新しいドラマをやるとか映画をやるとかいうとき、2,3人の決まった俳優がテレビのバラエティに連続で出演していくような状況というのが、ここ数年、続いている気がする。

テレビはつまり、番組そのものを売るよりも、何か別の番組の宣伝として作り上げるほうが、今のところいちばん「儲かる」ということなんだろう。

テレビ。

どれだけの人がテレビに関わっていると思っているんだ。どれだけの人がテレビのおかげで食えていると思っているんだ。どれだけのお金がテレビのおかげで動いていると思っているんだ。

儲かることが第一義でいい。そのほうがいい。それが一番いいと思う。

同じ俳優ばかりをゲスト出演させて、あのバラエティもこのトーク番組も、ぜんぶ似たような人で作り上げていく今のテレビが、一番お金と心を動かしているということなんだ。

これは、たぶん、統計の結果もたらされたものだ。

医療でいうところの「エビデンス」みたいなものが、テレビ業界にもあるんだ。これがいいと判断されたんだ。




ぼくはたとえば広瀬すずちゃんみたいなかわいらしい、自分の半分も年齢がいってない女優さんが毎日毎日あらゆるテレビに出ている状況というのは、決して嫌いではない。

けっこう毎日のように、寝る前には必ずテレビをつけている。

録画してみるほどではないんだけど、寝る準備をしながら必ずテレビを見る。

毎日、かわいくて今旬の女優さんや、かっこよくて今はやりの若い男性タレントなどを、見る。

それはやはり眼福だし、こういう「はやり」というのは、うまいこと人の脳にしみこんで、世の流れを作り上げながら、何倍ものお金と心を動かしていく。



ぼくは、正直、そういうときに「動くほう」の自分でありたかったと思う。



みんなと楽しそうに、動いて、動かされて、ゆさぶられる側でいられたら、どれだけ幸せだったろうかと、思ってしまう。


そういう人たちが世の流れを作っていくのだ。そういう人たちが作った世の中でこれからもずっと暮らしていくのだ。



つらくないほうが、いいじゃないか。



わかりあえるほうが、いいじゃないか。




ぼくは常に屈折した思いでテレビが作り出す流行をながめていたし、そのテレビが全力で番宣しているものなんて虫唾が走るほど嫌いだったけど、それでも「アナと雪の女王」はほんとうにいい映画だったし、やっぱり、自分が単純にゆがんで間違っているんじゃないかなって、ひざを抱えて自分の好き嫌いを見直すような毎日を送っているんだ。

2017年3月10日金曜日

病理の話(57)

とんでもない病理診断、というのを見ることも、ある。

なぜこれを見逃したのだろう、どうしてこれをこのように評価したのだろう、いくら論理的に考えても、答えはない。だって、かの人の診断は、そもそも一から十まで間違っていて、整合性などとりようがないからだ。



人間の間違いにもいろいろある。

多くの人が陥りがちな錯覚。

知らないと判断をあやまってしまう落とし穴。

さまざまな理由が積み重なり、間違っても仕方のない状況に陥ってしまうこともある。

そして、これらと同じくらいの頻度で、

「なぜ間違ったのか説明がつかない。誰が見ても間違いなのに、なんなら、時間とタイミングを変えれば本人も間違いだと気づくだろうに、間違ってしまう」ということもある。


こればかりは、ほんとうに、はたから見ていて、間違いの構造が解明できない。


なんでこんな間違いをしたんだろう。


思わず声に出してしまうこともある。

いや、そもそも、人間というのは、そういう生き物なのだ。

誰もが赤だと思っている色を、光の加減でオレンジに見間違えたり、目が疲れていて紫に見間違えたりすることばかりが、間違いではない。

赤を黒に見間違う。赤を緑に見間違う。

赤を透明に見間違うことすらある。それが、ミスというものなのだ。





今よりもっとずっと若かったころ、「先輩」と言って差し支えないくらいの年齢差しかない病理医が、信じられないような間違いをおかすシーンを目の当たりにして、「なにやってんだ」「勉強不足だ」などと、なじったこともある。

しかし、今は、ただひたすらに怖い。

いつ、自分が、「誰が見たとしても、言い訳ができないくらい、完膚なきまでに、間違えてしまう」かは、わからないのだ。それが怖い。





飛行機事故のときに、ブラックボックスとかいう箱を回収して、飛行機が落ちる前にどんなことがあったのかをことこまかに解析するという作業があるのだという。

人間は、誰かのミスや、誰かが陥った落とし穴を解析することで、その人の揚げ足をとるでもなく、ただひたすらに、「二度と繰り返すまい」と反省を深めていくことができる。

数々の「誤診例」を集めて、ぼくは、自分の恐怖を高めていく。

Z会という通信教育サービスが、かつて、「不合格体験記」というのを特集していた。

合格体験記のような成功の記録よりも、失敗した人から学ぶほうが、役に立つことだってある。

そういう理屈ではじめられた企画だったはずだ。

ぼくはこの企画が大好きだった。

そして、いまだに、「病理診断医として不合格なミス」を集めてさまよっている。

いつか、自分が、取り返しのつかないミスをする日がこないことを願って、後ろ暗く、不合格体験記を探し求めている。




できれば、自分の間違いは、取り返しがつく段階で気づいておきたいものだなあ、と、いつも思っている。

2017年3月9日木曜日

脳だけで恥をかく

ツイッターで他人を攻撃している人が目につくときはたいてい体調か精神状態がよろしくない。

何かを揶揄しはじめた人々を見ると目の周りの筋肉に力が入り始める。

そういうときには、スマホで表示できる絵文字を使ってギャグなどを作る。

笑いには幾種類かあるのだが、中でも「苦笑」は比較的かんたんに求めることができ、かつ、相手の方の力を抜き、自分の肺のすみっこにたまった澱のような空気を吐き出す助けになる。

ねこが屋外で草を食べて毛玉を吐き出すようなものだ。苦い笑いは、体内の悪いものを排出する手助けになる。

こういうことに気づけたのは、自分の中では「進歩」だと思っている。



⏰ <まったく、 めざましい しんぽだ



もう、これだけでだいぶラクになる。あなたも、わたしもだ。

苦笑を求めないまま、くそまじめな顔をしてタイムラインを警備するような真似はしないほうがいい。

それは、なんというか、精神にあぶない。



🌂 <おわっ! あんぶれーらぁ!



別に絵文字ギャグである必要はないのだが、時に、人は、目の前にある濁流に「流されまい、流されまい」と思いながら、なぜか足がそちらに向いてしまい、いつしか飲み込まれる、みたいなメンタルになってしまうことがある。気晴らしが必要だ。精神状態をずらす。がらっと変える。立ち位置自体を動かしてしまう。



🚀 <ろけっとしてる場合じゃないぞ!

🚜 <そうだ!逃げとく と 楽たー!

🎾 <かってにするんだ!

🚥 <んだ! だいじょうぶになる! しぐ なる!






🎪 <いったい何の話をしてんとか

🚣 <わかんぬー

🚪 <けど、あー、

🗿 <これも愛のかたちかと思ったり

🔜 <すーんのよ


2017年3月8日水曜日

病理の話(56)

病理診断というのは、常に、疑われている。

臨床医と会話をすると、それがよくわかる。

臨床的に「あまりがんっぽくないな」と思われていた病変から、検体をとってきて、それを病理でみたときに「がん」という診断をくだすと、ほぼ100%、電話がかかってくる。

「先生がんってマジすか!」

これは強調ではない。けっこう、こういう口調でかかってくる。


この質問に対し、

「だって細胞が悪そうなんだもん。核がでかいもん。」

と答えていたのでは、だめだ。

そんな、病理医にしかわからない基準、それも「大きい」とか「小さい」みたいな主観的な基準で、臨床医が納得してくれるわけがない。

けど、実際、よくこういう説明はなされるらしくて、だから病理はすぐ「ブラックボックスだ」とか「病理医の胸先三寸でがんかどうかが決まる」とか言われてしまう。




臨床医が「がん!? マジすか!」と電話をかけてきたらどのように対応するか。




とても大変で、毎回対応が変わるし、ケースバイケースでいろいろな返答をするのだけれど、一番大切なことは、

「臨床医がなぜびっくりしているのか」

をきちんと解析することだ。

理想を言えば、「臨床医がおどろくのも無理はない」というレベルまで、臨床像を病理医が読み解けるといい。

そうすれば、何を彼らが驚いているのか理解して、それに対して病理診断がどこまで力を持つのかを解説することができる。


……しかし、臨床診断だって、一朝一夕に真似できるものではない。

その道のプロが診断するに至る思考回路というのは極めて複雑だ。

所詮、病理医であるぼくが、「臨床医がなぜ疑問に思っているのか」を、彼らのやりかたでなぞることは難しい。


だから、聞くのである。教えてもらうのである。


「マジっすけど、その驚いた理由をぜひ教えてください。」



これを全部の科に繰り返していると、病理医は自然と、ありとあらゆる臨床科の「門前の小僧」状態になる。

なんとなく、臨床医と同じような診断ができるような気がしてくる。



まあ、門前の小僧が覚えられるのはお経の一部だけだ。

どういう顔をしてお経を唱えるか、お経を唱えるときどのような姿勢で、どのように木魚を持って叩くか、檀家さんにはどのようなお話を追加するか、そういった技術は絶対に身につかない。

だから坊主のふりはできない。けれど、話ができるようになれば、しめたものなのである。





どうでもいいけど、医者の話をしているのに坊主に例えるというのはとてもまずいのではないか……。

いや、ま、医者も坊主も同業者ではある。説明して、納得して頂くというのが、我々に共通した職務である。

2017年3月7日火曜日

お腰につけたその靱帯

腰痛がひどかったことがある。

座り続けて延々とPCを覗き込んで、がりがりとシェーマを作っていた。どうにも腰が痛い。あっちきしょう、年を取るっていやだなあと思っていた。

腰をもんだりあたためたり、座り方を変えたりしていろいろ対処したのだが、悪化の一途だった。

あるとき、たまりかねて、マッサージ屋に行った。 整形外科にかかれよ、とつっこまれるかもしれないが、うん、医療費高騰が叫ばれる昨今、自分の体を慢性的にどうにかいい方向に持って行きたいと思ったら、ときにはこういう医療保険を使わない市中のサービスも役に立つもんだよ。

……要はめんどくさかったのである。さらっと入れる場所にあったマッサージ屋に入った。保険証もいらねぇし。もんでくれい。

そしたら、こう言われた。

「ふとももの裏の筋肉がすげぇこってますね。」

「ふとももっすか。腰じゃなく。」

「ええ、ふとももの裏ですね。」

「腰はどうなんすか。」

「ふとももの筋肉って、お尻につながりますよね。」

「つながりますね。つながるんでしたっけ。」←(素で解剖学を忘れていた)

「この筋肉、腰のこのあたりにつながってるんですよ。」

「ほう……。」

「座り仕事が多いとおっしゃってましたよね。ふとももの血流がめっちゃ悪いんですよ。長いこと座るでしょう。すると、ふともも、めっちゃ硬くなるんです。」

「ふむ……。」

「するとね、こう、硬くなった筋肉が、腰もひっぱっちゃうんですね。後ろ側に。」

「おっ……。」

「で、腰まわりに負担がかかることになって、腰痛になると。」

「あれっ、腰! 腰出てきました!?」

「出ました。」

「出ましたね。」

「だから、これを治すには、まず、ストレッチをしてください。」

「今ここでバキッつって治すんじゃないんですか。」

「だいたい、バキッって壊れる音ですよね。」

「確かにそうですね。」

「そういうバキバキ整体で、体のずれを治すとか、あれ、かなりあやしいですね。」

「あやしいですか。」

「その一瞬、ある程度よくなったように感じるでしょうけど、原因があってずれたわけでしょう? 原因をとりのぞかないと、またずれますし。そもそもずれをバキッって治すなんて、レゴとかプラモデルであっても、あんまりよくないと思いますよね。」

「思いますね(同調圧力を感じてきた)。」

「だから、やり方を教えますので。あなたの腰痛に効くストレッチは、前屈です。」

「前屈っすか。」

「そう。そして太もものうしろをやわらかくしましょう。そしたらラクになると思います。もんでみて思いました。」

「(いつのまにかもまれていた!)」




こうして腰痛が治りました。整体すげぇって思いました。

世の中にはこのように、腰が痛いのは腰のせいだと思ってたけど実はふともも、みたいなことがあるよなあ……という、糸井重里さんみたいな例え話ふうのいい話にしようかと思っていたんですけど、長くなったんでやめます。

2017年3月6日月曜日

病理の話(55)

解剖というものについて、ぼくが多くを語ることはない。

それは、ぼくが、解剖のことを嫌いだからだ。




今までぼくは、だいたい300件くらいの病理解剖をしてきたと思う。たった300件だ。昔の病理医は、3000件とか5000件というオーダーの解剖をしていたらしい。

ぼくの解剖件数が少ないのは、ぼくが解剖を毛嫌いしていたからではない。そもそも、「病理解剖」自体が減っているからである。

今や、病理解剖は、”ほとんど” 必要のない手技となった。

(※刑事事件の際に行われる解剖は司法解剖と言って、病理解剖とは別なのですが、その話はまたいずれ。)




病気の大部分は、解剖などしなくとも、明らかになる時代である。

CTもMRIも、切れ味がすごいのだ。死後画像診断というのもある(わざわざAiなどと仰々しい呼び方をするのは好きではない。死後画像診断、という言葉はずっと昔からあった)。

医師の診断手法も多角化した。血液検査だって切れ味ばつぐんだ。腫瘍の正体が知りたいだけなら、解剖までしなくとも、亡くなったあとに細い針を一本刺させていただいて、肝臓あたりから腫瘍を採取すれば、だいたいの遺伝子検索はできてしまう。

わざわざ、ご遺族に断って死体をあずかり、傷をつけて臓器を取り出し、外からわかりにくいように縫って包帯をまいて、きれいな着物を着せて手を合わせてお返しする必要なんぞ、もはや、ごく限定的な場面でしか、なくなってしまった。





完全に死語となってしまったが、昔、病理医は以下のように揶揄されていた。

「内科医は何でも知っているが何もしない、
外科医は何も知らないが何でもする、
精神科医は何も知らないし何もしない、
病理医は何でも知っており何でもするが遅すぎる」

これは、病理の主戦場が解剖だった時代の言葉である。

今と違って、まともな画像検査など一つもなく、切れ味のある血液検査もなかったころ、多くの病気は正体がわからなかった。がんと言えば体表に変化が現れる皮膚がんと乳がんしかわからなかった時代。胃や大腸、肺や膵臓などに「がん」が出るなど想像もつかなかった。患者が日に日に弱ってついにはなくなってしまう。どこに悪魔がついたのか、何が患者に悪さをしたのか、患者本人はおろか医者も学者も何もわからなかったころに編み出されたのが、

「病理解剖」

だった。

そりゃあ、「遅すぎる」とも言いたくなったろう……。

でも。

亡くなってしまった患者から得られる情報は、「まだ見ぬ未来の新たな患者」を救うヒントになるかもしれない。

病理解剖は、遅すぎるどころか、「早すぎる」くらいの仕事なのだ。本来は。

誰だ? あの格言みたいな言葉を作ったのは。

何もわかっていないじゃないか。





病理医は、病理解剖の間違ったイメージのせいか、暗く、手遅れな分野のように語られるふしがある。

まったくもって理不尽だ。不愉快である。

だからぼくは解剖が嫌いなのだ。





病理解剖では、体内にある臓器をすべて取り出す。取り出したあと、臓器の検索に移る前に、ぼくは必ず一緒に解剖に入っている技師さんに、「患者さんの体を縫い始めてください」と言う。少しでも早く、ご遺体をご家族のもとにお返しするためだ。臓器を取り出すために必要なだけの傷はそれなりに大きい。丁寧にゆっくりと縫い合わせる。時間がかかるから、臓器の検索が終わるより先に、縫い始めてしまう。

心臓を見る。すでに動いていない。ぬくもりは、あるときもないときもある。グロさはない。ここは、とても大事なところだ。

グロさはない。ただ、精巧すぎて、神の存在を一瞬信じざるを得なくなるような、そんな気分になる。

宇宙飛行士は、地球を眺めて、そのあまりにも美しく、宇宙空間において孤独でひよわな奇跡を感じて、なんらかの宗教に入信したくなる……。そんな話を聞いたことがある。

ぼくは宇宙にはいかないだろうけど、神の存在なら、臓器を見ればある程度は信じることができる。

臓器というのはそういうものだ。

ホラー映画や、グロ画像と言われる類のものが描写する「臓器」なんぞ全部うそっぱちだ。

本物をみると、キョトンとする。

これが体の中で、何十年にもわたって、人間ひとりを支えていたのか。

敬虔な気持ちがわきあがり、そこからすべてのシナプスが猛然と発火し始めるような錯覚を覚える。

縦隔気腫の分布がアーチファクトかどうか判断せよ。

乳腺を見逃すな。

下腿をもちあげて深部血栓の有無を探れ。

肝十二指腸間膜を切る時には胆汁の漏出を確認せよ。

副腎を同定するなら血管を触れておけ。

下大静脈は一発でほぼ全長を見渡せるように。

尿管を傷つけずに腎臓を秒単位で取り出せ。

枝追いをしながら肺にホルマリンを入れろ。

人間をかたちづくるすべての臓器に、あらゆる作法をもって挑み、患者の遺志と遺族の意志を次につなぐ。

すべてに、高度な専門技術と、先人たちが積み重ね、練り上げてきた「勘の付け所」が要求される。

不謹慎を承知で言おう。

人間のすべてを見てやろうとする解剖が、おもしろくないわけがないのだ。




……ほら、こうやって書くと、みんな、すごく引くだろう?

だから、ぼくは、解剖が嫌いなのだ。




ぼくは解剖がやりたくて病理に入った人間ではない。

そういう目で見られるのも腹が立つ。

学生実習のときは、顕微鏡を見るだけで酔っていた。

解剖実習で後ろの方に立っていたら、気持ちが悪くなってしまった。

そんなぼくは、乱視補正のかかった高級な顕微鏡で酔い知らずの毎日を送っているし、自ら体内を覗き込めばグロ画像からは程遠い「精巧で緻密な世界」が眼前に広がることに気づいて解剖の奥深さに触れ、今の仕事についている。





まんまとこうなっているのが嫌いなのだ。

2017年3月3日金曜日

だがもう少し時間がかかる

気が散っている。 

何をするにしても、気が散っている。

いつもなら、音楽をイヤホンで聞き流しながらメールを書くこともできるし、昼飯を食いながら午前中の診断について考えることもできる。スポーツを見ている最中に先日読んだマンガの内容を思い出すこともできるし、寝ながらツイートのネタを思いつくこともある。

しかし、今、とても気が騒いでしまっており、どうにも、複数のことに目を配れない。

何をしていても、考え始めてしまった新しい講演スライドの構成のことばかり思い浮かんでしまい、なにも手に着かない。

こないだ、食事中に、同席者に指摘されてしまった。

「どうした、ぼーっとして。気が散ってるみたい。」

「そうなの。気が散ってるの。すまんね。」

「何に気が散ってるの?」

「講演スライドなんだけどね。」

「講演スライド?」

「あの内容とあの内容を盛り込もう、あれとあれも入れよう、もう8年くらい考えていたアレもこれも全部入れてしまおう……そうやってずーっと考えているんだよね。」

「それさあ、」

「うん」

「気が散ってないじゃん。一途じゃん。」

「ん?」

「集中しちゃってんじゃん。だから他に気が回んないんじゃん。」

「ん?」

「気が散ってないじゃん。」

「そうか。」

「気が散ってるみたいに集中しちゃうの?」

「そうみたいだね。」

「ふーん。」

「そうみたいだね。」

「今、一回返事が多かったよね。」

「そうみたいだね。」



気が散っていなかったらしい。

逆なのだそうだ。

ということは、気が集まっている、ということか。



魔貫光殺法であるな。

「当たらなければ意味がない」ってやつだ……。

2017年3月2日木曜日

病理の話(54)

医療における「診断」は、ほんとうに膨大な量の、先人達の知恵や経験の積み重ね、さらには学術的にきちんと整えられた統計学(エビデンス、というやつだ)によって、支えられている……。

けれど、この、知恵とか経験とかエビデンスだけで、実際に医療者が、例えば医師が、ぜんぶ納得して診療をできているのだろうか、ということを考える。



1.息切れで受診した患者さんがいて、話を聞いて、こういう症状があって、診察であんな所見があって、検査でこの値が陽性になったら、「薬(1)」を投与する。そうするとよくなる。エビデンスが示している。

2.息切れで受診した患者さんがいて、話を聞くと、さっきの人とはちょっと症状が違っていて、診察も少し違って、検査も少し違ったので、この場合は「薬(2)」を投与する。さっきの薬だと効かない。エビデンスが示している。



このような文章を、実際に専門用語でダァーッと書き連ねたものを、医療者がえんえんと座学で頭に詰め込んで、さて、実際に訪れた患者さんの前で、正確に思い出して薬を選べるものなのだろうか?

ぼくは、ぶっちゃけ、無理ではないかと思う。

そんなの、暗記マシーンみたいな人じゃないと無理だ。

いや、確かに、世の中には暗記マシーンみたいな人もいるけれど、病気の種類なんてもう無数に存在するわけで、その全てを暗記するなんて、絶対に無理だろう。

しかも、暗記したデータは、統計情報が日々更新されていることで、どんどん入れ替わっていくのだ。



だから、多くの医療者は、診断や治療において、

「プロセス」

とか

「ストーリー」

をとても大切にするのだと思う。



さっきの話を少し具体的にして、ストーリーをつけてみよう。


1.息切れで受診した患者さん。調べてみると、心臓の動きが弱い。心臓の動きが弱いと、肺の血液循環も悪くなってしまう。血液の中に酸素を取り込み、血液の中から二酸化炭素を追い出すための肺で、循環が悪くなると、全身に酸素が足りなくなり、二酸化炭素が溜まってしまう。だから、「息切れ(呼吸が苦しい、酸素が足りないように感じる)」という症状になる。

 こういうときは、心臓を手助けしてあげる薬がいい。薬(1)は、心臓を手助けする力がある。

 心臓を手助けすれば、血液の巡りがよくなって、肺の血の巡りもよくなる。そうすれば、息苦しさも解消するだろう。



2.息切れで受診した患者さん。調べてみると、体の中の血液の量が減っていることがわかる。ポンプである心臓はすごくがんばっていっぱいドクドク動いているんだけど、ホースの中身(血液)が少ないから、やっぱり血の巡りはあまりよろしくない。

 こういうときは、心臓を手助けしてはだめだ。心臓はもうめいっぱいドクドク動いているからだ。これ以上、心臓をがんばらせてしまうと、かえってへたばってしまう。

 心臓を手助けするのではなく、血液の量を足してあげるのが先決だ。また、ホースを少し締めるような薬(2)を入れる。ホースの太さを絞れば、中身が少なくても、流れるスピードが上がるだろう(庭に水をまくときに、ホースを指でつぶせば勢いが増すように)。




このようなストーリーがあればどうだ。

診断についても、治療についても、一気に覚えやすくなる。ただの文字の暗記ではない、風景と共に病態を理解することができるようになる。




さて、以上の話を「病理の話(54)」として掲載したのはなぜか。



今、病理医の数は足りていない、とされる。実際、多くの病院は自前の病理医を欲しがっているが、病理医の人数が少ないので、自分の施設に専任してくれる病理医を雇うのはなかなか難しい。

そのため、多くの病院は、「検査センター」と契約をして、病理診断を「外注」する。

これで、実は、日本の医療はけっこうなんとかなってしまっている。

病理医が足りない、足りないと言っても、実際に多くの手術は行われているし、診断も治療もそれなりに滞りなくできてしまっているのだ。

検査センターさまさまである。

では、検査センターではなく、自施設に常勤病理医がいるメリットというのはどれくらいあるのか。



臨床医達が、日頃の診療において「ちょっとした疑問」とか、「どうしても納得できないこと」があったときに、病理医が常勤していると、すぐ聞きに行ける。一緒に画像を見て、考えて、病理診断の理由を聞いて、そして、

ストーリーを一緒に編むことができる。



検査センターに外注していると、この「ストーリーの摺り合わせ」ができない。



ストーリーをいちいち想定しなくても、暗記能力さえ高ければ、医療というのは遂行できるものである。

最初に書いた通りだ。

そして、ぼくは、臨床の診療というものを、全て暗記で解決するのは不可能だろうと思っている。

だから、病理医がいると、診療のレベルが……そこまで目に見えてはあがらないのだけれど、「医療者達の満足度」は確実に上がる。



病理診断がAIに置き換わった未来を想定したとき、AIは果たして「語り部」になってくれるだろうか、「相談相手」になってくれるのだろうか。

そんなことを少し考える。

2017年3月1日水曜日

違いの分からない人の∪⊂⊂コーヒー

「カメラを買う買うと言いながら、まだ買っていない。しかし、そろそろ買おうとは思っている。

たぶん、自分には写真のセンスがない。けれど、ギミックの搭載されたメカは好きなので、いずれ買って、人に迷惑をかけない程度に楽しもうと思っている……。」



このように書く場合の「センスがない」とは、たぶん、

「上手にできない」

という字面通りの意味では、ない。



そうではなくて、
「圧倒的に人の心を動かすようなプロの仕事のレベルには達しない」
くらいの意味だ。

謙遜といえば謙遜である。ただ、ちょっと居丈高にも聞こえる。



こういう言い方をよくしてきたのは、ぼくである。

どうも、ぼくは、趣味にしろ特技にしろ、「プロとして人を感動させられるレベルになれなければ意味がない」みたいな建前を、大事にしすぎているのだな、ということに気がついた。

この話は、ぼくに限った話ではないようだ。

写真を掲載しているブログやインスタグラムなどを眺めていると、ほとんどの撮り手が、低頻度ではあるが、「プロほどはうまく撮れないけどね」という言い訳を、どこかのタイミングで発信していた。

ネットに記録を残す趣味人達の間では、普遍的な謙遜なのかもしれない。

本の感想を書く人は、「プロの書評家ではないけれど、自分の思ったことを書き留めておきたい」と、言い訳をする。

スポーツを楽しむ人も、「別に大会に出て勝つのが目的ではないけれど」と、言い訳をする。

なぜ、わざわざ、「自分が楽しめればいいので。」と、前を向く前に、

「自分にはセンスがないけれど」

とか、

「プロのレベルには達しないけれど」

と言い訳をしないと、気が済まないのだろうか?

自分だけが楽しむということに、何か、「謙遜の圧力」のようなものが、かかっているのかもしれないな。

楽しむという感情は、ほかの喜怒哀に比べると、何か、世間にお許しを得なければいけないような感覚を伴うものなのかもしれない。




ぼくがとてもきらいな言葉がある。

「何が楽しいのかわからない。」

わからないのはあなたの勝手だ。人それぞれ、楽しみのポイントは違う。けれど、なぜ、自分の楽しさのレセプターと相手の楽しさのレセプターが合わないときに、不快をもって語ろうとするのか。

なぜ、自分と同調していない楽しみを持つ人間を、若干の不快感をもって扱おうとするのか。




きらいな言葉だが、それ以上に、怖かった。




「何が楽しいのかわからない。」

そう言われるのが怖くて、

「いや、ぼくのやっているこれ、ちょっとあんまり楽しく無さそうに見えるかもしれませんけれど、これはこれで、とても味があるんですよぉ。」




「それをやって何になるの? プロにでもなりたいの?」

そう言われるのが怖くて、

「いえいえ、まさか、自分にはそこまでのセンスはないんですけどね、その、プロの人々が全身使って表現するようなレベルには全く達しないんですけれども、単純に、趣味というか、自分が楽しめればそれでいいかなあと。」




うーむ。

つまりぼくは、いつか誰かがぼくのことを

「わからない」

と声をかけてくるのが怖くて、それで、自分がほんとうにやりたいことのすぐ側に、「自分にはそこまでセンスがないんですけど」というフレーズを、脇差しのように添えておいたというのだろうか。




ほんと、いったい、何がしたいのかわからない。