2018年1月11日木曜日

病理の話(158)

病理医が臓器を目でみて、顕微鏡でさらに深くみた結果、最後に得られる結果が、

病理診断

である。



この病理診断を伝える方法は、シンプルだ。書く。文書として残す。

結果を急ぐときには、直接担当医に電話することがある(けっこうある)。けれど、口で伝えたあとも、必ず文字に残す。

病理診断報告書、の形式の文書をつくる。病理レポート、などという。



(※ちょっと話はずれるけれど、病理レポート、と書くと校正から「リポート」に直される場合がある。確かにお天気予報はウェザーリポートだし、報道関係者が現場からするのもリポートである。けれど、病理の現場はレポートと発音されることが一般的だ。なぜかはわからないけどたぶんノリとドイツ語の名残ではないかと思う)




病理レポートの書き方には決まったスタイルがない。法的に定められてはいない。

けれど、しっかり仕事をする病理医であれば、だいたいスタイルは似てくる。




がんであれば、「がん取扱い規約」の書式にのっとって記載することが一般的だ。

「規約事項に沿って書く」などという。

全身あらゆる臓器のがんには、それぞれ「規約」が設定されている。胃癌なら胃癌取扱い規約、大腸癌なら大腸癌取扱い規約、乳癌なら乳癌取扱い規約という。そのまんまだ。

規約が定める評価項目をすべて埋める。ウェブアンケートに答えているようなかんじだ。内容の1つ1つがやたらと重いアンケートに粛々と回答するイメージ。老いも若きも、病理医であれば、まずはこれが基本となる。

アンケートの項目。

・病気のサイズ。

・形。

・どれくらい深く広くしみ込んでいるか。

・増えている細胞の種類。

・病期分類(ステージ)。

ほかにもいろいろ。どんどん、箇条書きにしていく。



アンケート方式でひたすら穴埋めをすることだけで病理診断を終えると、レポートはわりと無味乾燥なものに仕上がる。

無味乾燥でもけっこう、学術的に厳密であるほうが大事だ……と、考える病理医も多い。

それに、アンケート形式のレポートは、無味乾燥ではあるが、いつ読んでも同じ形式で書かれている分、読みやすい。リーダビリティが高い。

やはり病理レポートの原型は箇条書きであったほうがよいように思う。




……けれど、病理診断が常にアンケートだけで終わるわけではない。

そもそも、アンケート形式のレポートが書けないときだってある。

どういうときかというと、それは、「生検」のときだ。



胃カメラの先っぽから出したマジックハンドでつまみとってきた、小指の爪よりまだ小さいくらいの小さな粘膜のカケラ。内視鏡医が、「ここが病気の一部分に違いない」と、氷山の一角よろしく、わずかに採取してきた検体をプレパラートにして、病理医に診断をゆだねる。

「生検」という。なまけんではなく、せいけん。

「生検」でみる細胞の量はとても少ない。

観察できる範囲も非常に狭い。

そうなると、箇条書きの項目を埋められない。

病変のサイズ? 全体像を見てないからわかりませんね。

病気がどれだけしみ込んでいるか? 全体像を見てないからわかりませんな。

箇条書きは空欄ばかりとなる。

しかし、空欄ばかりだからと言って役に立たないわけではない。

「生検」によって、病気の一部をつまんでくることで、それがどういう病気なのかをある程度判断して、これからどのように治療を進めていくかという戦略を立てることができる。

端的に言えば、「がんか、がんじゃないかがわかる」。



アンケートの項目は非常に限定されるが、とても重要な質問の回答が得られる。

それが生検だ。

では、生検のレポートには、非常に少ないアンケート項目だけを箇条書きにすればよいのだろうか。



うん、それでもいいとは思う。

けれど、ぼくは、あるいは多くの病理医は、「できればもう少し、箇条書きのほかにニュアンスを伝えたい」と思ったりするのだ。

「病理医が目でみて、顕微鏡でみて、考えたこと、感じたこと」を書く。

イメージとしては……ほら、たいていのアンケートの最後に、「自由記載」欄があるだろう。「その他」でもいい。

あの自由記載をどう使いこなすかが、病理医としてのウデのみせどころ……な気がする。

最後に書いた一文が、臨床医をぐっと納得させることは、ある。

よくある。




いくら自由に書くとはいっても、主観が入りすぎていたり、その人しか使わない表現があふれていては、読む人が困る。

だからある程度、病理学独特の用語というのを用いる。

病理学的に普遍的なやりかたで。

病理学的にわかりやすく。

いつ、だれがプレパラートを見直しても、納得できるように。

いわゆる「所見」を書く。




例をあげよう。

診断名: Adenocarcinoma.

 (これが、いわゆる「箇条書き」だ。がんだ、と書いてある。短い。一行で終わる。)

所見:

左肺上葉TBLB検体 4片:

末梢肺組織、及び細気管支壁が少量ずつ採取された検体です。
一部の末梢肺組織内において、肺胞上皮を置換して増殖する腫瘍細胞を認めます。クララ細胞やII型細胞に類似した形態を示し、いびつで濃淡のムラがある核膜と明瞭な核小体を有する腫大した核を有する腺系の異型細胞です。腺癌 adenocarcinomaと診断いたします。

 (これが、「所見」。別に書かなくてもいいけれど、書きたくて書く。読みたい人もいる。)




所見を書くといくつかいいことがある。病理医がまじめに取り組んでいる証拠になる。病理学を勉強したい人にとって役に立つ。診断の根拠を知ることができる。

さらに。

診断という箇条書き項目は、時代を経るうちに「変わる」可能性がある。

その一方で、所見というのは時代を経ても「変わることがない」。

診断は可変だが、所見は不変である。だから、所見を書いて残しておくことに意味があるのだ。

たとえば、肺のとある癌がとある状態を示すとき、現在の医学では adenocarcinoma in situ という名前で記載する。

この病気を、昔は bronchioloalveolar carcinoma と書いていた。

ほとんど同じ病態であっても、まるで違う名前だ。偉い人はいろいろ考えたのだろうが、それにしても、昔と今とで呼び名がまるで違うと、ぎょっとする。

「分類」が変遷すると、箇条書きの項目ががらっと変わってしまうことになる。

しかし。

たとえ箇条書きの項目や、診断名そのものが時代とともに変わろうとも、所見の欄にきちんと「非浸潤性の増殖を示す腺癌です。」と書いておけば、「ああ、今でいうとあの病気なのだな。」とわかる。




フラジャイルというマンガにはサブタイトルがついている。

あれを、「病理医 岸京一郎の診断」とせず、「病理医 岸京一郎の所見」としたのはほんとうにすばらしいと思う。岸京一郎の診断する病気には、その時代ごとにさまざまな名前が付けられているかもしれない。岸京一郎がAと診断したものは後の世でBと呼ばれているかもしれない。しかし、岸京一郎が見て表現した「細胞のかたちや配列、ありよう」は後世の人が見ても不変であり、たぶん絶対なのである。なあ、すばらしいと思わないか。ぼくは思う。

思うのだがあんまりみんなわかってくれない。くやしいので今日こうして残しておく。