2018年1月16日火曜日

デカルトの話ばかりではいカント

「居場所の話」というのはじわじわ難しく、許される・許されないみたいな切り口だとシンジ君とか中二病のふんいきが漂うし、しっくりくる・しっくりこないみたいな切り口だとミサトさんとか吉高由里子さんのふいんきが漂うし、探す・探さないみたいな切り口だと沢木耕太郎……にあこがれてSmartのふろくについてきたバックパックでトルコやチュニジアあたりを半年間放浪する青山学院大学2年の大学生みたいなふんきいが漂ってしまう。

書きにくいし語りにくい。居場所について考えているんだよね、といえばそれだけで「またそうやってすぐ自己顕示欲みせびらかすんだから、もー」と相手を考える牛にしてしまう。我思うゆえに我在り、我ときどき考えるゆえに我ときどき存在する。誰かに考えさせてはだめだ。存在させてしまうことになる。ヴァレリーみたいなタイプが友達にいるときっと毎日めんどうくさいだろうな。「考えるな、感じるんだ」の脚本はどれくらい考えた末に生み出されたのですか?



ここにいていい、いてはだめだ、みたいなセリフをぼくはどこで使うかというと、実は病理診断のときに一番使う。

「おっ、固有筋層の中に上皮……ここにいていい細胞じゃないんだけどな……どういうことかな……」

みたいなかんじである。

細胞というのはよくできていて、居場所ごとに役割ががっちり決まっていて、「いていい場所、いてはいけない場所」というのがあるのだ。一番わかりやすい例を出そうか、これでわからなかったらあなたは人間ではなくおそらく妖怪であろう、という例。

全身のいたるところに毛がはえているだろう。産毛レベルまで含めればそれはもうけっこうな量だ。

けど、この産毛、もしまぶたのウラに生えていたら大変なことになるだろう? かゆくてかゆくてしょうがない。さかさまつげのひどいやつ、みたいになってしまう。けれど人間、まぶたのウラには毛が生えないようにできている。眼球の黒目の部分にも、毛は絶対に生えてこない。

「毛をつくる機能をもった細胞は、眼球の表面やまぶたのウラには決して分布しない」ということ。

この「場所の規定」がくずれてしまったら、あらゆる人間はうまく生きていけなくなる。

眼球の上に、たまたま1個だけ、胃酸を作る細胞が紛れ込んでいたらどうなる? 胃酸というのは胃だから許される物質であって、あれはつまり塩酸であり劇薬だ。胃には、塩酸で胃の壁自体をとかさないしくみがある。胃酸のほかにきっちりと粘液がでて、胃の壁を保護してくれるからいいのだ。

うっかり、眼球の上に、胃酸を作る細胞が1個あってみろ。目がとかされてしまうだろう。夕日が目にしみるどころの騒ぎではない。そうならないように「場所の規定」をしている、これが人体のたくみさである。

だから病理医はしばしば、「ここにこの細胞がいるのはおかしい……」という視点で細胞をみて、「つまりこれは、配置のエラーがある。配置のエラーをもたらす理由は2つ。先天的な間違いと、後天的ながん。今回はおそらくがんだろう」という考え方をするのだ。



そんなぼくが、早朝、仕事場にひとり、顕微鏡をみながら、「ぼくはここにいていいのかな」とか言っている場合ではないのである。シンジ君が拍手をしている。ミサトさんが拍手をしている。トウジだけは「おめでとさん」とか言っている。ここにいていい、いてはだめ、を語って良いのは病理診断学だけなのだ。ぼくはがん細胞ではないから、ここにいていいも、悪いも、ない。

社会のガンという言葉もかつては使われていたけれど、あれはやっぱり不謹慎だから使われなくなったのだろうな、とかそういうことを考えていた。そういえばぼくは、「深夜特急」の最終章も好きだったけれど、一番好きなのはどこかのユースホステルにうっかり腰を落ち着けてしまい旅を続けられなくなっていた若き「ぼく」が、何かのきっかけでついにそのユースホステルを出て旅の続きに出るシーンが一番好きだった。一番好きだったはずなのに、内容をまったく覚えていないというのが、なんとも極めて人を食った話だなあと思うし、今日のこのエントリを「病理の話」にしないで一般の話題に紛れ込ませてしまったぼくの性格は、我ながらあまり好きではない。きもちわるい。最後のはアスカで読んでもらうことになる。