2018年2月28日水曜日

リバティーアチャリルー

くるりの曲を聴きながら雪を眺めていた。まだかろうじて仕事中だ。少し日暮れが遅くなった気がするがもう外は真っ暗である。窓ガラスには、油断するとぼくの顔が映る。しかし人の目というのはよくできていて、ガラスに映り込んだ自分の姿をきれいにクリーニングし、駐車場のあかりに照らされるふわふわとした雪だけを映像として拾ってくれている。

たとえばここに一眼レフがあってもぼくはガラス越しの雪をうまく撮れないだろう、ということを知っている。目のピントは意識的にずらすことができ、かつ、ぼうっとしていれば「どこにもピントが合っていない状態」を続けることもできる。

「窓ガラスという本来自然界には存在しなかった透明な板が、内外の明度差によってほぼ鏡のようになっている状態」を、ぼくの脳と眼球はきちんと理解し、計算して、ピントをガラスの向こう側にあわせているのだなあ、と、そんなことを考える。

ばらの花が終わる。ジンジャーエールの味をおぼろげに思い出そうとする。口に何も入っていないのにジンジャーエールの苦みと炭酸の圧迫感とがわずかによみがえる。

ぼくらが生涯かけて生み出すものが、五感の精度を超えることはどれだけありうるのだろうと思う。


バーチャルリアリティという言葉があるが、バーチャルなリアルを「おお、リアルだなあ」と感じる脳はだいぶ高性能なのではないか。それはリアルではないのにリアルだと思い込める、肯定的な錯覚を脳は許容しているのだ。ぼくは、VRということばは、世界を自分のサイズで語り大きく笑う子供と同じだと思っているし、子供の周りには常に「それでいいんだよ」と目をほそめて見守る大人がいるものだ。自由で楽しそうな音楽が鳴り続けている。