2018年5月11日金曜日

専門は対比病理学

三寒四温とはいうが、たいていの場合、四には気づかず、三に思わず恨み節が出る。

冬に比べればだいぶ暖かくなった。無理すればコートだっていらない。雪もすっかり解けた。それでも、本州からの便りに「汗ばむ陽気」だとか「海開きが待たれる」などと書かれていると、こっちはまだまだ寒いのになあ、と思わず襟を立ててしまう。暖かくなっているという事実に喜ぶよりも、まだどこかと比べると寒いという事実を悲しむほうが多い。

要は、比較の問題だ。

シベリアに友人を作ればよいのかもしれない。



「私だって大変なんだからね」が口癖の知人。ひとりに絞れない。幾人もいる。誰もが自らを人と比べてやっている。

ぼくはどうか。ぼくもそうだ。ぼくの仕事はここが人と違う、ここは人といっしょだ、そんな話を年中やっている。そんな気がする。

比較のない場所で暮らそうと思えば、ぼくらはいったいどこに行けばいいのか。

「あなたはあなた、わたしはわたしでいいのよ」とやさしく声をかけてくれる小さな飲み屋のおかみ、というのに中年はたいていあこがれる。需要があるということがじわじわとわかる。

けれどぼくは比較がある場所でやっていかなければいけない。なんだかそういう気がしてならない。

たとえば、人と自分とを比べながら、自慢でも自虐でもない、ちょっとした詩みたいなコメントばかり貼り付けていくような暮らしができるだろうか。そういえば俳句を詠む人というのは、たいていそういうことをやっているのではなかったか。




ネプリーグをみていたら、「50代、60代の男性で、新しいことをはじめようとしている人の割合は何パーセント?」というクイズが出てきた。確か答えは60%ちょっとだったと思う。

そうだなあ、50になっても60になっても、新しいことをはじめたいと思うのはわかる気がするなあ。

だって人と比べてずっとやってるんだから、新しいことでもはじめない限り、比較の枠から飛び出ることはできないだろうからなあ……。



そんなことを思いながら、ふと気がついた。

ぼくは60%という数字をもとに、「新しいことをはじめる人」と「新しいことをはじめる気は無い人」を比べてしまっていた。