2018年6月29日金曜日

病理の話(216) 病理とは何か何度目かわからんけど真っ正面から考えてみた

「216回目」という数字はべつにきりがよくもなんともない。

でもまあ今日はそういう気分だ。だから、真っ正面から、病理医とは何をする仕事か、病理診断とは何をやっているのかということを書いてみる。




患者は病院に行ったり医療者と関わることで、大きく分けて3つのサービスを得ることができる。

1.診断
2.治療
3.維持

である。

たいていの人は、病院という場所とか医療者という職業人にそれほど興味がないので、「2.治療」だけが病院のやる仕事だろうと思っている。もちろん、病気を治そうとし、症状を少しでもやわらげようとすることは病院の大切な仕事だ。

でも、それだけではない。病気の名前を決めて、その病気がどれくらいひどいものなのか、体のどこを侵しているのかをきちんと評価する必要がある。これを「1.診断」という。

さらに、「3.維持」というのが医療においては極めて重要だ。すでに診断もつき、治療も行っているからといって、患者がそれで世の中に放り出されるというのはありえない。病を抱えた患者にはサポートが必要なのだ。人はそれを介護の場面や、リハビリの場面、薬の飲み方を薬局で尋ねる場面、病気の予防法を本で探す場面などで実感する。人間が今まで通りの暮らしを「維持」しようとする試みこそは、医療ではもっとも手間がかかり、人手が必要な分野なのである……。



さてと、「3.維持」の話をだいぶ濃厚にしたのには理由がある。病院で働いている人の人数を考えてみると、じつは医者よりも看護師のほうが圧倒的に多い。これは、看護師こそが「維持のスペシャリスト」だからだ。維持こそは人数が鍵を握る。

ほかにも理学療法士、作業療法士、栄養士などはすべて基本的に「維持」のために病院に雇われている人たちである。




では、「1.診断」と「2.治療」を行う人は誰か?

これは原則的に医師が行うということになっている。

医師免許というのは、「2.治療」を行えるほとんど唯一の資格なのだ。だから、「2.治療」をやりたくて医者を目指す人が今でもいっぱいいる。




さあそうなると気になってくるのは「1.診断」の部分である。

病気の名前を決めて、その病気がどれくらい進行しているかを判断する仕事……。

ほんとにとっても大事な仕事なのだけれど、医者の半分くらいはこの診断に命をかけていると言っても過言ではないんだけれど。

病院の中で、「1.診断」だけをやって働いている人というのは、実はほとんどいない。

医者ならたいていは「2.治療」を一緒に行う。他の職種も同様だ。



で、今日の話だけれど、病理医というのは医者の一種である。

医者の一種ではあるが、普通の医者とははっきりちがう点がある。

「2.治療」を全くしない。そんな医者はほとんどいない。

「3.維持」を全くしない。そんな医者もめったにいない。

「2.治療」「3.維持」を両方とも全く行わない。そんな医者は病理医と研究者くらいのものなのだ。




病理医は処置をしない。処方をしない。薬を出さない。注射を打たない。心臓マッサージがヘタ。かっけの検査すらできない。簡単な傷も縫えない。飛行機でお医者さんはいらっしゃいませんかといわれてもいませんと答える。

そこまでして「1.診断」をする。



診断をする方法も変わっている。体の中からとってきた細胞を直接みる。実際に臓器をまじまじと見て、顕微鏡でさらに見る。どこまでも細かく見る。ときに、細胞の形とか配列だけではなく、細胞に含まれているタンパク質だけを特殊な技法で光らせて見る。酵素だけを見る。糖や脂肪すら見る。

そうやって、見て、考えて、分類して、考えて、概念を練り上げて、考えて、また見て、を繰り返す。

それで医者としての給料が得られる。なんとも不思議な仕事なのだ。




病理医は見たものを書いて残す。

患者と直接会話をしない病理医は、静かな部屋に座る。主治医からの連絡を読み、検査データを読み、CTやMRIの画像を読み、患者の背景を読み取り、病気の正体を読み取り、書く。

診断書を書く。

病理診断報告書を書く。

書いたものを主治医が読む。疑問に思えば電話をかけてくる。

病理医はその電話をとる。話す。ようやく話す。話すことがいっぱいある。でも時間はあまりない。適切にかいつまんで話す。





診断・治療・維持の三本柱の、診断だけ、それも細胞をみるという限定された環境下での組織診断という非常に細かく専門的な仕事だけをして、書く。




それが病理医である。





まあこんなとこかなあ。また100回くらい経ったら書きます。「いち病理医のリアル」という本を読むとこのあたりがすごくちゃんと書いてますのでおすすめします。えーと著者はだれだっけ……忘れました。そういえば重版かかりますといったっきりかからなかったな。値段が高すぎたんだと思うな。

2018年6月28日木曜日

全くとは言ってません

ワールドカップの報道をみるたびに「どうせ日本は勝てないんだ」とつぶやくタイプの大人がいて、彼はサッカーをみることで自分の大脳の深いところに眠りこけていた幼児のような感情を蘇らせ、脚をくねらせたり眉をしかめたり口をとんがらせたりしているのだなあ、それはいいことではないか、サッカーに感謝するがいいさと、ほほえましく思った。

いい大人がガキみたいにねじくれた感情を吐露するシーンは貴重だ。

SNSならまだしも。現実社会で、大人はみんな大人としてやっていく。




このブログ記事が掲載されるころには、サッカー日本代表の戦いはいくつか終わっているだろう。書いている今はまだ一試合もはじまっていないからこんな呑気なことが書ける。実際、世の中には、サッカーの日本代表が勝つ勝たないでまるで今後の仕事内容が変わってしまう人、サッカーの日本代表の成績次第で今後の給料がなくなってしまう人、代表を育成したりトレーナーとして帯同したりチームドクターであったりシェフであったりした人、さらにはサッカー日本代表を目指してチームを鍛え上げていく指導者、サッカーを通じて教育を行う者、サッカーから何かをごくごく吸収する哲学者、サッカーによって酒を飲むおじさんなどがいるわけで、そういう人たちはまだ日本代表の試合が始まっていない今もとてもまじめで真剣だ。そんな人たちをぼうっと眺めながらぼくがこんなにのんきなエッセイを書けてしまうのは、ぼくがしょせん傍観者だからである。

傍観者というのは常に平和で無責任で幸せでなければいけない。

このことは実はとても難しいのである。

口と手と金のいずれかを出したらそれはもう傍観者ではない。口を挟んだ瞬間に責任がつきまとう。手を出すからには何かを握らなければいけない。黙って金を出した時点で関係者である。平和で無責任な傍観者でいたければとにかく何も出してはいけない。出していいものがあるとしたらそれは幸せのオーラであり感動の歓声であり満足のため息である。主流煙としてコンテンツを摂取したあとにほわっと吐き出す副流煙だけが、傍観者が出力を許されている唯一のものなのだ。



あとはふぁぼも出していいと思う。そういうスタンスでTwitterをやるのが一番ひとを傷つけないし自分を守ることができる。ぼくは最近、誰にも怒られなくなった。

2018年6月27日水曜日

病理の話(215) 話を聞いたらあれこれ分類

病気を分ける方法はいくつかある。


たとえば、原因でわけてみよう。

・細菌とかウイルスが原因(感染症)

・何かが体の中で詰まる(心筋梗塞、脳梗塞、尿管結石など)

・体の輸出入バランスがおかしくなる(糖尿病、脂質異常症など)

・外からやってきた何かが体の一部を壊す(ケガ、薬剤性の胃腸炎など)

・体内にいる警察的存在が善良な体細胞を攻撃してしまう(自己免疫性の疾患)

・細胞がもっているプログラムの異常(がんなど)



まだあるけど、こんな感じだ。原因が違えば対処法も異なる。




ほかにも、「病気の原因が生じてから、発症までにかかる速度」でわけることもできる。

・すぐ発症……ケガなど

・わりとすぐ発症……心筋梗塞、一部の感染症など

・そこそこゆっくり発症……多くの感染症など

・ゆっくり発症……脂質異常症など

・かなりゆっくり発症……がんなど

この分け方はかなり適当にやった。実際にはかなりバリエーションがある。発症までの速度が違うと、診断のやり方がかわってくる(原因がわかりやすいとき、わかりにくいときがそれぞれあるからだ)。





さらに、その病気がどの臓器で起こっているか、で分けることも可能だ。

・骨や筋肉……ケガなど

・胃……ピロリ菌による胃炎とか薬剤性胃炎とか胃がんとか

・心臓……心筋梗塞、不整脈、弁異常など

・血中……糖尿病とか脂質異常症など

「主座」と呼ばれる、病気が主に巣くっている臓器によって、担当する医師が変わることはよくある。




診断を行うとき、どのような分類を念頭において病気を探るかによって、病気の正体が掴みやすくも掴みづらくもなる。どの分類を用いて病気を決めたらよいかに100%の正解はない。しかし、多くの理論やさらには経験によって、ある程度のやり方が有効であろうと推奨されている。

その「推奨」の根本には、実は、「患者の訴えをよく聞く」というのが含まれている。




で、病理診断は、患者に直接話を聞くことのない病理医が担当するわけだが、何を使って診断するかというと、顕微鏡……はもちろんなのだが、「主治医の話をよく聞く」ことが思った以上に大切なのだ。

だって、顕微鏡をみることで達成できるのは、あくまで多くの分類の中のひとつにすぎない、「細胞の形態」に準拠した診断方法だけだから。

病気の分類は多様であり、その分類それぞれに応じた診断方法がある以上、病理医もまた、「話を聞く」という非常に有効な手段を使わない手はない、と考えているのである。

2018年6月26日火曜日

水どうおおいずみよ

現在ぼくはカメラを2つもっている。ひとつはニコンの一眼レフで、もうひとつはソニーのミラーレス一眼。それぞれ付けているレンズが違う。

で、これらを買って、ときおり持ち歩くようになってから、明らかに変わったことがある。

それは、「スマホで写真を撮るのがうまくなった」ということだ。

……さすがに今、ぼくの脳内イッテQメンバーが全員ずっこけたが、気にしないで話を進める。



カメラを買い、何枚か写真を撮り、できあがった写真をPCで見たり現像したりして楽しんでいるうちに、この画角・この構図だったらスマホでも撮れるな、この保存方法、この閲覧スタイルならスマホで十分ではないかな、みたいなことが自然と思い浮かぶようになった。

で、実際にスマホで写真を撮ってみると、腕が上がっていた。

なんとなくウェブ検索をしてみると、多くのプロカメラマンたちが、「iPhoneでプロ級の写真」みたいな記事を掲載していることに今さらながら気づく。

ぼくが使っているのはiPhoneではなく富士通のArrowsなので無理かな、なんて勝手に決めつけていたけれども。まあプロ級の写真は撮れないが、それでも、カメラを買う前と比べると明らかに写真がよくなっていた。ちょっと笑ってしまった。



なぜカメラを買うことでスマホの写真が上手になったのか。

理由ははっきりしている。「雑じゃなくなったから」だ。

今もっているのがカメラだったら……くらいの気持ちを、一味唐辛子ひとふり分くらい自分にふりかける。まあ一眼レフをもってるわけではないけれど、一眼レフをかまえているような気持ちで……スマホのシャッターをだいじに押す。

もうこれだけで写真がうまくなった。不思議なものだ。




馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、カメラは買ってみよ。

実際、馬に一度乗ると歩くのが楽しくなるかもしれない、人に添ってみると自分のアイディアが増えるかもしれない、なんてこともあるかもなあ、とか思っているのだ。

2018年6月25日月曜日

病理の話(214) ゆうしゃと魔王では語れない

昔、医学部でぼくらはこのように習った。

「ある病気Aの原因は、○○染色体の転座によるものです。ですからこの染色体転座に対応した薬を使うとよく効きます」

「ある病気Bは、□□遺伝子の変異によって引き起こされます。現在この遺伝子変異をターゲットとした治療が開発されています」



そう、ある病気には、「黒幕」がいるという考え方だ。

魔王を倒せば世界は平和になるという考え方だ。



その後、さまざまな病気の遺伝子や染色体の異常を検索しているうちに、どうも話はそう単純ではないよなあ、ということを実感するようになる。

マイクロアレイシステムなどを使って多くの病気の「遺伝子異常」を調べている人たちは口々にいう。

「ひとつのがんの中にはさ、遺伝子の異常なんて数百とか数千とか存在するんだよな」

同じようなことを、医学部時代にも習った記憶がある。遺伝子変異というのは少しずつ蓄積していくのだということ。

ひとりの魔王がすべての現況なのではない。

状況はいつも多面的に悪くなり、黒幕は無数に存在するのだ、ということ。



習っていたにもかかわらず、ぼくは心のどこかで願っていた。

がんの黒幕にあたる遺伝子変異を叩けば、がんを直すことができるに違いない、と。

病気の原因はこれだ! と、犯人をひとつに決めることができれば、うれしいなあ、と。

サロゲート・マーカー。

分子標的薬。

これらは魔王を探すものであり、魔王を倒す秘薬だと思っていた。





調べれば調べるほど病気の原因というのは複雑だ。特に、「がん」の場合。

魔王を倒しても残党が力を持っているケースがある。

プチ魔王が数千寄り集まって魔王の町みたいなものを形成していることもある。




病気のくせに生意気だ。やつらは町であり国である。

ひとりのゆうしゃに賃金とどうのつるぎとたびびとのふくを渡して「倒してこい」で済むのならば、がん診療はどれだけ簡単だったろうか!

2018年6月22日金曜日

ラジコプレミアムの月会費を取り戻す手段を探している

そろそろ時効かなと思うので書くが、まあ実は一度どこかに書いたことはあるので時効というか執行猶予が明けたくらいのタイミングにはなるのだが、ぼくは北海道のとあるラジオ局で番組をやらないかともちかけられたことがある。

そのときぼくはボスと相談して「まだそういうことをやれるほどの人間ではないだろう」という判断でお断りした。

今でも人間としてはたいしてかわってはいない。

しかし当時よりももう少しだけラジオが気になっている。




毎日どこかのタイミングで必ずラジオを聴いている。

できればおとなしく、叫ばない、静かなラジオを聴きたいと思っていて近頃はNHK-FMをよく聴く。



ラジオがほかの媒体とくらべて段違いに「いい」ところはどこか、というのを今考えていた。



受け手がキホン「ひとり」だ、というところだろうなあ、とか思う。



品切れがないのがいい。



バズらないのがいい。



距離が近い。イヤホンと鼓膜の距離はミリ単位だ。



遠い。ろくに触れた気にならない。温度ゼロ。



全肯定がある。



ふつうはないのに。



うれしい、ありがたい、がいえる。



ああーツイキャスやるか。



そういうことじゃないんだよ。



リアクションが遅くて近い、遠くて動くやつがいい。



ちきしょう全部やられちゃったなあ。腹立つなあ。

2018年6月21日木曜日

病理の話(213) 主治医と病理医の距離

少し昔の話になる。

臨床医がぼくの仕事ぶりを見て、「この病理医はまだ未熟だな」と考えているかどうかは、なんとなくわかる。たいてい、ぼくにとてもいっぱい話しかけてくる。


「粘膜が主に採れた検体だと思うのですが、私の見た感じでは、粘膜よりももっと深部になにかがある可能性を疑っています。もちろんご高名な市原先生でしたら、顕微鏡をみるだけでも十分に気づかれるかとは思うのですが、老婆心ながら、念のため、粘膜より下の方をじっくりとご覧いただきたく存じます」

「腫瘍を疑って生検していますけれども、腫瘍ではなく炎症の可能性が有り得ます。腫瘍だと決め打ちせず、炎症でも有り得るかどうかを重点的にご検討の上でご高診なにとぞよろしくお願い申し上げます」

「好酸球数については後に申請書類を書くときに必要となります。釈迦に説法とは存じますが、ぜひ好酸球数をチェックお願いいただければ幸いでございます」



臨床医から病理医に情報を提供し、あるいは注文をつけることはよくある。

これらのような注文を、「いらぬお節介」ととらえる病理医もいると知った。「顕微鏡のプロにいちいち注文をつけるな。それくらい見て考えるのが我々の仕事だ」みたいに。

でも、まあぼくは、どちらかというと臨床医の「お節介」がありがたいと感じていた。そもそも、ご高名、ご高診、釈迦に説法、みんな皮肉にしか聞こえない。ありがとう、未熟なぼくに注意喚起してくれてありがとう、教えてくれてありがとう。信用しないでいてくれてありがとう。いつか信頼されるような病理医になるよ。言われるがままに注意を払い、必死で診断の細部を詰めた。





ぼくの仕事が多少なりとも信頼されるようになってから、臨床医が依頼書に書くコメントは少し減った。

「あいつなら言わなくてもみてくれる」

「彼は臨床をよく知っている。余計な注文をつけずとも、自分で内視鏡をみて判断を加えてくれる」

そして、ぼくは少し得意になった。でも、そこからまた少し、考え続けていた。




今、ぼくはとにかく臨床医に「なんでもいいから気づいたことを教えてくれ」とお願いするようになっている。

病理診断の依頼書を書く手間がかかるのは申し訳ないが、それでも、依頼書にはなるべくいっぱい書いて欲しい。

思ったことを。感じたことを。ひっかかったことを。些細だが見逃せないようなことを。

病理の依頼書を、「モレスキン」のように使ってほしい、と思っている。

ぼくが未熟かどうかに関係なく。ぼくがわかっているかどうかを問わず。ぼくがムッとするかもしれない、なんて躊躇せず。

彼らの書いてくることばの端々に、彼らの思考が見えてくるからだ。

臨床医が、「俺たちもまた、病理を理解し、病理のできることと苦手なことを知っておこう」と願っているとき、ぼくはその願いを受け止めて背筋をただす。

臨床医と病理医がそれぞれヒントをかき集めないと正しい診断に辿り着かないような病気がある。

臨床医と病理医それぞれがお互い日常的に使っている専門用語のニュアンスを摺り合わせた先に見えてくる科学がある。

患者とコミュニケーションをとるのと同じくらい、臨床医と病理医が濃厚なコミュニケーションを保つ。短時間でもかまわない、無数のシナプスを同時に発火させるような連携をする。

それこそが病理診断学ではないか、と考えている。




禅とか仏教の考え方に、「最初は円からはじまって、だんだん角がついていき、三角形、四角形、五角形と形が複雑になって、次第にまた円に近づく」というものがある。

これは単なる例え話だが、ぼくは、学者というものは「何度も円に戻らなければ成長できない」のではないか、という思いを強めている。

ぼくが今より未熟だったときの臨床医の態度には、すべて理由があった。

あのときに戻って、またいちから何かを組み立て直そうという気持ちがある。

ここからまた少しずつ角が増えていく。そういうやりかたを繰り返す。

2018年6月20日水曜日

脳だけが旅をする

「集中しすぎるとろくなことがない」という書き出しで、つらつら書いていたのだが、今ごっそり消したところである。

ろくなことがない、ってほどおおげさなエピソードがなかった。言うほどじゃねぇな、って思ってしまった。



日々のよしなしごとを無理矢理ブログ的にうねらせることはできる。あたかも、「毎日山あり谷あり」感が出る。けれどもぼくの日常は基本的にうねっていない。

というか、ようやくうねりを自分でおさえることができるようになったのだ。ぼくは中年になって、それが一番うれしい。

驚くできごと、腹立たしいできごと、心浮つくようなエピソード。ぽつぽつと落ちている。

それに毎回乗っかって、いちいち興奮をして、ぴょんぴょん跳ね回ることで、なんとか彼我の境界線を確かめる日々というのがずいぶんと長く続いた。

けれど、今は、道が多少でこぼこしていても、サスペンションを効かせながら落ち着いて通り過ぎるようになった。

車の天井に頭をぶつけるような運転をしないと、ドライブをした気にならなかった頃のことを思い出す。

今は、なんとなくだが、車窓を寝ぼけ眼でそっと眺めながら遠く遠くへと旅路を進めることに喜びを覚えている。




近頃は、「何かをうねらせる側」になれと誰かに請われる場面に、ちらほら出くわす。

なるほどまあそうだなと思う。そろそろぼくは道をうねらせる側の人間であるべきだ。

うねりをしっかりエネルギーとして与えるためには、力点以上に支点が重要だと思う。

人はぼくのSNSを支点だと思っているふしがある。

でもたぶんSNSは作用点のひとつだ。

支点は常に脳にある。

脳をあばれさせるとろくなことがない。

力点は情動によってエネルギーを得る。

脳はそのとき支点になる必要がある。

脳は支点であってほしいと願っている。

2018年6月19日火曜日

病理の話(212) 現象から仮説までの差

先日、ある研究会で、度肝を抜かれた。

ぼくを含めた多くの病理医達が「使いづらいなあ。」と思っていた、ある免疫染色についての話。

免疫染色というのはいってみれば「まほう」である。

病理医は「まほう」を使いこなす、まほうつかいだ。

一方の臨床医は、総合力で勝負するゆうしゃである。

ゆうしゃは「まほう」を唱えないわけではないが、まほうつかいほどの魔力はない。

……それが普通だ。

けれどその研究会では、ある臨床医が、「まほう」を撃ったのだ。



「このまほう、使えますね。とっても」

ぼくは最初、マユツバ感を隠そうともせずに、彼の話を聞いた。

けれども次第に、口がぽかんと開き、体が前のめりになり……。

最終的には感動して拍手をしていた。同時に、ぼくは自分のアイデンティティを殴られたような気になった。




かんたんに述べる。例え話にしよう。そうだな……。

がん細胞には、「種類」がある。

A型のがん。B型のがん。AB型のがん。O型のがん。てな具合だ。まあ血液型とはまるで違うんだけど、例えとしてはわかりやすいだろう。

臓器ごとにこの分類方法は異なるし、分ける意味があるかどうか(人間にとって役に立つかどうか)も異なる。分ければいいというものでもない。

ただ、胃という臓器においては、この分類が「役に立つ」と考えている。

そこに登場したのがある抗体X。

この抗体Xを用いると、「A型のがん」だけをピックアップできるのではないか、と期待されていた。



……ところが、この抗体はわりとクソだったのだ。

A型だけじゃなくて、B型も、AB型も、同じように染まってしまう。

「なんだよ、A型を見極めるために使いたいのに。使えねぇ抗体だなあ」



病理医は、「なんでもかんでも染まる抗体」を嫌う。

かつてNSE(神経特異的エノラーゼ)という染色があったが、あまりになんでも染まってしまうので、「non-specific(特異性がクソの)エノラーゼ」と揶揄され、今ではまったく使われなくなった。有名な話だ。

抗体Xもこれと一緒だと思っていた。ぼくだけではない、多くの病理医たちが。

あの偉い病理医も。あのすごい病理医も。




ところが、臨床医である彼は、病理医の慣れ親しんだ王道路線の思考を、はずれた。はずれてみせた。

「なぜだ? なぜこの抗体Xは、なんでもかんでも染まるのだ?」

ピュア過ぎるともいえる疑問は、しかし、学問の根底そのものだ。

素直に、標本を何百枚も作って、他の抗体Yや抗体Zなどと組み合わせて、仮説を組み立てていった。

結果をまとめて、彼はいう。

「この抗体はね、A型とかB型とかを分けるために使うんじゃないんだよ。もっと違う使い方があるんだ。なんていうかなあ……。血液型がいったんリセットされて他の血液型に変わるみたいな現象があるんだよ。抗体Xはこの『リセットマーカー』の一つなんだ」




ぼくは懇親会の席で彼に愚痴った。

1年前、ぼくは彼とある同じ仮説を共有した。そこから、ぼくはぼくなりに、多くの推測を立てていたのだ。

いくつかの研究を進め、論文をひとつ投降した。けれど、激しく修正を求められ、まだ掲載に至っていない。

同じ1年という時間の中で、彼の積み立ててきた結果は圧倒的だった。

ぼくはまだまだ立派な病理医ではないのに、固定観念だけはいっぱしの病理医だったから、彼が持ち得た「ピュアな疑問」を持てなかった。



彼はいうのだ。「先生はまだまだ病理学なんだ。ぼくはね、病理学 pathology じゃなくて、生物学 biology をやってみたんだよ。」




ちっきしょう。赤木が頭の中でささやいた。

確かに現時点で俺は彼には勝てない……だが病理学は負けんぞ……。

日本酒を飲みまくり、帰りのタクシーの中で寝てしまった。三井がなにごとかしゃべっていた。

2018年6月18日月曜日

下ため上強K

モンゴル出張の翌日が札幌拡大内視鏡研究会で、ぼくはなんだかもうへとへとだった。

みんな楽しそうだ。顔がつやつやしている。

講演をお願いした先生は新潟から来てくださった。内心ぼくが一番移動してるなあと思いながらも、言った。

「先生、いつも遠いところありがとうございます。」

すると彼はにこにこと話すのだ。

ちょっと疲れたなあ、おととい、きのうと、鈴鹿と高知にいたんだよ、と。

……鈴鹿というのは四国だったろうか?

しばし彼の移動経路を聞く。そもそも新潟から鈴鹿までが行きにくい。電車とバスを駆使することになる。そして鈴鹿での仕事が終わったら翌日高知、これは大阪伊丹を経由したのだそうだ。

国内の移動に軽く六時間以上費やしている。

そして今日もまた札幌にいるわけだ。

なんていう体力だ。

彼は続けて、世話人のひとりと中国出張の話をしていた。中国の国内の飛行機はわりとあてにならないんで気をつけてください。モバイルWi-Fiは保険として一応お持ちになったほうが。

ぼくは半ばあきれていた。上には上がいる……というか、そもそもぼくは上でもなんでもないのだ。下から上を見上げているだけだ。サマーソルトキック待ちといえば戦略的だが、ぼくが繰り出すのはいつだって垂直ジャンプ強キックである。

ひどく飲んで家に帰った。たまっているリプライに返事しようかと思ったがやめて、歯を磨いて寝ることにした。久々に歯茎から血が出た。

2018年6月15日金曜日

病理の話(211) 本や論文を読むコツは声を覚えることである

後輩から相談を受けた。

「いっぱい勉強しないといろいろとついていけない、って思うんですけれど、本を読んでいると退屈で寝てしまうんです。病理の雑誌とか、教科書とか、論文とか、大事だってことはよくわかっているのに、寝てしまうんです。先生はどうやって本を読んでいるんですか?」

ぼくだって論文読みながら寝ちゃうことはよくあるんだけどなあ、と思いながら、なにかこの後輩にとって役に立つ情報が自分の中に眠っているだろうかと、しばし考える。

ひとつ思い付いたことをいう。



「まず、自分がこれから勉強したいと思う領域を扱っている、学会とか研究会に出る。論文とか教科書を読む前でもいい。知識が中途半端でもいいので、出る」

「はい」

「そしたら、いろんな人がしゃべる場所に行く。学会だったらポスターとか一般演題じゃなくてシンポジウムとか講演を選んで聴きに行く」

「ふむ」

「で、いろんな人がしゃべってる中で、この人クソおもしれぇな、って人に出会うまでがんばる」

「ほう」

「ひとり、『こいつはすげぇ、こいつの言ってることおもしれえ!』と思ったら、その人の名前と所属を控える。その場で検索してもいい」

「ほほう?」

「で、その人を検索すると、たいていエライ人だ。学会とか研究会で『すげぇ!』と人に思わせるようなしゃべりができる人ってのは基本的に教えるのがうまくて、人の上に立ってて、実績が多い」

「ほほう??」

「だから検索をすると、たいてい、論文とか、教科書とかをすでに書いている」

「むむ?」

「その人が書いた本とか論文を読む。すると、『学会場ですごいなあと思った人の声で脳内再生される』」

「おおお?」

「声真似しながら読む。『結論としてはァ~、この悪性リンパ腫の鑑別においてェ~、重要な抗体が4種類存在しますゥ~』」

「誰の真似ですか」

「聞くな というわけで、本や論文を読むためのきっかけとして、『声を手に入れる』というのをおすすめする」

「……先生もそうやったんですか」

「やった。というかぼくはそれしかやってない。自分が出席した研究会で発言していた人の名前を逐一チェックして、何をしゃべっているかをノートに取っておいた。ある日、その人が書いた総説を読んだら、まるで脳内でその人がしゃべってるみたいな気分ですらすらと読めた。それ以来、論文を読むとき、著者を知っていたら読みやすいということがわかったので、いろんな臨床医の顔や声を覚えるようにしている」

「マメですね」

「ついでに旅もできてたのしいよ」







医療業界以外でどれほど応用できるテクニックかはわからない。また、住んでいる地域によって、この手法が使える場合も使えない場合もあるだろう。

でもけっこうおすすめなのでやってみてほしい。ぼくの個人的な観測だが、Facebookで友だちが多い医者は別にひとんちの子供の運動会やよその夫婦の南国バカンスにいいねを押しているだけではなく、友人たちの著書をきちんと読んでいる印象がある。

2018年6月14日木曜日

おめでとう 石黒ホーマ は ホーマック に しんかした

ホームセンターでドリルを買う人はドリルが欲しいんじゃなくて穴が欲しいんだよ、的な話をみると、穴が欲しいんじゃなくて穴をあけて作ったものが欲しいのでは、って思うし、もっと言えば穴をあけて作ったものによって何かが便利になったり何かが美しくなったりするのが欲しいのでは、って思うし、さらに言えば穴をあけて作ったものによって何かが便利になったり何かが美しくなったりして結果的に自分が少し幸せになりたいのでは、と思うので、つまり、ホームセンターでドリルを買う人はドリルじゃなくて幸せが欲しいということになるのだが、ドリルを持つこと自体が幸せな場合もあるので、ホームセンターでドリルを買う人は何がほしいの? という問いに対しては「ドリルが欲しい。」と答えるのが一番無難で安全だということになるだろう。

ぼくはホームセンターが欲しい。ホームセンターに住みたい。ホームセンターになりたい。ホームセンターとして訪れる人々の毎日を想像したり、屋外に出してある苗が少し元気がなかったらこっそり水をやるなどの「気の利いたホームセンター」になりたい。この場合、ぼくが本当にほしいのはホームセンターそのものであろうか。ホームセンターに売っているものであろうか。ホームセンターにやってくる人々の笑顔であろうか。なんとなく、だが、ホームセンターそのものなのではないか、と思うのである。

だからポータルサイトみたいなのを作って運営している人たちをみると尊敬するのである。ポータルサイト自体にあこがれることがあり、ポータルサイトで紹介しているものを欲しがることがあり、ポータルサイトで紹介したものを手に入れた人の笑顔をみてうれしくなることがある。それが人生であろう。ぼくはいずれポータルサイトを作りたいのかもしれない。以前にFacebookにもそのように書いたことがあるな、ということを、そういえばずっと覚えている。

2018年6月13日水曜日

病理の話(210) ハンガリーブートキャンプ的な話

ハンガリーの大学を出てから日本で医師になる人、というのがときどきいる。

当院の研修医にもいる。

ハンガリーとはまた唐突だな、とか、中国の方が多いだろ、とか、いろいろと感想はあるかもしれないが、あえてここでハンガリーの話を出すのは、ハンガリーが「病理大国」だからだ。



日本で病理学が軽視されているとは思わないが、給料やキャリアを冷静にみてみると、日本の病理医はわりと「縁の下」感が強い。一方で、アメリカでは病理医の給料は非常に高い(訴訟大国だから、という理由もあるかもしれない)。

そして、ハンガリーは、ぼくが知る限り「もっとも病理医がありがたがられている国」ではないかと思う。




ハンガリーの某大学医学部は、「4本の柱のうち2本は病理が立てた」とすら言われるくらい、病理学講座に力がある。あらゆるラボの中でもっとも豪華な研究室を持ち、病理医を目指す人の数も極めて多い。

医学部の授業では、かなりの力点を置かれて、病理の実習が開催される。

その実習は、「病棟で亡くなった患者の解剖を教授が行う際に、医学生たちが周りを取り囲んで参加する」というものらしい。はじめて聞いたとき、ぶったまげた。

医学生は、一年とか二年という期間、毎週解剖に立ち会うというのだ。そんなことは日本ではありえない。

へたをすると日本の若手病理医よりもハンガリーの医学生のほうが、解剖には詳しいのではないか。





日本病理学会もそのことをよく知っていて、「ハンガリー病理解剖ブートキャンプ」的なものを実際に斡旋している。
http://pathology.or.jp/news/whats/hungary-171203.html

ホームページをみると、この実習は「解剖を勉強したい医師向け」っぽく案内されている。日本で10~20件くらいは解剖したことがあると望ましい、ともある。

そんな人、日本だとおそらく病理医か法医学者しかいない。

けれど、ハンガリーでは「10~20件の経験」というのは医学生クラスを指すのだ。

これはすごいなあと思う。





さて、ハンガリーから当院にやってきた研修医は言った。

「日本では病理診断というと、だいたい顕微鏡なんですね。ハンガリーの講義ではほとんどが解剖実習で、マクロ(肉眼)で臓器をどう判断するかに力点が置かれており、ミクロ(顕微鏡)はおまけでした」

なるほど。

たしかに今の日本における病理診断というのは顕微鏡のイメージが強い。

実際の臓器を見て、触れて、臨床診断と照らし合わせようとするマクロ病理解剖学についてはややおろそかにされているふしもある。

一方で、日本ではCTやMRIといった画像機器が非常に普及しているため、ほとんど100%の患者に対してすぐに精密な画像診断を行うことができる(行うべきかどうかはともかく)。

そのため、解剖などせずとも体内で起こっていることの大半は推測可能、という理論が雨後の竹の子のように生まれ、病理解剖の件数は激減した。




どちらがいいとはいわないが、どちらも知っている人のほうが「巨人の肩の上に立っている」だろうな、とは思う。

とりあえずぼくはハンガリーからやってきた研修医に、ミクロ診断学とマクロ診断学の接点について指導をすることに決めた。

2018年6月12日火曜日

普段ツンツンしてるけどいざというときにドラ息子になる萌えキャラ

仕事目的で乗る飛行機のお金は、出張後に支払われることが多い。

支払いはだいたい出張の2か月前には終わらせている。

つまり、お金がぼくの口座に入金されるまで、2か月ほど空く。

入金されるまでは、ぼくが「立て替えている」ことになる。

今月も、2か月前に立て替えた交通費の振り込みがあった。よかったよかった。




結局、いつも、1,2旅程分の交通費を「立て替えている」。

別に損しているわけではない。

でも、このままもし定年までずーっと「立て替え続ける人生」だとしたら……。

ぼくは人生を通じて、ずっと、立て替える相手がコロコロ入れ替わりながらも、常に数万円のお金の返済を待ち続けていることになる。

あれっ、それってずーっと損してることにならんのかなあ。




なーんてことを、酒の席で、営業職をしている友人に話した。

彼はいった、「そんなこといったら俺は毎月……」

そこで言いよどみ、なんだか表情をズンと暗くして、力なくジョッキを口元に運び、

「いや、いいんだ」

といってそれを飲んだ。

そうだった。

彼のほうがぼくよりもずっと「損」していたわけだ。ぼくはあんまりそこを気にしていなかった。申し訳なかったなあと思った。

だからとりあえずフォローをした。

「い、いや、ほら、貸す立場のほうがさ、おおらかでいられるからさ、借りる立場よりずっといいじゃん」

そしたら彼はいった、「そういえば住宅も車もまだまだローンがおわんねぇなあ」

彼はあきらかに目を落ちくぼませて、力なく小鉢を手元に引き寄せ、なんか松前漬けの劣化版みたいなやつをゴムゴムと噛んだ。

ファイヤーにオイルである。ぼくはあきらめて謝ることにした。




「なんかごめんな……」

「いやいいよ……俺は別に……養育費とかは払ってないから……。」





シベリア化した飲み屋の片隅で、冷戦の色合いが濃くなってきた。

ぼくは次の話題を探す。

飲み会ではお金の話はしないほうがいいな。そうだなあ、”友人”には”悪いこと”をした、”誰も傷つかない話”はないかな、うん、”愛”の話が”いいかもしれない”……。

2018年6月11日月曜日

病理の話(209) ブルーブックスの路線変更

WHO(世界保健機構)は、さまざまな病気について、世界中の医療者が参照できるような「教科書」を作っている。

いろんな教科書があるそうだ。中でも、ぼくら病理医がもっともよく使うのは、「ブルー・ブック」と呼ばれる「がんの教科書」だ。



オフィシャルサイトのアドレスも「WHOブルーブックス」だから、公認のあだ名なのだろう( http://whobluebooks.iarc.fr/ )。

まあ、ブルーというか、現在のデザインでは濃紺に近いのだけれど。

ブルー・ブックは、1冊だけではない。臓器ごとに分かれている。ええと、今、何冊出ているのかな?

 ・中枢神経(脳)
 ・消化器
 ・血液
 ・皮膚
 ・乳腺
 ・泌尿器と男性生殖器
 ・女性生殖器
 ・軟部腫瘍
 ・内分泌臓器
 ・呼吸器

ありとあらゆる臓器に「がん」は出現する。だから、ブルー・ブックもそれに分かれて出されている。

病理の部屋にはこれらが並べられている。



中には何が書かれているか。

さっきは教科書と書いたけど、どちらかというと「図鑑」に近いかもしれない。それもとても詳しいやつだ。


著作権を気にして少し遠目の写真を載せておく。けれど雰囲気は伝わるだろう。




さて、ブルー・ブックは、さまざまな「がん」、あるいは「がんと区別しなければいけない病気」の図鑑である。

がんというのは1種類ではない。

昆虫図鑑に載っている「虫」は、カブトムシだけでも何十種類、チョウチョだけでも何百種類というように、細かく分類されているだろう。

ブルー・ブックに載っている「がん」も、何十、何百と細かく分類されている。

種類が違えば、顕微鏡でみたときの細胞像が違う。患者の体の中でどういう挙動を示すかが違う。CTやMRIでどううつるかも違う。患者が将来どういう未来を迎えるかの予測も変わってくるのである。

これらを事細かく解説した「病気図鑑」。それが、WHOのブルー・ブックだ。




さて、このブルー・ブック。

なにせWHOが出している本であるから、全世界どこに行っても使えるように書かれていた。

医療が発展している先進国だろうが、医療機器があまり多く存在しない発展途上国だろうが、どこででも使えるように構成されていたのである。

特に、「病気の定義」については、万国共通で用いる事ができるHE染色プレパラートをもとに組み上げられていた。

HE染色はあまりお金がかからない。技術的にも西洋医学あるところならだいたいどこでも導入することができる。

すなわち、HE染色は、世界共通の言語になり得たのだ。




……今の段落を、ほとんど過去形で書いたのにはワケがある。

実は、この10年、もしくは15年くらいの話なのだが、WHOはとうとう「ブルー・ブックが全世界で共通的に使えるという理念」をあきらめはじめた。

医学が進みすぎたのだ。

病気の詳しい分類は、HE染色だけではなく、免疫染色という金のかかる手法、さらには遺伝子検査という金も技術もかかる手法を用いないと不可能になってしまった。

HE染色だけで病気を分類しようとすると、ほんとうは違う治療をすべき2つの病気の区別がつかなかったりする、というのがわかってきたのである。

だから、ブルー・ブックは今や、世界共通の言語であろうという理想を傍らにおいて、人類共通の英知をきちんと記そうという、より図鑑的な存在になりつつある。




それでも、今でも、ブルー・ブックに一番多く用いられている写真はHE染色の組織像だ。

病理医はいつまでもHE染色を忘れられない。

このことは、あくまでぼく自身の感想ではあるが、すばらしい矜持だと思うし、人間の大弱点でもあるんだろうなあ、とか、そういうことを考えたりもする。

2018年6月8日金曜日

エッセイグッドデイ~ズ

来年出す予定の本の原稿を書いている。

とっぴで、科学の裏付けがなく、煽るような、アジるような文章を書くと、簡単に体裁が整うのだなあ、ということを考えている。




ぼくが今書いているのは非医療者向けの本だ。医師として、「アドバイス」をするような内容を求められた。

でも、ひそかにこの本を特殊な随筆形式にしてしまおうかとたくらんでいる。

ぼくは科学を語るならばエッセイが一番いいのではないか、と考えるタイプの人間だからだ。





そもそも論として、科学というのは普遍だが普遍ではない、という残念さがある。

科学が定義する法則自体は普遍でなければ困る。

けれども、「科学をよりどころとして人生を組み立てなければいけない」というルールを万人におしつけるのは厳しい。

科学で語らないと結論がめちゃくちゃになるだろう、といって、科学の側にいない人を叱るやり方をとる人がいる。

そのやり方で、少しでも科学側の人間が今まで増えたことがあったろうか?

ぼくは、「なかったのではないか」と思う。残念なことだが。





科学を科学の手法で語る人は絶対にあちこちにいてほしい。

科学にひたると興奮するタイプの人間は複数いるからだ。

でも、科学を文学で語る人もまたいてほしい。



両方のやり方で科学の普及を果たそうとすることは、「科学者のぜいたくな欲望」だろう。

ぼくはぜいたくなのだ。

医療者に病理診断学を語るときは、科学を科学として語りたい。

そして、非医療者に医学を語るならば文学にしておきたい。

純文学は書けないし、ミステリも無理だ。SFの才能もない。しかし、幸い、エッセイだったらいくつか書いてきた。ほかの文学よりは自分に向いているだろうと思う。





とっぴで、科学の裏付けがなく、煽るような、アジるような文章を書くと、簡単に体裁が整うのだなあ、ということを考えている。

そして、科学をエッセイにする際に、これらの「売るための手法」を一切捨てて、あくまで科学発のエッセイとして書くには、何をしたらよいのだろうか、ということをずっと考えている。

2018年6月7日木曜日

病理の話(208) 学会発表というきっかけ

学会で発表する準備をしている。

ぼくの研究発表はいつも重箱のすみっこだ。

だからいつだって大きな研究にあこがれる。

 ・多数の症例を検討して
 ・統計学を駆使して
 ・今まで見えていなかった「傾向」を明らかにし
 ・新しい診療のありかたを提案し
 ・ときには遺伝子研究とも連携して
 ・医学を作り替えるような

そんな研究が、すばらしいと思う。

けれどぼくの発表は毎回「1例」を扱うものばかり。

珍しかった症例を再検討し、どこが珍しかったのか、どのようにいつもと違ったのか、なぜその違いに意味があるのか、次こういう症例が世界のどこかに現れる可能性があるのか……。

いろいろと考えながら、たった1例を丹念に説明していく。

1例報告には圧倒的な才能というのは必要ないように思う。数学力もさほどいらない。

ただ、丹念さと地道さは求められる。努力は重ねなければいけない。



学会の前日に、自分のプレゼンを見返す。

「これでみんな納得してくれるだろう、およそ自分のできる完璧な仕事をしたなあ」

と、自信まんまんで用意した内容が、学会で出会った他所の人に瞬間的に

「……ここはおかしくないかな?」

とつっこまれることもある。

はっ、と自分の視野が狭窄していたことに気づく。

しょっちゅうある。

発表が終わってからも反省をし、さらに検討を重ねていく。

何が見えていて、何を見落としていたのかを、何度も振り返る。




ひとつのものごとを前にして、「ぼくはこう感じた」からスタートして、その「感じ」を「思い」に消化させる。言葉にできない感情を言葉に変換し、さらに深く「考えて」、進んでいく。

孤独な作業の末に、学会などの場で「人前に出す」。そうすることで、自分の「感じ」から育った「考え」が、妥当だったかどうかをチェックする。

「感じ」が「思い」を経て「考え」になる過程は、よく歪む。隘路にはまる。どこにより明るい抜け道があったかどうか。そもそも「感じ」は気のせいではなかったのだろうか。

さまざまに悩む。




世界中で無数に行われた作業の末に、今ぼくの手元にあるような教科書やガイドラインができあがっている。

みんながんばったんだろうな、と、しみじみとする。

ぼくは論文が好きだ。きちんと査読された論文を読むと人の努力を思う。教科書が好きだ。学術校正の末に校閲を通って製本まで至った成果を尊敬する。しみじみと拍手を送る。

2018年6月6日水曜日

去る者がおわす

今はカンファレンスを待つ時間である。

時計をみると 17:39 とある。

あちこちが痛む。ちょっとのめりこみすぎた。ぐぐっと椅子に体を預ける。

あずけたまま、ワイヤレスキーボードを手前にひいて、かたかたとこれを書いている。

雰囲気しか見えないほど遠くなったモニタに、ぽちぽち文字が走って伸びていく。



実はぼくはたいていこのような書き出しでこのブログを書いている。特に、「病理の話」以外のときはだいたいこういうかんじだ。

できあがった記事の冒頭数行は、けっこうな割合で消してしまっている。今回はあえてこの数行を残してみた。

助走部分はのちのスポーツダイジェストには放映されない。

ゴールシーンを中心に編集をする。

だいたいの記事がそうだ。

いつも、公開している記事の長さは、もともと書いていた記事の8割くらいになっている。




たとえば世の中には、自分一人でものごとを書くといってもどうしていいかわからない人がいるだろうと思う。

ぼくもたぶん、この場に誰かがいてべらべらととりとめもなくしゃべっていた方が、新しいことを思い付くタイプではあるのだろうと思う。

しかし、ブログというのは一人で書くものだ。どうしたら「話のとっかかり」が出てくるだろうかと考えた。

とりあえずその日書きたい主題みたいなものが、あったとしてもなかったとしても、最初は助走として、今ある状態とか、さっき見ていたものとかを書き付けてみることにした。

そうやったあと。

自分で書いたものが、モニタの向こうで立ち去っていくときと、こちらを振り返ってじっと待っているときとがある。

こちらを振り返って待っている「ぼくの文章」はすでにぼくのものではなく、ぼくは彼に話し掛けることにする。

「おい、それはどういうことだ。」

すると彼が答えてくれる。「うん、それはだね」

そこでぼくは押しとどめる。「いや、いい、わかった気がする。今日はそれを書こうと思うよ」

彼は去っていく。「よかったね。あとはできるよね。じゃ、そういうことで。」




ぼくはいつも彼に用があるのだが、彼はいつもちょっと立ち止まってまたすぐ歩き出して消えてしまうので、なかなかしっぽりと話し込む機会がない。

今回の記事もまた彼が連れてきたものだ。こんな展開になるとは全く思ってもいなかった!




(17:46)

2018年6月5日火曜日

病理の話(207) ちょろっと研修医と話した

若い研修医がぼくのデスクにやってきた。

「指導医にいわれて来ましたぁ~」

なるほど大変だな。同情をするのである。

「お疲れ様です。今日はどうなさいましたか」

ぼくはこのように応じる。「外来」の最初のひとこととしては申し分ないだろう?

ドクターはいつだって、患者に「今日はどうなさいました」と話し掛けていると聞く。

ぼくは患者とは会わないが、かわりに臨床医たちと話をする。

道に迷ったような顔をして病理にやってきた研修医にかける言葉といえば、やはり「今日はどうなさいました」しかあるまい。




「ええと……学会のご相談なのですが……実はその……病理でなにかわからないかなと思いまして」

研修医はおずおずと切り出した。

なるほど、研究発表に際し、臨床データだけでは裏付けが不十分と感じて、病理で補強しようと考えたのだろう。

これはとてもよくわかる。

「臨床医学」というのは、高い山を向けて一歩一歩あゆんでいくようなところがある。

頂は遠く、もやがかかり、ときに、どちらを通ればよいのか迷う。

足下に花が咲いている。目を奪われる。横からオオカミが飛び出してきた。脱兎の如く逃げる。

そうやってえっちらおっちらやっている人間からすると、病理医というのは、

「ドローンで一足先に山頂を見てきたようなやつ」に見えるようである。




「ではちょっと病理を検討してみましょう。先生方の仮説を教えてください。どんな症例を集めて、どのような仮説を立て、臨床的にどのように結論したのかを説明してください。そしたら、病理でどのような補強ができるか考えられますからね」

私はそう答える。

頭の中で少しだけ考えている。

ほんとうは、ドローンでさっと飛んで行けるわけじゃなくて、ぼくらも別のルートから山頂を目指しているだけのことなんだけどな。




研修医が頭をかく。

「それが実は……こういう疾患の人を20人くらい集めてきたところまではいいんですけど、特に臨床的に特徴が抽出できたわけじゃないんですよ。だから、病理をちょろっと見ていただいて、何かおもしろい共通点とかがあれば、それがテーマになるかなって思って……」

ぼくは思わずのけぞってしまった。

ま、まだ、研究の方向性すら決まってなかったのかよ。

おまけに、「病理をちょろっと見ていただいて」、だって?

思わずちょろっと失禁してしまうところをぐっとこらえた。




しょうがないので研修医と一緒に、ひとまず10人分のプレパラートをみることにする。

1人につき30枚くらいのプレパラートがある。いくらなんでも、顕微鏡なれしていない研修医と一緒に、300枚のプレパラートを一緒に顕微鏡でみるというのは酷だろう。

脳内でギュンギュンとドローンを飛ばす。

ほんとうはぼくだって歩きたいんだけどしょうがない。

先に山頂をある程度イメージしないと、登山計画だって立てられないのだ。




「じゃ、ちょろっと見ましょうね。まずはプレパラートを棚から出すのを手伝ってください」

プレパラートの準備にちょろっと30分ほどかかった。

「では見ましょう」

ちょろっと1時間ほどみた。

研修医は顕微鏡疲れでちょろっと目がうるんでいるようだった。

ぼくは告げる。

「病理で抽出できそうな特徴はAとBについて。CやDはこの症例だとまず差が出ません。Eは保留ですね。これだけだと正直、どこかに報告できるほどの新しいデータにはなりません。

しかし、このAとBを、臨床画像……たとえばCTやMRIのデータと見比べて、そこに相関があるようならばおもしろいです。昨年論文として出たこのデータを補強することもできますし、ちょっと違う視点で別のデータを出すこともできるでしょう。

ここからは先生のデータ解析次第ですよ」



研修医はちょろっとおじぎをして帰っていった。

ぼくはちょろっと胃が痛くなったけど、さて、あの研修医はここからどうやってあのデータをまとめるのかな、というのが、ちょろっとだけ楽しみになった。

2018年6月4日月曜日

エターナルフォースブリザードはちょっと薄い

「ジャンガリアンハムスター」って名前を最初につけた人、あるいは最初にカタカナで書いた人、きっと快感だったと思うんだよな。

なにこのリズム、うける、みたいな。カタカナが飛び跳ねまくっててかわいい、みたいな。ハムスターなのに序盤ちょっと強そうなのがいい、みたいな。

最近なんか「名前」の話ばかり考えているなあ。ブログのログを辿ってみたら何度も何度も名前のことを書いている。

なんか目線がそういうモードなんだ。





「目線のモード」は、無意識に調整されている。

医療の例えで恐縮だけれども、たとえばオリンパス製の胃カメラには画像強調モードというのがついていて、

A1~A8
B1~B8

の合計16段階の切り替えができる。

これを切り替えると、同じ胃カメラで見た胃の中身であっても、微妙に色調とか強調具合がかわってくるのだ。

血管がより見やすくなるとか。

色調が繊細に見分けられやすくなるとか。



強調モードは、基本的には内視鏡医の好みで選ぶものなんだけれど。

あるひとりの「達人」が、たとえばA8モードを使っていたとすると、その弟子達もみんなA8モードで胃カメラを使うようになる。

だって胃カメラがうまい人と同じ目線で勉強したいもんね。

すごい人がみた目線と同じ位置に立って、同じモノがみえるかどうかを見てみたいもんね。



で、ある日、みんなで胃カメラの画像をみてああでもないこうでもないと議論をする研究会に出ていた。

あるとき、ひとりのドクターが、自分はB8モード(実際にB8だったかどうかは忘れたんですが、便宜上そういうことにしておきます)使ってるんですけれどね、と言って、誰も気づかなかった所見を指摘した。

会場はざわついた。ひとりのベテランが、「考えてもいませんでした。先生は普段からB8で見てるとこういう所見はよくみえますか?」と尋ねた。

発言者はむしろ驚いて、「えっ、みんな見えてるものだと思ってました」と結んだ。




強調モードっていったん設定すると、きっかけが無い限りずっと動かさないんだ。

そのほうが、一個人としてぶれのない仕事ができるからね。

で、強調モードが違う人同士が集まると、おもしろい発見が生まれたりもする。




自分の強調モードを意識して切り替えるというのは「ぶれ」につながるんだけど、ぼくは別に、毎日ジャンガリアンハムスターとかスリジャヤワルダナプラコッテとかトロンボポイエチンとかサブカルクソ野郎みたいな名前の話ばかりぶれずに考えていたいとはみじんも思っていないので、ときおり、意識してモードを切り替えようかな、なんて思い始めている。

2018年6月1日金曜日

病理の話(206) 病理スタートアップの手引き

目の前に膨大な資料がおいてある。たとえば本棚5つ分(ほんとは単位は「架」かな?)くらいの専門書籍が積まれているとする。

「これを全部読んだら病理医として働けるよ」といわれて、そうかそうか、では端から読もうかな、とはなかなかならない。5年あれば読めるよ、といわれても、尻込みするだろう。

「いやいやこれ全部読むって、無理でしょ」がふつうの感覚だと思う。

「まずどこから読んだらいいのか教えてくれ」とも思うだろう。はじめにどこから手を付けていいかわからない。ある本を読むためにほかの本の知識があったほうが理解が早い、ということもあるに違いない。読む順番をおすすめしてほしい。



こういうことを、長年ユーザーに言われ続けて、改善しつづけているのが、たとえばスマホとかパソコンの説明書だと思う。Nintendo 3DSやSwitchの説明書でもいい。

たぶん、マシンの全てを理解しようとすると、ものすごい量のページをめくらなければいけないだろう。でもそんなことは、ふつうのユーザーはしない。できない。やる気がない。

そのことを見越して、たいていの電子機器には、「まずはここから」とか「スタートアップマニュアル」みたいなものが、本格的な説明書とは別に用意されている。



病理も一緒だ。病理学を勉強したい人は、まず、スタートアップの仕方でまごまごする。そういう簡単な説明書をまず読ませてくれ、と考える。

「人体を学び、病理学を身につけるためには、とりあえずどの本から読んだらいいでしょうか?」

「どうやったら顕微鏡を見られるようになりますか?」

こういう類いの質問を、医学生とか研修医などから多く受ける。

この質問に、「とりあえず本棚5個分の教科書をお伝えします。」では、いかにも不親切だ。

やはり、本を読むにも、順番というのは大事なのである。




ただ、病理を勉強したいのは何も医学生とか若い医師だけではない。

その領域でもはやエースと呼ばれるくらいの中堅臨床医が、自分の専門にしている臓器や病気のことをさらに知りたいと思って、病理組織学の勉強を始めるケースもある。

30~40代くらいの医師が読むべき「まずはここから」と、20代そこそこの医者のたまごが読むべき「まずはここから」の文章は、違うだろう。

今までWindows PCを使っていた人がはじめてMacbookを持ったときに読むマニュアルと、今までスマホすら持っていなかった人がはじめてiPadを持ったときに読むマニュアルは異なる。それといっしょだ。




では、病理学のスタートアップマニュアルとは、いったいどのような内容であるべきだろうか?





今までの医療教育で、この、「教わる方のレベルとかニーズに応じて教え方を変える」ことをどのように解決してきたかというと。

「徒弟制度」によって解決してきたふしがある。

すでにある程度、マニュアルの読み方がわかっていて、読む順番も覚えているような人の元で、実際に「マシン」にフレながら、習熟度に応じて、「次はこれを読んだらいいかな」「ここまでわかっているならこちらを読んだらいいよ」と、適宜アドバイスをもらう。

本棚に本を揃えるだけではなく、師匠を探しておくという考え方だ。

みんなそのことをわかっているから、「病理学の研修をするならどこの病院がおすすめですか?」という質問が出てくる。





かんたんにだが、ぼくが考える「病理学スタートアップマニュアル」を以下に述べる。あくまでスタートアップである、ということだけは注意しておいてほしい。そして、このマニュアルは、あなたの立場によって変わるので、項目を分ける。


【1.すでに臨床でばりばり活躍している現役の医療人。自分の仕事を充実させるために病理組織学が必要だという人。】

 <分岐A: あなたの施設の病理医は話し掛けやすいですか。あなたの仕事を丁寧に説明したら相談に乗ってくれますか>

 A-1: はい、自施設の病理医とは仲良しです。
 →臨床家であるあなたの会話に興味を示してくれる病理医がいるならば、日頃から一緒に仕事をしているその人に病理を教わるのが、スタートアップとしては一番らくで、かつ効果的です。大きな病理学講座で多数の病理医に総論からじっくり教わるよりも、あなたが必要としている内容にあわせて個別のチュートリアルをしてくれる人に教わるほうが、最初は伸びがいいと思います。

 A-2: いいえ、施設に病理医がいません、あるいは話し掛けてもあまり乗ってきません。
 →あなたが参加する臨床系の学会などに、たまに病理医が参加しています。演題をなんらかの形で出したり、あるいはシンポジウムで発言しているような他施設の病理医がいるはずです。その人をとっ捕まえてメールしましょう。どんなに偉い人でもいいです。雲の上みたいな人でもかまいません。えらい病理医ほど、頼られるのが好きなはずです。問題ありません。「突然で申し訳ございませんが、臨床に活かすために病理の勉強がしたいのです。ご教授いただけませんか」。ハードル高すぎだろ、と思うかもしれませんが、すでに専門家であるあなた(医者でなくてもです)は、これくらいのハードルを飛び越えて病理を勉強した方が後々まで役に立つはずです。というかそうしないと勉強になりません。


【2.医学生、初期研修医】

 <分岐B: 将来、病理医になりたいですか。>

 B-1: まさか。将来は臨床医になります。
 →自分の研修する病院に病理診断科があるならば、初期研修の2年間のどこかで1~2か月くらいローテートで病理を回るのがいいかと思います。この場合、<分岐A>のように病理医が親しみやすい人かどうかを確認しておいてください。

 B-2: はい。将来、病理医になることも考えています。
 →初期研修が終わるまでは臨床の勉強でいいと思います。後期研修で、多くの病理医がいる病院や、できるだけ関連病院が多い(デジタルパソロジー連携も含む)大学病院病理部で研修すると、さまざまな病理医のやり方をみることができ、自分がどの方向の病理医になりたいかが見えやすくなります。


【3.医師以外の医療者】

 <分岐C: あなたと同じ職種の方に、病理の勉強をしている人がいますか。>

 C-1: います。それを見てうらやましいと思いました。
 →医師以外の医療職で病理を真剣に勉強している人の数は少なく、教える病理の側もまだどのように教えたらいいのかよくわかっていない場合があります。すでに病理の勉強している同業者がいる場合、その人の師匠もまた「医療者全般に病理を教えるということ」について経験を積んでいますので、その師匠に自分も弟子入りするといろいろスムーズです。

 C-2: いません。いないのでこれで天下取れるかなって思ってます。
 →いい野心です。ただし、病理医に直接教わろうとしても、本当に自分のやりたいことと病理組織学がうまく直結するかどうかわからない場合が多いです。そのため、まずは、「あなたの仕事に関係のある臨床医」と連絡をとりましょう。たとえばあなたが診療放射線技師でCTやMRIの仕事をしているなら、放射線科医に相談します。あなたが内視鏡看護師であれば、内視鏡医に相談します。「先生が病理の勉強するなら、誰に教わりますか?」と聞くのです。臨床医学に病理の知識を持ち込んで何か仕事をしようとすることは、一部の臨床医がすでに通っている道ですので、おそらくあなたの同業者よりも知識が少しだけ豊富だと思います。懇意にしている病理医を教えてくれるかもしれません。

【4.非医療者】

 いいアカウントがありますのでそちらに相談してみてください。
 Twitter: @Dr_yandel