2018年6月11日月曜日

病理の話(209) ブルーブックスの路線変更

WHO(世界保健機構)は、さまざまな病気について、世界中の医療者が参照できるような「教科書」を作っている。

いろんな教科書があるそうだ。中でも、ぼくら病理医がもっともよく使うのは、「ブルー・ブック」と呼ばれる「がんの教科書」だ。



オフィシャルサイトのアドレスも「WHOブルーブックス」だから、公認のあだ名なのだろう( http://whobluebooks.iarc.fr/ )。

まあ、ブルーというか、現在のデザインでは濃紺に近いのだけれど。

ブルー・ブックは、1冊だけではない。臓器ごとに分かれている。ええと、今、何冊出ているのかな?

 ・中枢神経(脳)
 ・消化器
 ・血液
 ・皮膚
 ・乳腺
 ・泌尿器と男性生殖器
 ・女性生殖器
 ・軟部腫瘍
 ・内分泌臓器
 ・呼吸器

ありとあらゆる臓器に「がん」は出現する。だから、ブルー・ブックもそれに分かれて出されている。

病理の部屋にはこれらが並べられている。



中には何が書かれているか。

さっきは教科書と書いたけど、どちらかというと「図鑑」に近いかもしれない。それもとても詳しいやつだ。


著作権を気にして少し遠目の写真を載せておく。けれど雰囲気は伝わるだろう。




さて、ブルー・ブックは、さまざまな「がん」、あるいは「がんと区別しなければいけない病気」の図鑑である。

がんというのは1種類ではない。

昆虫図鑑に載っている「虫」は、カブトムシだけでも何十種類、チョウチョだけでも何百種類というように、細かく分類されているだろう。

ブルー・ブックに載っている「がん」も、何十、何百と細かく分類されている。

種類が違えば、顕微鏡でみたときの細胞像が違う。患者の体の中でどういう挙動を示すかが違う。CTやMRIでどううつるかも違う。患者が将来どういう未来を迎えるかの予測も変わってくるのである。

これらを事細かく解説した「病気図鑑」。それが、WHOのブルー・ブックだ。




さて、このブルー・ブック。

なにせWHOが出している本であるから、全世界どこに行っても使えるように書かれていた。

医療が発展している先進国だろうが、医療機器があまり多く存在しない発展途上国だろうが、どこででも使えるように構成されていたのである。

特に、「病気の定義」については、万国共通で用いる事ができるHE染色プレパラートをもとに組み上げられていた。

HE染色はあまりお金がかからない。技術的にも西洋医学あるところならだいたいどこでも導入することができる。

すなわち、HE染色は、世界共通の言語になり得たのだ。




……今の段落を、ほとんど過去形で書いたのにはワケがある。

実は、この10年、もしくは15年くらいの話なのだが、WHOはとうとう「ブルー・ブックが全世界で共通的に使えるという理念」をあきらめはじめた。

医学が進みすぎたのだ。

病気の詳しい分類は、HE染色だけではなく、免疫染色という金のかかる手法、さらには遺伝子検査という金も技術もかかる手法を用いないと不可能になってしまった。

HE染色だけで病気を分類しようとすると、ほんとうは違う治療をすべき2つの病気の区別がつかなかったりする、というのがわかってきたのである。

だから、ブルー・ブックは今や、世界共通の言語であろうという理想を傍らにおいて、人類共通の英知をきちんと記そうという、より図鑑的な存在になりつつある。




それでも、今でも、ブルー・ブックに一番多く用いられている写真はHE染色の組織像だ。

病理医はいつまでもHE染色を忘れられない。

このことは、あくまでぼく自身の感想ではあるが、すばらしい矜持だと思うし、人間の大弱点でもあるんだろうなあ、とか、そういうことを考えたりもする。