2018年6月20日水曜日

脳だけが旅をする

「集中しすぎるとろくなことがない」という書き出しで、つらつら書いていたのだが、今ごっそり消したところである。

ろくなことがない、ってほどおおげさなエピソードがなかった。言うほどじゃねぇな、って思ってしまった。



日々のよしなしごとを無理矢理ブログ的にうねらせることはできる。あたかも、「毎日山あり谷あり」感が出る。けれどもぼくの日常は基本的にうねっていない。

というか、ようやくうねりを自分でおさえることができるようになったのだ。ぼくは中年になって、それが一番うれしい。

驚くできごと、腹立たしいできごと、心浮つくようなエピソード。ぽつぽつと落ちている。

それに毎回乗っかって、いちいち興奮をして、ぴょんぴょん跳ね回ることで、なんとか彼我の境界線を確かめる日々というのがずいぶんと長く続いた。

けれど、今は、道が多少でこぼこしていても、サスペンションを効かせながら落ち着いて通り過ぎるようになった。

車の天井に頭をぶつけるような運転をしないと、ドライブをした気にならなかった頃のことを思い出す。

今は、なんとなくだが、車窓を寝ぼけ眼でそっと眺めながら遠く遠くへと旅路を進めることに喜びを覚えている。




近頃は、「何かをうねらせる側」になれと誰かに請われる場面に、ちらほら出くわす。

なるほどまあそうだなと思う。そろそろぼくは道をうねらせる側の人間であるべきだ。

うねりをしっかりエネルギーとして与えるためには、力点以上に支点が重要だと思う。

人はぼくのSNSを支点だと思っているふしがある。

でもたぶんSNSは作用点のひとつだ。

支点は常に脳にある。

脳をあばれさせるとろくなことがない。

力点は情動によってエネルギーを得る。

脳はそのとき支点になる必要がある。

脳は支点であってほしいと願っている。