2018年7月31日火曜日

そんなに引き立てるなんてショックばい

今までやってきた仕事や遊びの中で少しずつ見えてきた自分のキャラクタ性というものがある。端的にいうとぼくはメインよりサブが向いているということ。主役より引き立て役が似合うということ。ぼくの天職は触媒ではないかな。そこにいることで周りの仕事が早く正確になる。

だから声をかけられたときになるほどなと思った。ぼくはこれからあるネットラジオを手伝うことになるのだが、今回の企画の中心人物はぼくではない。重要な人間がほかにいて、ぼくに仕事を与えた。その仕事内容を聴いて、非常に納得した。今回のぼくの役割はまさに触媒だったからだ。

なお、誤解をおそれずに書くが、ぼくが求められている役割は実は純粋な触媒ではない。冷静に先を読むと、ぼくにも化学反応が及ぶことになる。触媒でありながら消費される因子ともなる。これはなぜかというと、おそらくだが、今回ぼくに声をかけた「主役」もまた触媒としての高い能力をもっているからだ。ぼくの本来の性質は触媒なのだが、同等以上に強い触媒能力を持った彼の力によっておそらくぼくにも化学反応が及ぶ。その逆もまたしかりである。

企画段階で、安住アナウンサーのやっているラジオがおもしろいから一度聴いておけといわれた。ぼくは安住アナのやっているラジオを聴いたことがないのだが、聴こうと思えばすぐ聴ける。こないだ、燃え殻さんのラジオを北海道で聴くために、radikoに課金してタイムフリー視聴ができるようになったからだ。ぼくはもういつでも、安住アナの番組を聴くことができる。そろそろ聴いておこう。

ラジオというのはテレビと異なり、「視聴者の脳内に浮かぶカメラワーク」を語り手自体がかなりコントロールしなければいけない。何が映っている、何を映してほしい、何をクローズアップしたい、何に目を凝らしてほしい、というのをすべて話術でコントロールする必要がある。

ぼくは今までツイキャスでは基本的に、NHKのドクターGをみながらそれについて語るという「NHKにディレクションをまかせた進行」をしたり、ハリソン内科学を読みながらそれについて語るという「ハリソンにディレクションをまかせた進行」をしたり、ゲストの相手に話を聴くことで何かを浮き上がらせるという「対談相手にディレクションをまかせた進行」をしたり、そういうことしかできないでいた。だから昨今じわじわと盛り上がってきた「ネットラジオのひそかなブーム」には、自分ではうまくのれないだろうなという思いで、遠くからVtuberのやることをじっと眺めていた。

けれども今回ぼくにタスクを与えた相手はそのあたりをよくわかっている。彼は、ぼくの「引き立て役」としての職場威力、「対談相手」としての素材力を使いたいのだと思う。ぼくはその手にまんまとのる。

ライフサイエンスの話をするかもしれないし、エンタメの話が出るかもしれないが、今回はぼくは一切ディレクションを自分でやらないと決めている。ただひたすらに触媒を演じながら因子として消費されていく道をえらぶ。

2018年7月30日月曜日

病理の話(226) 病理研修のコツ無料公開大サービス

病理医は全医師の0.6%程度しかいない(全国で病理専門医は2300人程度、たとえば北海道には100人)という。かなり少ないポジションではある。

となると、病理で研修をする人間もほとんどいないのかと思うと、実はそうでもない。

「病理診断科での研修」を希望する初期研修医というのは、決して少なくない。



将来はふつうの臨床医になりたいんだけれども、研修の間にちょっとだけ病理の勉強をしたい、という人がそこそこいる。

一番多いのは、「腫瘍に関わる科」を希望する研修医である。

たとえば胃がん。たとえば肝臓がん。たとえば肺がん。

これらを専門的に診療したいと思ったら、病理診断について勉強しておくことは必ず役に立つ。というか、病理診断科に来なかったとしても、結局自分で病理の勉強をしなければいけない。だから、短い研修期間の一部を病理に割いておくというのは決して極端な選択ではない。




というわけで最近は初期研修医がちらほら病理に現れる。けれども彼らは別に病理医になりたいわけではないので、彼らを病理診断科のルーチンに組み込んで本格的に働いてもらおうとは思わない。おいしいところだけをつまみぐいしてもらう。1か月とか2か月程度で病理診断学の要点を学ぶというのは無理がある。「とりあえずこれからも一生、病理検査室とのコネがつながるよ」+「この先自分で勉強しようと思ったときのヒントを与えるよ」くらいのことしかできない。




一番いいと思っているのは、それまでの他科での研修で「気になった患者、興味があった症例」の病理を実際にみてもらうことだ。

本人のモチベーションが違うのである。

実際の患者の顔が思い浮かばないプレパラートに没入できるかどうかには経験がものをいう。

普通の医師は、会ったことも話したこともない患者のプレパラート一枚にはあまりうまく興味を示せない。

だから、まずは、「知っている人のプレパラート」からみるのがいいと思っている。症例はなんでもいい。




病理といえばまずは大腸ポリープ、とか、最初は胃生検からみる、などとプログラムを決めている施設もあるかとは思う。ぼくは元々そうやって育ったタイプだから、悪いやり方とは全く思わない。けれども、まだろくに内視鏡診断も経験していない状態で、小指の爪の切りカスよりもちいさな胃生検や大腸ポリープのプレパラートをみせられても、「これが診断か!」と実感するのは少々むずかしいように思う。




最初にみる標本が皮膚生検であっても、肝生検であっても、卵巣腫瘍であっても、胆石症の胆嚢であってもいっこうにかまわない。

頻度、重要度、所見の多さ。そういうことが重要なのではない。

だいじなのは、「この人の、この病気のプレパラートを、俺は生まれて初めて病理で見たんだったな」と意識して、知識を芋づる式に伸ばしていくプロセスではないかと思っている。





その上でぼくが初期研修医になるべく早い段階で教えると決めていることを特別にみなさんにも公開する。これは本当に特別大サービスである。完全にプロの教育だからだ。本来、無料でこんなところに書くなどありえない。これを読んだあなたは人生が変わるだろう。それくらいの貴重な情報である。くれぐれも心に刻んで欲しい。




1.夕方5時以降はプレパラートをみてはいけない。帰れ。目が疲れる。

2.当直明けに病理診断をしてはいけない。帰れ。目が疲れる。

3.顕微鏡の光量を落とそう。自分がよかれと思って設定した光量の6割くらいで十分なので、光量をしぼれ。目が疲れる。

4.接眼レンズがずれていると乱視みたいになって、酔う。学生実習の顕微鏡で酔った人はたいてい安い顕微鏡を使ったからだ。安い顕微鏡を使ってはいけない。目が疲れる。

5.腰を曲げないことだ。首の角度にも注意せよ。目が疲れる。

2018年7月27日金曜日

松本で買った北杜夫がまだ未読のまま積んである

ちかごろ、本を読むと少し眠くなる。これはよくないなあと思う。ときには本当に寝落ちしてしまうこともある。

たぶん、「本を読む自分でいたい」から、無理して本を読んでいるのだろう。

つまりは心の底から読みたくて読んでいる本じゃないから、途中で眠くなってしまうのだ。読み続ける気力よりも体力回復をうながす睡眠力のほうが強い。

そんな読書はつまらないからやめろといわれた。誰に? なんかそのへんを通りがかった宮沢賢治に。




そもそもぼくは、これまでの人生において、いつもいつも「読書サイコー!」と大喜びして本を読んできたのだろうか?

決してそうではなかったと思う。あたかも読書家みたいな情報発信をしてきたが、それはあくまで「読書家を気取るとSNSではちやほやされるから」である。読書が楽しいときのことだけ発信して、読書がつまらなかったときのことを発信しなかった。バイアスだ。

冷静に考えたらぼくはそこまで読書を毎回楽しんでいるわけではない。

けっこうな頻度で、「最後めんどくさくなったけど一応がんばって読み切った本」とか、「ゆっくり読み過ぎて読み終わるころには冒頭に何が書かれていたか忘れた本」とか、「寝ながら読んだためにほぼ読んでいないに等しいのだがとりあえず最後までページをめくった教科書」と出会っている。




でも、そうやってでも本とふれあい続けているうちに、なんだろう、たまに、「こ、これは最高だなあ」と思える本と出会う頻度もまた少し上がっていくような気がする。

こんなことを書くと、なんだか、無理矢理グラウンドを何十周も走らせる体育会系のスポーツクラブのやり方も一理ある、みたいな論調に見えるし、あまりいい気分はしないのだが、しかし……。

「多少自分を痛めつける程度の読書をしたほうが結果的によい読書をできている」ことは事実である。

そんなマゾヒスティックな読書、お子様にはおすすめできません。

読書は大人になってから。






ぼくはもともと、学者とか哲学者の類いが、新聞とかテレビで「私の愛読書」みたいなものを公開するのがとても嫌いだった。「100冊には絞れません」とかいいながら、いかにもインテリゲンチャといわんばかりのブックリスト。端的にその自己顕示欲マジでうぜぇなと思った。一般人が俺の読む本をまねしたいのか、いいだろう、見て震えろ! とばかりに、「図書館の棚のみえやすいところに置かれがちな本が6割+著者はそこそこ有名だがタイトルがマイナーな本4割」の構成でドヤと広げられるリストが心底いやだった。なにをすかしていやがる。ソムリエ気取りか。

でも、そんな跳ねっ返りだったはずのぼくは、なんだかSNSをちらちら見ながら、「読書してる俺けっこうほめられるなあ。」なんて、ありきたりな承認欲求をぴちゃぴちゃ満たしている。やってることはエライ学者の皆様方の劣化コピーみたいになってる。うける。

40になる歳に、すでに「本を読んで眠たい」みたいなことまで書いている。脳の劣化が深刻だ。





あーあ、やっぱ、偉くなる人たちは違うな!

ぼくは本をみると、中身が自分を大きくしたとか、世の深淵に触れたとか、そういうことよりも、とりあえず、「この本読んだぜってみんなにツイートしてやろう」みたいな欲望ばかりがふわふわわいてくるんだ。まったく残念なことだ。そんなことだから、寝るんだ。ああそうだよ、それが真実なんだ。

今は「極論で語る総合診療」を読んでいる。これがなかなかおもしろくて、2回ほど寝たけれど起きてまた戻って読み直したりしている。読み終わったらツイートするんだ、とてもたのしみだ。ぼくは結局、そういう読書しかできない。

2018年7月26日木曜日

病理の話(225) 資質とか指向性とかそのへんのアレ

あなたが病理医に向いているか、向いていないか、という話をする。この話は何度か書いているのだが、そのたびにぼくの書く内容が少しずつずれている可能性はある。つまりその程度のことだ。確固たる信念とか断固たる決意のようなものはでてこないので気楽に読んでほしい。



まず病理医に向いている医学生というのはいない。病理医に向いていないという医学生もいない。

だから安心してそういう向き不向きの話を捨てて、いさぎよく勉強をしてもらいたい。結論はこうだ。

では結論を先に書いたので以下は詳細を述べる。





病理医というのはほかの医者と同じく、誰でもできる仕事である。医師免許さえもっている限り、ぼくらの仕事に面と向かってダメ出しをできるほどエライ人間など社会にはそうそういない。誤解を恐れずにいうがぼくらはやりたい放題だ。どれだけ無能でも、どれだけ悪を背負っていても、医者になれば、刺されて殺されるまでの間は医者として働くことができる。給料だってきちんともらえる。その意味で、向いていないから路頭に迷うということはない。だから、自分がうまくやっていけるだろうか、みたいな考えは根本のところであまり切実な悩みにはならない。これは病理医に限った話ではなく、医者全般にいえる話なのである。残念ではあるが。

けれども。

ぼくらにちょっぴりでも良心が存在する場合、使命感が存在する場合、抑止力が存在する場合、誰かの悲しい顔が少しでも想像できる場合、ぼくらは、自分の仕事によって誰かが期待値未満の人生を送ってしまう恐怖に身を焦がすことになる。

自分の判断がここで2秒遅かったためにこの人の人生は2か月ほど縮まってしまった、みたいなことが医療の世界ではよく起こる。ほんとうにきつい。もし、ある瞬間患者を担当していた医者が自分以外だったならば、患者の人生は苦痛を伴いつつも2か月伸びたかもしれない。あるいはその瞬間自分を含めて医師がひとりもいなければ、アディショナルタイム的な2か月間は誰も意識しなくて済んだかもしれない。自分がうっかり関わってしまって、期待値を伸ばすフリをして伸ばせなかった、という状況が、シンプルかつ最大のダメージを、患者とその周囲と、おまけに自分自身に叩きつけることになる。

医学生はしばしば、そういう「とっさの判断が他人の人生に影響する」というイベントの多い、少ないで、専門科を選ぶ傾向がある。循環器外科みたいなイチかバチかの仕事はつらい、皮膚科であれば患者は死なないからラクだ、いや逆にラクだと張り合いがない、俺は外傷外科の最前線でばりばり働くほうが性に合っている、いやいや麻酔科だと手術がない日のQOL(クオリティオブ自分のライフ)がよい……など。

でも本当は、どの科もそれほど大した違いはない。これはあくまでぼくの意見であり、従ってぼくは個人的に断言するが、医者である限り、「科がどこであっても患者の人生を思って煩悶することになる」。多い少ないではない。生き死にの違いがあるかもしれないが、しかし、死なないからいいなんて言葉は生命をなめている。とっさの判断とか現場の興奮とか決断の重さの違いが科ごとに違う、というのは医学生が陥りがちな錯覚であり幻想にすぎない。

もしあなたが「科ごとに真剣さは違うだろう」と考えているならば、あなたは所詮、他人の人生をその程度のワクでしか見ていないということだ。そもそも医者に向いていない気もするが、ま、そういう人でも、冒頭述べたように、医者というのはやっていける。君個人の問題としてはまったく問題ない。

向き不向きなんてどうでもいい。「立ち向かう」というのは、自分で相手に正対することで成り立つ言葉である。受け身になって「自分の顔がいまこっちを向いている」とか「今はそっちを向いていない、反対をみている」などといっている場合ではない。足を鳴らせてそちらを向く。ただそれだけのことなのだ。




なお、このタイミングでいちおう書き添えておくと、我々医療者というものは「科ごとの向き・不向き」は重要ではないのだけれども、「自分が一緒に働く人たちとの相性」というのは厳然として存在する。

自分がその科に向いていようが向いていなかろうが、上にいる人間にボコスカに「てめぇ向いてねぇよ」といわれたら、その職場環境は普通につらい。だからまあ、人のいいボスがいる場所を選んだほうがいいぜとぼくは後輩達に告げる。このアドバイスのほうが、あるんだかないんだかわからないその人の「職業適性」なんかよりも、よっぽど将来にわたってその人を救うことになると信じている。ただこの話は今日の本筋とは少しずれている。




さて、というわけで、病理医に向いていない人というのはいない。向けばいいのだ。そちらを。能動的に。ただし、20年、30年と病理診断医として働いていて、もし「成長」をできなかった場合、その人が繊細であればあるほど、「自分は病理医になるべきではなかった」という後悔が精神を滅ぼすことになるだろう。向いていないわけではない。給料だってずっともらえる。誰も別に自分をしかり飛ばしたりはしない。それでも、悔やんで胸をかきむしることになる。

これはぼく個人の意見であり、なんと断言すらはばかられるレベルの話なのでそっと書いておくが、病理医としてやっていく上で重要なのは、医学生とか研修医などというタマゴ段階での向き不向きなどではなく、病理診断医になってから、どれだけ継続的に勉強を続けられるかだ。なってからの方が重要なのだ。そこまでの人生で勉強した量なんて、病理診断医になってからの勉強量と比べたら凱旋門とホチキスの針くらい違う。違わなければいけない。

これは脅しではない。だからまだ迫力が足りないだろう。ここからはさらに脅しのニュアンスをこめることにする。

なにせ、病理医というのは、ほかの医療者たちから日々言われ続けるのだ。

「いいなあ患者に接しないなんて」

「当直しなくていいなんてうらやましい」

「ずっと座って顕微鏡みてればいいなんて最高だね」

もちろんこれらはすべて明確な悪意を秘めた揶揄である。そこらの医者と大して変わらない給料を、そこらの医者よりはるかにラクそうな姿勢・体勢で獲得し続けているぼくには、基本的に敵意が向けられる。寝られない10年目の医者はうらめしそうにいう、「そのしごと、やりがいあるんですか」。肌がぼろぼろになった20年目の医者がすわった目でいう、「その本読んでる時間も給料発生するってのがいいね」。

これを跳ね返すだけの何かが自分の中にないとこの仕事は正直つらい。他者のうらやみ、さげすみをいなして逸らして跳ね返すために、胸の電光掲示板に光らせ続けておかなければいけない一文がある。

「ええ、おかげさまで、脳だけで給料をいただく仕事ですのでね。」

ほかの医療職のみなさまが寝食を惜しんで体力勝負に挑むのと同じ、あるいはそれ以上の時間をかけて、脳を無限に成長させ続ける覚悟が必要なのだ。そうしないと、かえってつらいのである。もちろん、無限といったって、有限の値に無限に近づき続ける漸近線かもしれないのだ今のぼくは。それでも無限に成長しようという気概に違いはないのである。

少なくとも「55まではたらいたらあとは開業してのんびりだな」的な人生設計が頭をかすめるタイプの人間は、病理診断医を長く続けるごとに自責の念にとりまかれることになる。それでどれだけの仕事ができるのだろうかと。自分が病理診断医として胸を張って生きていけるだろうかと。




これだけ書くと「なあんだ、結局、勉強し続けるだけの精神力がない人は病理医に向いていないってことじゃないか。」といわれてしまいがちなのだけれども。

ぼくらはみな、医学部を受ける前に必死で勉強してここに辿り着いたのだということを、忘れてはいけない。

勉強以外の「向き・不向き」をあらためて探すことに比べたら、少なくとも、過去に一度は「勉強は向いているね」と大人達にいいくるめられた時期の記憶がある分、「勉強は向いてますよ」と旗を掲げるくらいなんでもないではないか。

そう、医学生が病理医になる上で向き不向きなどはない。みんな一度は通ってきた道だ。もうすでに、「君はそういう勉強には向いているよ」と認められてきた道だ。

だからなんのことはない。

病理医に向いている・向いていないなどという議論はいらない。ただ勉強し続ける覚悟だけあればいい。ぼくはだから全ての医学生にとって病理診断医はふつうになれる職業であるよと言い続けることになる。

2018年7月25日水曜日

はいはいお茶の初出はフラジャイルの何巻でしょうか

朝からやることがとても多いとわかっていた日、とりあえず朝食をとらずに出勤して2時間ほど働いた。そののち、病院のローソンが開いたのを見計らって、朝食を買った。

ついでにペットボトルのお茶も買った。

ふだん、出勤してから昼飯までの間はとくになにも食べたり飲んだりしていないのだが、この日は「朝食と一緒に買ったお茶」があったので、午前のあいだずっと、お茶をちびちび飲んでいた。

ふと思う。

スルスル飲めるしお腹がたぷたぷにもならない。「あれば飲める」し、どちらかというと、「お茶があるほうがうれしい」のだな、午前中は。

逆にいえば、日頃、午前の仕事中、ぼくはずっとカラカラだったのだろう。自分でも気づいていなかった。




イヤホンが壊れたときには、また少し違ったことを思った。午後の仕事中にはよく、イヤホンで聞こえるか聞こえないかくらいの音量にしぼった音楽を聴いている。新しいイヤホンが届くまでのあいだ、ぼくは、午後の無音に耐えていた。そこでまた考えた。

午前中は無音でもいっさい気にならないのに、不思議だなあ。

もしかすると、午前中も音楽を聴いてみたら、それはそれで快適なのかもしれないな。




午前中は脳がばたついているのだろう。お茶を飲む気も音楽を聴く気もわいてこないまま、メールに返事をしたり、原稿の手直しをしたり、後輩がみた標本のチェックをしたりしている。その間、とくに喉が渇いたとも耳がさみしいとも思わない。

バイオリズムには「欲望が表面に出てくるかどうか」みたいなリズムも含まれているのかもしれない、と感じる。そして、思ったよりも「本人が気づいていない欲」みたいなものもあるんだな、と思う。






たとえば午前中、ぼくの勤務する部屋の窓の外を、そこそこの音量で「お~い、お茶」といいながら走る車、みたいなのがあったとしたら、ぼくはそこで「あっ、お茶が飲みたいなあ」と思うだろうか?

それとも、「騒音うるせぇな、イヤホンでもするか」となるだろうか?

広告は、「自分がほんとうは何をしたいのか気づいた、と思わせる作業」だと聞いたことがある。

そんな魔法みたいなこと、人生の中ではそうそう起こらない。

いつだってぼくは、「たまたま」が連れてきたお茶に喉を潤しては「そうかあ、お茶を飲みたかったのかぼくは」と気づかされるし、「たまたま」が連れてきた無音にさみしさを感じながら「それにしても、四六時中音楽がないとつらいわけではないのに不思議だなあ」と首をひねる。

たぶん、ぼくは、カモだ。CMひとつにダマされて物を買うタイプのカモだ。

なのに世の中は、少々、広告がへたすぎるのではあるまいか?

2018年7月24日火曜日

病理の話(224) ヒーラの永遠

ぼくらは年老いて死ぬことをできれば避けたいと思うことがある。

まあ必ずとはいわない。年を取るのが自然なことだと悟っている瞬間もある。

ただ、たいていの場合は、できることなら老化は避けたいなあと感じている。それが人というものだと思う。



しかし、人間の体にはときおり、老化(経年劣化)しない細胞というのが出現する。

それは、がん細胞だ。

がん細胞を体の中から取りだして、培養液のなかで上手に育てると、ほとんど半永久的に育てることができる。

普通の細胞だと、そうはいかない。細胞分裂の回数には限りがあり、培養していると最後にはそれ以上分裂できなくなってしまう。分裂できなくなった細胞は、しばらくの間は生存しているが、やがて損傷し、死んでいく。

これは細胞レベルでの老化と呼ぶことができる。

でも、がん細胞は、事実上無限に培養し続けることができる。

世界中の実験室で、今この瞬間も、無数のがん細胞が育てられている。それらは、実験によってさまざまに手を加えられ、刺激を与えられ、薬を投与され、遺伝子をいじられ、光らされ、踊らされ、ゲルの中で泳がされ、溶かされてめちゃくちゃに見られ、とされているが、一部は「またきちんと培養するために」凍結保存されている。

おそらく永久になくなることはない。




1951年、元来は動物学者であったジョージ・オットー・ゲイは、ジョンズ・ホプキンス病院の組織培養研究所にて、ひとりの女性患者から摘出された子宮がんの細胞を培養することに成功した。

歴史上はじめて、人類が「人類の細胞を培養液中で育てた」のである。

この細胞は患者の名前をもじってHeLa細胞と名付けられた。当時の医学では「患者から取り出した細胞は誰のものか」という取り決めすらなかったため、この細胞は患者の了承を得ずに、世界中の実験室で用いられ続けた。まちにまった細胞だった。「ヒト由来の細胞を実験室で培養する」というのは夢の技術だったのである。

ぼくが大学院時代にいたころ、HeLa細胞を使ったことがある。ジョージ・オットー・ゲイの最初の分離からは50年近くが経過し、距離だって何千キロも離れた極東の町に、HeLaはやってきていた。北海道大学の中にあるマイナス80度のディープフリーザーの中で、チューブに入って大事に保管されていた。大学院生たちは分注されたHeLaをときおり溶かしてはFBS培地中で育てて実験に使ったのだ。

この記事を書くためにひいたWikipediaには少々感傷的な文章が載っていた。


”すべてのHeLa細胞は(最初に分離された細胞と)同じ腫瘍細胞の子孫である。これまでに世界中で培養されてきたHeLa細胞の塊の総計は(元の患者の体にあった細胞量)をはるかに凌駕すると推定できる。”



無限に生き続けるHeLa細胞は、しかし、実は完全に元と同じ細胞ではない。

継代(培養を続けること)を繰り返すにつれ、実験室ごとにこまかな遺伝子変異が蓄積し、HeLa細胞はその株ごとに少しずつ異なる形態を示し始めている。実験においては細胞ごとのわずかな違いが結果に影響することがあるから、慎重な研究者達は、よりオリジナルのHeLaに近い細胞が登録してある「セルバンク(細胞銀行)」に保存してあるHeLaの細胞株を買うのだという。



そう、不老不死には弱点がある。永遠に細胞分裂を続ける細胞の中には、DNAの傷やコピーミスが少しずつたまっていくのだ。人間を含めたあらゆる生命は、不老の道を捨てて、有性生殖による繁殖という道を選んだが、これはひとつひとつの細胞があまりに長く分裂し続けることによる

「澱(おり)の蓄積」

を避けたためではないか、と推察することができる。



汚いものをためこんででも永久に分裂しようとする存在こそががん細胞だ。

がん細胞には、いわゆる「散り際の美意識」がない。

だから、我々は、おおっぴらには「がん細胞の無限」をうらやましいとは思わないようにしている。

本当は心のどこかで、「不老、うらやましいなあ」とつぶやいているとしても、だ。

2018年7月23日月曜日

ウィンドウズ佐藤

パソコンがだんだん重くなってきた。大量にメモリを積んだ特注品だったのだが、さすがに買って5年経つ。よく今まで持ったな、というくらいだ。限界だろう。

キーボードはぶっこわれて外付けのキーボードを別に用意しているし、ブラウザ内はしばしば広告表示のときに激烈に動きが悪くなりいかにもマルウェアと戦っている予感がする。売りだった起動の速さも今や見る影もない。メールクライアントソフトはしばしば真っ白になる。

何もしてないのにぶっこわれたわけではない。

さまざまに使い倒した。

アップデートも大量に行った。

だからもう限界なのだ。

次から次へとアップデートしなければいけない製品というのは結局、出荷時に不完全な状態で売られているわけで、買っらあとはほうっておいても末永く使えるテレビとか冷蔵庫とかファミコンなんてものがいかにすばらしい製品だったかと古き時代を懐かしむ。




けどまあパソコンってのは人間を目指して人間を超えていくものだから。

人間だって日々、アップデートをしないと生き残っていけない。あらたな驚異にさらされ、気づかぬ恩恵を受けられなくなる。

同じようにパソコンはアップデートを繰り返すし、そのうちアップデートしたファイルでハードディスクがぱんぱんになり、動きが悪くなり、かんじんなときに寝落ちする。まったく愛着がわくこと程があるにもこの上ないったらありゃしない。




買い換え。




ぼくはMacを買わない。使わない。iPhoneもiPadもMacbookもデザイン、コンセプト、使い勝手、すべて大好きだけど、Macを使っている人たちが基本的にあまり好きではないからだ。本人はなんにも悪いことしてないんだけどその本人を使ってどうこうしている人たちと合わないので本人とも距離をおいてしまう。そんなところも、人間に似ているなあ、とか思う。




だいたいスタイリッシュなパソコンが好きな人というのはだめだ。

多少のどろくささ、多少の得手不得手、多少の滋味みたいなものと根気よくつきあうような人のほうが、一緒にいて居心地がいいに決まってる。

あれ、パソコンを人に例えていたのか、人をパソコンに例えていたのか、なんだかわからなくなってきた。

とにかくぼくはWindowsだ。仕事ではWindowsしか使いたくない。





という文章を今、自宅のMacで書いている。

なあに、何もまちがってはいない。これは仕事じゃないのだから。

2018年7月20日金曜日

病理の話(223) ねえちゃんと診断しようよ

日本病理学会にはコンサルテーション・システムというのがある。

これは簡単にいうならば、

「難しい診断があったとき、言ってよね!

病理学会が専門家を紹介してあげるからね!

お金はかかんないよ!」

というシステムだ。優しい。姉か。



病理専門医はみな日本病理学会の会員なのだが、専門医としてしばらく働くと「学術評議員」になることができる。すでに評議員である2名に推薦してもらえばすぐなれる。だから別に偉いものではない。偉いものではないのだが、評議員になると、病理学会のために学術で貢献しなさいよ、という命令が来る可能性がある。だから評議員というのは基本的にまじめな人が多い(ほかの学会はもう少しなるのが厳しいと思うが……)。

学術評議員になるとき、「自分の専門とする臓器・分野」を登録する。これにより、病理学会は、「ほうほう市原は消化管が得意なのだな。そしてなんだこの画像・病理対比というのは。それは普通の病理医はみんな得意ではないのか。」みたいに、会員の動き(専門性)を把握するのである。

専門的な世界で業績をあげ、論文を書いて有名になると、病理学会が

「よし、あいつは専門家として立派にそだっておるな。では○○の分野で難しい症例があったらどんどんやつに相談しよう。させよう。」

と、専門家とみなす。ぼくはまだみなされていない。ぼくは一生みなされない気がする。なにせ、みなされているのはたいてい、WHO分類に関与するような偉大な病理医ばかりだ。

というわけで、みなされないぼくのようないち病理医は、もっぱら、偉い病理医を「頼るほう」の立場である。

冒頭に書いたコンサルテーションシステムというのは、すなわち、「病理学会が認めた超・専門家」のもとにプレパラートを届けるシステムである。ぼくらはコンサルテーションシステムを通じて、専門家から診断に対する意見をもらえる。





あまりに便利で都合のよいシステムだけれども、気を付けなければいけないこともある。

コンサルテーションシステムは無料だ。コンサルタント(専門家)は、このシステムからは全く収入が入らない。

基本的に善意によって運営されているシステム。つまりはクソである。姉の善意にすがっているナメくさった弟なのである。



まあ、姉にも得がないわけではない。それは、

「全国で難しい難しいといわれた症例がばんばん送られてくるので、難しい症例を集めることができる」

ということだ。難しい症例を多くみれば、それだけ、その分野における専門家としての価値は高まっていく。けれどこれって「勉強になるから黙って難しい症例をみて感謝しろよ」みたいなかんじだ。DV感すらわいてくる。許すまじ。姉を守れ。



そうそう、もうひとつ、注意点。

弟は、姉(コンサルテーションシステム)からもらった回答を、そのまま「診断書」として患者にわたしてはならない。

あくまで診断に責任をもつのは、弟(最初にその症例にぶちあたった病理医)だ。

弟(主治医)が姉(コンサルタント)に責任を押しつけてはいけない。あんないい姉ちゃんに迷惑かけるなんて許せない弟だ。

弟(主治医)は最後まで自分の症例に責任を持たなければならない。姉の意見はあくまで「参考意見」である。それをふまえて診断をくだすのは弟だ。




と、まあ、今のところはこのように、病理学会は姉……コンサルテーションシステムを使って、困難症例に対する救済方法をもうけている。

けれどこのシステムはあと15年くらいのうちに、大きく変わることになる。



プレパラートの画像をPCにとりこんで、オンラインでプレパラートがみられるようになる「デジタルパソロジー」、「ホールスライドスキャンシステム」。

これらが普及することで、病理医はプレパラートの呪縛から解放される。

すると、病理診断は、「全国どこにいても診断可能」になってくる。プレパラートがある施設にこだわる必要がなくなる。

「遠隔コンサルテーション」という概念自体がなくなるかもしれない。だって、プレパラートを取り込んでしまえば、そのデータは世界のどこでみようと等価値なのだから、「施設の主治医」というしばりは必要なくなるのだ。

難しい症例に限らず、あらゆる症例を、世界中に最初から振り分けるシステムが主流になる……かもしれない。

「主治医」が半ばいらなくなり、全例が「専門家へのコンサルト」になることすら可能だ。




これは……夢である。現実ではない。




現実ではないんだけれど、病理医というのは本来それくらいでいいんじゃないかな、という気もする。

全病理医が自分の専門臓器の診断に特化すれば、自分の苦手な分野を診断「しなければいけない」時間が減り、かわりに得意な分野に対する診断、研究、教育に特化することもできる。今以上に基礎研究と臨床診断との両方に手がまわるようにもなるだろう。




……ただ現実はそう簡単にはいかないだろうな、というのもわかっている。

病理をすべてデジタルデータにするというのは実は難しい。一番難しいのは、「デジタルとりこみする前のプレパラート」を誰が作るのか、ということだ。切り出し、染色。ここはどうやってもデジタルデータにはならない。プレパラート情報はいくらでもデジタル化できるが、臓器の肉眼診断や、標本作成作業は、どうしても人の手が必要なのだ。

なんとなく、この「人の手を離れることに対する抵抗」とか、「一部最後まで残ることになる人の部分」が、デジタル診断における無視できない問題として残り続けるのかもなあ、という予測をもっている。




さらには、診断という究極に人生をなぐりつける労働において、「病理の主治医」が不在になることなど有り得るのだろうか……という気もする。

気もするんだけど、ぼくはこのあたり、もっと慎重にぶちこわすべきなんじゃないのかなあ、とも思っている。

2018年7月19日木曜日

循環を専門とする医者

若いころに大人(主に指導者)のやりかたをみて、

「なぜそんなまわりくどいことを言うのだ」

「なぜそんなわかりづらいことを延々としゃべるのだ」

と不思議だったのだ。しかし、理由がだんだんわかってきた。つまりぼくは大人になったのだ。大人のやることがバカっぽく見えなくなってきている。それはすなわちぼくが大人になったということだ。



なぜ医学教育の際に、過去の偉人の伝記みたいな話をえんえんとしたがるのか。

ぼくにはそれが全くわからなかった。

ウィルヒョウがどうした、ファーバーがなんだ、ワインバーグがどうした、花房秀三郎なんざ知らんぞ、と思っていた。いいから最新の病理診断の話をしろ、化学療法の要点を話せ、RASはいいからその先のシグナルをよこせと思っていた。

けれどぼくは大人になったので、そういう「歴史」がつむぐ壮大さみたいなものにだんだんと惹かれるようになってしまった。



だからぼくは歴史に学ぶ必要がある。

「若者は大人が涙声で語る歴史にはたいてい、興味がないのだ」ということを、歴史から学ぶ必要がある。

ぼくは自分がたどってきた歴史を今必死で思い出している。自分史に学ぶのである。

若い頃、そういう話がイヤだった理由はなんなのか。歴史を学べと称する大人の何が気にくわなかったのか。

そのあたりの記憶をなんとか取り出そうとしている。



こうして自分の歴史を語りブログにしたためることを、蛇蝎のように嫌う若い人間というのもいるのかもなあ、などということを、すっかり記事が書き上がったあとにふと思う。




大人というのはいつもうっとうしいものだ。

そして、「俺ってうっとうしいよね」と卑屈になる大人というのが、ぼくはそもそも大嫌いだったはずなのだ。

2018年7月18日水曜日

病理の話(222) 2の臓器の話

2が並んだので2の話をしようと思うのだが、体の中には2つある臓器と1つしかない臓器がある。

進化の過程で、臓器を2つ用意することがどう有利だったのだろう?

あるいは、臓器1つだけで運用することに何かメリットがあったのだろうか?

そういうことを考えてみよう。今日の話はいつもに増して、医学的根拠がないので、まあ、読み物というか、エッセイとして読んでほしい(いつもだけどさ)。



まず、人体というのは基本的に、「中心に1つの芯を通す」という系と、「左右に同じものを配置する」という系とが組み合わさってできている。

たとえば、

 ・消化管

は、体の中心を口から肛門までつなぐ、一本の芯だ。すごいくねくねしてるけど、基本は一本道である。

このメインストリートに、肝臓が胆管を通じて胆汁を流し込むし、膵臓が膵管を通じて膵液を流し込む。

肝臓や膵臓は、消化管という目抜き通りに直結して物資をやりとりする、巨大ショッピングビルみたいな存在である。

消化管、肝臓、膵臓など(ほかに食道もそうだし、胆嚢もそうだ)を、まとめて「消化器」と呼んでいる。すべて、体の中には1つずつしか存在しない。



なぜ消化器系の臓器は体の中に1つずつしかないのか。

たぶん、だが、

「食べ物という異物を外部からとりこむとき、『入国審査』をする場所が複数あると、セキュリティ的に不利」

だったから、じゃないかな。



ほんとうは2つとか3つとか用意したかったんだと思う。肝臓とか膵臓とか、生きていく上でなくてはならない臓器であって、本当のところは「控え」をほしかったはずだ。

けれど、これらを消化管の周りに複数配置するよりも、十二指腸のファーター乳頭という出口に「1本化」することを、人体は選んだ。

それはきっとリスクマネジメントだったんだろう。消化管の中には、生体にとってそのまま入国してもらっては困る「毒」が複数存在する。これを絶妙なバランスでいなして、体に必要な栄養だけを吸収するという高度な仕組みに、あまり余計な枝葉をいっぱいつけてしまうと、それだけミスやエラーが起こる頻度も増えてしまったのではないか。




リスクを最小化することを選んだ(?)消化器に対し、ほかの臓器は基本的に、2つずつ存在する。

・腎臓
・副腎
・甲状腺(正確には2つじゃないんだけど、真ん中でくびれて左右それぞれに存在感を出している)
・精巣
・卵巣

これらは、合計2つ配置されている。共通するのは、「消化管と直接関係しない」という点である。入国審査以外の部門はきちんと複数運用しているわけだ。空港にも売店やレストランはたいてい複数存在するだろう(よっぽどの田舎空港ならともかく)。




じゃあ、心臓は? 消化管とは連続していないけれど?

「心臓が2個も3個もあったらそりゃいいだろうさ! そういう魔王だっている!」

でもヒトである限り、心臓は1個しかない。なぜだろう。こんなに大事な臓器なのに。

つまりは、おそらく、「あえて1個で運用する必要があった」ということになる。




推測するに、「血液の循環を1本化せず、ポンプを2つ以上用意すると、2つのポンプそれぞれが生み出す血流が衝突したり合流したりするところに乱流ができ、血液が滞留して、その結果血栓ができやすくなり、血栓症で死ぬ確率が上がった」のではないか。

まったく科学的じゃないけどさ。

心臓を複数用意した動物モデル、というのをコンピュータシミュレーションで作れば、きっと、血栓ができそうな乱流があちこちに出現するんじゃないかなー、と思う。




どうやって科学的にこれらを証明すればいいのかは皆目わからない。

けれど考えるだけ楽しいから許してほしいんだよな。





そうそう、肺はなぜ左右に1つずつあるんだろう。

結局気管で一本化するのに。

わざわざ左右に分けるなんて。それだけDNAのプログラムも複雑になるだろうに?




……なんとなく、だが、「肺は臓器の中では特に大きく、しかも軽い」というのがカギじゃないかと思う。

こんな大きくて軽い臓器を1個だけ用意すると、体の左右のバランスが崩れてしまうのではないかな。

いや、うーん、まだほかにも理由はあるだろうなあ。魚類とか両生類から構造をしっかり観察すると、もう少し見えてくるものがあるかもしれない。




今日の結論は、実は最後にある。

すでにかなり高度な完成品であるところの人体だけを見ていると、「なぜこのような形をしているのか」を推測するのはかなり難しい。「そういうものだからだよ」と言いたくなってしまう。

けれど、進化の過程の中で、より原始的な構造をもつほかの動物と比べて、人間だけが明らかに違う構造をしている場合、そこには適者生存の過程でなんらかの「有利だった理由」が存在するはずだ、と考えることができる。

ぼくこういう話大好きなんだよ。まあ病理かんけいないけどな。

2018年7月17日火曜日

脳だけが旅をする

学会場や空港、新幹線の待合室などでPCを取り出して、論文を書いている人を何度かみたことがある。

もちろん、その中の数人は、あるいはエロ動画でも見ていたかもしれないし、けものフレンズでも見ていたかもしれないのだが、なんとなく、彼らは論文を書いていたんだろうなあ、という気がしている。実際に、知人に話しかけてみたら論文を書いてたよと微笑まれたこともある。

ぼくはそういう場所でなかなか仕事ができない。

だから、移動中のわずかな時間にPCを取り出す人を見るとつい、ひがんでしまう。すごいなあとあこがれていることは間違いないのだが、あこがれが焦げ付いて、そこまでできる人だけが偉くなれるんだろうな、どうせぼくには無理だよ、と心が炭化してしまう。

しょうがないので、旅に出るときには本を持っていく。ふだん読めないような医学雑誌もそうだけれど、ここぞとばかりに小説やエッセイを読む時間にあてる。仕事だけはする気にならないから仕方ないのだが、ぼくのそういう姿を学会の前に見つけた人からは、「おっ、余裕だね」と茶化されたりもする。

余裕なんてないんだけれど。




今ぼくは新潟空港にいる。これから札幌に帰る。持ってきた本をすべて読み終わってしまい、手持ち無沙汰になって、うーん、もしかしたら論文とまではいかなくとも、たまっている原稿くらいは書けるんじゃないかな、と、珍しくPCを起動してみた。

PCの熱が太ももに伝わって、じっとりと変な汗をかく。「第4章」と表題をつけたファイルを開く。

気付いたらこうしてブログを書いていた。だめか……なぜ旅の最中は仕事ができないんだろう?





「水曜どうでしょう」の嬉野Dの奥さんは、いつも何事か働いていないと落ち着かないタイプなんだそうだ。いつかどこかで読んだことがある。

けれども、旅の間だけは、ぼうっとしていられるんだそうだ。何もしない時間が心地よくなるのだそうだ。

嬉野さんが奥さんに、なぜだい、とたずねてからのやりとり、詳しくは忘れてしまったが……。

「自分は今、旅という有意義な行動をしているから、ほかになにもしないでいられるのだ。」

というような回答だったと記憶している。




ぼくは旅の最中に仕事ができない。しかし趣味の読書はできる。

つまり、ぼくは、旅を仕事だと考えているのかもしれない。

旅という大きな仕事の最中に、さらに別の仕事に浮気するということが、うまくできないのかもしれない。

だから、仕事中の息抜きとばかりに、こそこそと本を読んで楽しんだりしているのかもしれない。




ということは……。

いつか、のんびりと、趣味の旅を楽しむ日が来たら。

ぼくは移動中に仕事をしてしまうのではないか?



2018年7月13日金曜日

病理の話(221) がんとサイコロ

がんはなぜ「やばい」「こわい」のか? ということを真剣に考える。

すると話はけっこう簡単で、

「がんは、死ぬからやばい」

ということになる。

でももう少しきちんと説明しないといけない。「ことばが足りない」というのは、人間としてよくないことだ。

きちんと、くわしく、わかりやすく書こう。




「がんは、いつか死ぬからやばい」。

このほうが正確である。「いつか」に、まず盛大に幅がある。

がんだと診断されてから死ぬまでに200年を要する場合がある。200年! そんなの絶対にがん以外の病気で死んでしまうではないか。だったら、そういうタイプの「がん」は、恐るるに足りない。というかそもそも「がん」という名前を与えるのをやめたほうがいいだろう。みんなびっくりしてしまうから。

逆に、がんだと診断される間もなく、患者にがんだと悟られるひまもないくらいに早く育って人を死に至らしめるがんだってある。

がんだと診断されたら2,3年で命にかかわるようながんもあるし、

がんだと診断されても10年くらい治療で生き延びることができる、がんもある。




そんなにがんに幅があるとして、もはや、「がん」というくくり自体がおおざっぱすぎるのではないか、と、普通の人は考える。

だから、「早期がん」とか「進行がん」みたいな考え方も生まれる。

けれどもこの2つの切り分けでもまだ足りない。




がんというのは確率の病気である。

生命は生まれた瞬間から、面が10000個くらいあるサイコロを振り続ける。

毎日。毎日。なんなら、毎分、毎秒。

そして、そのサイコロの面のうち、100個くらいに、「がんになる」と書いてある。

人はこうしてがんになる。

ところが、がんになると、今度はまた別のサイコロを投げる。

そのサイコロには、「がんを免疫が倒す」みたいな面が9900個くらい書かれていて、たいていはこのサイコロによってがん細胞が倒される。

ところがその中のまた1,2個くらいに、「がんが生き延びる」と書かれている……。



毎日、毎日、サイコロを振り続ける。

タバコを吸うと、サイコロの面が少し書き換えられる。

「がんになる」「がんを免疫が倒す」の面の数がかわる。

けれどもやっていることはずーっとサイコロだ。

確率の中でずっと生きていく。



こうして狭い確率の中で、体のどこかにできあがったがん。

途方もない低確率を、人生のどこかで達成してしまった結果、できあがったがん。

こいつがまた、サイコロをふる。

「早く増える」「遅く増える」「ばらばらになって転移する」「ばらばらにならない」

このようなサイコロを延々と振り続ける。



もはや、同じ「がん」といっても、生命に重大な危機を及ぼすようになるまでの間に、サイコロでわけがわからないことになっている。




がんはなぜ「やばい」「こわい」のか? ということを真剣に考える。

サイコロの話を完全に理解すると、「がんにも、やばくないもの、こわくないものがあるし、やばいもの、こわいものもある。いろいろである。」ということがわかってくる。

すると、一番やばくてこわいのは何かというと、そういうことを全く知らないまま、「がん」と聞くだけで思考停止してしまいがちな、ぼくらの「先入観」ではないのかな、などということも、考えの隅っこに少しだけ浮かぶようになる。




がんは様々だ。だから、人それぞれに細かい診断をして、オーダーメードで立ち向かう。

それこそが現代のがん診療であるということを、世の中に広めきることができるかどうか、不安である。やばい。こわいものがある。

2018年7月12日木曜日

9回裏に出てくるのはリリーフ

死生観について少し考えていて、なにごとか書こうかと思ったのだが、今の自分の身の丈に合った死生観となると「他人の死」を語るところまでしかいかず、「自分の死」を語るに達していないように思われた。

つまりは想像力の問題なのだ。

ぼくは自分がどのようにして死を迎えるか、あまりうまく想像できていない。想像力が未来を映し出すところまでいっていないのである。

医師なんだから、自分の死の間際になにが起こるかなんて、ちょっと考えればわかるだろう、と言われてもしかたがない。

ぼくには今まで語ることもなかったひとつのエピソードがあって、その記憶を思い出すとき、自分がどのようにして死に臨むのかをほんとうにうまくイメージできなくなってしまう。イメージできないというか、イメージをぼくがしてもしょうがないのだろうな、という気になってしまうのだ。

「自分の意図するところとは別の部分を気にしながら最期まですごすのだろう」という予感。

たぶん死に臨む自分を囲む人々、それは他人かもしれない、家族かもしれない、わからないのだが、そういう人々の考える死生観に押しつぶされるようにして自分の死生観が完成するのではないか、という、弱くも折れない確信があるのである。



短い人生、自分の好きに生きていけばいいじゃないか、という人になかなか共感できない。理解はできる。わかる。しかし共感をしていない。

ぼくは人生というものに対して、他人の形作ったレリーフの中に浮き上がってみえてくるようなイメージを持っている。

ぼくの人生は、自律的に何かのオブジェとして闇の中に立ち上がるものではなく、他人というパーツが重合してできたスキマに向こうから光をあてたら見えてきたナゾの形状こそがぼくの人生だろうと考えている。

共感していただかなくても結構だが、理解はしてほしい。

「自分のやりたいことをやる」なんて一番安易でつまらない。イージーモードの何が楽しいんだ、とすら思っている。

まして、人生の最後、人死という特異点を自分の好きに生きた(死んだ?)ところで、その点をスタートとして他人の中で続いていく生のストーリーにはどのみち関与しきれない。

「生きるにしても死ぬにしても、ぼくの生き方を決めていくのは多くの他人が作ったストーリーの集合体になるだろう」

という思いを強くしている。



だからぼくは今、他人の死をめぐるエピソードにとても興味がある。それらのエピソードを最大公約数的に辿った先にぼくの死があると思うのだが、あるいは最小公倍数のように話を広げていって、最後にスリットのように残された場所に光を当てたらそれがぼくの死になるかもしれない。

そこらへんはまだわからない。想像力が足りないのである。

2018年7月11日水曜日

病理の話(220) 病態生理のいろどり

いまさらだが、「病態生理」の話がおもしろくてしょうがない。

人が苦しんでいる病気を「おもしろい」とはなにごとだ! と怒られるかもしれないのであまりおおっぴらに言いたくはないのだが、人体というものが大変よくできているのとおなじように、病気というのもとてもよくできているのだ。

生命が「なぜこうなっているのか」「どのように成り立っているのか」はワンダーランドだ。本当にすごい。勉強しても勉強しても新しいシステムが出てきて、新しい解釈が生まれて、ほんとうに終わりが無い。最高のエンターテインメントになる。

それとおなじで、かくもすばらしい生命の防御機構をすり抜けてまで「病気」という状態を維持し続ける、病気のメカニズム(病態生理)というものもまたあっぱれなのである。



だから最近ぼくはいろいろと勉強をしている。

日常、なんとなく、「細胞核が大きいから、がんだ」とか、「好中球が多く出現しているから、急性炎症だ」みたいに惰性で診断をしていた自分をグーで殴りながら。





たとえば。

もともと、組織の中には、血管が「目立たぬ程度に、規則正しく、細かく」配置している。

正常の組織を顕微鏡でのぞくと、あまり「血管」は気にならない。

Google mapで、住宅街を規則正しく走行する小路には目がいかないのと同じだ。

普通はまず、家とか大きな建物に目がいくだろう。



しかし、ここに炎症が起こると、小路の中にいっせいに水が流れ込む。

そして、家と家とのすきまがグッ! と広がる。

小路が水によって広がってしまうのだ。

この水の増加によって、小路だったスペースに、大量の炎症細胞が流れ込む。

「炎症」がはじまる。



このとき、顕微鏡で組織をみると、「家と家とのすきまが妙にはっきり見える」ようになる。

すかすかしていて。

そのすかすかの中に、好中球が大量に出現している。

このすかすかを「蜂窩織炎」とか「phlegmonous(蜂巣状)炎症」といったりする。

ハチとかハチの巣という名称が用いられているのは、まさにハチの巣のように間がすかすかになる時期の呼称だからだ。




こういったことを、じっくり、最初から、きっちりと勉強しなおしている。

ぼくよりあとにこの世界にやってくる人に、彩りをそえて病態生理を伝えられるようにしておきたいなと思っている。

2018年7月10日火曜日

めちゃくちゃ読みづらくてすごいいい本です

毎朝この時間にぼくがブログの更新通知をすることを、

「閑散とした早朝の繁華街の交差点にどこからやってきて、道を掃き清めているおじさんみたいな感じ」と言い表した人がいた。

先日のワールドカップの際にはまた違う人から

「普段、静謐な時間にそっと更新されているブログが、今日は渋谷の雑沓にもみくちゃにされている」

という主旨のツイートがされていた。





タイムラインには24時間誰かがいる。

体内に常に血液が流れているようなイメージを持っている。

流動が止まることはない。ただ、流れが多い、少ない、早い、遅いという違いはある。

早朝4時ころというのは一番動く人が少なく、空気が冷え切っていて、足音が遠くまで届くかんじがする。

何か世に刺激をもたらすようなことがあると、普段はおとなしくしている人たちがぐんぐんとうごめいて、平時には見えていなかった交流がなされ、スキマが拡張し、ほてる。

まるで炎症の過程をみているようだなあと思う。




京都大学の真鍋俊明先生の本に書いてあった言葉を引用する。少し長いがそのまま書く。

”少し余談になりますが、正常の構造がどうなっているかを知ろうとする場合、生理的状態のみを見つづけても、その本当の姿が見えてこないことが多々あります。ところが、病的状態―これを私は”ゆさぶりのかかった状態”といっていますがーをみることによって、正常構造あるいはその機能が浮き彫りになってくるのです。

(中略)

異常状態を深く吟味すれば、正常構造やその機能を類推したり、より良く理解することができます。”

(皮膚科医のための病理学講義 ”目からウロコ”の病理学総論 「生命」からみた病気の成り立ち(2018, 金芳堂)より抜粋・引用)




ぼくは毎朝早い時間に、血流が乏しく、組織間のコントラストが弱い状態の世の中を眺めて、なにごとかを思っている。ワールドカップ決勝トーナメント1回戦の日、試合が終わったあとにはからずも「滲出」してしまった人々は、くちぐちに、これから職場や学校にいくのだということ、一日をどう過ごすつもりかということ、先ほどまでの時間に対する感謝と悔しさ、これから何をどう楽しみにしていきたいかということなどを、ぼくの前で浮き彫りにしていた。

ああこれは炎症をみて生命を理解しているのだなあ、と思ったりした。

2018年7月9日月曜日

病理の話(219) 膵臓のできるまで

人間の膵臓(すいぞう)は、細長くて中身のつまったカタマリで、だいたい、手をパーにしたときの親指から小指くらいの長さ、くらいの長さがある。

膵臓の役割は大きくわけて2つある。

 1.食べ物の中に含まれているタンパク質を消化するための「膵液(すいえき)」を作って消化管の中に流し込む

 2.インスリンなどのホルモンをつくって血管の中に流し込む

である。流し込みまくりだ。流し込む先が2か所ある。

で、「1.」のために、膵臓の先っぽは十二指腸に衝突している。突っ込んだ場所にファーター乳頭という出口があり、膵臓が作った膵液はこの出口から十二指腸の中にばらまかれる。うん、人体というものは、ほんとに、うまくできている。

というわけで、膵臓という臓器は、「十二指腸に側面から突っ込んでいる、カタマリ」だ。ぼくはもうそういうものだと思っていた。




ところが。

先日、ある生命科学実験の本を読んでいたら、「マウスの膵臓」の話がでてきて、これに驚かされた。

マウスの膵臓は、ヒトのように、カタマリの形をしていなかったのだ。

「腸のまわりに、なんだか雑にへばりついている」のである。スプラトゥーンのインクみたいなかんじで。

人間の膵臓とはまるで違っていた。カタマリじゃないから、一見、「臓器」という感じがしない。

本当におどろいた。まあ、マウスを使った実験をなさっている方からすれば、何をいまさら、という感じなのだろうが……。

種が違うと臓器ってここまで変わるのか、という衝撃を受けた。

「お魚だって心臓とか消化管とかまるでヒトと違うんだから、動物の種類が変われば臓器だって変わるの、あたりまえじゃん。」

といわれても仕方ないけれど。

おなじほ乳類であれば、臓器のカタチなんて大差ないだろうと、どこか思い込んでいた。






一般に、生命は高度になればなるほど「分業」がはっきりしている。

膵液をつくる細胞がきっちりひとカタマリになって膵臓となっているし、胆汁をつくる細胞がちゃんとひとカタマリになって肝臓となる。

似たようなお店は1か所にかたまっていてくれたほうがユーザーも便利だし、お店側も「だいたい似たようなインフラ」を使いまわしているので便利だ、ということなのだろう。ただ、最初からそういう便利な配置をしていたわけではないんだよな、ということを、マウスをみていると気づかされる。




長い歴史の中で、生命はほんとうに気まぐれに、さまざまな「変化」を来した。

その変化の中に、「膵臓は一か所に固めてカタマリにしよう」というものがあったのだ。

でも、逆に、「膵臓をもっとばらばらにして、あちこちに散らばらせる」ものもあったはずだ、というのが今の科学の考え方である。

生命に起こった変化というのは、最初から「意図」とか「目的」をもって起こったわけではない。

変化は常にランダムに起こる。

膵臓が縦長になった生命もあったと思う。

膵臓がマウスよりももとずたぼろになった生命もあったのではないか。

膵臓が肝臓とくっついてしまった生命もあったかもしれない。

そのような多様なバリエーションが、それぞれ勝手に「継代」していくうちに、たまたま「生きていくのに得が多かったグループ」だけが生き残った。

残りの、「生きていくのにちょっと不利だったグループ」は滅んだ。

そういうことだと考えられている。

今、少なくともマウスより高度だとされているわれわれヒトは、「平たい顔族」風にいえば、「膵臓が固まっている族」なわけだ。膵臓が固まっている族は、適者生存の理を生き延びたのである。





さて。

進化に終わりはない。

変化に終わりがないからだ。

たぶんぼくらヒトも、気づかないうちに、あちこちの遺伝子がランダムに変化している。ぱっと見では気づかないくらいの臓器バリエーションも出てきている。

これらが長い長い年月にさらされているうち、次第に、「生きていくのに有利なグループ」が残っていく。

ずっとずっと未来、ヒトが進化した末に現れる「ヒトならぬ生命」において、膵臓はどういう形をしているのだろう。

今の我々が考えもつかないような形に変わっているかもしれない。

それを見るのはぼくらヒトではないのだけれど。

2018年7月6日金曜日

一人して流星になったみたい

定期購読を増やそうと思う。

今まで定期購読していたのは「本の雑誌」と「胃と腸」。いとちょう。響きがいいよね。

そして先ほど、急速に気がついた。

雑誌「病理と臨床」を定期購読していなかったことに……。

それは病理医としてどうなんだよ、ということに……。



まあ言い訳をするならば、「病理と臨床」は病院の図書館でも定期購読しているので、図書館に行って読めば金がかからない。

それで十分だと思い、ここまでやってきた。

自分にとって重要な号だけを個人的に買い、それ以外の号はまあ借りて読めばいいや、くらいの気持ち。

けれど、なんだろう。

やはり自分の金で自分のものにした本が、自分の知恵を一番増やすんだぞ、みたいな、ちょっと確実に何かが摩耗したかんじの強迫観念にとりつかれた。

「ああ、病理と臨床を定期購読しなければ!」

ぼくは思わず立ち上がってそうつぶやいた。スタッフがびくっと肩をすくめた。「そういうのは心の中で声を出して下さい」。

恥ずかしさを無視する。

出入りの書店に電話をかける。

「病理と臨床の定期購読をお願いします。」

まさに必要とされるのはこのスピード感であった。




一連の自分の動きがコミカルに感じられた。ちょっと演劇はいってるな、とも思った。

そこまで演出して本を買ったら、もう読まないわけにはいかないね。言い訳はできないよね。

そこまでするんなら読まないとだめだよね。

ああ、いいよ。むしろそうなるように自分を仕向けているんだよ。

……たぶん、これがぼくの無意識が仕込んだ「手段と目的」なのだろうな。





「SNS以後」のぼくは、たまにこれをやっている気がした。

「行動するとき、いちいち他人に宣言しなくていいんだよ。そういうのはかっこわるいよ。」という人もいた。

けれどぼくはそうは思わなかった。

毎日歩いて目を配る。

そこには、膨大な量の選択肢がある。

自分が取り得る行動が、無数に提示されている。目の前を通り過ぎていく。永久に戻ってこない回転寿司だ。

全部の皿を拾って食えるほど胃が強くはないし、寿命も限られている。

そんな中、何かに本腰いれて取り組もうと思ったら、

 宣言して、

 後に引けなくなる、

ことが最も大事だと思ったのだ。

ぼくはそうやって、今までいろいろなことを無理矢理やってきたのだ。







「病理のポータルサイトをいつか作りたいと思っています」と最初に宣言したのはもう数年前になると思う。場所は、Twitterではない、Facebookだったと記憶している。

だからこのたび、開店休業状態だったFacebookページに、突然書き込んだ。

みんなゲラゲラと笑っていた。

 「あいつほんとにやりやがった。」が左大臣。

 「後に引けなくなったんだろうな。」が右大臣。

 「そうやっていっつも大騒ぎして有言実行していけばいいんだよ。」が中央フリーウェイ。



ぼくはそういうやり方を続ける気でいるぞ、と、ここに宣言しておく。

2018年7月5日木曜日

病理の話(218) 病理写真のコツ

超~絶マニアックな話をするので覚悟して欲しい。

……といっても「病理の話」を読みに来ている時点で、明らかにマニアックな内容を所望している読み手とお見受けするので、まあそんな前置きは不要なのかもしれないが。



臨床医療者たちは、日常診療の中でときおり、

 ・珍しい症例

 ・勉強になった症例

 ・難しくて診療に苦労した症例

とすれ違う。そのとき、本人がただ珍しいと驚いたり、勉強になったと喜んだり、難しいと頭をひねったりして終わってはもったいない。

その貴重な体験を、世界中の医療者達に伝えてあげれば、次に同じ症例に出会ったほかの医療者たちが喜ぶだろう。参考にするだろう。同じ間違いをおかさなくて済むだろう。ただちに適切な診療にたどりつけるだろう。


だから学会に持っていく。研究会で自分の経験した症例を提示して、列席者たちにも頭をひねってもらう。論文に書いて、世界中の人に読んでもらおうとする。




このとき、「病理の写真」が必要になることがあるのだ。




いまどきの顕微鏡には、専用のデジタルカメラが外付けできるようになっており、細胞を拡大して写真をとることができる。

で、この「細胞像」というものは、厳密な学会発表とか論文執筆においては欠かすことができない、大事な情報だ。

だから、ぼくら病理医はときおりほかの医療者たちから、「写真を撮ってください」と頼まれる。

どれくらいの頻度で頼まれるかって?

そうだなあ……。

浅草の雷門の前をうろついて、海外からの旅行者にシャッターを頼まれるくらいの頻度……。

いや、もっとだ。

売上げのよくないメイドカフェの従業員がしきりにすすめてくる有料チェキ、くらいの頻度。

それだと多すぎるかな。

まあ、そこそこよく頼まれる。



で、この話は前にもちょっとだけ書いたと思うんだけど、今日の「超絶マニアックな話」はここからだ。


病理の写真をとるコツをお教えしようと思う。


誰の役に立つんだ。ゲラゲラ。



【臨床の医療者たちによろこばれることが多いと言っても過言ではないと申し上げるにやぶさかではない、病理写真の撮り方】


写真をとる病気が「限局性」か、「びまん性」かを判断する。限局性の場合はAに。びまん性の場合はBに進む。

<A. 限局性病変>

 A1. 写真はもっとも拡大倍率の甘い・全体像がうつる・ロング・すなわち「ルーペ像」からとる。
 9割9分の臨床医療者たちは、最強拡大の組織像にあまり興味がない。人として想像がおよぶレベル、すなわち「そんなの顕微鏡でみなくても虫眼鏡で見れば十分わかるじゃん」くらいの弱い拡大倍率の写真が、いちばん受け入れられやすい。

 A2. 次に拡大を少しあげる。このとき、「病変の境界部」を必ず撮影する。病変じゃないところと、病変部との、キワ。ここからが病気だよという端境の部分。だって、臨床家たちが診断をする際には、けっきょくその病変が「周囲とどう違うか」を判断して診断しているわけだから、組織写真もやはり「境界部」からスタートするのがいい。

 A3. そして拡大を徐々にあげながら、病変の中心部を撮影する。このとき、ひとことで「中心部」といっても、病変にムラがあるならば、そのムラ、もしくは模様の違いごとに、写真を撮っておくとよい。組織の見た目が違うということは、臨床のひとたちが画像でみたイメージも違うということだ。きっと、対比(照らしあわせ)ができる。

 A4. さらには臓器ごとに、「お作法」ともいうべき撮り方を覚えて置く。
  A4-1. 消化管ならば必ず粘膜筋板の走行に着目した写真を獲ること。
  A4-2. 肝臓ならばグリソン鞘の配置や個数を必ず考慮した写真を撮ること。
  A4-3. 膵臓ならば主膵管や総胆管の位置がわかる写真を撮ること。

 A5. 撮った写真をそのままJPGデータで医療者に渡すのはもったいない。できればパワポに写真を組んで、解説をつける。「そんな、めんどくさい!」と思うかもしれないが、結果的にそのほうがあとで解説する手間がはぶけてラクである。何より喜ばれる。

<B. びまん性病変>

 B1. 限局性病変と同様に、弱拡大から強拡大へと拡大を変えた写真を撮ることは重要。

 B2. しかし、それ以上に、出現している細胞の性状をきちんと解説しておいたほうがいい。これは理屈があるというよりは経験則なのだが、びまん性病変のときに病理が力を発揮するのは「最も強拡大の細胞像」であり、逆に限局性病変のときには最強拡大像よりも「弱拡大像」のほうが情報が多いように感じている。

 B3. 強拡大写真のときにはキャプションの入れ方によってユーザビリティがだいぶかわる。弱拡大だとなんとなく素人でも構造がよめるのだが、細胞の細かい構造については普通の医療者はまったく意味がわからない。だから強拡大になればなるほど、どこかに解説を添えておくやさしさがほしい。
 (写真に直接書き込むと論文化のときに邪魔なので、パワポのノート欄などに書いておく)

 B4. 拡大をあげた写真をとるときには、ルーラー(定規、大きさを示す目盛り)を忘れないように。あとで設定するのはめんどくさい。



……こんなとこかな。ウフフ、ぜったい今日の記事、世の中の数人くらいにしか意味がないよ! たのしいー! たまにはいいよな!

2018年7月4日水曜日

バズれ正直者

毎日毎日ぼくらは鉄板のネタをぶちこみふぁぼを獲っちゃうよ。

こういう姿勢でやっていると、仲の良い人の数がちょっとずつ増えて、何気ないひとことがより多くの人に届くようになる。

だから、ま、「バズ」みたいなクソ笑えるフレーズのことも、なんとなく気になりはじめる。



でもここでバズ目的になってっちゃあ話にならんのだ。

手段と目的が逆なのだ。

多くの人に何かを届けたいからバズを狙うという考え方は悪くないんだけれど、バズを狙い始めた時点でそれはもう別の商売だ。

そういう気持ちがあった。




たとえば飲み会を想定してほしいのだが、合計3時間くらいしっぽりとこの「バズ狙いはクソ」的な話をしていると、40分とか50分くらいの時点で、以下のようなツッコミをいただくことがある。



「それってつまりあれでしょ。

クリエイターは、自分のものをきちんと作り上げることに注力して、バズとか考えずに、作品に正直にあり続ければよい。

そういうのを拡散させるのはマーケティングのプロとかSNSビジネスの猛者の仕事だ……

……みたいなさ。

結局、ネットで拡散担当する人に金払え、みたいな話につながってくんじゃないの?

それって広告代理店メソッドじゃないの?」




なるほどな、って思った。

とっくの昔から、「拡散なんて偉くないよ」みたいな考え方は世に存在してたんだった。

だからこそ、「拡散はおまかせください、あなたはきっちりと作品のレベルをあげていればいいんです」という分業ができあがったんだよな。




ぼくがこのような会話をしたのはもう3年くらい前のことなんだけど、当時、なんだかちょっとイヤな感じになって、自分が感じたこのイヤさが何から来たのかなあってことを、ずーっと考え続けていた。

勘違いしてほしくないんだけど、ぼくは別にこの記事で、広告代理店のやり方が嫌いだといいたいわけではない。

プロの仕事として「拡散」を行う人のことは尊敬している。

それでも、なんかこれ、やだな、と思ったのだ。




今は、どういう立場でいるかというと、

「拡散させようと思えば拡散させられるだけの知識と力を身につけた上で、拡散よりも、情報の『浸透』に力を入れたらいいんじゃないかな」

ということを思っている。




現時点のぼくがツイッターで9万くらいフォロワーがいる状態で「拡散を狙うな」といってもウソを感じ取る人がでてくるだろう。

というかそこにはたぶんウソがある。威嚇があり、虚勢がある。

だったらもう少し丹念に、正直をやるべきなのではないか。

「自分の記事を拡散させるだけの力を手に入れつつあるけど、その力を、別のことに使うね。」

こう、はっきりと発信したほうが、よいのではないか。




そういえばぼくは今、ちょっとしたウェブサイトを作っている。ぼくが作ったとは公表しない予定なんだけれど、今書いたような理念で進もうと思う。いずれみなさんにお目に掛ける。

2018年7月3日火曜日

病理の話(217) 渋谷系ならばクラブで尋問するといい

生命科学研究の歴史は「一筋縄ではいかないことを知る歴史」だったと感じている。



細胞の中には、遺伝子というものが組み込まれている。遺伝子というのはつまりプログラムだ。

細胞内にはこのプログラムを読み出す機械が搭載されている。

また、プログラムを読み出した結果をもとに、タンパク質を合成するシステムというのも搭載されている。

このことを最初に解明した人というのは1人とか2人とかではない。

さまざまな人が、気の遠くなるような数の研究を繰り返して、次第にみえてきたことだ。

で、人類は興奮した。

「プログラムがあり、タンパク質が合成されて、人体がかたちづくられていく! なんてすごい仕組みなんだ!」

そして、人類はあるとき気づいた。

「ということは……このプログラムにエラーがあれば、タンパク質もまたエラーを含んだものとなり、結果的に人体にもエラーが搭載されてしまうのでは?」

つまりは、人類はこう悟ったのだ。

「あっ、そのプログラムエラーとは、がんなのではないか? がん細胞というのは、みな、プログラムエラーの結果、生じるのではないか!」



まあその通りだったのだが、冒頭のはなしに戻る。

生命科学研究の歴史は「一筋縄ではいかないことを知る歴史」。




生命科学者たちは、がん細胞をえんえんと研究しつづけた。

すると、ある限界にぶちあたった。



がん細胞を「培養」して、シャーレの中で増やして、実験を行っても、なかなか生体のなかにがんがあるときのような挙動を示さない、ということに気づいたのだ。

なぜだろう、人体の中にあるときには、こうやって増えて、こうやってしみ込んで、人体にダメージを与えていたがん細胞なのに……。

栄養を十分に与え室温などもきちんとコントロールした培養皿の上だと、がん細胞はまるで違った動きを示す。

おかしい。

がん細胞それ自身はたしかに「がん」なのだが……。

実際にがん細胞が持っているプログラムにはきちんとエラーが示されているし、タンパク質だってエラーを起こしている、だから挙動も異常なのだが……。

人体の中でがん細胞が示す動きを、実験室ではうまく再現できない。



がん細胞の研究というのは、培養皿の上でがん細胞をいろいろいじるからこそ、許される。そういう側面がある。

なぜかって?

もし、人体の中にがん細胞がいる状態でいろいろ実験を加えたら、それは文字通り「人体実験」になってしまうからだ。

人体実験イコール悪ではないけれど、あくまで最終手段である。できれば、かんたんに、人に迷惑をかけずに、研究室で「培養実験」である程度のめぼしをつけたい。




だからまあ研究者というのはマウスとかラットを使って、「人間とは違うけれど、ま、似たようなもんだよね研究」を繰り返した。けれど、やっぱり、「ヒトでも同じことが起こるだろうか」という問題からは逃げられない。

やっぱり培養皿の上で、ヒトの細胞をいじりたいなあ、と思ったのだった。




で、ま、最近の研究の成果としてわかったことを、簡単にたとえばなしで説明する。




渋谷の交差点で髪を振り乱して踊り狂うパーリーピーポーに任意で事情聴取をしよう。

それまでハイテンションMAX状態だったパリピポは、警察署につくと、しゅんとしてしまう。

まわりはむさいおっさんだらけだ。

カツ丼が出てくる。

フッフーとか言っている場合ではない。マジ卍どころではない。

両膝をそろえて、肩を縮こまらせて、早く帰してくれないかなあと母親の顔を思い出したりもするだろう。

これでは、警察官は、渋谷でのパーリーを再現することはできない。

渋谷でキマっているところをこっそり観察すればいいのかもしれないが、渋谷の交差点に人がごった返しているところに、警察官が何人も「監視」に現れたら、それはほかの人々の迷惑にもなるだろう。

さあ、ここで問題である。

「警察署につれてきたイキリを、どのように本来のイキリのまま語らせたらよいか?」




答えは、「警察署内に、パーリーな方々が好みそうな環境を作る」である。

ミラーボール in。

DJ in。

インスタ映えしそうなカフェバー in。

3代目JSB in。

そうして「環境をそろえた上で、アホを解き放つ」。




そうすればピーポーは元通りパーリーに入る。

そこをじっくりと観察すればよい。





最近、生命科学研究に新たなトピックスがうまれた。

がん細胞そのものを研究するのではなく、がん細胞の周囲にあるものを重視して観察しようという研究。

「がん環境の研究」という。

正確には「がん微小環境」というが、まあこの際、微小かどうかはどうでもいい。




ぼくはこの、「がんを見るならば環境もみよ」という考えは、とってもおもしろいなあと感心している。

ついでにいうと別にパーリーピーポー的な人のことがそこまで嫌いではないので、例え話とはいえ悪いことをしたなあともちょっとだけ思っている。

2018年7月2日月曜日

あうんの欲求

誰にも言えないほどでかい仕事が終わった日。

自分がここまで時間や金や距離や精神などもろもろ全てベットして取り組んできた「本職」を、わずか半日たらずで理解して経験して通り過ぎてしまうほどに、激烈に優秀な人と出会った。

おかげでぼくはなんだかあらためて、悟ってしまったのだ。




「ぼくの仕事を、ぼくがやる必然性は特にないんだな、ということ。

そんなことは誰もが知っている。

誰だって『交換可能』なのだ。

その人でなければいけない根拠など最終的にはない。

それでも、ぼくは、世の中に数十人とか数人というレベルで、絶対にその人でなければ成し遂げられないであろう仕事を請け負った人々をまれにみることがあり、ああ、ぼくもそっち側だったらどんなによかったろう」

と、

未だに悔しがっているのが、ぼくという人間なんだぞ、と、悟ったのだった。







40のおっさんですらこれなのだ。

唯一の価値になりたいという欲望は多くの人が持っている。

その上で、それを知った上で、ぼくはとっくに、「交換可能であってもいい、ぼくがこの仕事をやることで、誰かが、『まあ君じゃなくてもよかった仕事かもしれないけど、君がやってくれてよかったよ』と言ってくれればそれでいい」と、落ち着いた側の人間だと思っていたけれど、

別に落ち着いてなかった。




さあてどうやって落ち着いて新しいことをしていこうかなあ、と考えを切り替える。

すかさず、「新しくなくてもいい、丹念にやれ。」と、脳の別の場所からツッコミがはいる。

そうだなあ、としぶしぶとりかかる。




いつ坊さんみたいになれるんだ?