2018年7月12日木曜日

9回裏に出てくるのはリリーフ

死生観について少し考えていて、なにごとか書こうかと思ったのだが、今の自分の身の丈に合った死生観となると「他人の死」を語るところまでしかいかず、「自分の死」を語るに達していないように思われた。

つまりは想像力の問題なのだ。

ぼくは自分がどのようにして死を迎えるか、あまりうまく想像できていない。想像力が未来を映し出すところまでいっていないのである。

医師なんだから、自分の死の間際になにが起こるかなんて、ちょっと考えればわかるだろう、と言われてもしかたがない。

ぼくには今まで語ることもなかったひとつのエピソードがあって、その記憶を思い出すとき、自分がどのようにして死に臨むのかをほんとうにうまくイメージできなくなってしまう。イメージできないというか、イメージをぼくがしてもしょうがないのだろうな、という気になってしまうのだ。

「自分の意図するところとは別の部分を気にしながら最期まですごすのだろう」という予感。

たぶん死に臨む自分を囲む人々、それは他人かもしれない、家族かもしれない、わからないのだが、そういう人々の考える死生観に押しつぶされるようにして自分の死生観が完成するのではないか、という、弱くも折れない確信があるのである。



短い人生、自分の好きに生きていけばいいじゃないか、という人になかなか共感できない。理解はできる。わかる。しかし共感をしていない。

ぼくは人生というものに対して、他人の形作ったレリーフの中に浮き上がってみえてくるようなイメージを持っている。

ぼくの人生は、自律的に何かのオブジェとして闇の中に立ち上がるものではなく、他人というパーツが重合してできたスキマに向こうから光をあてたら見えてきたナゾの形状こそがぼくの人生だろうと考えている。

共感していただかなくても結構だが、理解はしてほしい。

「自分のやりたいことをやる」なんて一番安易でつまらない。イージーモードの何が楽しいんだ、とすら思っている。

まして、人生の最後、人死という特異点を自分の好きに生きた(死んだ?)ところで、その点をスタートとして他人の中で続いていく生のストーリーにはどのみち関与しきれない。

「生きるにしても死ぬにしても、ぼくの生き方を決めていくのは多くの他人が作ったストーリーの集合体になるだろう」

という思いを強くしている。



だからぼくは今、他人の死をめぐるエピソードにとても興味がある。それらのエピソードを最大公約数的に辿った先にぼくの死があると思うのだが、あるいは最小公倍数のように話を広げていって、最後にスリットのように残された場所に光を当てたらそれがぼくの死になるかもしれない。

そこらへんはまだわからない。想像力が足りないのである。