2018年7月25日水曜日

はいはいお茶の初出はフラジャイルの何巻でしょうか

朝からやることがとても多いとわかっていた日、とりあえず朝食をとらずに出勤して2時間ほど働いた。そののち、病院のローソンが開いたのを見計らって、朝食を買った。

ついでにペットボトルのお茶も買った。

ふだん、出勤してから昼飯までの間はとくになにも食べたり飲んだりしていないのだが、この日は「朝食と一緒に買ったお茶」があったので、午前のあいだずっと、お茶をちびちび飲んでいた。

ふと思う。

スルスル飲めるしお腹がたぷたぷにもならない。「あれば飲める」し、どちらかというと、「お茶があるほうがうれしい」のだな、午前中は。

逆にいえば、日頃、午前の仕事中、ぼくはずっとカラカラだったのだろう。自分でも気づいていなかった。




イヤホンが壊れたときには、また少し違ったことを思った。午後の仕事中にはよく、イヤホンで聞こえるか聞こえないかくらいの音量にしぼった音楽を聴いている。新しいイヤホンが届くまでのあいだ、ぼくは、午後の無音に耐えていた。そこでまた考えた。

午前中は無音でもいっさい気にならないのに、不思議だなあ。

もしかすると、午前中も音楽を聴いてみたら、それはそれで快適なのかもしれないな。




午前中は脳がばたついているのだろう。お茶を飲む気も音楽を聴く気もわいてこないまま、メールに返事をしたり、原稿の手直しをしたり、後輩がみた標本のチェックをしたりしている。その間、とくに喉が渇いたとも耳がさみしいとも思わない。

バイオリズムには「欲望が表面に出てくるかどうか」みたいなリズムも含まれているのかもしれない、と感じる。そして、思ったよりも「本人が気づいていない欲」みたいなものもあるんだな、と思う。






たとえば午前中、ぼくの勤務する部屋の窓の外を、そこそこの音量で「お~い、お茶」といいながら走る車、みたいなのがあったとしたら、ぼくはそこで「あっ、お茶が飲みたいなあ」と思うだろうか?

それとも、「騒音うるせぇな、イヤホンでもするか」となるだろうか?

広告は、「自分がほんとうは何をしたいのか気づいた、と思わせる作業」だと聞いたことがある。

そんな魔法みたいなこと、人生の中ではそうそう起こらない。

いつだってぼくは、「たまたま」が連れてきたお茶に喉を潤しては「そうかあ、お茶を飲みたかったのかぼくは」と気づかされるし、「たまたま」が連れてきた無音にさみしさを感じながら「それにしても、四六時中音楽がないとつらいわけではないのに不思議だなあ」と首をひねる。

たぶん、ぼくは、カモだ。CMひとつにダマされて物を買うタイプのカモだ。

なのに世の中は、少々、広告がへたすぎるのではあるまいか?