2018年8月20日月曜日

六本木

投資などに造詣の深い人から

「稼いだ金をつぎ込んでさらに増やすのが楽しいし、そうしないといつまで経っても勤め人の給料のままだよ」

といわれたときに、

「得た知恵をつぎ込んでさらに増やすのが楽しいのに、そうしないといつまで経っても学歴程度の知恵のままだもんね」

と答えたのだが、それは違うと笑われてしまった。

違わないと思う。

違わないとは思うんだけど、人それぞれさまざまに違うよね、ということも同時に考えている。






ついこないだまで、ぼくは、自分が「変わってるね」といわれることに対してちょっとした恐怖感があった。

たとえば世の中に広く受け入れられているタレントとかテレビ番組を、自分がつまらないと感じたときに、「ここで楽しめないのは自分が変わっているせいだとしたら、申し訳ないし、もったいないなあ」と反省してしまう自分がいた。

ぼくが「変わっている人間」でなければ、みんなとおなじような場面でみんなと同じように楽しめたのかもしれない。

ぼくに「変わってるね」という人は、遠回しに、「そんなに変わってたら俺たちと同じようには楽しめないよ」と忠告しているのではないか。

実際、ぼくは周りと自分とが同調したらもっと幸せになれたタイミングはあったよな、ということをしばしば思う。




ツイッターではときに、同調圧力ということばが流行ったり、「みんな違ってみんないい」みたいな前提を確認し合ったりする流れが生まれる。

確かに、なんでもかんでも同調しろというのはマスの暴力だ。「変わってて何が悪いんだよ」となぐさめてくれる人もいた。




けれどもぼくはどちらかというと、同調というよりは調律のニュアンスについて話しているのだった。

ルールとか作法をある程度そろえておかないと、人間社会では最低限のコミュニケーションすら保てない。

人が楽しそうにしているシーンで自分もそれに乗っかれるような、少なくとも人の楽しみを(共感はしないまでも)理解できる状態であろうとすることは、きっとピアノやギターの音をそろえるくらいの意味である。

なんでもかんでも好みまで一緒にせよと言っているわけじゃない。

ドレミがきちんと揃っている先に多様な音楽が奏でられていく。調律の先で価値を分けていけばよいのだ。コードすら揃わない状態で「自由な音楽」と言っても、聞き手は本能的な違和感にじゃまされてすなおに音を楽しめないだろう。





と、いう話をしたら、

「ギロの調律なんてしないだろ。お前がピアノであると誰が決めたんだ」

と言われた。

これはなぐさめられているのだろうな。






蛇足だがギロにも調律はあるらしい。調律というか「ドラムの皮をきちんと貼るみたいな」話のようだが……。遠回しにギロっぽいといわれたあとにいろいろ調べた。調べれば調べるほどよくわからず、かつ、そこまで深淵でもない、という、不思議な世界がギロの周囲には広がっていた。