2018年9月3日月曜日

おのれはかったな

偏見とか差別についての研究をする本というのをときどき読む。

別に社会正義に目覚めたとか言いたいわけではなくて、単に知人がそういう研究をしているので、ぼくも読んでみようかな、と思ったにすぎない。

知人がやっていることに興味がある。自分がやっていること以上に興味があると言ってもいいかもしれない。




今なにげなく書いたことの中に、けっこうな真実というか、おトク情報が眠っているような気がする。だからここをもう少し掘る。




人がみなそうだとは思わないが、少なくともぼくは、

「自分の資質や興味関心によって自分が摂取する情報を決めるタイプではない」

ように思う。特にこの数年は顕著だ。自分が買う本は、自分の従来の好みとはあまり合っていない。

どうやって本を選んでいるかというと、

「知人が激推ししている」とか「知人が書いている」がキーワードになっている。




もちろんぼくにも、こだわりというか指向性はある。

医学だったり物理学だったり数学だったり。

けれども、最近読んでいる本のほとんどは、文学だったり、歴史だったり、社会文化についてのものだ。これらは元々ぼくの興味の外にあったものだが、たとえばツイッターのフォロワーが紹介した、というようなフワフワした理由で、近頃は積極的に読むようになっている。




なぜだろう?

限りある時間を自分の興味に使わずに、なぜ他人の興味関心を掘り進めるような読書をしているのだろう?




理由はまだよくわからないのだが、どうもぼくは、自分の視野とか、自分の中で醸成された仮説などを、あまり信用していない。

信用していないというか、とても偏っているのだろうなと懸念している。

「ぼくの主観でぼくが読む本を選び、どんどん偏りが強くなる」のがいやなのだ。

本屋で好きな本を探すのは楽しいけれど、自分の好みばかりで本を探していると、本棚には似たような本ばかりが集まっていく。

それがもったいないと感じた。




誰か他の人が熱烈に取り組んだり推したりしているものを、自分でも読んで、「あっ、こんな世界があるのか、なるほど、おもしろい!」となりたい。

ただ、そうはいっても、まったく接点のない他人がおすすめする本は危険だ。

ある程度「馬が合う」人間のおすすめに乗っかっていきたい。

じゃあどういう人が馬が合うのかというと、たぶん、「ツイッターでやりとりをしている人」なんだろうな、とうすうす気づいている。



結果的に、今、ぼくの本棚には、相互フォローの人がすすめた本や、相互フォローの人が書いた本ばかりがたまっている。密かにこれをツイッ棚と呼んでいる。