2018年9月5日水曜日

タートルズの悪役の声でサワキチャンと呼んでいる

人が生き死にしている世界線にぼくらは生きている。

人が生き死にしない世界線なんてあるものか! とツッコまれるかもしれないけれど、それもまた、ありえた。

もし今ほど脳が高度でなければ、生命は総量とか総体とか、統計とか確率でしか表現できなかっただろう。

ぼくらが極めて複雑化した「意識」をもっているからこそ、個別の命ひとつひとつが生きたり死んだりすることに、物語を感じることができる。

だから「生き死に」ということばが生まれる。




生き死にの常態化した世界でぼくらはすぐ物語に頼る。

図抜けたフィクションでなくてもいい。

ありふれた「ふつう」の物語でもいい。

……実際にはその「ふつう」の中にすら、生き死にが内包されているんだけれども。

生きたり死んだりすることこそが一番「ふつう」だからなんだけれども。





先日の出張で、北陸新幹線のシートにはさまっていた車内誌を読んだ。

そこにはぼくの敬愛する沢木耕太郎がエッセイを書いていた。

ところが残念なことに、エッセイは「上」だった。

単発ではなく続き物だった。

北海道に暮らすぼくは、めったに新幹線に乗ることがない。まして北陸新幹線。今後とうぶん乗る予定はなかった。

来月、この雑誌に載るのであろう「下」を読む方法がない。

とほうにくれた。

エッセイはとてもおもしろかった。少なくとも「上」を読む限りでは。

ちくしょう、続きが読みてぇなあ……。

いつか単行本に収録されるのを待つしかない。されないかもしれない。

宙ぶらりんになった。

このエッセイがこれから「生きることを語るのか、死ぬことを語るのか」がわからないまま、ぼくは新幹線を降りた。



小説のラストが気になるというと、まあ、納得してもらえると思う。

けれどもエッセイだってそうなのだ。

ぼくは最後まで読めないエッセイの前でもじもじとしてしまった。





なんらかのかたちで「おわり」を繰り返していったほうが、読み手は安心なのかもしれないな、と思った。