2018年9月7日金曜日

踊ってばかりの国に僕はラジオという名曲がある

ラジオには逃避の香りがする。

別にメディアのひとつにすぎないのに。




扉を閉めた部屋でひとり、スピーカーの前で、何かを書きながら。

あるいはイヤホンをして。

本を読みながら、運転をしながら。

ときおり聞き漏らす。

でも逆に、作業の手を止めて、聴き入ってしまうこともある。




なぜラジオが逃避なのかと考えていたのだが、これはなんとなく、シナプスの誤接続によるものではないか。

たぶん、ラジオ自体が逃避なのではない。

逃避しているときにする行動がラジオを聴いているときの行動と似ているのだと思う。




何かから逃げているときの焦燥感。すでに焦げ付いてしまったような感覚。くさく、乾いている。

そういうときには、無為に手が動く。

見るともなく何かを見たりする。

後悔におしつぶされないように、作業をする。

意味がなくてもいい。意味がないほうがいい。

目は本の行を追っていても、脳には入っていかないようなあの感じ。

逃げているときというのはたいていそんな感じだ。




ラジオを聴いているときも、理由はわからないのだが、なんとなく同じような行動をしている。

だからシナプスが勘違いをするのだろう。

どことなく手持ち無沙汰で、でも今とりあえず何もしていないわけではないというエクスキューズがあって、忙しいからテレビをみるほどの時間はないのだと自分に言い聞かせ、それでも何かインプットが欲しくてしょうがない、というニュアンス。




何かから逃げたいなという思いで脳が満たされた人には、ひとまず、ラジオを聴くというアイディアをすすめる。

別に地上波でなくてもいい。

今は世の中にいろんなラジオがある。

ネットラジオというやつだ。

Vtuberの語りでもかまわない。

けれども、できれば、素人ではなくて、ちょっとだけ玄人の声の方が安心できるかもしれない。

Podcastのアーカイブを探ってみるのもよいだろう。

声のいい俳優やアナウンサーから検索していってもいいかもしれない。




ラジオは逃げる代わりに聴くものだ。

逃げるために聴く、と言ってしまってもいい。そこに大きな違いはない。




けれども小さな違いがある。そのあたりが何かをあなたにもたらすかもしれないと狙って書いている。