2018年10月31日水曜日

病理の話(258) 切り出し至高論

ある臓器の「切り出し」をしていた。

手術室で採ってきた臓器を、そのまますべてプレパラートにするわけではない。

病気の正体や、広がっている範囲、性質などがよくわかるような「クローズアップすべき場所」をきちんと指定して、その部分だけをプレパラートにする。

採ってきた臓器をナイフで切り、切り口をきちんと観察して、ここを顕微鏡でみれば診断が付くだろうというところを予測して、「切り出す」。

そういう作業だ。



将来的には、切り出しは病理医ではなく技師さんがやることになるだろう、という予測がある。実際、地方の病院では、病理医が足りないので技師さんによって切り出しが行われているし、北米の最先端の病院でも、切り出しは上級技師が担っているケースが増えているらしい。

話は病理の切り出しには限らない。

たとえば胃カメラ。胃カメラを入れるというのは日本では内視鏡医だけの特権であるが、アメリカだと、患者に胃カメラを飲ませ、胃カメラの先端を胃の病気の手前まで持っていくのはナース・プラクティショナー(NP)という看護師の仕事になりつつある。

心臓カテーテルなどもそうだ。カテーテルという特殊なデバイスを心臓の冠動脈まで運ぶ仕事もNPがやるらしい。

これらは、日本では、合併症が心配だとか、特殊な技能を必要とするとか、なにより医師が主導して開発されたとかさまざまな理由により主に医師が行っている。

けれどもアメリカの合理性からすると、「そこで医師がでしゃばる意味がわからない」のだそうだ。

手先の技術や、限定的な状況でのトラブル対処は、別に医師がもっとも上手に行えるとは限らない。

手先の器用さでいうならば医師よりも宮大工さんやビーズアーティストさんのほうがはるかに上だろう。

医学部で医学をたっぷり勉強してきた、ということが、デバイスの扱い方に何か有利かというと、そんなことはあまりないわけである。




医療はどんどん分業すべきだ。切り出しに必要なのは、医師がもつ「優位性(*)」ではなく、技師のような専門職がもつ緻密さ・手際のよさである。だから、あえて切り出しを病理医にまかせておくことはない。

((*)優位性、というのは、医師が病院の中でさまざまな責任を最後にとる職種であるということ、さらにチームの中でも各部門との連携が多いハブ空港のような存在であること。IQが高いとか知識が多いみたいな話は、IoT時代が進むにつれてだんだんどうでもよくなっていく。所詮人間の知能なんてコンピュータから比べれば50歩100歩だからだ。)




いずれは病理医がやらなくなる作業かもしれない。

でもぼくは今、病理医として、切り出しをする。

日本は遅れているから、技師さんにお願いすべき仕事を医師が抱え込んでいる?

人が足りないから、職種に関係なくやれることはすべて目に付いた人がやっていかないといけない?

まあそういう理由もある。

けれど、もっと大事な理由がある。

切り出しは「あとでプレパラートを見て診断をするときの参考になる」のだ。参考になるというか、肉眼で臓器をみるだけで、プレパラートをみるまえに9割方診断を終わらせることができる。

臓器を直接みることは、CTやMRIに映っていた病気の「影」の本体をじっくり探ることにひとしい。

言ってみれば、切り出しというのは画像診断の一種だ。

CTにおけるX線、MRIにおける磁気、エコーにおける超音波と同様に、「目で可視光をみている」。

だから、CTやMRIの画像診断を医師が行っている限り、切り出しも医師が行った方がいいだろうな、と思っている。




いずれは、CTもMRIも医師が解釈しなくてよい時代がくる。

そのときぼくらの「切り出し」も医師の手を離れるかもしれない。

ルーチンワークとして切り出しをする必要性はだんだん薄れていくだろう。

書道やそろばんを習う子どもが減っているように。

切り出しを習う病理医も減っていくのだと思う。




ではそのとき病理医は代わりに何を勉強するのだろうか?

書道やそろばんのかわりにコンピュータ。

切り出しの代わりに統計学とベイズ推計式診断学。AIの知識。

まあそのあたりになるんだろうな。




……ただ、ひとことだけ書いておく……。

「切り出しをはじめとする形態診断は、基礎研究のきっかけを産む」。

だからほんとうは人の手を離れてはいけないように思っている。

思っているけれど、事実、切り出しをまともに学べる場所はどんどん減っているようなので、ま、理想論をふりかざすのはほどほどにしておこう。

2018年10月30日火曜日

パルコをネイティプっぽく発音するとペァルッカァになるの

「いんよう!」という名前のウェブレイディオを先輩といっしょにはじめてそろそろ3か月が経とうとしている。

会話の内容としてはふだんぼくらが会って話す時の内容とほぼ変わらないので、収録のストレスはほぼない。「ほぼ」と少し表現をゆるめたのも、スカイプなどで遠隔通話をしながらネット用の音源を確保するのに苦戦したからであって、会話自体にはあまり問題を感じていない。

だからまあふだんのぼくがそのまま出ているということになる。そして、あらためて、自分がしゃべっているところを時間を置いて聞くと、いろいろと感じるところがあった。

中でもいちばん「あぁ……」と思ったのはぼくのあいづちだ。

自分で思っているタイミングよりも、レイディオから聞こえてくるぼくのあいづちが、0.5秒とか1秒くらい、遅い。

まったく軽妙ではないのである。



先輩はそれに慣れているのか、ぼくのあいづちが遅れてもあまりペースを乱されずに喋り続けている。また、ぼくが何か言ったときの先輩のあいづちは適切なタイミングだ。どちらかというと先輩のあいづちの打ち方が、ふだんFMやAMレイディオで聞いている「普通のレイディオのタイミング」に近い。

ではぼくのあいづちが遅れているのは……。

それも、ぼくが自分では気づかないうちに遅れているというのは、なぜなのだろうか。




と、いちおう疑問形で書いてはみたけれど、実はぼくの中にはひとつの答えがある。

それは、

「先輩のいうことをすべて考えてからあいづちを打とうとしているから、思考に要する時間の分だけ、遅れる」

だ。




レイディオにおけるあいづちというのは本来、相手の話を聞いていますよ、とリズムを与えるためのものである。でもぼくは、レイディオ的お作法を無視して、先輩から届いた言葉を毎回咀嚼して、自分の中である程度の結論ができた時点で「ふむ」とか「なるほど」「あぁー」などと返答している。

つまりぼくの「ははぁー」や「おっどういうことですか」は、会話のためのあいづちではない。

自分のためだけの感想なのだ。





ブログのような一人語りでは、ツッコミを読者にゆだねたまま完全に自分のペースで記事を書く。ツイートにはリプライという返事があるが、これも決してリアルタイムではない。ぼくはこれらのツールが「即時の反応を要しない」ことにずいぶん助けられている気がする。もともと、当意即妙な返しよりも、沈思黙考した返しのほうがいいと考えている性分なのだ。




だいたい今日の記事にしたって、みなさんはきっと、「なんでレイディオって書くんだよ、ラジオって書けよ」と言いたくてしょうがなかっただろう?

でもそのツッコミは、決して間に合わないのだ。ぼくはネット上で、そういう時間軸に生きている。さて、決して録音などされていない、日常会話については、ぼくはどういうしゃべり方をしているのだろうか……。


2018年10月29日月曜日

病理の話(257) 男女七歳席を同じゅうしてスプラトゥーンする

隔日で病理の話を書いてきて今あらためて思うことなのだが、病(やまい)の理(ことわり)のことを語ろうとおもうとき、大事なのはやはり正常を知ることだ。

もう今まで何億回も様々な人によって言われて来たことである。

異常を知ろうと思ったら正常を知れ。

正常がわかってはじめて、それが崩れた状態として異常を定義できるのだ、と。




ただねえ人体ってそれこそ若者っぽく言うと「異常」なんだよ。

「ありえねぇ」と言ってもいいかな。

「ヤバい」でもいい。

「エモい」でもいいけどニュアンスが少し違う。




何が異常かっていうと結局因子が多すぎることなんだ。

「異常に因子が多い。」

たとえば、止血という仕組みひとつとっても、そこに関与するタンパク質とか細胞外基質の数がいくつあるのか、未だによくわかっていない。

医学部の学生が2年生くらいのときに絶対に苦労する、凝固カスケードの図。第VIII因子がどうとかいうあれ。

あれってまだ完全じゃないんだよ。学校ではいかにも「解明された」みたいな顔をして書いているけれども。

実際、体の中で、微小環境の中で、どの因子がどれくらいのスピードでどう酵素反応をおこしているのか、そこに関わっている因子はこれで全部なのかなんてのが、まだまだよくわかっていない。

今でも新しい実験結果が出てきたりする。




ゲノムプロジェクトというのがあってね。人間のDNA……プログラムだよ、人体のあらゆる細胞の挙動を決めているプログラム……を全部解読しよう、ってのをやったのよ。人類は。

で、まあだいたい全部読んだの。ゲノム情報はすべて解析おわった。

けれどそれは、プログラムの文字列を全部読みましたっていうだけでね。

およそこれくらいの数、タンパク質が作られているだろうっていう予測も立ったんだけど……

タンパク質どうしがどうやってくっついたり離れたり、お互いをいじって形をかえたりしているか、なんてのは、実はDNAに書かれていなかったりする。

すごいゲスな例え話をしていいかな?

プログラムのなかに、「男のコと女のコをひとりずつ、部屋の中にいれて、1日放置する」って書いてあるとする。

そしたらほら、おじさんたちはたいてい、いやらしいことをするって想像すると思うんだけども。

部屋ってのがくせものでさあ。

そこは昔から今にいたるまですべてのゲームソフトが所狭しと置かれているかもしれないし。

3代目JSBのライブのパブリックビューイング会場かもしれない。

あるいは実は宇宙空間かもしれない。

部屋によって、男のコと女のコが何をするかなんてまるでかわってくるじゃない。

でもDNAには、「男のコと女のコを作る」としか書かれてなかったりするんだ。そういうことがマジである。

おまけに、DNAの外側に、「ただし男のコは男のコが好きとする」みたいな但し書きがついてるかもしれないし、そんなものはついていないかもしれないんだ。




ね。

人類がさあ、結構な本気を出して、必死で調べてこれ。

何にもわかりゃしない。

無限にわからない。

異常としかいいようがない。わかっているのは、その異常によって、正常なぼくらができあがっているということだけ。






……正常を知れ、異常を知るのはそれからだ! とかさあ。


どの口が言ってんだ、って話だよな。

2018年10月26日金曜日

脳だけで旅をする

老化したことでようやく言動と見た目年齢が一致した。

そういう日はくるのだ。昔の自分に教えたい。40からが俺だ。楽しみにしておけ、と。

スーツを何の違和感もなく着崩せるようになる。

ガード下でもバーでも好きな場所で存在感を消せる。

コンビニで店員さんにまっすぐお礼を言える。

今がチャンスだ。今こそ飛び道具以外の勝負ができる。



ジャケットをデスクの横のハンガーにかけ、ノーネクタイのワイシャツに腕まくり、革靴を脱いで不健康サンダルに履き替えて、足が蒸れないようにときおり椅子の上であぐらをかきながら、外付けBluetoothのキーボードをばかすか叩いている。ときおり研修医が尋ねてくる。「今日はどうしました」と声をかける。

医師免許を持っていれば、高確率で使いこなさなければならなかったはずの言葉。

患者に向かって、「今日はどうなさいました」。

ぼくはとうとうこれを患者に言わないまま40歳になった。そもそも患者に会わない仕事なのだからしょうがない。

あこがれのホコサキを研修医に向ける。「今日はどうしました」とかまえて傾聴の姿勢。研修医はストレートネックになってぼくに資料を渡す。ぼくが敬語を崩さない以上、研修医はより強い敬語を使わなければいけない……。

なーんてことはない。

けれど昔のぼくはそう思っていた。敬語を使いこなす上司にはそれ以上の敬語でへりくだらなければ失礼ではないか、と、半ば本気で信じていたのだ。




形だけの敬意って心地よいんだなあ。




笑いが止まらないのでそのまま会話を続ける。黙っていると吹き出してしまいそうだ。ぼくより髪の毛が黒く、ぼくより無駄な体脂肪が少なく、ぼくより肌つやのいい、視力はちょっと悪そうだけれど性格ほどではなさそうな、熱心で、将来性のある研修医が何やら説明をしてくれる。

ぼくはほほえましい気分になる。ああ、優秀だなあ。人間というのは本当に優秀だ。




年を取ると、若者が愛おしくなるように、遺伝子が命令している。

人間ってのは本当に優秀だ。





老化したことでようやく言動と見た目年齢が一致した。

そういう日はくるのだ。昔の自分に教えたい。40からが俺だ。

40からの俺は自己顕示欲を乗りこなせるようになった。存在感を飼い慣らせるようになった。無駄な背伸びをしなくても、年齢と見た目だけで、自動的な敬意が集まるようになった。もう十分だ。

ここから、ようやく、内面だけで勝負ができる。

ひたすらに本を読み、知恵を使って生きていく。

思った以上に、脳に貯金はできていない。

なりふりを整えなければいけない時期は過ぎた。

もう、守ってくれる「若さ」はないのである。

2018年10月25日木曜日

病理の話(256) 連想オタク早口談義

256というとやはり思い出すのはゼビウスだ。

……いや、「やはり」と言われても困るだろうけれど。

連想というのは、他人にはなかなかうまく説明できない。

説明しようと思えば言葉を尽くせる。

当時、ゼビウスというファミコンソフトがあり、それに出てくるバキュラという敵がいた。ゼビウスでプレイヤーが操作するのはソルバルウという名前の戦闘機で、前方からピュンピュンとビームが出る。そのビームでたいていの敵を倒せるわけだけれど、バキュラだけは倒せない。バキュラは一見するとリフォーム業者がもってきそうなタイルの見本みたいなそっけない板状をしているのだが、こいつがくるくる回転しながらこっちに飛んでくると、ソルバルウが何発ビームを撃ち込んでも倒せない。だから交わすしかない。ちょっといやな敵だったのだ。そして、小学生達もみな一様にバキュラを「おかしいやつだ」と思った。だからだろう、都市伝説がうまれた。バキュラに256発ビームをあてると倒すことができる。ぼくの友だちの兄ちゃんの知り合いがナムコに勤めていて、ナムコの会議室でソフトのプログラムをこっそり見たら、そう書いてあった……。ぼくの周りで流行ったうわさはだいたいこんな感じだった。すごいな、友だちの兄ちゃんの知り合い。ナムコの会議室でプログラムをこっそり見られるなんて……。そのころ、256という数字がもつ意味はよくわからなかったけど、のちに、さまざまなゲームソフトで、HP(ヒットポイント)の上限が255だということにピンときたぼくらは、「ファミコンでは0から255までの256通りで物事を表すと何かいいことがあるのだろう」と勝手に解釈をし、しかもその解釈はそれほど間違っていなかったのだけれども、後にでてくる「256メガのメモリ」みたいな言葉にも「あっ」と思ったし、中学校に入る頃に2の8乗が256だということを聞いて、二進法とコンピュータの関係を聞いて、そうかーそれで256が大事なのかーとわかったようなわからないことをつぶやいたりした。以上より、256といえばゼビウスなのだ。

……とまあこんな感じだ。説明しようと思えばできる。

けれど、この説明、だれが喜ぶだろう。

おじさんの昔話だ。ファミコン小学生の淡い思い出でもある。だから確かに刺さる人は多少いるかもしれない。

けれども大多数の「ふつうの人」にとっては、オタクの早口のざれごと、くらいにしか感じられないだろう。

それを知っているぼくたちは、「256というと何を思い浮かべるか」という質問に対し、そもそも「ゼビウス」とは答えない。

一般の人が多少ひっかかってくれる程度の言葉をうまく使う。自分が本当に導いた直感をそのまま伝えることはしない。

「256ですか? そうですね……別に思い入れはないですね。むりやり何かと結びつけるなら2の8乗ってことですけれど。あれ、あってますよね。2,4,8,16,32,64,128,256。あってたあってた。でもだから何だって話ですよ。」

もはやゼビウスどころかバキュラのバすら出てこない。それでいいのである。






アポトーシスというとやはり思い出すのは薬剤性腸炎だ。

……いや、「やはり」と言われても困るだろうけれど。

連想というのは、他人にはなかなかうまく説明できない。

説明しようと思えば言葉を尽くせる。

アポトーシスという用語があり、病理組織学の世界でも観察することができる。病理診断で病理医が観察するのはHE染色という方法で染められたプレパラートで、ヘマトキシリンがピュンピュン飛んでワイシャツに付くとぼくはがっかりして倒れる。そのヘマトキシリンでたいていの細胞核がきれいに見えるわけだけれど、アポトーシスという現象もまた見ることができる。アポトーシスは一見すると幼稚園児が描きそうな宇宙の絵みたいなそっけないつぶつぶの集まりみたいな像をしているのだが、こいつは細胞がプログラム死つまり自分で死んだときのサインであり、周囲の細胞に悪影響を及ぼさない。だから細胞一個がひそやかに死ぬ。ちょっとけなげな細胞死である。そして、昔の病理医たちはみなアポトーシスを「おかしいやつだ」と思った。だからだろう、アポトーシスの意味が研究された。正常の細胞でも低確率でアポトーシスに陥ることはある。ぼくの友だちの兄ちゃんの知り合いが昔かかった病院の院長の友だちの師匠が病理医でアポトーシスの研究をしていてそのことを教科書に書いていた。すごいな、友だちの兄ちゃんの知り合い(略)の師匠。アポトーシスで論文を書けるなんて……。学生のころ、アポトーシスという所見がもつ意味はよくわからなかったけど、のちに、さまざまな病気の組織で、アポトーシスが異常に観察されることに意義があると知ったぼくらは、「なんらかの生体反応の結果、一部の細胞が普段よりも多くプログラム死に突入することがあるので、逆にアポトーシスがあれば診断の助けになることがあるのだ」と勝手に解釈をし、しかもその解釈はそれほど間違っていなかったのだけれども、後にでてくる「薬剤性、とくにNSAIDs関連消化管炎症」みたいな病態でアポトーシスがみられると知って「あっ」と思ったし、大学院に入って研究をしているとアポトーシスを回避するメカニズムを発現しているがん細胞はやはり生存戦略を多めに持っていると習って、そうかーそれでアポトーシスが大事なのかーとわかったようなわからないことをつぶやいたりした。以上より、アポトーシスといえば薬剤性腸炎なのだ。

……とまあこんな感じだ。説明しようと思えばできる。

けれど、この説明、だれが喜ぶだろう。

おじさんの自分語りだ。病理大学院生の淡い思い出でもある。これが刺さる人はちょっと珍しいかもしれない。

大多数の「ふつうの人」にとっては、オタクの早口のざれごと、くらいにしか感じられないだろう。

それを知っているぼくたちは、「アポトーシスというと何を思い浮かべるか」という質問に対し、そもそも「薬剤性腸炎」とは答えない。

一般の人が多少ひっかかってくれる程度の言葉をうまく使う。自分が本当に導いた直感をそのまま伝えることはしない。

「アポトーシスですか? そうですね……別に思い入れはないですね。むりやり何かと結びつけるなら学生時代に最初にならったとき、スペルがapoptosisって書くんですけれど、そのことを教授が『アポプトーシスって読むやつは素人。2番目のpは発音しない』ってドヤ顔で言ったのがなんかむかついた、ってくらいですかね。」

もはや薬剤性腸炎どころか病理のビョすら出てこない。それでいいのである。

2018年10月24日水曜日

サンダルには足つぼマッサージ用の突起がついている

クラシックの声楽がテレビで流れていた日に、タイムラインで複数の人間たち(推測)が、

「歌詞をタブレットで見てる」

「すごい、タブレットだ」

と指摘していた。そうかあそういうことなのかあ。まあそうだろうなあ。

ピアニストだって今や紙の譜面を使わなくてもいいわけだ。

そのうちウェアラブルデバイス……Googleメガネ的なアレにも歌詞が浮かぶようになるだろう。

拡張現実内に歌詞が浮かんだら、ださいときのミスチルのPVみたいな風景がみられて楽しいかもしれない。

技術革新が進むとサイバーパンクな叙情がそこかしこに顔を出す。




「パソロジスト・コックピット」ということばをはじめて聞いたときには小躍りしたものだ。まるでガンダムの操縦席みたいに、デスクの前、左右に複数のモニタを配置して、それぞれをタッチパネルで直接操作しながら、顕微鏡画像を拡大縮小したり、別のモニタに内視鏡画像を投影したり、マッピングを画面上で行ったりできるのが未来の病理医(パソロジスト)のやりかたなのだそうだ。カナダのように遠隔病理診断が進んでいる国では、すでにこのコックピット形式が導入されているという。いいなあ、やってみたいなあ。

……でも、よく考えたら、ぼくもすでにパソコンは2台使っているし、キーボードは3つある(遠隔キーボードにすることで首を保護している)。見ようによってはコックピットである。ガンダムほどではない。ジムくらいだ。




昔の忍者は、麻のタネを庭にまいて、芽が出たら毎日それをジャンプで飛び越えて、ぐんぐん大きくなる麻を必死で飛び越えているうちに人ん家の壁が飛び越えられるようになったそうだ。ぼくは、じわじわとサイバーな世界になれていくうちに、自分がすでに昭和の自分からみたら驚くほど未来に生きているのだということに気づかないでいた。



でもいまだにボールペンを胸に挿している。そういうものなのか。そういうものなのだろう。

2018年10月23日火曜日

病理の話(255) 小石を見て河原を語ること

胃、大腸、肺。

鼻の穴、耳の中、膣の奥。

これらは、チューブ状のカメラを使ってのぞきに行くことができる。

人間というのはかなり凹凸が多い。ミクロに小型化したぼくらが、体の表面に着陸して、そこをずっと歩いて行くと、皮膚から口の中、食道、胃、十二指腸とずんずん歩いて行くことができる。十二指腸でファーター乳頭と呼ばれる火山の中に入れば、その先もまた延々とつながっており、肝臓や膵臓まで達することができる。

歩いた先で、小石を拾うように、自分の立っているところの粘膜をつまみあげる。

なにか周りの床とくらべてごつごつしていたからだ。気になったからだ。

それを体の外に持って出て、病理検査室に回す。



拾った小石を薄く切ってプレパラートにする。

病理医がみる。小石の成分を分析する。

がんだ。あるいは、がんではない。

そのような「診断」がくだる……。

これが病理診断だ。



しかしちょっと待って欲しい。

その小石は、あなたが歩いていた床の「すべて」を反映しているだろうか?

たとえばその床はステンドグラスのような模様をした色鮮やかな床だったかもしれない。

そのステンドグラスの赤い部分だけをみて、「ああ、そこはステンドグラスがあるんだよ。」と、言い当てることができるだろうか?

無理だろう。

病理医は常に、「一部しかみていない」ということを忘れてはいけない。




……ただ、付け加えておくと、病理医は先人から論文として受け継いだ集合知(エビデンス)を持っている。

人体において床がステンドグラスのような多彩な模様「にはなりにくい」ことを知っている。

実際にそこを歩いていた内視鏡医が証言してくれればなおいい。

たとえひとかけらの小石であっても、内視鏡医が、

「その赤い小石は、一面真っ赤な地面からひとつ拾ってきたやつですよ」

とコメントしてもらえば、なんの問題もないのだ。



 さて、赤い地面から拾ってきた赤い石を顕微鏡でみたとして、そこに映っているものが「緑のコケ」だったとする。

そこで「あなたがとってきたものは緑色のコケでしたよ」と報告する病理医がいたとしたら、困る。

探検して赤い地面をみつけて赤い石を拾ってきた、と、探検家(臨床医)が言っているのに。

顕微鏡でみてみたら緑色のコケでした。

それは「不一致」だ。何かおかしい、と思わなければいけない。



そこでたとえばdeeper serial section(深切り切片)をきちんと作成できるかどうか……。

(小石の表面にこびりついているコケの部分しかみることができないでいる。だから、小石をもっと深く削ってもらって、小石のど真ん中をきちんとプレパラートにしてもらおう!)

と、「ピンときてサッと対処」できるかどうか。




そこをできるのが病理診断医であり、そこを求められるがゆえに、病理診断には特殊な免許が必要とされる。




・赤い小石とは思えないような検体でしたが、きちんと深く切ったら確かに赤い小石でしたよ。
・赤い小石に見えますけれど、特殊な光をあてると実は別の色にも光るんですよ。
・赤い小石を拾ってきたとおっしゃいますが、実は赤い小石の下に、茶色い地面があったんじゃないですかね?
・赤い小石が落ちているときには、違う場所に、黄色い稲穂がわさわさと揺れていることがあるんですが、そういうのはありませんでしたか?




ここまでやるから病理診断医だ。

ただ小石をみて感動するだけならばそれは「病理見学者」である。





……ただ、実をいうと、「病理見学者」であっても、給料はもらえる。

この話をすると長くなるのでやめる。

2018年10月22日月曜日

高橋達郎先生

釧路にいる。毎月釧路にいる。月一回、出張でやってくる。

はじめて釧路に来たのは2005年くらいのことだから、今から13年ほど前だ。ぼくは当時大学院生だった。

病理診断のバイト先として浮上した釧路の病院。そこには、高橋先生というベテラン病理医が勤務していた。

ぼくには師匠が何人かいる。そのうちの一人が高橋先生だ。

彼は13年にわたり、ぼくを指導してくれた。月一度程度の顔合わせではあったが、高橋先生の知見はいつも深淵で、ぼくは毎月彼の診断手法を学び、彼が公費や私費で買いそろえた教科書の背表紙を写メに撮って、札幌に帰ってから購入して勉強したりした。

彼は読書家だった。ぼくは彼をとても尊敬していた。

あまり酒は飲まないが飲み会ではにこにことしていた。野球が好きで、高校野球で活躍した選手がその後プロ野球でどのように活躍しているのかを熟知していた。長嶋茂雄の時代以前から今日にいたるまで、ことこまやかに。

小柄だが姿勢がよかった。




釧路の病理診断は、ぼくにとってはとてもハードワークだった。あまり知られていないことだが、病院の立地条件や地域の人口、医療圏の規模などによって、病理診断をする病気の種類がだいぶ違う。自分がふだん勤務している病院の症例に”慣れる”と、ときおり釧路で経験する見たこともない症例の難しさに面食らう。かたっぱしから教科書を調べ、毎月ヒイヒイと泣きごとをいいながら診断を書き、高橋先生の指導を仰いだ。




先生は、怒りや悲しみをそのまま表に出さずに言葉で練り上げるのが巧みだった。




若い病理医は地方で仕事をしたがらない。当たり前である。地方に行けばそれだけ師匠の数が減る。若手にとって、病理診断という訴訟リスクの高すぎる仕事を、師匠の手を借りずに(責任を分散させずに)自分だけで請け負うことはリスク以外のなにものでもない。顕微鏡をみて書くだけの仕事ではあるが、それだけに、孤独に顕微鏡だけを見ていても自分の世界はいつまでたっても広がらない。……正確には顕微鏡を見ながら世界を広げる方法もあるのだが、それに気付くためには経験と達観が必要なのである。

だから、釧路の常勤医はいつまでたっても増えなかった。

先生は一度定年したのだが、次の病理医がいつまでも決まらないので、そのまま嘱託再雇用され、相変わらず病理診断を続けていた。




ぼくは彼に何度も釧路に誘われた。

「市原先生が釧路に来てくれたら安心なんだがなあ」

ぼくはその誘いを何度も断った。そして、毎月勉強させてください、大学とは関係ない個人の出張で恐縮ですが、ぜひお手伝いをさせてくださいと、長年言い続けた。

彼はいつもおだやかに感情を練り上げながら、ぼくにいろいろな診断学と、いろいろな文筆手法(診断書を書くには文才が必要なのである)、さらにはいろいろな哲学を教えてくれた。




ぼくには、札幌で師事している父親のような師匠がいる。名前をMという。Mと高橋先生は、同じ職場で長年仕事をしてきた同士だったそうだ。高橋先生のほうが4歳ほど年上だったがほとんど同期のような雰囲気であった。おもしろいな、と思ったのは、札幌と釧路にわかれてもう20年以上経つにも関わらず、彼らの書く病理診断書の文体がどこか似通っていること。ぼくは日ごろ、札幌でMの指導を受けているから、ぼくの文章もまた彼らと似ていたのだろう。高橋先生は社交辞令交じりにいつも、

「市原先生の病理診断書は読んでいて安心する」

と言ってくれていた。







ぼくは彼の死因を詳しくは知らない。

20年以上にわたりずっと単身赴任だった生活についにピリオドをうったのは今年の3月。そもそも一度定年してから延長して働いていたわけで、いつやめてもよかったはずなのだが、臨床に求められるまま、ぼろぼろになるまで働いた。4月には札幌の自宅に戻り、おだやかに過ごしたという。夏が過ぎたころ、亡くなった。

かれこれ2年半ほど前にみつかった大腸癌はかなりステージが進んでいた。彼は高すぎるインテリジェンスで自らの死期を冷静に探り、

「平均余命なんて所詮中央値だから、あと何年生きるとか死ぬとかいうのはあまりあてにならないが、そろそろ店じまいの準備だな」

と言いながら、それでも2年以上働き続けていた。経過中、間質性肺炎の悪化によって何度か抗がん剤の投与を見送ったりもしたが、それでもなんとかバランスを取りながら、はたらき、抗がん剤をうち、はたらき、わずか3回ほどではあるが、ぼくとも酒を飲んでくれた。




札幌で行われた通夜にて、釧路から目をはらしてやってきた技師さんたちとあいさつをし、札幌の師匠Mと隣り合って座り、高橋先生の死に顔を間近にみて手を合わせたところまでも泣かずに済んだ。大学の教授、前教授、お偉方などひととおり挨拶を済ませ、さあ、家に帰ろうというとき、高橋先生やMと一緒にかつて働いていた、旭川医大の某講座の教授とふと会って、彼の顔を見た。

高橋先生は、多くの一流病理医たちに認められ、釧路での孤独かつ久遠の病理学人生を全うし、最後には、もう何年も一緒に働いていなかったはずの旭川の教授をまるで子供のように泣かせていたのだな、と、そこでようやくぼくもおいおい泣いた。




この原稿を今、こっそりと、釧路の病理検査室の片隅で書いている。あと15分で空港に向かい、ぼくは札幌に帰る。また来月ここにやってくる。

2018年10月19日金曜日

病理の話(254) 登山番組におけるカメラ配置の話

病理医になるにも訓練がいる。実際、ぼくは40歳になってもまだ、「病理医になるための訓練」を続けている。

きれいごとをいうならば「一生勉強」だ。人間というのは結局そういうものである。

悟れ。いつまでも、”権化”にはなれない。



……けれどもまあ、我々は、ある程度年を取ったならば自分で働いて、給料をもらって飯を食い、ベッドを整えてきちんと眠り、ときおり楽しく遊んで世の中をかきまわさなければ生きていけない。

「ぼくなんて生涯半人前ですよ。仕事をきちんとできる日なんて来るんですかね」

……そんなことを言っていては自分も飯を食えないし、自分の仕事をあてにしている他人も困るのである。



たとえ不完全であっても、どこかの段階で、責任をとらないといけない。

不完全には不完全なりの「担保のしかた」というのがある。

医療の世界には、「不完全なものどうしが相互に見守ることで完全を目指すシステム」が存在する。




かつて、150年ほど前には、病気というものは単なる「症状」にすぎず、「死をまねくもの」とか「体調不良をまねくもの」くらいの意味合いしかもっていなかった。メカニズムがわからなかった。本体がみえなかった。しょうたいがつかめなかった。

それが、解剖学の登場によって、「病気には形があるんだな、原因があるんだな」ということが少しずつわかるようになった。

それからしばらくの間、解剖学、さらには病理診断学というのは「答え合わせ」を与える学問としてあがめられた。

病理診断は絶対であった。

患者がどのような症状をうったえ、顔色がどうなって、尿がどういう色をしていて、血液がどう動いているかはすべて「サイン」にすぎない。

病理医が胃を直接みて、「胃がんです」と言えば、それは胃がんだった。定義する立場だったのだ。




けれども、昔も今も、病理医は間違える。人間は間違える。

「絶対だ」が間違いということも山ほどあった。

定義する人が間違え続けていた。それをよしとしなかったから、医療は発展してきた、ともいえる。




人類は少しずつ、病理診断の使い方を変えた。

病理診断を、回答とか定義として扱うのをやめた。

「医者たちが間違えないために、ひとつの病気を異なる視点から見るためのシステム」

として使うことにしたのである。




臨床医が患者の話や診察結果、血液データから導き出す診断は「ひとつの正解」。

CTやMRI、内視鏡、超音波などで体の構造を映し出す画像診断もまた「ひとつの正解」。

これらは、違うものを見ているのではない。

富士山に登るためにいくつもの登山ルートがあるが、どれを選んでも最後にはひとつの山頂にたどりつくのと同様に、臨床医の診断と画像の診断とは「ルートが違い、同じ山頂を目指すもの」だ。

病理医もまた、病理診断をもちいて、同じ山頂に別ルートからアプローチをする。

それはもしかすると登山ではなくドローンかもしれない。

臨床医からすると、「うわっ、あいつあんなところから見るのか。ずるいな。そりゃ簡単だわな」と、納得半分、嫉妬半分で見られることもあろう。

しかし、ドローンは悪天候では飛ばせない。

霧がかかっていたら山頂は見えない。えっちらおっちらと徒歩で登っていく方が確実なことはある。

満足度だって別種のものだ。




「徒歩の人が道に迷ってもドローンは飛ぶ」

「ドローンがさまよっても徒歩なら登山道が見える」

と、お互いにお互いの苦手な部分を補完しあうことで、誰かは山頂をみられるだろうとチームで医療をすすめる。

これならば、個々人が不完全であってもかまわない。

大切なのは「自分は何が不得意で、何をよく知らないのか、何がよく見えないのかをきちんとわかっていること」である。

富士の裾野に咲く雪割草は、登山者だけが愛でることができる。

富士山の火口の写真は登山者にはなかなか撮れない。





「一生勉強ですよ」というのは、自分が不完全なまま働いていることに対するひけめとか、劣等感とか、あるいはあきらめとか、そういうニュアンスを含んでいるようにも聞こえるが、そうではない。

現代において医療をする以上、誰もが一生勉強をしていなければ、お互いにお互いの得意不得意を時代にあわせて見極め続けていなければ、そもそもチームで富士山を極めることはできない。

では参考までに、ぼくが不得意としていることはなにか?


ぼくのわかりやすい弱点は、「自分がもう若くないと知ってしまったゆえの、発想の貧困さ」である。

ある程度視野を広くとりはじめると、浮かんできたアイディアにすぐ「……無理だな」とか、「突飛すぎる」とか、「現実性にとぼしい」と判断をしてしまい、チャレンジをしなくなる。

新しい登山道の開発が苦手なのだ。

さあそんなぼくは、これから、初心に帰ってチャレンジをするべきか?

それとも、ぼくより若い人が代わりにチャレンジしやすいように、チャレンジ以外の小仕事を請け負って、後進に道を譲るべきだろうか?

ぼくはどうすればチーム全体を前に進めていけるか?

そこに自分のエゴをどれだけ混ぜ込んでいいものなのだろうか?





2018年10月18日木曜日

プロの海女

「何かひとつのことに熱中できるなんて今だけだよ」と若い人に言いたくなることもあるのだが、結局この年になってもいちおうまだ熱中はできている。

ただその持続時間は短くなった。我に返る回数が多い。長時間の没入が難しくなっている。

海女さんのように「潜っている時間に働く」イメージでいる。熱中しているときというのは、深く潜水しているときの感覚に似ている。

けれども、そのイメージでいうと、日頃ぼくたちは、海面に浮いているときにも目配りをしたり会話をしたり、ものを書いたり受け渡しを行ったりすることが多い。

まあ実のところ、海上にいる時間の方が長くはなる。

潜水できる時間は昔よりも少ない。

けれど「熱中していない」とは思わない。




誰よりも深く潜って海の底にある真珠を採って帰ってくるために必要なものとはなにか?

真珠の知識?

脚力?

肺活量?

言語化しきれない、直感のような何か?

すべてにおいて練度を上げれば、同じ距離を潜ったとしても、それにかかる時間は少なくなるだろう。

はたからそれを見ている人は、「潜っている時間が短いね。やっぱり、年を取ると長いこと潜れなくなっちゃうんだね」と思っているかもしれないが、まあそれは実際にあると思うんだけど、でも劣化しているわけじゃないんじゃないかなあ、と思ったりもする。





そして今までの話をぜんぶひっくり返すようなことをいうが、海女さんのことはよくわからないけれども、ぼくたちのような人間は、成果はともかくとして「長く潜り続けている自分」のことが純粋に好きだったりする。誰よりも深く潜って、短時間のうちに真珠をいくつも集めている優れた海女さんもまた、もしかすると、心のどこかにぽっかりと、「昔はもっと長く潜っていたのになあ」というさみしさを抱えているものなのではないかなあ、と、他人事を邪推してしまうのである。

2018年10月17日水曜日

病理の話(253) あるからには意味がある

健康診断などで血液検査をすると、血液の○○という値が高いからどうだとか、低いからどうだとか言われる。

やれHDLコレステロールの値がどうだとか。

中性脂肪の値がどうだとか。

γ-GTPの値がどうだとか。

おかげで、これらの物質は「高ければ悪」という考え方で知られる。しかし、実際には血液検査で調べる項目の物質というのはほとんどが「体の中でよかれと思って作られて使われている物質」だ。



人体の中に存在する循環システムには、さまざまな物質が流れ込んでいる。ここにたとえば毒を流すと人は死んでしまう。だから、そもそも人体は、血液の中に何を流すかというのをとても慎重に考えて選び尽くしている。

そこに流れている時点で何か意味があるのだ。逆にいえば意味が無いものは流さない。シャットアウトしている。

血液の中に水銀が流れてますよー、ちょっと健康に気を付けないといけませんねー、なんてことはないのだ。水銀なんか流れてたら即死であろう(量にもよるだろうけれど)。

「もともと、血液の中に流して使うもの」だからこそ、血液の中にいられる。それが、程度問題として「やっべ、流しすぎた」になっていると確かにあまりよろしくない。

コレステロールだって中性脂肪だって本来は体の役に立つ物質。多すぎるのが問題だ、というだけのことである。




……まあここまではいいだろう。

では、ひとつたずねる。

「ビリルビン」はどうか?

間接ビリルビンとか直接ビリルビン。これらは、血中に流れてはいけないものだろうか?

医療者に尋ねよう。

間接ビリルビンの血中濃度の基準値は? 直接ビリルビンの血中濃度の基準値は?



まあ詳しい値はどうでもいいのだが、これらは、「血中の中に微量であれば存在していい物質」なのである。基準値が「ゼロではない」。微量ならOK.




……さて、人体は、この「微量ならOK」をどれだけ許しているのだろうか……?

ぼくは今そういうことを考えている。




毒は毒だけど少量ならしょうがない、だからビリルビンもちょっとならいいんだ。

そういう考え方は基本的に人体はやっていない。

完全な毒はそもそも流さないように何重ものトラップをかけて遮断するのが人体だ。

であれば、「ごく微量のビリルビンの機能に期待する」ということがあるのかもしれない……。





そう思っていろいろ検索をしてみたのだが、血中の微量なビリルビンがもたらす機能はよくわからなかった。日本語版Wikipediaには抗酸化ストレス作用があるかもしれない、と書いてあるが果たして本当かどうかわからない。別に抗酸化ストレス作用のためだけにこんな毒性の高い物質を用いなくてもよかろう。ヘモグロビンを作る際に使った鉄材があまりにもったいないので再利用している? うーん、だとしても血液への混入を許す意図はなんだ……?





人体のすべてに合目的な機能があるわけないじゃん、という考え方もある。男性の乳首、尾てい骨、ほくろ、これらにはおそらく前向きな機能はないと考えられている。

でもなあ。「適者生存の末に残ったもの」ってのはほんとうに選りすぐられた精鋭なんだよ。まして血液という循環システムの要に、ビリルビンみたいな物質を少量でも許した人体の”意図”がわからない……。




まあ酸化還元反応の触媒になってるんだろうけれどな。人体、わからない。人体、むずかしい。ソンゴクウ、いいやつ。

2018年10月16日火曜日

つばをとばすやつを見ても思い出す

創作者も、表現者も、ほぼ間違いなく、ある瞬間にはユーザーであるはずだ。

すぐれた絵画を描く人間も飯を食い本を読むだろう。あるいは音楽を聴き、枕で眠るだろう。

すぐれた文章を書く人もトイレで用を足す。Suicaにチャージして電車に乗る。確定申告で会計士と相談する人もいれば百均で買った貯金箱に小銭を貯める人もいる。病院で胃薬を受け取る。




それなのに、クリエイティブの話ばかりする人がいる。口を開けばものづくり。何かにつけて人集め。アイディア。セレンディピティ。

作ることの話ばかりする。

あるいは、ユーザーの話をやたらとする。ただし自分はそこに含まれていない。あくまで自分の商品を使う「他人」の話ばかりする。




なぜそこまで、自分がユーザーであるときの話をしないのだ。





「人間の10割をあえて語らない」

「公私を分ける」

みたいなことだろうか。

何かを生み出す自分が、「生み出さないときの自分」を隠す。

そういうことだろうか。

おそらくは尊敬と金と力を集めるための技術なのだろう。





で、まあぼくの嗜好性の話をするけれども、ぼくが尊敬する仕事人は、基本的にほぼ例外なく、「自分が何かをクリエイトする話」よりも、「自分が何かを消費する話」の方を上手に語る。

医師。

研究者。

作家。

編集者。

音楽家。

教育者。

マンガ家。

ライター。

ぽろぽろと思いつくままに上げていく。顔を思い浮かべる。アイコンしか思い浮かばない人もいる。

ほら、みんな、自分が消費するときのことを楽しそうに語っている人ばかりだ。やっぱりな。




人間・市原のためだけに今から自己啓発書的なものを短く書く。

 「クリエイティブの話しかしない仕事人はあやしい」





クリエイターという言葉をみるとスーパーミルクチャンを思い出す。

「クリエイターは気が短いんだよぅー」。

ラジャー了解。寿司でも食い行っか。

2018年10月15日月曜日

病理の話(252) ケッペキすぎない程度に病気の分類

病気を治すにはいくつかの手段がある。「いくつかの」ときたら分類だ。分類万歳、分類みな兄弟である。ぼくらはみんな分けている。分けているから給料もらえるんだ。

失礼、病理医は分類マニアなので分類について五億六千万四六時中考えている。だから分類となるとテンションが上がってしまう。話を元に戻すぞ。


病気を治すにはいくつかの手段がある。「いくつかの」ときたら分類だ。今日はその分け方の中でも、一般の人がそこまで熱心には考えていないほうの分類を紹介する。

「病気を治すやり方を時系列で分ける」というやり方がある。


1.かからないようにする

2.かかった瞬間に治す

3.かかってだいぶ時間が経ってからがんばって治す

4.かかってだいぶ時間が経ってから病気を抱えたまま寿命が来るまで生きることを目指す


時系列で分ける、の意味がおわかりだろうか。番号の若いほうから、「病気にかかる前」「かかってすぐ」「かかって時間が経ってる」と、病気にかかっている期間の長さごとにざっくりわけているのである。

3,4あたりを見ると不思議に思う人がいるかもしれない。「なんで病気にかかってから放置するの?」「普通さっさと治すでしょ」。いや、そうもいかないのである。だって、世の中の病気の多くは「本人が気づかないうちに悪くなり、悪くなってから気づくもの」だからだ。「2.かかった瞬間に治す」ためには、「かかった瞬間に病気だとわかる」必要がある。なかなかそうはいかない。



もう少し詳しくみてみよう。



1.かからないようにする、なんてのはこれ、治療じゃなくて予防じゃん、という人もいるだろう。そう固いことを言わないでほしい。将来かかるかもしれないからかかる前に治す。ドラえもんも言っていたぞ、「焼き芋は食べる前にオナラをする」と。

2.かかった瞬間に治す、というのはさっきも書いたけどいわゆる「早期発見」の話である。病気の中には、早く見つければ見つけただけ治しやすいという類いのものがある。ただ、ご想像のとおり、これはものすごく難しい。ちょっと物騒な例え話をお許しいただくならば、「交通事故なら絶対に救急車を呼ぶべきか」という話を想像してほしい。

 (1)車にぶつかってどさっと倒れた →これはもう一刻も早く病院にいそぐべき。頭を打っているかもしれない。腰をぶつけているかもしれない。早ければ早いほどいい、病院で調べないと、あとで大変なケガがわかることがある。出血し続けているかもしれない。

 (2)亜音速で飛行しているドラゴンにぶつかって全身バラバラにくだけちった →これは病院に行く意味がない。ゆうしゃは しんでしまっている。さっさと教会に行って蘇生してもらうべきである。

 (3)紙飛行機が背中にぶつかった →なかなか本音を語らない幼なじみが授業中にふせんで折った小さな飛行機をぼくにぶつけてきて恋の交通事故である。ハートに重大な傷を負う前に一刻も早く一緒にカラオケに行くべきだ。恋は盲目だからと言っても眼科の出る幕はない。

 なんだか最後は追憶と妄想の世界に入ってしまったが、「事故ならぜんぶ急いで救急車」というのは間違いだ、といいたいだけである。場合によるのだ。
 そして「がんなら絶対早期発見すべき」も間違っている。ゆっくり見つけても対処がかわらないタイプのがんというのがある(たとえば49歳未満の甲状腺乳頭癌などはいつ見つけてもたいして治療がかわらない。たとえリンパ節転移が見つかったとしてもである)。個人的には大腸癌は早く見つけるに越したことはないと思っている。なお、膵癌は「早く見つけたつもり」でも実は発生からすでに15年が経過しているというスネーク的潜伏の達人なので、科学の進歩が待たれる。


3.かかってだいぶ時間がかかってからがんばって治す →がんだとこのケースが多い。実際、がんの治療は「総力戦」になる。すでに体の中にいるはたらく細胞たちが、がんと精一杯戦っている状況で、それでも打ち倒せないようながんは、もはや小さなゲリラではなくすでに国家レベルで戦争をしかけてきている巨悪なのである。だからこちらも様々な戦略を立ててのぞまなければいけない。

4.かかってだいぶ時間が経ってから病気を抱えたまま寿命が来るまで生きることを目指す → ……ここだよ。哲学は。

……「2.」と「3.」をじっくり読んでいると、考え込んでしまう。病気というのは早く見つけるに越したことはないのだけれど、場合によっては早く見つけたって総力戦で戦わなければいけないこともあるし、逆にゆっくり見つけてもちょろっと直せてしまうときもある。そう、「時と場合による」。ビシッと断定できない、玉虫色の、お医者さんが好きそうな厳密トークで申し訳ない。

で、この「場合による」を突き詰めていくと、ぼくらはある事実に気づくのである。

 「病気というのは、常に完治を目指すべきものなのか?」

いやいや病気なんだから治せよ、という直情的思考は決して間違ってはいない。世の真理ではある。しかしちょっと考えてほしい。

ぼくの体の中にがんがあるとする。このがんは将来ぼくの命を奪うのだが、がんがぼくの命を奪うタイムリミットは、無治療だと20年。ある治療をすると50年。ある治療とある治療を組み合わせると150年だと仮定する。

さあ、ぼくはこのがんを、治療するべきか、否か? 治療するとしたらどこまで本格的にやるか?

これをコーヒーでも飲みながら3日くらいゆっくり考えると、けっこう多くのことを考えつく。人によっては「150年! ぜったい150年!」とか、「はぁ? 150年ってことはがんは消えてないで150年かけてじわじわでかくなるってことでしょ? そんなの治療じゃねーから! その場しのぎだから!」みたいに突っかかってくることもある。

……でもねえ、ぼくは「50年」の治療でもいいかなって思うことはある。



命の長さは比べられない。私の50年にかける思いとあなたの50年にかける思いは違うだろう。どちらが正しいというものではない。




あと、ひとつ、付け加えておく。

もしあなたが、「がんを抱えたまま生きる状態」を、「特別な、かわいそうな、不幸な状態」としか考えられないならば、ぼくからの小さなおせっかいであるが、「そんなことはないぞ」と言っておきたい。

そもそも科学を突き詰めていけばわかることだが、今ぼくの体の中にはすでに無数のがんがある。これはもう確率的に間違いない。それらのがんが、体の中の「はたらく細胞たち」によって精一杯倒され、あるいはおとなしくされているというのがホントのところである。

はたらく細胞たちの防御をかいくぐって巨悪に成長したがんだけが、いわゆる「病院で診断するがん」として目に見えるようになる。

ぼくらは知らないうちに、がんと何度も戦って勝利しながら今を生きているのだ。

そしてその勝利は常に完勝ではない。今この瞬間にも、ぼくの体の中で「川中島」は起こっている。ぼくの体の抵抗勢力とがんがにらみあったまま動かない、均衡状態もしょっちゅう起こっているはずなのだ。目にはほとんど見えない、細胞レベルでの話だが。

「がんを抱えたまま生きるなんてかわいそう」? いやあなたも私もいますでにそうだから。免疫ががんばってそう思わせないでいるだけだから。



その上でね。健康に生きるとか、すこやかに暮らすために、「がんを完全に消し去ること」を唯一の目標にしてしまうというのは、ちょっと、ケッペキすぎないですかねえ、なんてことを思うことも、なくはないのである。

いや、気持ちはわかるのだけれども。

2018年10月12日金曜日

となりの家っsay

WANIMAを聞く気がしない時点で、「若者の感性」はもうわからなくなっている。

たぶんそういうことなのだ。

SNSがあるからぎりぎり若者の文化の「情報部分」だけはぼくに届く。探して集めることもできる。しかし、「情念の部分」だけはどうしても届かない。彼らがおしくらまんじゅうをして熱く湿った空気をぼくが吸うことはない。汗もかかない。写真のような光景だけは見ることができるが、五感に訴えかけてくるものがいろいろと少ない。

だからWANIMAを聴けない。聞こえるけれど。




ぼくらが中学生くらいのときにSNSがあったら、ぼくらの文化に対して40歳前後のおっさんたちが知った顔でネタツイをする様子をみて「キッモ」と思っていただろう。

だから突然WANIMAの話をしはじめたぼくをみた中学生がいたとしたらきっと「キッモ」と思っているかもしれない。あるいは「キッモ」という言葉の選択がそもそも間違っているかもしれない。今もぼくはどこかの誰かと断絶している。そのことに普段気づかないでいられる。世界は優しい。つながっているように勘違いさせてくれる。

ぼくが中学生だったときにはおっさん側が見えなかった。そして今、ぼくはおっさん側にいて、はるか過去に中学生だったときのことを引き合いに出して、現在と過去を比べて「俺は両方知ってるヨ」とやっている。けれどほんとうは何もわかっていない。過去の中学生は現在の中学生とは違う。同様に、過去のおっさんも今のぼくとは違うのだろう。

ずれている。ねじれている。世界は優しい。ぼくはそれに普段気づかずにいられる。




そういう世界の中で、なんだろう、言葉に上手にアクセントを乗せた人の話だけが、クラスタを超えて人々の間をツルツルと滑っていく。





書籍の依頼が来た。書き下ろしで、医療者とか病院についてのあれこれを書くみたいな内容を支持された。

つまんなそうだなーと瞬間的に思った。けれども、これはたぶんぼくが「WANIMAを聞く気がしない」と思っているのと似た根から出てくる感情だ。

それをつまらないと思っているぼくは、誰かからみてつまらないのかもしれない、と思った。

ぼくは垣根を越えてみたい。

そんなことはできないということも知っている。

隣の庭をのぞき見したおっさんが見ているものは、数十年前にそこで遊んでいた自分の姿だけだ。うすくぼやけて、編集されている。






編集者から来たメールをもう一度みる。

「実用や暴露的内容というより、
日常や実態をのぞきみる読み物としてのおもしろさに重きを置いてはどうか」

と書いてある。

ああ、そうか、あなたも垣根を越えたいのだ。

ぼくはエッセイを書き下ろすことにした。医エッセイ的な何かを書く。

2018年10月11日木曜日

病理の話(251) ある日の病の実況中継

ある臨床医が病理検査室にやってきたのは、もう1時間くらい前のことだ。

それからずっと、ふたりで顕微鏡をみている。

臨床医は顕微鏡を覗くために、メガネを外して集合顕微鏡の前に置いた。

そのメガネに先ほどから、悩む臨床医の肘が当たっている。




「効くだろうか」

「うーむ……」




ぼくらは一緒に細胞をみている。

この患者はがんではない。

ある内科的疾患をかかえた人だ。

長い経過があり、これから新しくいくつかの治療をしようという計画もある。

その上で、あるもう一つの治療を加えるべきかどうか。

臨床医は悩んでいた。




ぼくはその話を聞く。

「……という状態なんです。この人には、元からAという病態があるかもしれない」

「はい」

「その上で、Aに対しての治療Xを提案している。これはおそらく近日中に行われる」

「なるほど」

「しかし血液検査の結果を見て、悩んでいます」

「もうひとつ、Bという病態が隠れているのかもしれない、ということですね」

「そう。細胞はどうですか」

ぼくらはまた一緒に顕微鏡をみる。



すでに、臨床医にはいちど、一緒に顕微鏡をみてもらった。レポートに記載した内容もすべて説明済みである。

細胞が形作るパターンの先に病理医が求めたひとつの解。それは多くの先人達が組み上げた学問の先にある。比較的確固とした答えである。

臨床医はそれに上乗せをしたい。

ニュアンスを聞きたがっている。

エビデンスの先にある、ふわふわとした、「この患者が結局どうなりそうか」という曖昧な予測。

エビデンスの手前にある、細胞の顔付きといってもいい。




ぼくは言葉を選んで答える。

「ここに破壊像がひとつ。」

「はい」

「そして、この細胞分布」

「ふむ」

「おまけにここに起こっている細胞の変性。これは血液データの○○を直接説明している可能性がある。あくまで可能性ですが、その本丸を見ているのではないかという気がする」

「ふむ……」




臨床医の心はもう決まっているのかもしれないと思う。

病理検査室の中で、ぼくが全く違う角度からどう思ったのかを聞きながら、彼は自分の心の中にある「まだ言語化されていない確信」みたいなものを少しずつ言葉にしていく。




「けれどここまでです。正直、あとはわかりません」

「うん、ありがとう。わかることとわからないことは、よくわかりました」




彼は肘で押し続けていたメガネを手に取り、去っていこうとして、ふと足をとめてこう言った。

「もう何年も前に、違う先生が似たような症例を経験してね、そのときは△△病院の人たちと相談しながら、うまいことやっていったらしいです。さあ今回はどうしようかなと思っていた。けれどもどこか前と違うところもあるんだよな、と思っていた。それで聞きたかったんです。細胞がどうなっているのか。またお願いします」

ぼくは答える。

「また教えてください」






「また教えてください」に答えてくれる臨床医と、仕事をするといい。

何がどういいのかという強いエビデンスはない。

けれども、ぼくの経験が「たぶんほんとうだ」と言ってくれている。

推奨レベルの極めて弱い、プライベートコメントレベルのエビデンスであると考えていただいてかまわない。

2018年10月10日水曜日

無視するべきではないかと言われた

おやつを食べる習慣を失ってしまった。

出張に行くと自分用にごっそりおみやげを買ってくる。

そのいくつかは職場にキープして、仕事のあいまにぼそぼそと食べる。

ここしばらく出張がなかったので、デスクのお菓子を食べ尽くしてしまった。

すると、とたんに、おやつを食べなくなってしまった。




食べたくて食べていたわけではなかったらしい。

あるから食べていたのだ。





Nintendo Switchを買ってからというものさまざまなゲームで楽しんでいた。ブレスオブザワイルドはすばらしかった。マリオオデッセイもよかった。スプラ2も神である。

しかしある日、ゲームでもすっかなと思ったところ、たまたまSwitchの充電が完全に切れていた。充電するのを忘れていた。

充電器を指したままプレイすればいいかな、と思ったが、充電器に指してもゲームができるようになるまでに数分のタイムラグがあった。

その数分でふと、ゲームをするのがめんどうになってしまった。

それ以来、半年以上、ゲームをしないままでいた。




ゲームをしたくてやっていたわけではなかったのか。

充電があったからやっていたのか。





ときおり、自分の診断しなければいけない標本が完全にゼロになることがある。

するとぼくは働く気もゼロになってしまう。

「積み仕事」があるからこそ働くモチベーションが保てている。

それがわかっているが、診断はおやつとかゲームと違って「あとでゆっくり味わう」類いのものではない。

意図的に診断を遅らせることはできない。

となると、積み上げた山が無くなることを防げない。

じゃあどうするか。

論文を書けばよい。

教科書を書けばよい。

学術を探究し、それを後世に伝える仕事だけは永遠に無くならない。

よかったなあ。おやつやゲームと違って、仕事だけは、一生やっていけそうじゃないか。

ただ、タイムラインに返事してないリプライが溜まっているときは、まずそっちを消化してしまう。

リプライは無くなることがない。

おやつよりもゲームよりも仕事よりも確実に続けられるもの。

それはリプライだ。食べたいわけでも遊びたいわけでも働きたいわけでもないが、リプライが残っている限り、リプライは続いていく。そういうものだ。

2018年10月9日火曜日

病理の話(250) 疾病分類の独特さと脳のVR拡張

医療において、インターネットをどう活用するか。

「インターネット? 知識を集めるために使うってこと? まあ確かに使うよね。論文検索とかでしょ。けれど、医療においてほんとに大事なのは、リアルのつながりのほうじゃないかな。論文調べてる時間よりも、実際に患者に会って話して、触って、処置をしてる時間の方が長いんだから。リアルが主、ネットが従くらいでじゅうぶんだよ」

……なんてことを言う人は、実は、もうほとんどいない。

インターネットはもはや「片腕」を通り過ぎてしまっている。「片脳」でも足りないかもしれないくらいだ。




現代の医療においては、Windows updateよりも頻繁に知識のアップデートを行わなければいけない。

「最新の治療」が日進月歩で登場するというのがその理由のひとつだが、実は、「診断」も日々移り変わっていく。

移り変わるならばそれを反映させるのが医療者の使命。

ほんとかウソかは知らないが、世界にある医療の知識は今や、3か月程度で倍になるという調査があったとか。いくらなんでも3か月で倍ってことはないだろうと思うが(カウントの仕方が厳密すぎるのではないか)、しかし、ビッグバンの後のインフレーションのようなイメージでサイエンスが膨張しているのは間違いない。

そんな現代、オフラインで情報を更新し続けることは絶対に不可能なのである。「オフラインでも十分いけるよ」と思ってる人がいたら、その人は単純に、「情報に追いついていないことに無自覚である」か、もしくは、「メールやPubmedは使ってるけどネットは使ってないよ」みたいに、「そもそも自分が既にインターネットの恩恵を受けていることに無自覚である」にすぎない。




ところで、こう書くと、ギョッとする人がいる。

「診断手法(画像とか血液検査とか)が日進月歩ってのはわからなくもないけれどさあ、もしかして、病気の名前なんかも変わり続けてるってことは、ないよね?」

それがおおありなんだなあ。

昨日までは「○○がん」と呼ばれていた病気が、今日から「△△がん」に変わっているということが、医療現場では本当に起こっているのだ。

なんでこんなことが起こるのだろう。

これにはいくつか理由があるが、一番大きな理由は、病気の分類というものが、昆虫とか魚の分類とはちょっと違う意義を持っているからだ。

病気は、単に「Aという病気はBという病気と似ている」とか「Cという病気はDという病気と異なる」と分類してはいけない

病気は、たとえば、将来患者をどういう目に遭わせると予想されるかによって分類されなければいけない。

そう、病気の分類は実用的な分類でなければいけないのだ。分けてそれでおしまいとはならない。魚を分類することは純粋に科学の目で行えばいいが、病気はある程度社会的に分類しなければいけないのである。




最新の治療薬Xを投与することにより、Aという病気もBという病気もすべて3日で治る、ということが起こったら、AとBを分けて扱う必要がひとつ減る。

だって、治療が一緒で、将来どうなるかも一緒なんだから。

この場合、A=Bとするためにはいくつか追加の条件がいる。

たとえばAという病気の原因と、Bという病気の原因がまるで違っていたら、予防法が異なるだろう。

そういうときにはAとBとは分けたままでいる必要がある。

けれども、Aの原因とBの原因が「不明」だったらどうか?

AもBも、予防方法が不明、治療方法がいっしょ、将来の予測もいっしょとなると。

あとは症状が一緒かどうかぐらいしか、2つの病気を分ける意味がなくなる。




病名を定義するには、その病気がどのような細胞によってできているかとか、どのような症状を呈しているかだけでは不十分なのだ。

現存している治療とか、現代の人間たちが置かれている環境との関係とか、発症するリスク、さらには患者にこの先何をもたらすかという予想まで含めて検討しないと、病名は定義できない。



「ある程度の期間、しっかりと研修をして、知識を高めて、経験を積めば、あとは働ける」なんて仕事は、今や、医療界には存在しない。

……たぶん医療に限らないんだろうね。けれどぼくは医療業界のことしか知らないから、医療の話をする。

科学に基づいた医療を行おうと思ったら、知識も知恵もどちらも、最新のものに更新し続けないといけない。

人間には限界がある。ひとりの脳で、世の中のすべての知識を把握しろというのはできない相談だ。理想論でいえば「全部知っておけ」だろうが、現実的に無理。

だったら、インターネットを使って、脳を拡張しないといけない。

「インターネットを使わずに最新の情報を手に入れる」というのは、現在存在している「脳の拡張方法」の中で、インターネットよりも「弱いツール」に「あえてこだわっている」という意思表示に等しい。





……という文章をブログに書いても実はあまり意味がない。

「ネット? まあほどほどでいいんじゃないかな」という人は、ぜったいにここにはたどり着かないからだ。もしたどり着いたのだとしたら、あなたはすでに、全脳がどっぷりインターネットにはまっているということだ。謙遜なんかしなくていいんだよ。

2018年10月5日金曜日

みんなで幸せになろうよ

油断するとすぐ、それっぽい説教を書こうとしたり、日頃の不満を文字に変えて共有しようとしたりする。

今も、記事の下書きをごっそり消したところだ。





世の中はとにかく最大公約数でできている。

非現実的な理想論をいうならば、全員の欲望にフルで答えるためには「最小公倍数的なサービス」を作らなければいけない。けれど実際には、予算とか技術とかいろんな都合があって、ほとんどのサービスは「最大公約数を担保する」感じで作られる。

だから、ぼくらはいつも、世の中が提供するものに、どこかしら不完全性を感じる。

足りないと思う。

もっとなんとかしてくれと思う。

そしてそれを思わず声に出す。

気づいたら、世の中のあれにもこれにもいっぱい声が出る。思わず。

それが中年というものだ。

目配りができるようになるからアラ探しが容易になる。

言葉数が増えるから詰問したり責めたりする言葉もいっぱい手に入る。




ぼくは中年がやけにオヤジギャグばかり言うのをある種の「劣化」だと思っていたが、今自分がそれになってみて、わかることがある。

確かに劣化もあるとは思う。けれどもそれ以上に、「自分の口から、のべつまくなし不満や説教ばかりが飛び出てくるのが怖い」。

口を開けば苦言、という人間に成り果てるのがキツい。

だから、口を開きたくなったタイミングで、とっさにダジャレを出しておくのだ。

そうすれば自分が「不満ばかりいうタイプのおじさん」でいる可能性を下げられる。

仮に「ダジャレばかりいうタイプのおじさん」だとなじられようともだ。

……苦笑いもまた笑い、ということ。

怒ったり泣いたりする時間を少しでも減らそうと思ったら、苦くても笑っているほうがまだマシではないか。





「ぼのぼの」の中にアライグマくんというのが出てくる。貴重な情報を一つ添えるならば、彼はアライグマである。アライグマ(種別)のアライグマくん(名前)だ。実にわかりやすい。

その彼の親父が出てくる回というのがある。

アライグマくんは、森の中に見知らぬクマが現れたことを知り、あわてて親父に教えに行く。たいへんだ、なんとかしなきゃ、と、興奮しながら。

すると親父は不機嫌そうにアライグマくんをどつきながら言うのだ。

「そんなこと大人はとっくにわかってんだよ。

わかって、あきあきしてんだ」

ぼくはこのシーンがめちゃくちゃに大好きだ。理不尽さがたまらない。

中年は、わかっていて、あきあきしている。子どもはそれを見ておろおろとする。




中年の取れる選択肢なんて限られている。

不機嫌になってどなって殴るか。

苦笑を求めてダジャレで韜晦するか。



いがらしみきおは天才だ。前者のタイプの中年を見事に描いた。

ゆうきまさみも天才であり、後者のタイプの中年として、パトレイバーの後藤隊長を描いた。

2018年10月4日木曜日

病理の話(249) なんべん専門家って書くんだ

今日は少々ばくぜんとした話をする。これはぼくが「今のところ理想的」と考えている、医療の話だ。


1.患者は、自分自身の生活スタイルや、自分自身を楽しく保つ「専門家」である。

2.あるとき、患者は、自分の専門外の理由……「病気」によって、自分の生活や気持ちを保てなくなる。

3.そこで患者は病院にくる。そこには「専門家たち」がいる。

4.まず、受付に、患者の気持ちを最初にうけとめる「専門家」がいる。

5.そこで患者は「専門家」により来院した気分を受け止めてもらいホッとする。

6.次に患者は、自分がどの科にかかったらいいかを判断する「専門家」によって、ある科に連れて行かれる。

7.その科では、最初に話を聞きあいづちを打ち、患者のもつ細かい体調不良のニュアンスをすくい上げる看護師が「専門家」として待ち構えている。

8.さらに、看護師による細かい情報聴取に加えて、診察や検査オーダーの「専門家」である医師が、診察行為を行う。

9.「専門家」である医師の提示をうけて、採血の「専門家」が採血をし、画像検査の「専門家」が画像を作成し、それぞれの部門で「専門的な解釈」がのべられる。

10.聞き取りの「専門家」と検査の「専門家」と画像の「専門家」の意見をうけて、統合及び責任をとることの「専門家」である医師が診断を確定する。

11.治療の際に薬が必要な場合には、薬の「専門家」である薬剤師が力を発揮する。

12.治療の際にリハビリとか身体の調整、日常生活の指導が必要な場合には、理学療法士や栄養士などの「専門家」が力を発揮する。

13.社会的なサポートが必要な場合にはソーシャルワーカーのような「専門家」が。

14.外科手術が必要なら外科医という「専門家」、放射線治療が必要なら放射線科医という「専門家」、抗がん剤が必要なら腫瘍内科という「専門家」が登場する。

15.診療の過程において細胞を直接観察する必要がある場合には、病理医や細胞診スクリーナーなどが「専門家」として役目を果たす。遺伝子・染色体検査のときも同様。

16.以上の「無数の専門家」たちの意見をもとに、支えられながら、最終的に、患者自身の「専門家」である患者本人は、自分の生活を立て直し、自分の精神を楽しませる。




これだけの「専門家」たちが登場する医療は、もはや、

「主治医」

だけではどうにもならない。

「主治チーム」とでも呼ぶべきユニットが患者の周りでさまざまに活躍する必要がある。




「そうは言っても主治医でしょう」と悦に入るのは簡単だ。

主演俳優次第で映画の興行は決まる、みたいな話だ。

患者だって、「ひとりの信頼できる主治医をみつけた」と満足したい日はある。だから主治医というわかりやすい看板は医療にとって必要である。

けれども、それでも、やっぱり、現代の最先端医療は「チーム」で行われる。





なお病理医は、映画に例えるならば「監督」をしている。

こういうと「主治医が監督だろう、俳優もするし監督もするんだよ」と言いたい人が出てくるだろう。

たしかにそういう人もいる。北野武は両方やっている。

一方、黒澤明は、自らは演じなかった。

どちらがいい、という話ではない。

そういうものだ、というだけのこと。

あなたがどの映画にどうやって関わっているか、そこまではぼくはわからない。






まあ蛇足だけれどひとつ付け加えておく。

本当は主治医は主演俳優ですらないと思っている。

主演は患者である。

主治医さまは助演くらいの立場だ。

それも素晴らしい仕事だ。胸を張って欲しい。

ぼくは小さなプロダクションの監督として、本気でそう思っている。

2018年10月3日水曜日

手塚治虫のジャングルの相関

メールの返事が爆速、という人が何人かいて、そういう人の仕事をかなり信用しているのだが、メールの返事が遅いからといって仕事を信用していないわけではまったくない。

「メールの返事が早いこと」は単なる加点項目だ。減点基準としては使わない。

メールの返信速度は人それぞれだ。事情があり、スケジュールがある。職種環境によってネット接続状況だって違う。そもそも人間の能力を全く反映していない。適当に雑な内容でさっさと返信する人だっている。じっくりすばらしいメールを書く人だっている。

それがわかっているのにぼくは、なぜかメールの返事が早い人を信用している。

自分でもよくわからない。





極端な例をあげると、金曜日の夕方17時ころまではメールの返事が光速より早いが、金曜日の17時以降、月曜日の朝8時ころまではまったくメールに返事がこないという人が2人いる。この2人の仕事は世の中の誰よりも信用している。

この場合、ぼくは結局その2人の何を信用しているのだろう。

よく説明できない。もはや加点とか減点とかそういうレベルではなくて、その人の人柄が直接複数のシナプスを発火させて

三= 信
   用 =三
三= で
 三=き
    る =三

みたいに、複合的に、直感的に、「いい人」スイッチが入る。

理由はわからない。

複雑系の入力に「メールの返信が早い」とぶちこむと、ブラックボックスの中を通り抜けて、なぜか出力が「いい人」となってしまう。



……あれ?

信用できる、できない、の話をしていたはずが、ナチュラルに今、「いい人」というキータッチをしていた。

ぼくが信用するかどうかってのは結局、「いい人かどうか」のようだ。

よく考えるとふしぎである。

いい人でも仕事ができない人なんていっぱいいそうなのに。

ぼくは「いい人の仕事は信用できる」と思っているようだ。





今いろいろと反証をたくらんだけれど、結論は変わらなかった。

「いい人はたいてい優秀」。

うん、書いてみてもおなじ。ぼくは本気でそう思っている。「いい人ならば信用してよい、いい人ならばたいてい優秀だからだ」。

メールの返信を急ぐ人というのはたいてい「いい人」だ。だからたいてい仕事ができるし、つまり信用してよい。そういう理屈のようである。





医学に暮らしていると、「Aならば絶対にB」というような法則がいかにあり得ないかを思い知る。「Aとわかったからすなわち必ずB」というようなことは基本的にありえない。あらゆる物事に例外がある。それこそが科学だ。だから、自然と「絶対はない」という思考過程があたりまえになる。

そんなぼくにとって、日常の生活で使って良い「最上の相関」は、

 「AならばたいていB」。

これが示せたらもう御の字だ。「たいてい」の法則まで捉えたら十分実用レベルなのだ。

仮に、「たいてい」を超えるような相関が出たと誰かが言った場合……「間違いなく」とか「絶対に」とか「99%以上の確率で」みたいなセリフが踊った場合、それはたいてい、ウソ・おおげさである。

すなわち、

「いい人ならばたいてい仕事ができる」

とぼくが考えた場合、これはもう「人間社会で最強の相関」だということだ。だって、「たいてい」を超える相関なんてないんだから。

いい人だが仕事ができない人というのはいるだろう。けれどあくまで例外だ。それで十分なのである。




たいてい、それでうまくいっている。

2018年10月2日火曜日

病理の話(248) ワールドプロ細胞リング

細胞の実況中継をできるといい。



「基底側の直上にある細胞に、動きが……?」

「なにやら不穏ですね」

「やや腫大してきています」

「おまけにタンパクの発現が少し狂い始めていますね」

「注意しておかないといけません」

「同感です」

「ああっとここで変異が一つ増えた!」

「あきらかに従来よりも挙動がおかしくなりましたね」

「基底側そばの線維芽細胞リポーターによると、細胞分裂の回数が増えているとのことです」

「ありがとうございました」

「一方でいつのまにかアポトーシス回避能力を手に入れているようです」

「うまいですね、いつのまに獲得したんでしょう」

「さあ、基底側直上でカタマリをつくりはじめました。いよいよ腫瘍としての性質が垣間見えはじめています」

「まだ浸潤はしていないようですが、時間の問題ですね」

「おっここでドライバー変異をもう一つ獲得!」

「ここからは早いかもしれません、さあこのまま免疫は黙って見過ごすのか」

「アッ動いた、動きました! 免疫が動きました。T細胞系の誘導がかかりました」

「先ほどのドライバー変異が免疫系にとっても目印になりやすかったのでしょう。攻撃側にとっても重要な変異ですが、守備側にとってもマーカーとなっているのは皮肉です」

「激しい戦いがはじまりました」

「腫瘍細胞はもう癌化しているんですけれど、今回は免疫の動きがよかったですね。このまま守備側が押し切りそうです」

「免疫軍のヘルパーT氏は、初動に自信がある、絶対に止めてみせる、と事前のインタビューでも答えていました」

「あーさらにB細胞が参戦しています。TNFα系も動き始めました」

「これは勝負ありましたね」

「浸潤開始する前に腫瘍細胞が駆逐されました。1回表、終了です」

「今日は打撃戦でしょうね」



プレパラート1枚を見ているだけだとこういう「時間の経過と、細胞の思惑」というのはなかなか見えてこない。

けれども、多くの症例を目にして、多くの学術論文を参照しているうちに、ストーリーめいたものが少しずつ見えてくる。

別に病気をモチーフに遊べと言っているわけではないのでそこんところは悪しからず。

こういうのはおおまじめにやるべきことだ。

2018年10月1日月曜日

むげんさんけんし

夜中に目が覚めてお手洗いにいくなどし、軽くスマホをみてから二度寝したところ、直前に見ていたスマホの内容がそのまま夢に出てきたことがあった。

このときの「夢なのに夢じゃなかった感」がすごくて、朝起きたときにぐったりと疲れてしまった。どこからが夢だったのだろう、と、しばらく記憶を確かめ算的にたどる必要があった。


「いったい どれが ゆめなんだ」系の創作物としてぼくが一番さいしょに目にしたのはドラえもんだ。「うつつまくら」だったと思う。

その後、いくつかの夢かうつつか系創作を目にした。「それでも町は廻っている」にも秀逸なエピソードがあった。うなぎを食べてアナゴみてぇだという回だ。




夢というのは記憶を整理する「役割」をもっているんだよ、と、ちょっと物を知っている人はいう。

しかし、そんな人に、

「記憶を整理する役割というのは、人間にとってどう必要なのですか?」

と重ねてたずねると、答えてもらえることはまずない。



夢というのは記憶を整理する「作業」なんだよ、ならわかる。

でも全ての「作業」が「役割」なわけではない。



人間の脳はそうまでして記憶を整理しないと成り立たないものなのか?

夢なしで、記憶を整理しない状態だと、人間はどれくらいポンコツになるのか?

そのあたりの検討が終わっていないのに、「作業」を「役割」認定してしまうのは、科学者の姿勢としては少々あぶなっかしいように感じる。




適者生存の理に基づけば、いま人間の体に残っている「作業」はすべて合目的であり必要不可欠な「役割」だ、と考えることもできる。

でもやっぱり男子に乳首は必要ないわけで、現在人間に残っているものがすべて有益なものだとは思えない。





夢というのは本当に必要なものなのか。それはまだ誰にもわからない。

そして、夢と区別がつかなくなる程度の現実も、そもそも必要ないのかもしれない。これだってまだ誰にもわからないのである。