2018年10月11日木曜日

病理の話(251) ある日の病の実況中継

ある臨床医が病理検査室にやってきたのは、もう1時間くらい前のことだ。

それからずっと、ふたりで顕微鏡をみている。

臨床医は顕微鏡を覗くために、メガネを外して集合顕微鏡の前に置いた。

そのメガネに先ほどから、悩む臨床医の肘が当たっている。




「効くだろうか」

「うーむ……」




ぼくらは一緒に細胞をみている。

この患者はがんではない。

ある内科的疾患をかかえた人だ。

長い経過があり、これから新しくいくつかの治療をしようという計画もある。

その上で、あるもう一つの治療を加えるべきかどうか。

臨床医は悩んでいた。




ぼくはその話を聞く。

「……という状態なんです。この人には、元からAという病態があるかもしれない」

「はい」

「その上で、Aに対しての治療Xを提案している。これはおそらく近日中に行われる」

「なるほど」

「しかし血液検査の結果を見て、悩んでいます」

「もうひとつ、Bという病態が隠れているのかもしれない、ということですね」

「そう。細胞はどうですか」

ぼくらはまた一緒に顕微鏡をみる。



すでに、臨床医にはいちど、一緒に顕微鏡をみてもらった。レポートに記載した内容もすべて説明済みである。

細胞が形作るパターンの先に病理医が求めたひとつの解。それは多くの先人達が組み上げた学問の先にある。比較的確固とした答えである。

臨床医はそれに上乗せをしたい。

ニュアンスを聞きたがっている。

エビデンスの先にある、ふわふわとした、「この患者が結局どうなりそうか」という曖昧な予測。

エビデンスの手前にある、細胞の顔付きといってもいい。




ぼくは言葉を選んで答える。

「ここに破壊像がひとつ。」

「はい」

「そして、この細胞分布」

「ふむ」

「おまけにここに起こっている細胞の変性。これは血液データの○○を直接説明している可能性がある。あくまで可能性ですが、その本丸を見ているのではないかという気がする」

「ふむ……」




臨床医の心はもう決まっているのかもしれないと思う。

病理検査室の中で、ぼくが全く違う角度からどう思ったのかを聞きながら、彼は自分の心の中にある「まだ言語化されていない確信」みたいなものを少しずつ言葉にしていく。




「けれどここまでです。正直、あとはわかりません」

「うん、ありがとう。わかることとわからないことは、よくわかりました」




彼は肘で押し続けていたメガネを手に取り、去っていこうとして、ふと足をとめてこう言った。

「もう何年も前に、違う先生が似たような症例を経験してね、そのときは△△病院の人たちと相談しながら、うまいことやっていったらしいです。さあ今回はどうしようかなと思っていた。けれどもどこか前と違うところもあるんだよな、と思っていた。それで聞きたかったんです。細胞がどうなっているのか。またお願いします」

ぼくは答える。

「また教えてください」






「また教えてください」に答えてくれる臨床医と、仕事をするといい。

何がどういいのかという強いエビデンスはない。

けれども、ぼくの経験が「たぶんほんとうだ」と言ってくれている。

推奨レベルの極めて弱い、プライベートコメントレベルのエビデンスであると考えていただいてかまわない。