2018年10月1日月曜日

むげんさんけんし

夜中に目が覚めてお手洗いにいくなどし、軽くスマホをみてから二度寝したところ、直前に見ていたスマホの内容がそのまま夢に出てきたことがあった。

このときの「夢なのに夢じゃなかった感」がすごくて、朝起きたときにぐったりと疲れてしまった。どこからが夢だったのだろう、と、しばらく記憶を確かめ算的にたどる必要があった。


「いったい どれが ゆめなんだ」系の創作物としてぼくが一番さいしょに目にしたのはドラえもんだ。「うつつまくら」だったと思う。

その後、いくつかの夢かうつつか系創作を目にした。「それでも町は廻っている」にも秀逸なエピソードがあった。うなぎを食べてアナゴみてぇだという回だ。




夢というのは記憶を整理する「役割」をもっているんだよ、と、ちょっと物を知っている人はいう。

しかし、そんな人に、

「記憶を整理する役割というのは、人間にとってどう必要なのですか?」

と重ねてたずねると、答えてもらえることはまずない。



夢というのは記憶を整理する「作業」なんだよ、ならわかる。

でも全ての「作業」が「役割」なわけではない。



人間の脳はそうまでして記憶を整理しないと成り立たないものなのか?

夢なしで、記憶を整理しない状態だと、人間はどれくらいポンコツになるのか?

そのあたりの検討が終わっていないのに、「作業」を「役割」認定してしまうのは、科学者の姿勢としては少々あぶなっかしいように感じる。




適者生存の理に基づけば、いま人間の体に残っている「作業」はすべて合目的であり必要不可欠な「役割」だ、と考えることもできる。

でもやっぱり男子に乳首は必要ないわけで、現在人間に残っているものがすべて有益なものだとは思えない。





夢というのは本当に必要なものなのか。それはまだ誰にもわからない。

そして、夢と区別がつかなくなる程度の現実も、そもそも必要ないのかもしれない。これだってまだ誰にもわからないのである。