2018年11月16日金曜日

病理の話(264) 違和感のゆるキャン

ある「依頼書」を読んでいる。

「依頼書」には、患者の体の中からある小さな一部分をとってくるにあたり、臨床医が考えていたストーリーが事細かに書かれてある。

その文章を、最初は、読み飛ばすくらいの勢いで、「雑に」読む。

あまり先入観を持ちすぎないように、最小限の情報をチェックする程度にとどめる。

これは、過去に幾度となく先入観にひっぱられて危ない思いをしたことがあるぼくが、心に刻み込んでいるヒケツだ。

「顕微鏡を見る前に、臨床情報にあまりひたりすぎてしまってはかえって毒になる」。



そして、いざ、顕微鏡をのぞきこむ。

細胞が見えてくる。

にわかに爆発的な感情がおしよせる。

  (これは難しい)

一目見てわかる。あきらかに細胞の配列が「いつも」と違う。

正常ではない。異常だ。さらにいえば、異常は異常でも、「いつも経験するタイプの異常」ではない。

「あまり経験しないタイプの異常」なのである。息を詰める。いったん顕微鏡から目線を外す。



いわゆるレアな病気を考える。

このあたりで、ぼくの右肩の上に妖精がとまってささやく。「レアな病気だけじゃだめだよ。よくある病気のレアな見え方、というパターンも考えないとだめ。シャラシャラーン」

今度は左肩の上に魔物がとまってささやく。「そもそも異常だと決めてかかってるけど、病気じゃなくて個人差の範疇だったらどうするんだ。病気じゃないのに病気って診断したらお前、裁判で負けるぞ。ゲゲゲゲ」




心を落ち着けて依頼書を読み直す。

臨床医もいつもと違って、どことなく詳しく情報を書き込んでいる。患者の状態、それまでに経験してきた病気の種類。一見すると今回のぼくの顕微鏡診断には関係がなさそうだと思って読み飛ばしていた、さまざまな情報が、今度は紙面から立ち上がって見えてくる。

その情報は、必ずしもぼくの中にうまく同居してくれない。

「違和感」なのだ。

心に住んではくれるんだけれど、テントを張って住みつくかんじ。

いっとき間借りしますよ。おじゃましますよ。今からキャンプするんで。

おさまりの悪い情報たちは、ぼくの心の敷地内に、好き勝手にテントを張る。ペグをうつ。縄を張る。オオカミのおしっこをふりまいてクマよけにしたりする。

情報たちは好き勝手だ。ぼくの思考には合わせてくれない。変な時間にテントにもぐって眠ってしまい、まったく現れてこなくなるやつもいる。一方、テントのなかから這い出してきて、バーナーに火をつけて焼肉をやっているやつもいる。

キャンプファイヤーをやっているやつら。うるせえなあ。静かにしてくれ。……しかしその火の中には何事か書いてあるようにも思う。ぼくは気が散りながらも、なんとなく、心に住み始めた違和感たちが何かを伝えようとしているのではないか、と、目を凝らし、耳を澄ます。ホホッホウ、ホホッホウ、あいつらボーイスカウトの歌を歌い始めやがった。むかつく。




そして何かが見えてくる。

あわてて病理の教科書を取り出す。考えていた病気とは違うページをめくる。いくつもめくる。

あった。これかもしれない。

顕微鏡に戻る。今度は潜水するかんじだ。思考を針のように細くして、接眼レンズから思い切り飛び込んでしまう。

細胞の配列。形状。核の様子。

免疫染色の態度。陽性、陰性だけではなく、染まっているというならばどのような形でどれくらいの細胞が染まっているのかを丁寧に拾う。




これで間違いがない。ぼくは診断書を書く。ボスに見てもらう。ダブルチェックで診断を確定して送信する。

やりきったという充足感に満たされる。ぼくは自分が最高だと思う。神ではないかと思う。存在そのものではないかとも感じられる。概念として世界を統べることも可能だろう。むしろ世界とはぼくではないか?




何時間もたたないうちに臨床医から電話がかかってくる。「あー先生あれなるほどってなりましたよ」

「「「「そうだろう」」」」 世界となったぼくは、脳の中に直接かたりかけるような声で応じる。もうエコーなんか何重にもかかっている。荘厳である。

すると、臨床医がいうのだ。

臨床医「それでですね、思いついたことがありまして」

概念「「「ほう……?」」」

臨床医「この病気、それにこの臨床症状となると、今回とってきた検体には、この像も含まれているかもしれないですよね」

神「「あっ」」

臨床医「それも見ていただいていいですかね?」

人「ああ……すんません……最初からそこまで見通してたらぼくかっこよかったのに……」

臨床医「かっこいいとは」

虫「いえなんでもないです……ぼくは虫です」





心のキャンプ場は閑散としていたが、撤収時間ぎりぎりまでテントの中で寝ていたのであろう、あるのんびりやさんが、いつのまにかハンモックにゆられながらいたずらっぽく笑ってこっちを見ている。

最初からお前に気づいていればぼくは世界のままでいられたのに。

虫となりまた診断に戻る。もそもそと依頼書を読むと、先ほどとまったく同じ臨床医が、今度は別の患者について、何やら長文の悩みをぶちまけていた。虫は頭を抱える。虫は足の数が多いから、頭を抱えるのも一大イベントとなる。