2018年11月30日金曜日

アウトレット品がおとくです

Bluetoothのキーボード、少し安いやつにして使い始めてしばらく立つが、着々と手指が疲れてきているのがわかる。

なんにでもいえることだが、毎日必ず接するものはある程度しっかりお金をかけないとつらい年齢になってきたなあと思う。

枕とか。

椅子とか。

靴もそうかなあ。

このあたりは、つくりがしょぼいのを使うと、あちこち体に痛みが出るようになってしまった。

肌着の類いはまだそれほど重要性を感じていないけれど、きっと中には、熱い寒い汗をかくかかないなどで、細かく肌に触れるものに気を遣っている人もいるだろうと思う。




そして、なんとなく、「ことば」についても同じ事が言えるのではないか、と感じた。

日頃から自分が頻繁に使うことば、というものがある。なかなか自分では気づかないことも多いが、口癖というか、ことばぐせみたいなものが人間にはある。

ぼくの場合、たとえば、今の「人間」という単語をよく使う。これは人に言われて気づいたことだ。「ひとが、って言うタイミングでときどき人間って言うね」。なるほどな、と思った。ぼくに染みついたある種のクセだろう。



そして、日常的に便利で使いこなしていることばの種類によって、おそらくだが、疲労の蓄積度合いが変わってくるように思う。枕や椅子と同じように。

「ムカつく」ということばを頻用していると、自分の中にある背筋的なものが少しずつゆがんで、節々が痛くなるように思う。

「しょうがない」ということばにもそういうところがある。

このあたり、世の中に「ネガティブなことば」として認識されているので、わかりやすいだろう。でももう少しわかりにくいものもある。

たとえば「傾向」。

あるいは「流れ」。

ときには「クリエイティブ」。

そして「幸せ」。

このあたりのことばも、使いまくっていると、なぜかはわからないのだが、靴擦れのような摩耗を引き起こしたりすることがあるのではないか、と思う。




靴とかキーボードとちがって、値段をかければいいものを揃えられるわけではない。

ことばを選んで使うには、ある種の訓練とか気配りが必要だ。

そして服装や日用品と同様に、自分の選んでいる日用ことばのセンスがいいか悪いかは、得てして自分だけではなかなか気づけない。



そしてようやく気づいたこととして、ぼくはどうも、この「自分」ということばにだいぶ姿勢を崩されているふしがある。

2018年11月29日木曜日

病理の話(268) ピンポイント探知機とふんわりゲシュタルト

細胞を観察して、病気の種類や進行度合いを特定するとき、細胞がどんな形をしているか、染色したときにどのような色で染まるか、という情報はある意味非常にアナログだ。

細胞の核がでかいとはどういうことか?

細胞質になにか空胞のようなものがあるとはどういうことか?

ひとつひとつ、「所見」に意味を重ね合わせて、病気の正体を探る。これが病理診断学のキホン。

これは、歩いている人をぼうっと観察して、そいつが悪人かどうかを判断するのと、似ている。

全体にまとった雰囲気、なんか悪そうな目つき、なんかいかにもなリーゼント、なんとなくチラ見する首元のいれずみ……。

全体をぱっとみて、「あっヤクザだ!」ってわかるときもあるし、注意深くみないとわからないときもある。なかなか主観的な作業ではある。



これに対し、現在、病理診断の世界においては「免疫染色」という手法が全盛である。

このやりかたは、細胞全体の雰囲気をみるのではなくて、細胞がもつタンパク質1つに注目して、そいつの性質をあばきだすという手法だ。

たとえていうならば、空港の金属探知機みたいなものである。

人間のシルエットの中に、金属成分だけを浮かび上がらせると、拳銃が見えてくる。そしたらそいつは悪人だ。一見良さそうな顔をしていても、空港で銃を持っていたらアウトだろう。



けれども免疫染色にはちょっとした弱点がある。

それは、「金属探知機は金属しか見つけられない」というのと似ている。

今、どれだけ技術がすすんでいるかしらないけれど、たとえば、「金属探知機にひっかからない特殊なプラスチック」で拳銃を作っていたら、金属探知機では検出できないだろう。

それといっしょだ。

細胞をみて、「あっ、あのタンパク質Aに対する免疫染色をしよう」とやったところで、調べていないタンパク質Bの異常は検出できない。




ヤクザかどうかを全体像でふわっと判定したあとに、●●探知機をいくつも用いて、ヤクザと確定できるだけの物質を探し出す。これは現代の病理医がやっている診断とかなりよく似ている。





その上で、あえていうのだが、最近ぼくは、「ヤクザかどうかを全体像でふわっと判定する」ほうの技術をもっと向上させられないだろうか、ということをよく考えている。

探知機は便利なので使いこなすけれども。

たとえばディープラーニングを用いた画像解析をうまくつかうと、「全体像のふわっとした解析」はとてもうまくいきそうだ、ということがわかりはじめている。

そして、それだけでなく、HE染色のような「色づけ」システムにもまだまだ見所があるな、という印象をもっている。

HE染色だけではなく、PAS染色やEVG染色、鍍銀染色などをもっと詳しく使いこなしたい。昔の病理医達は今よりずっと染色マニアだった。

染め方を変えると、見えてくるものも変わる。




結局、ぼくは、20代のころ自分がバカにしていた(と言わざるを得ない)、昔の病理医のアナログなやり方に回帰している。年をとったということかもしれないし、先達は偉いということを今さら知っただけのことかもしれない。

2018年11月28日水曜日

フライングプライド

カメラ用品の中にほこりを吹き飛ばすフイゴみたいなのがあるが、最近あれを使って顕微鏡周りやキーボード周りのほこりをびゅんびゅん吹き飛ばしていたら、なんだかくしゃみが出る。

フイゴってすごい字を書くなあ。

鞴。




むかしのマンガで本屋さんがパタパタ棚にはたきをかけていた。

最近ああいうのは見なくなったように思うがどうなんだろうか。

はたきをかければそれだけほこりが飛ぶだろう、なぜあんなことをするんだろう、と子供心に不思議だった。

今ぼくがキーボードのほこりを吹き飛ばして目をこすっているのと何もかわらない。



「書店 はたき」で検索をしてみると、検索結果の上位にはずらりと、

「立ち読みしている客をはたきで追い払う本屋は実在するのか」

という疑問が並んでいた。

つまりはたきなんてものは今や迷惑行為なのである。

クイックルワイパーを使った方がほこりが舞わなくて便利だ。




冒頭に、カメラ用品のフイゴみたいなやつ、と書いたが、正式名称を思い出した。「ブロワー」だったと思う。ドラゴンボールに出てきそうな名前。

はたくからはたき。

ブローするからブロワー。

人間の基本的行動をちょっとだけ拡充するような道具には、たいてい直球過ぎる名称がついている。

教え授けるから教授。

病の理を診て断定する医者は病理診断医。

みんないっしょだ。

ぼくらはときに、ほこりをとばしてかえって空気を悪くしてしまう存在でもある。

2018年11月27日火曜日

病理の話(267) いちから知りたい病理学のべんきょう

とにかくエッセンスを教えてくれ、と思っていた。

ぼくが20代のころの話。

病理学を学び始めたころのことだ。



大腸ポリープ。胃生検。

基本中の基本だよ、といわれた、これらの病理組織像が全くわからない。

大学の講座においてある教科書は何十冊もある。

でも、どれも非常に骨太で、本格的で、なにやら難しいことばかりが書いてある。

ぼくが今知りたいのは小さなポリープについてなのだが……。

どれを調べればよいのかわからない。



また、鬼門もあった。英語である。

英語がとにかくよくわからなかった。まず単語がわからない。




Rhabdoidとはなんだ?

辞書を引く。

「横紋筋様」。

漢字がならんでいるだけにしか見えない。意味がとれない。

横紋筋のような、というのがイメージとして頭にスッと入ってこない。

だって今勉強しているのは骨格筋じゃないんだ。悪性腫瘍の話なんだぞ?

横紋筋が、何に関係しているんだろう。

必死で1時間ほど格闘して、rhabdoidという単語は、少なくとも今調べているポリープとはなんの関係もないということだけがかろうじてわかる。




一時が万事この調子であった。わからない単語が出てきて一時停止、単語の意味を調べても結局それ以上みえてこなくて一時停止。信号の繋がりがきわめて悪い国道沿いのバイパスみたいなかんじだ。




Chromatinがvesicularとはなんだ?

Chromatinというのはクロマチン、すなわち細胞核の中にある物質だ。ここまでは習った。しかし習っただけだ、意味はわからない。

おまけにvesicularという単語がわからない。

しらべてみて笑ってしまう。

「Vesicularとはporousもしくはbubblyなことです」。

わははは。なんじゃそりゃ。わからない単語を調べたらわからない単語が2倍になった。

ポケットの中には英単語がひとつ。

叩いてみるたび英単語が増える。

なんの解決にもならないし、ポケットの中は粉まみれである。

昔ガンダムで「ポケットの中の戦争」ってのがあったが、あれはつまりビスケットが砕けたという意味だったのだろうか。




がんばってすべて日本語訳にする。

Vesicularとはコロコロとまるいものが寄せ集まっているイメージです。

なんとかかんとか意味はとれた。

ではクロマチンがコロコロまるくて寄せ集まってるというのはどういうことなのか?

結局日本語がわかってもその先がわからない。

Golgi? ああ、ゴルジ体か……。

Pale は 淡い……これはわかる……。

ゴルジが淡いってのはなんだ。直訳しても意味が意図とならない。




結局ぼくは人から伝え聞くかたちで病理を勉強するしかなかった。

ほんとうはちょっといやだったのだ。

本腰を入れて勉強するなら、個人の偏った経験を輸入するのではなく、きちんと「いちから」勉強したかった。

座学できちんと細部を詰めながら、論理的に学びたかった。

けれどそんなことはぼくには不可能だった。

病理学は、「いちから」の「いち」が「5億」くらいあるように感じられた。

実際には「50万」くらいだったのだが……。




まあそんなわけで病理学をいちから始めたい人むけの教科書をどう勧めるかについてはいつも頭を悩ませている。

病理を学びたい人が、将来、どんな仕事をしたいのかにもよる。

消化器内視鏡医になりたいならば、やはり胃腸の病気に関係のある病理学を勉強すべきだとは思う。

けれども、「胃腸に関係のある病理を学ぶ以前に仕入れておかなければいけない知識」はどうすればいいのか……。

結局、「最初はいっしょに顕微鏡をみましょう」と言って、ぼくの経験をもとに、あまり体系として整っていない話からはじめることになる。

若い医学生や研修医はどこか不満そうだな、と感じることがある。

その気持ちは、とても、よくわかる。



読むならこのへんがいいかな、という本を、ようやくいくつか紹介できるようになった。

Quick Reference Handbook for Surgical Pathologists   Natasha Rekhtman 

臨床に役立つ! 病理診断のキホン教えます   伊藤智雄 

皮膚病理イラストレイテッド〈1〉炎症性疾患   今山 修平 

最後のやつは最近のお気に入り。

皮膚? といわずに立ち読みしてみたらいい。

きっとほしくなるから。……ぼくと同じタイプの人間ならば。

2018年11月26日月曜日

歩く鳥って書くんだよ

さまざまなことが浮かんでは消え、文字にしてはみるものの、数行進んだあたりで全部消してしまう。

今日はそんな日だ。




こういうとき、思い出すのは、マンガ「それでも町は廻っている」のあるシーン。

主人公の歩鳥が、ある夜、眠れずに過ごす。

頭の上のあたりに、もやもやと、昔の友だち、今の友だち、亡くなった祖父の顔などが次々と浮かんでいる。

目がパチリと空き、

「だめだ」

「これは眠れないときのかんじだ」

と言う。

起きて、自分の部屋を出て、階段を降りる。

冷蔵庫をのぞき、めぼしいものがないので、夜の町に出て、コンビニに向かう。




ぼくはこの一連のシーンを、一度読んですぐに記憶した。

細かいセリフまですべて覚えているわけではないのだが、ぼくが考える「夜の雰囲気」というのとまさにぴったり一致していたから、なんだか心にしっかりと張り付いてしまった。




まれにそういう作品に出会うと、もじもじとする。

誰にも話したことがない自分だけの記憶が、まったく関わりのない人の頭の中に存在していて、創作物の中に組み上げられて、ある偶然によって自分の目の前に展開される。

よくあることかもしれない。それでも、もじもじとする。





「誰にでもありうること」をうまく描いた物語はバカ売れする。

共感の嵐!

はじめて読むのに懐かしい!

心の底にあるスイッチがおされまくる!

このような惹句をときどき目にする。

が、「それ町」は別格だ。なぜかというと、エピソードひとつひとつが、本当に「なんでもない」からだ。

誰もがもっている初恋の記憶、とか、一度は経験したあのさみしさ、とかが描かれているわけではない。

もっと、些末な……というか、ありふれすぎていて普通の創作物では省略してしまうようなポイントに限って、やたらと綿密に描いている。





ぼくが「さまざまなことを思い浮かべるのだけれど、なんとなくしっくりこなくて、作った文章も全部消してしまう日」に、あれこれと書き記していることは、たいてい、

「中途半端に共感を呼びそうな文章」

である。

「わかってくれ」と「わかるだろ」と「わからないだろうな」のバランスみたいなものが、圧力とともに崩れているような日があって、そういうときは、何を書いてもうまくいかず、結局ディスプレイの前でだまりこんでしまう。




「だめだ」

「これは書けないときのかんじだ」

というアレになるのだ。

2018年11月22日木曜日

病理の話(266) 科についてのこと

医者をとっつかまえてきて、

「ご専門は?」

とたずねてみよう。どんな回答が返ってくるかな。

「外科です」

「内科です」

「小児科です」

もしこう返ってきたら、もう少し細かくたずねてみよう。

相手はまだ、こちらに心を開いてくれていないようだ。

あるいは、ニセ医者かもしれない。





たとえば、スポーツマンをとっつかまえてきて、

「ご専門は?」

とたずねてみたら、どういう返事がかえってくるだろうか。

「野球です」

「サッカーです」

「ラグビーです」

まあたとえばこういう返事だったとする。

そしたら、きっとあなたは、もっと尋ねることができる。「ポジションはどこですか?」

すると、

「ピッチャーやってます」

「ボランチです」

「タッチラインをきれいに引くのが得意です」

みたいに、さらに深い答えが得られる。



いまどきの医者はとにかく専門性が極まっていて、狭く、深く、自分の得意領域を囲い込んでいる。

外科……の中でも、さらに、肝臓を切るのが得意な外科、とか。

内科……の中でも、特に、甲状腺の病気に詳しい内科、とか。




病理医もそうだ。

病理医として働くとき、病理専門医という資格があるとべんりで、この資格をとるためには「全部の臓器の病理」に詳しくなる必要がある。

それだけに、病理医といえばすべての臓器の顕微鏡像に詳しい……と思われがちなのであるが……。

実は病理医にも細かく得意とする領域があることが、圧倒的に多い。




ぼくは消化管と肝臓、膵臓、胆道、乳腺、甲状腺、肺の病理に比較的詳しい。

血液・悪性リンパ腫、軟部腫瘍の病理についてはわりと興味をもって勉強している。

泌尿器科領域、特に腎臓や尿路、前立腺についてはそこそこ経験がある。

産婦人科の臓器についてもしょっちゅう見ている。

一方で、脳や神経の病理については日頃あまり見なくなった。理由は、自分の病院に、脳外科がないからだ。

また腎生検もみていない。自分の病院に、腎臓内科医がいないからである。



この中でひとつ、専門はどれ、と聞かれたら、悩んだ末に、「消化管の病理ですかね……」と答える。消化管といっても食道と胃と大腸と小腸があるので、より深く尋ねられれば、より細かく答える準備はある。



これだけ細かく分担をしないと今の医学は太刀打ちできない。

だからこそ、日常診療において大事なのは、「他分野に詳しい人々」と仲良く連携すること。

自分の得意分野だけで勝負するのも悪くはないのだが、あまりに狙い球を絞りすぎると、見逃し三振が増えてしまう。自分の苦手なコースについてはほかの人に打ってもらうというのが、長く楽しく病理医を続けていくコツのひとつではある。




……でも、それでも、あくまで自分の専門領域を、狭く、深く、厳しく追及していくタイプの病理医というのもいて、ぼくはそういう人のことを、「いいなあ」「うらやましいなあ」と思って、眺めてはいる。

2018年11月21日水曜日

ドラハッパーなる造語も流行した

季節の変わり目は風邪を引きやすい、という言葉がある。

季節の変わり目とはいつか。春とか秋だろうか。

夏は夏風邪というのがある。

冬は寒いので風邪に注意しなければいけない。

そして季節の変わり目には体調を崩しやすい。

人間は年中体調管理をしている必要がある。

そして体内には年がら年中体調管理してくれるやつがいる。

腎臓とか肝臓である。

そこがカンジン、ってやつだ。

まあ日本語というのはよくできている……。




しまった、今日は「病理の話」ではなかった。

関係ない話をしなければいけない。

これはもうぼくの中では絶対のルールとなりつつある。

たまに混乱するけれど、ブログの中では、病理の話とそれ以外の話とを交互にやっていくことに決めているのだ。

となるとやはり今日はハットリ君の話をするべきだろう。




マンガ・アニメ・あるいは実写でもおなじみの、忍者ハットリくんの本名は、「ハットリカンゾウ」である。

これはもちろん実在した忍者(?)、服部半蔵のパロディであろう。

しかし、パロディにするにしても、なぜカンゾウという名前を選んだのかはふしぎである。藤子不二雄Aのネーミングセンスはすごい。

ハットリくんの弟はシンゾウという。

そして父親はジンゾウというのだ。まあよく考えたものだ。たしかにこの3つは響きが人名っぽい。ヒゾウはちょっと人名っぽくない。スイゾウはいけるかもしれない。

ところで、母親の名前はなんというのだったかな。

思い出せない。

昔はここまでで思考が止まっていた。でも今のぼくにはGoogleがある。

さっそく調べてみることにした。きっと、気の利いた「臓器関連の名前」がついているはずだ。副腎あたりかな。下垂体あたりかな。……人名っぽくないな。

以下、Google検索結果である。

ハットリ兄弟の母(名前不明)
声 - 梨羽由記子(映画)/ 峰あつ子(2012年版)
ジンゾウの妻でハットリ兄弟の母。常に笑みを絶やさず、穏やかで優しい性格。体重が重いのが玉に瑕。

……くそ……名前不明……だと……?




Wikipediaを眺めてみたが、カンゾウシンゾウジンゾウと揃えているくせに、それ以外のキャラクタは全く人体と関係がない。ぼくはコミックス(新原作版)を持っていたのである程度知ってはいたが、それにしても、今さらながら笑ってしまった。

出オチじゃん。

でも、なつかしかった。

猿飛猿助とか、雲隠才蔵とかいたな。雲隠才蔵はタバコみたいなやつを吸って雲を出すんだ。ケンイチうじに「タバコはだめなんだぞ」とか怒られていたっけ。

ああ、白猫斎なんてのもいたな。すごい迫力の、甲賀の猫だ。




そしてニヤニヤが収まって少しセンチメンタルになったぼくは、最後に出てきた機械流の忍者の名前を見て、ふいをつかれてしまった。

そこには、シノビノ光門、と書かれていた。

そうか……こうもんがあったな……。

2018年11月20日火曜日

病理の話(265) 他院プレパラートの診断

別の病院から自分の病院に患者が移ってきたとき、患者とともに、前の病院で診断されたプレパラートもやってくることがある。

患者が自ら持参したプレパラート。

あるいは、患者とは別に、後日郵送されてくるプレパラート。

パターンはいろいろだ。



一昔前、CTとか超音波の画像がフィルムだったときには、患者が病院を移る際に、フィルム一式の入った大きな封筒を持たされたこともあったという。

自分の体がうつされた写真を手に持ってバスに乗る患者の気分は、いかばかりだったろう。

ぼくはわりとそこを気にしてしまうタイプだった。

だから今でも、患者がプレパラートを持ち歩いているところを想像すると、「郵送してあげたほうがよかったんじゃないのかな」と思うこともある。



でもまあいろいろな事情もある。

郵送より直接持参のほうが純粋に「早い」こともあるから、一概に患者に持ってきてもらうことが悪いとは言えない。




そんな歴史があってか、あるいは全く関係ないのかは知らないが、一般に、別の病院で一度診断されたプレパラートをもういちど診断することを、

「他院からの持ち込み標本の診断」

と呼ぶ。最初、この言葉を目にしたときには、思わずジャンプ編集局に原稿を持ち込む新人マンガ家のようなイメージが脳内に浮かんだ。




他院から持ち込まれたプレパラートの診断は難しい。

まず、染色のクセが微妙に異なる。

同じ細胞を見ていても、染色する技師さんが変わると、わずかにHE染色の色合いが変わる。この微妙な差分を脳内で調整して、きちんと平均的な診断をくだすために、脳の中では0.5~1秒ほど時間が必要となる。

この1秒がけっこうでかい。栄養も150キロカロリーくらい余計に消費する気がする。

次に、そもそも病気の診断自体が難しいことも多い。

(きっと、前の病院でこれをみた病理医も、苦労したんだろうな……)

そんな同情を胸に抱えながら丁寧に診断をする。

ときに、ぼくが専門としている分野のプレパラートのときには、前医の病理医が「わからない、診断できない」とコメントをつけていても、ぼくは診断できるということはある。

逆に、ぼくが普段あまり見ない分野のプレパラートだと、ぼく一人では診断ができず、周りの病理医たちに尋ねながら二人三脚ならぬ四人五脚くらいでなんとか診断を出すこともある。




持ち込み標本の診断の精度を高めるためにやることはシンプルだ。

病理医だけでなんとかしようとしない。

必ず、臨床情報を集める。臨床医にたずねることがとにかく重要だ。

なぜこの患者は我々の病院にやってきたのか?

内視鏡像やCT画像はどのようになっているのか?

何が問題点か? 今後なにをしたいのか?

そういうことをしっかりと把握する。

ところが、自分の病院の臨床医もまだ患者のことを把握していないというケースもしばしばあるわけだ。

だって患者は転院してきたばかりだから。

すると、「前の病院の医師」にも連絡をとる必要がある。



患者が持ち込む標本を診断する際には、ぼくら病理医と臨床医との連携がいつもよりも長くなり、深さも求められる。

「もうプレパラートはできてるんだから、病理医にちょろっと見てもらえればすぐ診断つくよね」というわけにもいかない。

いずれは患者のスマホに、それまで患者が受けた血液検査や画像検査の結果がすべて入力されるような時代がくるかもしれない。

そうなれば、いちいち前の病院にデータの確認をとらなくても済むようにはなるだろう。

でも、そうなったとしても、ぼくは、「前の病院の主治医」にはやはり電話をかけると思う。

未来において医者の存在がどれほど重要視されているかはわからないけれど……。

ま、人と人とが話し合うことで見えてくるものは、やはり大きいと思うのだ。

AIが完全にぼくらを食い尽くす日がこないかぎりは。

2018年11月19日月曜日

併託恣意

釧路の出張先から空港までタクシーに乗って移動する。外は雨。だいたい30分弱かかる。今日の運転手さんはとても寡黙だ。偏見を申し上げるならば、個人タクシーの運転手さんはにぎやかな人が多いように思っていた。今回は静かでとても落ち着く。信号でランダムな雨音と定期的なワイパーと忙しそうなウインカーの音が全て聞こえてぜいたくである。

このルート、いつもなぜかポケットWi-Fiの電波がよろしくない。スマホの電波はきちんとLTEなのに不思議だ。結局ポケットWi-Fiをあきらめるしかないのだが、Wi-Fiがない環境でスマホをいじっているとギガがどんどん減って精神によろしくない。毎月月末には1GB以上余しているのだから、本来はそれほど気にしなくていいはずなのだが。

電車や飛行機で移動する際にはギガを使わず(あるいは使えず)に電子書籍や持参した本を読む。でもタクシーの後部座席だけはなぜか酔ってしまう。というわけでギガも使えず本も読めない。運転手の斜め後ろからの顔が精悍だ。雨はますます強まっている。手持ち無沙汰で音とあそんでいたぼくは、ふと燃え殻さんのことを思い出した。

彼は「ボクたちはみんな大人になれなかった」をスマホで書き上げたのだという。たしかにいまどきの大学生はレポートをスマホで書くというが、彼はぼくより年上だ。愕然としてしまった。あの名作を、スマホで?

今こうして、酔いに抵抗しながらスマホで文章を書いていてはっきりわかるのは、フリックのめんどくささ、スマホ搭載辞書の中途半端さ、そして、「自分が冒頭に何を書いたかふりかえるのに不便な視野の狭さ」。アロウズはいいスマホだがやはりバッテリーはクソなので左手がじんわりと熱くなっていく。

バッテリーはともかく、自分が書いた言葉を自分で食って先に進むような、自転車操業感はいかんともし難い。目の前にしかエサが出現しないパックマン。文章がどのように進み、どのように着地するのかがまったくわからなくなる。

なぜこれであんなに統一感のある素晴らしい小説が書けるものなのか。メカニズムがわかならさすぎて呆然としてしまう。

あるいは、「書きながら考えるタイプの人」は、そもそも、頭の中に、書きながら参照できるだけの広大で猥雑な香港とか台湾の街並みみたいな風景があるのではないか。

だから、スマホの画面のように今の文章とその周囲しか見えないダンジョン的執筆であっても、すでにじぶんのなかにある脳内のありようを裏切ることなく表現が整ったまま夏色の自転車のように坂道を滑り降りていく。

となると世界観に問題のあるぼくはスマホで物を書いてはいけないのではないか。タクシーが空港に到着しそうだ。ぼくの中には毎日違う町があり、自分でもどの世界観で暮らしているのかときおりわからなくなる。ブログのタイトルからして脳が定住していないのだからもうこれは仕方がないのだ。タクシーがもう着いてしまう。読み直すのがこわい。


2018年11月16日金曜日

病理の話(264) 違和感のゆるキャン

ある「依頼書」を読んでいる。

「依頼書」には、患者の体の中からある小さな一部分をとってくるにあたり、臨床医が考えていたストーリーが事細かに書かれてある。

その文章を、最初は、読み飛ばすくらいの勢いで、「雑に」読む。

あまり先入観を持ちすぎないように、最小限の情報をチェックする程度にとどめる。

これは、過去に幾度となく先入観にひっぱられて危ない思いをしたことがあるぼくが、心に刻み込んでいるヒケツだ。

「顕微鏡を見る前に、臨床情報にあまりひたりすぎてしまってはかえって毒になる」。



そして、いざ、顕微鏡をのぞきこむ。

細胞が見えてくる。

にわかに爆発的な感情がおしよせる。

  (これは難しい)

一目見てわかる。あきらかに細胞の配列が「いつも」と違う。

正常ではない。異常だ。さらにいえば、異常は異常でも、「いつも経験するタイプの異常」ではない。

「あまり経験しないタイプの異常」なのである。息を詰める。いったん顕微鏡から目線を外す。



いわゆるレアな病気を考える。

このあたりで、ぼくの右肩の上に妖精がとまってささやく。「レアな病気だけじゃだめだよ。よくある病気のレアな見え方、というパターンも考えないとだめ。シャラシャラーン」

今度は左肩の上に魔物がとまってささやく。「そもそも異常だと決めてかかってるけど、病気じゃなくて個人差の範疇だったらどうするんだ。病気じゃないのに病気って診断したらお前、裁判で負けるぞ。ゲゲゲゲ」




心を落ち着けて依頼書を読み直す。

臨床医もいつもと違って、どことなく詳しく情報を書き込んでいる。患者の状態、それまでに経験してきた病気の種類。一見すると今回のぼくの顕微鏡診断には関係がなさそうだと思って読み飛ばしていた、さまざまな情報が、今度は紙面から立ち上がって見えてくる。

その情報は、必ずしもぼくの中にうまく同居してくれない。

「違和感」なのだ。

心に住んではくれるんだけれど、テントを張って住みつくかんじ。

いっとき間借りしますよ。おじゃましますよ。今からキャンプするんで。

おさまりの悪い情報たちは、ぼくの心の敷地内に、好き勝手にテントを張る。ペグをうつ。縄を張る。オオカミのおしっこをふりまいてクマよけにしたりする。

情報たちは好き勝手だ。ぼくの思考には合わせてくれない。変な時間にテントにもぐって眠ってしまい、まったく現れてこなくなるやつもいる。一方、テントのなかから這い出してきて、バーナーに火をつけて焼肉をやっているやつもいる。

キャンプファイヤーをやっているやつら。うるせえなあ。静かにしてくれ。……しかしその火の中には何事か書いてあるようにも思う。ぼくは気が散りながらも、なんとなく、心に住み始めた違和感たちが何かを伝えようとしているのではないか、と、目を凝らし、耳を澄ます。ホホッホウ、ホホッホウ、あいつらボーイスカウトの歌を歌い始めやがった。むかつく。




そして何かが見えてくる。

あわてて病理の教科書を取り出す。考えていた病気とは違うページをめくる。いくつもめくる。

あった。これかもしれない。

顕微鏡に戻る。今度は潜水するかんじだ。思考を針のように細くして、接眼レンズから思い切り飛び込んでしまう。

細胞の配列。形状。核の様子。

免疫染色の態度。陽性、陰性だけではなく、染まっているというならばどのような形でどれくらいの細胞が染まっているのかを丁寧に拾う。




これで間違いがない。ぼくは診断書を書く。ボスに見てもらう。ダブルチェックで診断を確定して送信する。

やりきったという充足感に満たされる。ぼくは自分が最高だと思う。神ではないかと思う。存在そのものではないかとも感じられる。概念として世界を統べることも可能だろう。むしろ世界とはぼくではないか?




何時間もたたないうちに臨床医から電話がかかってくる。「あー先生あれなるほどってなりましたよ」

「「「「そうだろう」」」」 世界となったぼくは、脳の中に直接かたりかけるような声で応じる。もうエコーなんか何重にもかかっている。荘厳である。

すると、臨床医がいうのだ。

臨床医「それでですね、思いついたことがありまして」

概念「「「ほう……?」」」

臨床医「この病気、それにこの臨床症状となると、今回とってきた検体には、この像も含まれているかもしれないですよね」

神「「あっ」」

臨床医「それも見ていただいていいですかね?」

人「ああ……すんません……最初からそこまで見通してたらぼくかっこよかったのに……」

臨床医「かっこいいとは」

虫「いえなんでもないです……ぼくは虫です」





心のキャンプ場は閑散としていたが、撤収時間ぎりぎりまでテントの中で寝ていたのであろう、あるのんびりやさんが、いつのまにかハンモックにゆられながらいたずらっぽく笑ってこっちを見ている。

最初からお前に気づいていればぼくは世界のままでいられたのに。

虫となりまた診断に戻る。もそもそと依頼書を読むと、先ほどとまったく同じ臨床医が、今度は別の患者について、何やら長文の悩みをぶちまけていた。虫は頭を抱える。虫は足の数が多いから、頭を抱えるのも一大イベントとなる。

2018年11月15日木曜日

無限の重任

よう先輩とラジオ収録の合間に少ししゃべっていた。

ラジオトークにしても、こういうブログとかnoteなどの文章にしても言えることだと思うんだけれど、

「お題が無限にわきでてくるような能力」

があったら、楽しいだろうな、助かるだろうな、みたいなことを、どちらともなく言った。

毎日何事かを発信しようとすればどこかの段階でこの「お題不足病」みたいなことを考えるときがくる。

ぼくもしょっちゅう考えている。



「ネタがないのに書かなきゃいけない、困った……」などという悩みは、週刊誌に連載を長く続けている作家だとか、天声人語の担当者とか、ファッション誌に連載をもっている芸能人などから出てくるはずの言葉だ。ぼくのような素人が口にするのはちょっとおこがましい。「困ってるならやめれ。誰も書けっていってないべ」と北海道弁でしかられてもしかたがない。

けれどもまあここにはちょっとした意地みたいなものもあるので簡単には引き下がれない。

毎日何かをずっと書き続けていたら、いずれ楽しいゾーンに入れるかもしれないではないか。

根拠? ないよ。勝算もない。

でも書き続けるという場を自らに設けて維持することで、いずれその場で楽しいことが起こるかもしれない。

そもそも「お題を無理やりひねりだすこと」自体にも達成感がある。

しんどいイコールやめれ、という短絡的お説教には承服できない。




「困ってるならやめれ」「しんどいならやめれ」「つらいならやめれ」というのは、使いどころが難しいセリフだと思う。というか「年間・余計なお世話大賞」に常にノミネートされるフレーズではないか。

うっかり購入してしまった3000ピースのジグソーパズルがなかなか片付かないと言ったら「やんなきゃいいべや」。

スーパーマリオ2の無限増殖に失敗したまま「今日は無限に機数がなくてもなんか行ける気がする」と勇んでゲームをすすめてはみたけれど、やっぱりダメで8-2くらいで機数が足りなくなって涙目になっているときに「失敗してイライラするならゲームなんかやめれば」。

バーベキューで備長炭になかなか火が付かなければ「安い炭で済ませばよかったべさ」、

うまそうなラーメン屋に並んだはいいが列が全然前に進まないときにも「待ちきれないならマックでいいべ」。

うるさいぞ道民。

困ってる瞬間も含めて「場」なんだよ。





まあお題がいざ決まったとしても今度は別の悩みがやってくる。

「あのことを伝えたい」と思って書き始めたはいいけれど、なかなかいい表現が見つからなくて、うろうろさまよってしまうときもある。

こんなに自分は感動しているのに文章にしてみたらペラッペラになっちまったなあ。

ちきしょう。

もう少しうまいこと表現できねぇかなあ。







……ふと思ったのだが、四苦八苦している人に「そんなにつらいならやめればいいべや」とバッサリ型の説教をかましてくる北海道民も、ほんとうは、心の中で、もう少し複雑なツッコミを思い描いているのかもしれない。

でもそのツッコミでは伝わらない。あなたの共感性イライラみたいな感情も、ぼくに対するわずかな愛情も。

そして、ぼくは、人間だれしも、ベストの言葉を選んで会話しているわけではないのだよな、ということに思い至り、ぼうぜんとして黙り込む。

2018年11月14日水曜日

病理の話(263) ボディにコンシャスな話

机の上においてあるスマホやマグカップを眺めると「奥行き」がある。

ちょっと顔をずらすと、マグカップの取っ手が見えてきたり、中にコーヒーが入っていることが見えたりする。

ぼくらは首を動かしながら、ものを立体的に把握する。目が二つあるのも立体視のためだと言われている。敵や獲物が「近づいてくる」「遠ざかる」を瞬時に把握しなければ、自然の中で生き残れなかったのだろうな。

おかげでぼくらは、今こうして、立体を感じる事ができる。

さらに考えると、ぼくらは立体認知のおまけとして「陰影」も認識できていることがわかる。自然界に存在する陰影のほとんどは、脳の中で奥行き情報と紐付けされている。

たまにブンガクとかマンガで

「光あるところかならず影あり!」

などというが、ぶっちゃけ光だけでは影はできない。立体構造物があり、ものに当たる光の量が角度によって異なるからこそはじめて影ができるのだ。つまり魔王の類いはこう言わなければいけない。

「光あるところに立体があればかならず影あり!」

だっせえ。



で、何の話をしたいのかというと、実は人間の視覚というものはぼくらが思っている以上に立体から情報を引き出すことに長けている。

ところが、病理で用いる顕微鏡診断では、その立体情報が大きく失われてしまうのだ。

病理組織診断では、細胞を細かくみるために、組織を4 μmというペラッペラなシートに薄く切る。向こうが透けて見えるくらいの薄さにする。

こうなると見えてくるのは細胞の断面ばかりだ。おかげで「核」という、もっとも重要な構造物をつぶさに観察することができるのだが、断面をみることによる弊害もある。

お気づきだろうが細胞の立体情報がかなり失われてしまうのである。




たとえばここに姫路城の模型があったとして、ルパン三世の相棒である五ェ門に斬鉄剣で斬ってもらう。ぼくはこのブログで何度か五ェ門を召喚しているが、主につまらないものを斬って欲しいときに呼び出すことにしている。

無事まっぷたつに斬った姫路城の断面をみて、断面だけを見て、姫路城の全貌を想像することができるだろうか?

……これはまず無理である。当たり前だが二次元情報から三次元情報をすべて類推することはできない(次元が足りない……ルパンだけに)(←今のこの一文、偶然だったので思わずアッと声が出た)。

ただ、断面から姫路城を完全に思い描くことは無理でも、実は、ある程度までなら想像できる。

たとえば断面に、姫路城の1階部分、2階部分という階層構造が見えていれば、建物は自然と「その階層を維持するだけの強度」をもっているはずだから、なんとなく敷地はこれくらい広いだろうなという想像がつく。

屋根瓦の部分はまあまず間違いなく屋根を同じように覆っているだろう、ということも類推できる。まあ、シャチホコの種類まではうまく断面が出ていないと想像はつかないが。



細胞をみるのもこれと同じだ。姫路城×五ェ門よりもさらに細かいプロセスがいくつかあり、ぼくらは、断面図だけから、細胞が作り上げる高次構造をなんとなく予測している。そして、診断の役に立てようと努力する。




さて、細胞の立体構造は顕微鏡では絶対に見られないのかというと、そんなことはない。

たとえば組織診ではなく「細胞診」という別の技術を使う。この手法では、五ェ門を呼んで断面を作ってもらうのではなく、細胞を外からそのままの状態で観察する。そのため、断面情報はやや弱くなるが、細胞の厚みとか、ちょっとした奥行きまで顕微鏡で確認することができる。

細胞診は病理医よりも病理検査技師のほうが得意な技術だ。それだけに、病理医の中には、細胞診はまあ勉強しなくていいかなと距離をとろうとする人間がいるが、ぼくから言わせると実にもったいない。偏屈だなあと思う。病理医に偏屈だって言われたら終わりだぜ。


そしてもうひとつ。

「連続切片」という手法もある。これは、五ェ門に断面を1枚だけ作ってもらうのではなく、何枚も何枚も連続して作ってもらうのだ。

ダダダダダダッ! みたいなかんじで姫路城を次々に断面化していくと、まるでアニメーションのように、擬似的に奥行きをみることができるだろう。

病理組織診断でもこの手法を使うことがある。ぼくはわりとこのやり方が好きで、いわゆるdeeper serial sectionの作成を技師さんによくお願いする。

弱点としては五ェ門が疲れるということと、断面をいっぱいみなければいけないぼくらが疲れるということ。

疲労と手間を度外視すれば、組織の奥行き情報が得られる「連続切片」はとても重宝する。




……五ェ門だけじゃなくて次元が出てきた時点で病理の解説はルパン向きだということがわかった。つぎはふじこちゃんだ。さあどうやって出すか……。

2018年11月13日火曜日

がんばれ元コンサドーレ札幌

原稿書きが一段落した土日に本を読んだ。

池袋の三省堂で選書フェアをやることになったとき、信頼できる編集者数人に「おすすめの本を教えて、ただし自分で編んだ本以外。もし自分が編集していたら最高に自慢できたろうな、っていう本を教えてください」と依頼したところ、熱いメールがおくられてきて、合計8冊ほどの本をもらったり買ったりして手に入れた。

どれもこれもおもしろい。

そしてちょっと沈鬱なきもちにもなった。



こんな本をすでに読んで「おもしろい!」と思っていた人間たちが、ぼくの書いた文章を読んで、感想をつけてくれていたのか……。

だとしたら、どれだけ退屈だったろうか。






プロサッカー選手が引退したあと、小学生にサッカーを教えるサッカー教室を開催することがある。

元プロは、目指せ、追い越せ、と笑いながら、ときおりすごいフェイントやすごいドリブルなどを見せる。

あるいは友人の現役サッカー選手を呼んできて、小学生たちに「本物の技術」を見せたりもする。

けれども、元プロがプロだったころは、海外のトップチームと戦ってボコボコにやられたり、代表戦で力の差を感じたりしたことがあったのだ。

自分が教える技術は「本当の一流」ではないんだということはよくわかっている。

そういうものを小学生たちは知ることがないし、知る必要もない。

けれども小学生も感覚としてはわかっている。

「この元プロもかつて目指したような、もっとはるか上があるんだよな」ということを。




ぼくは小学生より傲慢なぶんタチが悪かった。

しかし編集者というのは我慢強いものだ。

小学生に向かって大人にかけるような言葉使いで、何を長年待っているのか。

あるいはもう何かをあきらめてしまっているのか、あきらめていないとしたら、彼らはいったいどれだけの人に希望を見続けているのだろうか。




……そういえば彼らは「元プロ」ではない。現在まさにプロなのだ。

そのあたりが、元プロサッカー選手の開催するサッカー教室とはまるで違う点なのだろう。

2018年11月12日月曜日

病理の話(262) 科学と医学は同じくらい広い

実はそろそろエッセイの執筆を始めなければいけない。このブログ記事がのるころには、きっと書き始めているだろう。

エッセイの執筆依頼自体は1か月以上前にもらっていたのだが、なかなか本腰を入れて書き始められないでいた。理由は、「病理学の教科書」の原稿を書かなければいけなかったからだ。

ぼくは文章を依頼された順番に書いている。いつもは、複数の依頼を同時進行で進めていけるのだけれど、今回、「病理学の教科書」には、ぼくが今まで病理診断医として働いてきたことや、病理学の講義で教えてきたこと、あるいは日常的に医学に対して考えてきたことなどをすべて叩き込みたかったので、とりあえず他の依頼を後回しにした。

没頭したのだ。

おかげで病理の教科書は2か月ほどで書き上がった。単著の書き下ろしである。やれやれだ。

でも、もちろん、ここからがさらに長くかかる。編集者が全編を読み込み、デザイナーやイラストレーター諸氏に協力をあおぎながら、なんども内容をいじっていく。校正だって何度もしなければならないだろう。

けれども、少なくともぼくにとって一番大変な最初の山は超えた。ゲラができあがるまでの間は、むしろ、原稿の内容は忘れてしまったほうがいい。




そうまでして没頭したぼくだったが、実はこのブログに書いている「病理の話」をどうするかということには多少頭を悩ませた。

一方で病理学の原稿を書きながら、もう一箇所で病理の話かあ……。

書けるかなあ……。

もしかしたら、書けなくなっちゃうかもしれないなあ……。

同じ事を書くわけにもいかないしなあ……。




でもやってみたら造作もないことだった。結局この2か月のあいだ、ぼくはブログの記事については特に思い悩むこともなく、いつものように早朝や夕方に時間を見つけてバコバコとキーボードを叩き、毎回、公開する1週間前には予約投稿を終えていた。

この経験を通してわかったことがある。

「病理の話」というのは、きわめて題材が多く、まず書くことに困らない。

なぜかというと、病理学というのは実は医学と大して変わらないくらい広い世界を扱っているからだ。



  ……いや、包含関係というものがあるだろう。

  「医学」⊃「病理学」だぞ
  医学の中に病理学があるんだ。
  病理が医学と同じくらい広いってことはないんじゃないか。




そうやって怒られるかもしれない。けれども、実際、ぼくから見ると、病理学の世界はあまりに広すぎて、医学と病理学を比較したところで、広い VS 広い、くらいにしか感じない。

この話は何度も書いたので読んだことがある人もいるかもしれないが、ぼくはかつて、高校時代に、科学をやりたかった。物理学とか、宇宙理論を学びたいと思ったのだ。そして父親に相談をした。科学をやりたいんだけれども、と。

そしたら父親はこう言ったのだ。

「科学と医学は同じくらい広いんだから医者でもよいのではないか」。

ぼくはなぜかその言葉がとても気に入り、医学部を受験することにした。




科学と医学が同じくらい広いわけはない、と怒る人もいるかもしれない。

科学⊃医学だろう、と。




しかし今はわかる、医学というのは確かにサイエンスなのだが、なんというか、医療というか、医術というか、医情というか、医界とでもいうべき、サイエンスだけではすまない何かを常にぶら下げている。

中に入ってみるとよくわかった。

たしかに、医学は、科学に含まれる。けれども、医学の広さはまるで科学ほどに広い。




そして40歳になったぼくは今、こうして、ブログに、「病理学は医学並みに広い、書くことなんてちっともなくならない」とうそぶくようになっている。

ぼくが父親に例のセリフを浴びせられたのは16歳のころだから、今から24年ほど前のことだ。

当時の父親の年齢もわかる。詳しくは書かないがまあ今のぼくとそれほど大きくは違わない。




子はやはり親に似るのだろう。となるとぼくがこうして、「病理学は医学と同じくらい広いんだぞ」と偉そうに書いているのは、基本的に、息子にあてて書いている、と考えるべきなのかもしれない。





どうでもいいけど今後、エッセイの執筆をはじめると、「病理の話」じゃないほうの、日常エッセイのほうでかなりネタに苦しむかもしれない。書いてみないとわからないが。

だって日常というものは、病理学よりもはるかに小さい可能性があるからだ。もしそうだとしたらぼくはこの先どうすればいいのだ。

2018年11月9日金曜日

遠近両用

「人との距離感」というのは、その人それぞれ異なる「固有値」であり、しかも「固定値」であるような気がしてきた。

ぼくは基本的に他人との距離感を遠目に設定するタイプだ。

仲良くなって何度も会って、そろそろ少し深くて込み入った話もできそうだし、前提もだいぶ共有したからいちいち背景の説明をしなくていい、話していて楽な相手だなあ、と思っても、そこからあえて「距離」を縮めようとはあまり思わない。

よっぽど長期間にわたってなんらかの形で一緒の時間を過ごしていない限り、自分から積極的に連絡をとることもしないから、他者との距離はたいてい、時間が経つにつれて開いていく。

ぼくはその「遠くなった距離」のほうが心地よい……というか、近いままの距離感を保とうとする人があまり得意ではない。

「ご無沙汰してすみません」という挨拶も苦手だ。

長く会っていない相手に会うことになったとして、もし「ご無沙汰です」からあいさつをしなければならないとしたら、それだけで会うことが面倒になってしまい、なんだかんだと理由を付けて会わなかったりもする。

一方、10年以上会っていなかった相手とばったり会った時に、そういえば君は10年前にはあの曲が好きだといっていたが、今はどんな曲が好きなんだ、みたいに、すぐ今の話にもっていけるならば、それはなんだかすてきだなと思う。感傷もあとからわいてくる。



世の中には「仲良しグループ」というものがある。

ぼくは中学校でも高校でも大学でもまずそういうグループに入れなかった。理由はなんとなくわかっていて、ぼくは、そういうグループの持つ「固有の距離」が自分には少々近すぎるように感じてしまうのだ。

話をする相手との距離がだんだん狭まっていくのはまだがまんできる。しかし、その場に第三、第四と登場人物がいて、それぞれがまだ会話もしていないうちに自分との距離をじわじわと詰めていく状況がどうにも苦手で、対処がうまくできない。

距離が近いのが「嫌い」と言っているわけではない。

「苦手」である。

できれば近さに慣れてみたいと思ったこともある。けれどだめだった。

名も知らない相手にいきなりリプライを投げつける人はきびしい。初対面で敬語が崩れていくタイプの人もどう相手して良いのかがわからない。




世の中には、距離感」を相手によって使い分けられるタイプの人がいる。見ているとなんとなくわかる。この人は遠距離戦も近距離戦も選べるなあ、と感心する。

そういう人はたいてい、人の中心で輝いており、大きな仕事を成し遂げていたりする。

ただ、そういう人のことをよくよく(遠目に)観察していると、この人は本来、近い距離は「さばけるだけで、別に好きではない」のだろうな、と感じる。

根本のところでは相手と画然とした距離を取りたい。けれども、それでは社会で関係を結び続けることはできないから、近い距離をほどよくさばく技術を身につけているのだ。

ほんとうは真ん中低めを一番得意としているホームランバッターが、内角高めを技術でポール際ぎりぎりにスタンドインさせてしまう、みたいなイメージをもっている。





ぼくはもしかするとそういう技術を持ち始めているかもしれないな、とは思う。けれどもぼくの「固有の距離」は今でも遠距離だ。近距離をさばきまくった翌日、ぼくは全身がぐったりとつかれており、なんだか妙に感傷的な写真など撮ったり、長いブログの文章を綴ったりすることが多い。今日のブログはまだ短いほうであるが。

2018年11月8日木曜日

病理の話(261) 病理がちょっと苦手な病気

マンガ・フラジャイルの中にはさまざまな「診断困難疾患」が出てくる。詳しくは、「プレパラートをちょっとみただけではまず診断名が思い付かない病気」とでもいおうか。

診断名が思い付かないというのは、なにも、人間の記憶力や発想スピードに限界があるから、というだけの理由ではない(まあそういうこともあるにはあるのだが)。

たとえば……。




そうだな、ここで、マンガに出てくる症例を用いてしまうと、まだ読んでない人にとってのネタバレになってしまうだろうから、少しひねろう。

最近届いた雑誌をてきとうにめくって、目に付いた疾患の中から、「これは難しいなあ」というものをピックアップしてみることにする。




「胃と腸 2018年11月号(第53巻12号)」は「知っておきたい十二指腸病変」だ。これを頭から見直すことにする。すでに読み終わってはいるので、あのへんかなあとある程度目星をつけて読み進む。

……やはりこれだろう。血管炎だ。

血管炎というのは特殊な病気である。全身のあちこちの、大小さまざまな血管に炎症細胞が攻撃をしかける。自分たちが運ばれる道路を自分たちで壊してしまうのだ。渋谷のハロウィンみたいなものである。

大きめの血管に炎症が起こることもあれば、毛細血管に炎症が起こることもあり、実は「血管炎」といってもいくつかの種類がある。IgA血管炎と、顕微鏡的多発血管炎と、高安動脈炎と、川崎病では、それぞれ症状も違うし治療も異なる(ほかにもいっぱいあるぞ)。


血管炎の診断は皮膚や腎臓、肺などの専門家が行うことが多い。そして、しばしば……まれに、かな……胃腸にも異常が出ることがある。

そして、これが非常に難しい。なにが難しいって診断がしづらいのだ。

胃腸に異常が引き起こされる血管炎は、なんともとらえどころがない。

ピロリ菌による胃潰瘍・十二指腸潰瘍となんらかわりないように見えてしまうこともある。顕微鏡での診断はほとんど不可能だ。

これを例えるならば……。



渋谷の若者が騒いで警察にひっぱられるにはいくつかのパターンがある。

ハロウィン。正月。クリスマス。ワールドカップで日本が勝ったとき。

どれであっても若者は興奮して騒いで窓ガラスを破壊したり車をひっくり返したり川に飛び込んだりするだろう。

若者だけを拡大してみればそこにいるのはちょっと頭脳が足りなくてテンションが高い、でも凶悪な犯罪者などではない単なるいち日本人にすぎない。

若者だけをみて、仮装しているからハロウィンだろうとか、ほっぺに日の丸がついてるから日本代表の試合に関係があるのだとか、ある程度の推測はできるかもしれないが……。

まあわからないときは本当にわからない。

そういうときは、むしろ、若者を拡大するのではなくて、ニュースをみる。ほかの地域で起こっていることを知る。日本全体を把握する必要がある。




血管炎の診断もこれに似ている。

血管や炎症だけを顕微鏡で拡大してもなかなかわからない。

全身に何が起こっているかを臨床医と一緒にすべて把握して、はじめて顕微鏡で何が見えているかの意味がわかることがある。

こういう症例を相手にするとき、病理医は大きくふたつに分かれる。




A)そんなのは臨床医の仕事だ。顕微鏡で決められないものを病理医にわたすな派

B)病理にやってきたら臨床も病理も関係ない。俺も臨床情報に口出しして一緒に診断するぞ派




この2つは基本的に性格でわかれる。どちらがいいとは言い切れない。どちらもうっとうしくて暑苦しいことにかわりはないからだ。

ただ、真剣でさえあればよいとは思う。

2018年11月7日水曜日

鴨のイベント

札幌市中央区の書肆吉成(池内店のほう)は雰囲気のよい古書店だった。本店のほうには行ったことがあるのだが、このあたらしいほうの店ははじめてだ。

池内は、妙に値段の高いセレクトショップや突然のクッキングスクールなどがひしめく細長いビル、というイメージのファッションビルだ。いまはIKEUCHIと書くのだろう。三越、丸井、池内と漢字でおぼえていた時代がなつかしい。しばらくこないうちに中の店は少し入れ替わっていた。商品も安くなったように思えるが、そうでもないのかもしれない。

「浅生鴨トークイベント」に出席したぼくはごきげんだった。そもそも彼の書いた「どこでもない場所」はぼくの生涯のベストオブエッセイなので、トークが仮につまらなくても最高だったと言ったであろうが、トーク自体も適度な速度と温度と湿度で実によかった。出席者の大半はいかにも本が好きそうな女性たちで、ああ、札幌にもこういう人があちこちにいるんだよな、と少しうれしくなったりした。書肆吉成の代表はぼくとほとんど同い年で、軽くあいさつを交わしたのだが堂に入った本読みという風情で実に頼もしかった。

そういえばこの2日間で、多くの人間に会った。誰もがぼくの主たる仕事内容を全く知らないという珍しいパターン。だからか、ぼくはどこか出会いに他人事感覚を引きずったまま、はじめまして、光栄です、勉強します、うれしいですなどの対初対面汎用台詞を連発した。こういうときのぼくの「申し訳ない気持ち」はちょっとかんたんには名状しがたい。

芸術家とか音楽家とかいわゆる創作をするタイプの人間に畏怖というか本能的な怯えをもっている。ウェブにうるさいクリエイター(笑)とは違う本物の創作者たちがごっそりいたのでぼくは自分の気配を消したくてしょうがなかった。

サングラスをした浅生鴨は見た目もしゃべりかたもあごの使い方もどこかタモリに似ていた。ぼくは20年以上昔に読んだ本に書いてあったフレーズ、「男子たるもの死ぬまでに一度はタモリ倶楽部の準レギュラーになりたいものだ」を思い出していた。もしぼくがこの先ラジオ番組をもつことがあるならば、いつか彼をゲストに呼んで、ぼくは番組の間中ずっと萎縮していたいものだ、と考えながら、もうすぐもらえるであろう書籍へのサインに心をわくわくとさせていた。

2018年11月6日火曜日

病理の話(260) 情報をサーフィンする話

Spotifyべんりだなあ。

今まで集めた音源は、自分の聴きたい曲を聴きたい順番に聴くために今も重宝している。PC iTunes×Bluetoothイヤホンで仕事中ずっと流れている。

Spotifyには課金してないので、てきとうな楽曲リストを選ぶと、(自分で思った通りの順番にはならないが、)まあだいたい自分の好みにあった曲が、ほどよくランダムに流れてくる。

「ああ、そんなアーティストもいたな! そうだそうだ! いい機会だから全部聞き直してみようかな」

なんつって、Spotifyをきっかけに、新たな音源を買いそろえたりもする(けっこう買う)。





趣味に対するこのやり方を、そのまま、病理学に対する勉強においてもやっている気がする。

日ごろ買い集めた教科書、検索してストックした論文などは、毎日重宝している。公用PCとは別に私用PCをネット接続しているのはまさに文献を用いるためだ。

それとは別に、いくつかの雑誌を購読している。「病理と臨床」とか「胃と腸」はその代表だ。自分が連載をもっている縁で「Cancer board square」や「薬局」「治療」「Medical Technology」なども読む。「プチナース」「エキスパートナース」。ジャンルはさまざまだ。

これらの最新記事がいつもいつも、ぼくがそのとき必要とするど真ん中の情報を提供するとは限らない。

たとえば当院では脳外科の手術は行わないのだが、脳腫瘍の特集号が組まれていたりする。即効性がある情報にはならない。

けれどもこれがいいのだ。

そもそも病理というジャンルにぼくは元々興味がある……というか病理で暮らしている。ほどよくランダムに流れてくる勉強のタネを眺めていると、

「ああ、昔そういえば脳科学専攻の大学院にいたっけな! そうだそうだ! いい機会だからWHO分類でも読み直してみようかな」

なんつって、雑誌連載をきっかけに、新たな教科書を買いそろえたりもする(けっこう買う。




情報をインプットするルートは複数あるといい。自分が能動的に集める手段とはべつに、「ほどよく受動的に」あるいは「中動態的に」情報が入ってくる手段をもっておくと、ぼくは、なんだかいろいろと豊かになる気がするのである。

毎日、病院の食堂で、決まってBセットばかり頼んでいるが、ときおりびっくりするような新メニューが出てきて笑ってしまうというのもこれと似ている。完全に能動的にコンビニやレストランで昼食を済ませていたら、まず目につかないだろうメニューが出てきて、おいしくいただくことも、ままある。楽しい。しかし酢鶏ってなんだよ。豚にしてくれよ。

2018年11月5日月曜日

ウルトラセブン

雨音が強い。めんどうだなあと思う。車に乗るまでの短い時間でスーツをぬらすのがいやだな。

スーツがぬれたからといってどうということはないのだ。

体の中にばい菌が入ってくるわけではない。

スーツがひどく臭くなるわけでもない。ただの水だから。

それでも、一瞬の雨に打たれるのはストレスである。実務的には何のダメージもないにもかかわらず、だ。

「うまくやると避けられるかもしれないけれど、横着していると避けきれない、小さないやがらせ」のことをずっと考えている。

かさ差せよ。まったくその通りだ。

やむまで待てば? 何も間違ってない。

でも晴れていればこんなぐちぐちとした心配り自体をしなくてよかったんだ。ああ、雨はめんどうだ。




と、雨で思考訓練をしておくのである。

そうすれば日常の「いやなこと」も、あの日の雨といっしょかな、という感じで乗り切れる気がする。

めんどうくさがらずにさっとかさを差そう。

あるいは晴れるまで待とうではないか。家の中でもやることはいっぱいある。ぼくはまだ水曜どうでしょうの新作DVDを通しで見ていなかったじゃないか。ハヤカワTwitterが進めていたSF「ネクサス」をKindleで買ってからまだ1ページも読んでいないじゃないか。





ハヤカワTwitterはぼくをフォローしてくれない。人から聞いた噂によると、前担当のひとりが「あの病理医はなんかむかつくから、フォロー返さないでやれ」と、申し送りしたのだという。

えっ、マジで? 傷つくなあ。その噂、ほんとなの? とたずねた相手はニコニコしていた。

だまされたかもしれない。小雨がスーツをぬらす。

2018年11月2日金曜日

病理の話(259) 細胞だけで診断しろって言われても

病理医は「細胞をみて診断する」のだが、実際には細胞以外のものをかなりみている。

この話はよくポジティブなニュアンスで語る。臨床情報、主治医の考えていること、患者の訴えなどを総合的に判断したうえで、細胞をみて何かに気づくというのが病理医だ、とか。細胞だけみていては病理診断の真髄には触れられないぞ、とか。

でも語り口を変えることができる。「細胞以外のものにひっぱられる人間のサガ」に気づかずに、病理診断をやるのはちょっと危険だ、ということ。

今日の話は相当マニアックなので、病理医以外にはわからないかもしれないが、各自、「あーそういうこともアルヨネー」と、鷹揚にごらんいただきたい。




たとえば内視鏡医Aが依頼してきた検査だと、それだけで、頭の中には胃や大腸の病気が思い浮かぶ。

だって内視鏡医は胃や腸をみて診断する人たちだからだ。

細胞をみる前に、すでに、胃や腸の病気の名前がしまいこまれている「脳の引き出し」のロックがパチンパチンと解除される。

細胞をみはじめた瞬間からそれらの引き出しがいっせいに開いて、中から、「この病気かな?」「それともこの病気かな?」というように、名前が次々に飛び出してくる。

それをぼくらは選び取るのだ。



そして、そこそこまれに、「内視鏡医の依頼なのだが、胃や腸の病気じゃないケース」というのがある。そのとき、細胞を丁寧に丁寧にみていれば「ああ、これは胃腸の病気じゃないよ。」と気づけるのだが、これがまた、ほんとうに難しいのである。

たとえば婦人科の病気。子宮とか膣は直腸のすぐ前方にあるので、大腸の検査で子宮あたりの病気がみつかることがマレにある。

たとえば代謝の病気。全身になんらかの物質が沈着しているような病気で、たまたま胃や大腸に同じ沈着物がたまっていることがある。

たとえば血管の病気。全身の血管に異常がでる場合、ある確率で胃腸の血管にも異常がでることがある。

たとえば膵臓の病気。膵臓は胃の後ろ側にあるので、膵臓に何かがあるときに胃に変化が出ることがある。



「そりゃそうだよなあ、マンションの部屋がずぶぬれなとき、原因がその部屋の水道管にあるとは限らないよなあ、上の部屋の水道管が破裂して下の部屋が水浸しになっていることもあるよなあ。」

ちょっと考えればわかることなのだ。でも……。

おもしろいくらいに、病理医は、先入観に引っ張られてしまう。



毎日暗唱している。「内視鏡医が依頼してきたからといって胃腸の病気だと決めつけるな!」重要すぎるライフハックだ。それだけわかっていても! なお! うっかり見逃しそうになることがある。




臨床の診断学において、「検査前確率」ということばがある。医師たちは、意識してか、あるいは無意識にか、患者がやってきたときに患者の年齢や性別、見た目、しゃべり方、さらに最初に患者が言った話の内容などから、「この人はおそらくこういう病気ではないか」という、

 「まだ検査する前にみつもっておく、ある病気の確率」

というのを脳内で算出する。

病名A: 50%
病名B: 20%
病名C: 10%
病名D: 10%
病名E: 2%

といった具合に、だ。

そして、ここに診察や検査を加えていくことで、それぞれの病気の可能性を「あげたりさげたり」する。この検査が(+)だったら病名Bである確率は半分くらいになるなあ、みたいな感じだ。

病理医も実は同じことをしている。ただし、病理医がはじめて患者に出会うときには、すでに臨床医が多くの検査をおえた後であることが多い。まだなにも検査をしていないよ、とはいっても、「何科の医者がみることにしたのか」だけで十分な情報なのだ。胃腸の病気がうたがわしいから胃腸内科の先生がみているんだろう? 腎臓の病気が疑わしいから腎臓内科の先生が担当しているんだよな? というかんじで。

すると、病理医が頭の中でみつもる、病気の確率は、ときにこんな感じになる。

病名A: 98%
病名B: 2%
病名C: 0.1%
病名D: 0.1%
病名E: 0.1%
.
.
.

ほとんど病名Aで決まりだったりする。ガッチガチだ。

そのうえで、病理医は、「万が一病名Eだったら、俺がそれを見つけないと、ほかの医者はたぶん気づかないぞ」という役割を与えられている。これは、「ほぼ間違いなく病名Aだと思うけど、確定してくれよ」という依頼と、表裏一体だ。



これだけガッチガチの状況下で、なお、「細胞だけをみて、検査前確率をひっくり返す」というのは、思った以上に難しい。

だからこそ、「細胞をみるだけのことで」わざわざ単独の専門性を与えられ、飯が食えている、ということになるのだ。道険し。

2018年11月1日木曜日

わかったか恵三朗

なんか今ふと思ったんだけど、たとえばレオナルド・ダ・ビンチが死んだ時、周りにいた人は、「とても大きな損失だ」とか、「我々は偉大な天才を失った」とか、「これで科学の進歩はしばらく遅れるだろう」みたいなことを考えたのではないか。

でもまあ、その後、ぶじ科学は発展し続けている。レオナルド・ダ・ビンチがいなくても、だ。




きっとレオナルド・ダ・ビンチは、死の床で、

(あっ……今思い付いたアイディア……ものすごく多くの人のためになる……役に立つ……最高……でももう口が動かない……惜しい……)

なんてことを考えていたんじゃないかと思う。

彼があと数年生きていたら今の世の中に何を残してくれたのかはわからない。でも、まあ、それがあってもなくても、世界はこうしてなんだかんだで不思議にまわっている。

今となっては、どうしようもないし、どうでもいいことだ。レオナルド・ダ・ビンチにとって、いいことなのか悪いことなのかはわからないが。


こんなこと、様々な場面で起きていると思う。





ぼくはかつて、手塚治虫の訃報を聞いた際に、ある大人が、

「これで火の鳥大地編は永久にみられないんだ」

とつぶやいていたことを覚えている。

その後も世界は滞りなく回っているけれど、おっしゃるとおりで、火の鳥大地編は決してみることができない。

世界には、「あとで誰かがどうにかするから大丈夫だよ」というタイプの損失と、「誰にもどうにもできない、そこで永久に終わる」タイプの損失があるんだなと、そのころ、漠然と思っていた。





科学者というのは自分の物語に結論を用意しなくていい。生きている限り、学術を追いかけて、未完の科学を更新し続ければいい。最終回を担う責任みたいなものがない。

だから、科学者には後世のことをあまり考えずに、自分ができることを好き勝手に追い求めて欲しいと思うし……

マンガ家や作家はできればできるだけ長生きして欲しいなあ。

ふわふわ書き始めた着想が、文字に牽引されてモニタに縛り付けられていき、少しずつ固まっていく。