2018年11月1日木曜日

わかったか恵三朗

なんか今ふと思ったんだけど、たとえばレオナルド・ダ・ビンチが死んだ時、周りにいた人は、「とても大きな損失だ」とか、「我々は偉大な天才を失った」とか、「これで科学の進歩はしばらく遅れるだろう」みたいなことを考えたのではないか。

でもまあ、その後、ぶじ科学は発展し続けている。レオナルド・ダ・ビンチがいなくても、だ。




きっとレオナルド・ダ・ビンチは、死の床で、

(あっ……今思い付いたアイディア……ものすごく多くの人のためになる……役に立つ……最高……でももう口が動かない……惜しい……)

なんてことを考えていたんじゃないかと思う。

彼があと数年生きていたら今の世の中に何を残してくれたのかはわからない。でも、まあ、それがあってもなくても、世界はこうしてなんだかんだで不思議にまわっている。

今となっては、どうしようもないし、どうでもいいことだ。レオナルド・ダ・ビンチにとって、いいことなのか悪いことなのかはわからないが。


こんなこと、様々な場面で起きていると思う。





ぼくはかつて、手塚治虫の訃報を聞いた際に、ある大人が、

「これで火の鳥大地編は永久にみられないんだ」

とつぶやいていたことを覚えている。

その後も世界は滞りなく回っているけれど、おっしゃるとおりで、火の鳥大地編は決してみることができない。

世界には、「あとで誰かがどうにかするから大丈夫だよ」というタイプの損失と、「誰にもどうにもできない、そこで永久に終わる」タイプの損失があるんだなと、そのころ、漠然と思っていた。





科学者というのは自分の物語に結論を用意しなくていい。生きている限り、学術を追いかけて、未完の科学を更新し続ければいい。最終回を担う責任みたいなものがない。

だから、科学者には後世のことをあまり考えずに、自分ができることを好き勝手に追い求めて欲しいと思うし……

マンガ家や作家はできればできるだけ長生きして欲しいなあ。

ふわふわ書き始めた着想が、文字に牽引されてモニタに縛り付けられていき、少しずつ固まっていく。