2018年12月31日月曜日

脳だけが旅をする

祝日ではない平日に更新するというルールを厳密に設定すると、12月31日(月)はブログの更新日となる。

なんか休み感があるけど、まあいいか。

告知のツイートを忘れそうだ。まあいいか・2。

今日はあまりいっぱい読まれない日だ。だったら、いつもは書かないことを書こう。

ふりかえることにする。それも本気で。

みなさんにとってはつまらないだろう。でも数年後のぼくが見返すと少し懐かしい気分になるのではないか、と思う(恥ずかしさに顔を赤らめるかもしれないが)。






本年は小さな論文を2本出した。あとは共著の英文論文が1本。いずれも、科学者がだいじにしている「インパクトファクター」は非常に小さい。けれどそれぞれ、細々と苦労があったし、多くの人のお世話にもなった。結果、目に見えるものが世に少しだけ残ったことを素直に喜んでいる。来年もこまごまと論文を書き続けたい。


病理診断業務については例年並みだが、仕事のスピードは少し速くなり、外部から頼まれる仕事の量がかなり増えた。消化管系のコンサルテーションの数はおそらく去年の4倍くらいある。それだけ年を取ったということだ。「担え」ということである。


学術関連ではあいもかわらず「臨床画像と病理組織像の対比」のテーマでときおり講演をしている。2018年に訪れた場所は、浜松、岡山、ウランバートル、佐賀、山口、四日市、京都、立山、東京、東京、飯田、松本、高知、東京。ただ今年は出張の多くがかけもちだった。だから講演回数のわりに札幌を離れた日は多くなかったように思う。内容としては上部消化管のバリウムや内視鏡・拡大内視鏡と病理の対比が多く、今年はこれに消化管エコーや膵臓エコーと病理の対比の話が続き、マニアックなところとしては炎症の病理についての講演や、AI病理診断についての我々の立ち位置の話などが加わった。消化管エコーについてはある研究会の全国幹事を務めることになったので、今後もう少し講演する機会が増えるかもしれない。


日本病理学会の学術評議員になった。「社会への情報発信委員会」に入り、なんだか広報のための裏方として悪い顔で打ち合わせなどを何度かやった。


「病理情報ポータル」というブログ( https://patholportal.amebaownd.com/
の立ち上げ。ほんとうはこのポータルに、新たなツイッターアカウントを連携させて、日本病理学会主導のSNSを体系的に運営してみてはどうか、と思っていた。病理学会の複数の評議員たちで協力して運営できるように、こっそりと準備をすすめていたのだ。けれども、様々な調整の末に結局、「病理学会公認」のSNSは見送った。もともと、学会が必死でSNSをやるべきだとも思っていなかったし、まあそういうこともあるよな、とすぐにあきらめた。結局このブログについてはぼくが引き取って、ほそぼそとハブ的な情報サイトに仕立て上げている。アクセス数は低いがコンスタントに人が見に来ている。


病理学会がらみでは、ほか、2019年の早い段階で、2つほど動画を作成することになっている。疾患や医療、病理の啓蒙活動のために動画を作るというのは「いまさら感」があるが、いつも新しいことだけやればいいというものでもなさそうだ。動画2つのうち1つについてはぼくが脚本を書いた。収録は年明けすぐを予定している。


2018年は執筆数がじわじわと増えた年でもあった。ありがたいことに出版も複数させてもらった。書籍「いち病理医のリアル」と、「上部・下部消化管内視鏡診断マル秘ノート2(モテ本2)」、「私の消化器内視鏡Tips」が出たのはいずれも2018年のことである。


「いち病理医のリアル」はエッセイにしては値段が高いけれど、おかげさまでよく売れている。原稿を用意したのは2017年のことだから、もうだいぶ前のような気がしていたが、そうか、2018年の2月に出版したのだったか。


「モテ本2」は売れるとわかっていて出した。こちらは埼玉医大の野中先生や、手稲の田沼先生、旭川の濱本先生との共著であり、ぼくは黒子に徹すればよかったからラクだった。黒子にしては少々しゃべりすぎたきらいもある。ものすごい売れてちょっと引いている。


「Tips」は学園祭みたいな本だ。全国89施設から140本もの短い「お役立ちコラム」が寄せられて作られている。ぼくもその中の1本に参加した。ウェブサイト「ガストロペディア」の人気コーナーの書籍化である。こういうのは純粋に「仲間に入れた楽しみ」みたいなものがある。学会で著者同士が顔を見合わせてフフッとなるタイプの本だ。どれもおもしろいのだが、高知の内多先生の原稿がやはり楽しい。


そういえばモテ本1は発売が2016年なのだが、2018年になって韓国語版が出た。ハングルで書かれた教科書をみると不思議な気分になる。巻末のうさ耳イラストに添えられたハングルになんと書いてあるのか気になる。


本を出してもらえるというのは、ありがたいことだ。ぼくみたいな人間に何かを書かせてくれる人たちがいることに驚きと感謝がある。こうして1年を振り返るときに、書籍の話をする日が来るなんて、予想もしていなかった。


もともと、2017年に「症状を知り、病気を探る」(照林社)という本を出せたことが大きい。どこに行くにもカバンをゲラでパンパンにして、出先や研究会の空き時間、移動中の機内などでずっと校正をしていたことを思い出す。この本が結んだ縁は非常に大きく、看護系の某団体の偉い人が本書をほめてくれて、ぼくにひとつ仕事を振ってくれたりもしている。台湾で翻訳版の発売が決まっている。この本を読んだ他社の人たちから原稿の依頼が舞い込むことも多い。


本を出してからというもの、全国の書店員さんを強く意識するようになった。出版社の営業とか編集に携わる人もそうだ。つまりは本を「書く人」「読む人」だけではなく、「作って届けて広げて売る人」にも目がいくようになった。


もともとぼくは今のツイッターアカウントをはじめる4か月ほど前から個人のアカウントを持っていた(現在は閉鎖)。ツイッターという世界をいろいろ知ろうと思って始めたアカウントで、ぼくが最初にフォローしたのは、東急ハンズネットやヴィレッジヴァンガードなどの企業公式アカウントと、出版社や書店員のアカウントだった。それから8年経つが、結局おいかけているアカウントとしては今もそう変わらない。ただ、書店員に対しては、本を出してからそれまで以上に親近感……というか感謝の気持ちが深くなった。


さまざまな連載原稿の話もしておきたい。


雑誌「Cancer board square」の連載は2019年の初頭に最終回を迎える。季刊ペースのため原稿の数こそ多くないのだが、あしかけ4年以上にわたり「臨床の人たちに伝えたいワンポイント病理」という視点で書かせてもらった連載で、思い入れが深い。医学書院の担当編集者が無駄にかっこいい点だけが残念だ。


「薬局」「治療」に同時連載していた「Dr.ヤンデルの病院ことば」も、全20回で大団円となった。この連載は地味に反響が大きく、最終回のときにはツイートで幾人か言及してくれた。雑誌連載についてツイートを目にすることはそう多くないからとてもうれしかった。南山堂の編集者氏とは未だにお会いしていない。「会わずにここまで仕上げていく関係」というのはとてもクールだと思うし、ぼくの好きなやり方である。


Medical Technology誌の超音波・病理対比連載は第3シーズンが終わろうとしている。千葉西総合病院の若杉先生という鬼才とご一緒できているだけで光栄だが、金久保さんという大変優秀な技師さん、おまけに網走の長谷川というやや残念な長身の技師と4人体勢で「座談会」をできているのが大きい。座談会とか対談というものは医療系だと結構苦労するジャンルらしいのだけれど、連載を続けさせてくれている医歯薬出版の編集部のふところは大きい。


重要な変化球として、病院司書さんを対象に全国で350部ほど発行されている雑誌「ほすぴたる らいぶらりあん」に4回の連続エッセイを寄稿した。「巨人の膝の皿の陰」というタイトルで、このエッセイについてはまず一般の方々が目にする機会はないと思うが、ぼくが今まで書いてきたものの中でおそらくは一番ぼくらしい文章である。お声がけいただけたことに深く感謝している。なおこの連載が縁で、2019年にひとつ講演することが決まっている。


単発の原稿としては、日本医事新報の「プラタナス 私のカルテから」というコーナーには、かつてぼくを育ててくれた(今もお世話になり続けている)バリウム技師たちとの画像・病理対比の日々を書いた。仲野徹先生がずっとコラムを載せている雑誌に名前が載るのはうれしいものがある。


週刊医学界新聞には「教科書の選び方」についてのミニコラム。また、「トラブルに巻き込まれない著作権のキホン」と「集中治療、ここだけの話」の2冊について、それぞれ書評を投稿した。いずれも、医療系の仕事でありながら本関連の仕事でもある。どうもいろいろとつながっている。


本といえば、医学書を読んでおすすめする毎日にヒントを得たのか、三省堂書店池袋本店で「ヨンデル選書フェア」がはじまった。2018年12月から2019年5月までの半年間、ぼくが選んだ本がぼくの書いた「おすすめコメント(350文字)つきカード」とセットで特設ブースに並ぶ。



最後に自分で見に行ったもの、聴きに行ったことの話を書いておく。



川崎医大の畠二郎先生の講演はいつもすばらしい。名古屋の中村栄男先生は大御所といった雰囲気がすごかった。富山の病理・夏の学校では幾人かすばらしい講演をされていた先生がいた。飯田の岡庭信司先生にはいつもうならされる。神戸の伊藤智雄先生とはたまに病理学会のイベントでこれからもお会いするだろう。若い医学生に会うと必ず長崎大学の福岡順也先生のところに見学に行くよう勧めている。新潟の八木一芳先生と札幌医大の山野泰穂先生は読影者としても研究者としてもちょっと別格だなと感じる。


中学生のときに通っていた塾の恩師と食事をしたのは3月だった。おいしいものを「おいしいから食え」と言われてあんなにうれしいとは思わなかった。


あるとても偉い人に会った。ある学会の頂点にいる人だった。奮闘し、感謝もされ、誰にも知られないままに終わった。書けない日々のことが手帳の中にひびとして残っている。


人の話をよく聴きに行った一年でもあった。人ではないが犬の枕草子の話がとてもよかった。人ではないが鴨にサインをもらったのがうれしかった。2019年もたまに人の話を聞きに行こうと思う。今までできなかったことだ。


息子と旅をした。書いたことはないと思う。
あれはとてもよい旅だった。

2018年12月28日金曜日

病理の話(278) 患者とみるか検体とみるか

患者の名前を覚えている医者、というのがいる。

そんなの当たり前では? と思われるかもしれない。

けれどもこれはまったく当たり前ではないのだ。



患者と会話して、その雰囲気や顔色、言葉使い、家族構成や家庭での過ごし方などをきちんと把握してから診療に入るというのは、確かに診察の基本だ。

だから熱心で患者思いの医者であれば患者のことはよく覚えている……と考えがちである。

けれども、医者は常に患者の個人的な情報ばかりを強く記憶しながら働いているわけではない。

現代医学において患者をみるポイントというのは無数にあるし、みかたも複数ある。

たとえば救急に運び入れられてそもそも意識がない患者であれば、患者本人の話はまわりの家族や友人などから聞き取るしかない。

放射線診断部門や病理診断科のように、患者に直接会わない場合は、患者そのものではなく「患者からとりだしてきた画像や検体」しか目にしないことだってある。

そこまで極端な例でなくても。

たとえばある外科医は、患者の顔はあまり覚えていないのだが、患者のCT画像をみて、手術時に撮影したお腹の中の写真をみると「ああ、あの人ね」と思い出すという。

胆嚢や膵臓、胃などのまわりにどのように血管が走行しているか、という一点において患者のことを強く記憶しているような外科医もいる。

患者の顔も名前も覚えていないが、レントゲン写真を1枚みると「ああ、あのときにぼくが診断した、あの病気の人か」と思い出す呼吸器内科医。

血液検査データをみて「○年前の寒い冬の日に、ぼくの外来でみかけた人だったなあ」と思い出す肝臓内科医。




彼らのことを、「患者を検体としか思っていない、冷酷な医者」だとは、ぼくはまったく思わない。

実際、顔をみれば思い出すのだ。「ああ、○○さん、おひさしぶりですね」と。人間の顔がもつ情報というのは非常に深くて、実際に目を合わせると様々な連想がそれこそディープラーニング的に脳の奥から湧き出してくる。

でも、年に何千人もの患者をみている医者たちが、本当に覚えてなければいけないことが、患者の顔や名前とは限らない。





だから普通の医者はそこまで患者のことをひとりひとり覚えてはいないのだ……。

けれども、たまに、いるのだ。

無数の患者をみながら、患者のパーソナリティまで完全に記憶している、ばけものみたいな医者が。

ぼくに言わせればそういう医者は単なるバケモノであり、「実在する大魔王バーン」みたいな存在である。人間離れした異常な脳を、彼らは自慢するでもなく、こともなげにいう。

「こんなのは別に能力でもなんでもない、たまたまですよ」。

なんだそのメラゾーマではないメラだみたいな発言は。

こわいこわい。

2018年12月27日木曜日

高校時代にバレーボールをやっていそうな顔

ウェブラジオを細々とやっているのだが( https://inntoyoh.blogspot.com/p/twitter-yoh0702-note-note.html )、使っているヘッドセットがしょぼいせいか、スカイプでの収録に少々無理があるのか、ときどき、漏れた息であるとか、あるいは高音部が、「キンッ」と跳ねる。

スマホの音量を大きくして、運転中に車内で聴いていると(自分の番組を聴くとなるとはずかしいので車内くらいしかない)、このキンッがたまに耳障りだ。

あーこういうところ、やっぱりぼくはしゃべりの素人なんだなあ、と思う。

カーステレオから聞こえてくるふだんのラジオは、FMだろうが、AMだろうが、こんなに高音部が跳ね回ることはない。



音質だけではない。

しゃべりの間、会話の中にどれだけの頻度で要点を出現させるか、聴いている人がストレスを感じない程度の相づちをどう打つか、聴いていて不快にならない笑い方はあるのか。

声で何かを届けるというコンテンツの難しさを毎日のように感じている。



先日のこと。

よう先輩(ぼくと一緒にウェブラジオ #いんよう をやっている)が言っていた、声優さんばかり登場する文化放送のインターネットラジオ局「超A&G」が気になった。しゃべりのプロが朝から晩まで入れ替わり立ち替わりラジオをやっているということだ。カーステレオのチャンネルをいくら回しても出てこないウェブラジオなので、今まで存在すら知らなかった。

声優のラジオか……。ちょっとおもしろそうだな。

ということでいくつか過去の番組を聴いてみた。ニコニコで聴けたり、ラジコで一部を聴けたり、超A&Gのウェブサイトで聴けたりする。

これを車の中で、スマホから出力して、聴いてみることにしたのだ。



すると驚いた。

高音部が尖っているではないか。

パーソナリティの女性声優(もちろん大変よい声である)の「sh」の音が毎回キンキンと耳に刺さってくる。

なあんだ、スマホの設定の問題だったのか。そりゃそうだよな。イヤホンをつなぐでもなく、スマホのスピーカーから、総音量を上げた状態で声を流せば、仮にしゃべっているのがプロの声優だろうとも、高音域の音は飛び回って刺さってくるものなのだ。

ぼくは少し拍子抜けした。ぼくのせいじゃなかったのか。




ところが……。





その後聴いた別の番組にはパーソナリティがいて、早見沙織さんという声優さんがゲストインしていた。都合3人でしゃべっていた番組の中で、パーソナリティ2名の声がときおり高音をキンキン響かせているにもかかわらず、早見沙織さんの声だけは高音域が音飛びしたり刺さったりしなかった。

晩飯を食おうと、職場から車に乗って移動している間中ラジオを聴いていて、車を留め、スマホのラジオを消し、メシを食って、さあ職場に戻ろうと車のエンジンをかけたときに、そのことに気づいた。

「あああっ!」

と心の中に描き文字が浮かんだ。




調べてみると早見沙織さんという人はCDを2枚くらい出していて、作詞作曲もこなせて、先日は竹内まりやに楽曲提供を受けレコーディング中にディレクションまでしてもらったのだという。

声優さんはしばしば歌を歌うしCDも出すので、必ずしも珍しいことではないなと思っていたのだが、もしかすると、

「マイクに音が入るとき、どのような波形の音がどれくらい入っているものなのか」

をきちんと意識できるタイプの人なのだろうか……とか、

そんなことを敗北感と一緒に考えた。

2018年12月26日水曜日

病理の話(277) 病理医が対面することの意味

医療者とSNSの関係を模索するイベントというのが、近年あちこちで計画されている。

ぼくのところにも、あるイベントに出席して欲しいと依頼が来た。

場所は東京、開催は土曜日の夜。

手帳を確認すると、ちょうど翌日に東京で内視鏡系の研究会に出る用事があった。これなら、旅程を一日早めれば参加できる。土日なのも幸いした。

SNS系のイベントには今まで(しゃべる役としては)出たことがない。そもそも依頼が来ても断っていた。ただ、今回は医療者として登壇してほしいとのことだったので受けた。

医療情報の広報とか啓蒙という話には、今でも興味がある。

昔ほど自分で情報発信を担おうは思っていないが、自分のひとことが悪い方向に伝達されないように自衛する意味でも、我々の何気ないひとことが世間にどれだけ悪い影響を与えるのかを自覚する意味でも、勉強は続けておいて損はない。

医療者は本質的に、誰もが中動態的に広報に携わっているのだ。




以前にも、医療者としてSNS系のイベントに呼ばれたことはある。そのとき呼ばれたのは大阪だったのだが、交通と業務の都合上行けなかった。札幌から大阪まで行ってイベントに出ようと思うと半日休みをとらなければいけない。業務終了後に移動開始してはいろいろ間に合わない。イベントまで1か月ない状態でお誘い頂いても、残念ながら翌月の業務はもう動かせなかった。こういうとき、札幌という土地は田舎だなあと感じる。

SNSの話題なんだから、わざわざ1箇所に集めないでオンラインでやってくれればいいのにな、と思わなくもない。

でも、おそらく、「ゲストには遠隔で、画像と音声だけ参加してもらいます!」という宣伝文句だと、人は呼べないのだろう。




この「人というのは実際に会わないといい仕事ができない、魅力や価値が伝わらない」という考え方は、個人的には信仰に近いと思っている。

けれども、「会うこと」に価値を見いだしている人間がこれだけ多い以上、そのオカルトをぼくは無視できない。




本来、「会わないとだめ」をいかに乗り越えるかがSNSに背負わされた使命なのだ。

となると、

「いつもは『会わないとだめだ』と思っているはずの人間たちがSNSでつながっている。そんな人々は、SNSに何を見いだし、SNSは何を生み出すのかという話を、SNSでやらずに、実際に会って話す」。

というのは入れ子構造であり自己矛盾であろう。

矛盾をはらむとイベントは作りやすい。




医療の目的は、患者がどう幸せになるか、どう不幸せを克服するかというところにある。そして、

「患者にメリットがあれば、医療者と患者が対面しなくてもよい」

という考え方は、医療においては通用しない。

患者の多くは

「医療者と直接会うこと」

に強い価値を見いだす。

AIがどれだけ進歩しても、患者が信頼できそうな医療者と対面することなしには、医療は完結しないだろう。

ただしこのとき、「会うだけ」のために配置された医療者にどれだけ給料を払うべきなのかはこれから吟味する必要があるけれど。

「その場にいて寄り添ってくれる人」に高い金を払えるほど、これからの医療経済がうまく回っていくとは思えない。ぼくはそれほど楽観的ではない。



この話を考え続けているといつもたどり着くポイントがある。

ぼくはそもそも一緒に働いている医療者たちに、どれくらい、

「会わなければ困る病理医」

と思われているのだろう。

たまに投げやりな文句をネットで目にする。

「病理医なんてぜんぶAIになるから必要ないじゃん」

これを言う臨床の医療者たちは、実際、病理医に「会うだけの価値」を感じていないということだ。

実際にその医療者たちは今まで「生身の病理医抜き」で仕事を回してきたのだろう。

その仕事をぼくから見たら、いろいろと残念なところが見えてくるかもしれない。

学術的に終わってるところも出てくるかもしれない。

しかしその医療者はすでに、患者に十分に幸せを与えているかもしれない。

だとしたら「生身の病理医がいらない医療」にも十分な価値はあるということになる。




SNSを使い続けているぼくは、「会うに値するかどうか」みたいなことを考え続けるようになった。

「値する」というのは、メリットがあるかどうかだけでは判断しない。支払ったコストに見合っているかという見方が重要になってくる。

「ネットで盛り上がっている内容を、顔を付き合わせて肉声でどれだけやる価値があるか」。

「病理医を臨床現場に配置せず、AIとデータベースと中央集権的な一部の天才によって運営してはいけないのか」。

これらは一見まるで違う話に見えるかもしれないが、ぼくの中ではほとんど同一の問いだ。

かくいうぼくは、病理学は究極的には人間が顔を付き合わせる「ウェット」から脱却して、どこまでも「ドライ」であってよいな、と思っている。病理学者はヒューマニズムからは無縁であっていい。どこまでもアカデミックであっていい。

けれども病理学者ではなく「病理診断医」がどうあるべきかについてはまだ迷っている。

ぼくにウェットな対面を求めてくる医療者は、今はそれなりの数、いる。

学会や研究会に呼ばれる回数は減っていない。これだけSNSが進歩しているのに直接呼ばないと、顔を付き合わせないと満足できないらしい。

だとしたら今後のぼくは、彼らとじっくり「顔を付き合わせて」、「腹を割って」、何を伝えていけばよいのだろう。

あるいは、「もう会わなくていいと思う」と伝えていくことになるのか。

そこに医療者の幸せがあるだろうか。医療者が現在抱えている不幸を克服することができるだろうか。払うコストに見合ったメリットがあるのだろうか。

2018年12月25日火曜日

安定感のあるブログ

気温が安定しない時期だね、と言ったら、相手は少し考えて、

「でも近頃は年がら年中気温って安定してないですよね」

と答えた。

うん、そうだね。冬に限らないな。

いつだってテレビの天気予報では、「平年より10日早い」とか「来月中旬並みの気温」とか、「先月くらいの温かさが戻ってきます」とか言ってるもんな。

昔は違ったのかなあ。



きっと違わなかったのだろう。

近頃はきっと、データの照合が昔よりずっと簡単になったのだ。前よりも「昨年との比較」とか「過去100年の平均と比べてどうか」みたいなことがラクになった。

今のこの状態が「平年並みかどうか」というデータが数秒で取り出せるようになったから、報道の機会も増えて、ぼくらがそれを気にする機会も増えた、というところだろう。




何度か書いてきたことではあるけれどやはり認めておかないといけない。

ここはもう未来なのだ。

ぼくが小学生時代に背中をまるめて読みふけったドラえもんの世界が、地味な方向に1/3くらい達成されている。

あらゆるものが少しずつデータベース化されていくことで、「現在」が「現在」だけに留まらなくなる。「現在」は常に「過去」と照らし合わせられるようになる。あるいは、「現在」から「未来」が予測しやすくなる。

もちろんここにはいつだって不確定性がある。カオスがある。天気予報くらいにしか当たらない、というのは時代を言い当てたフレーズだ。

それでも、「天気予報くらいには当たる」世の中に、ぼくらは今生きている。




誰が最初に言ったか知らないが、動物には過去と未来の概念がないのだという。人間だけが時間軸を背負って生きている。

これはたぶん人間の脳が、過去の経験を使って生存戦略を立てることにむいているからだ。

情報が総データベース化することで、その都度複雑系の出力結果として表出しているにすぎない「現在形のみ存在する現象」、すなわち気象とか経済とかファッショントレンドとかにも、まるで過去・現在・未来がつながっているかのような錯覚をできるようになった。




近頃は気温が安定しない。12月に、12月らしい気候の日は半分もないように思う。

けれどもほんとは元々「そういうものなのだろう」。

あらゆるものがデータベース化すると、ぼくらの目には、あらゆるものが「不安定」に見え始める。

「そういうふうにできている」。

2018年12月21日金曜日

病理の話(276) かけはなれを定義しよう

細胞の性状をみて、たとえば核とか細胞質といった細胞内の構造をみて、

「正常の細胞からどれくらいかけ離れているか」

を考えるのが病理診断のキホンである。


核の中には、その名の通り細胞の中で非常に重要な「プログラム」、すなわちDNAが入っている。

この核のサイズが普通の細胞に比べて大きいとか、異常な形をしているとか、核膜と呼ばれる構造がガタガタしているとか、染色したときの色合いが濃いとか薄いとか、これらの「かけ離れ」を見つけたとき。

ぼくら病理医は、「ああ、DNAのある場所がおかしくなっているなあ」と考える。

DNAなんてものは本来、1つの細胞に1セットあれば十分だ。また、DNAは必要に応じて稼働するプログラムなので、あたかも分厚い広辞苑とか聖書のように、普段はきちんと折りたたまれている。必要以上にページがたぐられたり、開いたまま放っておかれたりはしない。

一方、核がおかしいときは、このDNAのセット数が増えてしまっていたり、広辞苑のあちこちがめったやたらに開かれまくっているといった状況にあたる。

これは正常の細胞ではありえない。

細胞の統率がうまくとれていないことを示す。

……そういう細胞は、「たいてい」、がんである。

ぼくらはそうやってがん細胞を探している。




けれども。

核がなんだかおかしい細胞が、「がんではない」こともある。

たとえば、細胞の周りに規格外の争乱が勃発していて……医学的にいうなら「強い炎症」が起こっていて、細胞たちがザワリザワリとざわついていることがある。このとき、細胞は、自分たちの身を守るために、せいいっぱい頭を働かせて(?)、プログラムを次々とひもとく。

「周囲がヤバいことになっているので、善良な細胞たちも全力でプログラムを稼働させなければいけない」ときには、細胞の核は「普段と比べてかけ離れる」。




細胞の核をみて、ああ核がおかしいからがんだな、と、パパッと絵合わせゲームで診断をできるほど、病理診断は甘くないのだ。核がおかしいからといって、がんじゃないこともあり得る。

周囲の状況、とくに細胞がざわつく理由みたいなものを、きっちりと情報収集しておかないと、その細胞が真に「狂っている」やつなのか、「たまたま状況に流されて一時的に狂っている(そのうち元にもどる)」やつなのかを判断できない。

なんだか難しそうだろう?

実際に難しい。病理医としてのキャリアが長いベテランほど、「かけ離れ」の判断には慎重を期する。むしろ経験が浅い、若い病理医は、「『異型』の判断なんて、普段はそれほど難しくないですよ」みたいなことをいう。




突然、「異型」という言葉を使ってしまったが……。

「かけ離れ」のことを、病理学用語で異型と呼ぶのだ。

細胞の構造が本来のものと比べてかけ離れているとき、「異型がある」と呼ぶ。

かけ離れが強ければ、「異型が強い」とか、「高異型度」などと称する。

単なることばだ。

されど、ことば。




病理を勉強し始めたばかりの人は、とにかく病理診断報告書に「異型があります」「異型細胞があります」と書きまくる。

異型がある、ということばは、「性状がふつうの細胞に比べてかけ離れている」という意味である。それ以上でも以下でもない。

けれども、初学者はしばしば、「異型がある」を「がんである」という意味で用いていたりする。そういう報告書を読むことがある。

そうとは限らない、というのは、先ほどまで説明してきた通りだ。




まあ、正直、ことばの一つ一つを厳密につっこむのは、本意ではない。

日常臨床で、病理医の用いた日本語に対して挙げ足をとっても、あまり生産性は無い。

けれども。

ぼくらは細胞の「形態」をみるという、言ってみれば人によってどうとでも取れるきわめて主観的な判断によって、細胞ががんなのかがんでないのかを判定しているわけで……。

ぼくらが「ことば」を大事にしないとき、ぼくらの存在意義もまた揺らいでいくのではないか、と思う。




今度ぼくらの存在意義に関係するイベントに登壇することになった。詳細は後日。ぼくは「悪役」をわりあてられる予定である。

2018年12月20日木曜日

あじのあるおかた

どうりで。おかしいなあと思っていたんだ。

こちらからメールしても全く返事が返ってこない。てっきりぼくが嫌われているのかと思っていた。

けれど何かの機会に顔を合わせるとにこにこ挨拶してくれる。

多くの仕事で顔を合わせる。

そのたびに親切にいろいろ教えてくれる。

けれどもメールには全く返事してくれない。新手のツンデレなのかといぶかしんでいた。



結論は簡単だった。

その忙しすぎる教授はメールを見ていないのだという。

あるときからメールを開くのをやめたのだそうだ。そんなことがあり得るのか。

けれども教授はしれっと言うのだ。

「本当に重要な用件なら電話してくるでしょう? 電話じゃなくてメールで済ませるってことはまだ余裕があるんだよ。相手の時間を奪ってでも一緒に仕事をしないと困る、っていうくらい優先度が上の人と仕事しておけばいいんだ」

ぼくは脱力してしまったのだが、まわりの人間も一様に、のけぞったり、顔を手で覆ったりしていた。

ただ、その教授の近隣で働いている「地元の人」だけは苦笑いを浮かべている。なるほど彼らはそのことを知っていたのだろう。



ぼくはさまざまな打ち合わせをするために「会いたがる」人たちのことが不思議でしょうがなかった。

なぜIoT時代にわざわざ会って話す必要があるのだ。

特に出版社で編集とか記事作成に携わっている人たちが毎回「会いたがる」のには閉口していた。きみらは文章のプロなんだから、まずメールで思いの丈を存分に伝えればいいじゃないか。それをぼくが読んで判断すればいいじゃないか。

わざわざ会わないと企画がはじまらないというのも不思議な話だ・・・・・・。




しかし、教授の話を聞いて、またひとつ思うところがあった。

メールで人柄をかもしだすのって大変なんだよな。

切迫感とか。

ニュアンスとか。

一通をじっくり読めればいくらでも伝わるだろうけれど。

たとえばあの教授みたいに、一日にメールが100通も200通もきて、そのどれもが「一世一代の大きなコンサルテーション」だったりすると、もはや、どのメールもぜんぶ重要なせいで、かえって優先順位がつけられなくなるのだろう。

インターネットの速度は人間の脳の処理速度を超えている。

だからこそ、回線を切って、時間を切って、「その人だけに注力する時間」をきちんと演出できないと、進む話も進まない。

そういうことなんだろう。なんだかわかってきた。



ぼくは教授に尋ねた。

「わかりました先生、これからは電話します。けれど、おいそがしい先生のお時間を電話で奪ってしまうのも心苦しいというか……」

そしたら教授はこともなげに言うのだ。

「あっ、電話なんてそんなにびびらなくていいんだよ。ただひと言でいい。『今送ったメールを読んでください』でいいんだ。そしたらぼくは、電話がきたってことは大事な用件なんだなってわかって、メール読むから」




そのハイブリッドな生き方は果たして効率的なのだろうか?

日本の企業がオンライン化したプロセスをいちいちハンコで承認するのと似ている気もした。

なおその教授は異常に頭がよくて、ぼくが「AとBとCがみえるな」と思ったプレパラートを一瞬みるだけで、

「なるほどこのプレパラートにはABCDEFGがみえて、いろはにほ、αβγもみえているね。『B』と『ほ』と『ω』は相関しているなあ」

みたいなことを即座に出力する。

それだけ頭がいい人の生き様だ。

凡人であるぼくが解釈するのもおこがましい話ではある。その上で敢えて言っておこう。凡人は無駄にしゃべる。これはもうしょうがないのだから。無駄につっこませてほしい。




いいからメール見ろ

2018年12月19日水曜日

病理の話(275) 首都高の写真からダイナミズムを読めるか

体の中から取ってきた臓器、あるいは臓器のごく一部(小指の爪の切りカスより小さいときもある)を、顕微鏡で調べるというのが病理診断の大きな柱である。

この病理診断、「取ってきたもの」を「顕微鏡で」みるという性質上、どうしても苦手なことがある。それは何かというと……。

「時間を止めてみているから、時の流れに沿って変化する病態をみるのが難しい」

ということだ。

それはそうだろう。

たとえば石狩川を写真にとって眺めたところで、川の水がどれくらいの早さで流れているかを判断するのは難しい。

高速道路に走る車を写真にとって、あとから「これらの車は時速何キロで走っているでしょうか」と聞かれても困る。

写真ではダイナミズムは検討しづらい。これは当たり前のことである。




……ところが、このように例え話にしてみると、人間というのはおもしろいもので、

「そうかな、やりようによっては写真であってもダイナミズムを予測できるんじゃないかな」

なんてことを勝手に考えつく。



たとえば、石狩川の流速の情報が事前にわかっていれば、川の幅や水量をみるだけである程度流速も予想できるかもしれない。

あるいは、高速道路の車を拡大して、車の天井についているアンテナのしなり具合をみれば、「どれくらい風の抵抗を受けながら走っているか」みたいなことがわかるかもしれない。

ほかにも、石狩川の水面に大量に葉っぱが浮いていたら、「ああなんか水がよどんでいるんだろうな、流速が遅そうだな」と予想できるかもしれない。

高速道路なのに車がすし詰めだったら、「あっ渋滞だな、だったら流れはかなり遅いだろうな」というのは誰でもピンとくるだろう。




そうなのである。写真であってもダイナミズムの予測はできるのだ。

ただしこれにはコツがいる。

顕微鏡をみて、「血管がパンと張っているから、うっ血があるだろう」だけではなかなか診断の役には立たない。

「血管が少し張っている。おまけに血管のまわりにはすかすかした場所がある。ここはおそらく水分の漏れ出しがあったのだろう。この中には好中球という炎症細胞がみられる。血管の外に飛び出た好中球は1日とか2日という短い間に死んでしまうはずだから、今目に見えている好中球はせいぜい過去1日程度で出現したものだ。つまり、かなり最近の変化だということになる。以上をあわせると、ここ1日くらいで血管の透過性が亢進し、血管外に浮腫が起きて好中球が出るような病態があって、かつ血流がその場に多く動員されている。ということはおそらくこの部には急性の炎症があるな。炎症の原因としてはこの場合何が考えられるだろう……」

ここまで読んでこその病理診断だ。




ダイナミズムを読むのは難しい。しかし、プレパラートからダイナミズムまで読み解いてこその病理医である。「絵合わせ」だけでは診断は終わらない。

2018年12月18日火曜日

目の付け所

スマホを変えた。前の機種は四年使っていたらしい。

でもこの四年間、二回ほど玄関でスマホを落として割ってしまい、保険を使って新しい(同じ機種の) スマホに変えていたので、機種変の際の手続きにはそれほど苦労しなかった。アプリの設定もすべて引き継げた。

ぼくはスマホゲームをやっていないのでその点も楽だった。あっでもポケモンgoは……最近やってなかったからいいか……。


さて新しいスマホにはなんの不満もない。ただ細々と異なることがある。

まずフリック入力の感度が変わった。なんだか多少ねっとりと滑らせないと、うまく文字を選択できない。

次にマナーモード時のバイブが静かになった。職場でデスクにスマホを置いているとラインに気づかない。

充電の残量が数字で表示される。電池のアイコンだけでもいいんだけどな。

これらはすべて不満ではないがストレスになる。



不満ではないがストレス、という類いのものごとは世の中にそこそこある。これらはたいてい「すぐ慣れるよ」というハラスメントによって無視させられる。生きて死ぬまでの間の「慣れるまでの助走期間」を累積したら、人生の半分くらいは「慣れないうち」であり、だからぼくらはしょっちゅうまごまごしている。



「」とか()を、かっこ、と入力して呼び出すとき、前のスマホではカーソルが二つの記号の後ろに来た。

「」|  ←こんなかんじ。

今のスマホは優しいので、カッコ使うならカーソルはここだよな、とばかりに、

「|」  となる。



これになかなか慣れない。ただこれだけのことに慣れない。口内炎も痛い。足の親指の毛根にばい菌が入って少し腫れている。

2018年12月17日月曜日

病理の話(274) 遺伝子信仰ちょっと待った

猫も杓子も遺伝子なのである。

今の医学はとにかく遺伝子なのである。

特に「がん」は、ひたすら遺伝子なのである。



病気の原因が、なんだか我々の思考が及ばないところにある「遺伝子の異常」とざっくり考えることで、我々はなんだか「おさまりがいい」みたいな気分になる。

それはもう、すごく、強制的な納得をしてしまえる。

みんな「遺伝子の病気」というのをすごく気にする。

「遺伝子の異常」という言葉にめちゃくちゃ敏感になる。




遺伝子にキズがついていると病気になるとか。

親がこの病気だと子供もこの病気になるだろうとか。

遺伝する病気、家系に伝わる病気、

放射線を浴びるとDNAが傷つく、みたいな話だって、世の中ではすごく耳目を集めるであろう。

DNAは人体のプログラムだからなあ。

プログラムがいかれていたら、それはもう、バグみたいな病気がいっぱい起こるだろうなあ、そうだよなあ……。




けれどもね、病気の「根本」というのは、別にDNAとか遺伝子みたいなところに「だけ」立脚しているわけではない。

そもそも病気というのはいくつかに分類することができるのだが、

・体の外から何かがやってきて、体と戦うパターン

・体の中でよかれと思ってバランスをとってうまくやりくりしていたはずが、そのバランスが崩れてしまったパターン

実はこの2つがすごく多いのだ。

前者の代表は風邪だよ。あとインフルエンザとか。傷口が化膿するのもこれだ。

ここ、別に、遺伝子とかDNAとか、「それほど」関係していない。

全く関係していないわけではないんだけどさ。

後者の代表はアトピーかな。

高血圧も後者だな。

肥満もそうだよ。

これらも遺伝子「だけが関与しているわけではない」、病気だ。




そう、遺伝子、すなわち人体をうまいこと作ってやっていくためのプログラムというものは、あらゆる病気に「ちょっとずつ」は関わっているのだけれども、その遺伝子だけが「すべてを」決めているような病気というのはあまりないのである。というか、我々が普段から目にする病気が、「遺伝子のせいで」起こっているといいきれることはめったにない。

生まれ持った遺伝子の違い「だけで」病気になるならないが決まるというものではないのだ。

かぜも。

高血圧も。

肥満も。

「遺伝」だけで片づけられるほど単純な病気ではないのである。




この話はまあたいていのひとが「そうだね、そうだろうね」と納得して聞いてくれる。

けれども話が「がん」に及ぶと、みんな突然思考停止して、「遺伝しているのかもしれない」みたいなことを言いだす。




がんだけ特別扱いすることはない。

がんにおいても、「遺伝する因子」だけが力を持っているわけではない。

とにかく人間の体の仕組みとか病気のメカニズムということは、「たった一つのストーリー」では解決できないようにできているのである。




と、さまざまな本に書いている、テレビも言っている、Twitterでもささやかれているにも関わらず、それでもなお多くの人が、「がんは遺伝するのかな」とか、「DNAに傷がつくとがんができてさ」とか、なんとなーく「遺伝子」に対して敗北感を感じているのはなぜなのだろう。





……ぼくは今、この、「理屈を超えて騙されやすい説」に、ちょっと興味がある。

人間が根源的に「信じたいストーリー」みたいなものが、DNAとか遺伝子の周りにはあるのかもしれないな。

2018年12月14日金曜日

桃太郎という主人公もいるが

西遊記の主人公は三蔵法師ではない。

玄奘三蔵は唐からインドまで、16年かけてお経を取りにいったのだという。その伝説的な旅程が華やかに彩られたのが西遊記だ。

「現実に存在して」、「お話のモデルとなった」、玄奘三蔵が、まあ普通に考えると主人公ではある。

けれども、中国四大奇書のひとつである西遊記がこれだけ知名度をあげたのは間違いなく、「架空の」孫悟空のおかげだろう。

少なくとも玄奘三蔵の苦行と偉業だけでは、国をまたいで日本という隣の国にまで名前が伝わることはなかったと思う。




「フィクション」にはそういう力がある。

もちろん玄奘三蔵というのは世代を超えて語り継がれるすばらしい業績の持ち主だったのだろう。

今でいうとノーベル物理学賞受賞者とか、そういう感じの存在だったはずだ

でも、冷静に考えてみてほしい。

あなたは3年前のノーベル医学生理学賞を誰がとったか覚えているだろうか?

ぼくは覚えていない。

検索したらなんと大村智先生だった。日本人だぞ!!

なぜ覚えていないのだ。ぼくは愕然とした。当時あれだけ盛り上がったのに。

でもおそらく皆さんの9割も同じではないかと思う。

高尚すぎる方の業績なんて、われわれ一般人は語り継げない。

クイズ王でもなければ、日本人の偉大な科学者たちを全部覚えているなんてことはない。

言われれば思い出す。「ああ、あの、イベルメクチンの」。

そこまでだ。

エライ、スゴイ、だけでは語り継げない。ぼくらはすぐに忘れてしまうのだ。




中国でも、日本でも、昔の人たちは、そういう「感覚」をわかっていたのではないかな、と思う。

何か大きな出来事があり、誰か大きな人が登場するときには、鳳凰が飛び回ったとか、竜が降臨したとか、仏像が涙を流したとか、そういった「フィクション」がたいてい一緒に伝わっている。

これらのエピソードを果たして「フィクション」と切って捨ててよいのかどうかはわからないところもある。けれども、少なくとも、ノンフィクションだけでは「伝わりきらない」ことを考えて、フィクションで彩った、というのが本当のところなのではないか。




で、今日言いたいことは、そういう、「フィクションの助け」をたまたま得られなかった偉人、みたいな人が、きっと歴史のあちこちにいるのだ、ということ。

なんか「マイナーなまま危うく歴史に埋もれるところだった、すごい伝記」が気になってしょうがないのである。たまたま孫悟空を見つけられなかった三蔵法師、みたいな人の話を読みたくてしょうがない。

「がん免疫療法の誕生」(MEDSI)という本は、ぼくのそういう欲求に答えてくれている。

https://www.amazon.co.jp/dp/4815701415/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_BwLcCbZTYWGPQ

2018年12月13日木曜日

病理の話(273) 耳コピと画像病理対比

こないだ、とある研究会があった。胃カメラや大腸カメラで臨床医が撮影した画像と、病理のプレパラート像とを見比べて、

 「この病変がカメラでこのように見えるのはなぜか。

  病気の姿形を作り出している細胞は、

  いったいどのようになっているのか」

を議論するという会だ。

まあぼくが良く参加している会である。



臨床医がCT, MRI, 内視鏡(胃カメラや大腸カメラ)、超音波などでみる「患者の病気」というのは、例えるならば

 ・影絵

であったり、あるいはカメラで直接みているとしても

 ・遠くから、ナナメに、表面だけをみている

ものにすぎない。

だから、病変を体から取り除いたあとに、細かく切ってプレパラートにしたほうが、病気のより細かい部分が見やすくなるし、病気の奥に潜んでいるものも断面でとらえやすい。



けれども、「とってからああだこうだ言う」だけではなくて、多くの臨床医たちは、

「とるまえに、とったあとの像を予測」

したい。

だから研究会をやるのである。




この作業は……そうだな、「耳コピ」に近いものがあるかな。

ピアノのCDを聴く。絶対音感があったり音楽にとても詳しかったりすると、音で聞くだけで、演者がどの鍵盤を叩いているのか言い当てることができるだろう。

そして、達人であれば、鍵盤だけではなくて足のペダルがどう踏まれているかもだいたいイメージできると思う。

さらに熟達した人間であれば、実際に演者がどれくらい体をひねったり、腕をどのようにたたんで、鍵盤を叩いているのかが、だいたいわかるだろう。

叩く強さ、叩く順番、配列などに応じて、ただ音を聞いているだけなのに、イメージがわいてくる。

「音」から、「視覚」を想像するわけだ。両者は別モノなのだが、相関があるので、連想することができる。




「内視鏡像」から「病理の細胞像」を思い浮かべるのもこれに似ている。

CDを聴くだけでピアノの譜面が思い浮かんだり、演奏方法までわかるようになるには、相当な訓練が必要だろうが、内視鏡像から病理像を思い浮かべるのもこれと同じくらい難しいのではないかと思う。

たまに、研究会には、そういうことが上手な「達人」がいて……。

ぼくはそういう達人たちの話をずっと聞いているのがとても楽しいのである。達人たちの話を聞いていると、この人はかつてどういう勉強をしてきたか、どういう師匠について学んだのか、日頃どこに興味があってどのように仕事をしているか、などが、ぼんやりと浮かんでくるような気持ちになるのだ。



……まあ人間観察能力があったところで病理医にはあまり役には立たないのだが、臨床画像と病理を照らし合わせるための観察能力があると何かと便利だなあとは思う。

2018年12月12日水曜日

がんばれ式守伊之助

冬の出張はリスキーだ。

何をいまさらという話もあるし、別に北海道に限った話ではないだろうし、夏だって台風でいろいろと交通をかき回されることもあるのだけれど、でもあえて言うけれども、北海道に住んでいると、正直、冬の出張は承りたくないのだ。

まあなんでこの書き出しかというと、明日の釧路出張が心配なのである。

札幌から釧路に行く方法はだいたい4種類ある。


1.札幌市北区(東区だっけ?)にある丘珠空港というザコ感すごい空港から8:00 am発のJALで45分のフライト

2.札幌市の南東にある千歳市の新千歳空港という中ボス感ある空港から7:40 am発のANAで45分のフライト

3.札幌駅から7:00 amに出るJRで4時間

4.札幌駅あたりから出るバスで5時間

5.自家用車(高率にやられる)


4種類と書いたが5種類目を冬にはやりたくない。やる人もいっぱいいるのだろうけれど、道東自動車道は片側1車線の高速道路と呼べない高速道路なので長距離運転の疲労は大迫(半端ない)。

ということでこれらの1~4を選んで出張をする。

冬期は、風雪の影響でこれらが全部止まってもおかしくない。全部止まったら出張はあきらめるしかない。ある意味不可抗力だ。

しかし……「どれかは止まったが、どれかは動いていた」というのがけっこうある。これが悩ましい。

つまりぼくの判断によって、釧路出張が「行けたのになんで行かなかったの」となるか、「これは行けなくてもしょうがないよね」となるかが決まってしまう。不可抗力ではなく「可抗力が試される」問題なのだ。

毎回頭を悩ませる。



バスは天候にわりと強いが時間がかかるしダイヤがちょっと使いづらい。そもそも行って終わりではなく、ついてから仕事しなければいけないのだ。移動でさんざん疲労したあとに顕微鏡というのは地味につらい。

JRはまあ午前中に釧路駅に着けるのでまだいい。けれども最近のJRはよく止まる。JR北海道が大赤字になっているのも「北海道ではJRが止まりまくるほど天候の脅威が強い」ということを考慮すれば納得。

だからなるべく飛行機を使いたい。ただし札幌・釧路間の飛行機はJALとANAそれぞれのプロペラが別々の空港から飛ぶというキワドイ問題をはらんでいる。

プロペラも最近は進化している。雪や霧くらいなら、たいてい飛ぶし、降りる。

けれども除雪が必要なくらい雪が降るともう大変なことになるし、実を言うと「風」に弱い。

冬期の強風はマジで飛行機が止まる。

さあそうなると大変だ。

まず、風の強さというのは、丘珠(やや日本海側)と千歳(太平洋側)でだいぶ雰囲気がかわる。

すなわち前日から気象図を読み込まないとルートが決まらない。「なんで丘珠にしたのさ(笑)千歳なら飛んだのに(笑)」みたいな展開がよくある。

天気の違いだけではない。

丘珠のほうが少し積雪に弱い。その意味では千歳のANAに軍配が上がる。

けれどもANAは運行の見通しをウェブサイトに載せるのが遅い。とにかく遅い。空港に向かってえっちらおっちら移動している最中に「運行の見通し」を出さず、ようやく空港についたあたりで「欠航です」と言われたりする。千歳のANAにはそういうダメさがある。

JALの判断は速い。丘珠が行けるか、だめか、というのはわりと早めにわかる。だったら行司差し違えで丘珠のJALに軍配を上げ直すか。

しかししかし、丘珠のほうがフライト時刻が「遅い」のだ。丘珠が飛ぶかどうかの判断を待っていては、千歳便への振り替えは間に合わない。

もう行司は大変だ。ほとんど地球ゴマみたいな状態になって軍配をぐるんぐるん回すことになる。

なお、丘珠に行くのに車を使ってしまって、帰りに天候の都合で千歳便に乗ってしまうと、新千歳から丘珠まで車を取りに帰らなければいけないという地味だがハードな問題もある。

新千歳のANAが飛ばないなったときにそこであきらめるわけにもいかないのだ。だって、札幌駅まで戻ってきてバスにのるとか、JRにのるという手段がなくはないから。おまけに、新千歳からそのまま道東道にアクセスしていっそ車で釧路に向かってしまうこともできなくはない(精神は死ぬ)。




……書いていてつらくなってきた。いっそサイコロを振って決めて欲し……

水曜どうでしょうというのはこうして生まれたのである。

うそだけど

2018年12月11日火曜日

病理の話(272) 切り取り粘膜上から見るか横から見るか

胃や大腸の粘膜に出る病気をこそげとってくる「ESD」という治療法がある。ESDでとってきた粘膜(+病変)というのは直径2cm前後の大きなボタン状をしていて、まあこれがときには5cmとか10cmくらいのでかいもののこともあるので大きさにはそれほど意味はないのだけれど、この大きめのボタンを内科医と病理医はめちゃくちゃに細かくみる。

体の中から取ってきたあとにみる。

取ってしまえば安心、といいたいところなのだが、とにかく取ってからもめちゃくちゃにみる。

なぜみるか。

その直径2cmとか5cmとか10cmくらいのボタンの中に、米粒よりもごま粒よりも小さながんが混じっていて、それが粘膜の下のほうに「浸潤」(すなわちしみこむこと)していると、その後やっかいなことが起こるからだ。

米粒よりもごま粒よりも。

つまりはかなり細かく検索しないといけない。

やっかいなこと、というのはつまり「転移」である。

がんが混じっていて、粘膜より深いところに浸潤していると、転移のリスクがあがる。それがどれくらいしみこんでいるか、すなわち浸潤部の量とか距離をきちんと計測して、はじめてその患者にどれだけの追加治療をすべきかが決まる。




というわけで「患者の体の中からとってきたボタン状の検体」をぼくらはきちんと念入りにしつこく観察するのだが、このとき、

「胃カメラを担当した内視鏡医は、ボタンを上からみる」

のに対して、

「顕微鏡を使う病理医は、ボタンをたんざく切りにして、割面からみる」

という違いがある。

X軸、Y軸、Z軸という三軸をかんがえたときに、臨床医はXY平面を、病理医はXZ平面を評価しているかんじだ。

この軸の違いはなかなかに悩ましい。

「パイプの形」を想像していただければその難しさがわかる。上からみたらリング状。横からみたら長方形。まるで形が違うではないか。

だから、内科医とぼくら病理医とは、ときに、「こっちはああ見えたぞ」「いやこっちはこう見えた」と議論をする。



ここには対比理論とでも呼ぶべきルールがある。しかしこのルールは非常に主観的なため、なかなかきちんと言語化されきっていない。教科書もいくつか出ているのだがすべてを網羅するような本はなかなか出版できない(難しいしマニアックだから)。

ということで、全国で「研究会」が開催されている。内視鏡系の研究会でやっていることというのは、つまり、ボタンをひねくり回して、「ああ見えた」「そんなわけない、こう見える」のやりとりなのである。しょっちゅう出ています。

2018年12月10日月曜日

ブログ100回分

たとえば、病理の話(268)というのはたかだか1200字程度しかない。原稿用紙3枚分、というやつだ。

へえ、たったそれだけなんだな、と少し驚いた。

こないだ頼まれた、医学書の書評もだいたい1200字程度だった。紙面に載った自分の文章をみると、少ないなーと思うくらいの量。いろんな人が書評を載せて、「寄せ集め」になっていることで楽しさと猥雑さが出る。1200字というのはつまりそれくらいのボリュームなのだな、とぼくはざっくり理解した。

ブログ的なレイアウトだと、余白が多くてだいぶだらだらと引き延ばされているんだ。もう少しいっぱいナニゴトかを書いていたつもりだったけど、そうでもなかった。

あるウェブライターに、「読者が喜ぶ文字数」の話を聞いたことがある。記事の内容にもよるのだけれど、彼が扱っているジャンルにおいては、「理想的なウェブ記事の文字数は3000~4000字くらい」だと言っていた。これより長いと読者が読んでくれない。これより短いと記事としての体裁が保てないし、文字数いくらで収入が変わる場合には商売にならなくなるという。まあもちろんそこはいろいろあるだろう。




いろんな人が興味を持つ話題とみえる。ためしに、「原稿用紙 枚分」で検索してみると、似たようなタイトルの記事がいっぱい出てきた。

ごく平均的な、200ページくらいの文庫本は、原稿用紙300枚分だという。原稿用紙1枚が400字だから、120000字か。短編小説だと100枚分(40000字)、長編だと300~600枚(120000~240000字)あたりが相場のようだ。

これらの情報はいわゆる知恵袋的な質問サイトの記事による。信憑性には疑問が残るがそこまで正確な数字を知りたいわけでもないのでまあいい。ゆるく雰囲気がわかればいいのだ。そもそもぼくは、原稿用紙なんて小学校の読書感想文以降で使った記憶がないから、「原稿用紙〇枚分」といわれてもピンとこない。手書きで数千字の原稿を書いた覚えもない。Wordの文字カウントのほうが身近であり、なんでも文字数でイメージしている。




先日書き終えた本はエッセイ仕立てだ。ただ内容的には、随筆とか随想というほど「随意」には書けなかった。不随想である。編集者と頭を悩ませながら、これがいいかこれだとまずいかと、だいぶ右往左往したが、ようやく一段落した。

脱稿した原稿をまとめて文字数カウントにぶちこんだらちょうど120000字くらいであった。企画が届いたのが10月2日、書き終えたのが11月30日なので、だいたい2か月で120000字書いたことになる。もっとも、5000字くらいずつ小分けにして書いたので、120000字を一気に書き上げたという実感はない。小説の120000字とはわけが違う。小説家というのはすごい。創作でこれだけのボリュームを書きあげる能力を想像するとすなおに「化け物だなあ」という感想が出る。

なお、「5000字のユニットをいっぱい集めて1冊にする」というやり方は、決して楽ではなかった。5000字くらいなら楽勝かと思っていたがまったくそんなことはない。これだけ書けばいいだろう、と思ってWordの左下にちらりと目をやると、まだ2400字とか3100字くらいにしかなっていない、ということが頻繁にあった。


やれやれスクロールバー的にも今日のブログはこれくらいでよいだろう。文字数をカウントしてみるとちょうど1200字くらいだった。ぼくが肩ひじ張らずに主張するサイズが1200字ということなんだろうなあ。

2018年12月7日金曜日

病理の話(271) キリンかどうかはわかるがアフリカゾウかどうかはわからない

細胞をみて病気に名前をつける。

あるいは、その病気が、どれくらい進行しているのかを調べ上げる。

これが病理診断医の主たる仕事である。

では、具体的に、ある病気を顕微鏡で見て、どのように名前をつけているのか?



たとえば胃カメラを飲んだときのことを考えよう。

胃をのぞいてみて、そこに何かできものがあったとする。

ぼこっと盛り上がっているか、少しくぼんでいるか、あるいは周りと比べて色が違うか、模様が違うか。さまざまなバリエーションがある。

ここで、内科医は、カメラの横からマジックハンドのような「生検鉗子(せいけんかんし)」を出す。

マジックハンドで、病変部分から、小指の爪の切りカスくらいのサイズの「粘膜」をちょろっと拝借する。



この粘膜のカケラを、病理検査室でプレパラートにしたてあげる。

向こうが透けて見えるくらいの4 μmという薄さにかつらむきして、ヘマトキシリン・エオジンという色素で色を付ける。

そして顕微鏡でみるわけだ。




いろいろな診断理論がある。

細胞の何をみたら、病気の種類がわかるのか。ひとことでは言い表せないのだが、たとえば、

「元々そこにあるはずの構造がない」

というのは一つのヒントだ。

このとき、ぼくらは、たとえばこのように診断書を書く。



「非腫瘍性の胃粘膜が部分的に破壊され、異型を有する細胞が浸潤しています」



この解説をみたとたんに、一般の人々は、ウワァッとギブアップしてしまう。何が書いてあるかわからないからだ。

そして、実のところ、多くの内視鏡医も、心の中でギブアップしている。何が書いてあるかわからないからだ。

そう、たとえ医者であっても、顕微鏡で細胞をみた姿を事細かに記載した「病理診断報告書」の意味は、わからない。

これがわかるのは病理医と、一部の超絶マニアックな(おせっかいな?)臨床医療者くらいのものである。





そのためか。

たまに病理診断報告書には、この、「細胞がどう見えたか」という文章が省略されていることがある。過程を書かないのだ。

どうせ書いてもわからないから。

あるいは、いつも同じことを書くことになるから。

過程は省略して、結果だけを書いてしまう。

「胃癌です。高分化型の管状腺癌です」のように、主診断名と、細かな分類名だけを書いて終わりにすることがある。

患者はこの「主診断名」もよくわからないことが多い。病理でついた名前を臨床医が細かくわかりやすく解説して、はじめて、どのような病気であるかが腑に落ちる。

そして、臨床医はしばしば、「病理医ってのは細胞をみて、がんかがんじゃないか決めるだけの仕事だから楽だよな」みたいなことをいう。




でも、箇条書きにして簡略化してしまっている病理の仕事の奥には、理論と、文章と、意図が秘められているのだということを、忘れてしまうのは少々もったいない。

たったひとこと「がんです」と書くために、病理診断医は細かく細胞を描写する力を身につけておかなければいけないのだ。

キリンの写真をみて「あっ、キリンだ」と一発でわかるのは、キリンに特徴的な首や足があるからだ。

だから細胞をみて診断する作業も「瞬間的に行われる」と思われがちだ。実際そういうこともあるにはある。

けれど、ぼくらはたとえば、アフリカゾウとインドゾウの違いはあまりわからない。

これらの違いを決めろといわれたら、細かいお作法に従って、ゾウの大きさや鼻の形状、細かい色の違いなどをきちんと網羅的に解析しなければいけないだろう。

細胞をみて診断するというのもこれに似たところがある。




今、「お作法」という言葉を用いたが、先日購入した「外科病理診断学 原理とプラクティス」という本の序文に、この言葉が出てきた。

病理診断のお作法をしっかり学ぶことは、初学者にはもちろんだが、研修医を指導する中級医クラスの人間にとっても役に立つだろう、という意味のことが書かれていた。

ぼくは小躍りしながらこの本を読んでいる。お作法をきちんと学べる本は楽しい。

外科病理診断学 原理とプラクティス (金芳堂):  https://www.amazon.co.jp/dp/4765317668/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_R51.BbJY5KQT6


2018年12月6日木曜日

愛のためにあなたのために引き受けましょう

みもふたもないことをいうと、ぼくの尊敬する人たちの多くはあまり本を読んでいない。

もちろん割合の問題であって、たくさんの本を読むことで多くの知識を使いこなしている偉人みたいな人も何人かは知っている。

けれども、「言葉を使いこなしているのにぜんぜん本を読んでいない人」がいっぱいいることは事実だ。




ぼくは、読めば読むだけ世界が広がると思っていた。

本を読んだ数がその人の深さを決めるものだと、どこかで信じたかった。

だってぼくはよく本を読むほうの人間だったから。

自分がよかれと思ってやっていることの先に、なにか、すごく楽しそうな地平が開けていると、信じたかったのだ。

でも実際には、そういうわけではなかった。

別にそれほど本を読んでいなくても、日本語を美しく使いこなす人たちはいっぱいいるし、ドラマのような人生を華やかに送っていくタイプの人もいた。

おまけに最近立て続けに、

「本を読んでばかりいると、人の思考を借りてばかりいる人になってしまうよ」

とか、

「論文を読むことに熱心になりすぎると、論文が書けなくなるよ」

みたいな話を耳にした。

とどめに、

「自分の人格を広げようと思って何かを読むなんてつまらない。

そんな目的のための読書なんておもしろくもなんともない。

本を読むのは単に内容がおもしろいから。そして、本を読んだ自分が楽しくなったり深く考え込んだりするのがおもしろいから。それでいいじゃないか」

という内容の文章を読んだ。



ああーそうだな。「○のために本を読む」なんて、一番つまらないことだよな……。

こうしてぼくはまた人の文章に影響を受けながら、「何かのために読む読書はつまらんのかなあ。」なんてことを考えている。

他人の言葉を借りて。



いっそぼくは、「何かの役に立つと思って本を読み続けていたくだらない人です」と言いながら、それを完遂するのがよいのではないか。

人格が変わると思ったんです。

尊敬されると思ったんです。

ですからもうとんでもない量の本を読みましたよ。なぜか文章力はあがらず、博覧強記にもなれませんでしたけれどもねえ。

そんなことを言いながら竹林の庵に引きこもってしまえばよいのではないか。




……たしか1800年くらい前の中国にもそういう人がいたんだよな。

本に書いてあった。

2018年12月5日水曜日

病理の話(270) 専門家どうしのやりかた

医療は高度に分業されている。

ちょっと専門分野がかわると、途端に相手の言っていることがなんだかよくわからなくなる。

一例をあげよう。

「肝臓内科医」と、「胃腸内科医」は、どちらもおおきなくくりでは「消化器のお医者さん」と呼ばれている。肝臓も胃腸も、広い意味では消化器だ。

でも、お互いに、相手の仕事の半分以上を知らない。

肝臓に詳しい医者の9割以上は、胃カメラで胃の病変を直接とりのぞく「ESD」という手技には手を出さない。出せない。

逆に、胃腸に詳しい医者の9割以上は、肝臓の腫瘍を焼き切る「RFA」という手技には手を出さない。出せない。



一事が万事この調子である。

CTという検査は、そもそもレントゲンのおばけみたいなもので、臓器を輪切りにうつしだして、白いからどうだ、黒いからどうしたと、見極めるだけのものであった。……一番最初のころは。

けれども造影剤という技術や撮影機器そのものの進歩に伴って、今では、おそらく人口の99.9%は使いこなせないであろう高度な技術のカタマリとなっている。

たとえ医者でもCTの画像を完璧に読めるとは限らない。

先ほどの肝臓内科医であれば、肝臓や膵臓のようすはCTでかなり詳しく探ることができるし、胃腸とか脾臓などの評価も得意だ。

しかし、子宮筋腫がどれくらい変性しているかとか、肺の病変ががんかがんでないか見極めるといった、肝臓とはあまり関係ない領域については、同じCTにうつっていても、なかなか見極められない。

医者ならCTを読めるというわけではないのである。

”臓器をまたいだ”とたんに、何もできなくなるということは、ある。




たとえば肝臓に病気をもっている人が、偶然、子宮とか膀胱とか脳などに別の病気を見つけたとする。

この場合、肝臓内科医は、婦人科医や泌尿器科医や脳外科医などに相談をする。自分の専門外のことについては安易に判定できないからだ。

そして、実はその裏側で、放射線科医や病理医が、「領域を横断しながら」その患者に関与していることがある。

患者がさまざまな理由で複数の科を受診しているとき、臨床医たちはそれぞれが、放射線科や病理医などに相談をしていたりする。




病院の中には、「臓器をまたいでなにがしかのコメントができる人」というのが必要だ。

たとえば放射線科医は、対象となる臓器がどこであっても、CTやMRIを正しく判定することができる。

あるいは病理医も、対象となる臓器がどこだろうと、摘出された臓器の肉眼像やプレパラート像から、病理診断を出すことができる。

ぼくらのような「領域横断タイプ」の医者がいることで、臨床医は自分の専門領域に集中することができる、という側面がある。





極めて臨床能力の高い病理医は、ときに、各科の臨床医よりも患者のことを鋭く言い当てられる。

そのような病理医を、ぼくはそれほど多くは知らない。病理医はみんながみんな、臨床能力に長けているわけではないからだ。

そうだな……18人………19人……。

20人弱は、顔と名前が一致している。逆にいうとそれくらいしか知らない。

もちろんこの20人以外が仕事のできない病理医というわけではない。病理医はそもそも、プレパラートを見て意見を言えるだけでかなりの逸材なのだ。

でもぼくはときおり考える。複数の科の臨床医を相手にやりとりをできるタイプの病理医は、かっこいいなあ、と。

なかなかそこまですさまじい病理医というのはいない。

けれど、いることはいる。




なお放射線科医にもいる。たぶん麻酔科にもいるはずだ。緩和ケア医などにもいるだろう。感染症専門医にもいると思う。腫瘍内科医にもいるんじゃないかな。

そういうドクターたちの存在を、一般の人たちは、あまり知らない。

2018年12月4日火曜日

リタさんが嘔吐したよと教えてくれる博多弁

本屋に行ったら知らない本ばかりで愕然としてしまった。

小説の大半は作名どころか作者名もまったくわからない。

マンガ売り場に行ってみたけれど、平積みしてあった本の9割を知らなかった。

点数が多い。

そして新刊ばかりだ。

「今月の新刊」という言葉はもう死ぬのかもしれない。「今日の新刊」でも対応できるかもしれない。

書店員はこれを毎日積み替えているのだろう。すごいことだ。



本屋には無限にも思える情報が日替わりで置いてある。

無限にも思える情報、とはいっても所詮有限なのだけれど、日替わりで入れ替わっていくもはや無限と言って差し支えなかろう。



それだけの人々が発信したがっているということはもはや驚かない。

SNSをみればはっきりしている。伝えたい相手などいなくてもいいのだ。ツールさえあれば声は出る。

風呂場の排水溝にしゃべりかける人だってたぶんいっぱいいたのだろう。

でも排水溝に比べたらツイッターのほうがいくぶん「人に話している」感じが強い。

だから、排水溝にはしゃべりかけなかった人々も、日々こうしてネットで声をあげている。




ぼくが一番おどろくのは、伝えたい人の多さではない。

伝えたい人の言葉を「商品にして世に出そうと思う人」の多さだ。

こんなに作品ばかり出ていたら買う方だって選びきれない。

結果的に多数の作品のほとんどは売れずに終わっていくのではないか。

売れずに終わるということはもうけが回収できないはずだ。

なのになぜ出版社は「こんなにも多くの本を出す」のか?

某K社から今月出た新刊数なんかもうちょっとすごすぎる量だ。

まさかこの全部が思惑通りには売れないはずだ、と感覚的に思ってしまう。

どうやって収益を得ているのだろう。



書くこと以外で稼いでいる人が、もうけを度外視してメッセージを出版する、という形態は十分理解している。売れなくてもいいのだ、書いて世に問うことが大事なのだ、というのもわかる。

たとえばぼくも「印税では食えない」。本を書く時間をそのままコンビニバイトに費やしたほうがよっぽど多くのお金を得られるだろう。

けれどもぶっちゃけそれでもかまわない。なぜならぼくは別に食っていくための手段を持っているから。



けれども、「本を作る人たち」は、今のやり方で、食っていけるのだろうか。

他人事で申し訳ないが、新刊ラッシュは出版社の得になっているのだろうかと少し不安になる。




先日、某社の編集者が口を滑らせた。

「書ける医者は少ないんですよ」

ぼくもそこで一緒に滑ることにした。大型滑り台みたいで楽しいだろうと思ったからだ。

「本屋みたら一時期よりよっぽど『医者が書いた本』はいっぱいあるじゃないですか」

そしたらその編集者は滑りついでに空を飛ぶのだ。

「読みたい人がいないんですよ」

ぼくも負けじとK点越えを目指した。

「それは編集者が書く人を選ぶときの力量次第じゃないですか」

すると編集者はドローンにつかまって去っていった。

「スンマセーン」




ぼくは世界の一部であり、世界はまたぼくの一部である。

世界が「本を出しすぎてなんかちょっとわけわかんないことになっている」ならば、ぼくもおそらくそういう風潮に飲み込まれている。

ぼくは自分が薄利多売のやりかたで世を渡ろうとしていないだろうか、と、じっくり考えておかないといけないな、と思った。書いて本になればいいというものではないのだ、おそらく。

2018年12月3日月曜日

病理の話(269) 腎臓ができるまで

人間、というか哺乳類は、陸上で生活するために体をうまく進化させてきた。

ここを正確に書くと「たまたま陸上生活にフィットする変異をもっていたイキモノが生き残ってきただけ」となるけれど、このへんいちいち厳密に書いていくときりがないので、「うまく進化した」という雑な言葉であらわす。



陸上で生活する上では、いくつもの「機能」が必要だ。

たとえば、脱水に備えるということ。

海や川の中で生きているうちは、脱水に気を配る必要はそれほどない。まわりが水だらけだからだ。

けれども、乾燥した陸上で生きていこうとすると、脱水との戦いになる。

細胞内には水分が必要だ。水というのは化学物質を流動させる上でも、熱伝導の上でも、さまざまに用いる基本だからだ。

何より、生体に備えられている「循環システム」は血液によって支えられている。血液だって水分だ。

これが、陸上にいると、どんどん蒸散していく。

蒸発だけではなくて、尿でも水分が失われる。

尿を出さないわけにはいかない。体の中の老廃物はなんらかの形で外に出していかないと、血液の中にゴミがたまって死んでしまう。

だから尿を出すんだけれど、この水分が失われるのが地味にもったいない。

そのため、人間をはじめとする哺乳類の腎臓には、「再吸収」と呼ばれるシステムがあり、一度作った尿から水分をぎりぎりまで減らす。

つまりは濃縮する。

もともと血液に含まれているナトリウムとかカリウムを減らしすぎないようにする仕組みも備わっている。

体外に捨てたいのは、細胞から出てくるゴミ……アンモニア……を整形した尿素と呼ばれる物質だ。尿の素地と書くのだからわかりやすい。

この尿素だけをうまく排出して、水分はなるべく体内に戻してやる。電解質もあまり減りすぎないようにする。

これこそが哺乳類が発達させた腎臓の仕組みである。



この仕組みはとても複雑だ。腎臓の話をきちんと理解しているのは基本的に、腎臓内科医、総合診療医の一部、循環器内科医の一部、腎臓病理医など、専門性の強いひとたちばかりである。あと優秀な研修医たち。

ぼくはできれば腎臓のことを理解したいなと思い、しょっちゅう勉強しているのだが、40歳になった今も全貌をうまく理解できていない。ぼくの実力がそこまでだというと悲しいことになるが、実際悲しい。




こないだ読んでいた本にはこう書いてあった。


 ――――尿素を使ってアンモニアを捨てるのは哺乳類にとっては便利なシステムだが、
 タマゴを産む生物(爬虫類とか鳥類)にとってはいささか不便だ。

 なぜかというと、タマゴのなかで水にとける尿素を使うと、

 タマゴの中に尿素が充満して、
 タマゴの中身が死んでしまうからである。

 だから、爬虫類とか鳥類は尿素の代わりに「尿酸」を使う。

 尿酸は固形物(水に溶けない)であり、
 タマゴのカラにくっつけることができる。

 なお尿酸は水に溶けない以上、尿として排出することはできない

 (尿道に痛風をおこしたら地獄ではないか)。

 だから便にまぜる。

 鳥が飛んでいるときにおしっこをせず、白い便をぴちゃっと出すのは、
 尿酸の色による。

 というか鳥にはそもそも尿道がなく、

 「総排泄腔」といって尿道と直腸とがいっしょになったものを使っている――――


ぼくはこれを読んでびっくりしてしまった。腎臓の話ってのは理解しようと思うと獣医の知識まで必要になるのかよ。奥が深いなあ。