2018年12月4日火曜日

リタさんが嘔吐したよと教えてくれる博多弁

本屋に行ったら知らない本ばかりで愕然としてしまった。

小説の大半は作名どころか作者名もまったくわからない。

マンガ売り場に行ってみたけれど、平積みしてあった本の9割を知らなかった。

点数が多い。

そして新刊ばかりだ。

「今月の新刊」という言葉はもう死ぬのかもしれない。「今日の新刊」でも対応できるかもしれない。

書店員はこれを毎日積み替えているのだろう。すごいことだ。



本屋には無限にも思える情報が日替わりで置いてある。

無限にも思える情報、とはいっても所詮有限なのだけれど、日替わりで入れ替わっていくもはや無限と言って差し支えなかろう。



それだけの人々が発信したがっているということはもはや驚かない。

SNSをみればはっきりしている。伝えたい相手などいなくてもいいのだ。ツールさえあれば声は出る。

風呂場の排水溝にしゃべりかける人だってたぶんいっぱいいたのだろう。

でも排水溝に比べたらツイッターのほうがいくぶん「人に話している」感じが強い。

だから、排水溝にはしゃべりかけなかった人々も、日々こうしてネットで声をあげている。




ぼくが一番おどろくのは、伝えたい人の多さではない。

伝えたい人の言葉を「商品にして世に出そうと思う人」の多さだ。

こんなに作品ばかり出ていたら買う方だって選びきれない。

結果的に多数の作品のほとんどは売れずに終わっていくのではないか。

売れずに終わるということはもうけが回収できないはずだ。

なのになぜ出版社は「こんなにも多くの本を出す」のか?

某K社から今月出た新刊数なんかもうちょっとすごすぎる量だ。

まさかこの全部が思惑通りには売れないはずだ、と感覚的に思ってしまう。

どうやって収益を得ているのだろう。



書くこと以外で稼いでいる人が、もうけを度外視してメッセージを出版する、という形態は十分理解している。売れなくてもいいのだ、書いて世に問うことが大事なのだ、というのもわかる。

たとえばぼくも「印税では食えない」。本を書く時間をそのままコンビニバイトに費やしたほうがよっぽど多くのお金を得られるだろう。

けれどもぶっちゃけそれでもかまわない。なぜならぼくは別に食っていくための手段を持っているから。



けれども、「本を作る人たち」は、今のやり方で、食っていけるのだろうか。

他人事で申し訳ないが、新刊ラッシュは出版社の得になっているのだろうかと少し不安になる。




先日、某社の編集者が口を滑らせた。

「書ける医者は少ないんですよ」

ぼくもそこで一緒に滑ることにした。大型滑り台みたいで楽しいだろうと思ったからだ。

「本屋みたら一時期よりよっぽど『医者が書いた本』はいっぱいあるじゃないですか」

そしたらその編集者は滑りついでに空を飛ぶのだ。

「読みたい人がいないんですよ」

ぼくも負けじとK点越えを目指した。

「それは編集者が書く人を選ぶときの力量次第じゃないですか」

すると編集者はドローンにつかまって去っていった。

「スンマセーン」




ぼくは世界の一部であり、世界はまたぼくの一部である。

世界が「本を出しすぎてなんかちょっとわけわかんないことになっている」ならば、ぼくもおそらくそういう風潮に飲み込まれている。

ぼくは自分が薄利多売のやりかたで世を渡ろうとしていないだろうか、と、じっくり考えておかないといけないな、と思った。書いて本になればいいというものではないのだ、おそらく。