2018年12月31日月曜日

脳だけが旅をする

祝日ではない平日に更新するというルールを厳密に設定すると、12月31日(月)はブログの更新日となる。

なんか休み感があるけど、まあいいか。

告知のツイートを忘れそうだ。まあいいか・2。

今日はあまりいっぱい読まれない日だ。だったら、いつもは書かないことを書こう。

ふりかえることにする。それも本気で。

みなさんにとってはつまらないだろう。でも数年後のぼくが見返すと少し懐かしい気分になるのではないか、と思う(恥ずかしさに顔を赤らめるかもしれないが)。






本年は小さな論文を2本出した。あとは共著の英文論文が1本。いずれも、科学者がだいじにしている「インパクトファクター」は非常に小さい。けれどそれぞれ、細々と苦労があったし、多くの人のお世話にもなった。結果、目に見えるものが世に少しだけ残ったことを素直に喜んでいる。来年もこまごまと論文を書き続けたい。


病理診断業務については例年並みだが、仕事のスピードは少し速くなり、外部から頼まれる仕事の量がかなり増えた。消化管系のコンサルテーションの数はおそらく去年の4倍くらいある。それだけ年を取ったということだ。「担え」ということである。


学術関連ではあいもかわらず「臨床画像と病理組織像の対比」のテーマでときおり講演をしている。2018年に訪れた場所は、浜松、岡山、ウランバートル、佐賀、山口、四日市、京都、立山、東京、東京、飯田、松本、高知、東京。ただ今年は出張の多くがかけもちだった。だから講演回数のわりに札幌を離れた日は多くなかったように思う。内容としては上部消化管のバリウムや内視鏡・拡大内視鏡と病理の対比が多く、今年はこれに消化管エコーや膵臓エコーと病理の対比の話が続き、マニアックなところとしては炎症の病理についての講演や、AI病理診断についての我々の立ち位置の話などが加わった。消化管エコーについてはある研究会の全国幹事を務めることになったので、今後もう少し講演する機会が増えるかもしれない。


日本病理学会の学術評議員になった。「社会への情報発信委員会」に入り、なんだか広報のための裏方として悪い顔で打ち合わせなどを何度かやった。


「病理情報ポータル」というブログ( https://patholportal.amebaownd.com/
の立ち上げ。ほんとうはこのポータルに、新たなツイッターアカウントを連携させて、日本病理学会主導のSNSを体系的に運営してみてはどうか、と思っていた。病理学会の複数の評議員たちで協力して運営できるように、こっそりと準備をすすめていたのだ。けれども、様々な調整の末に結局、「病理学会公認」のSNSは見送った。もともと、学会が必死でSNSをやるべきだとも思っていなかったし、まあそういうこともあるよな、とすぐにあきらめた。結局このブログについてはぼくが引き取って、ほそぼそとハブ的な情報サイトに仕立て上げている。アクセス数は低いがコンスタントに人が見に来ている。


病理学会がらみでは、ほか、2019年の早い段階で、2つほど動画を作成することになっている。疾患や医療、病理の啓蒙活動のために動画を作るというのは「いまさら感」があるが、いつも新しいことだけやればいいというものでもなさそうだ。動画2つのうち1つについてはぼくが脚本を書いた。収録は年明けすぐを予定している。


2018年は執筆数がじわじわと増えた年でもあった。ありがたいことに出版も複数させてもらった。書籍「いち病理医のリアル」と、「上部・下部消化管内視鏡診断マル秘ノート2(モテ本2)」、「私の消化器内視鏡Tips」が出たのはいずれも2018年のことである。


「いち病理医のリアル」はエッセイにしては値段が高いけれど、おかげさまでよく売れている。原稿を用意したのは2017年のことだから、もうだいぶ前のような気がしていたが、そうか、2018年の2月に出版したのだったか。


「モテ本2」は売れるとわかっていて出した。こちらは埼玉医大の野中先生や、手稲の田沼先生、旭川の濱本先生との共著であり、ぼくは黒子に徹すればよかったからラクだった。黒子にしては少々しゃべりすぎたきらいもある。ものすごい売れてちょっと引いている。


「Tips」は学園祭みたいな本だ。全国89施設から140本もの短い「お役立ちコラム」が寄せられて作られている。ぼくもその中の1本に参加した。ウェブサイト「ガストロペディア」の人気コーナーの書籍化である。こういうのは純粋に「仲間に入れた楽しみ」みたいなものがある。学会で著者同士が顔を見合わせてフフッとなるタイプの本だ。どれもおもしろいのだが、高知の内多先生の原稿がやはり楽しい。


そういえばモテ本1は発売が2016年なのだが、2018年になって韓国語版が出た。ハングルで書かれた教科書をみると不思議な気分になる。巻末のうさ耳イラストに添えられたハングルになんと書いてあるのか気になる。


本を出してもらえるというのは、ありがたいことだ。ぼくみたいな人間に何かを書かせてくれる人たちがいることに驚きと感謝がある。こうして1年を振り返るときに、書籍の話をする日が来るなんて、予想もしていなかった。


もともと、2017年に「症状を知り、病気を探る」(照林社)という本を出せたことが大きい。どこに行くにもカバンをゲラでパンパンにして、出先や研究会の空き時間、移動中の機内などでずっと校正をしていたことを思い出す。この本が結んだ縁は非常に大きく、看護系の某団体の偉い人が本書をほめてくれて、ぼくにひとつ仕事を振ってくれたりもしている。台湾で翻訳版の発売が決まっている。この本を読んだ他社の人たちから原稿の依頼が舞い込むことも多い。


本を出してからというもの、全国の書店員さんを強く意識するようになった。出版社の営業とか編集に携わる人もそうだ。つまりは本を「書く人」「読む人」だけではなく、「作って届けて広げて売る人」にも目がいくようになった。


もともとぼくは今のツイッターアカウントをはじめる4か月ほど前から個人のアカウントを持っていた(現在は閉鎖)。ツイッターという世界をいろいろ知ろうと思って始めたアカウントで、ぼくが最初にフォローしたのは、東急ハンズネットやヴィレッジヴァンガードなどの企業公式アカウントと、出版社や書店員のアカウントだった。それから8年経つが、結局おいかけているアカウントとしては今もそう変わらない。ただ、書店員に対しては、本を出してからそれまで以上に親近感……というか感謝の気持ちが深くなった。


さまざまな連載原稿の話もしておきたい。


雑誌「Cancer board square」の連載は2019年の初頭に最終回を迎える。季刊ペースのため原稿の数こそ多くないのだが、あしかけ4年以上にわたり「臨床の人たちに伝えたいワンポイント病理」という視点で書かせてもらった連載で、思い入れが深い。医学書院の担当編集者が無駄にかっこいい点だけが残念だ。


「薬局」「治療」に同時連載していた「Dr.ヤンデルの病院ことば」も、全20回で大団円となった。この連載は地味に反響が大きく、最終回のときにはツイートで幾人か言及してくれた。雑誌連載についてツイートを目にすることはそう多くないからとてもうれしかった。南山堂の編集者氏とは未だにお会いしていない。「会わずにここまで仕上げていく関係」というのはとてもクールだと思うし、ぼくの好きなやり方である。


Medical Technology誌の超音波・病理対比連載は第3シーズンが終わろうとしている。千葉西総合病院の若杉先生という鬼才とご一緒できているだけで光栄だが、金久保さんという大変優秀な技師さん、おまけに網走の長谷川というやや残念な長身の技師と4人体勢で「座談会」をできているのが大きい。座談会とか対談というものは医療系だと結構苦労するジャンルらしいのだけれど、連載を続けさせてくれている医歯薬出版の編集部のふところは大きい。


重要な変化球として、病院司書さんを対象に全国で350部ほど発行されている雑誌「ほすぴたる らいぶらりあん」に4回の連続エッセイを寄稿した。「巨人の膝の皿の陰」というタイトルで、このエッセイについてはまず一般の方々が目にする機会はないと思うが、ぼくが今まで書いてきたものの中でおそらくは一番ぼくらしい文章である。お声がけいただけたことに深く感謝している。なおこの連載が縁で、2019年にひとつ講演することが決まっている。


単発の原稿としては、日本医事新報の「プラタナス 私のカルテから」というコーナーには、かつてぼくを育ててくれた(今もお世話になり続けている)バリウム技師たちとの画像・病理対比の日々を書いた。仲野徹先生がずっとコラムを載せている雑誌に名前が載るのはうれしいものがある。


週刊医学界新聞には「教科書の選び方」についてのミニコラム。また、「トラブルに巻き込まれない著作権のキホン」と「集中治療、ここだけの話」の2冊について、それぞれ書評を投稿した。いずれも、医療系の仕事でありながら本関連の仕事でもある。どうもいろいろとつながっている。


本といえば、医学書を読んでおすすめする毎日にヒントを得たのか、三省堂書店池袋本店で「ヨンデル選書フェア」がはじまった。2018年12月から2019年5月までの半年間、ぼくが選んだ本がぼくの書いた「おすすめコメント(350文字)つきカード」とセットで特設ブースに並ぶ。



最後に自分で見に行ったもの、聴きに行ったことの話を書いておく。



川崎医大の畠二郎先生の講演はいつもすばらしい。名古屋の中村栄男先生は大御所といった雰囲気がすごかった。富山の病理・夏の学校では幾人かすばらしい講演をされていた先生がいた。飯田の岡庭信司先生にはいつもうならされる。神戸の伊藤智雄先生とはたまに病理学会のイベントでこれからもお会いするだろう。若い医学生に会うと必ず長崎大学の福岡順也先生のところに見学に行くよう勧めている。新潟の八木一芳先生と札幌医大の山野泰穂先生は読影者としても研究者としてもちょっと別格だなと感じる。


中学生のときに通っていた塾の恩師と食事をしたのは3月だった。おいしいものを「おいしいから食え」と言われてあんなにうれしいとは思わなかった。


あるとても偉い人に会った。ある学会の頂点にいる人だった。奮闘し、感謝もされ、誰にも知られないままに終わった。書けない日々のことが手帳の中にひびとして残っている。


人の話をよく聴きに行った一年でもあった。人ではないが犬の枕草子の話がとてもよかった。人ではないが鴨にサインをもらったのがうれしかった。2019年もたまに人の話を聞きに行こうと思う。今までできなかったことだ。


息子と旅をした。書いたことはないと思う。
あれはとてもよい旅だった。

2018年12月28日金曜日

病理の話(278) 患者とみるか検体とみるか

患者の名前を覚えている医者、というのがいる。

そんなの当たり前では? と思われるかもしれない。

けれどもこれはまったく当たり前ではないのだ。



患者と会話して、その雰囲気や顔色、言葉使い、家族構成や家庭での過ごし方などをきちんと把握してから診療に入るというのは、確かに診察の基本だ。

だから熱心で患者思いの医者であれば患者のことはよく覚えている……と考えがちである。

けれども、医者は常に患者の個人的な情報ばかりを強く記憶しながら働いているわけではない。

現代医学において患者をみるポイントというのは無数にあるし、みかたも複数ある。

たとえば救急に運び入れられてそもそも意識がない患者であれば、患者本人の話はまわりの家族や友人などから聞き取るしかない。

放射線診断部門や病理診断科のように、患者に直接会わない場合は、患者そのものではなく「患者からとりだしてきた画像や検体」しか目にしないことだってある。

そこまで極端な例でなくても。

たとえばある外科医は、患者の顔はあまり覚えていないのだが、患者のCT画像をみて、手術時に撮影したお腹の中の写真をみると「ああ、あの人ね」と思い出すという。

胆嚢や膵臓、胃などのまわりにどのように血管が走行しているか、という一点において患者のことを強く記憶しているような外科医もいる。

患者の顔も名前も覚えていないが、レントゲン写真を1枚みると「ああ、あのときにぼくが診断した、あの病気の人か」と思い出す呼吸器内科医。

血液検査データをみて「○年前の寒い冬の日に、ぼくの外来でみかけた人だったなあ」と思い出す肝臓内科医。




彼らのことを、「患者を検体としか思っていない、冷酷な医者」だとは、ぼくはまったく思わない。

実際、顔をみれば思い出すのだ。「ああ、○○さん、おひさしぶりですね」と。人間の顔がもつ情報というのは非常に深くて、実際に目を合わせると様々な連想がそれこそディープラーニング的に脳の奥から湧き出してくる。

でも、年に何千人もの患者をみている医者たちが、本当に覚えてなければいけないことが、患者の顔や名前とは限らない。





だから普通の医者はそこまで患者のことをひとりひとり覚えてはいないのだ……。

けれども、たまに、いるのだ。

無数の患者をみながら、患者のパーソナリティまで完全に記憶している、ばけものみたいな医者が。

ぼくに言わせればそういう医者は単なるバケモノであり、「実在する大魔王バーン」みたいな存在である。人間離れした異常な脳を、彼らは自慢するでもなく、こともなげにいう。

「こんなのは別に能力でもなんでもない、たまたまですよ」。

なんだそのメラゾーマではないメラだみたいな発言は。

こわいこわい。

2018年12月27日木曜日

高校時代にバレーボールをやっていそうな顔

ウェブラジオを細々とやっているのだが( https://inntoyoh.blogspot.com/p/twitter-yoh0702-note-note.html )、使っているヘッドセットがしょぼいせいか、スカイプでの収録に少々無理があるのか、ときどき、漏れた息であるとか、あるいは高音部が、「キンッ」と跳ねる。

スマホの音量を大きくして、運転中に車内で聴いていると(自分の番組を聴くとなるとはずかしいので車内くらいしかない)、このキンッがたまに耳障りだ。

あーこういうところ、やっぱりぼくはしゃべりの素人なんだなあ、と思う。

カーステレオから聞こえてくるふだんのラジオは、FMだろうが、AMだろうが、こんなに高音部が跳ね回ることはない。



音質だけではない。

しゃべりの間、会話の中にどれだけの頻度で要点を出現させるか、聴いている人がストレスを感じない程度の相づちをどう打つか、聴いていて不快にならない笑い方はあるのか。

声で何かを届けるというコンテンツの難しさを毎日のように感じている。



先日のこと。

よう先輩(ぼくと一緒にウェブラジオ #いんよう をやっている)が言っていた、声優さんばかり登場する文化放送のインターネットラジオ局「超A&G」が気になった。しゃべりのプロが朝から晩まで入れ替わり立ち替わりラジオをやっているということだ。カーステレオのチャンネルをいくら回しても出てこないウェブラジオなので、今まで存在すら知らなかった。

声優のラジオか……。ちょっとおもしろそうだな。

ということでいくつか過去の番組を聴いてみた。ニコニコで聴けたり、ラジコで一部を聴けたり、超A&Gのウェブサイトで聴けたりする。

これを車の中で、スマホから出力して、聴いてみることにしたのだ。



すると驚いた。

高音部が尖っているではないか。

パーソナリティの女性声優(もちろん大変よい声である)の「sh」の音が毎回キンキンと耳に刺さってくる。

なあんだ、スマホの設定の問題だったのか。そりゃそうだよな。イヤホンをつなぐでもなく、スマホのスピーカーから、総音量を上げた状態で声を流せば、仮にしゃべっているのがプロの声優だろうとも、高音域の音は飛び回って刺さってくるものなのだ。

ぼくは少し拍子抜けした。ぼくのせいじゃなかったのか。




ところが……。





その後聴いた別の番組にはパーソナリティがいて、早見沙織さんという声優さんがゲストインしていた。都合3人でしゃべっていた番組の中で、パーソナリティ2名の声がときおり高音をキンキン響かせているにもかかわらず、早見沙織さんの声だけは高音域が音飛びしたり刺さったりしなかった。

晩飯を食おうと、職場から車に乗って移動している間中ラジオを聴いていて、車を留め、スマホのラジオを消し、メシを食って、さあ職場に戻ろうと車のエンジンをかけたときに、そのことに気づいた。

「あああっ!」

と心の中に描き文字が浮かんだ。




調べてみると早見沙織さんという人はCDを2枚くらい出していて、作詞作曲もこなせて、先日は竹内まりやに楽曲提供を受けレコーディング中にディレクションまでしてもらったのだという。

声優さんはしばしば歌を歌うしCDも出すので、必ずしも珍しいことではないなと思っていたのだが、もしかすると、

「マイクに音が入るとき、どのような波形の音がどれくらい入っているものなのか」

をきちんと意識できるタイプの人なのだろうか……とか、

そんなことを敗北感と一緒に考えた。

2018年12月26日水曜日

病理の話(277) 病理医が対面することの意味

医療者とSNSの関係を模索するイベントというのが、近年あちこちで計画されている。

ぼくのところにも、あるイベントに出席して欲しいと依頼が来た。

場所は東京、開催は土曜日の夜。

手帳を確認すると、ちょうど翌日に東京で内視鏡系の研究会に出る用事があった。これなら、旅程を一日早めれば参加できる。土日なのも幸いした。

SNS系のイベントには今まで(しゃべる役としては)出たことがない。そもそも依頼が来ても断っていた。ただ、今回は医療者として登壇してほしいとのことだったので受けた。

医療情報の広報とか啓蒙という話には、今でも興味がある。

昔ほど自分で情報発信を担おうは思っていないが、自分のひとことが悪い方向に伝達されないように自衛する意味でも、我々の何気ないひとことが世間にどれだけ悪い影響を与えるのかを自覚する意味でも、勉強は続けておいて損はない。

医療者は本質的に、誰もが中動態的に広報に携わっているのだ。




以前にも、医療者としてSNS系のイベントに呼ばれたことはある。そのとき呼ばれたのは大阪だったのだが、交通と業務の都合上行けなかった。札幌から大阪まで行ってイベントに出ようと思うと半日休みをとらなければいけない。業務終了後に移動開始してはいろいろ間に合わない。イベントまで1か月ない状態でお誘い頂いても、残念ながら翌月の業務はもう動かせなかった。こういうとき、札幌という土地は田舎だなあと感じる。

SNSの話題なんだから、わざわざ1箇所に集めないでオンラインでやってくれればいいのにな、と思わなくもない。

でも、おそらく、「ゲストには遠隔で、画像と音声だけ参加してもらいます!」という宣伝文句だと、人は呼べないのだろう。




この「人というのは実際に会わないといい仕事ができない、魅力や価値が伝わらない」という考え方は、個人的には信仰に近いと思っている。

けれども、「会うこと」に価値を見いだしている人間がこれだけ多い以上、そのオカルトをぼくは無視できない。




本来、「会わないとだめ」をいかに乗り越えるかがSNSに背負わされた使命なのだ。

となると、

「いつもは『会わないとだめだ』と思っているはずの人間たちがSNSでつながっている。そんな人々は、SNSに何を見いだし、SNSは何を生み出すのかという話を、SNSでやらずに、実際に会って話す」。

というのは入れ子構造であり自己矛盾であろう。

矛盾をはらむとイベントは作りやすい。




医療の目的は、患者がどう幸せになるか、どう不幸せを克服するかというところにある。そして、

「患者にメリットがあれば、医療者と患者が対面しなくてもよい」

という考え方は、医療においては通用しない。

患者の多くは

「医療者と直接会うこと」

に強い価値を見いだす。

AIがどれだけ進歩しても、患者が信頼できそうな医療者と対面することなしには、医療は完結しないだろう。

ただしこのとき、「会うだけ」のために配置された医療者にどれだけ給料を払うべきなのかはこれから吟味する必要があるけれど。

「その場にいて寄り添ってくれる人」に高い金を払えるほど、これからの医療経済がうまく回っていくとは思えない。ぼくはそれほど楽観的ではない。



この話を考え続けているといつもたどり着くポイントがある。

ぼくはそもそも一緒に働いている医療者たちに、どれくらい、

「会わなければ困る病理医」

と思われているのだろう。

たまに投げやりな文句をネットで目にする。

「病理医なんてぜんぶAIになるから必要ないじゃん」

これを言う臨床の医療者たちは、実際、病理医に「会うだけの価値」を感じていないということだ。

実際にその医療者たちは今まで「生身の病理医抜き」で仕事を回してきたのだろう。

その仕事をぼくから見たら、いろいろと残念なところが見えてくるかもしれない。

学術的に終わってるところも出てくるかもしれない。

しかしその医療者はすでに、患者に十分に幸せを与えているかもしれない。

だとしたら「生身の病理医がいらない医療」にも十分な価値はあるということになる。




SNSを使い続けているぼくは、「会うに値するかどうか」みたいなことを考え続けるようになった。

「値する」というのは、メリットがあるかどうかだけでは判断しない。支払ったコストに見合っているかという見方が重要になってくる。

「ネットで盛り上がっている内容を、顔を付き合わせて肉声でどれだけやる価値があるか」。

「病理医を臨床現場に配置せず、AIとデータベースと中央集権的な一部の天才によって運営してはいけないのか」。

これらは一見まるで違う話に見えるかもしれないが、ぼくの中ではほとんど同一の問いだ。

かくいうぼくは、病理学は究極的には人間が顔を付き合わせる「ウェット」から脱却して、どこまでも「ドライ」であってよいな、と思っている。病理学者はヒューマニズムからは無縁であっていい。どこまでもアカデミックであっていい。

けれども病理学者ではなく「病理診断医」がどうあるべきかについてはまだ迷っている。

ぼくにウェットな対面を求めてくる医療者は、今はそれなりの数、いる。

学会や研究会に呼ばれる回数は減っていない。これだけSNSが進歩しているのに直接呼ばないと、顔を付き合わせないと満足できないらしい。

だとしたら今後のぼくは、彼らとじっくり「顔を付き合わせて」、「腹を割って」、何を伝えていけばよいのだろう。

あるいは、「もう会わなくていいと思う」と伝えていくことになるのか。

そこに医療者の幸せがあるだろうか。医療者が現在抱えている不幸を克服することができるだろうか。払うコストに見合ったメリットがあるのだろうか。

2018年12月25日火曜日

安定感のあるブログ

気温が安定しない時期だね、と言ったら、相手は少し考えて、

「でも近頃は年がら年中気温って安定してないですよね」

と答えた。

うん、そうだね。冬に限らないな。

いつだってテレビの天気予報では、「平年より10日早い」とか「来月中旬並みの気温」とか、「先月くらいの温かさが戻ってきます」とか言ってるもんな。

昔は違ったのかなあ。



きっと違わなかったのだろう。

近頃はきっと、データの照合が昔よりずっと簡単になったのだ。前よりも「昨年との比較」とか「過去100年の平均と比べてどうか」みたいなことがラクになった。

今のこの状態が「平年並みかどうか」というデータが数秒で取り出せるようになったから、報道の機会も増えて、ぼくらがそれを気にする機会も増えた、というところだろう。




何度か書いてきたことではあるけれどやはり認めておかないといけない。

ここはもう未来なのだ。

ぼくが小学生時代に背中をまるめて読みふけったドラえもんの世界が、地味な方向に1/3くらい達成されている。

あらゆるものが少しずつデータベース化されていくことで、「現在」が「現在」だけに留まらなくなる。「現在」は常に「過去」と照らし合わせられるようになる。あるいは、「現在」から「未来」が予測しやすくなる。

もちろんここにはいつだって不確定性がある。カオスがある。天気予報くらいにしか当たらない、というのは時代を言い当てたフレーズだ。

それでも、「天気予報くらいには当たる」世の中に、ぼくらは今生きている。




誰が最初に言ったか知らないが、動物には過去と未来の概念がないのだという。人間だけが時間軸を背負って生きている。

これはたぶん人間の脳が、過去の経験を使って生存戦略を立てることにむいているからだ。

情報が総データベース化することで、その都度複雑系の出力結果として表出しているにすぎない「現在形のみ存在する現象」、すなわち気象とか経済とかファッショントレンドとかにも、まるで過去・現在・未来がつながっているかのような錯覚をできるようになった。




近頃は気温が安定しない。12月に、12月らしい気候の日は半分もないように思う。

けれどもほんとは元々「そういうものなのだろう」。

あらゆるものがデータベース化すると、ぼくらの目には、あらゆるものが「不安定」に見え始める。

「そういうふうにできている」。

2018年12月21日金曜日

病理の話(276) かけはなれを定義しよう

細胞の性状をみて、たとえば核とか細胞質といった細胞内の構造をみて、

「正常の細胞からどれくらいかけ離れているか」

を考えるのが病理診断のキホンである。


核の中には、その名の通り細胞の中で非常に重要な「プログラム」、すなわちDNAが入っている。

この核のサイズが普通の細胞に比べて大きいとか、異常な形をしているとか、核膜と呼ばれる構造がガタガタしているとか、染色したときの色合いが濃いとか薄いとか、これらの「かけ離れ」を見つけたとき。

ぼくら病理医は、「ああ、DNAのある場所がおかしくなっているなあ」と考える。

DNAなんてものは本来、1つの細胞に1セットあれば十分だ。また、DNAは必要に応じて稼働するプログラムなので、あたかも分厚い広辞苑とか聖書のように、普段はきちんと折りたたまれている。必要以上にページがたぐられたり、開いたまま放っておかれたりはしない。

一方、核がおかしいときは、このDNAのセット数が増えてしまっていたり、広辞苑のあちこちがめったやたらに開かれまくっているといった状況にあたる。

これは正常の細胞ではありえない。

細胞の統率がうまくとれていないことを示す。

……そういう細胞は、「たいてい」、がんである。

ぼくらはそうやってがん細胞を探している。




けれども。

核がなんだかおかしい細胞が、「がんではない」こともある。

たとえば、細胞の周りに規格外の争乱が勃発していて……医学的にいうなら「強い炎症」が起こっていて、細胞たちがザワリザワリとざわついていることがある。このとき、細胞は、自分たちの身を守るために、せいいっぱい頭を働かせて(?)、プログラムを次々とひもとく。

「周囲がヤバいことになっているので、善良な細胞たちも全力でプログラムを稼働させなければいけない」ときには、細胞の核は「普段と比べてかけ離れる」。




細胞の核をみて、ああ核がおかしいからがんだな、と、パパッと絵合わせゲームで診断をできるほど、病理診断は甘くないのだ。核がおかしいからといって、がんじゃないこともあり得る。

周囲の状況、とくに細胞がざわつく理由みたいなものを、きっちりと情報収集しておかないと、その細胞が真に「狂っている」やつなのか、「たまたま状況に流されて一時的に狂っている(そのうち元にもどる)」やつなのかを判断できない。

なんだか難しそうだろう?

実際に難しい。病理医としてのキャリアが長いベテランほど、「かけ離れ」の判断には慎重を期する。むしろ経験が浅い、若い病理医は、「『異型』の判断なんて、普段はそれほど難しくないですよ」みたいなことをいう。




突然、「異型」という言葉を使ってしまったが……。

「かけ離れ」のことを、病理学用語で異型と呼ぶのだ。

細胞の構造が本来のものと比べてかけ離れているとき、「異型がある」と呼ぶ。

かけ離れが強ければ、「異型が強い」とか、「高異型度」などと称する。

単なることばだ。

されど、ことば。




病理を勉強し始めたばかりの人は、とにかく病理診断報告書に「異型があります」「異型細胞があります」と書きまくる。

異型がある、ということばは、「性状がふつうの細胞に比べてかけ離れている」という意味である。それ以上でも以下でもない。

けれども、初学者はしばしば、「異型がある」を「がんである」という意味で用いていたりする。そういう報告書を読むことがある。

そうとは限らない、というのは、先ほどまで説明してきた通りだ。




まあ、正直、ことばの一つ一つを厳密につっこむのは、本意ではない。

日常臨床で、病理医の用いた日本語に対して挙げ足をとっても、あまり生産性は無い。

けれども。

ぼくらは細胞の「形態」をみるという、言ってみれば人によってどうとでも取れるきわめて主観的な判断によって、細胞ががんなのかがんでないのかを判定しているわけで……。

ぼくらが「ことば」を大事にしないとき、ぼくらの存在意義もまた揺らいでいくのではないか、と思う。




今度ぼくらの存在意義に関係するイベントに登壇することになった。詳細は後日。ぼくは「悪役」をわりあてられる予定である。

2018年12月20日木曜日

あじのあるおかた

どうりで。おかしいなあと思っていたんだ。

こちらからメールしても全く返事が返ってこない。てっきりぼくが嫌われているのかと思っていた。

けれど何かの機会に顔を合わせるとにこにこ挨拶してくれる。

多くの仕事で顔を合わせる。

そのたびに親切にいろいろ教えてくれる。

けれどもメールには全く返事してくれない。新手のツンデレなのかといぶかしんでいた。



結論は簡単だった。

その忙しすぎる教授はメールを見ていないのだという。

あるときからメールを開くのをやめたのだそうだ。そんなことがあり得るのか。

けれども教授はしれっと言うのだ。

「本当に重要な用件なら電話してくるでしょう? 電話じゃなくてメールで済ませるってことはまだ余裕があるんだよ。相手の時間を奪ってでも一緒に仕事をしないと困る、っていうくらい優先度が上の人と仕事しておけばいいんだ」

ぼくは脱力してしまったのだが、まわりの人間も一様に、のけぞったり、顔を手で覆ったりしていた。

ただ、その教授の近隣で働いている「地元の人」だけは苦笑いを浮かべている。なるほど彼らはそのことを知っていたのだろう。



ぼくはさまざまな打ち合わせをするために「会いたがる」人たちのことが不思議でしょうがなかった。

なぜIoT時代にわざわざ会って話す必要があるのだ。

特に出版社で編集とか記事作成に携わっている人たちが毎回「会いたがる」のには閉口していた。きみらは文章のプロなんだから、まずメールで思いの丈を存分に伝えればいいじゃないか。それをぼくが読んで判断すればいいじゃないか。

わざわざ会わないと企画がはじまらないというのも不思議な話だ・・・・・・。




しかし、教授の話を聞いて、またひとつ思うところがあった。

メールで人柄をかもしだすのって大変なんだよな。

切迫感とか。

ニュアンスとか。

一通をじっくり読めればいくらでも伝わるだろうけれど。

たとえばあの教授みたいに、一日にメールが100通も200通もきて、そのどれもが「一世一代の大きなコンサルテーション」だったりすると、もはや、どのメールもぜんぶ重要なせいで、かえって優先順位がつけられなくなるのだろう。

インターネットの速度は人間の脳の処理速度を超えている。

だからこそ、回線を切って、時間を切って、「その人だけに注力する時間」をきちんと演出できないと、進む話も進まない。

そういうことなんだろう。なんだかわかってきた。



ぼくは教授に尋ねた。

「わかりました先生、これからは電話します。けれど、おいそがしい先生のお時間を電話で奪ってしまうのも心苦しいというか……」

そしたら教授はこともなげに言うのだ。

「あっ、電話なんてそんなにびびらなくていいんだよ。ただひと言でいい。『今送ったメールを読んでください』でいいんだ。そしたらぼくは、電話がきたってことは大事な用件なんだなってわかって、メール読むから」




そのハイブリッドな生き方は果たして効率的なのだろうか?

日本の企業がオンライン化したプロセスをいちいちハンコで承認するのと似ている気もした。

なおその教授は異常に頭がよくて、ぼくが「AとBとCがみえるな」と思ったプレパラートを一瞬みるだけで、

「なるほどこのプレパラートにはABCDEFGがみえて、いろはにほ、αβγもみえているね。『B』と『ほ』と『ω』は相関しているなあ」

みたいなことを即座に出力する。

それだけ頭がいい人の生き様だ。

凡人であるぼくが解釈するのもおこがましい話ではある。その上で敢えて言っておこう。凡人は無駄にしゃべる。これはもうしょうがないのだから。無駄につっこませてほしい。




いいからメール見ろ

2018年12月19日水曜日

病理の話(275) 首都高の写真からダイナミズムを読めるか

体の中から取ってきた臓器、あるいは臓器のごく一部(小指の爪の切りカスより小さいときもある)を、顕微鏡で調べるというのが病理診断の大きな柱である。

この病理診断、「取ってきたもの」を「顕微鏡で」みるという性質上、どうしても苦手なことがある。それは何かというと……。

「時間を止めてみているから、時の流れに沿って変化する病態をみるのが難しい」

ということだ。

それはそうだろう。

たとえば石狩川を写真にとって眺めたところで、川の水がどれくらいの早さで流れているかを判断するのは難しい。

高速道路に走る車を写真にとって、あとから「これらの車は時速何キロで走っているでしょうか」と聞かれても困る。

写真ではダイナミズムは検討しづらい。これは当たり前のことである。




……ところが、このように例え話にしてみると、人間というのはおもしろいもので、

「そうかな、やりようによっては写真であってもダイナミズムを予測できるんじゃないかな」

なんてことを勝手に考えつく。



たとえば、石狩川の流速の情報が事前にわかっていれば、川の幅や水量をみるだけである程度流速も予想できるかもしれない。

あるいは、高速道路の車を拡大して、車の天井についているアンテナのしなり具合をみれば、「どれくらい風の抵抗を受けながら走っているか」みたいなことがわかるかもしれない。

ほかにも、石狩川の水面に大量に葉っぱが浮いていたら、「ああなんか水がよどんでいるんだろうな、流速が遅そうだな」と予想できるかもしれない。

高速道路なのに車がすし詰めだったら、「あっ渋滞だな、だったら流れはかなり遅いだろうな」というのは誰でもピンとくるだろう。




そうなのである。写真であってもダイナミズムの予測はできるのだ。

ただしこれにはコツがいる。

顕微鏡をみて、「血管がパンと張っているから、うっ血があるだろう」だけではなかなか診断の役には立たない。

「血管が少し張っている。おまけに血管のまわりにはすかすかした場所がある。ここはおそらく水分の漏れ出しがあったのだろう。この中には好中球という炎症細胞がみられる。血管の外に飛び出た好中球は1日とか2日という短い間に死んでしまうはずだから、今目に見えている好中球はせいぜい過去1日程度で出現したものだ。つまり、かなり最近の変化だということになる。以上をあわせると、ここ1日くらいで血管の透過性が亢進し、血管外に浮腫が起きて好中球が出るような病態があって、かつ血流がその場に多く動員されている。ということはおそらくこの部には急性の炎症があるな。炎症の原因としてはこの場合何が考えられるだろう……」

ここまで読んでこその病理診断だ。




ダイナミズムを読むのは難しい。しかし、プレパラートからダイナミズムまで読み解いてこその病理医である。「絵合わせ」だけでは診断は終わらない。

2018年12月18日火曜日

目の付け所

スマホを変えた。前の機種は四年使っていたらしい。

でもこの四年間、二回ほど玄関でスマホを落として割ってしまい、保険を使って新しい(同じ機種の) スマホに変えていたので、機種変の際の手続きにはそれほど苦労しなかった。アプリの設定もすべて引き継げた。

ぼくはスマホゲームをやっていないのでその点も楽だった。あっでもポケモンgoは……最近やってなかったからいいか……。


さて新しいスマホにはなんの不満もない。ただ細々と異なることがある。

まずフリック入力の感度が変わった。なんだか多少ねっとりと滑らせないと、うまく文字を選択できない。

次にマナーモード時のバイブが静かになった。職場でデスクにスマホを置いているとラインに気づかない。

充電の残量が数字で表示される。電池のアイコンだけでもいいんだけどな。

これらはすべて不満ではないがストレスになる。



不満ではないがストレス、という類いのものごとは世の中にそこそこある。これらはたいてい「すぐ慣れるよ」というハラスメントによって無視させられる。生きて死ぬまでの間の「慣れるまでの助走期間」を累積したら、人生の半分くらいは「慣れないうち」であり、だからぼくらはしょっちゅうまごまごしている。



「」とか()を、かっこ、と入力して呼び出すとき、前のスマホではカーソルが二つの記号の後ろに来た。

「」|  ←こんなかんじ。

今のスマホは優しいので、カッコ使うならカーソルはここだよな、とばかりに、

「|」  となる。



これになかなか慣れない。ただこれだけのことに慣れない。口内炎も痛い。足の親指の毛根にばい菌が入って少し腫れている。

2018年12月17日月曜日

病理の話(274) 遺伝子信仰ちょっと待った

猫も杓子も遺伝子なのである。

今の医学はとにかく遺伝子なのである。

特に「がん」は、ひたすら遺伝子なのである。



病気の原因が、なんだか我々の思考が及ばないところにある「遺伝子の異常」とざっくり考えることで、我々はなんだか「おさまりがいい」みたいな気分になる。

それはもう、すごく、強制的な納得をしてしまえる。

みんな「遺伝子の病気」というのをすごく気にする。

「遺伝子の異常」という言葉にめちゃくちゃ敏感になる。




遺伝子にキズがついていると病気になるとか。

親がこの病気だと子供もこの病気になるだろうとか。

遺伝する病気、家系に伝わる病気、

放射線を浴びるとDNAが傷つく、みたいな話だって、世の中ではすごく耳目を集めるであろう。

DNAは人体のプログラムだからなあ。

プログラムがいかれていたら、それはもう、バグみたいな病気がいっぱい起こるだろうなあ、そうだよなあ……。




けれどもね、病気の「根本」というのは、別にDNAとか遺伝子みたいなところに「だけ」立脚しているわけではない。

そもそも病気というのはいくつかに分類することができるのだが、

・体の外から何かがやってきて、体と戦うパターン

・体の中でよかれと思ってバランスをとってうまくやりくりしていたはずが、そのバランスが崩れてしまったパターン

実はこの2つがすごく多いのだ。

前者の代表は風邪だよ。あとインフルエンザとか。傷口が化膿するのもこれだ。

ここ、別に、遺伝子とかDNAとか、「それほど」関係していない。

全く関係していないわけではないんだけどさ。

後者の代表はアトピーかな。

高血圧も後者だな。

肥満もそうだよ。

これらも遺伝子「だけが関与しているわけではない」、病気だ。




そう、遺伝子、すなわち人体をうまいこと作ってやっていくためのプログラムというものは、あらゆる病気に「ちょっとずつ」は関わっているのだけれども、その遺伝子だけが「すべてを」決めているような病気というのはあまりないのである。というか、我々が普段から目にする病気が、「遺伝子のせいで」起こっているといいきれることはめったにない。

生まれ持った遺伝子の違い「だけで」病気になるならないが決まるというものではないのだ。

かぜも。

高血圧も。

肥満も。

「遺伝」だけで片づけられるほど単純な病気ではないのである。




この話はまあたいていのひとが「そうだね、そうだろうね」と納得して聞いてくれる。

けれども話が「がん」に及ぶと、みんな突然思考停止して、「遺伝しているのかもしれない」みたいなことを言いだす。




がんだけ特別扱いすることはない。

がんにおいても、「遺伝する因子」だけが力を持っているわけではない。

とにかく人間の体の仕組みとか病気のメカニズムということは、「たった一つのストーリー」では解決できないようにできているのである。




と、さまざまな本に書いている、テレビも言っている、Twitterでもささやかれているにも関わらず、それでもなお多くの人が、「がんは遺伝するのかな」とか、「DNAに傷がつくとがんができてさ」とか、なんとなーく「遺伝子」に対して敗北感を感じているのはなぜなのだろう。





……ぼくは今、この、「理屈を超えて騙されやすい説」に、ちょっと興味がある。

人間が根源的に「信じたいストーリー」みたいなものが、DNAとか遺伝子の周りにはあるのかもしれないな。

2018年12月14日金曜日

桃太郎という主人公もいるが

西遊記の主人公は三蔵法師ではない。

玄奘三蔵は唐からインドまで、16年かけてお経を取りにいったのだという。その伝説的な旅程が華やかに彩られたのが西遊記だ。

「現実に存在して」、「お話のモデルとなった」、玄奘三蔵が、まあ普通に考えると主人公ではある。

けれども、中国四大奇書のひとつである西遊記がこれだけ知名度をあげたのは間違いなく、「架空の」孫悟空のおかげだろう。

少なくとも玄奘三蔵の苦行と偉業だけでは、国をまたいで日本という隣の国にまで名前が伝わることはなかったと思う。




「フィクション」にはそういう力がある。

もちろん玄奘三蔵というのは世代を超えて語り継がれるすばらしい業績の持ち主だったのだろう。

今でいうとノーベル物理学賞受賞者とか、そういう感じの存在だったはずだ

でも、冷静に考えてみてほしい。

あなたは3年前のノーベル医学生理学賞を誰がとったか覚えているだろうか?

ぼくは覚えていない。

検索したらなんと大村智先生だった。日本人だぞ!!

なぜ覚えていないのだ。ぼくは愕然とした。当時あれだけ盛り上がったのに。

でもおそらく皆さんの9割も同じではないかと思う。

高尚すぎる方の業績なんて、われわれ一般人は語り継げない。

クイズ王でもなければ、日本人の偉大な科学者たちを全部覚えているなんてことはない。

言われれば思い出す。「ああ、あの、イベルメクチンの」。

そこまでだ。

エライ、スゴイ、だけでは語り継げない。ぼくらはすぐに忘れてしまうのだ。




中国でも、日本でも、昔の人たちは、そういう「感覚」をわかっていたのではないかな、と思う。

何か大きな出来事があり、誰か大きな人が登場するときには、鳳凰が飛び回ったとか、竜が降臨したとか、仏像が涙を流したとか、そういった「フィクション」がたいてい一緒に伝わっている。

これらのエピソードを果たして「フィクション」と切って捨ててよいのかどうかはわからないところもある。けれども、少なくとも、ノンフィクションだけでは「伝わりきらない」ことを考えて、フィクションで彩った、というのが本当のところなのではないか。




で、今日言いたいことは、そういう、「フィクションの助け」をたまたま得られなかった偉人、みたいな人が、きっと歴史のあちこちにいるのだ、ということ。

なんか「マイナーなまま危うく歴史に埋もれるところだった、すごい伝記」が気になってしょうがないのである。たまたま孫悟空を見つけられなかった三蔵法師、みたいな人の話を読みたくてしょうがない。

「がん免疫療法の誕生」(MEDSI)という本は、ぼくのそういう欲求に答えてくれている。

https://www.amazon.co.jp/dp/4815701415/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_BwLcCbZTYWGPQ

2018年12月13日木曜日

病理の話(273) 耳コピと画像病理対比

こないだ、とある研究会があった。胃カメラや大腸カメラで臨床医が撮影した画像と、病理のプレパラート像とを見比べて、

 「この病変がカメラでこのように見えるのはなぜか。

  病気の姿形を作り出している細胞は、

  いったいどのようになっているのか」

を議論するという会だ。

まあぼくが良く参加している会である。



臨床医がCT, MRI, 内視鏡(胃カメラや大腸カメラ)、超音波などでみる「患者の病気」というのは、例えるならば

 ・影絵

であったり、あるいはカメラで直接みているとしても

 ・遠くから、ナナメに、表面だけをみている

ものにすぎない。

だから、病変を体から取り除いたあとに、細かく切ってプレパラートにしたほうが、病気のより細かい部分が見やすくなるし、病気の奥に潜んでいるものも断面でとらえやすい。



けれども、「とってからああだこうだ言う」だけではなくて、多くの臨床医たちは、

「とるまえに、とったあとの像を予測」

したい。

だから研究会をやるのである。




この作業は……そうだな、「耳コピ」に近いものがあるかな。

ピアノのCDを聴く。絶対音感があったり音楽にとても詳しかったりすると、音で聞くだけで、演者がどの鍵盤を叩いているのか言い当てることができるだろう。

そして、達人であれば、鍵盤だけではなくて足のペダルがどう踏まれているかもだいたいイメージできると思う。

さらに熟達した人間であれば、実際に演者がどれくらい体をひねったり、腕をどのようにたたんで、鍵盤を叩いているのかが、だいたいわかるだろう。

叩く強さ、叩く順番、配列などに応じて、ただ音を聞いているだけなのに、イメージがわいてくる。

「音」から、「視覚」を想像するわけだ。両者は別モノなのだが、相関があるので、連想することができる。




「内視鏡像」から「病理の細胞像」を思い浮かべるのもこれに似ている。

CDを聴くだけでピアノの譜面が思い浮かんだり、演奏方法までわかるようになるには、相当な訓練が必要だろうが、内視鏡像から病理像を思い浮かべるのもこれと同じくらい難しいのではないかと思う。

たまに、研究会には、そういうことが上手な「達人」がいて……。

ぼくはそういう達人たちの話をずっと聞いているのがとても楽しいのである。達人たちの話を聞いていると、この人はかつてどういう勉強をしてきたか、どういう師匠について学んだのか、日頃どこに興味があってどのように仕事をしているか、などが、ぼんやりと浮かんでくるような気持ちになるのだ。



……まあ人間観察能力があったところで病理医にはあまり役には立たないのだが、臨床画像と病理を照らし合わせるための観察能力があると何かと便利だなあとは思う。

2018年12月12日水曜日

がんばれ式守伊之助

冬の出張はリスキーだ。

何をいまさらという話もあるし、別に北海道に限った話ではないだろうし、夏だって台風でいろいろと交通をかき回されることもあるのだけれど、でもあえて言うけれども、北海道に住んでいると、正直、冬の出張は承りたくないのだ。

まあなんでこの書き出しかというと、明日の釧路出張が心配なのである。

札幌から釧路に行く方法はだいたい4種類ある。


1.札幌市北区(東区だっけ?)にある丘珠空港というザコ感すごい空港から8:00 am発のJALで45分のフライト

2.札幌市の南東にある千歳市の新千歳空港という中ボス感ある空港から7:40 am発のANAで45分のフライト

3.札幌駅から7:00 amに出るJRで4時間

4.札幌駅あたりから出るバスで5時間

5.自家用車(高率にやられる)


4種類と書いたが5種類目を冬にはやりたくない。やる人もいっぱいいるのだろうけれど、道東自動車道は片側1車線の高速道路と呼べない高速道路なので長距離運転の疲労は大迫(半端ない)。

ということでこれらの1~4を選んで出張をする。

冬期は、風雪の影響でこれらが全部止まってもおかしくない。全部止まったら出張はあきらめるしかない。ある意味不可抗力だ。

しかし……「どれかは止まったが、どれかは動いていた」というのがけっこうある。これが悩ましい。

つまりぼくの判断によって、釧路出張が「行けたのになんで行かなかったの」となるか、「これは行けなくてもしょうがないよね」となるかが決まってしまう。不可抗力ではなく「可抗力が試される」問題なのだ。

毎回頭を悩ませる。



バスは天候にわりと強いが時間がかかるしダイヤがちょっと使いづらい。そもそも行って終わりではなく、ついてから仕事しなければいけないのだ。移動でさんざん疲労したあとに顕微鏡というのは地味につらい。

JRはまあ午前中に釧路駅に着けるのでまだいい。けれども最近のJRはよく止まる。JR北海道が大赤字になっているのも「北海道ではJRが止まりまくるほど天候の脅威が強い」ということを考慮すれば納得。

だからなるべく飛行機を使いたい。ただし札幌・釧路間の飛行機はJALとANAそれぞれのプロペラが別々の空港から飛ぶというキワドイ問題をはらんでいる。

プロペラも最近は進化している。雪や霧くらいなら、たいてい飛ぶし、降りる。

けれども除雪が必要なくらい雪が降るともう大変なことになるし、実を言うと「風」に弱い。

冬期の強風はマジで飛行機が止まる。

さあそうなると大変だ。

まず、風の強さというのは、丘珠(やや日本海側)と千歳(太平洋側)でだいぶ雰囲気がかわる。

すなわち前日から気象図を読み込まないとルートが決まらない。「なんで丘珠にしたのさ(笑)千歳なら飛んだのに(笑)」みたいな展開がよくある。

天気の違いだけではない。

丘珠のほうが少し積雪に弱い。その意味では千歳のANAに軍配が上がる。

けれどもANAは運行の見通しをウェブサイトに載せるのが遅い。とにかく遅い。空港に向かってえっちらおっちら移動している最中に「運行の見通し」を出さず、ようやく空港についたあたりで「欠航です」と言われたりする。千歳のANAにはそういうダメさがある。

JALの判断は速い。丘珠が行けるか、だめか、というのはわりと早めにわかる。だったら行司差し違えで丘珠のJALに軍配を上げ直すか。

しかししかし、丘珠のほうがフライト時刻が「遅い」のだ。丘珠が飛ぶかどうかの判断を待っていては、千歳便への振り替えは間に合わない。

もう行司は大変だ。ほとんど地球ゴマみたいな状態になって軍配をぐるんぐるん回すことになる。

なお、丘珠に行くのに車を使ってしまって、帰りに天候の都合で千歳便に乗ってしまうと、新千歳から丘珠まで車を取りに帰らなければいけないという地味だがハードな問題もある。

新千歳のANAが飛ばないなったときにそこであきらめるわけにもいかないのだ。だって、札幌駅まで戻ってきてバスにのるとか、JRにのるという手段がなくはないから。おまけに、新千歳からそのまま道東道にアクセスしていっそ車で釧路に向かってしまうこともできなくはない(精神は死ぬ)。




……書いていてつらくなってきた。いっそサイコロを振って決めて欲し……

水曜どうでしょうというのはこうして生まれたのである。

うそだけど

2018年12月11日火曜日

病理の話(272) 切り取り粘膜上から見るか横から見るか

胃や大腸の粘膜に出る病気をこそげとってくる「ESD」という治療法がある。ESDでとってきた粘膜(+病変)というのは直径2cm前後の大きなボタン状をしていて、まあこれがときには5cmとか10cmくらいのでかいもののこともあるので大きさにはそれほど意味はないのだけれど、この大きめのボタンを内科医と病理医はめちゃくちゃに細かくみる。

体の中から取ってきたあとにみる。

取ってしまえば安心、といいたいところなのだが、とにかく取ってからもめちゃくちゃにみる。

なぜみるか。

その直径2cmとか5cmとか10cmくらいのボタンの中に、米粒よりもごま粒よりも小さながんが混じっていて、それが粘膜の下のほうに「浸潤」(すなわちしみこむこと)していると、その後やっかいなことが起こるからだ。

米粒よりもごま粒よりも。

つまりはかなり細かく検索しないといけない。

やっかいなこと、というのはつまり「転移」である。

がんが混じっていて、粘膜より深いところに浸潤していると、転移のリスクがあがる。それがどれくらいしみこんでいるか、すなわち浸潤部の量とか距離をきちんと計測して、はじめてその患者にどれだけの追加治療をすべきかが決まる。




というわけで「患者の体の中からとってきたボタン状の検体」をぼくらはきちんと念入りにしつこく観察するのだが、このとき、

「胃カメラを担当した内視鏡医は、ボタンを上からみる」

のに対して、

「顕微鏡を使う病理医は、ボタンをたんざく切りにして、割面からみる」

という違いがある。

X軸、Y軸、Z軸という三軸をかんがえたときに、臨床医はXY平面を、病理医はXZ平面を評価しているかんじだ。

この軸の違いはなかなかに悩ましい。

「パイプの形」を想像していただければその難しさがわかる。上からみたらリング状。横からみたら長方形。まるで形が違うではないか。

だから、内科医とぼくら病理医とは、ときに、「こっちはああ見えたぞ」「いやこっちはこう見えた」と議論をする。



ここには対比理論とでも呼ぶべきルールがある。しかしこのルールは非常に主観的なため、なかなかきちんと言語化されきっていない。教科書もいくつか出ているのだがすべてを網羅するような本はなかなか出版できない(難しいしマニアックだから)。

ということで、全国で「研究会」が開催されている。内視鏡系の研究会でやっていることというのは、つまり、ボタンをひねくり回して、「ああ見えた」「そんなわけない、こう見える」のやりとりなのである。しょっちゅう出ています。

2018年12月10日月曜日

ブログ100回分

たとえば、病理の話(268)というのはたかだか1200字程度しかない。原稿用紙3枚分、というやつだ。

へえ、たったそれだけなんだな、と少し驚いた。

こないだ頼まれた、医学書の書評もだいたい1200字程度だった。紙面に載った自分の文章をみると、少ないなーと思うくらいの量。いろんな人が書評を載せて、「寄せ集め」になっていることで楽しさと猥雑さが出る。1200字というのはつまりそれくらいのボリュームなのだな、とぼくはざっくり理解した。

ブログ的なレイアウトだと、余白が多くてだいぶだらだらと引き延ばされているんだ。もう少しいっぱいナニゴトかを書いていたつもりだったけど、そうでもなかった。

あるウェブライターに、「読者が喜ぶ文字数」の話を聞いたことがある。記事の内容にもよるのだけれど、彼が扱っているジャンルにおいては、「理想的なウェブ記事の文字数は3000~4000字くらい」だと言っていた。これより長いと読者が読んでくれない。これより短いと記事としての体裁が保てないし、文字数いくらで収入が変わる場合には商売にならなくなるという。まあもちろんそこはいろいろあるだろう。




いろんな人が興味を持つ話題とみえる。ためしに、「原稿用紙 枚分」で検索してみると、似たようなタイトルの記事がいっぱい出てきた。

ごく平均的な、200ページくらいの文庫本は、原稿用紙300枚分だという。原稿用紙1枚が400字だから、120000字か。短編小説だと100枚分(40000字)、長編だと300~600枚(120000~240000字)あたりが相場のようだ。

これらの情報はいわゆる知恵袋的な質問サイトの記事による。信憑性には疑問が残るがそこまで正確な数字を知りたいわけでもないのでまあいい。ゆるく雰囲気がわかればいいのだ。そもそもぼくは、原稿用紙なんて小学校の読書感想文以降で使った記憶がないから、「原稿用紙〇枚分」といわれてもピンとこない。手書きで数千字の原稿を書いた覚えもない。Wordの文字カウントのほうが身近であり、なんでも文字数でイメージしている。




先日書き終えた本はエッセイ仕立てだ。ただ内容的には、随筆とか随想というほど「随意」には書けなかった。不随想である。編集者と頭を悩ませながら、これがいいかこれだとまずいかと、だいぶ右往左往したが、ようやく一段落した。

脱稿した原稿をまとめて文字数カウントにぶちこんだらちょうど120000字くらいであった。企画が届いたのが10月2日、書き終えたのが11月30日なので、だいたい2か月で120000字書いたことになる。もっとも、5000字くらいずつ小分けにして書いたので、120000字を一気に書き上げたという実感はない。小説の120000字とはわけが違う。小説家というのはすごい。創作でこれだけのボリュームを書きあげる能力を想像するとすなおに「化け物だなあ」という感想が出る。

なお、「5000字のユニットをいっぱい集めて1冊にする」というやり方は、決して楽ではなかった。5000字くらいなら楽勝かと思っていたがまったくそんなことはない。これだけ書けばいいだろう、と思ってWordの左下にちらりと目をやると、まだ2400字とか3100字くらいにしかなっていない、ということが頻繁にあった。


やれやれスクロールバー的にも今日のブログはこれくらいでよいだろう。文字数をカウントしてみるとちょうど1200字くらいだった。ぼくが肩ひじ張らずに主張するサイズが1200字ということなんだろうなあ。

2018年12月7日金曜日

病理の話(271) キリンかどうかはわかるがアフリカゾウかどうかはわからない

細胞をみて病気に名前をつける。

あるいは、その病気が、どれくらい進行しているのかを調べ上げる。

これが病理診断医の主たる仕事である。

では、具体的に、ある病気を顕微鏡で見て、どのように名前をつけているのか?



たとえば胃カメラを飲んだときのことを考えよう。

胃をのぞいてみて、そこに何かできものがあったとする。

ぼこっと盛り上がっているか、少しくぼんでいるか、あるいは周りと比べて色が違うか、模様が違うか。さまざまなバリエーションがある。

ここで、内科医は、カメラの横からマジックハンドのような「生検鉗子(せいけんかんし)」を出す。

マジックハンドで、病変部分から、小指の爪の切りカスくらいのサイズの「粘膜」をちょろっと拝借する。



この粘膜のカケラを、病理検査室でプレパラートにしたてあげる。

向こうが透けて見えるくらいの4 μmという薄さにかつらむきして、ヘマトキシリン・エオジンという色素で色を付ける。

そして顕微鏡でみるわけだ。




いろいろな診断理論がある。

細胞の何をみたら、病気の種類がわかるのか。ひとことでは言い表せないのだが、たとえば、

「元々そこにあるはずの構造がない」

というのは一つのヒントだ。

このとき、ぼくらは、たとえばこのように診断書を書く。



「非腫瘍性の胃粘膜が部分的に破壊され、異型を有する細胞が浸潤しています」



この解説をみたとたんに、一般の人々は、ウワァッとギブアップしてしまう。何が書いてあるかわからないからだ。

そして、実のところ、多くの内視鏡医も、心の中でギブアップしている。何が書いてあるかわからないからだ。

そう、たとえ医者であっても、顕微鏡で細胞をみた姿を事細かに記載した「病理診断報告書」の意味は、わからない。

これがわかるのは病理医と、一部の超絶マニアックな(おせっかいな?)臨床医療者くらいのものである。





そのためか。

たまに病理診断報告書には、この、「細胞がどう見えたか」という文章が省略されていることがある。過程を書かないのだ。

どうせ書いてもわからないから。

あるいは、いつも同じことを書くことになるから。

過程は省略して、結果だけを書いてしまう。

「胃癌です。高分化型の管状腺癌です」のように、主診断名と、細かな分類名だけを書いて終わりにすることがある。

患者はこの「主診断名」もよくわからないことが多い。病理でついた名前を臨床医が細かくわかりやすく解説して、はじめて、どのような病気であるかが腑に落ちる。

そして、臨床医はしばしば、「病理医ってのは細胞をみて、がんかがんじゃないか決めるだけの仕事だから楽だよな」みたいなことをいう。




でも、箇条書きにして簡略化してしまっている病理の仕事の奥には、理論と、文章と、意図が秘められているのだということを、忘れてしまうのは少々もったいない。

たったひとこと「がんです」と書くために、病理診断医は細かく細胞を描写する力を身につけておかなければいけないのだ。

キリンの写真をみて「あっ、キリンだ」と一発でわかるのは、キリンに特徴的な首や足があるからだ。

だから細胞をみて診断する作業も「瞬間的に行われる」と思われがちだ。実際そういうこともあるにはある。

けれど、ぼくらはたとえば、アフリカゾウとインドゾウの違いはあまりわからない。

これらの違いを決めろといわれたら、細かいお作法に従って、ゾウの大きさや鼻の形状、細かい色の違いなどをきちんと網羅的に解析しなければいけないだろう。

細胞をみて診断するというのもこれに似たところがある。




今、「お作法」という言葉を用いたが、先日購入した「外科病理診断学 原理とプラクティス」という本の序文に、この言葉が出てきた。

病理診断のお作法をしっかり学ぶことは、初学者にはもちろんだが、研修医を指導する中級医クラスの人間にとっても役に立つだろう、という意味のことが書かれていた。

ぼくは小躍りしながらこの本を読んでいる。お作法をきちんと学べる本は楽しい。

外科病理診断学 原理とプラクティス (金芳堂):  https://www.amazon.co.jp/dp/4765317668/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_R51.BbJY5KQT6


2018年12月6日木曜日

愛のためにあなたのために引き受けましょう

みもふたもないことをいうと、ぼくの尊敬する人たちの多くはあまり本を読んでいない。

もちろん割合の問題であって、たくさんの本を読むことで多くの知識を使いこなしている偉人みたいな人も何人かは知っている。

けれども、「言葉を使いこなしているのにぜんぜん本を読んでいない人」がいっぱいいることは事実だ。




ぼくは、読めば読むだけ世界が広がると思っていた。

本を読んだ数がその人の深さを決めるものだと、どこかで信じたかった。

だってぼくはよく本を読むほうの人間だったから。

自分がよかれと思ってやっていることの先に、なにか、すごく楽しそうな地平が開けていると、信じたかったのだ。

でも実際には、そういうわけではなかった。

別にそれほど本を読んでいなくても、日本語を美しく使いこなす人たちはいっぱいいるし、ドラマのような人生を華やかに送っていくタイプの人もいた。

おまけに最近立て続けに、

「本を読んでばかりいると、人の思考を借りてばかりいる人になってしまうよ」

とか、

「論文を読むことに熱心になりすぎると、論文が書けなくなるよ」

みたいな話を耳にした。

とどめに、

「自分の人格を広げようと思って何かを読むなんてつまらない。

そんな目的のための読書なんておもしろくもなんともない。

本を読むのは単に内容がおもしろいから。そして、本を読んだ自分が楽しくなったり深く考え込んだりするのがおもしろいから。それでいいじゃないか」

という内容の文章を読んだ。



ああーそうだな。「○のために本を読む」なんて、一番つまらないことだよな……。

こうしてぼくはまた人の文章に影響を受けながら、「何かのために読む読書はつまらんのかなあ。」なんてことを考えている。

他人の言葉を借りて。



いっそぼくは、「何かの役に立つと思って本を読み続けていたくだらない人です」と言いながら、それを完遂するのがよいのではないか。

人格が変わると思ったんです。

尊敬されると思ったんです。

ですからもうとんでもない量の本を読みましたよ。なぜか文章力はあがらず、博覧強記にもなれませんでしたけれどもねえ。

そんなことを言いながら竹林の庵に引きこもってしまえばよいのではないか。




……たしか1800年くらい前の中国にもそういう人がいたんだよな。

本に書いてあった。

2018年12月5日水曜日

病理の話(270) 専門家どうしのやりかた

医療は高度に分業されている。

ちょっと専門分野がかわると、途端に相手の言っていることがなんだかよくわからなくなる。

一例をあげよう。

「肝臓内科医」と、「胃腸内科医」は、どちらもおおきなくくりでは「消化器のお医者さん」と呼ばれている。肝臓も胃腸も、広い意味では消化器だ。

でも、お互いに、相手の仕事の半分以上を知らない。

肝臓に詳しい医者の9割以上は、胃カメラで胃の病変を直接とりのぞく「ESD」という手技には手を出さない。出せない。

逆に、胃腸に詳しい医者の9割以上は、肝臓の腫瘍を焼き切る「RFA」という手技には手を出さない。出せない。



一事が万事この調子である。

CTという検査は、そもそもレントゲンのおばけみたいなもので、臓器を輪切りにうつしだして、白いからどうだ、黒いからどうしたと、見極めるだけのものであった。……一番最初のころは。

けれども造影剤という技術や撮影機器そのものの進歩に伴って、今では、おそらく人口の99.9%は使いこなせないであろう高度な技術のカタマリとなっている。

たとえ医者でもCTの画像を完璧に読めるとは限らない。

先ほどの肝臓内科医であれば、肝臓や膵臓のようすはCTでかなり詳しく探ることができるし、胃腸とか脾臓などの評価も得意だ。

しかし、子宮筋腫がどれくらい変性しているかとか、肺の病変ががんかがんでないか見極めるといった、肝臓とはあまり関係ない領域については、同じCTにうつっていても、なかなか見極められない。

医者ならCTを読めるというわけではないのである。

”臓器をまたいだ”とたんに、何もできなくなるということは、ある。




たとえば肝臓に病気をもっている人が、偶然、子宮とか膀胱とか脳などに別の病気を見つけたとする。

この場合、肝臓内科医は、婦人科医や泌尿器科医や脳外科医などに相談をする。自分の専門外のことについては安易に判定できないからだ。

そして、実はその裏側で、放射線科医や病理医が、「領域を横断しながら」その患者に関与していることがある。

患者がさまざまな理由で複数の科を受診しているとき、臨床医たちはそれぞれが、放射線科や病理医などに相談をしていたりする。




病院の中には、「臓器をまたいでなにがしかのコメントができる人」というのが必要だ。

たとえば放射線科医は、対象となる臓器がどこであっても、CTやMRIを正しく判定することができる。

あるいは病理医も、対象となる臓器がどこだろうと、摘出された臓器の肉眼像やプレパラート像から、病理診断を出すことができる。

ぼくらのような「領域横断タイプ」の医者がいることで、臨床医は自分の専門領域に集中することができる、という側面がある。





極めて臨床能力の高い病理医は、ときに、各科の臨床医よりも患者のことを鋭く言い当てられる。

そのような病理医を、ぼくはそれほど多くは知らない。病理医はみんながみんな、臨床能力に長けているわけではないからだ。

そうだな……18人………19人……。

20人弱は、顔と名前が一致している。逆にいうとそれくらいしか知らない。

もちろんこの20人以外が仕事のできない病理医というわけではない。病理医はそもそも、プレパラートを見て意見を言えるだけでかなりの逸材なのだ。

でもぼくはときおり考える。複数の科の臨床医を相手にやりとりをできるタイプの病理医は、かっこいいなあ、と。

なかなかそこまですさまじい病理医というのはいない。

けれど、いることはいる。




なお放射線科医にもいる。たぶん麻酔科にもいるはずだ。緩和ケア医などにもいるだろう。感染症専門医にもいると思う。腫瘍内科医にもいるんじゃないかな。

そういうドクターたちの存在を、一般の人たちは、あまり知らない。

2018年12月4日火曜日

リタさんが嘔吐したよと教えてくれる博多弁

本屋に行ったら知らない本ばかりで愕然としてしまった。

小説の大半は作名どころか作者名もまったくわからない。

マンガ売り場に行ってみたけれど、平積みしてあった本の9割を知らなかった。

点数が多い。

そして新刊ばかりだ。

「今月の新刊」という言葉はもう死ぬのかもしれない。「今日の新刊」でも対応できるかもしれない。

書店員はこれを毎日積み替えているのだろう。すごいことだ。



本屋には無限にも思える情報が日替わりで置いてある。

無限にも思える情報、とはいっても所詮有限なのだけれど、日替わりで入れ替わっていくもはや無限と言って差し支えなかろう。



それだけの人々が発信したがっているということはもはや驚かない。

SNSをみればはっきりしている。伝えたい相手などいなくてもいいのだ。ツールさえあれば声は出る。

風呂場の排水溝にしゃべりかける人だってたぶんいっぱいいたのだろう。

でも排水溝に比べたらツイッターのほうがいくぶん「人に話している」感じが強い。

だから、排水溝にはしゃべりかけなかった人々も、日々こうしてネットで声をあげている。




ぼくが一番おどろくのは、伝えたい人の多さではない。

伝えたい人の言葉を「商品にして世に出そうと思う人」の多さだ。

こんなに作品ばかり出ていたら買う方だって選びきれない。

結果的に多数の作品のほとんどは売れずに終わっていくのではないか。

売れずに終わるということはもうけが回収できないはずだ。

なのになぜ出版社は「こんなにも多くの本を出す」のか?

某K社から今月出た新刊数なんかもうちょっとすごすぎる量だ。

まさかこの全部が思惑通りには売れないはずだ、と感覚的に思ってしまう。

どうやって収益を得ているのだろう。



書くこと以外で稼いでいる人が、もうけを度外視してメッセージを出版する、という形態は十分理解している。売れなくてもいいのだ、書いて世に問うことが大事なのだ、というのもわかる。

たとえばぼくも「印税では食えない」。本を書く時間をそのままコンビニバイトに費やしたほうがよっぽど多くのお金を得られるだろう。

けれどもぶっちゃけそれでもかまわない。なぜならぼくは別に食っていくための手段を持っているから。



けれども、「本を作る人たち」は、今のやり方で、食っていけるのだろうか。

他人事で申し訳ないが、新刊ラッシュは出版社の得になっているのだろうかと少し不安になる。




先日、某社の編集者が口を滑らせた。

「書ける医者は少ないんですよ」

ぼくもそこで一緒に滑ることにした。大型滑り台みたいで楽しいだろうと思ったからだ。

「本屋みたら一時期よりよっぽど『医者が書いた本』はいっぱいあるじゃないですか」

そしたらその編集者は滑りついでに空を飛ぶのだ。

「読みたい人がいないんですよ」

ぼくも負けじとK点越えを目指した。

「それは編集者が書く人を選ぶときの力量次第じゃないですか」

すると編集者はドローンにつかまって去っていった。

「スンマセーン」




ぼくは世界の一部であり、世界はまたぼくの一部である。

世界が「本を出しすぎてなんかちょっとわけわかんないことになっている」ならば、ぼくもおそらくそういう風潮に飲み込まれている。

ぼくは自分が薄利多売のやりかたで世を渡ろうとしていないだろうか、と、じっくり考えておかないといけないな、と思った。書いて本になればいいというものではないのだ、おそらく。

2018年12月3日月曜日

病理の話(269) 腎臓ができるまで

人間、というか哺乳類は、陸上で生活するために体をうまく進化させてきた。

ここを正確に書くと「たまたま陸上生活にフィットする変異をもっていたイキモノが生き残ってきただけ」となるけれど、このへんいちいち厳密に書いていくときりがないので、「うまく進化した」という雑な言葉であらわす。



陸上で生活する上では、いくつもの「機能」が必要だ。

たとえば、脱水に備えるということ。

海や川の中で生きているうちは、脱水に気を配る必要はそれほどない。まわりが水だらけだからだ。

けれども、乾燥した陸上で生きていこうとすると、脱水との戦いになる。

細胞内には水分が必要だ。水というのは化学物質を流動させる上でも、熱伝導の上でも、さまざまに用いる基本だからだ。

何より、生体に備えられている「循環システム」は血液によって支えられている。血液だって水分だ。

これが、陸上にいると、どんどん蒸散していく。

蒸発だけではなくて、尿でも水分が失われる。

尿を出さないわけにはいかない。体の中の老廃物はなんらかの形で外に出していかないと、血液の中にゴミがたまって死んでしまう。

だから尿を出すんだけれど、この水分が失われるのが地味にもったいない。

そのため、人間をはじめとする哺乳類の腎臓には、「再吸収」と呼ばれるシステムがあり、一度作った尿から水分をぎりぎりまで減らす。

つまりは濃縮する。

もともと血液に含まれているナトリウムとかカリウムを減らしすぎないようにする仕組みも備わっている。

体外に捨てたいのは、細胞から出てくるゴミ……アンモニア……を整形した尿素と呼ばれる物質だ。尿の素地と書くのだからわかりやすい。

この尿素だけをうまく排出して、水分はなるべく体内に戻してやる。電解質もあまり減りすぎないようにする。

これこそが哺乳類が発達させた腎臓の仕組みである。



この仕組みはとても複雑だ。腎臓の話をきちんと理解しているのは基本的に、腎臓内科医、総合診療医の一部、循環器内科医の一部、腎臓病理医など、専門性の強いひとたちばかりである。あと優秀な研修医たち。

ぼくはできれば腎臓のことを理解したいなと思い、しょっちゅう勉強しているのだが、40歳になった今も全貌をうまく理解できていない。ぼくの実力がそこまでだというと悲しいことになるが、実際悲しい。




こないだ読んでいた本にはこう書いてあった。


 ――――尿素を使ってアンモニアを捨てるのは哺乳類にとっては便利なシステムだが、
 タマゴを産む生物(爬虫類とか鳥類)にとってはいささか不便だ。

 なぜかというと、タマゴのなかで水にとける尿素を使うと、

 タマゴの中に尿素が充満して、
 タマゴの中身が死んでしまうからである。

 だから、爬虫類とか鳥類は尿素の代わりに「尿酸」を使う。

 尿酸は固形物(水に溶けない)であり、
 タマゴのカラにくっつけることができる。

 なお尿酸は水に溶けない以上、尿として排出することはできない

 (尿道に痛風をおこしたら地獄ではないか)。

 だから便にまぜる。

 鳥が飛んでいるときにおしっこをせず、白い便をぴちゃっと出すのは、
 尿酸の色による。

 というか鳥にはそもそも尿道がなく、

 「総排泄腔」といって尿道と直腸とがいっしょになったものを使っている――――


ぼくはこれを読んでびっくりしてしまった。腎臓の話ってのは理解しようと思うと獣医の知識まで必要になるのかよ。奥が深いなあ。

2018年11月30日金曜日

アウトレット品がおとくです

Bluetoothのキーボード、少し安いやつにして使い始めてしばらく立つが、着々と手指が疲れてきているのがわかる。

なんにでもいえることだが、毎日必ず接するものはある程度しっかりお金をかけないとつらい年齢になってきたなあと思う。

枕とか。

椅子とか。

靴もそうかなあ。

このあたりは、つくりがしょぼいのを使うと、あちこち体に痛みが出るようになってしまった。

肌着の類いはまだそれほど重要性を感じていないけれど、きっと中には、熱い寒い汗をかくかかないなどで、細かく肌に触れるものに気を遣っている人もいるだろうと思う。




そして、なんとなく、「ことば」についても同じ事が言えるのではないか、と感じた。

日頃から自分が頻繁に使うことば、というものがある。なかなか自分では気づかないことも多いが、口癖というか、ことばぐせみたいなものが人間にはある。

ぼくの場合、たとえば、今の「人間」という単語をよく使う。これは人に言われて気づいたことだ。「ひとが、って言うタイミングでときどき人間って言うね」。なるほどな、と思った。ぼくに染みついたある種のクセだろう。



そして、日常的に便利で使いこなしていることばの種類によって、おそらくだが、疲労の蓄積度合いが変わってくるように思う。枕や椅子と同じように。

「ムカつく」ということばを頻用していると、自分の中にある背筋的なものが少しずつゆがんで、節々が痛くなるように思う。

「しょうがない」ということばにもそういうところがある。

このあたり、世の中に「ネガティブなことば」として認識されているので、わかりやすいだろう。でももう少しわかりにくいものもある。

たとえば「傾向」。

あるいは「流れ」。

ときには「クリエイティブ」。

そして「幸せ」。

このあたりのことばも、使いまくっていると、なぜかはわからないのだが、靴擦れのような摩耗を引き起こしたりすることがあるのではないか、と思う。




靴とかキーボードとちがって、値段をかければいいものを揃えられるわけではない。

ことばを選んで使うには、ある種の訓練とか気配りが必要だ。

そして服装や日用品と同様に、自分の選んでいる日用ことばのセンスがいいか悪いかは、得てして自分だけではなかなか気づけない。



そしてようやく気づいたこととして、ぼくはどうも、この「自分」ということばにだいぶ姿勢を崩されているふしがある。

2018年11月29日木曜日

病理の話(268) ピンポイント探知機とふんわりゲシュタルト

細胞を観察して、病気の種類や進行度合いを特定するとき、細胞がどんな形をしているか、染色したときにどのような色で染まるか、という情報はある意味非常にアナログだ。

細胞の核がでかいとはどういうことか?

細胞質になにか空胞のようなものがあるとはどういうことか?

ひとつひとつ、「所見」に意味を重ね合わせて、病気の正体を探る。これが病理診断学のキホン。

これは、歩いている人をぼうっと観察して、そいつが悪人かどうかを判断するのと、似ている。

全体にまとった雰囲気、なんか悪そうな目つき、なんかいかにもなリーゼント、なんとなくチラ見する首元のいれずみ……。

全体をぱっとみて、「あっヤクザだ!」ってわかるときもあるし、注意深くみないとわからないときもある。なかなか主観的な作業ではある。



これに対し、現在、病理診断の世界においては「免疫染色」という手法が全盛である。

このやりかたは、細胞全体の雰囲気をみるのではなくて、細胞がもつタンパク質1つに注目して、そいつの性質をあばきだすという手法だ。

たとえていうならば、空港の金属探知機みたいなものである。

人間のシルエットの中に、金属成分だけを浮かび上がらせると、拳銃が見えてくる。そしたらそいつは悪人だ。一見良さそうな顔をしていても、空港で銃を持っていたらアウトだろう。



けれども免疫染色にはちょっとした弱点がある。

それは、「金属探知機は金属しか見つけられない」というのと似ている。

今、どれだけ技術がすすんでいるかしらないけれど、たとえば、「金属探知機にひっかからない特殊なプラスチック」で拳銃を作っていたら、金属探知機では検出できないだろう。

それといっしょだ。

細胞をみて、「あっ、あのタンパク質Aに対する免疫染色をしよう」とやったところで、調べていないタンパク質Bの異常は検出できない。




ヤクザかどうかを全体像でふわっと判定したあとに、●●探知機をいくつも用いて、ヤクザと確定できるだけの物質を探し出す。これは現代の病理医がやっている診断とかなりよく似ている。





その上で、あえていうのだが、最近ぼくは、「ヤクザかどうかを全体像でふわっと判定する」ほうの技術をもっと向上させられないだろうか、ということをよく考えている。

探知機は便利なので使いこなすけれども。

たとえばディープラーニングを用いた画像解析をうまくつかうと、「全体像のふわっとした解析」はとてもうまくいきそうだ、ということがわかりはじめている。

そして、それだけでなく、HE染色のような「色づけ」システムにもまだまだ見所があるな、という印象をもっている。

HE染色だけではなく、PAS染色やEVG染色、鍍銀染色などをもっと詳しく使いこなしたい。昔の病理医達は今よりずっと染色マニアだった。

染め方を変えると、見えてくるものも変わる。




結局、ぼくは、20代のころ自分がバカにしていた(と言わざるを得ない)、昔の病理医のアナログなやり方に回帰している。年をとったということかもしれないし、先達は偉いということを今さら知っただけのことかもしれない。

2018年11月28日水曜日

フライングプライド

カメラ用品の中にほこりを吹き飛ばすフイゴみたいなのがあるが、最近あれを使って顕微鏡周りやキーボード周りのほこりをびゅんびゅん吹き飛ばしていたら、なんだかくしゃみが出る。

フイゴってすごい字を書くなあ。

鞴。




むかしのマンガで本屋さんがパタパタ棚にはたきをかけていた。

最近ああいうのは見なくなったように思うがどうなんだろうか。

はたきをかければそれだけほこりが飛ぶだろう、なぜあんなことをするんだろう、と子供心に不思議だった。

今ぼくがキーボードのほこりを吹き飛ばして目をこすっているのと何もかわらない。



「書店 はたき」で検索をしてみると、検索結果の上位にはずらりと、

「立ち読みしている客をはたきで追い払う本屋は実在するのか」

という疑問が並んでいた。

つまりはたきなんてものは今や迷惑行為なのである。

クイックルワイパーを使った方がほこりが舞わなくて便利だ。




冒頭に、カメラ用品のフイゴみたいなやつ、と書いたが、正式名称を思い出した。「ブロワー」だったと思う。ドラゴンボールに出てきそうな名前。

はたくからはたき。

ブローするからブロワー。

人間の基本的行動をちょっとだけ拡充するような道具には、たいてい直球過ぎる名称がついている。

教え授けるから教授。

病の理を診て断定する医者は病理診断医。

みんないっしょだ。

ぼくらはときに、ほこりをとばしてかえって空気を悪くしてしまう存在でもある。

2018年11月27日火曜日

病理の話(267) いちから知りたい病理学のべんきょう

とにかくエッセンスを教えてくれ、と思っていた。

ぼくが20代のころの話。

病理学を学び始めたころのことだ。



大腸ポリープ。胃生検。

基本中の基本だよ、といわれた、これらの病理組織像が全くわからない。

大学の講座においてある教科書は何十冊もある。

でも、どれも非常に骨太で、本格的で、なにやら難しいことばかりが書いてある。

ぼくが今知りたいのは小さなポリープについてなのだが……。

どれを調べればよいのかわからない。



また、鬼門もあった。英語である。

英語がとにかくよくわからなかった。まず単語がわからない。




Rhabdoidとはなんだ?

辞書を引く。

「横紋筋様」。

漢字がならんでいるだけにしか見えない。意味がとれない。

横紋筋のような、というのがイメージとして頭にスッと入ってこない。

だって今勉強しているのは骨格筋じゃないんだ。悪性腫瘍の話なんだぞ?

横紋筋が、何に関係しているんだろう。

必死で1時間ほど格闘して、rhabdoidという単語は、少なくとも今調べているポリープとはなんの関係もないということだけがかろうじてわかる。




一時が万事この調子であった。わからない単語が出てきて一時停止、単語の意味を調べても結局それ以上みえてこなくて一時停止。信号の繋がりがきわめて悪い国道沿いのバイパスみたいなかんじだ。




Chromatinがvesicularとはなんだ?

Chromatinというのはクロマチン、すなわち細胞核の中にある物質だ。ここまでは習った。しかし習っただけだ、意味はわからない。

おまけにvesicularという単語がわからない。

しらべてみて笑ってしまう。

「Vesicularとはporousもしくはbubblyなことです」。

わははは。なんじゃそりゃ。わからない単語を調べたらわからない単語が2倍になった。

ポケットの中には英単語がひとつ。

叩いてみるたび英単語が増える。

なんの解決にもならないし、ポケットの中は粉まみれである。

昔ガンダムで「ポケットの中の戦争」ってのがあったが、あれはつまりビスケットが砕けたという意味だったのだろうか。




がんばってすべて日本語訳にする。

Vesicularとはコロコロとまるいものが寄せ集まっているイメージです。

なんとかかんとか意味はとれた。

ではクロマチンがコロコロまるくて寄せ集まってるというのはどういうことなのか?

結局日本語がわかってもその先がわからない。

Golgi? ああ、ゴルジ体か……。

Pale は 淡い……これはわかる……。

ゴルジが淡いってのはなんだ。直訳しても意味が意図とならない。




結局ぼくは人から伝え聞くかたちで病理を勉強するしかなかった。

ほんとうはちょっといやだったのだ。

本腰を入れて勉強するなら、個人の偏った経験を輸入するのではなく、きちんと「いちから」勉強したかった。

座学できちんと細部を詰めながら、論理的に学びたかった。

けれどそんなことはぼくには不可能だった。

病理学は、「いちから」の「いち」が「5億」くらいあるように感じられた。

実際には「50万」くらいだったのだが……。




まあそんなわけで病理学をいちから始めたい人むけの教科書をどう勧めるかについてはいつも頭を悩ませている。

病理を学びたい人が、将来、どんな仕事をしたいのかにもよる。

消化器内視鏡医になりたいならば、やはり胃腸の病気に関係のある病理学を勉強すべきだとは思う。

けれども、「胃腸に関係のある病理を学ぶ以前に仕入れておかなければいけない知識」はどうすればいいのか……。

結局、「最初はいっしょに顕微鏡をみましょう」と言って、ぼくの経験をもとに、あまり体系として整っていない話からはじめることになる。

若い医学生や研修医はどこか不満そうだな、と感じることがある。

その気持ちは、とても、よくわかる。



読むならこのへんがいいかな、という本を、ようやくいくつか紹介できるようになった。

Quick Reference Handbook for Surgical Pathologists   Natasha Rekhtman 

臨床に役立つ! 病理診断のキホン教えます   伊藤智雄 

皮膚病理イラストレイテッド〈1〉炎症性疾患   今山 修平 

最後のやつは最近のお気に入り。

皮膚? といわずに立ち読みしてみたらいい。

きっとほしくなるから。……ぼくと同じタイプの人間ならば。

2018年11月26日月曜日

歩く鳥って書くんだよ

さまざまなことが浮かんでは消え、文字にしてはみるものの、数行進んだあたりで全部消してしまう。

今日はそんな日だ。




こういうとき、思い出すのは、マンガ「それでも町は廻っている」のあるシーン。

主人公の歩鳥が、ある夜、眠れずに過ごす。

頭の上のあたりに、もやもやと、昔の友だち、今の友だち、亡くなった祖父の顔などが次々と浮かんでいる。

目がパチリと空き、

「だめだ」

「これは眠れないときのかんじだ」

と言う。

起きて、自分の部屋を出て、階段を降りる。

冷蔵庫をのぞき、めぼしいものがないので、夜の町に出て、コンビニに向かう。




ぼくはこの一連のシーンを、一度読んですぐに記憶した。

細かいセリフまですべて覚えているわけではないのだが、ぼくが考える「夜の雰囲気」というのとまさにぴったり一致していたから、なんだか心にしっかりと張り付いてしまった。




まれにそういう作品に出会うと、もじもじとする。

誰にも話したことがない自分だけの記憶が、まったく関わりのない人の頭の中に存在していて、創作物の中に組み上げられて、ある偶然によって自分の目の前に展開される。

よくあることかもしれない。それでも、もじもじとする。





「誰にでもありうること」をうまく描いた物語はバカ売れする。

共感の嵐!

はじめて読むのに懐かしい!

心の底にあるスイッチがおされまくる!

このような惹句をときどき目にする。

が、「それ町」は別格だ。なぜかというと、エピソードひとつひとつが、本当に「なんでもない」からだ。

誰もがもっている初恋の記憶、とか、一度は経験したあのさみしさ、とかが描かれているわけではない。

もっと、些末な……というか、ありふれすぎていて普通の創作物では省略してしまうようなポイントに限って、やたらと綿密に描いている。





ぼくが「さまざまなことを思い浮かべるのだけれど、なんとなくしっくりこなくて、作った文章も全部消してしまう日」に、あれこれと書き記していることは、たいてい、

「中途半端に共感を呼びそうな文章」

である。

「わかってくれ」と「わかるだろ」と「わからないだろうな」のバランスみたいなものが、圧力とともに崩れているような日があって、そういうときは、何を書いてもうまくいかず、結局ディスプレイの前でだまりこんでしまう。




「だめだ」

「これは書けないときのかんじだ」

というアレになるのだ。

2018年11月22日木曜日

病理の話(266) 科についてのこと

医者をとっつかまえてきて、

「ご専門は?」

とたずねてみよう。どんな回答が返ってくるかな。

「外科です」

「内科です」

「小児科です」

もしこう返ってきたら、もう少し細かくたずねてみよう。

相手はまだ、こちらに心を開いてくれていないようだ。

あるいは、ニセ医者かもしれない。





たとえば、スポーツマンをとっつかまえてきて、

「ご専門は?」

とたずねてみたら、どういう返事がかえってくるだろうか。

「野球です」

「サッカーです」

「ラグビーです」

まあたとえばこういう返事だったとする。

そしたら、きっとあなたは、もっと尋ねることができる。「ポジションはどこですか?」

すると、

「ピッチャーやってます」

「ボランチです」

「タッチラインをきれいに引くのが得意です」

みたいに、さらに深い答えが得られる。



いまどきの医者はとにかく専門性が極まっていて、狭く、深く、自分の得意領域を囲い込んでいる。

外科……の中でも、さらに、肝臓を切るのが得意な外科、とか。

内科……の中でも、特に、甲状腺の病気に詳しい内科、とか。




病理医もそうだ。

病理医として働くとき、病理専門医という資格があるとべんりで、この資格をとるためには「全部の臓器の病理」に詳しくなる必要がある。

それだけに、病理医といえばすべての臓器の顕微鏡像に詳しい……と思われがちなのであるが……。

実は病理医にも細かく得意とする領域があることが、圧倒的に多い。




ぼくは消化管と肝臓、膵臓、胆道、乳腺、甲状腺、肺の病理に比較的詳しい。

血液・悪性リンパ腫、軟部腫瘍の病理についてはわりと興味をもって勉強している。

泌尿器科領域、特に腎臓や尿路、前立腺についてはそこそこ経験がある。

産婦人科の臓器についてもしょっちゅう見ている。

一方で、脳や神経の病理については日頃あまり見なくなった。理由は、自分の病院に、脳外科がないからだ。

また腎生検もみていない。自分の病院に、腎臓内科医がいないからである。



この中でひとつ、専門はどれ、と聞かれたら、悩んだ末に、「消化管の病理ですかね……」と答える。消化管といっても食道と胃と大腸と小腸があるので、より深く尋ねられれば、より細かく答える準備はある。



これだけ細かく分担をしないと今の医学は太刀打ちできない。

だからこそ、日常診療において大事なのは、「他分野に詳しい人々」と仲良く連携すること。

自分の得意分野だけで勝負するのも悪くはないのだが、あまりに狙い球を絞りすぎると、見逃し三振が増えてしまう。自分の苦手なコースについてはほかの人に打ってもらうというのが、長く楽しく病理医を続けていくコツのひとつではある。




……でも、それでも、あくまで自分の専門領域を、狭く、深く、厳しく追及していくタイプの病理医というのもいて、ぼくはそういう人のことを、「いいなあ」「うらやましいなあ」と思って、眺めてはいる。

2018年11月21日水曜日

ドラハッパーなる造語も流行した

季節の変わり目は風邪を引きやすい、という言葉がある。

季節の変わり目とはいつか。春とか秋だろうか。

夏は夏風邪というのがある。

冬は寒いので風邪に注意しなければいけない。

そして季節の変わり目には体調を崩しやすい。

人間は年中体調管理をしている必要がある。

そして体内には年がら年中体調管理してくれるやつがいる。

腎臓とか肝臓である。

そこがカンジン、ってやつだ。

まあ日本語というのはよくできている……。




しまった、今日は「病理の話」ではなかった。

関係ない話をしなければいけない。

これはもうぼくの中では絶対のルールとなりつつある。

たまに混乱するけれど、ブログの中では、病理の話とそれ以外の話とを交互にやっていくことに決めているのだ。

となるとやはり今日はハットリ君の話をするべきだろう。




マンガ・アニメ・あるいは実写でもおなじみの、忍者ハットリくんの本名は、「ハットリカンゾウ」である。

これはもちろん実在した忍者(?)、服部半蔵のパロディであろう。

しかし、パロディにするにしても、なぜカンゾウという名前を選んだのかはふしぎである。藤子不二雄Aのネーミングセンスはすごい。

ハットリくんの弟はシンゾウという。

そして父親はジンゾウというのだ。まあよく考えたものだ。たしかにこの3つは響きが人名っぽい。ヒゾウはちょっと人名っぽくない。スイゾウはいけるかもしれない。

ところで、母親の名前はなんというのだったかな。

思い出せない。

昔はここまでで思考が止まっていた。でも今のぼくにはGoogleがある。

さっそく調べてみることにした。きっと、気の利いた「臓器関連の名前」がついているはずだ。副腎あたりかな。下垂体あたりかな。……人名っぽくないな。

以下、Google検索結果である。

ハットリ兄弟の母(名前不明)
声 - 梨羽由記子(映画)/ 峰あつ子(2012年版)
ジンゾウの妻でハットリ兄弟の母。常に笑みを絶やさず、穏やかで優しい性格。体重が重いのが玉に瑕。

……くそ……名前不明……だと……?




Wikipediaを眺めてみたが、カンゾウシンゾウジンゾウと揃えているくせに、それ以外のキャラクタは全く人体と関係がない。ぼくはコミックス(新原作版)を持っていたのである程度知ってはいたが、それにしても、今さらながら笑ってしまった。

出オチじゃん。

でも、なつかしかった。

猿飛猿助とか、雲隠才蔵とかいたな。雲隠才蔵はタバコみたいなやつを吸って雲を出すんだ。ケンイチうじに「タバコはだめなんだぞ」とか怒られていたっけ。

ああ、白猫斎なんてのもいたな。すごい迫力の、甲賀の猫だ。




そしてニヤニヤが収まって少しセンチメンタルになったぼくは、最後に出てきた機械流の忍者の名前を見て、ふいをつかれてしまった。

そこには、シノビノ光門、と書かれていた。

そうか……こうもんがあったな……。

2018年11月20日火曜日

病理の話(265) 他院プレパラートの診断

別の病院から自分の病院に患者が移ってきたとき、患者とともに、前の病院で診断されたプレパラートもやってくることがある。

患者が自ら持参したプレパラート。

あるいは、患者とは別に、後日郵送されてくるプレパラート。

パターンはいろいろだ。



一昔前、CTとか超音波の画像がフィルムだったときには、患者が病院を移る際に、フィルム一式の入った大きな封筒を持たされたこともあったという。

自分の体がうつされた写真を手に持ってバスに乗る患者の気分は、いかばかりだったろう。

ぼくはわりとそこを気にしてしまうタイプだった。

だから今でも、患者がプレパラートを持ち歩いているところを想像すると、「郵送してあげたほうがよかったんじゃないのかな」と思うこともある。



でもまあいろいろな事情もある。

郵送より直接持参のほうが純粋に「早い」こともあるから、一概に患者に持ってきてもらうことが悪いとは言えない。




そんな歴史があってか、あるいは全く関係ないのかは知らないが、一般に、別の病院で一度診断されたプレパラートをもういちど診断することを、

「他院からの持ち込み標本の診断」

と呼ぶ。最初、この言葉を目にしたときには、思わずジャンプ編集局に原稿を持ち込む新人マンガ家のようなイメージが脳内に浮かんだ。




他院から持ち込まれたプレパラートの診断は難しい。

まず、染色のクセが微妙に異なる。

同じ細胞を見ていても、染色する技師さんが変わると、わずかにHE染色の色合いが変わる。この微妙な差分を脳内で調整して、きちんと平均的な診断をくだすために、脳の中では0.5~1秒ほど時間が必要となる。

この1秒がけっこうでかい。栄養も150キロカロリーくらい余計に消費する気がする。

次に、そもそも病気の診断自体が難しいことも多い。

(きっと、前の病院でこれをみた病理医も、苦労したんだろうな……)

そんな同情を胸に抱えながら丁寧に診断をする。

ときに、ぼくが専門としている分野のプレパラートのときには、前医の病理医が「わからない、診断できない」とコメントをつけていても、ぼくは診断できるということはある。

逆に、ぼくが普段あまり見ない分野のプレパラートだと、ぼく一人では診断ができず、周りの病理医たちに尋ねながら二人三脚ならぬ四人五脚くらいでなんとか診断を出すこともある。




持ち込み標本の診断の精度を高めるためにやることはシンプルだ。

病理医だけでなんとかしようとしない。

必ず、臨床情報を集める。臨床医にたずねることがとにかく重要だ。

なぜこの患者は我々の病院にやってきたのか?

内視鏡像やCT画像はどのようになっているのか?

何が問題点か? 今後なにをしたいのか?

そういうことをしっかりと把握する。

ところが、自分の病院の臨床医もまだ患者のことを把握していないというケースもしばしばあるわけだ。

だって患者は転院してきたばかりだから。

すると、「前の病院の医師」にも連絡をとる必要がある。



患者が持ち込む標本を診断する際には、ぼくら病理医と臨床医との連携がいつもよりも長くなり、深さも求められる。

「もうプレパラートはできてるんだから、病理医にちょろっと見てもらえればすぐ診断つくよね」というわけにもいかない。

いずれは患者のスマホに、それまで患者が受けた血液検査や画像検査の結果がすべて入力されるような時代がくるかもしれない。

そうなれば、いちいち前の病院にデータの確認をとらなくても済むようにはなるだろう。

でも、そうなったとしても、ぼくは、「前の病院の主治医」にはやはり電話をかけると思う。

未来において医者の存在がどれほど重要視されているかはわからないけれど……。

ま、人と人とが話し合うことで見えてくるものは、やはり大きいと思うのだ。

AIが完全にぼくらを食い尽くす日がこないかぎりは。

2018年11月19日月曜日

併託恣意

釧路の出張先から空港までタクシーに乗って移動する。外は雨。だいたい30分弱かかる。今日の運転手さんはとても寡黙だ。偏見を申し上げるならば、個人タクシーの運転手さんはにぎやかな人が多いように思っていた。今回は静かでとても落ち着く。信号でランダムな雨音と定期的なワイパーと忙しそうなウインカーの音が全て聞こえてぜいたくである。

このルート、いつもなぜかポケットWi-Fiの電波がよろしくない。スマホの電波はきちんとLTEなのに不思議だ。結局ポケットWi-Fiをあきらめるしかないのだが、Wi-Fiがない環境でスマホをいじっているとギガがどんどん減って精神によろしくない。毎月月末には1GB以上余しているのだから、本来はそれほど気にしなくていいはずなのだが。

電車や飛行機で移動する際にはギガを使わず(あるいは使えず)に電子書籍や持参した本を読む。でもタクシーの後部座席だけはなぜか酔ってしまう。というわけでギガも使えず本も読めない。運転手の斜め後ろからの顔が精悍だ。雨はますます強まっている。手持ち無沙汰で音とあそんでいたぼくは、ふと燃え殻さんのことを思い出した。

彼は「ボクたちはみんな大人になれなかった」をスマホで書き上げたのだという。たしかにいまどきの大学生はレポートをスマホで書くというが、彼はぼくより年上だ。愕然としてしまった。あの名作を、スマホで?

今こうして、酔いに抵抗しながらスマホで文章を書いていてはっきりわかるのは、フリックのめんどくささ、スマホ搭載辞書の中途半端さ、そして、「自分が冒頭に何を書いたかふりかえるのに不便な視野の狭さ」。アロウズはいいスマホだがやはりバッテリーはクソなので左手がじんわりと熱くなっていく。

バッテリーはともかく、自分が書いた言葉を自分で食って先に進むような、自転車操業感はいかんともし難い。目の前にしかエサが出現しないパックマン。文章がどのように進み、どのように着地するのかがまったくわからなくなる。

なぜこれであんなに統一感のある素晴らしい小説が書けるものなのか。メカニズムがわかならさすぎて呆然としてしまう。

あるいは、「書きながら考えるタイプの人」は、そもそも、頭の中に、書きながら参照できるだけの広大で猥雑な香港とか台湾の街並みみたいな風景があるのではないか。

だから、スマホの画面のように今の文章とその周囲しか見えないダンジョン的執筆であっても、すでにじぶんのなかにある脳内のありようを裏切ることなく表現が整ったまま夏色の自転車のように坂道を滑り降りていく。

となると世界観に問題のあるぼくはスマホで物を書いてはいけないのではないか。タクシーが空港に到着しそうだ。ぼくの中には毎日違う町があり、自分でもどの世界観で暮らしているのかときおりわからなくなる。ブログのタイトルからして脳が定住していないのだからもうこれは仕方がないのだ。タクシーがもう着いてしまう。読み直すのがこわい。


2018年11月16日金曜日

病理の話(264) 違和感のゆるキャン

ある「依頼書」を読んでいる。

「依頼書」には、患者の体の中からある小さな一部分をとってくるにあたり、臨床医が考えていたストーリーが事細かに書かれてある。

その文章を、最初は、読み飛ばすくらいの勢いで、「雑に」読む。

あまり先入観を持ちすぎないように、最小限の情報をチェックする程度にとどめる。

これは、過去に幾度となく先入観にひっぱられて危ない思いをしたことがあるぼくが、心に刻み込んでいるヒケツだ。

「顕微鏡を見る前に、臨床情報にあまりひたりすぎてしまってはかえって毒になる」。



そして、いざ、顕微鏡をのぞきこむ。

細胞が見えてくる。

にわかに爆発的な感情がおしよせる。

  (これは難しい)

一目見てわかる。あきらかに細胞の配列が「いつも」と違う。

正常ではない。異常だ。さらにいえば、異常は異常でも、「いつも経験するタイプの異常」ではない。

「あまり経験しないタイプの異常」なのである。息を詰める。いったん顕微鏡から目線を外す。



いわゆるレアな病気を考える。

このあたりで、ぼくの右肩の上に妖精がとまってささやく。「レアな病気だけじゃだめだよ。よくある病気のレアな見え方、というパターンも考えないとだめ。シャラシャラーン」

今度は左肩の上に魔物がとまってささやく。「そもそも異常だと決めてかかってるけど、病気じゃなくて個人差の範疇だったらどうするんだ。病気じゃないのに病気って診断したらお前、裁判で負けるぞ。ゲゲゲゲ」




心を落ち着けて依頼書を読み直す。

臨床医もいつもと違って、どことなく詳しく情報を書き込んでいる。患者の状態、それまでに経験してきた病気の種類。一見すると今回のぼくの顕微鏡診断には関係がなさそうだと思って読み飛ばしていた、さまざまな情報が、今度は紙面から立ち上がって見えてくる。

その情報は、必ずしもぼくの中にうまく同居してくれない。

「違和感」なのだ。

心に住んではくれるんだけれど、テントを張って住みつくかんじ。

いっとき間借りしますよ。おじゃましますよ。今からキャンプするんで。

おさまりの悪い情報たちは、ぼくの心の敷地内に、好き勝手にテントを張る。ペグをうつ。縄を張る。オオカミのおしっこをふりまいてクマよけにしたりする。

情報たちは好き勝手だ。ぼくの思考には合わせてくれない。変な時間にテントにもぐって眠ってしまい、まったく現れてこなくなるやつもいる。一方、テントのなかから這い出してきて、バーナーに火をつけて焼肉をやっているやつもいる。

キャンプファイヤーをやっているやつら。うるせえなあ。静かにしてくれ。……しかしその火の中には何事か書いてあるようにも思う。ぼくは気が散りながらも、なんとなく、心に住み始めた違和感たちが何かを伝えようとしているのではないか、と、目を凝らし、耳を澄ます。ホホッホウ、ホホッホウ、あいつらボーイスカウトの歌を歌い始めやがった。むかつく。




そして何かが見えてくる。

あわてて病理の教科書を取り出す。考えていた病気とは違うページをめくる。いくつもめくる。

あった。これかもしれない。

顕微鏡に戻る。今度は潜水するかんじだ。思考を針のように細くして、接眼レンズから思い切り飛び込んでしまう。

細胞の配列。形状。核の様子。

免疫染色の態度。陽性、陰性だけではなく、染まっているというならばどのような形でどれくらいの細胞が染まっているのかを丁寧に拾う。




これで間違いがない。ぼくは診断書を書く。ボスに見てもらう。ダブルチェックで診断を確定して送信する。

やりきったという充足感に満たされる。ぼくは自分が最高だと思う。神ではないかと思う。存在そのものではないかとも感じられる。概念として世界を統べることも可能だろう。むしろ世界とはぼくではないか?




何時間もたたないうちに臨床医から電話がかかってくる。「あー先生あれなるほどってなりましたよ」

「「「「そうだろう」」」」 世界となったぼくは、脳の中に直接かたりかけるような声で応じる。もうエコーなんか何重にもかかっている。荘厳である。

すると、臨床医がいうのだ。

臨床医「それでですね、思いついたことがありまして」

概念「「「ほう……?」」」

臨床医「この病気、それにこの臨床症状となると、今回とってきた検体には、この像も含まれているかもしれないですよね」

神「「あっ」」

臨床医「それも見ていただいていいですかね?」

人「ああ……すんません……最初からそこまで見通してたらぼくかっこよかったのに……」

臨床医「かっこいいとは」

虫「いえなんでもないです……ぼくは虫です」





心のキャンプ場は閑散としていたが、撤収時間ぎりぎりまでテントの中で寝ていたのであろう、あるのんびりやさんが、いつのまにかハンモックにゆられながらいたずらっぽく笑ってこっちを見ている。

最初からお前に気づいていればぼくは世界のままでいられたのに。

虫となりまた診断に戻る。もそもそと依頼書を読むと、先ほどとまったく同じ臨床医が、今度は別の患者について、何やら長文の悩みをぶちまけていた。虫は頭を抱える。虫は足の数が多いから、頭を抱えるのも一大イベントとなる。

2018年11月15日木曜日

無限の重任

よう先輩とラジオ収録の合間に少ししゃべっていた。

ラジオトークにしても、こういうブログとかnoteなどの文章にしても言えることだと思うんだけれど、

「お題が無限にわきでてくるような能力」

があったら、楽しいだろうな、助かるだろうな、みたいなことを、どちらともなく言った。

毎日何事かを発信しようとすればどこかの段階でこの「お題不足病」みたいなことを考えるときがくる。

ぼくもしょっちゅう考えている。



「ネタがないのに書かなきゃいけない、困った……」などという悩みは、週刊誌に連載を長く続けている作家だとか、天声人語の担当者とか、ファッション誌に連載をもっている芸能人などから出てくるはずの言葉だ。ぼくのような素人が口にするのはちょっとおこがましい。「困ってるならやめれ。誰も書けっていってないべ」と北海道弁でしかられてもしかたがない。

けれどもまあここにはちょっとした意地みたいなものもあるので簡単には引き下がれない。

毎日何かをずっと書き続けていたら、いずれ楽しいゾーンに入れるかもしれないではないか。

根拠? ないよ。勝算もない。

でも書き続けるという場を自らに設けて維持することで、いずれその場で楽しいことが起こるかもしれない。

そもそも「お題を無理やりひねりだすこと」自体にも達成感がある。

しんどいイコールやめれ、という短絡的お説教には承服できない。




「困ってるならやめれ」「しんどいならやめれ」「つらいならやめれ」というのは、使いどころが難しいセリフだと思う。というか「年間・余計なお世話大賞」に常にノミネートされるフレーズではないか。

うっかり購入してしまった3000ピースのジグソーパズルがなかなか片付かないと言ったら「やんなきゃいいべや」。

スーパーマリオ2の無限増殖に失敗したまま「今日は無限に機数がなくてもなんか行ける気がする」と勇んでゲームをすすめてはみたけれど、やっぱりダメで8-2くらいで機数が足りなくなって涙目になっているときに「失敗してイライラするならゲームなんかやめれば」。

バーベキューで備長炭になかなか火が付かなければ「安い炭で済ませばよかったべさ」、

うまそうなラーメン屋に並んだはいいが列が全然前に進まないときにも「待ちきれないならマックでいいべ」。

うるさいぞ道民。

困ってる瞬間も含めて「場」なんだよ。





まあお題がいざ決まったとしても今度は別の悩みがやってくる。

「あのことを伝えたい」と思って書き始めたはいいけれど、なかなかいい表現が見つからなくて、うろうろさまよってしまうときもある。

こんなに自分は感動しているのに文章にしてみたらペラッペラになっちまったなあ。

ちきしょう。

もう少しうまいこと表現できねぇかなあ。







……ふと思ったのだが、四苦八苦している人に「そんなにつらいならやめればいいべや」とバッサリ型の説教をかましてくる北海道民も、ほんとうは、心の中で、もう少し複雑なツッコミを思い描いているのかもしれない。

でもそのツッコミでは伝わらない。あなたの共感性イライラみたいな感情も、ぼくに対するわずかな愛情も。

そして、ぼくは、人間だれしも、ベストの言葉を選んで会話しているわけではないのだよな、ということに思い至り、ぼうぜんとして黙り込む。

2018年11月14日水曜日

病理の話(263) ボディにコンシャスな話

机の上においてあるスマホやマグカップを眺めると「奥行き」がある。

ちょっと顔をずらすと、マグカップの取っ手が見えてきたり、中にコーヒーが入っていることが見えたりする。

ぼくらは首を動かしながら、ものを立体的に把握する。目が二つあるのも立体視のためだと言われている。敵や獲物が「近づいてくる」「遠ざかる」を瞬時に把握しなければ、自然の中で生き残れなかったのだろうな。

おかげでぼくらは、今こうして、立体を感じる事ができる。

さらに考えると、ぼくらは立体認知のおまけとして「陰影」も認識できていることがわかる。自然界に存在する陰影のほとんどは、脳の中で奥行き情報と紐付けされている。

たまにブンガクとかマンガで

「光あるところかならず影あり!」

などというが、ぶっちゃけ光だけでは影はできない。立体構造物があり、ものに当たる光の量が角度によって異なるからこそはじめて影ができるのだ。つまり魔王の類いはこう言わなければいけない。

「光あるところに立体があればかならず影あり!」

だっせえ。



で、何の話をしたいのかというと、実は人間の視覚というものはぼくらが思っている以上に立体から情報を引き出すことに長けている。

ところが、病理で用いる顕微鏡診断では、その立体情報が大きく失われてしまうのだ。

病理組織診断では、細胞を細かくみるために、組織を4 μmというペラッペラなシートに薄く切る。向こうが透けて見えるくらいの薄さにする。

こうなると見えてくるのは細胞の断面ばかりだ。おかげで「核」という、もっとも重要な構造物をつぶさに観察することができるのだが、断面をみることによる弊害もある。

お気づきだろうが細胞の立体情報がかなり失われてしまうのである。




たとえばここに姫路城の模型があったとして、ルパン三世の相棒である五ェ門に斬鉄剣で斬ってもらう。ぼくはこのブログで何度か五ェ門を召喚しているが、主につまらないものを斬って欲しいときに呼び出すことにしている。

無事まっぷたつに斬った姫路城の断面をみて、断面だけを見て、姫路城の全貌を想像することができるだろうか?

……これはまず無理である。当たり前だが二次元情報から三次元情報をすべて類推することはできない(次元が足りない……ルパンだけに)(←今のこの一文、偶然だったので思わずアッと声が出た)。

ただ、断面から姫路城を完全に思い描くことは無理でも、実は、ある程度までなら想像できる。

たとえば断面に、姫路城の1階部分、2階部分という階層構造が見えていれば、建物は自然と「その階層を維持するだけの強度」をもっているはずだから、なんとなく敷地はこれくらい広いだろうなという想像がつく。

屋根瓦の部分はまあまず間違いなく屋根を同じように覆っているだろう、ということも類推できる。まあ、シャチホコの種類まではうまく断面が出ていないと想像はつかないが。



細胞をみるのもこれと同じだ。姫路城×五ェ門よりもさらに細かいプロセスがいくつかあり、ぼくらは、断面図だけから、細胞が作り上げる高次構造をなんとなく予測している。そして、診断の役に立てようと努力する。




さて、細胞の立体構造は顕微鏡では絶対に見られないのかというと、そんなことはない。

たとえば組織診ではなく「細胞診」という別の技術を使う。この手法では、五ェ門を呼んで断面を作ってもらうのではなく、細胞を外からそのままの状態で観察する。そのため、断面情報はやや弱くなるが、細胞の厚みとか、ちょっとした奥行きまで顕微鏡で確認することができる。

細胞診は病理医よりも病理検査技師のほうが得意な技術だ。それだけに、病理医の中には、細胞診はまあ勉強しなくていいかなと距離をとろうとする人間がいるが、ぼくから言わせると実にもったいない。偏屈だなあと思う。病理医に偏屈だって言われたら終わりだぜ。


そしてもうひとつ。

「連続切片」という手法もある。これは、五ェ門に断面を1枚だけ作ってもらうのではなく、何枚も何枚も連続して作ってもらうのだ。

ダダダダダダッ! みたいなかんじで姫路城を次々に断面化していくと、まるでアニメーションのように、擬似的に奥行きをみることができるだろう。

病理組織診断でもこの手法を使うことがある。ぼくはわりとこのやり方が好きで、いわゆるdeeper serial sectionの作成を技師さんによくお願いする。

弱点としては五ェ門が疲れるということと、断面をいっぱいみなければいけないぼくらが疲れるということ。

疲労と手間を度外視すれば、組織の奥行き情報が得られる「連続切片」はとても重宝する。




……五ェ門だけじゃなくて次元が出てきた時点で病理の解説はルパン向きだということがわかった。つぎはふじこちゃんだ。さあどうやって出すか……。

2018年11月13日火曜日

がんばれ元コンサドーレ札幌

原稿書きが一段落した土日に本を読んだ。

池袋の三省堂で選書フェアをやることになったとき、信頼できる編集者数人に「おすすめの本を教えて、ただし自分で編んだ本以外。もし自分が編集していたら最高に自慢できたろうな、っていう本を教えてください」と依頼したところ、熱いメールがおくられてきて、合計8冊ほどの本をもらったり買ったりして手に入れた。

どれもこれもおもしろい。

そしてちょっと沈鬱なきもちにもなった。



こんな本をすでに読んで「おもしろい!」と思っていた人間たちが、ぼくの書いた文章を読んで、感想をつけてくれていたのか……。

だとしたら、どれだけ退屈だったろうか。






プロサッカー選手が引退したあと、小学生にサッカーを教えるサッカー教室を開催することがある。

元プロは、目指せ、追い越せ、と笑いながら、ときおりすごいフェイントやすごいドリブルなどを見せる。

あるいは友人の現役サッカー選手を呼んできて、小学生たちに「本物の技術」を見せたりもする。

けれども、元プロがプロだったころは、海外のトップチームと戦ってボコボコにやられたり、代表戦で力の差を感じたりしたことがあったのだ。

自分が教える技術は「本当の一流」ではないんだということはよくわかっている。

そういうものを小学生たちは知ることがないし、知る必要もない。

けれども小学生も感覚としてはわかっている。

「この元プロもかつて目指したような、もっとはるか上があるんだよな」ということを。




ぼくは小学生より傲慢なぶんタチが悪かった。

しかし編集者というのは我慢強いものだ。

小学生に向かって大人にかけるような言葉使いで、何を長年待っているのか。

あるいはもう何かをあきらめてしまっているのか、あきらめていないとしたら、彼らはいったいどれだけの人に希望を見続けているのだろうか。




……そういえば彼らは「元プロ」ではない。現在まさにプロなのだ。

そのあたりが、元プロサッカー選手の開催するサッカー教室とはまるで違う点なのだろう。

2018年11月12日月曜日

病理の話(262) 科学と医学は同じくらい広い

実はそろそろエッセイの執筆を始めなければいけない。このブログ記事がのるころには、きっと書き始めているだろう。

エッセイの執筆依頼自体は1か月以上前にもらっていたのだが、なかなか本腰を入れて書き始められないでいた。理由は、「病理学の教科書」の原稿を書かなければいけなかったからだ。

ぼくは文章を依頼された順番に書いている。いつもは、複数の依頼を同時進行で進めていけるのだけれど、今回、「病理学の教科書」には、ぼくが今まで病理診断医として働いてきたことや、病理学の講義で教えてきたこと、あるいは日常的に医学に対して考えてきたことなどをすべて叩き込みたかったので、とりあえず他の依頼を後回しにした。

没頭したのだ。

おかげで病理の教科書は2か月ほどで書き上がった。単著の書き下ろしである。やれやれだ。

でも、もちろん、ここからがさらに長くかかる。編集者が全編を読み込み、デザイナーやイラストレーター諸氏に協力をあおぎながら、なんども内容をいじっていく。校正だって何度もしなければならないだろう。

けれども、少なくともぼくにとって一番大変な最初の山は超えた。ゲラができあがるまでの間は、むしろ、原稿の内容は忘れてしまったほうがいい。




そうまでして没頭したぼくだったが、実はこのブログに書いている「病理の話」をどうするかということには多少頭を悩ませた。

一方で病理学の原稿を書きながら、もう一箇所で病理の話かあ……。

書けるかなあ……。

もしかしたら、書けなくなっちゃうかもしれないなあ……。

同じ事を書くわけにもいかないしなあ……。




でもやってみたら造作もないことだった。結局この2か月のあいだ、ぼくはブログの記事については特に思い悩むこともなく、いつものように早朝や夕方に時間を見つけてバコバコとキーボードを叩き、毎回、公開する1週間前には予約投稿を終えていた。

この経験を通してわかったことがある。

「病理の話」というのは、きわめて題材が多く、まず書くことに困らない。

なぜかというと、病理学というのは実は医学と大して変わらないくらい広い世界を扱っているからだ。



  ……いや、包含関係というものがあるだろう。

  「医学」⊃「病理学」だぞ
  医学の中に病理学があるんだ。
  病理が医学と同じくらい広いってことはないんじゃないか。




そうやって怒られるかもしれない。けれども、実際、ぼくから見ると、病理学の世界はあまりに広すぎて、医学と病理学を比較したところで、広い VS 広い、くらいにしか感じない。

この話は何度も書いたので読んだことがある人もいるかもしれないが、ぼくはかつて、高校時代に、科学をやりたかった。物理学とか、宇宙理論を学びたいと思ったのだ。そして父親に相談をした。科学をやりたいんだけれども、と。

そしたら父親はこう言ったのだ。

「科学と医学は同じくらい広いんだから医者でもよいのではないか」。

ぼくはなぜかその言葉がとても気に入り、医学部を受験することにした。




科学と医学が同じくらい広いわけはない、と怒る人もいるかもしれない。

科学⊃医学だろう、と。




しかし今はわかる、医学というのは確かにサイエンスなのだが、なんというか、医療というか、医術というか、医情というか、医界とでもいうべき、サイエンスだけではすまない何かを常にぶら下げている。

中に入ってみるとよくわかった。

たしかに、医学は、科学に含まれる。けれども、医学の広さはまるで科学ほどに広い。




そして40歳になったぼくは今、こうして、ブログに、「病理学は医学並みに広い、書くことなんてちっともなくならない」とうそぶくようになっている。

ぼくが父親に例のセリフを浴びせられたのは16歳のころだから、今から24年ほど前のことだ。

当時の父親の年齢もわかる。詳しくは書かないがまあ今のぼくとそれほど大きくは違わない。




子はやはり親に似るのだろう。となるとぼくがこうして、「病理学は医学と同じくらい広いんだぞ」と偉そうに書いているのは、基本的に、息子にあてて書いている、と考えるべきなのかもしれない。





どうでもいいけど今後、エッセイの執筆をはじめると、「病理の話」じゃないほうの、日常エッセイのほうでかなりネタに苦しむかもしれない。書いてみないとわからないが。

だって日常というものは、病理学よりもはるかに小さい可能性があるからだ。もしそうだとしたらぼくはこの先どうすればいいのだ。

2018年11月9日金曜日

遠近両用

「人との距離感」というのは、その人それぞれ異なる「固有値」であり、しかも「固定値」であるような気がしてきた。

ぼくは基本的に他人との距離感を遠目に設定するタイプだ。

仲良くなって何度も会って、そろそろ少し深くて込み入った話もできそうだし、前提もだいぶ共有したからいちいち背景の説明をしなくていい、話していて楽な相手だなあ、と思っても、そこからあえて「距離」を縮めようとはあまり思わない。

よっぽど長期間にわたってなんらかの形で一緒の時間を過ごしていない限り、自分から積極的に連絡をとることもしないから、他者との距離はたいてい、時間が経つにつれて開いていく。

ぼくはその「遠くなった距離」のほうが心地よい……というか、近いままの距離感を保とうとする人があまり得意ではない。

「ご無沙汰してすみません」という挨拶も苦手だ。

長く会っていない相手に会うことになったとして、もし「ご無沙汰です」からあいさつをしなければならないとしたら、それだけで会うことが面倒になってしまい、なんだかんだと理由を付けて会わなかったりもする。

一方、10年以上会っていなかった相手とばったり会った時に、そういえば君は10年前にはあの曲が好きだといっていたが、今はどんな曲が好きなんだ、みたいに、すぐ今の話にもっていけるならば、それはなんだかすてきだなと思う。感傷もあとからわいてくる。



世の中には「仲良しグループ」というものがある。

ぼくは中学校でも高校でも大学でもまずそういうグループに入れなかった。理由はなんとなくわかっていて、ぼくは、そういうグループの持つ「固有の距離」が自分には少々近すぎるように感じてしまうのだ。

話をする相手との距離がだんだん狭まっていくのはまだがまんできる。しかし、その場に第三、第四と登場人物がいて、それぞれがまだ会話もしていないうちに自分との距離をじわじわと詰めていく状況がどうにも苦手で、対処がうまくできない。

距離が近いのが「嫌い」と言っているわけではない。

「苦手」である。

できれば近さに慣れてみたいと思ったこともある。けれどだめだった。

名も知らない相手にいきなりリプライを投げつける人はきびしい。初対面で敬語が崩れていくタイプの人もどう相手して良いのかがわからない。




世の中には、距離感」を相手によって使い分けられるタイプの人がいる。見ているとなんとなくわかる。この人は遠距離戦も近距離戦も選べるなあ、と感心する。

そういう人はたいてい、人の中心で輝いており、大きな仕事を成し遂げていたりする。

ただ、そういう人のことをよくよく(遠目に)観察していると、この人は本来、近い距離は「さばけるだけで、別に好きではない」のだろうな、と感じる。

根本のところでは相手と画然とした距離を取りたい。けれども、それでは社会で関係を結び続けることはできないから、近い距離をほどよくさばく技術を身につけているのだ。

ほんとうは真ん中低めを一番得意としているホームランバッターが、内角高めを技術でポール際ぎりぎりにスタンドインさせてしまう、みたいなイメージをもっている。





ぼくはもしかするとそういう技術を持ち始めているかもしれないな、とは思う。けれどもぼくの「固有の距離」は今でも遠距離だ。近距離をさばきまくった翌日、ぼくは全身がぐったりとつかれており、なんだか妙に感傷的な写真など撮ったり、長いブログの文章を綴ったりすることが多い。今日のブログはまだ短いほうであるが。

2018年11月8日木曜日

病理の話(261) 病理がちょっと苦手な病気

マンガ・フラジャイルの中にはさまざまな「診断困難疾患」が出てくる。詳しくは、「プレパラートをちょっとみただけではまず診断名が思い付かない病気」とでもいおうか。

診断名が思い付かないというのは、なにも、人間の記憶力や発想スピードに限界があるから、というだけの理由ではない(まあそういうこともあるにはあるのだが)。

たとえば……。




そうだな、ここで、マンガに出てくる症例を用いてしまうと、まだ読んでない人にとってのネタバレになってしまうだろうから、少しひねろう。

最近届いた雑誌をてきとうにめくって、目に付いた疾患の中から、「これは難しいなあ」というものをピックアップしてみることにする。




「胃と腸 2018年11月号(第53巻12号)」は「知っておきたい十二指腸病変」だ。これを頭から見直すことにする。すでに読み終わってはいるので、あのへんかなあとある程度目星をつけて読み進む。

……やはりこれだろう。血管炎だ。

血管炎というのは特殊な病気である。全身のあちこちの、大小さまざまな血管に炎症細胞が攻撃をしかける。自分たちが運ばれる道路を自分たちで壊してしまうのだ。渋谷のハロウィンみたいなものである。

大きめの血管に炎症が起こることもあれば、毛細血管に炎症が起こることもあり、実は「血管炎」といってもいくつかの種類がある。IgA血管炎と、顕微鏡的多発血管炎と、高安動脈炎と、川崎病では、それぞれ症状も違うし治療も異なる(ほかにもいっぱいあるぞ)。


血管炎の診断は皮膚や腎臓、肺などの専門家が行うことが多い。そして、しばしば……まれに、かな……胃腸にも異常が出ることがある。

そして、これが非常に難しい。なにが難しいって診断がしづらいのだ。

胃腸に異常が引き起こされる血管炎は、なんともとらえどころがない。

ピロリ菌による胃潰瘍・十二指腸潰瘍となんらかわりないように見えてしまうこともある。顕微鏡での診断はほとんど不可能だ。

これを例えるならば……。



渋谷の若者が騒いで警察にひっぱられるにはいくつかのパターンがある。

ハロウィン。正月。クリスマス。ワールドカップで日本が勝ったとき。

どれであっても若者は興奮して騒いで窓ガラスを破壊したり車をひっくり返したり川に飛び込んだりするだろう。

若者だけを拡大してみればそこにいるのはちょっと頭脳が足りなくてテンションが高い、でも凶悪な犯罪者などではない単なるいち日本人にすぎない。

若者だけをみて、仮装しているからハロウィンだろうとか、ほっぺに日の丸がついてるから日本代表の試合に関係があるのだとか、ある程度の推測はできるかもしれないが……。

まあわからないときは本当にわからない。

そういうときは、むしろ、若者を拡大するのではなくて、ニュースをみる。ほかの地域で起こっていることを知る。日本全体を把握する必要がある。




血管炎の診断もこれに似ている。

血管や炎症だけを顕微鏡で拡大してもなかなかわからない。

全身に何が起こっているかを臨床医と一緒にすべて把握して、はじめて顕微鏡で何が見えているかの意味がわかることがある。

こういう症例を相手にするとき、病理医は大きくふたつに分かれる。




A)そんなのは臨床医の仕事だ。顕微鏡で決められないものを病理医にわたすな派

B)病理にやってきたら臨床も病理も関係ない。俺も臨床情報に口出しして一緒に診断するぞ派




この2つは基本的に性格でわかれる。どちらがいいとは言い切れない。どちらもうっとうしくて暑苦しいことにかわりはないからだ。

ただ、真剣でさえあればよいとは思う。

2018年11月7日水曜日

鴨のイベント

札幌市中央区の書肆吉成(池内店のほう)は雰囲気のよい古書店だった。本店のほうには行ったことがあるのだが、このあたらしいほうの店ははじめてだ。

池内は、妙に値段の高いセレクトショップや突然のクッキングスクールなどがひしめく細長いビル、というイメージのファッションビルだ。いまはIKEUCHIと書くのだろう。三越、丸井、池内と漢字でおぼえていた時代がなつかしい。しばらくこないうちに中の店は少し入れ替わっていた。商品も安くなったように思えるが、そうでもないのかもしれない。

「浅生鴨トークイベント」に出席したぼくはごきげんだった。そもそも彼の書いた「どこでもない場所」はぼくの生涯のベストオブエッセイなので、トークが仮につまらなくても最高だったと言ったであろうが、トーク自体も適度な速度と温度と湿度で実によかった。出席者の大半はいかにも本が好きそうな女性たちで、ああ、札幌にもこういう人があちこちにいるんだよな、と少しうれしくなったりした。書肆吉成の代表はぼくとほとんど同い年で、軽くあいさつを交わしたのだが堂に入った本読みという風情で実に頼もしかった。

そういえばこの2日間で、多くの人間に会った。誰もがぼくの主たる仕事内容を全く知らないという珍しいパターン。だからか、ぼくはどこか出会いに他人事感覚を引きずったまま、はじめまして、光栄です、勉強します、うれしいですなどの対初対面汎用台詞を連発した。こういうときのぼくの「申し訳ない気持ち」はちょっとかんたんには名状しがたい。

芸術家とか音楽家とかいわゆる創作をするタイプの人間に畏怖というか本能的な怯えをもっている。ウェブにうるさいクリエイター(笑)とは違う本物の創作者たちがごっそりいたのでぼくは自分の気配を消したくてしょうがなかった。

サングラスをした浅生鴨は見た目もしゃべりかたもあごの使い方もどこかタモリに似ていた。ぼくは20年以上昔に読んだ本に書いてあったフレーズ、「男子たるもの死ぬまでに一度はタモリ倶楽部の準レギュラーになりたいものだ」を思い出していた。もしぼくがこの先ラジオ番組をもつことがあるならば、いつか彼をゲストに呼んで、ぼくは番組の間中ずっと萎縮していたいものだ、と考えながら、もうすぐもらえるであろう書籍へのサインに心をわくわくとさせていた。

2018年11月6日火曜日

病理の話(260) 情報をサーフィンする話

Spotifyべんりだなあ。

今まで集めた音源は、自分の聴きたい曲を聴きたい順番に聴くために今も重宝している。PC iTunes×Bluetoothイヤホンで仕事中ずっと流れている。

Spotifyには課金してないので、てきとうな楽曲リストを選ぶと、(自分で思った通りの順番にはならないが、)まあだいたい自分の好みにあった曲が、ほどよくランダムに流れてくる。

「ああ、そんなアーティストもいたな! そうだそうだ! いい機会だから全部聞き直してみようかな」

なんつって、Spotifyをきっかけに、新たな音源を買いそろえたりもする(けっこう買う)。





趣味に対するこのやり方を、そのまま、病理学に対する勉強においてもやっている気がする。

日ごろ買い集めた教科書、検索してストックした論文などは、毎日重宝している。公用PCとは別に私用PCをネット接続しているのはまさに文献を用いるためだ。

それとは別に、いくつかの雑誌を購読している。「病理と臨床」とか「胃と腸」はその代表だ。自分が連載をもっている縁で「Cancer board square」や「薬局」「治療」「Medical Technology」なども読む。「プチナース」「エキスパートナース」。ジャンルはさまざまだ。

これらの最新記事がいつもいつも、ぼくがそのとき必要とするど真ん中の情報を提供するとは限らない。

たとえば当院では脳外科の手術は行わないのだが、脳腫瘍の特集号が組まれていたりする。即効性がある情報にはならない。

けれどもこれがいいのだ。

そもそも病理というジャンルにぼくは元々興味がある……というか病理で暮らしている。ほどよくランダムに流れてくる勉強のタネを眺めていると、

「ああ、昔そういえば脳科学専攻の大学院にいたっけな! そうだそうだ! いい機会だからWHO分類でも読み直してみようかな」

なんつって、雑誌連載をきっかけに、新たな教科書を買いそろえたりもする(けっこう買う。




情報をインプットするルートは複数あるといい。自分が能動的に集める手段とはべつに、「ほどよく受動的に」あるいは「中動態的に」情報が入ってくる手段をもっておくと、ぼくは、なんだかいろいろと豊かになる気がするのである。

毎日、病院の食堂で、決まってBセットばかり頼んでいるが、ときおりびっくりするような新メニューが出てきて笑ってしまうというのもこれと似ている。完全に能動的にコンビニやレストランで昼食を済ませていたら、まず目につかないだろうメニューが出てきて、おいしくいただくことも、ままある。楽しい。しかし酢鶏ってなんだよ。豚にしてくれよ。

2018年11月5日月曜日

ウルトラセブン

雨音が強い。めんどうだなあと思う。車に乗るまでの短い時間でスーツをぬらすのがいやだな。

スーツがぬれたからといってどうということはないのだ。

体の中にばい菌が入ってくるわけではない。

スーツがひどく臭くなるわけでもない。ただの水だから。

それでも、一瞬の雨に打たれるのはストレスである。実務的には何のダメージもないにもかかわらず、だ。

「うまくやると避けられるかもしれないけれど、横着していると避けきれない、小さないやがらせ」のことをずっと考えている。

かさ差せよ。まったくその通りだ。

やむまで待てば? 何も間違ってない。

でも晴れていればこんなぐちぐちとした心配り自体をしなくてよかったんだ。ああ、雨はめんどうだ。




と、雨で思考訓練をしておくのである。

そうすれば日常の「いやなこと」も、あの日の雨といっしょかな、という感じで乗り切れる気がする。

めんどうくさがらずにさっとかさを差そう。

あるいは晴れるまで待とうではないか。家の中でもやることはいっぱいある。ぼくはまだ水曜どうでしょうの新作DVDを通しで見ていなかったじゃないか。ハヤカワTwitterが進めていたSF「ネクサス」をKindleで買ってからまだ1ページも読んでいないじゃないか。





ハヤカワTwitterはぼくをフォローしてくれない。人から聞いた噂によると、前担当のひとりが「あの病理医はなんかむかつくから、フォロー返さないでやれ」と、申し送りしたのだという。

えっ、マジで? 傷つくなあ。その噂、ほんとなの? とたずねた相手はニコニコしていた。

だまされたかもしれない。小雨がスーツをぬらす。

2018年11月2日金曜日

病理の話(259) 細胞だけで診断しろって言われても

病理医は「細胞をみて診断する」のだが、実際には細胞以外のものをかなりみている。

この話はよくポジティブなニュアンスで語る。臨床情報、主治医の考えていること、患者の訴えなどを総合的に判断したうえで、細胞をみて何かに気づくというのが病理医だ、とか。細胞だけみていては病理診断の真髄には触れられないぞ、とか。

でも語り口を変えることができる。「細胞以外のものにひっぱられる人間のサガ」に気づかずに、病理診断をやるのはちょっと危険だ、ということ。

今日の話は相当マニアックなので、病理医以外にはわからないかもしれないが、各自、「あーそういうこともアルヨネー」と、鷹揚にごらんいただきたい。




たとえば内視鏡医Aが依頼してきた検査だと、それだけで、頭の中には胃や大腸の病気が思い浮かぶ。

だって内視鏡医は胃や腸をみて診断する人たちだからだ。

細胞をみる前に、すでに、胃や腸の病気の名前がしまいこまれている「脳の引き出し」のロックがパチンパチンと解除される。

細胞をみはじめた瞬間からそれらの引き出しがいっせいに開いて、中から、「この病気かな?」「それともこの病気かな?」というように、名前が次々に飛び出してくる。

それをぼくらは選び取るのだ。



そして、そこそこまれに、「内視鏡医の依頼なのだが、胃や腸の病気じゃないケース」というのがある。そのとき、細胞を丁寧に丁寧にみていれば「ああ、これは胃腸の病気じゃないよ。」と気づけるのだが、これがまた、ほんとうに難しいのである。

たとえば婦人科の病気。子宮とか膣は直腸のすぐ前方にあるので、大腸の検査で子宮あたりの病気がみつかることがマレにある。

たとえば代謝の病気。全身になんらかの物質が沈着しているような病気で、たまたま胃や大腸に同じ沈着物がたまっていることがある。

たとえば血管の病気。全身の血管に異常がでる場合、ある確率で胃腸の血管にも異常がでることがある。

たとえば膵臓の病気。膵臓は胃の後ろ側にあるので、膵臓に何かがあるときに胃に変化が出ることがある。



「そりゃそうだよなあ、マンションの部屋がずぶぬれなとき、原因がその部屋の水道管にあるとは限らないよなあ、上の部屋の水道管が破裂して下の部屋が水浸しになっていることもあるよなあ。」

ちょっと考えればわかることなのだ。でも……。

おもしろいくらいに、病理医は、先入観に引っ張られてしまう。



毎日暗唱している。「内視鏡医が依頼してきたからといって胃腸の病気だと決めつけるな!」重要すぎるライフハックだ。それだけわかっていても! なお! うっかり見逃しそうになることがある。




臨床の診断学において、「検査前確率」ということばがある。医師たちは、意識してか、あるいは無意識にか、患者がやってきたときに患者の年齢や性別、見た目、しゃべり方、さらに最初に患者が言った話の内容などから、「この人はおそらくこういう病気ではないか」という、

 「まだ検査する前にみつもっておく、ある病気の確率」

というのを脳内で算出する。

病名A: 50%
病名B: 20%
病名C: 10%
病名D: 10%
病名E: 2%

といった具合に、だ。

そして、ここに診察や検査を加えていくことで、それぞれの病気の可能性を「あげたりさげたり」する。この検査が(+)だったら病名Bである確率は半分くらいになるなあ、みたいな感じだ。

病理医も実は同じことをしている。ただし、病理医がはじめて患者に出会うときには、すでに臨床医が多くの検査をおえた後であることが多い。まだなにも検査をしていないよ、とはいっても、「何科の医者がみることにしたのか」だけで十分な情報なのだ。胃腸の病気がうたがわしいから胃腸内科の先生がみているんだろう? 腎臓の病気が疑わしいから腎臓内科の先生が担当しているんだよな? というかんじで。

すると、病理医が頭の中でみつもる、病気の確率は、ときにこんな感じになる。

病名A: 98%
病名B: 2%
病名C: 0.1%
病名D: 0.1%
病名E: 0.1%
.
.
.

ほとんど病名Aで決まりだったりする。ガッチガチだ。

そのうえで、病理医は、「万が一病名Eだったら、俺がそれを見つけないと、ほかの医者はたぶん気づかないぞ」という役割を与えられている。これは、「ほぼ間違いなく病名Aだと思うけど、確定してくれよ」という依頼と、表裏一体だ。



これだけガッチガチの状況下で、なお、「細胞だけをみて、検査前確率をひっくり返す」というのは、思った以上に難しい。

だからこそ、「細胞をみるだけのことで」わざわざ単独の専門性を与えられ、飯が食えている、ということになるのだ。道険し。

2018年11月1日木曜日

わかったか恵三朗

なんか今ふと思ったんだけど、たとえばレオナルド・ダ・ビンチが死んだ時、周りにいた人は、「とても大きな損失だ」とか、「我々は偉大な天才を失った」とか、「これで科学の進歩はしばらく遅れるだろう」みたいなことを考えたのではないか。

でもまあ、その後、ぶじ科学は発展し続けている。レオナルド・ダ・ビンチがいなくても、だ。




きっとレオナルド・ダ・ビンチは、死の床で、

(あっ……今思い付いたアイディア……ものすごく多くの人のためになる……役に立つ……最高……でももう口が動かない……惜しい……)

なんてことを考えていたんじゃないかと思う。

彼があと数年生きていたら今の世の中に何を残してくれたのかはわからない。でも、まあ、それがあってもなくても、世界はこうしてなんだかんだで不思議にまわっている。

今となっては、どうしようもないし、どうでもいいことだ。レオナルド・ダ・ビンチにとって、いいことなのか悪いことなのかはわからないが。


こんなこと、様々な場面で起きていると思う。





ぼくはかつて、手塚治虫の訃報を聞いた際に、ある大人が、

「これで火の鳥大地編は永久にみられないんだ」

とつぶやいていたことを覚えている。

その後も世界は滞りなく回っているけれど、おっしゃるとおりで、火の鳥大地編は決してみることができない。

世界には、「あとで誰かがどうにかするから大丈夫だよ」というタイプの損失と、「誰にもどうにもできない、そこで永久に終わる」タイプの損失があるんだなと、そのころ、漠然と思っていた。





科学者というのは自分の物語に結論を用意しなくていい。生きている限り、学術を追いかけて、未完の科学を更新し続ければいい。最終回を担う責任みたいなものがない。

だから、科学者には後世のことをあまり考えずに、自分ができることを好き勝手に追い求めて欲しいと思うし……

マンガ家や作家はできればできるだけ長生きして欲しいなあ。

ふわふわ書き始めた着想が、文字に牽引されてモニタに縛り付けられていき、少しずつ固まっていく。

2018年10月31日水曜日

病理の話(258) 切り出し至高論

ある臓器の「切り出し」をしていた。

手術室で採ってきた臓器を、そのまますべてプレパラートにするわけではない。

病気の正体や、広がっている範囲、性質などがよくわかるような「クローズアップすべき場所」をきちんと指定して、その部分だけをプレパラートにする。

採ってきた臓器をナイフで切り、切り口をきちんと観察して、ここを顕微鏡でみれば診断が付くだろうというところを予測して、「切り出す」。

そういう作業だ。



将来的には、切り出しは病理医ではなく技師さんがやることになるだろう、という予測がある。実際、地方の病院では、病理医が足りないので技師さんによって切り出しが行われているし、北米の最先端の病院でも、切り出しは上級技師が担っているケースが増えているらしい。

話は病理の切り出しには限らない。

たとえば胃カメラ。胃カメラを入れるというのは日本では内視鏡医だけの特権であるが、アメリカだと、患者に胃カメラを飲ませ、胃カメラの先端を胃の病気の手前まで持っていくのはナース・プラクティショナー(NP)という看護師の仕事になりつつある。

心臓カテーテルなどもそうだ。カテーテルという特殊なデバイスを心臓の冠動脈まで運ぶ仕事もNPがやるらしい。

これらは、日本では、合併症が心配だとか、特殊な技能を必要とするとか、なにより医師が主導して開発されたとかさまざまな理由により主に医師が行っている。

けれどもアメリカの合理性からすると、「そこで医師がでしゃばる意味がわからない」のだそうだ。

手先の技術や、限定的な状況でのトラブル対処は、別に医師がもっとも上手に行えるとは限らない。

手先の器用さでいうならば医師よりも宮大工さんやビーズアーティストさんのほうがはるかに上だろう。

医学部で医学をたっぷり勉強してきた、ということが、デバイスの扱い方に何か有利かというと、そんなことはあまりないわけである。




医療はどんどん分業すべきだ。切り出しに必要なのは、医師がもつ「優位性(*)」ではなく、技師のような専門職がもつ緻密さ・手際のよさである。だから、あえて切り出しを病理医にまかせておくことはない。

((*)優位性、というのは、医師が病院の中でさまざまな責任を最後にとる職種であるということ、さらにチームの中でも各部門との連携が多いハブ空港のような存在であること。IQが高いとか知識が多いみたいな話は、IoT時代が進むにつれてだんだんどうでもよくなっていく。所詮人間の知能なんてコンピュータから比べれば50歩100歩だからだ。)




いずれは病理医がやらなくなる作業かもしれない。

でもぼくは今、病理医として、切り出しをする。

日本は遅れているから、技師さんにお願いすべき仕事を医師が抱え込んでいる?

人が足りないから、職種に関係なくやれることはすべて目に付いた人がやっていかないといけない?

まあそういう理由もある。

けれど、もっと大事な理由がある。

切り出しは「あとでプレパラートを見て診断をするときの参考になる」のだ。参考になるというか、肉眼で臓器をみるだけで、プレパラートをみるまえに9割方診断を終わらせることができる。

臓器を直接みることは、CTやMRIに映っていた病気の「影」の本体をじっくり探ることにひとしい。

言ってみれば、切り出しというのは画像診断の一種だ。

CTにおけるX線、MRIにおける磁気、エコーにおける超音波と同様に、「目で可視光をみている」。

だから、CTやMRIの画像診断を医師が行っている限り、切り出しも医師が行った方がいいだろうな、と思っている。




いずれは、CTもMRIも医師が解釈しなくてよい時代がくる。

そのときぼくらの「切り出し」も医師の手を離れるかもしれない。

ルーチンワークとして切り出しをする必要性はだんだん薄れていくだろう。

書道やそろばんを習う子どもが減っているように。

切り出しを習う病理医も減っていくのだと思う。




ではそのとき病理医は代わりに何を勉強するのだろうか?

書道やそろばんのかわりにコンピュータ。

切り出しの代わりに統計学とベイズ推計式診断学。AIの知識。

まあそのあたりになるんだろうな。




……ただ、ひとことだけ書いておく……。

「切り出しをはじめとする形態診断は、基礎研究のきっかけを産む」。

だからほんとうは人の手を離れてはいけないように思っている。

思っているけれど、事実、切り出しをまともに学べる場所はどんどん減っているようなので、ま、理想論をふりかざすのはほどほどにしておこう。

2018年10月30日火曜日

パルコをネイティプっぽく発音するとペァルッカァになるの

「いんよう!」という名前のウェブレイディオを先輩といっしょにはじめてそろそろ3か月が経とうとしている。

会話の内容としてはふだんぼくらが会って話す時の内容とほぼ変わらないので、収録のストレスはほぼない。「ほぼ」と少し表現をゆるめたのも、スカイプなどで遠隔通話をしながらネット用の音源を確保するのに苦戦したからであって、会話自体にはあまり問題を感じていない。

だからまあふだんのぼくがそのまま出ているということになる。そして、あらためて、自分がしゃべっているところを時間を置いて聞くと、いろいろと感じるところがあった。

中でもいちばん「あぁ……」と思ったのはぼくのあいづちだ。

自分で思っているタイミングよりも、レイディオから聞こえてくるぼくのあいづちが、0.5秒とか1秒くらい、遅い。

まったく軽妙ではないのである。



先輩はそれに慣れているのか、ぼくのあいづちが遅れてもあまりペースを乱されずに喋り続けている。また、ぼくが何か言ったときの先輩のあいづちは適切なタイミングだ。どちらかというと先輩のあいづちの打ち方が、ふだんFMやAMレイディオで聞いている「普通のレイディオのタイミング」に近い。

ではぼくのあいづちが遅れているのは……。

それも、ぼくが自分では気づかないうちに遅れているというのは、なぜなのだろうか。




と、いちおう疑問形で書いてはみたけれど、実はぼくの中にはひとつの答えがある。

それは、

「先輩のいうことをすべて考えてからあいづちを打とうとしているから、思考に要する時間の分だけ、遅れる」

だ。




レイディオにおけるあいづちというのは本来、相手の話を聞いていますよ、とリズムを与えるためのものである。でもぼくは、レイディオ的お作法を無視して、先輩から届いた言葉を毎回咀嚼して、自分の中である程度の結論ができた時点で「ふむ」とか「なるほど」「あぁー」などと返答している。

つまりぼくの「ははぁー」や「おっどういうことですか」は、会話のためのあいづちではない。

自分のためだけの感想なのだ。





ブログのような一人語りでは、ツッコミを読者にゆだねたまま完全に自分のペースで記事を書く。ツイートにはリプライという返事があるが、これも決してリアルタイムではない。ぼくはこれらのツールが「即時の反応を要しない」ことにずいぶん助けられている気がする。もともと、当意即妙な返しよりも、沈思黙考した返しのほうがいいと考えている性分なのだ。




だいたい今日の記事にしたって、みなさんはきっと、「なんでレイディオって書くんだよ、ラジオって書けよ」と言いたくてしょうがなかっただろう?

でもそのツッコミは、決して間に合わないのだ。ぼくはネット上で、そういう時間軸に生きている。さて、決して録音などされていない、日常会話については、ぼくはどういうしゃべり方をしているのだろうか……。


2018年10月29日月曜日

病理の話(257) 男女七歳席を同じゅうしてスプラトゥーンする

隔日で病理の話を書いてきて今あらためて思うことなのだが、病(やまい)の理(ことわり)のことを語ろうとおもうとき、大事なのはやはり正常を知ることだ。

もう今まで何億回も様々な人によって言われて来たことである。

異常を知ろうと思ったら正常を知れ。

正常がわかってはじめて、それが崩れた状態として異常を定義できるのだ、と。




ただねえ人体ってそれこそ若者っぽく言うと「異常」なんだよ。

「ありえねぇ」と言ってもいいかな。

「ヤバい」でもいい。

「エモい」でもいいけどニュアンスが少し違う。




何が異常かっていうと結局因子が多すぎることなんだ。

「異常に因子が多い。」

たとえば、止血という仕組みひとつとっても、そこに関与するタンパク質とか細胞外基質の数がいくつあるのか、未だによくわかっていない。

医学部の学生が2年生くらいのときに絶対に苦労する、凝固カスケードの図。第VIII因子がどうとかいうあれ。

あれってまだ完全じゃないんだよ。学校ではいかにも「解明された」みたいな顔をして書いているけれども。

実際、体の中で、微小環境の中で、どの因子がどれくらいのスピードでどう酵素反応をおこしているのか、そこに関わっている因子はこれで全部なのかなんてのが、まだまだよくわかっていない。

今でも新しい実験結果が出てきたりする。




ゲノムプロジェクトというのがあってね。人間のDNA……プログラムだよ、人体のあらゆる細胞の挙動を決めているプログラム……を全部解読しよう、ってのをやったのよ。人類は。

で、まあだいたい全部読んだの。ゲノム情報はすべて解析おわった。

けれどそれは、プログラムの文字列を全部読みましたっていうだけでね。

およそこれくらいの数、タンパク質が作られているだろうっていう予測も立ったんだけど……

タンパク質どうしがどうやってくっついたり離れたり、お互いをいじって形をかえたりしているか、なんてのは、実はDNAに書かれていなかったりする。

すごいゲスな例え話をしていいかな?

プログラムのなかに、「男のコと女のコをひとりずつ、部屋の中にいれて、1日放置する」って書いてあるとする。

そしたらほら、おじさんたちはたいてい、いやらしいことをするって想像すると思うんだけども。

部屋ってのがくせものでさあ。

そこは昔から今にいたるまですべてのゲームソフトが所狭しと置かれているかもしれないし。

3代目JSBのライブのパブリックビューイング会場かもしれない。

あるいは実は宇宙空間かもしれない。

部屋によって、男のコと女のコが何をするかなんてまるでかわってくるじゃない。

でもDNAには、「男のコと女のコを作る」としか書かれてなかったりするんだ。そういうことがマジである。

おまけに、DNAの外側に、「ただし男のコは男のコが好きとする」みたいな但し書きがついてるかもしれないし、そんなものはついていないかもしれないんだ。




ね。

人類がさあ、結構な本気を出して、必死で調べてこれ。

何にもわかりゃしない。

無限にわからない。

異常としかいいようがない。わかっているのは、その異常によって、正常なぼくらができあがっているということだけ。






……正常を知れ、異常を知るのはそれからだ! とかさあ。


どの口が言ってんだ、って話だよな。

2018年10月26日金曜日

脳だけで旅をする

老化したことでようやく言動と見た目年齢が一致した。

そういう日はくるのだ。昔の自分に教えたい。40からが俺だ。楽しみにしておけ、と。

スーツを何の違和感もなく着崩せるようになる。

ガード下でもバーでも好きな場所で存在感を消せる。

コンビニで店員さんにまっすぐお礼を言える。

今がチャンスだ。今こそ飛び道具以外の勝負ができる。



ジャケットをデスクの横のハンガーにかけ、ノーネクタイのワイシャツに腕まくり、革靴を脱いで不健康サンダルに履き替えて、足が蒸れないようにときおり椅子の上であぐらをかきながら、外付けBluetoothのキーボードをばかすか叩いている。ときおり研修医が尋ねてくる。「今日はどうしました」と声をかける。

医師免許を持っていれば、高確率で使いこなさなければならなかったはずの言葉。

患者に向かって、「今日はどうなさいました」。

ぼくはとうとうこれを患者に言わないまま40歳になった。そもそも患者に会わない仕事なのだからしょうがない。

あこがれのホコサキを研修医に向ける。「今日はどうしました」とかまえて傾聴の姿勢。研修医はストレートネックになってぼくに資料を渡す。ぼくが敬語を崩さない以上、研修医はより強い敬語を使わなければいけない……。

なーんてことはない。

けれど昔のぼくはそう思っていた。敬語を使いこなす上司にはそれ以上の敬語でへりくだらなければ失礼ではないか、と、半ば本気で信じていたのだ。




形だけの敬意って心地よいんだなあ。




笑いが止まらないのでそのまま会話を続ける。黙っていると吹き出してしまいそうだ。ぼくより髪の毛が黒く、ぼくより無駄な体脂肪が少なく、ぼくより肌つやのいい、視力はちょっと悪そうだけれど性格ほどではなさそうな、熱心で、将来性のある研修医が何やら説明をしてくれる。

ぼくはほほえましい気分になる。ああ、優秀だなあ。人間というのは本当に優秀だ。




年を取ると、若者が愛おしくなるように、遺伝子が命令している。

人間ってのは本当に優秀だ。





老化したことでようやく言動と見た目年齢が一致した。

そういう日はくるのだ。昔の自分に教えたい。40からが俺だ。

40からの俺は自己顕示欲を乗りこなせるようになった。存在感を飼い慣らせるようになった。無駄な背伸びをしなくても、年齢と見た目だけで、自動的な敬意が集まるようになった。もう十分だ。

ここから、ようやく、内面だけで勝負ができる。

ひたすらに本を読み、知恵を使って生きていく。

思った以上に、脳に貯金はできていない。

なりふりを整えなければいけない時期は過ぎた。

もう、守ってくれる「若さ」はないのである。

2018年10月25日木曜日

病理の話(256) 連想オタク早口談義

256というとやはり思い出すのはゼビウスだ。

……いや、「やはり」と言われても困るだろうけれど。

連想というのは、他人にはなかなかうまく説明できない。

説明しようと思えば言葉を尽くせる。

当時、ゼビウスというファミコンソフトがあり、それに出てくるバキュラという敵がいた。ゼビウスでプレイヤーが操作するのはソルバルウという名前の戦闘機で、前方からピュンピュンとビームが出る。そのビームでたいていの敵を倒せるわけだけれど、バキュラだけは倒せない。バキュラは一見するとリフォーム業者がもってきそうなタイルの見本みたいなそっけない板状をしているのだが、こいつがくるくる回転しながらこっちに飛んでくると、ソルバルウが何発ビームを撃ち込んでも倒せない。だから交わすしかない。ちょっといやな敵だったのだ。そして、小学生達もみな一様にバキュラを「おかしいやつだ」と思った。だからだろう、都市伝説がうまれた。バキュラに256発ビームをあてると倒すことができる。ぼくの友だちの兄ちゃんの知り合いがナムコに勤めていて、ナムコの会議室でソフトのプログラムをこっそり見たら、そう書いてあった……。ぼくの周りで流行ったうわさはだいたいこんな感じだった。すごいな、友だちの兄ちゃんの知り合い。ナムコの会議室でプログラムをこっそり見られるなんて……。そのころ、256という数字がもつ意味はよくわからなかったけど、のちに、さまざまなゲームソフトで、HP(ヒットポイント)の上限が255だということにピンときたぼくらは、「ファミコンでは0から255までの256通りで物事を表すと何かいいことがあるのだろう」と勝手に解釈をし、しかもその解釈はそれほど間違っていなかったのだけれども、後にでてくる「256メガのメモリ」みたいな言葉にも「あっ」と思ったし、中学校に入る頃に2の8乗が256だということを聞いて、二進法とコンピュータの関係を聞いて、そうかーそれで256が大事なのかーとわかったようなわからないことをつぶやいたりした。以上より、256といえばゼビウスなのだ。

……とまあこんな感じだ。説明しようと思えばできる。

けれど、この説明、だれが喜ぶだろう。

おじさんの昔話だ。ファミコン小学生の淡い思い出でもある。だから確かに刺さる人は多少いるかもしれない。

けれども大多数の「ふつうの人」にとっては、オタクの早口のざれごと、くらいにしか感じられないだろう。

それを知っているぼくたちは、「256というと何を思い浮かべるか」という質問に対し、そもそも「ゼビウス」とは答えない。

一般の人が多少ひっかかってくれる程度の言葉をうまく使う。自分が本当に導いた直感をそのまま伝えることはしない。

「256ですか? そうですね……別に思い入れはないですね。むりやり何かと結びつけるなら2の8乗ってことですけれど。あれ、あってますよね。2,4,8,16,32,64,128,256。あってたあってた。でもだから何だって話ですよ。」

もはやゼビウスどころかバキュラのバすら出てこない。それでいいのである。






アポトーシスというとやはり思い出すのは薬剤性腸炎だ。

……いや、「やはり」と言われても困るだろうけれど。

連想というのは、他人にはなかなかうまく説明できない。

説明しようと思えば言葉を尽くせる。

アポトーシスという用語があり、病理組織学の世界でも観察することができる。病理診断で病理医が観察するのはHE染色という方法で染められたプレパラートで、ヘマトキシリンがピュンピュン飛んでワイシャツに付くとぼくはがっかりして倒れる。そのヘマトキシリンでたいていの細胞核がきれいに見えるわけだけれど、アポトーシスという現象もまた見ることができる。アポトーシスは一見すると幼稚園児が描きそうな宇宙の絵みたいなそっけないつぶつぶの集まりみたいな像をしているのだが、こいつは細胞がプログラム死つまり自分で死んだときのサインであり、周囲の細胞に悪影響を及ぼさない。だから細胞一個がひそやかに死ぬ。ちょっとけなげな細胞死である。そして、昔の病理医たちはみなアポトーシスを「おかしいやつだ」と思った。だからだろう、アポトーシスの意味が研究された。正常の細胞でも低確率でアポトーシスに陥ることはある。ぼくの友だちの兄ちゃんの知り合いが昔かかった病院の院長の友だちの師匠が病理医でアポトーシスの研究をしていてそのことを教科書に書いていた。すごいな、友だちの兄ちゃんの知り合い(略)の師匠。アポトーシスで論文を書けるなんて……。学生のころ、アポトーシスという所見がもつ意味はよくわからなかったけど、のちに、さまざまな病気の組織で、アポトーシスが異常に観察されることに意義があると知ったぼくらは、「なんらかの生体反応の結果、一部の細胞が普段よりも多くプログラム死に突入することがあるので、逆にアポトーシスがあれば診断の助けになることがあるのだ」と勝手に解釈をし、しかもその解釈はそれほど間違っていなかったのだけれども、後にでてくる「薬剤性、とくにNSAIDs関連消化管炎症」みたいな病態でアポトーシスがみられると知って「あっ」と思ったし、大学院に入って研究をしているとアポトーシスを回避するメカニズムを発現しているがん細胞はやはり生存戦略を多めに持っていると習って、そうかーそれでアポトーシスが大事なのかーとわかったようなわからないことをつぶやいたりした。以上より、アポトーシスといえば薬剤性腸炎なのだ。

……とまあこんな感じだ。説明しようと思えばできる。

けれど、この説明、だれが喜ぶだろう。

おじさんの自分語りだ。病理大学院生の淡い思い出でもある。これが刺さる人はちょっと珍しいかもしれない。

大多数の「ふつうの人」にとっては、オタクの早口のざれごと、くらいにしか感じられないだろう。

それを知っているぼくたちは、「アポトーシスというと何を思い浮かべるか」という質問に対し、そもそも「薬剤性腸炎」とは答えない。

一般の人が多少ひっかかってくれる程度の言葉をうまく使う。自分が本当に導いた直感をそのまま伝えることはしない。

「アポトーシスですか? そうですね……別に思い入れはないですね。むりやり何かと結びつけるなら学生時代に最初にならったとき、スペルがapoptosisって書くんですけれど、そのことを教授が『アポプトーシスって読むやつは素人。2番目のpは発音しない』ってドヤ顔で言ったのがなんかむかついた、ってくらいですかね。」

もはや薬剤性腸炎どころか病理のビョすら出てこない。それでいいのである。

2018年10月24日水曜日

サンダルには足つぼマッサージ用の突起がついている

クラシックの声楽がテレビで流れていた日に、タイムラインで複数の人間たち(推測)が、

「歌詞をタブレットで見てる」

「すごい、タブレットだ」

と指摘していた。そうかあそういうことなのかあ。まあそうだろうなあ。

ピアニストだって今や紙の譜面を使わなくてもいいわけだ。

そのうちウェアラブルデバイス……Googleメガネ的なアレにも歌詞が浮かぶようになるだろう。

拡張現実内に歌詞が浮かんだら、ださいときのミスチルのPVみたいな風景がみられて楽しいかもしれない。

技術革新が進むとサイバーパンクな叙情がそこかしこに顔を出す。




「パソロジスト・コックピット」ということばをはじめて聞いたときには小躍りしたものだ。まるでガンダムの操縦席みたいに、デスクの前、左右に複数のモニタを配置して、それぞれをタッチパネルで直接操作しながら、顕微鏡画像を拡大縮小したり、別のモニタに内視鏡画像を投影したり、マッピングを画面上で行ったりできるのが未来の病理医(パソロジスト)のやりかたなのだそうだ。カナダのように遠隔病理診断が進んでいる国では、すでにこのコックピット形式が導入されているという。いいなあ、やってみたいなあ。

……でも、よく考えたら、ぼくもすでにパソコンは2台使っているし、キーボードは3つある(遠隔キーボードにすることで首を保護している)。見ようによってはコックピットである。ガンダムほどではない。ジムくらいだ。




昔の忍者は、麻のタネを庭にまいて、芽が出たら毎日それをジャンプで飛び越えて、ぐんぐん大きくなる麻を必死で飛び越えているうちに人ん家の壁が飛び越えられるようになったそうだ。ぼくは、じわじわとサイバーな世界になれていくうちに、自分がすでに昭和の自分からみたら驚くほど未来に生きているのだということに気づかないでいた。



でもいまだにボールペンを胸に挿している。そういうものなのか。そういうものなのだろう。

2018年10月23日火曜日

病理の話(255) 小石を見て河原を語ること

胃、大腸、肺。

鼻の穴、耳の中、膣の奥。

これらは、チューブ状のカメラを使ってのぞきに行くことができる。

人間というのはかなり凹凸が多い。ミクロに小型化したぼくらが、体の表面に着陸して、そこをずっと歩いて行くと、皮膚から口の中、食道、胃、十二指腸とずんずん歩いて行くことができる。十二指腸でファーター乳頭と呼ばれる火山の中に入れば、その先もまた延々とつながっており、肝臓や膵臓まで達することができる。

歩いた先で、小石を拾うように、自分の立っているところの粘膜をつまみあげる。

なにか周りの床とくらべてごつごつしていたからだ。気になったからだ。

それを体の外に持って出て、病理検査室に回す。



拾った小石を薄く切ってプレパラートにする。

病理医がみる。小石の成分を分析する。

がんだ。あるいは、がんではない。

そのような「診断」がくだる……。

これが病理診断だ。



しかしちょっと待って欲しい。

その小石は、あなたが歩いていた床の「すべて」を反映しているだろうか?

たとえばその床はステンドグラスのような模様をした色鮮やかな床だったかもしれない。

そのステンドグラスの赤い部分だけをみて、「ああ、そこはステンドグラスがあるんだよ。」と、言い当てることができるだろうか?

無理だろう。

病理医は常に、「一部しかみていない」ということを忘れてはいけない。




……ただ、付け加えておくと、病理医は先人から論文として受け継いだ集合知(エビデンス)を持っている。

人体において床がステンドグラスのような多彩な模様「にはなりにくい」ことを知っている。

実際にそこを歩いていた内視鏡医が証言してくれればなおいい。

たとえひとかけらの小石であっても、内視鏡医が、

「その赤い小石は、一面真っ赤な地面からひとつ拾ってきたやつですよ」

とコメントしてもらえば、なんの問題もないのだ。



 さて、赤い地面から拾ってきた赤い石を顕微鏡でみたとして、そこに映っているものが「緑のコケ」だったとする。

そこで「あなたがとってきたものは緑色のコケでしたよ」と報告する病理医がいたとしたら、困る。

探検して赤い地面をみつけて赤い石を拾ってきた、と、探検家(臨床医)が言っているのに。

顕微鏡でみてみたら緑色のコケでした。

それは「不一致」だ。何かおかしい、と思わなければいけない。



そこでたとえばdeeper serial section(深切り切片)をきちんと作成できるかどうか……。

(小石の表面にこびりついているコケの部分しかみることができないでいる。だから、小石をもっと深く削ってもらって、小石のど真ん中をきちんとプレパラートにしてもらおう!)

と、「ピンときてサッと対処」できるかどうか。




そこをできるのが病理診断医であり、そこを求められるがゆえに、病理診断には特殊な免許が必要とされる。




・赤い小石とは思えないような検体でしたが、きちんと深く切ったら確かに赤い小石でしたよ。
・赤い小石に見えますけれど、特殊な光をあてると実は別の色にも光るんですよ。
・赤い小石を拾ってきたとおっしゃいますが、実は赤い小石の下に、茶色い地面があったんじゃないですかね?
・赤い小石が落ちているときには、違う場所に、黄色い稲穂がわさわさと揺れていることがあるんですが、そういうのはありませんでしたか?




ここまでやるから病理診断医だ。

ただ小石をみて感動するだけならばそれは「病理見学者」である。





……ただ、実をいうと、「病理見学者」であっても、給料はもらえる。

この話をすると長くなるのでやめる。

2018年10月22日月曜日

高橋達郎先生

釧路にいる。毎月釧路にいる。月一回、出張でやってくる。

はじめて釧路に来たのは2005年くらいのことだから、今から13年ほど前だ。ぼくは当時大学院生だった。

病理診断のバイト先として浮上した釧路の病院。そこには、高橋先生というベテラン病理医が勤務していた。

ぼくには師匠が何人かいる。そのうちの一人が高橋先生だ。

彼は13年にわたり、ぼくを指導してくれた。月一度程度の顔合わせではあったが、高橋先生の知見はいつも深淵で、ぼくは毎月彼の診断手法を学び、彼が公費や私費で買いそろえた教科書の背表紙を写メに撮って、札幌に帰ってから購入して勉強したりした。

彼は読書家だった。ぼくは彼をとても尊敬していた。

あまり酒は飲まないが飲み会ではにこにことしていた。野球が好きで、高校野球で活躍した選手がその後プロ野球でどのように活躍しているのかを熟知していた。長嶋茂雄の時代以前から今日にいたるまで、ことこまやかに。

小柄だが姿勢がよかった。




釧路の病理診断は、ぼくにとってはとてもハードワークだった。あまり知られていないことだが、病院の立地条件や地域の人口、医療圏の規模などによって、病理診断をする病気の種類がだいぶ違う。自分がふだん勤務している病院の症例に”慣れる”と、ときおり釧路で経験する見たこともない症例の難しさに面食らう。かたっぱしから教科書を調べ、毎月ヒイヒイと泣きごとをいいながら診断を書き、高橋先生の指導を仰いだ。




先生は、怒りや悲しみをそのまま表に出さずに言葉で練り上げるのが巧みだった。




若い病理医は地方で仕事をしたがらない。当たり前である。地方に行けばそれだけ師匠の数が減る。若手にとって、病理診断という訴訟リスクの高すぎる仕事を、師匠の手を借りずに(責任を分散させずに)自分だけで請け負うことはリスク以外のなにものでもない。顕微鏡をみて書くだけの仕事ではあるが、それだけに、孤独に顕微鏡だけを見ていても自分の世界はいつまでたっても広がらない。……正確には顕微鏡を見ながら世界を広げる方法もあるのだが、それに気付くためには経験と達観が必要なのである。

だから、釧路の常勤医はいつまでたっても増えなかった。

先生は一度定年したのだが、次の病理医がいつまでも決まらないので、そのまま嘱託再雇用され、相変わらず病理診断を続けていた。




ぼくは彼に何度も釧路に誘われた。

「市原先生が釧路に来てくれたら安心なんだがなあ」

ぼくはその誘いを何度も断った。そして、毎月勉強させてください、大学とは関係ない個人の出張で恐縮ですが、ぜひお手伝いをさせてくださいと、長年言い続けた。

彼はいつもおだやかに感情を練り上げながら、ぼくにいろいろな診断学と、いろいろな文筆手法(診断書を書くには文才が必要なのである)、さらにはいろいろな哲学を教えてくれた。




ぼくには、札幌で師事している父親のような師匠がいる。名前をMという。Mと高橋先生は、同じ職場で長年仕事をしてきた同士だったそうだ。高橋先生のほうが4歳ほど年上だったがほとんど同期のような雰囲気であった。おもしろいな、と思ったのは、札幌と釧路にわかれてもう20年以上経つにも関わらず、彼らの書く病理診断書の文体がどこか似通っていること。ぼくは日ごろ、札幌でMの指導を受けているから、ぼくの文章もまた彼らと似ていたのだろう。高橋先生は社交辞令交じりにいつも、

「市原先生の病理診断書は読んでいて安心する」

と言ってくれていた。







ぼくは彼の死因を詳しくは知らない。

20年以上にわたりずっと単身赴任だった生活についにピリオドをうったのは今年の3月。そもそも一度定年してから延長して働いていたわけで、いつやめてもよかったはずなのだが、臨床に求められるまま、ぼろぼろになるまで働いた。4月には札幌の自宅に戻り、おだやかに過ごしたという。夏が過ぎたころ、亡くなった。

かれこれ2年半ほど前にみつかった大腸癌はかなりステージが進んでいた。彼は高すぎるインテリジェンスで自らの死期を冷静に探り、

「平均余命なんて所詮中央値だから、あと何年生きるとか死ぬとかいうのはあまりあてにならないが、そろそろ店じまいの準備だな」

と言いながら、それでも2年以上働き続けていた。経過中、間質性肺炎の悪化によって何度か抗がん剤の投与を見送ったりもしたが、それでもなんとかバランスを取りながら、はたらき、抗がん剤をうち、はたらき、わずか3回ほどではあるが、ぼくとも酒を飲んでくれた。




札幌で行われた通夜にて、釧路から目をはらしてやってきた技師さんたちとあいさつをし、札幌の師匠Mと隣り合って座り、高橋先生の死に顔を間近にみて手を合わせたところまでも泣かずに済んだ。大学の教授、前教授、お偉方などひととおり挨拶を済ませ、さあ、家に帰ろうというとき、高橋先生やMと一緒にかつて働いていた、旭川医大の某講座の教授とふと会って、彼の顔を見た。

高橋先生は、多くの一流病理医たちに認められ、釧路での孤独かつ久遠の病理学人生を全うし、最後には、もう何年も一緒に働いていなかったはずの旭川の教授をまるで子供のように泣かせていたのだな、と、そこでようやくぼくもおいおい泣いた。




この原稿を今、こっそりと、釧路の病理検査室の片隅で書いている。あと15分で空港に向かい、ぼくは札幌に帰る。また来月ここにやってくる。

2018年10月19日金曜日

病理の話(254) 登山番組におけるカメラ配置の話

病理医になるにも訓練がいる。実際、ぼくは40歳になってもまだ、「病理医になるための訓練」を続けている。

きれいごとをいうならば「一生勉強」だ。人間というのは結局そういうものである。

悟れ。いつまでも、”権化”にはなれない。



……けれどもまあ、我々は、ある程度年を取ったならば自分で働いて、給料をもらって飯を食い、ベッドを整えてきちんと眠り、ときおり楽しく遊んで世の中をかきまわさなければ生きていけない。

「ぼくなんて生涯半人前ですよ。仕事をきちんとできる日なんて来るんですかね」

……そんなことを言っていては自分も飯を食えないし、自分の仕事をあてにしている他人も困るのである。



たとえ不完全であっても、どこかの段階で、責任をとらないといけない。

不完全には不完全なりの「担保のしかた」というのがある。

医療の世界には、「不完全なものどうしが相互に見守ることで完全を目指すシステム」が存在する。




かつて、150年ほど前には、病気というものは単なる「症状」にすぎず、「死をまねくもの」とか「体調不良をまねくもの」くらいの意味合いしかもっていなかった。メカニズムがわからなかった。本体がみえなかった。しょうたいがつかめなかった。

それが、解剖学の登場によって、「病気には形があるんだな、原因があるんだな」ということが少しずつわかるようになった。

それからしばらくの間、解剖学、さらには病理診断学というのは「答え合わせ」を与える学問としてあがめられた。

病理診断は絶対であった。

患者がどのような症状をうったえ、顔色がどうなって、尿がどういう色をしていて、血液がどう動いているかはすべて「サイン」にすぎない。

病理医が胃を直接みて、「胃がんです」と言えば、それは胃がんだった。定義する立場だったのだ。




けれども、昔も今も、病理医は間違える。人間は間違える。

「絶対だ」が間違いということも山ほどあった。

定義する人が間違え続けていた。それをよしとしなかったから、医療は発展してきた、ともいえる。




人類は少しずつ、病理診断の使い方を変えた。

病理診断を、回答とか定義として扱うのをやめた。

「医者たちが間違えないために、ひとつの病気を異なる視点から見るためのシステム」

として使うことにしたのである。




臨床医が患者の話や診察結果、血液データから導き出す診断は「ひとつの正解」。

CTやMRI、内視鏡、超音波などで体の構造を映し出す画像診断もまた「ひとつの正解」。

これらは、違うものを見ているのではない。

富士山に登るためにいくつもの登山ルートがあるが、どれを選んでも最後にはひとつの山頂にたどりつくのと同様に、臨床医の診断と画像の診断とは「ルートが違い、同じ山頂を目指すもの」だ。

病理医もまた、病理診断をもちいて、同じ山頂に別ルートからアプローチをする。

それはもしかすると登山ではなくドローンかもしれない。

臨床医からすると、「うわっ、あいつあんなところから見るのか。ずるいな。そりゃ簡単だわな」と、納得半分、嫉妬半分で見られることもあろう。

しかし、ドローンは悪天候では飛ばせない。

霧がかかっていたら山頂は見えない。えっちらおっちらと徒歩で登っていく方が確実なことはある。

満足度だって別種のものだ。




「徒歩の人が道に迷ってもドローンは飛ぶ」

「ドローンがさまよっても徒歩なら登山道が見える」

と、お互いにお互いの苦手な部分を補完しあうことで、誰かは山頂をみられるだろうとチームで医療をすすめる。

これならば、個々人が不完全であってもかまわない。

大切なのは「自分は何が不得意で、何をよく知らないのか、何がよく見えないのかをきちんとわかっていること」である。

富士の裾野に咲く雪割草は、登山者だけが愛でることができる。

富士山の火口の写真は登山者にはなかなか撮れない。





「一生勉強ですよ」というのは、自分が不完全なまま働いていることに対するひけめとか、劣等感とか、あるいはあきらめとか、そういうニュアンスを含んでいるようにも聞こえるが、そうではない。

現代において医療をする以上、誰もが一生勉強をしていなければ、お互いにお互いの得意不得意を時代にあわせて見極め続けていなければ、そもそもチームで富士山を極めることはできない。

では参考までに、ぼくが不得意としていることはなにか?


ぼくのわかりやすい弱点は、「自分がもう若くないと知ってしまったゆえの、発想の貧困さ」である。

ある程度視野を広くとりはじめると、浮かんできたアイディアにすぐ「……無理だな」とか、「突飛すぎる」とか、「現実性にとぼしい」と判断をしてしまい、チャレンジをしなくなる。

新しい登山道の開発が苦手なのだ。

さあそんなぼくは、これから、初心に帰ってチャレンジをするべきか?

それとも、ぼくより若い人が代わりにチャレンジしやすいように、チャレンジ以外の小仕事を請け負って、後進に道を譲るべきだろうか?

ぼくはどうすればチーム全体を前に進めていけるか?

そこに自分のエゴをどれだけ混ぜ込んでいいものなのだろうか?