2019年1月31日木曜日

病理の話(289) 検査って何なのか正面から考えてみた

「病院で検査したら、○○という病気だとわかったよ」

などというフレーズをよく目にする。

この「検査」とは、そもそもなんなんだ、というのを正面切って考えてみようと思う。




○○という病気……の、○○に何が入るかによって、必要な検査が変わるということを、まずは知っておきたい。



たとえば。

「○○=骨折」だったら?

骨折とはその名の通り骨が折れているわけで、これは、「折れている骨を目でみること」が「わかる」ということにつながる。

当たり前ですね。

ところが骨というのは肉の奥に潜んでいるから、直接見ることができない。

そりゃそうですよね。

そこで「検査」ですよ。

 直接見られないものを見るために。

画像検査をする。

CTとかMRIとかね。




次に。

「○○=肺炎」だったら?

肺炎とは肺の炎(ほのお)と書くけれど、肺が燃え上がっているわけではなく、肺に「炎症」が起きている。そしてこの炎症をみるのはいろんな意味で難しい。

まず、骨折と同じように、皮とか肉の向こう側に肺があるわけだから、直接外側から目で見ることができない。

そこで「検査」ですよ。

 直接見られないものを見るために。

画像検査をする。

CTとかね。

でもそれだけでは解決しないんだ。

肺に炎症が起こっている、というところまでは画像でわかるかもしれないんだけど、肺炎の場合は、「炎症の原因が何か」がとても気にかかる。

……まあ骨折でも原因は気にするんだけどそれはおいといて。

肺炎の場合、その原因が、

「細菌」

なのか、

「ウイルス」

なのか、

「カビ」

なのか、はたまた

「それ以外のできごと」

なのかによって、治療が全部違うのだ。これらを見極めるためには、画像検査ではなかなかうまくいかない。

 直接目では見えないし、CTでも見られないものを見るために。

別の「検査」が必要になる。

痰をシャーレに入れて菌の培養をしてみたり。

血液に出てくる「原因微生物の証拠」を探したり。

「細菌検査」とか、「血液検査」をしないといけなくなるのだ。




そして。

「○○=がん」だったら?

がんがどこに出たかによって、まず、検査の種類を変えなければいけない。胃の中にがんがあるなら、胃カメラで見に行くことができるだろう。でも、肝臓の中にがんがあったら、外からはどうやっても見ることができないから、CTとかMRIとか超音波などの画像検査を使うしかない。

直接見ても、画像を使って見ても、それが「カタマリ」であることはわかるけれど、

・どんなタイプの癌細胞か

・どれくらい細かくしみ込んでいるか

・どんな治療が効きそうか

は、なかなかわからない。

とにかく血液検査もする。手術に耐えられるかどうかを調べるために呼吸機能検査とか心臓の検査もする場合がある。

そして、

 直接目では見えないし、CTでも見られないし、血液でもわからない、病気の本質とか、広がり方を見るために。

「病理検査」が必要となるのだ。




検査っていうと、機械に血を入れたり、自分が機械のトンネルの中をくぐったりして、コンピュータがピコピコ何かを出力して、紙やモニタに出てきた結果を主治医がみて、考える、みたいなものを想像する。

でも、画像ったってその解釈は複雑だ。輪郭や内部性状から病気そのものを理解しようと思ったら、コツがいる。

血液検査の結果だって、(たとえば健康診断でもらう数字の羅列といっしょで)素人が見ても何が何やらわからない。

病理検査に至っては、医師であっても、何が書いてあるのかよくわからないほど複雑な結果が出てくる。




だから、「検査」がひとつ増えるたびに、その検査には「診断」を担当する医療者がいる。

検査結果は白黒はっきりしたわかりやすいデータばかりではない。

だから、データをもとに、考えて、あてはめて、患者の中で起こっているストーリーをまるで「優れた小説やマンガを読んだかのように」記述する人の手が必要になる。

そんな複雑な作業を、ぼくらは普通、「検査」とは言わない。

「診断」と言う。




画像診断。

血液生化学的診断。

生理学的診断。

そして、

病理診断。



「病院で検査したら、○○という病気だとわかったよ」

という一文の中には、「隠しフレーズ」がある。

「病院で検査したら、○○という病気だと診断されて、わかったよ」




あなたの検査の裏には、診断者がいるということを覚えておくとよいかもしれない。

2019年1月30日水曜日

脳だけが旅をする

ぼくはもともとツイッターをはじめたときに「病理広報」をやろうと思っていた。

本気で病理学とか病理診断とか病理医について、世の中に説明しようという気概をもってアカウントを作った。

これは本気だったから、現在のアカウントを作る3か月くらい前に、個人アカウントを作り、ツイッターとはどういうところなのかをまじめに勉強した。

まず、フォロワーが多く、世の中に影響力があるアカウントを積極的に探してフォローした。

その中にはNHK_PRや東急ハンズ・ハンズネット、ヴィレッジヴァンガード、ムラサキスポーツなど、いわゆる「大手のアカウント」が含まれていた。

また、OKwaveとか鳥取県のネギのゆるキャラなど、ネット外ではほとんど知名度がないがツイッター内では有名になりつつあった巨大アカウントもいた。

個人的に追いかけたかった書籍出版社や書店も忘れずに。

そして、「地方の中小企業なのにフォロワーに愛されているアカウント」などもチェックした。

ぼくは自分がこれから広報したい「病理医」という存在が、いかにもマイナーで、マニアックで、知名度がとても低いことをよくわかっていたので、元々の母体が有名だからフォロワーがいっぱいいるアカウントと、SNSではじめて有名になったような本来マイナーだったアカウントの両方を見て、考えることにした。

芸能人や芸人のアカウントはあまり見に行かなかった。

歌手とかタレントがツイッターでやっていることは、あまり広報っぽくないな、と、そのときは思っていたからだ。




3か月ほど過ぎて、アカウント名も決まった。

ちなみに病理医ヤンデルという名前は公募とアンケートで決めた。病理の病+マイケル・サンデル教授からの合作。候補の中には「病理少女まくろ☆ミクロ」などがあった。それにしてなくてよかった。

さあ病理広報アカウントをはじめるぞ、というタイミングで、東日本大震災が起こった。

ぼくは2011年の3月15日をアカウント開設予定日と定めて準備していた。

でも地震によってそれどころではなくなった。

知り合いも被災したし、気分的にも、社会的にも、今新しいアカウントを作るなんてことはありえなかった。

そして、それ以上に、今でも思い出すことがある。

それは、地震を境に、あらゆる「企業広報アカウント」が、いっせいに、自分たちのありようを急速に模索し直したということだ。

さらに、個人的に追いかけていた糸井重里氏からのつながりで、震災関連の情報をじっくりと、かしこく、考えながらやりくりして提供していく人たちが目に入るようになった。

ぼくは、単なる「広告」ではなく、かといって「過剰にパブリック」でもない、「とても安心できる年上の友人」のような存在を、企業広報や、一部の学者などの中に感じ取った。




ぼくは震災後の1か月に様々な経験をしたし、それを全てここに書くつもりはないが、ツイッターという世界についてもかなりいろいろなことを学んだ。

ぼくはアカウントの開設日を4月11日に定めた。

まだ、具体的に、自分がどうなりたいかはわからなかった。とりあえず目の前には無数の人々がいて、さまざまな立ち位置で、いろいろなことを言っていた。

けれど、なんとなく、少しずつ、「ああいう感じがいいな」という目標だけは、おぼろげに浮かんだ。

アイコンの色を青緑に設定したのは、ぼくが当時もっとも追いかけていた人たちと「色がかぶらない」のが青緑だったからだ。

タイムラインに流れてくる回数の少ない色でもあったし、ぼくが規模はともかく、心情的には、この人達と並び称されるようにがんばろう、という決意もあった。





まず最初の目標は「フォロワー2000人」。

それくらいのフォロワー数で、フォローも2000くらいして、相互フォロワーと楽しく毎日会話しているような中小企業のアカウントが楽しそうに見えた。

それに2000という数字には副次的な意味もあった。

当時の病理専門医の人数がだいたい2000名くらいだった(今では2400名くらいになっている)。

できれば、病理医の数くらいは人を集めたいな、と思った。




その後ぼくは少しずつフォロワーを集めていくのだが、病理医という名乗りはあまりにマニアックだったためか、ツイッターのようなマニア御用達の場所ではフォロワーが増えやすく、フォロワー数はすぐに2000を超えてしまった。目標が達成できてうれしかった。そして、さあ、どんどん広報をするぞ、とぼくは燃えた。

ツイッターをはじめてから2,3年くらい経ったころ、マンガ「フラジャイル」の第1話がアフタヌーンに掲載された。

フォロワーからそれを教えてもらい、ぼくはアフタヌーンを買って、読んだ。今でもはっきりと覚えているのだが、ぼくは瞬間的にこう思った。

「ああ、このマンガがあるなら、ぼくは、もう広報なんて身の丈に合わないことはやめよう」。

フラジャイルはすごく出来が良かった。後々テレビドラマにもなるが、ぼくはマンガが掲載され始めたころから、「フラジャイルによって病理医を知る人のほうが、ぼくがちまちまツイッターで広報するよりも圧倒的に多いだろう」と思い、これをきっかけとして、「広報アカウント」を名乗るのをやめようと思った。

個人でやることには限界があった。それはもう、はっきりとわかっていた。

広く周知すること。

正しく伝えること。

これらを大目標に、なんとなく「広報的なこと」をやってきた。

でも、もう、自分で情報発信するというのがどういうことなのか、ぼくが持つ可能性と限界みたいなものはなんとなくわかりかけていた。

フラジャイルが連載される少し前、「中の人などいない」が発売され、それを読んで以来、ぼくは「ツイッターは発信よりも受信に向いているツール」であり、「広告よりもコミュニケーションに向いているツール」という考え方を得た。これも大きかった。

ぼくは、病理広報アカウントという(勝手に名乗っていた)看板を下ろした。




なぜかフォロワーの伸びは前よりも早くなった。

しかし、フォロワーが増えるといっても、芸能人やスポーツ選手のフォロワー数には遠く及ばないし、RT数だってそんなに稼げるわけでもない。

どちらかというとフォロワーが増えることよりも、フォローする世界が広がっていくほうが、ツイッターは楽しいのかもな、なんてことを考えた。RT(リツイート)という作業は拡散ではなく濃縮なのだな、ということも考えた。広報という手前勝手な看板を下ろしてから、ぼくはツイッターが好きになった。




これがだいたい2015年頃までの話。ちょっと昔になってしまった。

どの時期も、ぼくにとって順番に必要だったのだろうな、ということはわかる。

そして、これらの段階が全ての人に当てはまることでもない。それもわかる。

誰のために書く文章でもなく、これはぼくのための、日記みたいな文章だ。

昔の旅行を振り返っているような気持ちになる。

2019年1月29日火曜日

病理の話(288) 先入観が目に入る間に

ちょっと疲れてるので今日はマニアックな話になると思います。

まあいつもマニアックかもしれないけど。「病理の話」だもんね。

でも今日はいつもに輪をかけてマニアック。

だって菌の話だからね。ピロリ菌の話。




ヘリコバクター・ピロリ菌は、WHOにも認められている「胃がんの原因」として有名だ。ただ、実際のところ、ピロリ菌がいるからすぐに胃がんが出る、みたいな簡単な話ではまったくない。そこのメカニズムはかなり複雑である。

でもそこは今日はおいとく。複雑だから。複雑とマニアックは微妙に違う。




ピロリ菌は胃酸の中にいても生きていけるナゾ菌だ。

歴史的には「まさかpH1くらいの強酸環境に菌がいるわけないじゃん」と思われていたので、なかなか発見されなかった。

で、ウォーレンとマーシャルによって、ようやく発見され、報告されて、彼らは後にノーベル賞をとるわけなんだけど……。

そのことを学生時代に習ったときに、ぼくはこう思った。

「ハァー、塩酸の中にも生きていける菌がいるのか、すげぇな、ピロリ菌」

でもこれは正確では無かった。

塩酸の中で生きていける菌は、「ピロリ菌」ではなくて、「ヘリコバクター」である。

ヘリコバクター・ピロリ菌だけが生きていけるわけではない。

ヘリコバクター・ハイルマーニ菌みたいな、「ピロリじゃないけどヘリコバクター」という菌も、やっぱり胃酸の中で生きていけるのである。




……ね、マニアックになってきたでしょ。知らんがなと思うでしょ。

でももっとマニアックな話をするからね。




ヘリコバクター・ハイルマーニ菌は、ピロリ菌とは異なり、そう簡単には見つからない。一番の理由は感染頻度の低さ。

そして、見逃せないもう一つの理由もある。

つい最近まで、ピロリとハイルマーニを見分けられる病理医自体があまり多くなかったのである。

今にして思えば、ハイルマーニ菌のほうが、より「ねじれていて」、より「長い」。

「ヘリコバクター」は「ヘリコプター」と同語源で、「くるくるねじれている」みたいなニュアンスを含む。

でも、日頃ぼくらが見るピロリ菌はそこまでねじれては見えない。

これに対してハイルマーニ菌のほうはわりと素人目でみても「きちんとねじれている」。

つまりはハイルマーニのほうが、より「ヘリコバクターらしさ」を有している。




だったらピロリとハイルマーニを見分けるのは簡単そうに思えるけれど……。

実際、なかなかぼくらはハイルマーニの存在に気づかなかった。

なぜかって?

「胃酸の中で生きていける菌は、ほぼピロリ菌で間違いない」みたいな先入観にすっかり染まっていたからだ、と思う。




今日もっともマニアックな話をする。

「ハイルマーニをピロリと見分けられる人がなかなか現れなかった」というのは、人間が行う診断の限界と可能性を表している。

「この強酸環境下に、別種の菌がいるはずないだろう」という思い込みをもったまま顕微鏡をみると、普段は非常に細かい核とか細胞質の形状を見分けているはずのプロの病理医であっても、ピロリとハイルマーニの明らかな形の違いを見分けられなくなる。

先入観は「目」に影響するのだ。

思い込みを排して、無心でしっかりと形態を分類すると、今まで気づいていなかった差異に突然気づくことはある。

そして、ここが難しいところなのだが、逆に「絶対差があるはずだ」という先入観で脳をブーストすることで、わずかな違いが目に飛び込んでくる、なんてこともある。

学生には見分けられない形態の差を、プロの病理医が見分けるというのもこれによる。




見るという活動は奥深い。脳とセットで語る必要がある。

そして、「診る」という行動はそれ以上に深いのだが……それはまた別の話。

2019年1月28日月曜日

ゆうべはゆかのしたでしたね

尊敬する人というのにも大きく分けて二種類ある。

「尊敬しており、会いたい人」と、

「尊敬しており、会いたくない人」だ。



先に会いたくない方の説明をすると、なんというか、うーん、相手の澄み切った人格に自分という色を一滴垂らしただけでも濁ってしまうのではないかと心配になるかんじ。

いわゆる「尊すぎて会えない」というやつ。

あとは、実際に会話してみて、話がかみ合わなかったら、もう恥ずかしくて応援できない、みたいな不安もある。

ツイッターでは知り合いだけど実際に会ったことがない人と、いざ会ってみたら、リプライでのイメージを崩してしまいそうで、今後ネットでも絡めなくなりそうで、楽しい時間がなくなってしまいそうで、ごめんなさい、もうしゃべれません、みたいなことがある。

こちらは「脆すぎて会えない」みたいな気分。



これらの気分についてはけっこう共感を得られるんじゃないかとわかって書いている。よく聞くもんね。

でも、今日の本題はここからだ。




ぼくにとっての、「尊敬しており、会いたい人」というのはどういうタイプなのかなあ、というのを、先日少し考えていた。

どうしてだろうな~、尊敬してて会えない人と会える人の差って何かな~、と、自分の無意識に潜む何かを知りたくなり、ちょっと思索を深めてみた。


そしたら後悔した。

自分の心を丁寧に掘り進めていったら、どうもあまりほめられたものではない理由が出てきたからだ。

いろんな角度から自問してみたんだけど、おそらく間違いない。




ぼくが「尊敬してるし、積極的に会いたい人」というのは、こういう相手だ。

「尊敬してはいるが、その人よりも自分の方が別ジャンルで何か得意なものをもっている」ケース。

あるいは、「自分がその人に自信持ってしゃべれる引き出しがあるとわかっている人」。

こういう相手に対して、ぼくは「尊敬しているし、会いたいな~」みたいなことを口にしている。

具体的にはたとえば、他科の医師ですごい偉い人などが「尊敬しているし、会いたい人」に該当する。

内視鏡の世界で偉いとか、外科の世界で偉いとか。

そういう人がどれだけ華々しい業績があっても、ぼくには病理という武器があるから、なんとか対等な会話ができるもんね、みたいな。




この内面には気づきたくなかった。

何気なくあっさり心象探るだけにしておけばよかったな~。

「尊敬してます」っていいながらマウントとれる相手だと、気軽に会えるってことだもんな~~~。そんな居丈高な自分がいるんだな~~~~~~~~。

ああ~やだ。ぼくは恥ずかしい気分でいっぱいになってしまった。





そんな気づきからしばらく後、ぼくはSNSのイベントに出た。楽しいイベントだった。一度や二度お会いしたことがあるビッグネームも来ている。はじめてお会いする方も多かった。

なんとなく全員に会うのが気恥ずかしかった。

ぼくはいつも心の奥底に、「こっそりマウントをとれるかどうか」という基準を設けて会話してるんじゃないかな、みたいな疑いが晴れないまま、イベントは始まった。

尊敬する浅生鴨と尊敬するシャープと尊敬する犬がしゃべっていた。

周りにも尊敬するアカウントがいっぱいいた。




その日は結局、そのうちの2名と、深夜まで飲んだ。

いずれも、もしかすると、初対面のときには、ぼくの心の中にマウント合戦みたいなものがあったのではないか、という記憶がちらちらと思い出された。

気恥ずかしさ、申し訳なさが交錯する中、しかし会話の内容自体がおもしろかったため、ぼくは罪悪感のようなものを破裂させずに、心の床板の下に押し込めておくことができた。

飲み会が終わってふわふわホテルに戻り、歯磨きをして、寝る前に思った。





ぼくが最近、「言祝ぎ(ことほぎ)」にこだわるツイートをしているのは、自分の発言のあちこちに、気づかないうちにマウント合戦みたいな雰囲気がにじむことを、無意識にわかっていて、そういう自分がいやになって、人より自分が優れているところを探すような生き方をなるべくやめるために、他人のよさを人前で語ることに「特化」しようとしていたのではないか。




ベッドに潜ってまぶたを閉じる。もう夜は遅い。意識が飛ぶまで5秒もないだろう。その、残り4秒くらいで、以上のことを考えて、最後の1秒に、付け加えた。

「まあそれでもいいか」。




そして あさが きた!

2019年1月25日金曜日

病理の話(287) 手術までの間にやっていること

手術でがんをとったことがある方はご存じだと思うのだが、手術のために入院してから手術までの間というのは、けっこう忙しいのである。

血液を採って検査を出すだけではない。

パイプみたいなものを加えてフーッと息を吹き込んで肺活量を調べさせられる。実際には肺活量だけではなく「肺がどれくらいきちんと機能しているか」を調べるので、健康診断のフーッに比べるとちょっと細かくやる。

心臓もいろいろ検査する。「手術に耐えられる心臓や肺かどうかを確認するのだ」などと言われる。

「手術に耐えられる」って言い方はこわいなあ、と思うが、実際、手術というのは患者の体力をかなり奪う手技である。お腹を大きく開かず、腹腔鏡という筒状のカメラやマジックハンドをお腹に差し込むタイプの手術が主流である現在においても、手術が患者にとって「かなり疲れる手技」であることは間違いない。だからきちんと調べておく。

そして、CTとかMRIのような「画像検査」をめったやたらと撮られる。待ち時間が長いので覚えている方もいらっしゃるだろう。

このCTやMRIで何を見ているのかというと……。

「がん」をはじめとする病気がどこにあるのか。どれくらいの大きさをしているのか。どのような臓器に影響を与えているのか。

こういったものを見ているのだが、他にも、非常に大切なものを見る。

その代表は、「血管の走行」である。



お腹の中にある臓器は、多くの血管や神経に取り囲まれている。たとえばレゴのパーツを外すように臓器を取り外すと、周りの血管から一気に出血するだろうし、神経もぶったぎられていろいろ困ったことになる。

だから、手術をする際には、「手術で採りたい部分」を切り取る際に、どのような血管を横にどけなければいけないか、どのような血管をピンセットで持ち上げなければいけないか、どのような血管を縛って通行止めにしたらよいか、といったイメージトレーニングを、画像を見ながら、かなり綿密に行う。

「主治医のセンセイは、私が入院してからというもの、ぜんぜんベッドに様子を見に来てくれないなあ」

と患者が嘆いているとき、外科医は、パソコンとにらめっこだ。マウスのホイールをずっとクリクリ回しながら、CTを何度も何度も見て、血管の走行を頭に叩き込んでいる。

どこをどう切ったらよいかを考えている。

どこをどう縫ったら出血量が少なく済むかをものすごくじっくり考えて決めているのである。




サスペンス小説などに時限爆弾が出てくる。

主人公は爆弾を見つけると「時限爆弾だ……!」などとつぶやく。

かつてマンガ「ぼのぼの」で、アライグマくんが、「なんでみんな橋を見つけたら必ず『あっ、橋だ』って言うんだよ」と怒っていたが、なぜ小説やドラマの登場人物は爆弾を見つけると必ず「時限爆弾だ」と声に出していうのか、不思議である。

だいいち、「時限爆弾」だとなぜわかるのか。

リモート起動式の遠隔操作爆弾だったらどうするのだ。




さて、その「時限爆弾」を解体するシーンで、いきなり「爆薬を抜けばいいんだよ」と言い出して、ドガッと爆弾の本体だけをぶち抜く探偵などを見てみたいが、そういうのはいない。

ゲームだと爆死エンドを見たいヘビーユーザーが最初に選ぶ選択肢だ。「いっそ引き抜いちゃえ!」→「こっぱみじんになった。 END」

たいていの場合は、「このコードを切って……このコードはダミー……」みたいに、爆弾の本体を取り除いたり、タイマーを止めるために、回線の配列を細かく検討する描写が挿入される。

あれを最初に書いた人って誰なんだろうな。もう見飽きたけどつい見ちゃう。

もちろんBGMはハラハラさせるかんじのやつ。

最後には必ず赤と青の線が残る。

不思議だ。いっそぜんぶモノクロにしておけば、見づらくて、わかりにくくて、処理する人も困るだろうに。

なぜ爆弾を作った人はそこまでユーザーフレンドリーなのだ。

(作るときに間違えないためかもしれんけど)

小説の主人公がなぜ必ずペンチを持っているのかもふしぎだ。

ペンチってそうそう持ち歩くものではないと思う。




ツッコミはこのへんにしておいて、

外科手術で臓器を取り除くときも、「臓器とか病気そのもの」はもちろん大事なのだけれど、実際には「そこに入り込む回線」の方がけっこう気になる。

体の中で血管が、動脈と静脈をそれぞれ赤とか青に色分けしておいてもらえれば、もう少し簡単なんだけど。

そう甘くはない。

最近のCT(造影剤を用いた造影CT)画像は、動脈と静脈を勝手に染め分けるプログラムを搭載していたりもする。

これを用いて、手術の前に、

「自分がこのあと手術に入ったとしたら、血管がここにこうやって配置しているんだなあ」

というのを、きちんとシミュレーションしてから、手術に臨む。

目の前には「色分けされていない血管」が、「脂肪などの中に埋まった状態で」、走行している。

これらを慎重によけて進みながら、目標臓器を、出血なく、切り取ろうというのが、手術なのだ。

ほんとたいしたやつらだよ。

2019年1月24日木曜日

ねじこめジーナさん

「誰一人傷つけない日曜日よりの使者」は、「適当なウソをついてその場を切り抜け」たんだな。

などと、

歌詞をみながら考え込むときがある。

そういうときはたいてい、ぐったりしている。

疲労で。



「疲労」と「披露」と「ヒーロー」がいずれも似通っているというのは、すごい、それはすばらしいことだ、かもしれませんね。

いい大人が疲れる理由として、

「誰かのために、何かを披露して、ヒーローを気取って、疲れる」

というのはわりと望ましいほうの結果だと思う。




自分が疲れたりイヤなことがあったりしたときに、それを文章化する行為には、多少なりとも御利益があるかもしれない。うまく自分を客観視できたり俯瞰できたりするからね。

でも、文章と自分の立ち位置が「ライバル」だったり「好敵手(とも)」だったりするようなタイプの人間……たとえばぼく……にとっては、疲れた記憶やささくれたときの話、皮肉、揶揄などを文章にしてしまうと、感情が増幅されてディストーションがギュワンギュワンかかり、客観視どころではない。

たぶんあまり俯瞰しないほうがいい。御利益より呪いの方が強いだろう。





だったら、感情を文章にしなければ全てよいかというと、今度は、

「口には出さないまでも周囲の人に不機嫌をばらまいた」

とか

「いかにもな表情で周りの人々に気を遣わせた」

ということがおこる。

抱え込めばよいというものでもない。





中間を攻めよう。

文章にするだけして、自分で読み返してハッとして、おしまいにするというのはどうだろう。

公開しない文章を書くのだ。

公開しない文章をきちんと書き続ける行為には、こうしてブログなどをへらへら公開し続ける行為よりもちょっとだけ複雑なアレコレが潜んでいるように思う。

「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの。恋だったらいつでもできるけど!」





「誰一人傷つけない日曜日よりの使者」は、適当なウソをついてその場を切り抜けた。思うこと、考える事を、自らの中で文章化し、概念として組み立てたあと、「その場」にどこまで出すか、考えて、ひっこめた。

切り抜けられればよい。誰も傷つけないことが一番よい。

たぶんそういうことなのだ。

2019年1月23日水曜日

病理の話(286) がんも群雄割拠する

「がん」について、この10年くらいでまた新しくわかってきたことがあるので、それを書く。


医療者はよく、「胃がんが胃粘膜に発生する」とか、「肺がんが肺胞上皮から発生する」みたいなことを言う。

この「発生する」という言葉のためか、ぼくらは「がん」がどのように出てくるかを考えるときに、まるでパンにカビが生えるみたいに、

「がんは何もないところにあるときポンと出てくる」

みたいなイメージを想像しがちである。



ところが、がん細胞をいろいろ調べていくと、どうもそういう感じではないということがわかった。

がん細胞は、細胞をつかさどるプログラム(DNA)にエラーがあるというのは有名な話なんだけれど、このエラーが1つとか2つではなくて、とんでもない数、100とか200、あるようなのだ。

正しいプログラムをもって、きちんと仕事をしている「正常のパソコン」に混じって、あるとき、異常なブログラムを搭載したコンピュータがポコンと生まれてくることを想像していたのだけれど、実際にがん細胞の中に含まれているプログラムエラーの数を考えると、「ある日とつぜん、一気に盛大にバグった」とは思えない。

100や200といったプログラムエラーを持っているということは、「長年にわたって、エラーが少しずつ蓄積してきた」ことを考えなければいけないのである。




おまけに、ひとたびがんとして増え始めた細胞も、勢力を強めていくうちに少しずつ「プログラムエラーを増やしていく」ということがわかってきた。

がんがまだ小さいときは、ひとかたまりの「がん」の中にも、どうもバリエーションがあるらしい。

ある部分を取り出してくると、「A」「B」「C」という遺伝子にエラーがあるのだが、ほかの部分を取り出してくると、「A」「E」「G」という遺伝子にエラーがあるというように、なんだか多様なのである。





このことは戦国時代に例えられている。

世が乱れて、あちこちで戦乱が起こると、さまざまな中小大名たちが登場してしのぎをけずる。

「信長の野望」でも「三國志」でもよい。戦乱時期の初期のシナリオを選ぶと、プレイヤーとして選べる大名の数が多い。

織田、今川、武田だけではない。六角、三好、大友。いずれも「大名」であり、軍備を備えていて、しばしば隣国に攻め込むという共通点を持つ。

これらは共通の時代背景によって現れた「世を破壊する可能性がある、タネ」である。

けれどもシナリオが進むと、弱小大名たちは滅ぼされ、次第に強国だけが残るようになる。

陶謙も劉焉も、袁紹さえも滅んでしまい、曹操、孫権、劉備などが残る。

最も強い国が覇権を握り、弱小国は痕跡だけを残してこの世から消えてしまうわけである。




がん細胞もこれと似た発育をすると言われている。

初期においては、がんのカタマリの中に多様性があるのだが、がんが進行していくと、カタマリの中でも「もっとも攻撃力や防御力が強かった勢力」がほかを食いつくして、だんだん多様性が失われていくらしいのだ。

もっとも、戦乱の世といっしょで、多様性というのが完全になくなることはなく、「強国」が征服したあともあちこちで「さらにちょっと変わったやつら」が次々と生まれていく。




がんはあるとき無からポンと生まれてくるものではないらしい。

そして、がんと一言でくくれるほど、がんは単純な存在ではないということだ。

2019年1月22日火曜日

ポケットWi-Fi超便利

講演するために東京に来ている。

もう少し遅い時間の飛行機でも間に合った。けど、自分の講演ではなくて、ほかの人の講演も聞いてみたかったので、朝いちばんの飛行機に乗ってきた。

機内には海外からの観光客がちらほらみられた。おそらくは羽田で乗り換えたいのだろう。

ANAの機内アナウンス用の映像は、この春から「歌舞伎」をモチーフにしたものにかわった。日本を楽しみに来た人にとってのちょっとしたサービス。

座席に座ってシートベルトをしてほしい、喫煙は禁止されている、ライフジャケットの付け方はこうだ、みたいな話を、歌舞伎装束の人が演じている。

フライト中には「右手に富士山がみられます」というアナウンスもあった。

これ見よがしな日本アピールを嫌いな人もいるだろう。

でもぼくはこういうの、けっこう好きだ。

ぼくの斜め前に座っていたおじさんも、明らかに日本人だったけど(日本語の新聞読んでたし)、機内映像をスマホで撮っていた。

日本の日本らしいところをプレゼンしようとする人たちの努力には目を奪われるのだ。




ぼくはモンゴルに行ったとき、モンゴルの人々がわかりやすくチンギスハンの話で盛り上がってくれるのが、やっぱり一番うれしかったよ。

ウランバートルならふつうにステーキも野菜も食えるんだぜ、といってフランス料理の店を紹介されたけど、別にそこまでうれしくはなかった。もっとも「もてなしたい」という気持ちは十分に伝わったからニコニコしておいしく食べたけど。

「それはほんとの日本じゃない」なんてことをいうのも言葉に力があってよいのかもしれないけれど、ぼくは、フジヤマ、アサクサ、カブキ、オタクを楽しみに来る人たちには、これらをきちんと並べて楽しんでもらいたいな、と思うタイプの人間なのだ。

気に入ったらまた来てくれる。

気に入ったら「もっと深い部分」を学んでくれる。




講演するために東京に来ている。

ぼくは「病理医」として、「病理の勉強」を話すことを期待されている。

けれどもぼくはいつだって、「画像と病理の話」という、病理の本丸からは少しだけ外れた部分に関する話をする。

だってその方が臨床の役に立つじゃないか。

その方が面白い話ができるんだもの。

そう思って長年やってきたのだ。けれど、心の中にちくりと、とげがささっている。

「病理をやってほしいと思う人たちの前では、病理の話をきちんとしないと、かえって不親切なんじゃあないのかな」。





ちょっと悩んで、PCを開き、Facebookのメッセンジャーを使って、年下の師匠に尋ねてみる。

「どう思います? 先生。ぼくはやっぱり、もう少し、病理の話をきちんと話すべきでしょうかねえ」

すると彼はすぐにオンラインになって、短くこんなメッセージを送ってくるのだ。

「市原を見に来た人たちには市原を出してあげてください。」

2019年1月21日月曜日

病理の話(285) ヤクザといってもいろいろある

今日は「がん」の話。

たとえば肺がんと大腸がんと乳がんと胃がんでは、振る舞い方がまるで異なる。

アメリカのマフィアとイタリアのマフィアと中国のマフィアと日本のヤクザがすべて「やり口が異なる」のに似ている。

いずれも「悪人である」ということは一緒なのだが、密売しているのが拳銃だったり大麻だったりアワビだったりと、シノギの手段が異なるし、用いている言語も異なるし、アジトの建て方も、犯罪の起こし方もすべて異なる。



さらにいえば、「胃がん」と言っても何種類かある。

日本のヤクザ、とひと言でまとめても、釧路のヤクザと神戸のヤクザと北九州のヤクザが少しずつ違うのと一緒だ。

胃の入り口付近に出てくるがん、胃の出口付近に出てくるがん、胃の真ん中当たりに出てくるがん、というように、場所によって、がん細胞の見た目が違う傾向がある。

そしてこれらの「悪事をはたらく早さ」もどうも違うらしい。

おまけに「見た目」も少しずつ変わっている。



医学が年々進歩すると、このように、「今までひとことでまとめていた病気を、実は何種類かに分けることができる」ということがわかってくる。

別に学者が分けたいから分ける、という学術的な理由だけではない。

種類ごとに治療法を細かく変えた方が、患者にとってメリットがあると考えられているのだ。



胃の一部のがんは、あまり大きく切り取らなくても、そんなに急いで切り取らなくても、ゆっくりとしか大きくならないのではないか、ということが言われている。いわゆる「あまり悪くないタイプのがん」だ。

かつて、誰の胃の中にも高確率にピロリ菌がいた時代は、「ピロリ菌によるブースト効果」みたいなものが生じており、この「弱めのヤクザ」は胃の中にはそこまで多く検出されなかった。どうも、ピロリ菌は、胃の環境を荒廃させることで、ヤクザのパワーをアップさせる力があったようなのだ。治安が悪いとヤクザが元気になる、みたいなものか。

近年、ピロリ菌の感染率が低下することで、リアルガチなヤクザの数が少し減ってきた。かわりに、弱いヤクザの存在感が少しずつ増してきた。

このため、弱いヤクザを強いヤクザと見分けたほうがいいのではないか、という研究が少しずつ進んでいるのである。



ただ、想像力をはたらかせていただきたいのはここからだ。

「なあんだ、最近はヤクザなんて怖くないんだな」とはなかなか言えないということ。

ヤクザがいるとなったら、それが「弱いのか強いのか」をしっかり判断して対処しないと、その後、いろんな意味で痛い目に遭うのである。

弱いヤクザだと思ってのんびり治療していたら、ヤクザが思ったより早く勢力を拡大した、というのはまずい。

また、強いヤクザだと思って強烈な治療を加えたが、実は弱いヤクザだった、となると、体に治療という名の強い負荷をかけてしまったことのマイナス面が気になるかもしれない。



ひとことで「がん」といってもいろいろある、というのは、体内に発生するすべてのがんに言えることだ。実を言うと例外がない。

科学にはたいてい例外がある。「絶対とは言えない」というのが真摯な姿勢だ。

でも、「がんにはいろいろある」ということには、例外がない。

もっといえば、「世の中のあらゆるものごとには多様性があること」については例外がないのだ。

……哲学みてぇになってきたので今日はここまでとします。

2019年1月18日金曜日

魏の初代皇帝の父親が持つ力のことをなんというか

例え話だが、

「忙しくて髪を切りに行く時間がない」

という言葉をみると、つい、

「ほんの1時間くらいならどうにでもなるでしょう」

という反論をしたくなることがある。



けれども自分が実際に髪を切ろうと思うと、まず美容室を予約しなければならない。

そして美容室は自分の都合のいい日時に限って予約がとれないものだ。



すなわち、「髪を切りに行く」というのは、

1.土日の午前と日曜日の午後および夕方、さらに水曜日と金曜日の夕方くらいが空いている状態

で、

2.美容室がこれらのどれかであれば予約を受けてくれる状態

で、さらに、

3.以上を確定するために、日中に美容室に電話をかけられる状態

であって、はじめて生まれてくる。




ということはつまり、「髪を切りに行く時間」は1時間ではないのだ。

1時間だけ空き時間を作ることができても、美容室には行けないのである。

いや、まあ、ある一定の確率で、たまたまポンとその1時間が空いているかもしれないけれども、これはもう「運」とか「パーセント」の話になる。




髪を切りたいタイミングというのは自分で適当に決められるわけではない。

ぼくのような短髪の人間は、「そろそろ髪を切らなければまずいタイミング」というのが受動的にやってくる。

のびすぎるとむさくるしいからだ。

つまり髪を切りに行くという行為には「リミット」がある。

「向こう半年間のどこかで切ればいい」という類いの話ではない。

「今から2週間のどこかで、髪を切らなければいけない」という強迫観念と共に、この時間の捻出作業がやってくるのである。




以上を踏まえていれば、

「忙しくて髪を切りに行く時間がない」

というセリフに対し、

「いやあ、1時間くらいじゃないですか。ひねり出せばなんとかなるでしょう」

みたいなツッコミを入れるのはとてもヤボだということがじわじわとわかる。




何に付けても言えることだと思う。想像力なくツッコミを入れてはいけないのだ。

だからといって毎日想像ばかりしているわけにもいかない。なぜかというと、ぼくらはたいてい、忙しくて想像をする時間がないからだ。

2019年1月17日木曜日

病理の話(284) アップとロングの組み合わせ

体の中から手術でとってきた臓器。

あるいは、検査のために、体の中からとってきたわずかな細胞。

これらをみるのがぼくら病理医の役割である。さまざまな見方がある。

特に、「顕微鏡を使って細胞をみる」というのが有名だ。だから、世の中で病理のことを語ろうとする人は、たいていアイキャッチとかイメージ写真に「顕微鏡」を掲げる。ぼくも、講演などの際には、顕微鏡を象徴的に用いることがある。

けれども実をいうと、いきなり顕微鏡で細胞の姿だけをみても、病気の正体はイマイチよくわからないことが多い。

難しくて、実感がわかないのである。




たとえば、主治医とか患者は、「レントゲン」とか「CT」とか「胃カメラ」を用いて、臓器とか病気の姿かたち(輪郭や、模様など)を、ある程度把握している。

そこからとってきた「細胞」を病理医が観察して、主治医や患者に情報を伝えることになるのだが、これはつまり……。

「ドローンを飛ばして渋谷上空から交差点の写真をとって観察したあとに、その交差点にいた歩行者ひとりだけをピックアップしてインタビューをして、ドローン撮影者に情報を提供すること」

に似ている。

交差点でうごめく人々のダイナミズムと、歩いていたひとりのインタビューとを照らし合わせる行為にどこまで意味があるだろうか……?

や、あるんですよ。確かにあるんだ。けれども、ドローン映像のような「ロング」の画像と、個別インタビューのような「アップ」の画像をつなぐには、コツがいる。両者に関係があるかどうかを見極めるのには技術がいる。





たとえば、インタビューした相手があからさまなそり込みでイレズミをいれており、手に拳銃とドスを持っていたら、「アップ」の情報としては「ヤクザです」とわかる。加えて、ドローンでみた映像(「ロング」)で渋谷の交差点が銃撃戦になっていれば両者の関連はもうほとんど明らかであろう。

逆に、インタビューした相手が竹内涼真で、ドローン映像が女子中学生パニックであってもなんとなく意味はわかる。

しかし、ピックアップしてきた人が「幼い子ども」で、ロングの画像が「日常的な交差点の風景」だったらどうか?

渋谷の交差点の雑踏、うごめき、人々のダイナミズムは、その子どもひとりからどれだけ推し量ることができるか?

まあたぶんほとんど伝わらないと思う。





病理診断もこれに似ていて、「顕微鏡でアップして得られる情報」というのは、顕微鏡以外の技術で「ロング」を先にとらえておいたほうが、精度が高くなる。





だったらもう最初から「ロング」だけで判断すればいいのではないか、という話もある。ただ、「アップ」には「アップ」のよさがあるのだ。

アップでとらえたスーツにサングラスの男。

髪型はきちっとしているし、手には普通のカバンを持っている。一見ただのサラリーマンだ。

でも、よくよく目をこらして観察していると、ふところにプラスチック爆弾を抱え持っていることがわかる。

こいつ、一見おとなしそうに見えるけど、しばらく放っておくと交差点でテロを起こすかもしれない、ということがわかる。

その目でみると、交差点にいっぱいいる人のうち、なぜか「メン・イン・ブラック」みたいなかっこうをしたダークスーツの男が気になりはじめる。

「あれ? こんなにスーツでサングラスの男が渋谷の交差点にいるっておかしくないか?」

アップでピンときた人が、ドローンの撮影者に情報を与える。

ドローン担当者は最初は気づかない。「別に、平日の夕方だったら、サラリーマンがいっぱいいてもいいじゃねぇか」という気分で、でもまあ気になったと言われたからもう一度画像を見直す。

すると、スーツの男達のかっこうが「おそろい」であることに気づく。

……いくらスーツの男が多い時間帯だと言っても、この「おそろい」はやばくないか……?

すると「アップ」担当者からこのような情報がくる。

「そいつらみんな懐に爆弾もってるかもしれない」

「ロング」では爆弾の有無はわからない。しかし、似たような格好をした男ひとりが爆弾を持っているのならば、これだけ目に映っている男達もみな、同類なのではないか……?

そうやって、丁寧に、「ロング」の画像を見ていると……。

画面のはじのほうで、渋谷のスタバに、男達が数人入り込んで、店員に今まさに何かを話しかけようとしているではないか。

何かがおかしい。

警察を向かわせる。

次の瞬間、スタバの中で悲鳴が起こる。男達がスタバを破壊し始めたのだ。

でもすでに警察は向かっていたから、破壊行為がまだあまり及んでいない段階で、男達を逮捕することができた。

「ロング」のドローン担当が指令を飛ばす。

「そいつらと同じようなヤカラが、まだ交差点のあちこちにいるぞ!」

警察はあたりを封鎖する。それまで善良そうな顔をしていた男達は狼狽し始める……。





おいおいなんの話だよ、と思った人もいるかもしれないが。

今のは実をいうと、「早期がんを発見して治療するまでの流れ」を例え話にしたものである。

スーツの男は、がん細胞。

みんな似ているというのは、「モノクローナリティ」という性質を指す(まあ知らなくてもいいです)。

「ふところに爆弾を抱えている」というのは、遠目にはわかりにくい、細胞が持つ特有の以上を指すし、

「いずれ徒党を組んで街を破壊し始めるけれど、その前の段階がある」とか、

「一箇所で破壊が起きていたら、まだまだ周りには味方がいるかもしれない」とか、

「一度アップで悪い奴だとわかったら、ロングの検査の精度は高まる」とか、まあそのあたりすべて、例えてみた。





……蛇足だけどぼくはときおり「ヤクザの話が好きなおじさん」と呼ばれる。講演などでこの例えをよく使うからなのだが、そのためか、たまに、「ヤクザ研究」をしている方にツイッターでフォローされ、お互いにどうもどうもとおじぎをしたりする。

2019年1月16日水曜日

新潟も青森も大変だろうな

雪かきの話をこのブログでも何度か書いたかもしれない。

でもまた書く。冬だから。



積雪地帯での雪かきを一度体験してみるといいと思う。

ボランティアとかあるだろう。

首都圏の大学生などにはおすすめだ。

非常に汗をかく。

腕や腰がパンパンになる。足はそうでもない。しかし靴を間違うと足の指が凍傷になるので気を付けて欲しい。

暖かい格好をしていると20分を過ぎたくらいでほかほかになる。スキーウェアみたいな重装備で雪かきをしているとジャケットは脱ぐことになるだろう。サッカーのベンチコートみたいなものをはおっている場合はチャックを全快にすることになる。

コートの下をなるべく軽装にするのがコツだ。Tシャツ一枚でもいいくらいである。なあにすぐに温かくなる。

手袋はスキー用でないと無理だろう。特に、毛糸の手袋では30分で指が凍る。



いろいろな日に雪かきをしてみてほしい。

ふわっふわの、北国特有のパウダースノーは、ボリュームのわりに軽い。スノーダンプ(かつてママさんダンプと呼ばれていた)で運ぶと、軽くて、しかしふわふわとめんどうだ。雪深いところを長靴で踏みしめて歩くのは思ったよりも足腰に負担がかかる。

ちょっと気温が上がったあとに硬くなった雪。これは本当に最悪である。金属製のスコップがないとうまくくずせないし、金属製のスコップでは家のまわりの膨大な雪をどこにも運べない。

結局、スノーダンプの上にスコップで雪を落としてかためて、それをどこかに捨てに行くという賽の河原の石積みみたいな作業を繰り返すしかなくなる。

「雪を捨てる場所がない」というのは北国の痛切な悩みだ。

小学生の通学路では道の両脇にあまり高い山を作ってはいけない。

視界が悪くなり、事故も増える。

雪捨て場についてはマナーとモラル以前に「北国のプライド」が問われる。

捨ててもいい場所をきちんと把握しよう。

北国の一軒家では庭は雪捨てのためにある。



雪が降るのは昼夜を問わない。

出勤前に雪かきをしなければいけなくなると地獄だ。遅刻は確定。しかし放っておくと帰宅時に家に入れなくなるかもしれない。そもそも雪かきをしないと車が出せない場合もある。

天気がいいときに雪かきを終わらせておかないと、吹雪の中、あとからあとから降り積もる雪に視界も心も阻まれながら雪かきをするのもきついものがある。



何がつらいって、雪かきという行為は「春がくればすべて解けて無駄になるとわかっている」こと。しかし、「いずれ解けるからといって、解けるまで待っていると家から出られなくなるから、餓死 or 雪かき」であるということ。

これほど生産性のない労働をぼくはほかに知らない。



あと、ここはとても大事なポイントなので気を付けて読んで欲しいのだが、

「雪かきはとても重労働なのだけれど、なぜかは全くわからないが、お正月太りを雪かきだけで元に戻せることはない」

という世界の神秘がある。世の中には科学で解明できない謎がまだまだ残されているのだなあ、と感じる瞬間である。

2019年1月15日火曜日

病理の話(283) 病理専門医受験資格

この記事を読む大半のひとたちにはなんだかどうでもいいことだろうな、とは思うのだが、そういえば一度も書いたことがなかったので、今日は、

「病理専門医という資格をとる方法」

について書く。そんなの関係ねぇという人も、「ハムスターが車輪を回しているのを眺めていると落ち着く」、みたいな寛大な気持ちでこの記事を読んで欲しい。




大前提として、現在のところ、「病理専門医」という資格がなくても、顕微鏡を用いて細胞を観察し、病気の種類を探ったり程度をはかったりすることはできる。

「病理専門医という資格がないと絶対に病理医として働けない」ということはない。

ここは勘違いされがちである。法的な拘束力もほぼないのだ。

事実、現在も病理専門医をもたずに、市中病院で病理診断業務に勤しんでいる人はいる。実数は把握できないのだが(病理学会の登録外なので)、ぼくが個人的に観察する限りで、狭い業界内にそれなりに、非専門医なのに病理診断している人たちがいる。

ま、少数だけど。

すなわち絶対にとらなければいけない資格ではない。

けれども、今後はだんだんそういうアバウトな働き方が難しくなるように思う。

専門医資格がない人が病理医として就職できる病院も、減ってくるだろう。

病院側としては、どうせ病理医をとるなら、専門医に向けてきちんと努力し、人間関係を築いた人を採用したほうが安心だと考えるからだ。

あと、刑事責任は問えなくても、民事的には「非専門医の未熟な医者に病理診断をさせた」というのはたぶん悪印象になると思う。



まあそんなわけで、病理専門医という資格は「とっておいたほうが無難」である。

ではどのようにとるのか?

とりあえず医師免許は必要だ。

そして、現在は、医学部卒業後の2年間で、「初期研修」をしておく必要がある。

病理の研修はいわゆる「後期研修」扱いなので、初期研修が終わっていないとだめなのだ(抜け道もあるようだが)。

初期研修のときには別に病理診断を勉強しなくて良い。

さまざまな医者の仕事を学んでおくといいかもしれない。最初から病理漬けでもいいけれど、ま、このあたり、好き嫌いもあるし、様々な事情もある。詳しくは今日は書かない。



さて、後期研修からいよいよ、病理専門医への道がスタートするのだが、このとき、「努力」とともに、「人間関係や職場関係をきちんと構築する」ことが必要となる。

「のぞましい」ではなく、「必要」。注意してほしい。

病理医になるには人間関係が必須なのである。

なぜかというと、病理専門医の受験資格の中に、

・解剖を30回やる

というのが含まれているからだ。




解剖というのは基本的に、きちんとした病院で、多くの人々と連携しながらではないと経験することができない。初期研修をおえた医師たちがいきなり解剖をすることは許されない。

無資格の人間に解剖をさせるほど、日本の司法制度はポンコツではない。

独学で病理の勉強をすることは可能だけれども、未経験者がひとりで剖検をすることだけは、法的に不可能。

つまりは指導者が必要である。技師との連携も要る。



「司法」と「協力関係」とでガチガチに守られた解剖という極めてマニアックな行為を、病理専門医の試験を受けるまでの間に30回も重ねなければいけない。

となると、「絶対に病理専門医指導するマン」の元で研修しないと、話にならない。

だから病理専門医になるためには人間関係の構築が必要なのである。





なお、奇妙なことに、病理専門医という資格をとるにあたり、「解剖以外の実務経験」はほとんど問われない。

まあ制度上は、「組織診」という、普通に顕微鏡をみて診断を考えた経験が5000件以上必要だ。

また、「迅速診断」といって手術中に診断した回数が50件以上必要。

さらに「細胞診」という少しやり方の違う検査の経験も1000件以上必要ではある。

けれどもこれらを、専門医の受験時に事務局に確認させる方法がない。

5000件のレポートを添付するなんて不可能なのである(迅速診断50件くらいなら可能だけれど)。

だからこれらは自己申告である。5000件診断しました~と言い張ってしまえば受験は可能だ。



「ということは……組織診5000件みましたとうそをついて、試験を受けている病理医もいるってことですか?」

ご心配もごもっともだがそういうことはまずありえない。

なぜかというと、解剖を30体も経験させてもらった経験がある病理医のタマゴであれば、組織診はほぼ間違いなく10000件以上みているからである。

組織診5000件というしばりよりも、解剖30件のほうがはるかに「経験するのが難しい」。

だから解剖30件をこなしていれば、ほかの用件はたいてい満たせている。

つまり解剖以外の受験資格などというのは、あってないようなもの。

とにかく今の時代、解剖を30回経験する場所を探すことが一番大変だ。

組織診5000件というとぼくが1年に診断する量よりも少ない。

病理専門医の仕事の大半は、いまや、プレパラートをみて診断する「組織診」だ。解剖は主たる業務ではない。

それなのに、病理専門医の受験のためには、「今や主戦場ではなくなってしまった」解剖の件数ばかりが求められるのである。




解剖という業務の担い手が少なく、病理専門医の双肩には医療界の解剖の半分以上が乗っかっている。だから、病理専門医になるためには解剖のことをきちんとこなしておかなければいけない。

けれどもいざ、病理専門医になると、ほとんどの時間は「解剖以外の業務」で暮らしていくことになるのだけれど……。




さて、首尾良く解剖30件以上を達成し、まじめに顕微鏡の訓練をしていれば、いよいよ病理専門医を受験できる。

けれどもあとひとつ、受験資格のためにやっておかなければいけないことがある。

それは講習会の受講だ。

特に近年だと、遺伝子を扱う病理医になるための講座などを受けておかないといけない。講習会の受験を忘れていると、専門医になるためのテストを受けられない。

講習会だけはほんとうに気を付けて欲しい。

現在、病理専門医になっている人たちは、必ずしもこの講習会を受けていない。昔はそういうしばりがなかったからだ。

だから、かなり人のいい、熱心な指導医であっても、研修医に講習会を受けさせるのを忘れることがある。

申し訳ないがここは受験生の自己責任だ。指導医のせいにはできない。

受験生諸君は絶対に忘れないようにしてもらいたい。



で、最後に、病理専門医になるための筆記試験+面接があるわけだが……。

この試験、ここまでたどり着いている医師諸君であれば、それほど難しい試験ではない。合格率は何割くらいだろう? あまりよく知らない。7割くらいだろうか?

まあ合格率7割の試験なんて楽勝だろう。そもそも医学部の入試の合格率が2割くらいだったのだから。

それに比べれば楽勝だ。試験を通るために生まれてきたような頭脳を持っていれば、まず大丈夫。落ちない。

試験内容についても、過去問の一部は公開されていたり、先輩達から伝わってきたりする。まあ一部は公開されないのだけれど。

めちゃくちゃにまれな病気を答えさせられたり、架空の解剖症例の診断書を書かされたりする。

けれど病理の研修をきっちりやっていれば大丈夫だ。全く問題ないだろう。




……蛇足だが、たとえば病理以外の分野の人々が病理専門医の試験を受けるとする。

内科医。外科医。放射線科医。腫瘍内科医。誰でもいい。

他科の医師では、絶対に合格できないといわれている。仮に病理が趣味で、病理の本を100冊くらい通読していても、不可能だろうとされる。クイズ王も病理専門医だけにはなれないだろう。

病理診断というのはそれくらい、マニアックで、高度の知識を必要とする。けれども、適切な人間たちの中で、顕微鏡をきっちり3年間くらい見た、まじめな医師であれば、合格率は7割(たぶんそれくらい)。

まああんまり心配しないでほしい。ウェルカムトゥようこそ病理パーク。

2019年1月11日金曜日

舞台照明のすごさを思う

ある意見Aを発する人が「主演俳優」として舞台に立っているものとする。

あなたはそれと異なる意見Bを持っていて、舞台に殴り込んで「もう一人の主演俳優」となるべく立ち回る。

このとき、それぞれの俳優が

「相手を殴り倒すこと」

だけを考えていた場合、それはもはや舞台ではない。

「観客」のことを考えていないからだ。

自分の正義を押し通すことに夢中になるあまり、観客からどう見えるかが頭からすっとんでしまうと、舞台の完成度は著しく下がる。端的にいえば見苦しくなる。



観客の心に何が届くか、どう届かせるかということを考えると、俳優がもつ「論理」とか「正義」をただ振りかざせばよいというものでもないのだろうという気がする。

論理を届けようとするあまりに、なにか卑怯なことをしていないか。

相手の言葉をさえぎってばかりいないか。

自分ばかり正しいとアピールしすぎていないか。

そもそも、論理とか正義というものはひとつに決めることができるのだろうか。

「あきらかにおかしい」「あきらかに間違っている」というのは本当にあきらかなのだろうか。

あなたがそうやってとうとうと論理を語る姿は、観客にどう映るか。

あなたはきちんと考えているだろうか。

ぼくは、きちんと考えているだろうか。




論理を装備して舞台上の相手を殴る「演じ方」は本当に有効なのだろうか?




かといって、「語る姿が、観客にどう映っているか」ばかり考えすぎるのもうっとうしい。

言葉の正確性とか、論理の妥当性をないがしろにして、観客にうけのいい言葉ばかりを選ぼうとする俳優。

観客からみると、そういうことはそれなりに伝わってくる。

ああ、こいつのことばは、舞台上で見栄えよくするためだけに発せられているのだな、ということを、なんとなく察する。




観客がどう思うだろう、ということを意識しつつ、論理をきちんと保って「演じる」ということ。

これは本当に難しいと思う。

ぼくは今、自分から「観客性」が失われつつあると感じている。

「発信する立場の自分」が大きく肥大し始めている。

情報の受け手に回っているタイミングであっても、つい「自分だったらどう発信するか」に気を回している。

こうなってくるとまずいのかもな、という危機感がある。

どれだけ眺めて、いつどのように演じるのか、そのバランスが崩れ始めたとき、人はあわてて変なことを言い、つくろい、惑う。




ぼくは今、「患者」が主演俳優である舞台に、どう立とうとしているのか?

そもそもそこに立つことが正しいのか?

正しいかどうかという視点自体が適切なのか?

舞台に上がるとしたらそれは誰のために、何のために上がるのだろうか?

観客席にいるとしたら、ぼくはそこで何をするのだろうか?




答えがあることとないことがそれぞれある。

現段階でいえることは、

「敵を設定して演じる役者は、バトルものでしか活躍できない」

ということくらいで、あとはまだ、よくわからないことが多い。

2019年1月10日木曜日

病理の話(282) 何度説明してもいい

このようなブログを書き続けているとあるときふっと気づくのだ。

書き手のほうは「順番に、あちこちを書いていく」のだけれども。

読み手がいつも記事を連続で頭から読んでいるわけではない。



何をあたりまえのことを……と思われるかもしれないが。



「病理のこと」とか、「病理医のこと」、「病理診断のこと」などというものは、世の中の99%の人がさほど興味もなく、触れ合うこともないニッチな話である。

だから、ブログで病理について何かを書くのならば、毎回、

 病理診断というのは、
 患者の体の中からとってきた臓器や、
 臓器の一部分……
 それは消しゴムのカスくらいの大きさかもしれない……
 とにかく、大きくても小さくても関係なしに、
 患者の体の中から何かをとってきたならば、
 必ず行われている作業です。
 患者から何かをとってきたら、
 それを「見まくる」必要があります。
 だって、体の中から何かをとってくるなんてのは、
 一大イベントですからね!
 とってすてておしまい、なんて、
 そんな、もったいない!
 十分に有効活用しなければいけません。
 じゃ、具体的に、何をみるかといいますと、
 とってきた理由にもよるのですが、
 「そこに含まれる病気の種類」であるとか、
 「そこに含まれる病気の度合い」などを、みます。
 どうやって「見まくる」かというと、
 顕微鏡でめちゃくちゃに拡大して細胞をそのまま見たり、
 科学の力で遺伝子とかDNAみたいなものを見たり、
 あるいは、ふつうに目でじっと見たりするんです。

なんてことを書くべきだ。

毎回、基本的なことを説明し続けていいのである。



お正月に箱根駅伝をみていると、「繰り上げスタート」であるとか、「たすきがつながらない」みたいなシステムがよくわからない。

だからググる。

そうか、2区と3区では、先頭のランナーから10分遅れてしまうと、もう次のランナーにはたすきをつなぐことはできないのか……。

でもこのことは毎年ググっている気がする。

去年も同じような解説ホームページをみた。

ぼくは駅伝の素人だから、何度説明されても、覚えられない。



病理の話だってきっとそうなのだ。

ほとんどの人にとっては、何度説明されても、

「どういうこと?」

「それが何の役に立つの?」

「なぜそれをしなければいけないの?」

みたいな疑問が常にある。



でも、同じことをずっと説明している医療者のほうは、一度説明したことを何度も説明すること自体に、抵抗感がある。

せっかくだから違うことを説明したいなあと思う。

毎回切り口を変えたいなあと思ってしまう。



すると「病理の話」に出てくる内容はだんだんマニアック化して、難しくなる。




世の「医療の説明」というのはすべてこれなのかもしれないなあ、と思うことがある。

外来で、患者に対し、毎日同じようなことを説明している医者は、だんだん説明がこなれてきて、そのかわり、だんだん初心者にはわかりづらくなってきたり、しているのだろうか……。




そして、たとえば、「どのように生きるか」「どのように死ぬか」みたいな話に対して、ぼくらがいつか「専門家のように」語れる日というのは本当に来るのだろうか。

もしかしたら、いつまでたってもぼくらは、「毎回ググる」以外の回答を持っていないのではなかろうか。

あるいは医療者はいつまでも、「ググって最初にたどり着くページのように」語ることを求められているのではないか……。

2019年1月9日水曜日

ダイエットするには太っていなければならない

ソニーのα6000というカメラを持っているのだが、はじめて買ったレンズではいまいちスマホとどう違うのかわからなかったのだけれども、いろいろと調べて、1年ほど使って、こないだ買い足した新しいレンズ(35 mm, F1.8)を装着して、家族の写真をとってみたらすごくいい色味で、とてもうれしかった。

「カメラは楽しい」「カメラは奥深い」というが、実際には、カメラとレンズと撮るシチュエーションと撮りたい画角などの組み合わせが楽しいのだな。

”組み合わせが楽しい”、というのは何にでも言えるように思う。

ファミコンが楽しいのではなくて、晩ご飯までの1時間10分の間にスーパーマリオをワープ込みでプレイすると、ほどよく8-1~8-2くらいで苦戦しつつ8-4まで行けたり行けなかったりして弟と四苦八苦する時間が楽しかったのだ。

剣道が楽しいのではなくて、国家試験までの5年半の間に先輩や後輩たちと切磋琢磨しながら団体戦で勝ち負けして東日本の大会を駆け上っていった日々が楽しかったのだ。

たぶん仕事とかもきっと、「単一の〇〇が楽しいのではなく、さまざまな組み合わせが楽しい」のだと思う。




”組み合わせが楽しい”については、「楽しい」の部分を入れ替えてもさまざまに応用が利く。

つらい、くるしい、もじもじする、どきどきする、はらがたつ、せつなくなるなど。




140文字制限のツイッターをやっていてときどき「あっ、違うな」と思うのは、少ない文字数に言いたいことをなんとか押し込めようとするあまりに、「組み合わせを構成している部品を一部省略してしゃべっている」ときだ。

組み合わせの中に喜怒哀楽を見出しているぼくらは、そう簡単にものごとを単純化できないようになっている。

「複雑系の中に暮らして何かを入力」した結果、「出力を単純に済ませる」というのはきわめて難しい。

しかしおもしろいことに、ぼくが何かに感動するときはたいてい、「短いワンフレーズ」なのだ。

組み合わせの妙というのは必ずしも「部品がいっぱいあるところ」からばかり生まれてくるわけではない。

わびさびとはそういうことなのだろう。

そぎ落としの妙とはそういうことに違いない。




そぎ落とすためには、いっぱい持っていないと、やせほそってしまうのだが……。

2019年1月8日火曜日

病理の話(281) 抱き合わせ臓器

体の中には、「抱き合わせ」構造がけっこうある。

たとえば、「骨」。

骨といえば誰もがご存じ、人体をしっかりと支える柱の役割をしている。骨組みという言葉があるくらいだ。

頭蓋骨とか肋骨のように、中に入っている脳や肺をダメージから守る働きもしているし、背骨や腕・脚の骨のように、芯となって構造を支える働きもする。

けれども骨の役割は「物理的な支え」だけではない。

骨の中には、骨の固い成分が少なくなって代わりに脂肪が充填された「骨髄」と呼ばれる柔らかめの組織があり、そこでは白血球や赤血球、血小板などが日々作られている。

骨は体を支えるだけではなくて、造血と呼ばれる全く別の働きも担っているのだ。

このことは、よく考えるととても不思議である。

ビルを建てるときに、鉄骨をしっかりと組み上げる際、わざわざ鉄骨の中に配電盤を最初から仕込んでおこうと発想する建築家がいたら、なんとなく達人のフンイキがする。

大工さんたちはたずねるだろう。「その装置、骨組みの中に入れないといけないものなの? どこかほかの場所でやっちゃだめなの?」

実際ぼくはちょっと不思議に思う。なぜ造血をわざわざ骨の中で行わなければいけないのだろう。人体の中にはさまざまな臓器がある。肝臓だって膵臓だって、「造血工場」の役割をしようと思えばできたはずだ(実際に限られたケースでは肝臓が少量の造血を行うことはある)。

けれどもなぜ骨なのだ。

骨は体を支えていればいいじゃないか……。



全身あちこちで、同時多発的に造血が行われることが大事なのかもしれない。血液のように全身を循環するものを、どこか一箇所で作り続けると、血球成分の濃度に差ができてしまってヤバかったのかもしれない。

あるいは、やはり肝臓とか膵臓みたいなやわらかい場所ではなく、骨の中でしっかり守られていることが大事なのかもしれない。それだけ外部刺激から保護してあげないといけなかったのかも。

また、骨の周囲にある成分が造血に都合がよかったのかもしれない。カルシウムとかリンみたいな物質を触媒的に使った方が効率がよいのかも。

理由はいろいろ考えられるけれどぼくは答えをもっていない。免疫絡みかもしれない。微小環境的な理由かもしれない。わからないのである。

事実として、「骨の中に造血の仕組みを抱き合わせた生き物が、いまこうして、生き延びている」ということだけははっきりしている。

何か、有利なことがあったんだろうね。




このような「臓器に複数の機能を持たせること」は、人体のお家芸だ。

副腎には皮質と髄質という異なった成分が共存していて、皮質ではステロイドホルモンが、髄質ではいわゆるアドレナリン的なホルモンが別々に産生されている。

膵臓には膵液を作る細胞のほかに、ランゲルハンス島と呼ばれるホルモン産生工場が別に配置されている。

甲状腺の中にもC細胞という変わった機能をもつ細胞が住んでいる。

「ひとつの臓器にひとつの役割」のほうが、DNAがプログラムを組む上ではラクだったような気がするのだが……。

たぶん、ひとつの臓器にいくつかの役割を持つ細胞を共存させることに、なんらかのメリットが存在したのだろうな。

「トマトとイタリアンパセリをいっしょに育てると虫がこなくなったりトマトの生育がよくなったりするのよ」みたいな話なんだと思うな。


2019年1月7日月曜日

人という字はしっかり両足を開いて一人で立っている図からできたのです

そういえば40歳を越えてからはっきりと「趣味は読書です」と言えるようになった気がする。

読書というありふれた行動を「趣味」と呼ぶ事に、元来抵抗があった。

「文学青年」みたいな言葉とセットで語られたり、きゃしゃなメガネ姿のイメージと抱き合わせにされたり、ほかに楽しい事を知らない人みたいなニュアンスを勝手に感じ取ったりしていた。

本を好きだということは、地味だと思う。

「シングルモルトウイスキーを少しずつ飲んでいくのが楽しいですね」

「旅先でくだらない細々としたおみやげを集めるのにハマっています」

「カメラは沼ですよ。ひとつ撮れるようになると次を撮りたくなる」

「知名度は少ないのですが熱烈な愛好家が多いカードゲームです」

これらの売り文句と比べて、「趣味は読書です」というのはいかにも弱い。

「本だけのため」に時間を使うのがもったいないような気がした。

スポーツの魅力の前には本はいかにも無力だった。

ぼくはそこまで運動神経はよくないけれど、幸いというか、不幸にしてというか、長年剣道をやっていたし、剣道に生涯打ち込むほうがまだ「趣味の一貫性」が見えてくるような気がしていた。

けれどこの年になって、本は趣味として「残った」。

そのことを先日しみじみと感じた。




今になっても、ぼくが一番時間を割いている対象は本ではない。

中年の日常には細々とやることがある。本を商売にしているならばまだしも、ぼくはとにかく病気のことや医療のことを仕事で考えていかなければいけない。それがライフワークだしライスワークでもあるからだ。

自分のメンテナンスにも苦労する。飯を食うこと、髪を切ること、年齢や季節に合わせた服を買うこと、ポンコツな車を直すこと。

目の前に順番に並んでいる「客」をさばいているのに精一杯で、本に向き合う時間なんてほんのちょっとしかない。

けれども、お酒に愛情を注ぐ時間も、旅に出る時間も、ゲームをする時間も、映画を見たり音楽を聴いたりする時間も、スポーツをやったり見たりする時間も、すべてちょっとずつしかない。

つまり年を取るというのはそういうことなのだ。「没頭」の仕方が変わる。

寝食を忘れてのめり込むことができるのは若いうちだけだ。

寝食をこなしたあとにちょろっとよっかかるのが中年というものだ。



気づけばぼくがよっかかれるものは、本だけになっていた。

おじさんが他のなにかにもたれかかるといろいろ迷惑がかかる。

加齢臭で迷惑をかけるかもしれない。パワハラにあたるかもしれない。セクハラも気にかかる。イチハラはそこでしっかり立っていてください。

そんな状況でなお、誰にも迷惑をかけず、こっそりと体重を預ける相手が本であり、それはおそらく一日の中で何分とかせいぜい2時間までのことなのだけれども、ぼくは今、その時間を、感謝をもって、「趣味」と呼ぶようになった。

なかなか味があり趣のある展開ではある。

2019年1月4日金曜日

病理の話(280) 命名こばなし

今日はいつにも増して「小話」です。



「リンパ腺(せん)」という言葉を聞いたことがあるだろうか?

風邪をひいたときに首筋にコリコリとなんだか固いマメみたいなものを触れたときに、

「ああーリンパ腺はれたよ」

みたいなことを言ったことはないだろうか?

ちょっと古い言葉ではある。サナトリウムが出てくるような古典文学や、翻訳文学などに、「淋巴腺」という言葉が出てくる。

リンパというのはもともとドイツ語のlymph(英語も同じスペル)を元にした当て字にすぎないが、「腺」というのは漢語としての意味がある。

にくづきに、泉。

すなわち「体の中で何かが湧き出してくる場所」という意味だ。



昔、まだ解剖学や病理学がそれほど進歩していなかったころには、白くにごった「リンパ液」が出てくるマメはまさに「腺」だったのだろう。

リンパ液をたたえている腺。だからリンパ腺。

この思考回路は納得である。



でも、病理学が進歩すると、「リンパ腺」が実は「腺」でもなんでもないことがわかった。首筋や脇の下、鼠径部などにみられるリンパ組織は、リンパ液が流れ込み、リンパ球たちが駐屯する、「免疫担当細胞の駐屯地」みたいな場所であり、粘液とか漿液をじゃんじゃん生み出して分泌する場所ではなかった。

だから名前が変わった。

今では

「リンパ節(せつ)」という。




このあたりを医学生に教えると、あぁーなるほど、という顔をする。

Misnomer(ミスノーマー)。間違った、不適切な名付け。

「リンパ腺」という呼び名は古くて間違っています。今はリンパ節と呼びましょうね。

知識を得た学生たちは、少し、したり顔になる。

カミュの翻訳本などを読んで、「あー昔は腺だと思ってたんだよね(笑)」なんてニヒルに笑ってみたりもする。




そして、応用が利くことに気づく。

「扁桃腺(へんとうせん)」という言葉がある。のどの奥に、左右1つずつあるふくらみ。扁桃腺が腫れて熱が出た、などというだろう。

ここも実は「腺」ではない。だから正確には「扁桃」と呼ぶべきなのである。

ぼくも長年「扁桃腺」という言葉を病理診断報告書に書いていた。ものすごく怒られるほどのことではないが、ちょっとだけ、「ごめんね」とは思う。




人間、間違った名称を使い続けてはだめだよね。

理屈にあった、正しい言葉を使わないといかんよね!

それが医学だもの!

先日も医学生と、そのような会話をしたばかりだ。




……そして先ほど気づいてしまった。

「胸腺(きょうせん)」という臓器があるのだが、これも実は「腺」ではない。

しかし未だに胸腺という名称が何かに置き換わるという話は聞かない。




……医学はなにをやっておるのだろうか?

まあ、もう、いんじゃね? って、なってしまっているのだろうか?




名称というものは難しい。

そういえば前立腺ってぜんぜん前に立ってない。

2019年1月3日木曜日

実はないんですよ

今まさに猛然と師走の仕事を進めているところで、年始のぽやーんとした空気の中で読むような文章を書ける自信がない。心がざわめいている。キーボードに置いた手が落ち着かない。

高尚な題材を練るのはあきらめて、ささっと書き流そう。

今日は、ブログを書くことを単なる「こなすべきタスク」ととらえている日だ。

……そういう日がたまにある。




「そういう日」に書いた文章は、あとで読み返すと、わかる。

きっと読者の中にも気づく人間はいるだろう。

「あ、流したんだな」。

ばれている。

それがちょっと、恥ずかしい。

いやだいぶ恥ずかしい。



とりあえずささっと書いた、という文章は、見ていると雰囲気でだいたいわかる。人の文章も、自分の文章もだ。

忙しいから仕方がない。

いつもいつも高尚なことを考えているわけではない。

ネタの鉱脈を毎日掘っている人間ばかりではない。

お金をとって読んでもらう本ならまだしも、無償でやってるブログなんだから、たまにはそういう「書き殴り」がまじってもしょうがない。

だいいち書いているのはプロのライターじゃなくて素人なんだ……。

さまざまな言い訳を思い付き、脳内でフォローに入る。実際に口に出して言ったことがあるかもしれない。人に対しても、自分に対しても。




言い訳をしたところで、恥ずかしさは消えない。

理屈というより情念の問題だ。

ネタがないなら書かなければいい、それはわかっている。

けれども。

「毎日更新」を掲げているからと、あるいは読んでいる人がいるからと、なにやら使命があるからと、出ない文章をひねり出そうとする。

こういう「モード」を経験するようになって20年が経つ。

最初に買った「ホームページビルダー」のヴァージョンはいくつだったろうか。

ぼくは何も成長していない。





「人間としての弱さを出してくるタイプの作家」というのがたまにいる。

「書けない、書けない」と悩んで愚痴っている物書きを見かける。

けれども、ぼくとはどうも悩みの次元が違うようにも思える。

だって、彼らは、いざ何かを書き始めるとめちゃくちゃにいいものを書くからだ。

「書けない書けない」とか言いながら、そのうちに、いつのまにか、すごいものを書いている。

たぶん、「書けない」のレベルがぼくなんかとは違うのだ。

例え話だが、ぼくが彼らの脳内にいっとき寄生して、アイディアを全部掘り出してみたら、きっと「なあんだ、いくらでも書けるじゃないか!」と思えるほどのネタの宝庫が発掘されるのではないかと思う。

それでも彼らは「書けない」のだ。だって、彼らのレベルは、「その程度のネタ」で書くことをよしとしていないから。

世間に求められているレベルが高いから、そのレベルに応じた作品ができあがるまでの間、「書けない」と苦しんでいるプロの物書きたち。

彼らの懊悩と、ぼくの「ブログのネタ思い付かねぇなあ」とを同列に並べてはいけないのではないか、と思う。





「そんな簡単なことで悩んでいたのかあ。」などと笑うひとは、物事の難しさに気づいていないだけだったりする。

「どう考えてもこっちが正解だよね。」などとイキるひとは、あまりよく考えていなかったりする。

「なぜそんなことをするのか、全くわからない。」と眉をひそめるひとは、他の物事について、何か「わかったこと」があるのだろうか。

「書けない」と気軽に言いながら、今日こうしてしれっとブログの記事を一本完成させたぼくは、実はまだ「書いたことがない」可能性がある。

「書けない、書けないと言いながらも書けたよ」なんて言いながら、本当はまだ書けていないかもしれない。

ぼくは今までブログを書いたことがあるのだろうか?

ぼくは今まで、文章を書いたことがあるのだろうか?

2019年1月2日水曜日

病理の話(279) 健康の定義の今昔

本年もよろしくお願いいたします。




ぼくの住む札幌市には1日に何件くらいの万引きがあるのだろう。

どれくらい痴漢がいて、何カ所で信号無視がされ、どこで恐喝がはたらかれているのだろう。

あちこちで小さな事件が起こっている。

たとえば、朝起きてNHK北海道のニュースなどを見ていると、

「ああー今日は札幌市内でコンビニ強盗未遂が1件とボヤが1件あったんだな」

なんてことがわかる。

けれどもニュースにならなくても、自動車絡みのトラブルはきっともっと多いだろうし、万引きとか痴漢についてももう少し発生しているはずだ。

SNSを見ていると、「ぼくがテレビを付けていなかった時間に報道されたニュース」が頻繁に飛び込んでくるし、「そもそも報道されていない小さな事件」みたいなものも見えてくる。

なんだか昔に比べて、「ぶっそうになったように感じる」。

事件の発生件数が実際に増えたかどうかは警察とか消防に聞いてみないとわからないのだけれど。




人体に対する観測でも、同じようなことが言える。

昔は、見た目がピンピンしていれば「健康」と言っていた。

けれど、今は、「どこも具合悪くないけれど血液検査で血糖が高いと言われた」みたいなケースがある。

血糖が高いというのは、「血糖を気楽に測定できる時代」になったからこそ発見できるようになった異常だ。

おそらくは昔も血糖が高かった人はいたのだろう。

けれども現代のほうが、血糖の異常については発見されやすい。




人体のあれこれを可視化する手段が増えるにつれて、「自分では気づけない、観測できないけれど、実は病気」みたいな状態が増えた。

「時代が進んでぶっそうになった」というのと少し似ているような気がする。




もっとも、「血液検査のデータがちょっと悪いくらいで病気だと大騒ぎする必要がない」という話もある。

SNSで出てくる小さなトラブルがすべて事件性あるものとは限らない。

「異常があるかないか」と「病気かどうか」というのも別である。




測定手段が上達すると、健康の定義がずれていく。

このことを、ぼくら医療者はけっこうよく気にする。

たとえば人間の遺伝子をすべて検査できるようになると、あちこちに「遺伝子変異」が見つかる。その数はけっこうな数で、10とか100というオーダーではない。

けれども多くの人間は、遺伝子変異を抱えたまま、なんともなく毎日を送っている。

もしかするとその変異のひとつは、将来大きな病気の原因となるかもしれないのだが……。

どうも観測を深めれば深めるほど、「そういうものでもないらしい」という考え方が身についてくる。




健康も疾病もほんとうのところは「社会的な文脈の中で浮かび上がってくるもの」だ。

ぼくらは、自身や人々が健康であるか否かを、いつも結構な量の知識と知恵を駆使して定義していかなければいけない。

病理医が細胞を診て「がん」だと言ったら、それは「がん」である。ぼくらがやっているのはそういう仕事だ。

けれども、その「がん」が治療の必要があるかどうか、放っておくと生命に関わるのか、どれくらいその人の人生に悪影響を及ぼすものなのか、については、病理医だけで決めきれるものではない。

そういうことをわかった上で、なお、「細胞を見てがんかがんじゃないかを判断します」と宣言する。

それが病理医というものなのだ。立ち位置を知り、覚悟をする必要がある。